「光線の圧力」の話

中谷宇吉郎




 前に寒月君の「首縊りの力学」の話をした時、小宮さんから野々宮さんの「光線の圧力」についても何かそのような話があったら書くようにと勧められたことがあった。
 モデル詮議をすることの好きな人は案外多いと見えて、この野々宮さんのモデルは旧の一高のある先生だというような話が一部の人の間には流行しているそうである。しかし『三四郎』の中の野々宮さんは勿論漱石先生の創造で、ただその材料が寺田寅彦先生の所から供給されたものであったのは明瞭なことで、前月の月報に小宮さんの詳しい解説のある通りである。私はただこのことについて、寺田先生から以前に聞いた話を記して単にその補足をするだけの話である。
 もう十年近く以前の話であるが、私が寺田先生の指導の下に仕事をしていた頃、よく御宅の応接間で夜晩くまで色々の話を聞いたものであるが、ある時何かの話のついでに三四郎の話が出た。漱石先生が『三四郎』を書き始められるちょっと前位の頃、突然理科大学の実験室へ訪ねてこられたことがあったそうである。その時寺田先生は丁度今の理研の所長大河内正敏子爵がまだ工科大学におられて、物理の実験室で御一緒に鉄砲の弾丸が飛行する時の前後の気波をシュリーレン写真に撮っておられたのであった。その実験室は震災で取り壊しになった旧の物理の本館の地下室にあった。この本館というのは石と煉瓦で出来た四角の建物で、今の東京の大学のコンクリートの建物などと比較したら随分旧式な建物ではあったが、ひどく荘重でしかも純粋に欧羅巴ヨーロッパ風な感じのものであった。何でも独逸ドイツのどこかの理科大学の本館をそっくりそのままに建てたので、あんな立派なものが出来たのだという話を学生時代に聞かされたことがある。その地下室が研究用の実験室になっていて、広い廊下の一方が掘り下げられたセメントの中庭に面し、他の側に実験室の扉が並んでいた。全体が汚く埃っぽい割に閑静に落付いていて、薄明りの穴倉という感じであった。三四郎が初めてここへ野々宮さんを訪ねる所の叙景が実によくこの地下室の特異な風景を現わしているように私どもには思われる。比較的短い叙述の中に、いかにも当時の研究室の面影がよく出ているのは、その風景の中の大事な要素がよく把えられているためらしい。戸が明け放してあってそこから顔が出たり、部屋の真中に大きい長い樫の机があったり、やすりと小刀と襟飾が一つ落ちていたりする実験室内の何でもない景色の叙述にも妙に心が惹かれるのである。漱石先生がただ一度あの地下室を訪ねられただけで、あの頃の研究室の生活をこれほどよく「体験」されたことはちょっと不思議な位である。このような地下室の実験室はこの頃は余り流行はやらないようで、どこの大学でも大抵の実験は普通のビルディング風な建物の立派な地上の部屋で平気でやれるようになったらしい。それと同時に野々宮さんの時代の懐しい研究の雰囲気も今では時勢におくれてしまったようである。
 シュリーレン法というのは、光の通る媒質の屈折率の異る所を写真に写るようにする方法で、まあ丁度うまい日当りの時に陽炎が障子にうつって見えるようなわけである。それで弾丸が飛行する時には空気中に強い圧縮波や渦流が出来るので、それが写真に撮れるのである。光源には電気火花を使うので、その発光継続時間は百万分の一秒位だから、それ位の時間内では弾丸も気波も止って写るのである。漱石先生はその実験に大変興味を持たれて、「これを小説に書くが良いか」といわれたそうである。寺田先生が「私はかまいませんが、何分相手は殿様ですから少し困ります」と答えられたところ、「それでは何か他の話をしてくれ」ということになって、当時読んでおられた「光線の圧力」の測定に関する論文の内容を話されたのだそうである。この話は『蒸発皿』の「夏目漱石先生の追憶」の中に寺田先生自身も書かれているので確かな話と思われる。もっともその中では何分相手は殿様ですからという一句は省略されている。この話だと漱石先生は野々宮さんに鉄砲弾の実験をやらせようと考えられたが、寺田先生の依頼で取り止めにされたことになっている。ところが今度寺田寅彦全集の編輯のために矢島祐利氏が日記を整理中、『三四郎』に関係した記載があってそれを教示されたのであるが、それに依ると少し話が違ってくるのである。『三四郎』が朝日に載り出したのは明治四十一年九月一日からであるが、そのちょっと前八月十九日の日記には、
「水、晴
午後夏目先生を訪ふ、小説「三四郎」中に野々宮理学士といふが大学にて銃丸の写真の実験をなせる箇所あり。改めて貰ふ」
となっている。これからみると漱石先生は一度は野々宮さんがシュリーレン写真の実験をしていることにして書き上げられたのを、寺田先生の依頼で書き直されたことになる。即ち先生の「夏目漱石先生の追憶」に書かれていることと日記にあることとは少し違うのである。当時の事情をはっきりさせようとすることは、これ位のことでもなかなかむずかしいものである。
 かく寺田先生と大河内博士とは、丁度『三四郎』の中の野々官さんのように昼間のうちに準備をしておいて夜になっては実験を始められていた。寺田先生は大変な勉強振りで、流石の大河内博士も少々辟易されたそうであるが、その間の消息は『思想』三月号の寺田寅彦追悼号に大河内博士が親しく書かれている。
 それで問題は光線の圧力になるのであるが、寺田先生が漱石先生に話されたのは、ニコルスとハルの論文の内容であって、その原文は Annalen der Physik という独逸ドイツの物理専門雑誌の一九〇三年八月号に出ている。前の『猫』の「首縊りの力学」の場合は兎に角漱石先生が原文を見られて、それを寒月君の演説に翻訳されたのであるが、今度の場合は寺田先生の話を一度聞かれただけで早速野々宮さんの精養軒での話になったのである。それでいて、雲母マイカで作った薄い円盤を「水晶の糸で釣るして真空の中に置いて、此の円盤の面へ弧光アーク灯の光を直角にあてると此の円盤が光にされて動く」という風に、ニコルスの実験の要領が実に明確に記されているのはちょっと驚くべきことである。ニコルスの以前にレベデフという人がこの実験をした時は硝子ガラスの糸を使ったのであるが、ニコルスの場合は水晶の糸を使っているのもその通りである。ただ雲母の円盤の出所は分らない。実際には顕微鏡用の薄い硝子の円板を使ったのである。
 光線の圧力の問題は、野々宮さんの話にある通りマクスエルが電磁気の理論から計算し、またバルトリが独立に熱力学的に出した値もそれと一致したので、理論上は確定的のものと予想されてはいたのであるが、実験が困難なために約三十年近くの色々の人の努力にもかかわらず、実験的に確めることは出来なかった。初めてこれに成功したのがレベデフであって、一九〇一年のことである。即ち漱石先生が倫敦ロンドンで『倫敦消息』を書いておられた頃のことである。どこの中学の物理器械の標本の中にも見られるのであるが、真空にした硝子球の中に薄い羽根を四枚つけたものが封入してあって、光が当るとその羽根がくるくる廻る装置がある。これをよく光線の圧力を示す器械という人もあるが、これはラヂオメーターといって全く別の作用を示す装置である。これは真空といっても幾分空気が残っているために起る現象なのであって、この作用があるためにかえって本当の光線の圧力を測定するのが困難になるのである。光線の圧力の方がひどく弱くて、このラヂオメーター作用の一万分の一位しか働かないのである。
 それからまた野々宮さんの話の中にあるように、彗星の尾がいつでも太陽と反対の方角に靡くのは光線の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い附いた人もある位だというのも本当であって、この予想は三百年も昔にケプラーが既に出しているのである。漱石先生の『断片』の明治四十一年初夏以降即ち『三四郎』の辺の所に、寺田先生からこの話を聞かれて直ぐ書き止めておかれたノートがあって、光圧は半径の二乗に比例し、重力は三乗に比例するということが英文で認めてある。それから水晶の糸の作り方も書いてある。ところが今度小宮さんに伺って初めて知ったことであるが、朝日新聞に初めて『三四郎』が出た時と、その翌年単行本として出たものとは、少しばかりこの「光線の圧力」の話が訂正されているのである。今全集に載っているものは勿論単行本の際に訂正されたものである。第一に朝日の時には、水晶の糸の作り方の所で、「水晶の粉を酸水素吹管の焔で溶かして置いて、かたまった所を両方の手で左右へ引っ張る」話になっているが、全集所載のものでは、この「かたまった所を」というのが削除されている。勿論本当は溶けた所を引っ張るのであるが、断片のノートにも朝日のものと同じように記されている。それから「理論上はマクスエル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人が初めて実験で証明したのです」という一句も後で挿入されたもので、朝日の分ではこの処が「初め気が付いたのは何でも瑞典スエーデンか何処かの学者ですが」となっていたのである。レベデフは露西亜ロシア人なので多分後で寺田先生の注意で訂正されたものと思われる。殊にマクスエルやレベデフの名が入ってきたのは勿論寺田先生の追加であろう。その他二か所ばかり削除があって、広田先生が物理学者浪漫派論を担ぎ出す所で、元のでは「彗星でも出れば気が付く人もあるかも知れないが、それでなければ」自然の献立のうちに光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないかというのであるが、この括弧の部分も後には削除になっている。これも実は少し無理な所なのであって、勿論削除された方が無難なのである。今度の漱石全集に初めて収載される手紙の中で、在独の寺田先生に宛てられた漱石先生の手紙がある。その中には「君がゐなくなつたので理科大学の穴倉生活抔が書けなくなつた。彗星の知つたか振りの議論も出来ない」という一文がある。
『断片』のついでに、『三四郎』の所のちょっと前に妙な画がある。四角の箱の前後両面に板と書き、左右両面を硝子ガラスとしてあって、中に水がはいっている。そして木の板の面へ鉄砲玉を打ち込むという印の矢がかいてあるものである。そしてその次に「硝子ガ破レルダラウカ。破レヌダラウカ。遣ツテ見ナケレバ中々分ラナイ。やツテ[#「やツテ」はママ]見タラ。硝子ガ部屋中ヘ飛ンデアブナク怪我ヲスル所デアツタ。」とノート書きがしてある。これは前に述べた寺田先生と大河内博士との鉄砲弾の実験中の一挿話なのである。この話を私は前に寺田先生から聞いていたのであるが、漱石先生の『断片』中にこれがあるとは、最近小宮さんに注意されるまで知らなかった。その話というのは、実験の途中で、水の中へ弾丸を打ち込んだらどうなるだろうかという話になって、木箱の中へ水を一杯入れて打ってみられたのである。その木箱には両横側に硝子の窓をつけてあって、即ち『断片』の中の挿画のようになっていたのである。「後からよく考えてみれば無茶な話さ、破れるに決っているのだが、やはりやってみなければ分らぬものだよ」と寺田先生は苦笑しながら話されたのである。実際のところ、この中へ弾丸を打ち込まれた瞬間、両側の硝子は漱石先生の手記にある如く、木葉微塵に爆発してしまって危く怪我をされるところだったそうである。全くの素人がちょっと考えれば鉄砲弾は木壁を貫くだけで、横側の硝子板には影響がないようであるが、流体はある一部へ加えられた圧力を四方八方へそのまま伝えるという流体力学の原理があって、硝子の破れるのは当然なのである。しかし寺田先生や大河内博士が「遣ってみなければなかなか分らない」といわれるのにはもっと深い意味があったのであろうと推察される。例えば流体の圧力伝播のいわゆるパスカルの原理なるものが、鉄砲弾のような速い衝撃に対してもそのまま当嵌まるかどうか、もっと広くいって非常に速い衝撃に対する流体の性質いかんという問題になると、結局遣って見なければちょっとには分らないのである。漱石先生がこの話に興味を持たれて挿画まで入れて手記してあったのには実は少々驚いたのである。物理学を専門としている人の中で、この話を聞いて「はああパスカルの原理というのがありますからね」といってその話全体をすっかり忘れてしまうような人が全然ないとはいえないのである。漱石先生はこの手記の直ぐ後に「苦学ヲシテ卒業シタ人ガ嫁ヲ貰フ時ニ富豪カラ貰ヒタガルダラウカ。又ハ同程度ノ家カラ貰ヒタガルダラウカ云々 人事問題ノ解釈ハ硝子ガラスヲワル砲丸ヨリ余程複雑デアル。」と書き加えられている。
 硝子の破れた話にはまだ後がある。寺田先生はこの時実験室中に散った硝子の破片をすっかり拾い集めて、それを一つ一つ接ぎ合せてみて、ほとんど完全にもとの硝子板の形になるまで根気よく続けられたそうである。そして破れ目がどういう風に這入って、硝子板がどう飛散したかということを調べられたのである。「なかなか大変な仕事だったよ。しかし子供の遊戯にそんなのがあるだろう、まああの興味であったわけだよ」と寺田先生は当時を追憶しながら語られた。野々宮さんが望遠鏡を覗き暮したあの地下室で、小さい硝子の破片を沢山集めてその割れ口を一つ一つ合せてみては接いでおられた冬彦先生の姿は、三四郎の読者にもまた懐しいものであろうと思われるので、この話を追加する次第である。


附記

 三四郎が大学の運動会を見に行くと、野々宮さんが計測係を勤めて、真黒なフロックを着て、胸に掛員の徽章を附けて、大分人品をあげている。華やかなりし当時の大学の運動会では、計測係には物理教室の若い先生方が狩り出されることになっていたという話を前に聞いたことがある。今度矢島氏は明治三十六年の寺田先生の日記の中からこの件を書き出して教示された。
「十一月十四日 土 晴
大学の運動会なり。例の time 係りの御手伝ひに行く 参観人夥し」
とある由である。これらの寺田先生の日記や雑纂はこの秋出る寺田寅彦全集に収載されるはずである。それが出たら漱石先生の「断片」の中にある色々の事柄でその意味の判明するものがもっと出てくるかも知れないと思われる。
(昭和十一年七月『漱石全集月報』)





底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店
   2000(平成12)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月10日
初出:「漱石全集 第十五巻 月報第九号」岩波書店
   1936(昭和11)年7月10日発行
入力:kompass
校正:砂場清隆
2016年9月9日作成
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