大分昔の話であるが、冬彦先生がある新聞に「角力の力学」というものを書かれたことがあるそうである。それは、漱石先生が未だ有名になりかけられた頃の話であるが、これらがまずスポーツ物理学の先駆であろう。
大体スポーツ物理学というようなものが成り立つかどうかが問題であるが、この頃のようにスポーツ全盛で科学尊重の世の中では、この二つの言葉を単につなぎ合せただけでも、相当のジャーナリスチックな価値が出るらしいのである。物理学という言葉の本来の意味は「物の理」を考える学問であって、そのような意味からいえば、松沢一鶴氏がオリムピックの前に水泳選手を訓練された時の詳しい記録が残されていたら、そのようなものこそ本当のスポーツ物理学であるのではないかという気もする。数か月前に、日本の水泳選手のことが書いてあって、
物理学を職業とする者のスポーツ物理学などというものは、特殊の場合を除いては結局物理の技術の眼から見たスポーツに過ぎない場合が多い。これらの例から見たら子供騙しのようなものかも知れない。もっとも、スポーツというからには記録を上げたり勝ったりすることが一番大切なことであるには違いないが、そのような問題を離れて、単に興味という点のみから見ると、物理技術的に見たスポーツ物理学にもなかなか面白いことが多いのである。
スポーツに関するほとんど総ての問題はまず物理的に取扱われるもののように考えていいようである。例えば野球の場合ならば、球速の問題、曲球の理論、バットと球との衝突の力学などは好個の物理的研究の対象となるものであり、庭球の場合ならば、野球の曲球の問題と同様な方法がドライブの研究に応用し得るものと考えても良いであろう。さらに陸上競技では、跳躍とトラック競技の全般に共通な問題として、身体の各部に働く力と地面に及ぼす圧力の時間的経過の研究があり、水泳についていえば、水の抵抗の問題および推進力と渦との関係という大変な問題があって、これらは大抵の物理学者の度胆を抜くに十分な課題であろう。
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これらの問題の中のあるものにはそれぞれ一応はもっともらしい物理的の説明がついていないこともない。曲球の曲る理由は球の廻転に依る左右両側の空気の抵抗の差にあるとか、バットを握るには
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それかといって、これらの現象を本当に突きとめて研究しようとしたら、実は
このリンクの人工氷と湖の氷とのスケーターの脚に及ぼす感触の差の原因を物理学的に一通り説明するという一問題だけでも、一人の物理学者の少くも数年の仕事であろうと思われる。あるいは少し誇張していえば、生涯の仕事とならぬとも限らないのである。ざっと考えてみただけでも、第一に氷の温度が直接に問題になることは確かであるが、氷の厚みとその弾性もかなりの影響を与えるものであろう。それは湖の上で滑っている人を、横から氷面に近い所に眼をおいて見ると、氷の面が弾性体的の振動をしていることによっても知られるのである。この時氷の下の水の深さもまた影響しないとはいえない。それらの問題以外に分子物理学的にもかなり重大な問題がいくらもあるように思われる。水から凍った氷は一般には微結晶の集合となるもので、大きい氷の単結晶というものは滅多に出来ぬものである。ところが湖水の表面に自然に張る氷は条件が良ければかなり大きい結晶に発達するもので、それらの結晶は皆六方晶系の主軸が水面に垂直になるように配列するものである。マッコネルがダボス湖の上で観測した場合などは一フィート位の厚さに張った氷にも立派な結晶配列が見られたということがネーチュア誌に報告されている。このような結晶の底面に金属のエッヂが強い圧で接触した時に起る物理的の現象にどのような秘密が蔵されていないものでもない。
スケートの物理学に対応して、スキーの物理学にもより以上に困難な問題がいくらも山のように聳えている。スキーの問題には昨冬少しばかり手をつけてみて初めて驚いたのである。これらはとても一人や二人の物理学者の手に負えそうもないことのように思われる。スキーの物理的研究に一冬手をつけたというだけで、よく色々な質問を受けるのであるが、それがどれもこれも自分などには一生かかっても分りそうもないような質問ばかりである。これらの質問振りからみると、よほど物理学というものが一般から買い被られているように見える。
科学というものが、売薬や呪文みたようなものでないということは仲々はっきり分りにくいようである。もっともその御蔭で科学者が大分得をしているのは有難いことである。
(一九三五年十一月『帝国大学新聞』)