英国の物理学は、少くも過去半世紀の発展について見ると、
キャベンディシュ研究所は前世紀の後期にJ・J・トムソン卿を所長に迎えてから、電子論方面の実験的研究を進めて、現代のいわゆる原子物理学の広い分野を開拓したのであった。そしてこの秋急逝したラサフォード卿がその後を継いで、原子構造からさらに一歩を進めて原子核の構造の研究に入り、引続いて現代の世界の物理学界を嚮導してきたのである。練金術の[#「練金術の」はママ]時代から最近までの物理学と化学とは、結局物質の性質を原子の性質にまで持ってこようとする試みであったともいえる。そして原子こそは物質窮極の姿であって、各々の元素はそれぞれの原子から成り、それらの原子の結合で色々の化合物が出来てこの物質世界を形成していると考えていた。ところが原子構造論では、さらにこの原子を原子核と電子とから成っているものとしてその構造の研究を始めたのであった。そして違った元素の原子の性質の差を原子核の差に帰することに成功したのである。すなわち金と水銀との差を、金の原子の原子核と水銀の原子の原子核との差までおしつめて行ったのである。それがさらに一歩進められて、最近の原子核の研究においては、原子核内部の構造および構成要素が問題になってきたのであって、原子核の人工崩壊の実験の成功から、遂に一つの元素を人工的に他の元素に転換させるに及んだ。こういう道筋をとって現代の原子物理学が発展してきた間、始終キャベンディシュ研究所がその先頭に立って嚮導の任を果してきたことは驚くべきことであろう。
一九二九年の二月七日の午後のことであった。
一九一四年の五月十九日、此の王立学会に於て、原子構造論の討論会を催したのはちょうど今から十五年前のことである。私はその時の会にも最初に口を切る光栄を担ったのであるが、その時私は有核原子構造論を提出し、その論拠を示した、ついでモーズレー君がそのX線研究の結果から原子番号などの考えを述べ、またソディ教授は放射性元素中に存在する同位元素 の重要性を説き、特にJ・J・トムソン卿とアストン博士との発見にかかるところのネオンの正イオンが二種存在する例をひいて、総ての元素はそれぞれ数種の同位元素の混合よりなるものであろうと述べたのであった。今になってみると、諸兄も十五年前のあの時の論が今日までもなお生命のあることを認められるであろう。……
如何にもその通りなのである。この十五年の間、キャベンディシュ研究所はその時の議論の筋道に沿って研究を進め、世界の物理学界も本質的には同じ方向に向って歩いてきたのである。その間にアストンは同位元素に関するソディの予見を確め、さらに偉大な仕事としては、同位元素の質量偏差を発見して原子核の安定度という考えを確立したのである。そしてラサフォード自身はα粒子を元素に衝突させて、原子核の存在を確め、かつその人工崩壊の緒を作ったのである。またエリスはγ線の波長の研究から原子核内部の構造に関して新しい発見をしたのであった。ラサフォード卿はこれらの研究について述べた後、「我々は今や研究の歩をさらに進めて、原子核の構造について討論をすべき時期に達したのである」と論旨を進め、原子核がα粒子とこの原子核の討論会があってからもう八年になるが、その間に物理学は恐ろしい発展を遂げ、陽電子や中性子の発見、人工放射能の発見、電気的に原子核を崩壊する実験の成功など、何世紀分もの物理学が一度に発達したような騒ぎになってしまった。いつまでもラサフォードの助手のように思われていたチャドイックも中性子の研究でノーベル賞を貰った。これらの百花撩乱たる現代物理学の業績も、少し離れた立場から見たならば、結局は八年前にラサフォードが夢みたところのものであった。もっともあの時提出した原子核がα粒子と
こういう大きい仕事になると、それはラサフォード一人の力ではなく、キャベンディシュ研究所という大きい組織と伝統との力にまつところも非常に多いことは勿論である。キャベンディシュにはいつも大抵五十人ばかりの若い有能な学者が働いている。研究所はあまり広くないのでかなり窮窟に見える所もあり、それにそれだけの人に十分な装置を与えることは勿論経済的にも許されないので、随分粗末な器械も使っているようであった。もっともいつも世界の学界の先頭に立っているのであるから、新しい装置を作って実験をすることが多く、既に出来上った完備した器械をあまり必要としないのだともいわれている。実際手製の器械が非常に多いのである。J・J・トムソンなどの電子に関する歴史的の研究でも、
器械も設備もそれほど優れていないとすると、この研究所の業績は結局人によるものであることは疑う余地がない。しかし人といっても、ここに働く人の全部があらゆる意味で優れた人とばかりは限らない。私の邪推かも知れないがキャベンディシュ研究所は昔からあまり東洋人を歓迎はしないようにみえる。私が訪ねた頃も数十人の研究生の中に東洋人や
しかしこういうことはどこの国にもあることで、そうひどく取り立てていうほどのことでもなかろう。私にはむしろ英国の学者は一般には人柄が良いように思われる。私の知っている少数の人々について考えてみるに、誰もが学問を楽しむという一番大切な点においてはそれぞれ優れているように思われた。キャベンディシュのこの半世紀の歴史の中に咲き出た花が二輪あって、一つはC・T・R・ウィルソンの霧函であり、今一つはアストンの同位元素の発見であるということは、キャベンディシュ研究所のある紀念祭に歌にまで唄われたほど有名な話である。私は非常に幸運にもこの二人の学者を比較的よく知る機会に恵まれた。ウィルソンの霧函というのはα粒子や電子などの通った跡を目に見えるようにする装置であって、即ち原子や電子の一つ一つの行動を初めて人間の眼に見せてくれたのがウィルソンの仕事である。これらの粒子が空気中を通ると、空気の分子と衝突して沢山のイオンを作る。ところがイオンが存在すると水蒸気はそのイオンを核として小水滴に凝縮する性質があるので、結局電子などの通った道に沿ってイオンが残留している状態を、小水滴の分布という形で写真に撮るのである。この方法は原子物理学のすべての方面に利用されて、今まで頭の中で作られていた原子や電子の消息を一つ一つ現実に眼に見せてくれたのである。そしてこの頃になって宇宙線の一つ一つもまたこの装置の中で見られるようになり、陽電子の発見もこの霧函の中でなされたのである。
ウィルソン先生はこの仕事でノーベル賞を貰い、その金でかどうかは知らないが、
書斎は案外狭い質素な作りで、壁には霧函で撮ったα粒子や電子の写真が沢山はりつけてあって、それからノーベル賞の授賞式の紀念写真と、色々の学会から貰った賞牌とが飾ってあった。そして室へはいるとすぐにそれらの栄誉についていかにも嬉しそうに説明してくれたのである。
英国ではそういう栄誉については、「全く僥倖でありまして」などといって謙遜して見せる礼儀はあまり流行らないように思われる。私は英国へ行く前に寺田先生の助手として働いていた間にした実験が、ウィルソン先生の仕事と関連があったので、その話をききに行ったのである。ウィルソン先生も大変喜んで色々細かい点まで実験の注意などを教えられたのであるが、その間先生は終始仔猫の頭を撫でながら話されたのであった。書斎の机の下に丸い籠があってその中に小さい蒲団を敷いて、肥った猫が丸くなってねていた。そして生れたばかりの仔猫が一匹乳をのんでいたのである。先生は「どうもミセス・ウィルソンが汚いというので僕はここへ連れてきているのだ」と弁解しながら、仔猫の頭を撫でておられた。ウィルソン先生はあまり沢山論文は書かれない。三つ四つ新しいしかも非常に重要な論文が続いて出ると、あと十年位途絶えていてまたぽつぽつと出るという風である。ああいう非常に優れた仕事は、
アストン博士は昨年の日食観測に北海道へこられたので、私はまる一週間上斜里のような
日食の観測の場合には、肝心の瞬間にちょっとした故障が起きたり、手順が狂ったりすると半年がかり位の遠征がふいになってしまうので、その前に慎重な注意を払って度々練習をするのである。ところが大抵の人の分は色々複雑な器械を使ってそれを一秒程度の精確さで次々と手順をつくして操作するので、練習といっても大汗ものである。それで放って置いても真剣にならざるを得ないのである。ところがアストン博士の仕事はサバプリズムという小さい眼鏡を覗いて、偏光のある場合には縞が見えるので、その方向を眼で見て手帖に書き込むだけの役目なのである。それでもいよいよ練習となると、アストン博士は真面目くさった顔をして、何も見えない眼鏡を覗く真似をして、そして手帖を片手に書き込む手順をして見せるのであった。それを毎日々々繰り返して行っている中に、暗い所の練習も必要だというので、夜の練習ということになった。ところがアストン博士と私達とは、宿屋の関係上三つ四つ先の駅から汽車で上斜里へ通っていたのであるが、その練習をやると夕方七時の終列車に間に合わぬことになる。それでもストラットン博士は澄してその練習の「命令」を出すのであった。結局五里の山道を自動車で揺られて宿に帰りつくことは出来たのであるが、その時は流石にアストン博士も「君は
英国の日食班の人々の心掛けに感心した私はいつかその印象を『科学』に書いたことがあった。そしたらある天文学者から、我々だって皆十分な注意を払い、また訓練をしている、そして統制を厳重にしている、英国班のことだといって無闇に感心するのは
アストン博士の日常の態度としては、こういう観測の際よりも、むしろ平生の方が私には興味が感ぜられた。ちょっと見るといかにも頑固な気むずかしい爺さんである。当時の北海道の汽車の二等は色々な御客様や新聞記者で一杯である。アストン博士は誰か少し話しかけても、一言二言答える切りで不愛想な顔をしている。そして時々ぷいと立って三等車の方へ行ってしまう。弁当の時間などになってよびに行くと、片隅でじっとどこを見るともなく見入っている。そしてちょっと手まねきをすると黙ってやってきて弁当を喰うのであった。ビールだけは大変好きで、車中の弁当の時にもビールを二、三杯のむと急に機嫌がよくなって、足拍子をとりながら何か分らぬ歌を口ずさむこともあった。要するに放ってさえおけばそれで御機嫌がよかったのである。ある先生にアストンの接待では大変だっただろうといわれたことがあったが、放っておきさえすれば良いのだから楽な御客様であった。私にはいつも放っておかれることの好きなあの性格と、不朽の同位元素の研究とが密接な関係があるような気がしてならない。
キャベンディシュ研究所で原子物理学がこのように華々しい発展をしているのをよそに見て、
今一つこの interesting という言葉とよく融合した特徴が英国の物理学に見られる。それは practical という特徴である。もっとも物理学と限らず、英国の学問と社会との全部がこの
明日の英国の物理学がどうなるかという問題も興味ある問題である。特にラサフォード卿の後任に誰がなるかという点には誰もが興味と期待とを持っていることと思う。今のところ卿の後任として次の時代の物理学の嚮導者となれるような人はちょっと見当がつかないので、一層興味があるのである。もっともJ・J・トムソン卿がキャベンディシュの所長として迎えられた時は非常に若かったので、あんな青年にあの地位が保てるかと一般から不安がられたという逸話があるので、そういう歴史的な逸話がまた生れるかも知れないという期待もある。別の見方からすると、現代の電磁気学の基礎を完成したマクスウェルから、トムソン、ラサフォードと一世紀にわたってキャベンディシュが世界の学界を嚮導した時代は英国の最盛期と一致するのであって、今日老衰の兆を見せて居るといわれる大英帝国の物理学界の次の時代に対しては、もはや昔日の面影が期待されまいともいわれるかも知れない。今日の米国の物理学界における大仕掛けな設備や華々しい業績からみると、そんな気がしないでもない。しかしそういうことは欧洲大戦直後に既に盛んに云われたことなのであって、あれから十年余りの歴史はすっかりその期待を裏切っているのである。そういう意味で明日の英国の物理学界というものに対しては、全く予測が出来ないだけにそれに対する興味と期待とは非常に大きいのである。
(昭和十二年十二月)