温泉1

中谷宇吉郎




 私は温泉が非常に好きである。少年時代を北陸の温泉地に送ったせいかも知れないが、今でも少し身体の調子が悪い時などは、いつも温泉に行ったら直ぐに元気になるのだろうという気がする。元気な時はまたそれなりに、夏休みなどには気の向いた本でも持って、山の温泉へ行って見たいと考えることがしばしばある。
 温泉が本当に身体のために良いかどうかは、現今の医学では決定的な論断は下せないという話である。まあ効くだろうということくらいは云えるそうであるが、何故温泉が普通の湯、特に湯の花でも入れた湯よりも余計に効くかというような点になると、まるで分らないという話である。まあラジウムがあるからだろうとか、気分の転換が出来るからとか、都会生活を離れて清浄な空気が吸えるからとかいう程度の話はあるが、別に大した根拠のある話ではなさそうである。
 それでも私には温泉が非常に身体に効くような気がして仕方がない。この信仰は、現今の科学が温泉は効かないという「証明」をして見せてくれるようなことがたとえあったとしても、なかなかに揺がない位根強いものではあるまいかと思われるほどである。もっともその心配はないのであって、一時温泉の効用などを顧る暇のなかったくらい忙しかった我が国の医学も、近年になって段々にその価値を認めるような傾向になったということである。
 私の温泉に対する一種の信仰は、子供の時分私どもの郷里の田舎にあった湯治の風習が、幼い頭にすっかり浸み込んでしまったためではないかと思われる。この頃の都会で育った人、特に若い人たちには、温泉地というものは全くの遊覧地であって、療養地としての温泉などというものは想像も出来ないらしい。もっとも私たちの育った田舎でも、この頃は以前のような湯治の風習が全く跡を絶っている。僅か二十年くらいの間に、私共の郷里の農村から、先祖代々伝ってきた湯治という言葉がすっかり影をひそめてしまった。このことは、単に懐旧的の意味で惜しまれるばかりではなく、案外農村の一部の人々の保健の問題とかなり密接な関係がありはしないかという気もする。
 我が国の農村の人々の労働の激しさは、都会の生活者にはちょっと想像の外であろう。都会の塵埃の中に住んでいる人よりも田舎の清浄な空気を吸っている人の方が健康であろうと思うのは多くの場合間違いであって、この頃の農村の人々の健康状態が著しく悪いことは、農民の健康の上に国防の基礎を置いている一部の人々が暄しく[#「暄しく」はママ]論じておられる通りである。中には筋骨が逞しくて丈夫そうに見える人も沢山あるが、そのような人でも年をとると急に老けるのであって、田舎では五十歳といえば既に老人である。これは明かに労働の過度からくる現象であるが、労働の節制や営養の向上は、現在の状態では実際問題としては全く望み得ないことであろう。ちょっと温泉救国論めいた話になるが、二十年前までの私たちの田舎では、湯治の風習がそれに対する一つの対策としてかなり役立っていたのではないかという気がする。
 この人達の湯治というのは、極端な場合は米や蒲団をかついで、取入れ前の夏のしばらくの農閑期を利用して近所の温泉へ行くのである。宿料といっても一日十銭か二十銭を払うだけで、後は自炊をするのであるから、この風習は中産階級の一般農家にも充分耐えられる程度のものであった。それほどでない場合でも、自分達の子供の時の記憶では、何でも随分安かったものである。私の父などは、温泉地に住んでいながら、夏になるとよく子供達をつれて近所の他のYという温泉地へ行ったものである。それは私の家が温泉地へ出る前に農村生活をしていた頃、そのY温泉へ毎夏湯治に出かけた習慣が残っていたためらしい。そんな調子だから勿論行く宿屋はきまっていた。そしていつも二階を二間くらい借りて間の襖をとりのけ、障子を明け放して暮していた。直ぐ前は田舎の温泉町らしい狭い路に面していて、黒く古びた手すりにはいつも濡手拭がかけてあった。そして着いた日の午後には「御見舞で御座います」といってよく饅頭などが帳場から届けられたものであった。その後も二、三日おきに、団子とかいなりずしとかいう風のものを度々見舞に貰うのであったが、それが幼な心によほど嬉しかったとみえて、今でもおぼろげな記憶の片隅にそのような場面のいくつかが残っている。
 湯治の客は一日に五度も六度も湯にはいって、上ると浴衣をひっかけて、黄色い畳の上にごろごろとねころんでいた。中には湯から上って、手拭で身体をふくと温泉の効目が弱ると言って、濡れた身体のままで椽側などにたたずんで、自然に乾くのを待っているような人もあった。その上一度の入湯というのがまた非常に長くて、よく浴槽の四角の一隅を占領して、頭を湯船の縁にもたせかけ、脚を他の縁にのせ上げて、身体だけを湯に浸しながら、うつらうつらと寝るでもなく覚めるでもないという風にして浸っている人が多かった。もっとも北海道の温泉地などでは、今でも時々はこんな風にしてねている人を見かけることがないでもない。いつか、羅漢の像のような老人が、そういう風にして湯の中にねそべっているのに会ったことがある。こうしていると、長く湯にはいっていても酔わないが、それは人間は口や鼻からばかりでなく手脚の爪からも息をするからだと、その老人は真面目な顔をして説明してくれた。
 こんなに長くそして度々湯に入ることは、今の医学から言ったら身体に悪いのだそうである。一昨年の秋、少し健康を害したので、家族をつれて伊豆のI温泉へしばらく引越して行ったことがある。その時友人のお医者さんにその点をくれぐれも注意された。何でもその友人の親戚の人とかが、温泉へ療養に行って湯に入り過ぎたために急に病状を悪化してしまったという話なのである。そういうことは、特に胸の病気の場合などに多いようであるが、一般の問題としても、あまり度々温泉に浸ることは、かなりの激労になるらしい。そういう話を思い合せて見ると、湯治の客たちがあんなに無茶な入湯のし方をして、それでいてよく効くと言っているのは、普段の労働が想像も出来ないくらい過激に陥っているので、この程度の入湯がちょうど良い安息になるのかも知れない。

 こういう意味の湯治が一体本当に効くのかどうかは、誰も科学的にちゃんと立証した人はないだろうと思う。しかし吾々の祖先が代々昔からあのように、この湯治の習慣に一種の信仰をおいてきたところをみると、そしてそれが永い間続いてきたところをみると、やはりなんらかの意味で本当に効く点があるのではなかろうかという気もする。一番よくいわれるのは、夏の間に湯治に行くと、その冬は風邪をひかないという話である。北海道の開拓移民のような恐ろしい生活をしている人々でも、夏の中に一廻り湯治に行くと、その冬は風邪もひかず、移民生活につきもののリウマチスも出ないという話はよく聞くことである。一廻りというのは普通は三週間を指しているようであるが、二週間くらいでも良いともいわれている。もう少し前までは登別の温泉などは、この湯治客で大分賑ったという話であるが、この頃の農村の人々にはその程度のささやかな贅沢さえも許されなくなったようである。それでも登別などでは、今でもその習慣が残っていて、土地の一流の大きい宿屋でも湯治客のために特に安く、例えば一日八十銭くらいでも暮せるような制度が残っている。
 信州の山の温泉、例えば発哺のような所では、十年前までは確かにこの湯治の客が、かなりあったのであるが、今はもう多分ずっと減ってしまったことだろうと思われる。昨年東北のある温泉へ行った時聞いた話では、今でもごく辺鄙な温泉場には、この習慣が残っているそうであるが、少し汽車の便の良い所ではほとんど絶えてしまったということであった。夏の農閑期は登山や避暑の学生達とかち合い、冬の休み時はスキー客におされて、もはや農村の湯治客などの介入する余地は、かなりの辺鄙な山の温泉地にも残されていないようである。これは単に直接の経済的の問題ばかりでなく、「都の人」が沢山くるようになっては田舎の特に老人たちは、そんなところへ割り込んでも、何となく「卑下」されて落付いて逗留などは出来なくなるのであろう。
 とにかくこういう意味での湯治の制度が、一番大規模にそしてよく利用されていたのは、何といっても別府であろう。もっともそれも欧洲大戦までのことであって、近年はずっとすたれてしまったことは勿論である。二十年前には、別府の宿屋では、初めに女中がよく「木賃にしましょうか、それとも旅籠はたごになさいますか」と聞きにきたものであった。旅籠というのは普通の食事附の泊りで、木賃というのは自炊の制度であった。部屋代は畳一畳についていくら、蒲団はいくらという風にきめてあって、自炊といっても、御飯と簡単な惣菜くらいは宿屋で売っていたので、それで食事を済ますことも出来た。勿論台所は棟ごとにあって、普通の台所道具は貸すようになっていたと思う。こういう点では、この木賃の制度は、今のホテルなどよりももっと合理的なものであった。多分昔の温泉宿というものはこの木賃が主であって、旅籠の客というのは、温泉宿へきて「旅籠」と同じようにやってくれという特殊の客であったのだろうと思われる。高等学校時代の夏休みに別府へ行った頃は、まだこういう湯治客が沢山きていた。狭い廊下が長く続いていて、その一側は中庭に面しており、他の側に沢山同じような部屋が並んでいた。そしてその中に年寄りだの、案外若い逞しい体格の男だのが、沢山いたような場面が記憶に残っている。
 別府でも加賀の温泉などでも、こういう客が目立って減って行ったのは、いうまでもなく、欧洲大戦中の好況時代からである。一流の宿屋は都会の金のある客から、二流の宿屋は近村の遊蕩客からそれぞれ「浮いた銭」を儲けることが習慣になっては、湯治客などの介入する余地がなくなったのは当然である。そして、宿屋の主人同志は、ただじっとしておられない気持から、互に無理な増築をし、調度を贅沢にして、段々にその経営を自ら困難にして行った。しかし襖の引手に朱総をぶら下げるような趣味が、そういつまでも通用するはずは勿論なかった。一時のこの時代が過ぎると、これらの経営者たちは皆その設備に負けてしまった。そして一部の人たちはいわゆる団体客を主として迎えるように急に準備をととのえ、他の人々は温泉地を益々遊廓化する方向に進んで行った。この後の傾向の方が農村の保健の問題に関しては、湯治制度の衰退以上の直接の弊害を齎したことはいうまでもないことである。私の狭い見聞の範囲内では、この両者は共に経済的には失墜の途上にあるようである。その中にあって、比較的成功したのは、いわゆる家族連れの客を主とするように経営の方針を進めて行った少数の人々である。世の中が、せめて自分の家庭の中にでも拠り所を持つより仕方なくなってきたのと歩調を合せて、早くこの経営方針をとった人々はまず無難のようであった。いずれにしても一旦亡びた湯治制度には、まず復活の見込は立たないように見えた。
 時代と共に温泉も随分変ってきた。そして今度の事変という未曾有の国難に遭遇して、温泉がどういう風に変化するかということは注目していて良いことと思われる。伊豆のある温泉などでは、旅館が五つばかり傷病兵の臨時療養所となって、白衣の勇士が沢山きている。そして秋晴れの空の下で、広場で町の子供たちと戯れているという朗かな状景も見られる。傷にはやはり温泉が一番良いと見えて、これらの勇士たちはどんどん治って帰って行くという嬉しい話である。そしてまた一方では、この同じ温泉地は、戦時景気の余波を受けたためかどうかは分らないが、なかなか繁昌もしているようである。
 欧洲大戦の時は、温泉にはその遊興地化だけが残されたのであるが、今度は流石にそんな傾向は前ほどには見られない。そして一方に療養地としての温泉の効能もまた新しく認められてきたようである。しかしそれは昔の湯治とは少しく意味のちがったもののように思われる。もう一、二年もしたら、この新しい温泉雰囲気の色彩がもっとはっきりしてくることであろう。
(昭和十三年九月)





底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店
   2000(平成12)年11月6日第1刷発行
底本の親本:「続冬の華」甲鳥書林
   1940(昭和15)年7月1日刊
初出:「中外商業新報」
   1939(昭和14)年1月12日〜15日
入力:kompass
校正:岡村和彦
2016年9月9日作成
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