黒板は何処から来たのか

小倉金之助





 アメリカ数学史を調べている途中、黒板の来歴という問題に触れたので、少しばかり書き付けて見よう。ただこれは主として数学の面のみからの考察に止まるので、中には大きな誤りを冒しているかも計り難い。各方面の識者の御示教をお待ちする次第である。
 わが国で黒板が盛んに使用されるようになったのは、何といっても明治初年に、アメリカ人による教育上の指導からである。明治五年(一八七二)九月師範学校(東京高等師範学校(1)の前身)が開かれたとき、大学南校(2)の教師であったスコット(M. M. Scott)を招いて、小学校に於ける実際の教授法を伝えて貰った。スコットは母国の師範学校出身者であり、東京の師範学校では、主として英語と算術を教えたが、教科用書や教具器械の類は米国からの到着を待って使用したという。更に翌年には、ラトガース・カレッヂの数学・天文学教授マーレー(David Murray)が聘されて文部省学監となり、日本における教育の全面的指導に当ることになった。
 さてマーレーが黒板の使用を奨励したことは、彼の報告書から伺うことが出来る(3)
「各般ノ書籍ヲ飜譯編輯シ、各般ノ器械ヲ備具ス。即チ……懸圖・模範塗板ノ如キ既ニ之ヲ製造シテ、從来煩多キ方法ニ代ヘ、以テ廣ク之ヲ小學校ニ採用セリ。……師範學校ノ功用ハ既ニ東京ニ設立セルモノニ於テ、其實驗ヲ表セリ。……學科ヲシテ理解シ易カラシメンガ爲、懸圖及塗板ヲ用ヒ、……(傍点は小倉)」
(1)今の東京教育大学の前身 (2)今の東京大学の前身 (3)『ダビット・モルレー申報』(明治六年)。

 師範学校で、黒板がスコットによってどんな風に使用されたかは、『師範学校、小学校教授法』(明治六年八月刊)という、師範学校長諸葛信澄らの校閲にかかる書物によっても明かである。その中には、算術の授業に黒板を使用している絵があり、そこには「図の如く、教師、数字と算用数字を呼で石盤に記さしめ、一同記し終りたるとき、教師盤上に記し、これと照準せしめ、正しく出来たる者は各の手を上げしめ、誤りたる者は手を上げざるを法とす」と、書かれている。
 更に校長諸葛信澄自身の著にかかる『小学教師必携』(明治六年十二月刊)においては、読物・算術・習字・書取・問答などの教授法が述べられ、そこには黒板の使用法も詳しく説かれている。例えば第八級(一年級の前半)の習字については、
「五十音圖ヲ用ヰ、書法ヲ説キ明シテ塗板ヘ書シ、生徒各自ノ石盤ヘ書セシムベシ……。生徒石盤ニ書スルニ當リテ、或ハ細字ヲ書シ、或ハ石盤全面ノ大字ヲ書シ、或ハ亂雜ニ書スル等ノ不規則ヲ生ズル故ニ、教師塗板ヘ書スルトキ、縱横ニ直線ヲ引キ、其内ニ正シク書シ、生徒ヘモ亦此ノ如ク、石盤ヘ線ヲ引キテ書セシムベシ、塗板ヘ書スルトキ、傍ラニ、字畫ヲ缺キ、又ハ筆順等ノ違ヘタル、不正ノ文字ヲ書シテ、其不正ナルコトヲ説キ示シ、生徒ヲシテ其不正ヲ理解セシム……。塗板ヘ書スルニ、字畫ノ多キ文字ハ、二度或ハ三度ニ書スベシ、必ズ一度ニ書シ終ルベカラズ。……」
 また例えば第六級(二年級の前半)の算術については、
「……右ノ如ク暗算ヲ教フルトキ、兼テ二段ノ加算ノ題ヲ塗板ニ書シ、各ノ生徒ヲシテ一列同音ニ、加算九々ヲ誦シテ之ヲ加ヘシメ、其答數ヲ塗板ヘ記スベシ、但シ其記シ方ハ、何レノ位ニ何數ノ字ヲ書スルヤヲ生徒ニ尋ネ、然ル後之ヲ書スベシ。二段ノ加法ニ熟スル後、三段以上ノ題ヲ塗板ニ書シ、生徒各自ノ石盤ニテ之ヲ加ヘシメ、然ル後一人ノ生徒ノ答數ヲ塗板ヘ書シ、各ノ生徒ニ照看セシメ、之ト同ジキ者ニハ右手ヲ擧ゲシムベシ。若シ此答數正シカラザルトキハ、更ニ又、他ノ生徒ノ答數ヲ書シテ、之ニ照準セシムベシ……」
 何かあまりに形式的ではあるけれども、それは兎も角、まことに至れり尽せりの、模範的な説明振りではないか。黒板の使用が比較的短日月の間に広く普及したのも、決して偶然ではなかったと思う。


 それなら黒板はアメリカで発明されたものなのか。否、それは多分一八一〇年代に、フランス人によってアメリカに伝えられたものなのである。アメリカの普通の学校では、独立戦争(一七七五―一七八三)前は勿論、独立後の数年間も、まだ石盤さえ使用されていなかった。生徒も教師も、書き物や算術計算を皆紙に書いていたのである。
 ところでボストンの牧師メー(Samuel J. May)という人の伝記(一八六六)によると、彼はカトリック教徒のフランス人ブロシウス師(Francis Xavier Brosius)が、数学の学校で黒板を用いているのを、一八一三年にはじめて見た。それでメー師は自分の学校で黒板を使用しはじめた、とのことである。
 しかしアメリカの初等学校に黒板の普及を見るに至ったのは、大体一八六〇年頃からであるといわれているが、そうすると、スコットは案外はやく、新しい黒板を日本に普及させたことになる。
 もっとも大学やカレッヂの数学教室では、もっと早くから黒板が使用された。それは一八二〇―一八四〇年の期間に、アメリカの数学界に大きな影響を及ぼした、ウェスト・ポイント陸軍士官学校における、数学の教授から発したのである。

 一八一二年の米英戦争は、いろいろの意味で、アメリカ史の転換期といわれている。この戦争が終ったとき、ウェスト・ポイント陸軍士官学校の主脳部は、ヨーロッパの陸軍制度調査研究の結果、フランスのエコール・ポリテクニク(高等理工科学校)を模範として、一八一七年から士官学校の改造を断行した。それでこの学校は、当時のアメリカにおける普通の大学などとは全く趣きを異にして、最も数学や理化学を重要視することになり、それは若々しい教授たちによって実現されたのであるが、その一人にフランス人クローゼー(Claude Crozet)があった。
 クローゼーはエコール・ポリテクニクの卒業生、ナポレオン部下の砲兵士官として、ワグラムの戦(一八〇九)にも参加した人であったが、一八一六年から、一八二三年まで、ウェスト・ポイントの工学の教師として活躍した。彼が軍事工学――「戦争と築城の科学」――を教授しようとした時、その学修上、先ず予備知識として必要な数学から始めなければならなかった。その中に画法幾何学があったのである。
 思えばこの画法幾何学という学問は、その創始者(エコール・ポリテクニク)のモンジュ(Gaspard Monge)によって公表されてから、ようやく二十年を超えたに過ぎない。そんな新しい学問があることを知っていた科学者は、アメリカに何人もいなかったし、勿論それを教わった人もなければ、英語で書かれた本もなかった時代である。教科書もなければ、またこの幾何学は(学問の性質上)口頭だけで教えることも出来なかった。そこでクローゼーは大工と絵具屋に頼み込んで、黒板と白墨を作らせたのである。「私たちが知っている限りでは、黒板の使用はクローゼーに負うものである。彼はそれをフランスのエコール・ポリテクニクで見ていたのであった」とは、当時のウェスト・ポイント出身者の回想である。
 考えて見ると、私がこれまで挙げて来たマーレー、スコット、ブロシウスのような人々は、皆何等かの意味で、数学の関係者であった。しかしクローゼーこそは、学問の性質上、最も本格的な意味で黒板を使用したというべきであろう。一八二一年になって、クローゼーは英文の画法幾何入門書(百五〇頁ばかりの)を著した。彼は「アメリカに於ける画法幾何学の父」と呼ばれている。
 ウェスト・ポイントに於ける画法幾何学の講義は、クローゼーが去った後、ウェスト・ポイントの出身者デヴィース(Charles Davies)によって継続された。デヴィースはクローゼーよりも遙かに大部な画法幾何の教科書を書いたばかりでなく、優秀な数学教師として、また多くの数学教科書の著者として、有名な人物となった。最初はフランス数学書の翻訳から出発して、非常な成功を博したが、後には算術の初歩から微積分にわたる、彼自身の一聯の教科書を著わした。それは非常に普及したので、そのためにウェスト・ポイントの名を高くすることになったのである。


 ところで、私たちは、クローゼーの母校、パリのエコール・ポリテクニクにまで遡らなければならない。この学校こそは、「一九世紀の初めにおける、すべての科学の光は、エコール・ポリテクニクから発して、ヨーロッパに於ける科学的思考の進展を照した」と呼ばれるほどの、「ヨーロッパの羨望」の的となった学校である。それはフランス大革命の恐怖時代が終って間もなく、生産拡充のための科学技術者と、優秀な砲工の士官を養成する、二重の目的を以て、一七九四年に開校されたのであり、その中心人物はモンジュその人であった。
 元来モンジュは、築城術の設計のために、面倒な計算の代りに簡単な幾何学的作図を考案したのを動機として、一七六五年頃には、既に画法幾何学の建設を始めていたのであった。しかしながらその方法は、軍事技術上の秘密に属するという理由で、革命前の旧体制アンシァン・レジーム下に於ては、公表を禁止されていたのである。今や革命政府によってエコール・ポリテクニクが創立され、しかもそこでは学問の性質上、画法幾何学は一躍して非常に重要な科目となり、モンジュ及びその高弟によって、極めて熱心に教授されるに至った。(モンジュは一八〇六年までは教授として、その年に上院議長となってからも、一八一〇年までは引きつづき講義をしたのであるから、クローゼーはモンジュの直弟子なのである。)モンジュは教授の際に、黒板や投影図や曲面の模型を用いたばかりでなく、学生の実習のために製図室を設けた。かような設備は、当時のヨーロッパにあっては[#「あっては」は底本では「あつては」] 、実に空前の計画だったのである。
 元来、黒板のようなものは、或はもっと以前から、フランスで多少は使用されていたのかも知れない。しかし黒板を他の科学的模型や器具といっしょに、科学、技術の教授研究上の要具にした上に、その学校の驚嘆すべき成功によって、優秀な教科書や諸設備と共に、それを広く世界に普及させた点で、エコール・ポリテクニクは大きな役割を果したといわねばならぬ。また、そういう意味で、“画法幾何学と黒板とは、フランス革命の副産物である”といっても、大した過言ではあるまいと考えられる。今日わが民主革命の時代に当り、私たちが黒板の前に立ったとき、われわれは深くこの偉大な民主革命――フランス革命について、回想すべきである。


 ここに至って再び出発点に帰ろう。明治の初期に、わが教育がマーレーやスコットによって指導されたとき、わが数学界はどういう勢力の下に置かれたのか。それは当時圧倒的な勢力を占めたのは、いうまでもなくアメリカの数学であった。しかも明治八年頃までの間最も有力であったのは、かのウェスト・ポイント陸軍士官学校のデヴィース――彼は後には他に転じたが――の書であった。それは独り原書で広く読まれたばかりでなく、数種の書物が翻訳され翻案されたのだった。彼の名は漢字で代威斯、第維氏などと書かれた。
 学問文化伝達の歴史は、多く偶然的な要素に支配されるかのように見えても、必ずしもそうではない。問題はむしろ、主として私たち自らの理論・分析の力の強弱に係っているのである。
(一九四七年五月三日稿同年「別冊文芸春秋」一〇月号)
*〔追記〕デヴィースの業績とその日本訳については、『数学教育史』(岩波書店)に詳しい。またエコール・ポリテクニクおよびモンジュについては、『数学史研究』(岩波書店)第一輯および第二輯を参照されたい。




底本:「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」平凡社
   1962(昭和37)年11月20日初版発行
   1963(昭和38)年8月15日再版発行
初出:「別冊文芸春秋」
   1947(昭和22)年10月号
入力:sogo
校正:富田倫生
2012年12月9日作成
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