地震の話

今村明恒




一、はしがき


 日本につぽん地震國ぢしんこくであり、また地震學ぢしんがくひらはじめたくにである。これはあやまりのない事實じじつであるけれども、もし日本につぽん世界中せかいじゆう地震學ぢしんがくもつとすゝんだくにであるなどといふならば、それはいさゝかうぬぼれのかんがある。實際じつさい地震學ぢしんがく或方面あるほうめんでは、日本につぽん研究けんきゆうもつとすゝんでゐるてんもあるけれども、其他そのた方面ほうめんおいてはかならずしもさうでない。其故それゆゑ著者等ちよしやら地震學ぢしんがくもつ世界せかいほこらうなどとはおもつてゐないのみならず、此頃このごろのように、わが國民こくみん繰返くりかへ地震ぢしん征服せいふくせられてみると、むしはづかしいような氣持きもちもする。すなは大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしんおいては十萬じゆうまん生命せいめい五十五億圓ごじゆうごおくえん財産ざいさんとをうしなひ、二年後にねんご但馬たじまくにのけちな地震ぢしんため四百しひやく人命じんめい三千萬圓さんぜんまんえん財産ざいさんとをそんし、また二年後にねんご丹後地震たんごぢしんによつて三千さんぜん死者ししや一億圓いちおくえん財産ざいさん損失そんしつとをしやうじた。そして此等これら損失そんしつほとんど全部ぜんぶ地震後ぢしんご火災かさいるものであつて、被害民ひがいみん努力どりよく次第しだいによつては大部分だいぶぶんまぬかられるべき損失そんしつであつた。しかるに事實じじつはさうでなく、あのような悲慘ひさん結果けつか續發ぞくはつとなつたのであるが、これをとほ海外かいがいからながめてみると、日本につぽんおそろしい地震國ぢしんこくである。地震ぢしん度毎たびごと大火災だいかさいおこくにである。外國人がいこくじん命懸いのちがけでないと旅行りよこう出來できないくにである。國民こくみんはあゝ度々たび/\地震ぢしん火災かさいなやまされてもすこしもりないものゝようである。地震ぢしんつていのちうしなふことをなんともおもつてゐないのかもれないなどといふ結論けつろんくだされないともかぎあるまい[#「かぎあるまい」はママ]實際じつさいこれは歐米人おうべいじん多數たすう日本につぽん地震ぢしんたいする觀念かんねんである。かく觀察かんさつされてみるとき著者ちよしやごと斯學しがく專攻者せんこうしや非常ひじよう恥辱ちじよくかんぜざるをないのである。勿論もちろんこの學問がくもん研究けんきゆう容易ようい進歩しんぽしないのも震災國しんさいこくたるの一因いちいんには相違そういないが、しかしながら地震ぢしんたいして必要ひつよう初歩しよほ知識ちしきがわが國民こくみんけてゐることが、震災しんさい擴大かくだい最大原因さいだいげんいんであらう。じつ著者ちよしやごときは、地震學ぢしんがく今日こんにち以上いじよう進歩しんぽしなくとも、震災しんさいほとんど全部ぜんぶはこれをまぬか手段しゆだんがあるとかんがへてゐるものゝ一人ひとりである。
 著者ちよしや少年諸君しようねんしよくんむかつて、地震學ぢしんがくすゝんだ知識ちしき紹介しようかいしようとするものでない。またたとひ卑近ひきん部分ぶぶんでも、震災防止しんさいぼうし目的もくてき直接ちよくせつ關係かんけいのないものまでろんじようとするのでもない。たゞ震災防止しんさいぼうしにつき、少年諸君しようねんどくしや[#ルビの「どくしや」はママ]現在げんざい小國民しようこくみんとしても、また他日たじつ國民人物こくみんじんぶつ中堅ちゆうけんとしても自衞上じえいじよう、はた公益上こうえきじよう必要ひつようくべからざる事項じこう叙述じよじゆつせんとするものである。
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二、地震學ぢしんがくのあらまし


 わがくに地震學ぢしんがく發祥はつしようといはれてゐる。これは文化ぶんかすゝんだくにとしては地震ぢしん見舞みまはれる機會きかいおほいからにもよるのであるが、なほ一因いちいんとして明治維新後めいじいしんご、わがくに文化開發事業ぶんかかいはつじぎよう補助者ほじよしやとして招聘しようへいした歐米人おうべいじんが、おほくは其道そのみちおいて、優秀ゆうしゆう人達ひとたちであつたこともかぞへなければならぬ。こと發端ほつたんは、明治十三年めいじじゆうさんねん二月二十二日にがつにちじゆうににち横濱よこはまならびにその近郊きんこうおいて、煉瓦煙突れんがえんとつならび土壁どへき小破損しようはそんしようぜしめた地震ぢしんにある。このとき大學だいがく其他そのた官衙かんがにゐた内外ないがい達識たつしき相會あひかいして、二週間目にしゆうかんめには日本地震學會につぽんぢしんがつかい組織そしきし、つゞいて毎月まいげつ會合かいごう有益ゆうえき研究けんきゆう結果けつか發表はつぴようしたが、創立そうりつ數箇月すうかげつのち當時とうじ東京帝國大學とうきようていこくだいがく理學部りがくぶける機械工學きかいこうがくおよ物理學ぶつりがく教授きようじゆであつたユーイング博士はかせ現今げんこんエヂンバラ大學だいがく總長そうちよう)は水平振子地震計すいへいしんしぢしんけい發明はつめいおほやけにし、ついで翌年よくねんには工學部大學校こうがくぶだいがつこう電氣學教授でんきがくきようじゆたりしグレー博士はかせ考案こうあん改良かいりようした上下動地震計じようげどうぢしんけいつくした。これがすなは現今げんこん地震計ぢしんけい基礎きそ形式けいしきであつて、當今とうこんおこなはれてゐるミルン地震計ぢしんけい大森地震計おほもりぢしんけい、ガリッチン地震計ぢしんけい、パシュウィチ水平振子すいへいしんしなど、其構造そのこうぞう要點ようてんみなユーイング地震計ぢしんけいである。じつにこの地震計ぢしんけい發明はつめいは、それまできはめて幼稚ようちであつた地震學ぢしんがく本當ほんとう學問がくもん進歩しんぽしたもとゐであるので、たんこの一點いつてんからみても、地震學ぢしんがく日本につぽんおいひらけたといつても差支さしつかへないくらゐである。それのみならず日本地震學會につぽんぢしんがつかいから出版しゆつぱんせられた二十册にじつさつ報告書ほうこくしよは、當時とうじ世界せかいおい唯一ゆいつ地震學雜誌ぢしんがくざつしであつたのみならず、收録しゆうろくせられた材料ざいりよう、ミルン教授きようじゆによつてもつせられたるおほくの論文ろんぶん、いづれも有益ゆうえき資料しりようであつて、今日こんにちでも地震學ぢしんがくについてなに研究けんきゆうでもこゝろみんとするものゝ、かなら參考さんこうすべき古典書こてんしよである。
 それやこれやの關係かんけいで、日本につぽん地震學ぢしんがく開發かいはつくにといはれてゐるのであるが、しか其開發者そのかいはつしやおも人々じんこう[#ルビの「じんこう」はママ]外國人がいこくじんとくにイギリスじんであつた。關谷教授せきやきようじゆ大森博士おほもりはかせなどのくははれたのはずつとのちのことである。
 明治二十四年めいじにじゆうよねん十月二十八日じゆうがつにじゆうはちにち濃尾大地震のうびだいぢしんは、地震學ぢしんがくにとつて第二だいに時代じだいつくつたものである。此頃このごろおい日本地震學界につぽんぢしんがつかい[#「學界」はママ]解散かいさんむなきにいたつたが、あらたにわが政府事業せいふじぎようとしておこされた震災豫防調査會しんさいよぼうちようさかいこれかはつた。此調査會このちようさかい會員かいいん全部ぜんぶ日本人につぽんじんであつて、地震學ぢしんがく物理學ぶつりがく地質學じしつがく地理學ちりがく土木工學どぼくこうがく建築學けんちくがく機械工學きかいこうがくとう地震學ぢしんがく理論りろんならび應用おうようかんした學問がくもんおいてわがくに第一流だいゝちりゆう專門家せんもんか網羅もうらしたものであつた。したがつて地震動ぢしんどう性質せいしつ地震ぢしん損傷そんしようしない土木工事どぼくこうじや、建築けんちく仕方しかたとうについての研究けんきゆう非常ひじようすゝみ、木造もくぞうならび西洋風せいようふう家屋かおくにつき耐震構造法たいしんこうぞうほうなどほとんど完全かんぜんいきすゝんだ。調査會ちようさかい大正十三年たいしようじゆうさんねん廢止はいしせられるにいたるまでに發表はつぴようした報告書ほうこくしよ和文わぶんのもの百一號ひやくいちごう歐文おうぶんのもの二十六號にじゆうろくごうべつ歐文紀要おうぶんきよう十一册じゆういつさつ歐文觀測録おうぶんかんそくろく六册ろくさつは、今日こんにち世界せかいゆうする地震學參考書ぢしんがくさんこうしよ中堅ちゆうけんをなすものであつて、これ事業じぎようは、日本地震學會時代につぽんぢしんがつかいじだいおい專有せんゆうしてゐたわがくに名聲めいせいはづかしめなかつたといへるであらう。
 日本につぽんける地震學ぢしんがくのこれまでの發達はつたつおも人命じんめい財産ざいさんかんする方面ほうめん研究けんきゆうであつた。しかるに最近さいきん二十年にじゆうねんあひだ歐米おうべいける地震學ぢしんがく方面ほうめん發達はつたつした。それは遠方地震えんぽうぢしん觀測かんそくによつて、わが地球ちきゆう内部ないぶ構造こうぞう推究すいきゆうする仕方しかたである。少年讀者しようねんどくしやは、天文學てんもんがく地理學ちりがく地質學ちしつがく物理學ぶつりがくとう應用おうようによつて、わが地球ちきゆう球體きゆうたいちかきこと、平均密度へいきんみつどが五・五なること、表面ひようめんちか部分ぶぶん構造こうぞう内部ないぶたくはへられる高熱こうねつ地球ちきゆう一箇いつこおほきな磁石じしやくであることなどをまなばれたであらう。また此等これら學問がくもんちからによつて、わが地球ちきゆう鋼鐵こうてつよりもおほきな剛性ごうせいゆうしてゐることもわかつてた。すなはつき太陽たいよう引力いんりよくによつてわが地球ちきゆうけるひづみの分量ぶんりようは、地球全體ちきゆうぜんたい鋼鐵こうてつ出來できてゐると假定かていした場合ばあひ三分さんぶんしかないのである。言葉ことばをかへていへば地球ちきゆう平均へいきんのしぶとさは鋼鐵こうてつ一倍半いちばいはんである。かういふふうにしてわが地球ちきゆう知識ちしきはだん/\すゝんでたけれども、其内部そのないぶ成立なりたちに立入たちいつた知識ちしき毛頭もうとうすゝんでゐないといつてよろしかつた。實際じつさい地質學ちしつがく研究けんきゆうしてゐる地層ちそうふかさは地表下ちひようか二三里内にさんりないよこたはつてゐるものばかりであつて、醫學上いがくじよう皮膚科ひふかにもおよばないものである。たゞこゝひとつの研究けんきゆう手懸てがかりが出來できたといふのは、地球ちきゆう表面ひようめんちかくからはふつた斥候せつこうが、地球内部ちきゆうないぶにまで偵察ていさつ出掛でかけそれがふたゝ地球ちきゆう表面ひようめんあらはれて報告ほうこくをなしつゝあることが氣附きづかれたことである。此斥候このせつこう何者なにものであるかといふと、大地震だいぢしんのときにおこ地震波ぢしんぱである。實際じつさい地震ぢしんは、地球ちきゆう表面ひようめんちかところ發生はつせいするものであるが、ちようどかぜ水面すいめんなみおこすように、また發音體はつおんたい空氣中くうきちゆう音波おんぱおこすように、地震ぢしん地震波ぢしんぱおこすのである。さうして地震ぢしんおほきければおほきいほど地震波ぢくんぱ[#ルビの「ぢくんぱ」はママ]おほきいので、これが地球ちきゆう表面ひようめん沿うて四方八方しほうはつぽうひろがり、あるひ地球ちきゆう一廻ひとまはりも二廻ふたまはりもすることもあるが、それと同時どうじ地震波ぢしんぱ地球内部ちきゆうないぶ方向ほうこうにも進行しんこうして反對はんたい方面ほうめんあらはれ、場合ばあひによつては地球ちきゆう表面ひようめん反射はんしやしてふたゝ方面ほうめんむかうのもある。たゞ此斥候このせつこう報告書ほうこくしよともづくべきものは、たん地震波ぢしんぱ種々しゆ/″\形式けいしきのみであるから、これを書取かきと其上そのうへにそれをることを必要ひつようとする。これは容易よういならぬ爲事しごとであるが、しかしながらたん困難こんなんであるだけであつてけつして不可能ふかのうではない。
 地震波ぢしんぱ偵察ていさつした結果けつか器械きかい、これを地震計ぢしんけいづける。まへにユーイング教授きようじゆ地震計ぢしんけい發明はつめいしたことをべたが、これはじつ容易よういならざる發明はつめいであつたのである。讀者どくしやこゝろみに地震計ぢしんけい原理げんり想像そう/″\してみるがよい。地上ちじよう萬物ばんぶつ地震ぢしんのときみなすのに、自分じぶんだけ空間くうかんもとてんからうごかないといふような方法ほう/\工夫くふうしなければなるまい。これはけつしてさう安々やす/\かんがせるはずのものではないのであるが、さら其精巧そのせいこうなものにいたつては、ひと身體しんたいには勿論もちろん普通ふつう地震計ぢしんけいにもかんじないほど地震波ぢしんぱまで記録きろくすることが出來できるのである。とく其中そのうち、ゆつくりとした震動しんどうたとへば一分間いつぷんかん一糎いちせんちめーとるほどしづかに往復振動おうふくしんどうするような場合ばあひおいても、これを實際じつさいのまゝに書取かきとらしめることが長週期地震計ちようしゆうきぢしんけいづけるものゝ特色とくしよくである。かういふ地震計ぢしんけい遠方えんぽう大地震だいぢしん觀測かんそくすると、その記録きろくした模樣もようきはめて規則正きそくたゞしいものとなつてあらは[#ルビの「あらは」は底本では「はらは」]れてて、今日こんにちでは模樣もようひとつ/\について其經路そのけいろすであきらかにせられてゐる。これによつて地球ちきゆう内部ないぶとほるときの地震波ぢしんぱはやさは、地球ちきゆう鋼鐵こうてつとした場合ばあひ幾倍いくばいにもあたることがわかり、また地球ちきゆう内部ないぶてつしんから[#ルビの「か」はママ]つてをり、そのおほきさは半徑はんけい二千七百粁にせんしちひやくきろめーとるきゆうであることが推定すいていせられてた。
 地震學ぢしんがく今日こんにち進歩しんぽによつて、地球ちきゆう内部状態ないぶじようたいわかりかけてたことはみぎとほりであるが、實際じつさい地震學ぢしんがく除外じよがいしては、此地球内部状態このちきゆうないぶじようたい研究資料けんきゆうしりようとなるところのものがまつたづかれてゐないのである。さればこそ歐米おうべい地震學者ぢしんがくしやおほくは此方面このほうめん研究けんきゆう興味きようみち、また主力しゆりよくかたむけてゐるのである。實際じつさい地震ぢしんまつたおこることなきくにおいては、生命せいめい財産ざいさん關係かんけいある方面ほうめん研究けんきゆう無意味むいみであるけれども、適當てきとう器械きかいさへあれば、世界せかい遠隔えんかくした場所ばしよおこつた地震ぢしん餘波よは觀測かんそくして、前記ぜんきごと研究けんきゆう結構けつこう出來できるのである。
 まへべたとほ地震學ぢしんがく研究けんきゆうは、便宜上べんぎじようこれをふたつの方面ほうめんけることが出來できる。すなはひとつは人命じんめい財産ざいさん直接ちよくせつ關係かんけいある事項じこう地球ちきゆう内部状態ないぶじようたい推究すいきゆう關係かんけいある事項じこうである。わがくにける地震學ぢしんがく無論むろん第一だいゝち方面ほうめんにはいちじるしい發達はつたつげ、けつしておくれをつたことがないのみならず、今後こんごおいてもやはり其先頭そのせんとうつて進行しんこうすることが出來できるであらうとしんじてゐる。しかるに第二だいに方面ほうめんおいては、歐洲おうしゆうとくにドイツへん優秀ゆうしゆう學者がくしやおほあらはれ、近年きんねんわがくに此點このてんについてかれ一歩いつぽゆづつてゐたかのかんがあつたが、大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしん以來いらい研究者けんきゆうしや次第しだい増加ぞうか優秀ゆうしゆうわか學者がくしや出來できたので、最近さいきん二三年にさんねんあひだおいては此方面このほうめんにも次第しだいびてて、今日こんにちでは最早もはやかれおくれてゐようとはおもはれない。
 地震學ぢしんがく應用おうようによつて地球ちきゆう内部状態ないぶじようたいなりにかるくなつてたことはまへにもべたとほりであるが、本篇ほんぺんおいては此方面このほうめんむかつて、前記ぜんき以上いじよう深入ふかいりしようとはおもはない。たゞ地震ぢしんおこようすなは地震ぢしんはいかなる場所ばしよおいてどんな作用さようおこるかの大體だいたい觀念かんねんるため、地球ちきゆう表面ひようめんちか部分ぶぶん構造こうぞうべさしてもらひたい。
 わが地球ちきゆうには水界すいかい陸界りくかいとの區別くべつがあり、陸界りくかい東大陸ひがしたいりく西大陸にしたいりく濠洲ごうしゆうとうわかれてゐる。此陸界このりくかい水界中すいかいちゆうおいとくふかうみ部分ぶぶんとは、土地とち構造こうぞうとく其地震學上そのぢしんがくじようから性質せいしつおいなりな相違そういがある。大陸たいりくしゆとして花崗岩質かこうがんしつのもので出來できてゐて、大體だいたい十里じゆうり程度ていどふかさをつてゐるようである。それはした鐵心てつしんいたるまでは玄武岩質げんぶがんしつのものもしくはそれに鐵分てつぶんくははつたもので出來できてゐて、これは急速きゆうそくはたらちからたいしてきはめてしぶとく抵抗ていこうする性質せいしつそなへてゐるけれども、ゆるはたらちからたいしては容易よういかたちへ、ちからはたらくまゝになること、食用しよくようあめおもさせるようなものである。さうしてふかうみそこはこのしつそう直接ちよくせつ其表面そのひようめんまでたつしてゐるか、あるひ表面近ひようめんちかすゝんでてゐて、其上そのうへ陸界りくかい性質せいしつのものでうすおほふてゐるくらゐにすぎぬと、かうかんがへられてゐる。
 地球ちきゆうはさういふ性質せいしつ薄皮はくひもつおほはれてをり、深海床しんかいしようまた地下ちかふかところは、ゆるはたらちからたいしてしぶとく抵抗ていこうしないので、地震ぢしんおこさうといふちから大陸たいりくまた其周圍そのしゆういおいては次第しだい蓄積ちくせきすることをゆるされても、ふか海底かいていとく地球ちきゆう内部ないぶおいては、たとひかようなちからはたらくことがあつても、かぜやなぎたとひとほり、すぐにそのちからのなすまゝにかたち調節ちようせつして平均へいきんつため、地震力ぢしんりよくたくはへられることをゆるされない。そこでおほきな地震ぢしんは、大陸たいりくまた其周圍そのしゆういおいて、十里以内じゆうりいないふかさのところおこることが通常つうじようであつて、ふかうみ中央部ちゆうおうぶまた數十里すうじゆうりあるひ數百里すうひやくりふかさの地下ちかではおこらない。たとひそこに地震ぢしんおこることがあつても、それはおほきくないものにかぎるのである。
「アフリカ海岸と南米東岸との符号」のキャプション付きの図
アフリカ海岸と南米東岸との符号

 大陸たいりく現今げんこんのように五大洲ごだいしゆうわかれてゐるけれども、地球ちきゆうけてゐた状態じようたいから、かたまりはじめたときには、たんひとつのかたまりであつたが、それが或作用あるさようのために數箇すうこ地塊ちかい分裂ぶんれつし、地球ちきゆう自轉じてん其他そのた作用さようで、次第しだいはなばなれになつて今日こんにちのようになつたものとしんじられてゐる。讀者どくしやもし世界地圖せかいちずひらかれたなら、アフリカの西沿岸にしえんがんおほきなくぼみが、大西洋たいせいようへだてた對岸たいがんみなみアメリカ、とくにブラジルの沿岸えんがんのでつぱりに丁度ちようど割符わりふあはせたようにつぎはされることを氣附きづかれるであらう。このような海岸線かいがんせん組合くみあはせは地球上ちきゆうじよういたところ見出みいだされるが、紅海こうかい東海岸ひがしかいがん西海岸にしかいがんとのごときもいちじるしい一組ひとくみである。もし手近てぢかなれいしければ、小規模しようきぼではあるけれども、浦賀海峽うらがかいきよう左右さゆう兩岸りようがんげることが出來できる。これを熟視じゆくしされると、兩對岸りようたいがんあひ接觸せつしよくしてゐた模樣もよう想像そう/″\せられるであらうが、さう接續せつぞくしてゐたとかんがへてのみ説明せつめいられる地理學上ちりがくじよう事項じこうが、また其中そのなかふくまれてゐるのである。
「紅海兩海岸の符号」のキャプション付きの図
紅海兩海岸の符号

 大陸たいりくは、たとへばあめうみうかんでゐるふねである。これが浮動ふどうさまたげゐるのは深海床しんかいしようからばされた章魚たこである。そしてこの章魚たこ大陸たいりく船縁ふなべりつかんでゐるのである。ある極限きよくげんまではかくして大陸たいりく浮動ふどうさゝへてゐるけれども、つひさゝれなくてあるひはなしたりあるひゆびつたりして平均へいきんやぶれ、したがつて急激きゆうげき移動いどうおこるのである。此急激このきゆうげき移動いどう、これがすなは大地震だいぢしん原因げんいんである。もしかような大移動だいいどう海底かいていおこれば津浪つなみおこすことにもなる。
 火山作用かざんさようによつて地震ぢしんおこすことは、べつ説明せつめいようするまでもないことである。また其作用そのさようによつても地震ぢしんおこされることがないでもないが、いづれの場合ばあひおいても、大地震だいぢしんとは縁遠えんどほいものゝみである。したがつて人命じんめい財産ざいさん損失そんしつからるとき、これ問題もんだいかんがへにれなくとも差支さしつかへないであらう。
「關東大地震の震原と地盤の移動」のキャプション付きの図
關東大地震の震原と地盤の移動

 このさい一言いちげんして必要ひつようのあることは地震ぢしん副原因ふくげんいんといふことである。すなは地震ぢしんおこるだけの準備じゆんび出來できてゐるとき、それを活動かつどうてんぜしめる機會きかいあたへるところの誘因ゆういんである。たとへば鐵砲てつぽう彈丸たま遠方えんぽうばす原因げんいん火藥かやく爆發力ばくはつりよくであるが、これを實現じつげんせしめる副原因ふくげんいん引金ひきがねはづ作用さようである。鐵砲てつぽう彈藥だんやく裝填そうてんしてあれば引金ひきがねはづすことによつて彈丸たま遠方えんぽうぶが、もし彈藥だんやく裝填そうてんしてなくあるひたん彈丸たまだけめて火藥かやくくはへなかつたなら、たとひ幾度いくど引金ひきがねはづしても彈丸たまけつしてさない。地震ぢしん場合ばあひおいこの引金ひきがねはたらきに相當そうとうするものとして、氣壓きあつしほ干滿かんまんなどいろ/\ある。たとへば相模平野さがみへいやおこ地震ぢしんおいては、其地方そのちほう北西方ほくせいほうおい氣壓きあつたかく、南東方なんとうほうおいてそれがひくいと其地方そのちほう地震ぢしん誘發ゆうはつされやすい。其故それゆゑ地震ぢしん豫知問題よちもんだい研究けんきゆうおいみぎのような副原因ふくげんいん研究けんきゆうすることも大切たいせつであるが、しかしながら事實上じじつじよう問題もんだいとして引金ひきがね空外からはづしともいふべき場合ばあひすこぶおほいことである。つまり百千ひやくせん空外からはづしにたいしてわづか一回いつかい實彈じつだんすくらゐのことであるから、かような副原因ふくげんいんだけを研究けんきゆうしてゐては、豫知問題よちもんだいほう一歩いつぽ進出しんしゆつすることが出來できないような關係かんけいになるのである。
「丹後地震に伴へる郷村断層」のキャプション付きの図
丹後地震に伴へる郷村断層

 豫知問題よちもんだい研究けんきゆうについてもつと大切たいせつ目標もくひようは、地震ぢしん主原因しゆげんいん調査ちようさである。彈藥だんやく完全かんぜん裝填そうてんされてあるか、いなかを調しらべることである。近時きんじ此方面このほうめん研究けんきゆうがわが日本につぽんおいおほいにすゝんでた。著者ちよしや昭和二年しようわにねん九月くがつチェッコスロバキアこく首府しゆふプラーグにける地震學科ぢしんがつか國際會議こくさいかいぎおいて、此問題このもんだいかんするわがくに最近さいきん研究結果けんきゆうけつかにつき報告ほうこくするところがあつたが、列席れつせき各員かくいん著者ちよしや簡單かんたん演述えんじゆつした大地震だいぢしん前徴ぜんちようにつきさら詳細しようさい説明せつめいもとめられ、すこぶ滿足まんぞくてい見受みうけた。實際じつさい地震ぢしん豫知問題よちもんだい解決かいけつ至難しなんわざであるに相違そういない。しかしながらけつして不可能ふかのうのものとはおもはない。著者ちよしやごときは、此問題このもんだいすでにある程度ていどまでは机上きじようおい解決かいけつせられてゐるとおもつてゐる。のこるところは其考案そのこうあん實施じつし如何いかんといふてん歸着きちやくする。しか其實施そのじつし一時いちじ數十萬圓すうじゆうまんえん年々ねん/\十萬圓じゆうまんえん費用ひようにて出來でき程度ていどである。
 地震ぢしん豫知問題よちもんだいかり都合つごうよく解決かいけつされたとしても、震災防止しんさいぼうしについてはなほ重大じゆうだい問題もんだい多分たぶんのこるであらう。かり地震豫報ぢしんよほう天氣豫報てんきよほう程度ていどたつしても、雨天うてんおいては雨着あまぎかさようするように、また暴風ぼうふうたいしては海上かいじよう警戒けいかい勿論もちろん農作物のうさくぶつ家屋かおくとうたいしても臨機りんき處置しよち入用にゆうようであらう。其上そのうへ氣象上きしようじようおほきな異變いへんについてはたん豫報よほうばかりで解決かいけつされないこと、昭和二年しようわにねん九月十三日くがつじゆうさんにち西九州にしきゆうしゆうける風水害ふうすいがい慘状さんじようてもあきらかであらう。著者ちよしや想像そう/″\では、かり地震豫報ぢしんよほう出來できても、それは地震ぢしんおこりそうなある特別とくべつ地方ちほう指摘してきるのみで、それが幾時間後いくじかんご幾日後いくにちご實現じつげんするかをるのはさら研究けんきゆうすゝまねば解決かいけつ出來できないことゝかんがへる。ようするに地震學ぢしんがく進歩しんぽ現状げんじようおいては、何時いつ地震ぢしんおそはれても差支さしつかへないように平常へいじよう心懸こゝろがけが必要ひつようである。建物たてもの土木工事どぼくこうじ耐震的たいしんてきにするといふようなことは、これまた平日へいじつおこなふべきことではあるが、しかしこれは其局そのきよくあたるものゝ注意ちゆういすべき事項じこうであつて、小國民しようこくみんあづからずともよいことである。しかしながら地震ぢしん出會であつた其瞬間そのしゆんかんおいては、大小だいしよう國民こくみんのこらず自分じしん[#ルビの「じしん」はママ]適當てきとう處置しよちらなければならないから、此場合このばあひ心懸こゝろがけは地震國ぢしんこく國民こくみんつて一人ひとりのこらず必要ひつようなことである。
 わがくにごと地震國ぢしんこくおいては、地震ぢしん出會であつたときの適當てきとう心得こゝろえ絶對ぜつたい必要ひつようなるにもかゝ[#ルビの「かゝ」はママ]らず、從來じゆうらいかようなものがけてゐた。たとひ多少たしようそれに注意ちゆういしたものがあつても、地震ぢしん眞相しんそう誤解ごかいしてゐるため、適當てきとうなものになつてゐなかつた。著者ちよしやはこれに氣附きづいたので、此數年間このすうねんかん其編纂そのへんさん腐心ふしんしてゐたが、東京帝國大學とうきようていこくだいがく地震學教室ぢしんがくきようしつける同人どうにん助言じよげんによつて、大正十五年たいしようじゆうごねんいたつてやうやこれおほやけにする程度ていどたつした。本篇ほんぺんおもにこの注意書ちゆういしよたいする解釋かいしやくしるしたものといつてよいとおもふ。もし此心得このこゝろえ體得たいとくせられたならば、個人こじんとしては震災しんさいからしようずる危難きなんまぬかれ、社會上しやかいじよう一人ひとりとしては地震後ぢしんご火災かさい未然みぜん防止ぼうしし、從來じゆうらいわれ/\がなやんだ震災しんさい大部分だいぶぶんけられることゝおもふ。すくなくもそのような結果けつかになるように期待きたいしてゐるものである。
 つぎに著者ちよしや編纂へんさんした注意書ちゆういしよかゝげることにする。

三、地震ぢしん出會であつたときの心得こゝろえ


一、  最初さいしよ一瞬間いつしゆんかんおい非常ひじよう地震ぢしんなるかいなかを判斷はんだんし、機宜きゞてきする目論見もくろみてること、たゞしこれには多少たしよう地震知識ぢしんちしきようす。
二、  非常ひじよう地震ぢしんたるをさとるものはみづか屋外おくがい避難ひなんせんとつとめるであらう。數秒間すうびようかん廣場ひろばられる見込みこみがあらば機敏きびんすがよい。たゞもと用心ようじんわすれざること。
三、  二階建にかいだて三階建さんがいだてとう木造家屋もくぞうかおくでは、階上かいじようほうかへつて危險きけんすくない、高層建物こうそうたてもの上層じようそう居合ゐあはせた場合ばあひには屋外おくがい避難ひなんすることを斷念だんねんしなければなるまい。
四、  屋内おくない一時避難所いちじひなんじよとしては堅牢けんろう家屋かおくそばがよい。教場内きようじようないおいてはつくゑしたもつと安全あんぜんである。木造家屋内もくぞうかおくないにてはけたはりしたけること、また洋風建物内ようふうたてものないにては、張壁はりかべ煖爐用煉瓦だんろようれんが煙突えんとつとうちてさうなところけ、むをざれば出入口でいりぐち枠構わくがまへの直下ちよくかせること。
五、  屋外おくがいおいては屋根瓦やねがはらかべ墜落ついらい[#ルビの「ついらい」はママ]あるひ石垣いしがき煉瓦塀れんがべい煙突えんとつとう倒潰とうかいきたおそれある區域くいきからとほざかること。とく石燈籠いしどうろう[#ルビの「いしどうろう」は底本では「いしどうろ」]近寄ちかよらざること。
六、  海岸かいがんおいては津浪襲來つなみしゆうらい常習地じようしゆうち警戒けいかいし、山間さんかんおいては崖崩がけくづれ、山津浪やまつなみかんする注意ちゆういおこたらざること。
七、  大地震だいぢしんあたおよ最初さいしよ一分間いつぷんかんしのたら、最早もはや危險きけんだつしたものと見做みなられる。餘震よしんおそれるにらず、地割ぢわれにまれることはわがくににては絶對ぜつたいになし。老若男女ろうじやくだんじよすべちからのあらんかぎ災害防止さいがいぼうしつとむべきである。火災かさい防止ぼうし眞先まつさきにし、人命救助じんめいきゆうじよをそのつぎとすること。これすなは人命じんめい財産ざいさん損失そんしつ最小さいしようにする手段しゆだんである。
八、  潰家かいかからの發火はつか地震直後ぢしんちよくごおこることもあり、一二時間いちにじかんのちおこることもある。油斷ゆだんなきことをようする。
九、  大地震だいぢしん場合ばあひには水道すいどう斷水だんすいするものと覺悟かくごし、機敏きびん貯水ちよすい用意よういをなすこと。またみづもちひざる消防法しようぼうほうをも應用おうようすべきこと。
十、  餘震よしん其最大そのさいだいなるものも最初さいしよ大地震だいぢしん十分じゆうぶんいち以下いか勢力せいりよくである。最初さいしよ大地震だいぢしんしの木造家屋もくぞうかおくは、たとひ多少たしよう破損はそんをなしても、餘震よしんたいしては安全あんぜんであらう。たゞ地震ぢしんでなくともこわれそうな程度ていどそんしたものは例外れいがいである。

 みぎうち説明せつめいりやくしてもよいものがある。しかしながら、一應いさおう[#ルビの「いさおう」はママ]はざつとした註釋ちゆうしやくはへることにする。以下いかこううてすゝんでく。

一、突差とつさ處置しよち


 地震ぢしん出會であつた一瞬間いつしゆんかんこゝろ落着おちつきうしなつて狼狽ろうばいもすれば、いたづらにまど一方いつぽうのみにはしるものもある。平日へいじつ心得こゝろえりないひとにこれがおほい。
 著者ちよしやんだ第一項だいゝつこうは、最初さいしよ一瞬間いつしゆんかんおいて、それが非常ひじよう地震ぢしんなるかいなかを判斷はんだんせよといふのである。もしたいした地震ぢしんでないといふ見込みこみがついたならば、こゝろ自然しぜんやすらかなはずであるから過失かしつおこりようもない。其上そのうへ危險性きけんせいびた大地震だいぢしん出會であふといふのは、ひと一生いつしようあひだおいおほくて一二回いちにかいにしかないはずであるから、われ/\が出會であところ地震ぢしんほとんど全部ぜんぶたいしたものでないといふことがいへる。たゞ其一生そのいつしようあひだ一二回いちにかいしか出會であはないはずのものに、たま/\出會であつた場合ばあひもつと大切たいせつであるから、さういふ性質せいしつ地震ぢしんであるかいなかを最初さいしよ一瞬間いつしゆんかんおい判定はんていすることは、地震ぢしん出會であつたときの心得こゝろえとしてもつと大切たいせつ一事件いちじけんである。
 地震ぢしん地表下ちひようかおいあまふかくないところおこるものである。たゞふかくないといつても、それは地球ちきゆうおほきさに比較ひかくしていふことであつて、これを絶對ぜつたいにいふならば幾里いくり幾十粁いくじゆうきろめーとるといふ程度ていどのものである。もし震原しんげん直下ちよつかでなかつたならば、震原しんげんたいして水平すいへい方向ほうこうにも距離きよりくははつてるから、距離きよります/\とほくなるわけである。
 われ/\は地震ぢしんかんじた場合ばあひ其振動そのしんどう緩急かんきゆうによつて震原距離しんげんきより概念がいねんつようになる。すなは振動しんどうかんなるときは震原しんげんとほいことを想像そう/″\するが、反對はんたい振動しんどうきゆうなときは震原しんげんはわれわれにちかいことゝ判斷はんだんする。また地震ぢしん同時どうじに、あるひはこれをかんずるまへ地鳴ぢなりをくこともある。これは地震ぢしんがわれ/\にもつとちかおこつた場合ばあひである。
 地震ぢしん其根源そのこんげん場所ばしよおいては緩急かんきゆう各種かくしゆ地震波ぢしんぱ發生はつせいするものであつて、これがあひともなつて四方八方しほうはつぽうひろがつてくのであるが、此際このさいきゆう振動しんどうをなす波動はどうみちすがら其勢力そのせいりよくもつとすみやかに減殺げんさいされるから、振動しんどうきゆうなものほどそのひろがる範圍はんいせまく、ゆるやかなものほどそれがひろい。此事このことをつぎのようにもいふ。すなはきゆう振動しんどうは、其勢力そのせいりよく中間ちゆうかん媒介物ばいかいぶつ吸收きゆうしゆうされやすく、ゆるやかなものはそれが吸收きゆうしゆうされにくい。これがわれ/\のかんじた地震動ぢしんどう緩急かんきゆうによつて、地震ぢしんふかくにおこつたかあるひちかくにおこつたかを判斷はんだん理由りゆうであつて、また遠方えんぽう大地震だいぢしん觀測かんそく長週期地震計ちようしゆうきじしんけい入用にゆうようなわけである。
 地震ぢしん十分じゆうぶんちかおこつた場合ばあひは、一秒間いちびようかん數十回すうじつかいしくばそれ以上いじよう往復振動おうふくしんどうあらはれてるが、それはたん地鳴ちなりとしてわれ/\の聽覺ちようかくかんずるのみであつて、一秒間いちびようかん四五回しごかい往復振動おうふくしんどうになつてやうや急激きゆうげき地動ちどうとしてわれ/\の身體しんたいにはつきりとかんずるようになる。しかしながら震原距離しんげんきより三十里さんじゆうり以上いじようにもなると、初動しよどうなり緩漫かんまんになつて一秒間いちびようかん一二回いちにかい往復振動おうふくしんどうになり、さら距離きよりとほくなるとつひには地震動ぢしんどう最初さいしよ部分ぶぶんかんじなくなつて、中頃なかごろつよ部分ぶぶんだけをかんずるようにもなる。
「初期微動と主要動との區別」のキャプション付きの図
初期微動と主要動との區別

 つぎに、最初さいしよ一瞬間いつしゆんかん感覺かんかくによつて地震ぢしん大小だいしよう強弱きようじやく判斷はんだんすることについてべてたい。ことわざ大風おほかぜ中頃なかごろよわくてはじめとをはりとがつよく、大雪おほゆきはじめから中頃なかごろまでよわくてをはりがつよく、大地震だいぢしんは、はじめとをはりがよわくて中頃なかごろつよいといふことがある。これは面白おもしろ比較觀察ひかくかんさつだとおもふ。大風おほかぜ大雪おほゆきとはさていて、大地震だいぢしんについていはれたみぎことわざ一般いつぱん地震ぢしんつうずるものである。われ/\は最初さいしよよわ部分ぶぶん初期微動しよきびどうづけ、中頃なかごろつよ部分ぶぶん主要動しゆようどうあるひ主要部しゆようぶをはりのよわ部分ぶぶん終期部しゆうきぶづけてゐる。終期部しゆうきぶ地震動ぢしんどう餘波よはであつてあま大切たいせつなものではないが、初期微動しよきびどう主要部しゆようぶとはきはめて大切たいせつなものである。兩者りようしやともに震原しんげんから同時どうじ出發しゆつぱつし、おなみちとほつてるのであるけれども、初期微動しよきびどう速度そくどだいに、主要動しゆようどうはそれがしようなるために前後ぜんご到着とうちやくすることになるのである。あだか電光でんこう雷鳴らいめいとの關係かんけいのようなものである。
 もつと具體的ぐたいてきにいふならば、初期微動しよきびどう空氣中くうきちゆうける音波おんぱのような波動はどうであつて、振動しんどう方向ほうこう進行しんこう方向ほうこうとがあひ一致いつちするもの、すなは形式けいしきからいへば縱波たてなみである。主要動しゆようどうはそれとことなり横波よこなみである。震原しんげんちか場合ばあひには縱波たてなみおよ毎秒まいびよう五粁ごきろめーとるはやさで進行しんこうするのに、横波よこなみ毎秒まいびよう三・二きろめーとるはやさで進行しんこうする。
 初期微動しよきびどう到着とうちやくしてから主要動しゆようどうるまでの時間じかんを、初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかんづける。讀者どくしや初期微動時間しよきびどうじかんだけをつて震原距離しんげんきより計算けいさんしてすことは、算術さんじゆつのたやすい問題もんだいたることを氣附きづかれたであらう。實際じつさいわれ/\はこの計算けいさん[#ルビの「けいさん」は底本では「けいさい」]ひとつの公式こうしきもちひてゐる。すなは初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかん秒數びようすうはちといふ係數けいすうけると、震原距離しんげんきよりおよそのあたひきろめーとるるのである。
 地震計ぢしんけい觀測かんそくによるときは、初動しよどう方向ほうこう觀測かんそくせられるので、したがつて震原しんげん方向ほうこう推定すいていせられ、また初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかんによつて震原距離しんげんきより計算けいさんせられるから、たん一箇所いつかしよ觀測かんそくのみによつて震原しんげん位置いち推定すいていせられるのであるが、しかしながら身體しんたい感覺かんかくのみにてはかような結果けつかることは困難こんなんである。
 東京邊とうきようへんおこ普通ふつう小地震しようぢしんは、大抵たいてい四十粁しじゆうきろめーとるくらゐふかさをもつてゐるから、かような地震ぢしんがわれ/\の直下ちよつかおこつても、初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかんは五・三秒程びようほどになる。東京市内とうきようしないむものは、七八秒しちはちびようから十秒位じゆうびようぐらゐまでの初期微動しよきびどうゆうする地震ぢしんかんずることがもつと多數たすうである。しかしながら大正十四年たいしようじゆうよねん但馬地震たじまぢしんける田結村たいむら場合ばあひごとく、また一昨年いつさくねん丹後地震たんごぢしんける郷村ごうむらまた峰山みねやま場合ばあひごとく、初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかんわづか三秒程度さんびようていどなることもあるのである。たゞしこれはきはめて稀有けう場合ばあひであつたといつてよろしい。
 初期微動しよきびどう主要動しゆようどう比較ひかくしてだいなるはやさをつてゐるが、しかしながら振動しんどうおほいさは、反對はんたい主要動しゆようどうほうかへつてだいである。この大小だいしよう差違さい地震ぢしん性質せいしつにより、また關係地方かんけいちほう地形ちけい地質ちしつとうによつても一樣いちようではないが、多數たすう場合ばあひ平均へいきんしていふならば、主要動しゆようどうたる横波よこなみは、初期微動しよきびどうたる縱波たてなみ比較ひかくしておよ十倍じゆうばいおほいさをつてゐる。これが最初さいしよ部分ぶぶん初期微動しよきびどうとてかんせられる所以ゆえんである。さうして主要動しゆようどう大地震だいぢしん場合ばあひおいて、破壞作用はかいさようをなす部分ぶぶんたることは説明せつめいせずともすで了得りようとくせられたことであらう。
 讀者どくしや小地震しようぢしん場合ばあひおいて、初期微動しよきびどう主要動しゆようどう明確めいかく區別くべつして感得かんとくせられたことがあるであらう。初期微動しよきびどう通常つうじようびり/\といふ言葉ことば形容けいようせられるように、やゝきゆうにしかも微小びしよう振動しんどうであるが、それが數秒間すうびようかんあるひ十數秒間じゆうすうびようかん繼續けいぞくすると、突然とつぜん主要動しゆようどうたるおほきな振動しんどうる。其振動そのしんどうぶりは、最初さいしよ縱波たてなみくらべてやゝ緩漫かんまん大搖おほゆれであるがため、われ/\はこれをゆさ/\といふ言葉ことば形容けいようしてゐる。しかしながら大地震だいぢしんになると、初期微動しよきびどうでもけつして微動びどうでなく、おほくのひとにとつては幾分いくぶん脅威きよういかんずるようなおほいさの振動しんどうである。たとへばわれ/\が大地震だいぢしん場合ばあひおいしば/″\經驗けいけんするとほ主要動しゆようどうおほいさを十糎じゆうせんちめーとる假定かていすれば、初期微動しよきびどう一糎程度いちせんちめーとるていどのものであるので、もしかういふおほいさの地動ちどうが、一秒間いちびようかん二三回にさんかい繰返くりかへされるほどの急激きゆうげきなものであつたならば、木造家屋もくぞうかおく土藏どぞう土壁つちかべおとし、器物きぶつたなうへから轉落てんらくせしめるくらゐのことはありべきである。もし地震ぢしん初動しよどうがこの程度ていどつよさをしめしたならば、これは非常ひじよう地震ぢしんであると判斷はんだんしてあやまりはないであらう。
 さいはひ最初さいしよ一瞬間いつしゆんかんおいて、非常ひじよう地震ぢしんなるかいなかの判斷はんだんがついたならば、其判斷そのはんだん結果けつかによつて臨機りんき處置しよちをなすべきである。もしそれが非常ひじよう地震ぢしんだと判斷はんだんされたならば、自分じぶん居所ゐどころ如何いかんによつて處置方法しよちほう/\かはられなければなるまい。それについては、以下いか各項かくこうおい細説さいせつするつもりである。しかしながら、それがありふれた小地震しようぢしんだと判斷はんだんされたならば、泰然自若たいぜんじじやくとしてゐるのも一法いつぽうであらうけれども、これはあまりに消極的しようきよくてき動作どうさであつて、著者ちよしや地震國ぢしんこく小國民しようこくみんむかつて希望きぼうするところでない。著者ちよしやむしろかような場合ばあひ利用りようして、地震ぢしんたいする實驗的じつけんてき[#ルビの「じつけんてき」は底本では「じんけんてき」]知識ちしき修養しゆうようまれるよう希望きぼうするものである。
 まへべたとほり、初期微動しよきびどう繼續時間けいぞくじかん震原距離しんげんきより計算けいさん利用りようられる。この繼續時間けいぞくじかん正確せいかくなるあたひ地震計ぢしんけい觀測かんそくによつてはじめてわかることであるけれども、概略がいりやくあたひ暗算あんざんによつてもる。著者ちよしやごときはそれが常習じようしゆうとなつてゐるので、夜間やかん熟睡じゆくすいしてゐるときでも地震ぢしんにより容易ようい覺醒かくせいし、ゆめうつゝの境涯きようがいにありながらみぎ時間じかん暗算あんざんとうにとりかかるくせがある。これを器械的觀測きかいてきかんそく結果けつか比較ひかくすると一割以上いちわりいじよう誤差ごさしやうじたれいきはめてすくない。著者ちよしやさらすゝんで地震動ぢしんどう性質せいしつあぢはひ、それによつて震原しんげん位置いちをも判斷はんだんすることに利用りようしてゐるけれども、これは一般いつぱん讀者どくしやのぞべきことでない。とにかく初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかんはじめとして、發震時はつしんじ其他そのたかんするあたひ計測けいそくし、これを器械觀測きかいかんそく結果けつか比較ひかくすることすこぶ興味きようみおほいことである。自分じぶん觀測所かんそくじよとの間隔かんかく一二里以内いちにりいないであるならば、兩方りようほう時刻じこくならび時間じかんとも大體だいたいおなあたひるべきはずである。
 みぎほか體驗たいけんした地震動ぢしんどうおほいさを器械觀測きかいかんそく結果けつか比較ひかくするのもまた興味きようみある事柄ことがらである。しかしながらこの結果けつかおいては器械きかい觀測かんそくせられたものと、自分じぶん體驗たいけんしたものとはいちじるしき相違そういのあることが一般いつぱんであつて、それがむし至當しとうである場合ばあひおほい。たとへば東京市内とうきようしないでも下町したまちやまとで震動しんどうおほいさに非常ひじよう相違そういがある。がいして下町したまちほうおほきく、やま二三倍にさんばいしくはそれ以上いじようにもなることがある。また鎌倉かまくられいると由比ヶ濱ゆひがはま砂丘さきゆうは、ゆきした岩盤がんばん比較ひかくして四五倍しごばいおほいさにることもある。かような根本こんぽん相違そういがあるうへに、器械きかい大抵たいてい地面ぢめん其物そのもの震動しんどう觀測かんそくするようになつてゐるのに、體驗たいけんもつはかつてゐるのは家屋かおく振動しんどうであることがおほい、もし其家屋そのかおく丈夫じようぶ木造もくぞう平家ひらやであるならば、床上しようじよう振動しんどう地面ぢめんのものゝ三割さんわりしなることが普通ふつうであるけれども、木造もくぞう二階建にかいだて階上かいじよう三倍程度さんばいていどなることが通常つうじようである。このとほりに器械觀測きかいかんそく結果けつか體驗たいけん結果けつかとは最初さいしよから一致いつちがたいものであるけれども、それを比較ひかくしてみることは無益むえきわざではない。上手じようずにやると自分じぶん家屋かおく耐震率たいしんりつともづくべきものゝ概念がいねんられるであらう。すなは二階建にかいだて二階座敷にかいざしき階下座敷かいかざしき五倍ごばいれるようならば、不安定ふあんてい構造こうぞう判斷はんだんしなければならないが、もし僅々きん/\二倍位にばいぐらゐにしかれないならば、むし堅牢けんろう建物たてもの見做みなしてよいであらう。

二、屋外おくがいへの避難ひなん


「耐震的構造」のキャプション付きの図
耐震的構造

 地震ぢしん出會であつてそれが非常ひじよう地震ぢしんであることを意識いしきしたものは、餘程よほど修養しゆうようんだひとでないかぎり、たとひ耐震家屋内たいしんかおくないにゐても、また屋外避難おくがいひなん不利益ふりえき場合ばあひでも、しかせんとつとめるであらう。この屋外おくがい避難ひなんすることの不利益ふりえき場合ばあひ次項じこう説明せつめいすることゝし、もし平家建ひらやだて家屋内かおくないあるひ二階建にかいだて三階建さんがいだてとう階下かいか居合ゐあはせた場合ばあひには屋外おくがいほうもつと安全あんぜんであることがある。しかしながらいづれの場合ばあひでもさうであるとはかぎらぬ。屋外おくがいせまくて、もし家屋かおく倒潰とうかいしたならばかへつてそのために壓伏あつぷくされるような危險きけんはなきか。これが第一だいゝち考慮こうりよすべきてんである。
 平家建ひらやだて小屋組こやぐみすなはけたはり屋根やねとの部分ぶぶん普通ふつう出來できてゐれば容易よういくづれるものではない。たとひ家屋かおく倒伏とうふくすることがあつても、小屋組こやぐみだけはもとのまゝのかたちをして地上ちじよう直接ちよくせつ屋根やねあらはすことは、大地震だいぢしん場合ばあひ普通ふつう現象げんしようである。かような場合ばあひ下敷したじきになつたものも、はりまたけたのようなおほきな横木よこぎたれないかぎ大抵たいてい安全あんぜんである。
 一方いつぽう屋外おくがい避難ひなんせんとする場合ばあひおいては、まだきらないうち家屋かおく倒潰とうかいし、しか入口いりぐちおほきな横木よこぎ壓伏あつぷくせられる危險きけんともなふことがある。まへべたとほり、初期微動しよきびどう繼續時間けいぞくじかんがいして七八秒しちはちびようはあるけれども、前記ぜんき但馬地震たじまぢしんおよ丹後地震たんごぢしんおいては、震原地しんげんち直上ちよくじようおい三秒位さんびようぐらゐしかなかつた。かゝる場合ばあひいへ倒伏前とうふくぜん屋外おくがい安全あんぜん場所迄ばしよまですことは中々なか/\容易よういわざではない。實際じつさい前記ぜんき大地震だいぢしんおいては機敏きびん動作どうさをなしてかへつて軒前のきさき壓死あつししたものがおほく、おくれながら小屋組こやぐみした安全あんぜんかれたものは屋根やねやぶつてたすかつたといふ。かような場合ばあひかへりみると、屋外おくがい避難ひなんしてなる場合ばあひは、わづか二三秒にさんびよう軒下のきしたはなれることが出來できるような位置いちにあるときにかぎるようである。もし偶然ぐうぜんかような位置いち居合ゐあはせたならば、機敏きびん飛出とびだすが最上策さいじようさくであること勿論もちろんである。
 みぎのような條件じようけん完全かんぜんそなはつてゐなくとも、大抵たいていひと屋外おくがい避難ひなんせんとあせるにちがひない。これはむし動物どうぶつ本能ほんのうであらう。まへなにかすめてとほるとききゆうまぶたぢるような行動こうどうあひてゐる。
 安政二年あんせいにねん十月二日じゆうがつふつか江戸大地震えどだいぢしんおいて、小石川こいしかは水戸屋敷みとやしきおい壓死あつしした藤田東湖先生ふぢたとうこせんせい最後さいごと、麹町かうじまち神田橋内かんだばしない姫路藩邸ひめぢはんていおい壓死あつしした石本李蹊いしもとりけいおう最後さいごまつたおなてつまれたものであつた。此地震このぢしん初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかん七八秒程しちはちびようほどあつたようにおもはれる。各先生かくせんせいとも地震ぢしん感得かんとくせられるやいなや、本能的ほんのうてきそとされたが、はつといてみると老母ろうぼ屋内おくないのこされてあつた。とつてかへしてたすさうとするうち主要動しゆようどうのために家屋かおく崩壞ほうかいはじめたので、東湖とうこ突差とつさ母堂ぼどう屋外おくがいはうした瞬間しゆんかん家屋かおくまつた先生せんせい壓伏あつぷくしてしまつたが、李蹊りけい母堂ぼどう運命うんめいともにしたのである。東湖先生とうこせんせい最後さいごのありさまはよくひとられてゐるが、石本李蹊いしもとりけいおうのはひとすくない。おう令息れいそく有名ゆうめい石本新六男いしもとしんろくだんがあり、新六男しんろくだん四男よなん地震學ぢしんがく有名ゆうめい巳四雄教授みしをきようじゆのあることは、李蹊りけいおうまたもつめいするにるといはれてもよいであらう。
 われ/\の崇敬すうけいする偉人いじんでも、大地震だいぢしんとなるとわれわすれてされるのであるから、二階建にかいだて三階建さんがいだてとう階下かいか平家建ひらやだて屋内おくないにゐたひとすのは、もつともな動作どうさかんがへなければなるまい。前記ぜんき但馬地震たじまぢしん丹後地震たんごぢしんごときは初期微動繼續時間しよきびどうけいぞくじかんもつとみじかかつた稀有けうれいであるので、むし例外れいがいとみてしかるべきものである。それゆゑ數秒間すうびようかん廣場ひろば[#ルビの「だ」はママ]られる見込みこみがあらば、もつと機敏きびんにさうするほう個人こじんとして最上さいじよう[#ルビの「さいじよう」は底本では「さいしよう」]さくたるに相違そういない。唯一たゞひとこゝ考慮こうりよすべきは用心ようじんかんする問題もんだいである。地震ぢしんともな火災かさい地震直後ぢしんちよくごおこるのが通常つうじようであるけれども、地震後ぢしんご一二時間いちにじかんのちおこることもある。避難ひなんさいわづか一擧手いつきよしゆ動作どうさによつてされるようならば、さういふ處置しよちのぞましきことであるが、もし其餘裕そのよゆうなくして飛出とびだしたならば、あとになつてからでもけす[#ルビの「けす」は底本では「け」]ことに注意ちゆういすべきであつて、とく今迄いままでゐたいへつぶれたときにさうである。これ著者ちよしやがこのごろ[#「このごろの」はママ]本文ほんもんおいて、『たゞもと用心ようじんわすれざること』とくはへた所以ゆえんである。

三、階下かいか危險きけん


「二階建の潰れ方(豐岡)」のキャプション付きの図
二階建の潰れ方(豐岡)

 わがくにける三階建さんがいだて勿論もちろん二階建にかいだて大抵たいてい各階かくかいはしらとこ部分ぶぶんおいがれてある。すなはとほはしらもちひないで大神樂造だいかぐらづくりにしてある。かういふ構造こうぞうおいては、おほきな地震動ぢしんどうたいして眞先まつさきいたむのは最下層さいかそうである。さら震動しんどうつよいと階下かいか部分ぶぶんつぶれ、上層じようそうおほくは直立ちよくりつ位置いちまゝ取殘とりのこされる。すなは二階建にかいだて平家造ひらやづくりのように三階建さんがいだて二階建にかいだてのようなものになる。大正十四年たいしようじゆうよねん但馬地震たじまぢしんおいて、豐岡町とよをかまち被害状況ひがいじようきよう概報がいほうに、停車場ていしやじよう前通まへどほ四五町しごちようあひだ町家ちようか將棊倒しようぎだふしにつぶれたとあつたが、震災地しんさいちはじめて見學けんがくした一學生いちがくせい其實状そのじつきよう[#ルビの「じつきよう」はママ]て、みぎ概報がいほうあやまりだとおもつた。さうして著者ちよしやむかつていふには、將棊倒しようぎだふしどころか各家屋かくかおく直立ちよくりつしてゐるではありませんかと。著者ちよしやはこのときかれ反問はんもんして、きみはこの町家ちようか平家建ひらやだておもつてゐるかといつてみたが、該學生がいがくせいつぶかた眞相しんそう了解りようかいしたのは、其状況そのじようきよう暫時ざんじ熟視じゆくししたのちのことであつた。
 大地震おほぢしん場合ばあひおいて、二階建にかいだてあるひ三階建さんがいだてとう最下層さいかそうもつと危險きけんであることは、さら詳説しようせつようしないほどによくられてゐる。それゆゑ二階にかいあるひ三階さんがい居合ゐあはせたひとが、階下かいかとほることの危險きけんおかしてまで屋外おくがいさうとする不見識ふけんしき行動こうどう排斥はいせきすべきである。むしさら上層じようそうのぼるか、あるひ屋上おくじよう物干場ものほしば避難ひなんすることをすゝめるのであるが、實際じつさいかういふ賢明けんめい處置しよちられたれいしば/\みゝにするところである。
「三階建の潰れ方(城崎)」のキャプション付きの図
三階建の潰れ方(城崎)

 著者ちよしや明治二十七年めいじにじゆうしちねん六月二十日ろくがつはつか東京地震とうきやうぢしん本郷ほんごう湯島ゆしまおいて、木造もくぞう二階建にかいだて階上かいじよう經驗けいけんしたことがある。此時このとき帝國大學地震學教室ていこくだいがくぢしんがくきようしつける地動ちどう二寸にすん七分しちぶおほいさに觀測かんそくせられたから、おな臺地だいち湯島ゆしまおいても大差たいさなかつたはずとおもふ。したがつて階上かいじよう動搖どうよう六七寸ろくしちすんにもたつしたであらう。當時とうじ著者ちよしや大學だいがくける卒業試驗そつぎようしけん準備中じゆんびちゆうでつて[#「でつて」はママ]つくゑむかつて靜座せいざしてゐたが、地震ぢしん初期微動しよきびどうおいすで土壁どへき龜裂きれつしきれ/″\になつてちてるので、みづかしつ中央部ちゆうおうぶまでうごいたけれども、それ以上いじよう歩行ほこうすることは困難こんなんであつて、たとひ階下かいかかうなどといふ間違まちがつたかんがへをおこしても、それは實行不可能じつこうふかのうであつた。
 大正十二年たいしようじゆうにねん九月一日くがついちにち關東大地震かんとうだいぢしんおいて、著者ちよしやのよくつてゐる某貴族ぼうきぞくは、夫妻ふさいそろつて潰家かいか下敷したじきとなられた。當時とうじ二人ふたりとも木造家屋もくぞうかおく二階にかいにをられたので、下敷したじきになりながら小屋組こやぐみ空所くうしよはさまり、無難ぶなんすくされたが、階下かいかにゐた家扶かふ主人夫婦しゆじんふうふうへあんじながらからうじて、梯子段はしごだんのぼりつめたときいへつぶれてしまつた。もしこの家扶かふ下座敷したざしきにゐたまゝであつたならば無論むろん壓死あつししたであらうが、主人しゆじんおもひの徳行とくこうのために主人夫妻しゆじんふうふ[#ルビの「ふうふ」はママ]とも無難ぶなんすくされたのであつた。
「東京會館の破壞」のキャプション付きの図
東京會館の破壞

 近頃ちかごろわがくににはアメリカふう高層建築物こうそうけんちくぶつ段々だん/\増加ぞうかしつゝある。地震ぢしんたいして其安全そのあんぜんさをあやぶんでゐる識者しきしやおほことであるが、これは其局そのきよくあたるものゝ平日へいじつ注意ちゆういすべきことであつて、小國民しようこくみん關與かんよすべきことでもあるまい。しかしながらそのようなたか殿堂でんどう近寄ちかよることや堂上どうじようのぼることは年齡ねんれい無關係むかんけいなことであるから、わが讀者どくしやたま/\かような場所ばしよ居合ゐあはせたとき大地震だいぢしん出會であふようなことがないともかぎらぬ。かういふ種類しゆるい建物たてもの設計せつけい施工しこうによつて地震ぢしんいためられる模樣もようかはるけれども、おほくの場合ばあひ地上階ちじようかい比較的ひかくてき丈夫じようぶ出來できてゐるため被害ひがいすくない、このてん木造もくぞう場合ばあひ比較ひかくして反對はんたい結果けつかしめすのである。もし階數かいすうなゝつ、たかさが百尺ひやくしやく程度ていどのものならば、二階にかい三階さんがいあるひ四階建しかいだていたみがもつといちじるしいようである。大正十一年たいしようじゆういちねん四月二十六日しがつにじゆうろくにち浦賀海峽地震うらがかいきようぢしんいためられたまるうちびるぢんぐ大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしんによつてこしられた東京會館とうきようかいかんなどがその適例てきれいであらう。いまかような高層建物こうそうたてもの上層じようそう居合ゐあはせた場合ばあひ、もし地震ぢしん出會であつて屋外おくがい避難ひなんせんとこゝろみたなら、それはおそらくは地震ぢしんがすんでしまつたころ到達とうたつせられるくらゐのことであらう。それゆゑにかような場合ばあひおいては、屋外おくがいることを斷念だんねん屋内おくないおい比較的ひかくてき安全あんぜん場所ばしよもとめることがむし得策とくさくであらう。

四、屋内おくないにての避難ひなん


「屋根を支へる家具」のキャプション付きの図
屋根を支へる家具

 大地震だいぢしん出會であつて屋外おくがいへの安全あんぜん避難ひなんはない場合ばあひは、家屋かおくつぶれること、かべ墜落ついらく煙突えんとつ崩壞ほうかいなどを覺悟かくごし、また木造家屋もくぞうかおくならば下敷したじきになつた場合ばあひ考慮こうりよして、崩壞ほうかいまた墜落物ついらくぶつ打撃だげきからのがるような場所ばしよ一時いちじ避難ひなんするがよい。普通ふつう住宅じゆうたくならば椅子いす衣類いるい充滿じゆうまんした箪笥たんす火鉢ひばち碁盤ごばん將棊盤しようぎばんなど、すべ堅牢けんろう家具かぐならばせるにてきしてゐる。これ適例てきれい大地震だいぢしん度毎たびごとにいくらも見出みいだされる。
 教場内きようじようないおいてはつくゑしたもつと安全あんぜんであるべきことは説明せつめいようしないであらう。下敷したじきになつた場合ばあひおいて、致命傷ちめいしようあたへるものははりけたとである。それさへけることが出來できたなら大抵たいてい安全あんぜんであるといつてよい。さうして學校がつこう教場内きようじようない竝列へいれつした多數たすうつくゑあるひ銃器臺じゆうきだいなどは、其連合そのれんごうちからもつて、此桁このけたはりまた小屋組こやぐみ全部ぜんぶさゝへることは容易よういである。
「田根小學校の教室倒潰」のキャプション付きの図
田根小學校の教室倒潰

 明治四十二年めいじしじゆうにねん八月十四日はちがつじゆうよつか姉川大地震あねがはだいぢしんおい倒潰とうかいた、田根小學校たねしようがつこう教場きようじようである。讀者どくしや墜落ついらくした小屋組こやぐみが、其連合そのれんごうちからもつていかに完全かんぜんさゝへられたかをられるであらう。この地震ぢしんときは、丁度ちようど夏季休暇中かききゆうかちゆうであつたため、一人ひとり生徒せいともゐなかつたのであるが、かり授業中じゆぎようちゆうであつたとして、もしそれに善處ぜんしよせんとするならば、「つくゑしたへしやがめ」の號令一下ごうれいいつか十分じゆうぶんであつたらう。さうしていへつぶかたしめされたとほりであつたならば、生徒中せいとちゆう一人ひとり負傷者ふしようしや出來できず、「しやがんだまゝそとよ」との第二號令だいにごうれいで、全員ぜんいん秩序ちつじよみださず、平日へいじつ教場きようじよう出入しゆつにゆうするのとあまちがはない態度たいど校庭こうていあらはることが出來できたであらう。
 木造家屋もくぞうかおくたいしては、處置しよち比較的ひかくてき容易よういであるが、おも洋風建築物ようふうけんちくぶつであると、さう簡單かんたんにはゆかぬ。第一だいゝち墜落物ついらくぶつ張壁はりかべ煖爐用煙突だんろようえんとつなど、いづれも重量じゆうりようだいなるものであるから、つくゑ椅子いすではさゝへることが困難こんなんである。しかししつ比較的ひかくてきひろつくられるのが通常つうじようであるから、みぎのようなものゝちてさうな場所ばしよからとほざかることも出來できるであらう。ひろしつならば、其中央部そのちゆうおうぶ、もしくは煙突えんとつてる反對はんたいがはなど、やゝそれにちか條件じようけんであらう。室内しつないにて前記ぜんきごと條件じようけん場所ばしよもなく、また廊下ろうか居合ゐあはせて、兩側りようがは張壁はりかべからの墜落物ついらくぶつはさちせられさうな場合ばあひおいては、しつ出入口でいりぐち枠構わくがまへが、夕立ゆふだち出會であつたときの樹陰位こかげぐらゐやくつとめるであらう。

五、屋外おくがいける避難ひなん


 地震ぢしん當初とうしよから屋外おくがいにゐたものも、周圍しゆうい状況じようきようによつてはかならずしも安全あんぜんであるとはいはれない。また容易ようい屋内おくないからすことが出來できても、立退たちのさきほうかへつて屋内おくないよりも危險きけんであるかもれない。石垣いしがき煉瓦塀れんがべい煙突えんとつなどの倒潰物とうかいぶつ致命傷ちめいしようあたへることもあるからである。また家屋かおく接近せつきんしてゐては、屋根瓦やねがはらかべ崩壞物ほうかいぶつたれることもあるであらう。
 石燈籠いしどうろうあま強大きようだいならざる地震ぢしん場合ばあひにもたふやすく、さうしてちかくにゐたものを壓死あつしせしめがちである。とく兒童じどう顛倒てんとうした石燈籠いしどうろうのために生命せつめい[#ルビの「せつめい」はママ]うしなつたれいすこぶおほい。これは兒童じどう心理作用しんりさようもとづくものゝようであるから、とく父兄ふけい教師きようし注意ちゆういようすることであらう。元來がんらい神社じんじや寺院じいんには石燈籠いしどうろうおほい。さうして其處そこおほ兒童じどうあつまところである。そこでたま/\地震ぢしんでもおこると兒童じどうまどひ、そこらにある立木たちきあるひ石燈籠いしどうろうにしがみつく。これはおそらくかういふ場合ばあひ保護者ほごしやひざにしがみつく習慣しゆうかんからみちびかれるものであらう。それゆゑあまおほきくない地震ぢしんたとへばやうや器物きぶつ顛倒てんとう土壁つちかべそん粗造そぞう煉瓦れんが煙突えんとつ損傷そんしようするにとゞまる程度ていどおいても、石燈籠いしどうろう顛倒てんとうによつて兒童じどう壓死者あつししやすことがめづらしくない。此事このこと教師きようし父兄ふけい注意ちゆういうながすとともにわが小國民しようこくみんに、むかつても直接ちよくせついましめてきたいことである。

六、津浪つなみ山津浪やまつなみとの注意ちゆうい


 わがくに大地震おほぢしん激震區域げきしんくいきひろいとせまいとによつて、これを非局部性ひきよくぶせいのものと、局部性きよくぶせいのものとに區別くべつすること出來できる。非局部性ひきよくぶせい大地震だいぢしんおほ太平洋側たいへいようがは海底かいてい[#ルビの「し」はママ]り、地震ぢしん規模きぼ廣大こうだいなると陸地りくち震原しんげんからとほいために、はたまた海底地震かいていぢしん性質せいしつとして震動しんどう大搖おほゆれであるが、しかしながら緩漫かんまんである。それと同時どうじ津浪つなみともなふことが其特色そのとくしよくである。これにはんして局部性きよくぶせい大地震おほぢしん規模きぼ狹小きようしようであるが、おほ陸地りくちおこるがために震動しんどう性質せいしつ急激きゆうげきである。ちか其例そのれいをとるならば、大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしん非局部性ひきよくぶせいであつて、大正十四年たいしようじゆうよねん但馬地震たじまぢしんおよ昭和二年しようわにねん丹後地震たんごぢしん局部性きよくぶせいであつた。
 非局部性ひきよくぶせい大地震だいぢしんおこことのある海洋底かいようていせつした海岸地方かいがんちほうは、大搖おほゆれの地震ぢしん見舞みまはれた場合ばあひ津浪つなみについての注意ちゆういようする。たゞ津浪つなみともなほど地震ぢしん最大級さいだいきゆうのものであるから、倒潰家屋とうかいかおくしようずる區域くえき[#ルビの「くえき」はママ]數箇すうこくにけんわたることもあり、あるひ震原距離しんげんりより[#ルビの「りより」はママ]陸地りくちからあまとほいために、たん廣區域こうくいきわたつて大搖おほゆれのみをかんじ、地震ぢしん直接ちよくせつ損害そんがいしようじないこともある。前者ぜんしやれい大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしんあるひ安政元年あんせいがんねん十一月四日じゆういちがつよつかおよ同五日どういつか東海道とうかいどう南海道大地震なんかいどうだいぢしんとうであつて、後者こうしやれいとしては明治二十九年めいじにじゆうくねん六月十五日ろくがつじゆうごにち三陸大津浪さんりくおほつなみげることが出來できる。
 かくしてわがくに大平洋側たいへいようがは[#「大平洋側の」はママ]沿岸えんがん非局部性ひきよくぶせい大地震だいぢしんおこ海洋底かいようていせつしてゐるわけであるが、しかしながら其海岸線そのかいがんせん全部ぜんぶ津浪つなみ襲來しゆうらい暴露ばくろされてゐるわけではない。それについては津浪襲來つなみしゆうらい常習地じようしゆうちといふものがある。この常習地じようしゆうちみぎしるしたような地震ぢしん見舞みまはれた場合ばあひ特別とくべつ警戒けいかいようするけれども、其他そのた地方ちほうおいては左程さほど注意ちゆうい必要ひつようとしないのである。
 みぎはなしすゝめるについて必要ひつようなのは津浪つなみ概念がいねんである。津浪つなみ海嘯かいしようなる文字もんじがよくあててあるがこれは適當てきとうでない。海嘯かいしよう潮汐ちようせき干滿かんまん非常ひじようおほきなうみむかつて、河口かこう三角さんかくなりにおほきくひらいてゐるところおこ現象げんしようである。支那しな淅江省せつこうしよう[#「淅江省の」はママ]錢塘江せんとうこう海嘯かいしようについてもつと有名ゆうめいである。つまり河流かりゆう上汐あげしほとが河口かこう暫時ざんじたゝかつて、つひ上汐あげしほかちめ、海水かいすいかべきづきながらそれが上流じようりゆうむかつていきほひよく進行しんこうするのである。津浪つなみとはなみすなはみなとあらはれる大津浪おほつなみであつて、暴風ぼうふうなど氣象上きしようじよう變調へんちようからおこることもあるが、もつとおそろしいのは地震津浪ぢしんつなみである。元來がんらいなみといふから讀者どくしやすぐかぜおこされるなみ想像そう/″\せられるかもれないが、むしうしほ差引さしひきといふほう實際じつさいちかい。われ/\が通常つうじようみるところのなみは、其山そのやまやまとの間隔かんかくすなは波長はちよう幾米いくめーとるあるひ十幾米じゆういくめーとるといふ程度ていどにすぎないが、津浪つなみ波長はちよう幾粁いくきろめーとる幾十粁いくじゆうきろめーとるあるひ幾百粁いくひやくきろめーとるといふ程度ていどのものである。それゆゑ海上かいじよううかんでゐる船舶せんぱくには其存在そのそんざいまた進行しんこうわかりかねる場合ばあひおほい。たゞしそれが海岸かいがん接近せつきんすると、比較的ひかくてききゆううしほ干滿かんまんとなつてあらはれてる。すなは普通ふつう潮汐ちようせき一晝夜いつちゆうや二回にかい干滿かんまんをなすだけであつて、したがつて其週期そのしゆうきおよ十二時間じゆうにじかんであるけれども、津浪つなみのためにしようずる干滿かんまん幾分いくふんあるひ幾十分いくじつぷん週期しゆうきもつ繰返くりかへされるのである。
 かういふ長波長ちようはちよう津浪つなみ海底かいてい大地震だいぢしんによつていかにしておこされるかといふに、それはおほ海底かいてい地形變動ちけいへんどうもとづくのである。われ/\はちか關東大地震かんとうだいぢしんおいて、相模灣さがみわん海底かいていひろ十里四方じゆうりしほう程度ていどおいて、幾米いくめーとる上下變動じようげへんどうのあつたことをまなんだ。さういふ海底かいてい地形變動ちけいへんどうすぐ海水面かいすいめん變動へんどう惹起ひきおこすから、そこに長波長ちようはちよう津浪つなみ出來できるわけである。
「熱海における津浪の高さ」のキャプション付きの図
熱海における津浪の高さ

「三陸大津浪高さの分布(數字は高さを尺にて表したもの)」のキャプション付きの図
三陸大津浪高さの分布(數字は高さを尺にて表したもの)

 かういふ津浪つなみ沖合おきあひおいてはがいして數尺すうしやくたかさしかたないから、もしそれがそのまゝのたかさをもつ海岸かいがん押寄おしよせたならば、大抵たいてい無難ぶなんなるべきはずである。しかし、なみ海深かいしん次第しだいあさくなるところ進入しんにゆうすると、それにつれてたかさをし、また漏斗じようごのようにおく次第しだいせまくなるところ進入しんにゆうしてもなみたかさがしてくる。かういふ關係かんけいかさなるような場所ばしよおいては、津浪つなみたかさがいちじるしく増大ぞうだいするわけであるが、それのみならず、なみあさところればつひ破浪はろうするにいたること、丁度ちようど普通ふつうちひさななみについてはまおい經驗けいけんするとほりであるから、此状態このじようたいになつてからは、なみといふよりもむしながれといふべきである。すなは海水かいすい段々だん/\せまくなる港灣こうわんながむことになり、したがつて沖合おきあひではたかわづか一二尺いちにしやくにすぎなかつた津浪つなみも、港灣こうわんおくおいては數十尺すうじつしやくたかさとなるのである。大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしんおい熱海港あたみこう兩翼りようよくすなはきた衞戍病院分室えいじゆびよういんぶんしつのあるへんみなみ魚見崎うをみざきおいてはなみたか四五尺しごしやくしかなかつたが、船着場ふなつきばでは十五尺じゆうごしやくみなとおくでは四十尺しじゆつしやくたつしておほくの家屋かおくさら人命じんめいうばつた。たゞみなとおくではかような大事變だいじへんおこしてゐるにかゝはらず數十町すうじつちよう沖合おきあひではまつたくそれに無關係むかんけいであつて當時とうじそこを航行中こう/\ちゆうであつた石油發動機船せきゆはつどうきせん海岸かいがんけるかゝる慘事さんじ想像そう/″\なかつたのも無理むりのないことである。明治二十九年めいじにじゆうくねん三陸大津浪さんりくおほつなみは、其原因そのげんいん數十里すうじゆうり沖合おきあひける海底かいてい地形變動ちけいへんどうにあつたのであるが、津浪つなみ常習地じようしゆうちたる漏斗状じようごがた[#ルビの「じようごがた」はママ]港灣こうわんおくおいてはしめされたとほり、あるひ八十尺はちじつしやくあるひ七十五尺しちじゆうごしやくといふようなたかさの洪水こうずいとなり、合計ごうけい二萬七千人にまんしちせんにん人命じんめいうばつたのに、港灣こうわん兩翼端りようよくたんではわづか數尺すうしやくにすぎないほどのものであつたし、其夜そのよ沖合おきあひ漁獵ぎよりようつてゐた村人むらびとは、あんな悲慘事ひさんじ自分じぶんむらおこつたことを夢想むそうすることも出來できず、翌朝よくあさ跡方あとかたもなくうしなはれたむらかへつて茫然自失ぼうせんじしつ[#ルビの「ぼうせん」はママ]したといふ。
「伊東の津浪」のキャプション付きの図
伊東の津浪

 みぎとほり、津浪つなみ事實上じじつじようおいみなとなみである。われ/\は學術的がくじゆつてきにもこの名前なまへもちひてゐる。じつ津浪つなみなるは、最早もはや國際語こくさいごとなつたかんがある。
 以上いじよう説明せつめいによつて、津浪襲來つなみしゆうらい常習地じようしゆうち概念がいねんられたことゝおもふ。しば/\海底かいてい大地震だいぢしんおこ場所ばしよせつし、そこにむかつておほきく漏斗形じようごがたひらいた地形ちけい港灣こうわんがそれにあたるわけであるが、これにいで多少たしよう注意ちゆういはらふべきは、遠淺とほあさ海岸かいがんである。たとひ海岸線かいがんせん直線ちよくせんちかくとも、遠淺とほあさだけの關係かんけいで、なみたかさが數倍すうばい程度ていどすこともあるから、もし沖合おきあひけるたかさが數尺すうしやくのものであつたならば、前記ぜんきごと地形ちけい沿岸えんがんおい多少たしよう被害ひがいることもある。
 津浪つなみいためられた二階建にかいだて三階建さんがいだて木造家屋もくぞうかおくは、大地震だいぢしんいためられた場合ばあひごとく、階下かいかから順番じゆんばんつぶれてく。また津浪つなみさらはれた場合ばあひおいて、其港灣そのこうわんおく接近せつきんしたところではうしほ差引さしひききゆうであるから、游泳ゆうえいおもふようにかないけれども、港灣こうわん兩翼端りようよくたんちかくにてはかようなことがないから、平常通へいじようどほりにおよられる。このまへ關東大地震かんとうだいぢしんさいし、熱海あたみ津浪つなみさらはれたものゝうち伊豆山いづさんほうむかつておよいだものはたすかつたといふ。
「根府川の山津浪」のキャプション付きの図
根府川の山津浪

 地震ぢしん場合ばあひ崖下がいか危險きけんなことはいふまでもない。横須賀停車場よこすかていしやばまへつたものは、其處そこ崖下がけした石地藏いしじぞうてるをづくであらう。これは關東大地震かんとうだいぢしんさい其處そこ生埋いきうづめにされた五十二名ごじゆうにめい不幸ふこうひと冥福めいふくいのるためにてられたものである。かような危險きけん直接ちよくせつ崖下がいかばかりでなく、崩壞ほうかいせる土砂どさながくだ地域ちいき全部ぜんぶがさうなのである。崩壞ほうかいした土砂どさ分量ぶんりようおほきくて、百米立方ひやくめーとるりつぽうすなは百萬ひやくまん立方米りつぽうめーとる程度ていどにもなれば、斜面しやめん沿うてながくだるありさまは、溪水たにみづ奔流ほんりゆうする以上いじようはやさをもつくだるのである。あだか陸上りくじようける洪水こうずいごとかんていするので山津浪やまつなみばれるようになつたものであらう。
 關東大地震かんとうだいぢしん場合ばあひおいては、各所かくしよ山津浪やまつなみおこつたが、其中そのうち根府川ねぶがは一村いつそんさらつたものがもつと有名ゆうめいであつた。この山津浪やまつなみみなもと根府川ねぶがは溪流けいりゆう西にしさかのぼること六粁ろくきろめーとる海面かいめんからのたかおよ五百米ごひやくめーとるところにあつたが、實際じつさい數箇所すうかしよからの崩壞物ほうかいぶつ一緒いつしよ集合しゆうごうしたものらしく、其分量そのぶんりよう百五十米立方ひやくごじゆうめーとるりつぽう推算すいさんせられた、これが勾配こうばい九分くぶんいち斜面しやめん沿ひ、五分時間位ごふんじかんぐらゐあひだ一里半程いちりはんほど距離きよりくだつたものらしい。さうして根府川ねぶがは一村落いちそんらく崖上がいじよう數戸すうこのこして、五百ごひやく村民そんみんとも其下そのした埋沒まいぼつされてしまつた。此際このさい鐵道橋梁てつどうきようりようくだ汽車きしやともさらはれてしまつたが、これは土砂どさうづまつたまゝ海底かいていまでつてかれたものであることがわかつた。其後そのご山津浪やまつなみのこした土砂どしや溪流けいりゆうのために次第しだいさらはれて、ふたゝ以前いぜん村落地そんらくち暴露ばくろしたけれども、家屋かおく其處そこからあらはれてなかつたので、山津浪やまつなみ一村いつそん埋沒まいぼつしたといふよりも、これをさらつてつたといふほう適當てきとうなことが後日こうじついたつて氣附きづかれた。
 山津浪やまつなみはかの丹後地震たんごぢしん場合ばあひにもおこつた。それはおも海岸かいがん砂丘さきゆうおこつたものであつて根府川ねぶがは山津浪やまつなみとは比較ひかくにならなかつたけれども、雪崩なだくだつた距離きより五六町ごろくちようおよび、山林さんりん田園でんえん道路どうろなりな損害そんがん[#ルビの「そんがん」はママ]あたへた。此地方このちほう砂丘さきゆう地震ぢしんならずとも崩壞ほうかいすることがあるのだから、地震ぢしんさいして注意ちゆういすべきは當然とうぜんであるけれども、平日へいじつおいてもをつけ、とく宅地たくちとして選定せんていするときに考慮こうりよしなければならぬ弱點じやくてんつてゐるのである。

七、災害防止さいがいぼうし


 むかしひと地震ぢしんかへし、あるひもどしをおそれたものである。此言葉このことば俗語ぞくごであるため誤解ごかい惹起ひきおこし、いまひとはこれを餘震よしんめてゐるが、それはまつたあやまりである。むかしひと所謂いはゆるもどしは、われ/\が今日こんにちとなへてゐる地震動ぢしんどう主要部しゆようぶである。藤田東湖先生ふぢたとうこせんせい最後さいごしるすならば、かれ最初さいしよ地震ぢしんによつて屋外おくがい飛出とびだし、もどしのために壓死あつししたのである。われ/\は子供こども時分じぶんにはをしへられた。最初さいしよ地震ぢしんかんじたなら、もどしのないうち戸外こがい飛出とびだせなどといましめられたものである。外國がいこく大地震だいぢしんではもどしといはずして、第二だいに地震ぢしんとなへた場合ばあひがある。つまり初期微動部しよきびどうぶ主要部しゆようぶ合併がつぺいして一箇いつこ地震ぢしんないで、これを一々いち/\べつなものと見做みなしたのである。かくして西暦せいれき紀元きげん千七百五十五年せんしちひやくごじゆうごねんのリスボン地震ぢしん記事きじがよく了解りようかいせられる。
 もどしと[#「 もどしと」は底本では「もどしと」]餘震よしんとの混同こんどうたん言葉ことばうへあやまりとして、其儘そのまゝこれを片附かたづけるわけにはゆかぬ。わがくにおいては餘震よしん恐怖きようふするねんとくつよいが、それはみぎ言葉上ことばじようあやまりによりても培養ばいようせられてゐるのである。
 むかしひと言葉ことばりていふならば、大地震だいぢしんいへつぶれるのは、みなもどしにるのである。もしこのもどしを餘震よしんだとかいしたならば餘震よしんもつとおそろしいものでなければならぬ。そこに理論上りろんじようまた經驗上けいけんじようまつたおそれるにりない餘震よしんを、あやまつて恐怖きようふするようにもなつたのである。
 餘震よしん勢力せいりよくあるひ地震動ぢしんどうとしての破壞力はかいりよくは、最初さいしよ本地震ほんぢしん比較ひかくして微小びしようなものでなければならぬ。おほくの實例じつれいちようするも其最大そのさいだいなる場合ばあひでも十分じゆうぶんいち以下いかである。このこと最後さいごこうおい再説さいせつすることだからこゝには説明せつめいりやくするが、とにかく餘震よしんおそれるにりない。たゞおそるべきは最初さいしよ大地震だいぢしん主要動しゆようどうである。しかしながら、どんな地震ぢしんでも其最そのもつとおそるべき主要動しゆようどうは、最初さいしよ一分時間いつぷんじかんおいをさまつてしまふのである。此一分間このいつぷんかんといつたのは、もつと長引ながび場合ばあひ顧慮こうりよ[#ルビの「こうりよ」はママ]してのことであつて、大抵たいてい場合ばあひおいては二十秒間位にじゆうびようかんぐらゐ危險きけん震動しんどうをはりをげるものである。すなは明治二十七年めいじにじゆうしちねん六月二十日ろくがつはつか東京地震とうきようぢしん最初さいしよから十五秒間じゆうごびようかんいちじるしい震動しんどうをはりをげ、大正十四年たいしようじゆうよねん但馬地震たじまぢしん二十秒間にじゆうびようかん全部ぜんぶほとんどをさまり、昭和二年しようわにねん丹後地震たんごぢしん大抵たいてい十數秒間じゆうすうびようかん主要震動しゆようしんどうがすんでしまつた。たゞ大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしん主要震動しゆようしんどうながつゞき、最初さいしよから二三十秒間にさんじゆうびようかんをさまつたとはいへない。此事このこと該地震がいぢしん經驗けいけんした地方ちほうにより、多少たしよう相違そういがあるべきであるが、比較的ひかくてきながつゞいたとおもはれる東京とうきようにての觀測かんそく結果けつかげるならば、震動しんどうもつとつよかつたのは最初さいしよから[#「最初さいしよから」は底本では「最切さいしよから」]十六七秒目じゆうろくしちびようめであつて、それからあと三十秒間位さんじゆうびようかんぐらゐは、震動しんどうかへつておほきくなつたくらゐである。けれども往復震動おうふくしんどうきゆう緩慢かんまんとなつたゝめ、地動ちどうつよさは次第しだいおとろへてしまつた。鎌倉かまくら小田原邊をだはらへんでも、もつとはげしかつたのは最初さいしよ一分間以内いつぷんかんいないであつたといへる。
 みぎのような次第しだいであるから、大地震だいぢしん出會であつたなら、最初さいしよ二三十秒間にさんじゆうびようかん場合ばあひによつては一分間位いつぷんかんぐらゐは、その位置環境いちかんきようによつては畏縮いしゆくせざるをないこともあらう。勿論もちろん崩壞ほうかいおそれなき家屋かおくうちにゐるとか、あるひ廣場ひろばなど安全あんぜん場所ばしよ居合ゐあはせたなら畏縮いしゆくするほどのこともないであらう。また餘震よしんおそれるにらないこともほゞまへべたとほりである。かくして最初さいしよ一分間いつぷんかんしのたならば、最早もはや不安ふあんおもふべき何物なにもののこさないはずであるが、たゞこれに今一いまひと解説かいせつして必要ひつようのあるものは、地割ぢわれにたいしてあやまれる恐怖心きようふしんである。
 大地震だいぢしんのときは大地だいちけてはつぼみ、ひらいてはぢるものだとは、むかしからかたつたへられてもつと恐怖きようふされてゐるひとつの假想現象かそうげんしようである。もしこのはさまると、人畜じんちく牛馬ぎゆうば煎餅せんべいのようにつぶされるといはれ、避難ひなん場所ばしよとしては竹藪たけやぶえらべとか、戸板といたいてこれをふせげなどといましめられてゐる。これはわがくににてはいかなる寒村かんそん僻地へきちにも普及ふきゆうしてゐる注意事項ちゆういじこうであるが、かような地割ぢわれの開閉かいへいかんする恐怖きようふ世界せかい地震地方ぢしんちほう共通きようつうなものだといつてよい、しかるにわがくに地震史ぢしんしにはみぎのような現象げんしようおこつたことの記事きじ皆無かいむであるのみならず、明治以後めいじいご大地震調査だいぢしんちようさおいてもいまだかつて氣附きづかれたことがない。もつと道路どうろあるひ堤防ていぼうさがりにつて地割ぢわれをおこすこともあるが、それはたんひらいたまゝであつて、開閉かいへい繰返くりかへすものではない。また構造物こうぞうぶつ地震動ぢしんどうつてしようじ、それが振動繼續中しんどうけいぞくちゆう開閉かいへい繰返くりかへすこともあるが、問題もんだい大地だいち關係かんけいしたものであつて、構造物こうぞうぶつおこ現象げんしようすのではない。とにかく人畜じんちくまれる程度ていどおいて、大地だいち開閉かいへいするといふことは、わがくにおいてはけつしておこない現象げんしようてよい。
 日本につぽんおいけつしておこらない現象げんしようが、なぜに津々浦々つゝうら/\までかたつたへられ、恐怖きようふせられてゐるのであらうか。著者ちよしやはじ此話このはなし南洋傳來なんようでんらいのものではあるまいか、とうたがつてみたこともあるが、近頃ちかごろ研究けんきゆう結果けつか、さうでないようにおもはれてたのである。
 世界せかい大地震記録だいぢしんきろく調しらべてみると、かういふおそろしい現象げんしよう三所みところ見出みいだされる。これを年代ねんだいじゆんしるしてみると、第一だいいち西暦せいれき千六百九十二年せんろつぴやくくじゆうにねん六月七日ろくがつなぬか西にしインド諸島しよとううち、ジャマイカとうおこつた地震ぢしんであつて、このとき首府しゆふロアイヤルこうおいては大地だいち數百條すうひやくじよう龜裂きれつ出來でき、それがぱく/\ひらいたりぢたりするので、たま/\これにおちいつた人畜じんちくたちまえなくなり、ふたゝびその姿すがたあらはすことは出來できなかつた。あとしてみると、いづれもいたのようにつぶされてゐたといふ。此時このとき市街地しがいち大部だいぶ沈下ちんかしてうみとなつたといふこともしるしてあるから、前記現象ぜんきげんしようおこつた場所ばしよあたらしい地盤ぢばんたりしに相違そういなかるべく、埋立地うめたてちであつたかもれない。また此時このとき死人しにん首府しゆふ總人口そうじんこう三分さんぶんめたこともしるされてあるから、地震ぢしん餘程よほど激烈げきれつであつたことも想像そう/″\される。
 西暦せいれき千七百五十五年せんしちひやくごじゆうごねん十一月一日じゆういちがついちにちのリスボンの大地震だいぢしん規模きぼすこぶ廣大こうだいなものであつて、感震區域かんしんくいき長徑ちようけい五百里ごひやくりわたり、地動ぢどう餘波よはによつて、スコットランド、スカンヂナビヤへんける湖水こすい氾濫はんらん惹起ひきおこしたものである。此時このときリスボンには津浪つなみ襲來しゆうらいし、こゝだけの死人しにんでも六萬人ろくまんにんのぼつた。震原しんげん大西洋底たいせいようていにあつたものであらう。津浪つなみきたアメリカの東海岸ひがしかいがんおいても氣附きづかれた。
 此地震このぢしん場合ばあひおいて、大地だいち開閉かいへいおこしたところは、リスボンの對岸たいがん、アフリカのモロッコこく首府しゆふモロッコから三里さんりほどはなれた一部落いちぶらくであつて、そこにはベスンバ種族しゆぞくばれる土民どみんまつてゐた。このとき大地だいち開閉かいへいによつて土民どみん勿論もちろん彼等かれらつてゐた畜類ちくるい牛馬ぎゆうば駱駝らくだとういたるまでこと/″\くそれにまれ、八千はつせん乃至ないし一萬いちまん人口じんこうゆうしてをつたこの部落ぶらくそのために跡方あとかたもなくうしなはれたといふ。此地震史上このぢしんしじよう大事件だいじけん舞臺ぶたい未開みかい土地とちであるだけに、記事きじ確信かくしんくわけにもかないが、これをせた書物しよもつ地震直後ぢしんちよくご出版しゆつぱんされた『千七百五十五年せんしちひやくごじゆうごねん十一月一日じゆういちがついちにちのリスボン大地震だいぢしん』とだいするもので、歐洲おうしゆうける當時とうじ知名ちめい科學者かがくしや十名じゆうめい論文ろんぶんあつめたものである。
 大地開閉だいちかいへい記事きじせた第三だいさん地震ぢしん西暦せいれき千七百八十三年せんしちひやくはちじゆうさんねんイタリーこくカラブリヤにおこつたものであつて、地震ぢしん死者ししや四萬しまん、それにつゞいておこつた疫病えきびよう死者ししや二萬にまんかぞへられたものである。場所ばしよ長靴ながぐつかたちたとへられたイタリーのあし中央部ちゆうおうぶあたつてゐる。このとき中央ちゆうおう山脈さんみやく斜面しやめん沿うて堆積たいせきしてゐた土砂どさ全體ぜんたいとして山骨さんこつはなれ、それが斜面しやめんながくださいまがところおいて、雪崩なだれの表面ひようめんあるひひらいたり、あるひぢたりしたものゝようであるが、このひらぐち人畜じんちくおちいつてえなくなつたことがしるされてある。あるひまたひらいたままにのこつた地割じわれもあつたが、あと檢査けんさしてると、其深そのふかさは計測けいそくすることが出來できないほどのものであつたといふ。關東大地震かんとうだいぢしんのときおこつた根府川ねぶがは山津浪やまつなみは、その雪崩なだくださいみぎのような現象げんしようあるひ小規模しようきぼおこつたかもれない。
 世界大地震せかいだいぢしん記事きじおいて、人畜じんちくむほどの地割ぢわれの開閉現象かいへいげんしようおこつたのは、著者ちよしや鋭意えいい調しらべた結果けつか以上いじよう三回さんかいのみである。此外このほかはゞわづか一二寸程いちにすんほど地割ぢわれが開閉かいへいしたことをしるしたものはないでもないが、それも餘計よけいはない。一例いちれいげるならば、西暦せいれき千八百三十五年せんはつぴやくさんじゆうごねん南米なんべいチリ地震ぢしんである。此時このとき卑濕ひしゆう土地とち一二寸いちにすん地割ぢわれがいくらも出來でき、それが開閉かいへいして土砂どさ吹出ふきだしたといふ。
 みぎのような小規模しようきぼ地割ぢわれならば、大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしんおいても經驗けいけんせられた。場所ばしよ安房國あはのくに北條町ほうじようまち北條小學校ほうじようしようがつこう校庭こうていであつた。此學校このがつこう敷地しきちは、數年前すうねんぜん水田すいでん埋立うめたてゝつくられたものであつて、南北なんぼくなが水田すいでん一區域いちくいきなかに、半島はんとうかたちをなして西にしからひがし突出とつしゆつしてゐた。さうしてこの水田すいでん東西南とうざいなん三方さんぽう比較的ひかくてきかた地盤ぢばんもつかこまれてゐる。かういふ構造こうぞう地盤ぢばんであるから、地震ぢしん比較的ひかくてきはげしかつたであらう。たれしも想像そう/″\られるとほり、校舍こうしや新築しんちくでありながら全部ぜんぶつぶれてしまつた。わづかにもつのがれた校長以下こうちよういか職員しよくいんふようにして中庭なかにはにまでると、目前もくぜん非常ひじよう現象げんしようおこはじめた。それは校庭こうてい南北なんぼく二條にじよう龜裂きれつして、其處そこから水柱みづばしら二三間にさんげんたかさに噴出ふんしゆつはじめたのであつた。あとで龜裂きれつながさをはかつてみたら、延長えんちよう二十二間程にじゆうにけんほどあつたから、此程これほど噴出ふんしゆつ景況けいきよう壯觀そうかんであつたに相違そういない。あれよ/\とみてゐると水煙みづけむりきゆうおとろくちぢて噴出ふんしゆつ一時いちじまつてしまつたが、わづか五六秒位ごろくびようくらゐ經過けいかしたのちふたゝはじめた。かくいてはいてはみすること五六回ごろつかいにして次第しだいおとろつひんでしまつた。あとには所々ところ/″\ちひさな土砂とさ圓錐えんすいのこし、裂口さけぐち大抵たいていふさがつてたゞほそせんのこしたのみである。著者ちよしや事件じけんがあつて二月にがつのち其場所そのばしよ見學けんがくしたが、土砂とさ圓錐えんすい痕跡こんせき其時そのときまでもることが出來できた。さうしてこの現象げんしよう原因げんいんは、水田すいでんどろそう敷地しきちとも水桶内みづをけないけるみづ動搖どうようおな性質せいしつ震動しんどうおこし、校舍こうしや敷地しきちあたところ蒲鉾かまぼこなりに持上もちあがつて地割ぢわれをしようじ、それがくぼんでさがつたとき地割ぢわれがぢるようになつたものとかんがへた。大地震だいぢしんのとき、泥土層でいどそうや、卑濕ひしゆう土地とちにはなが沿うて泥砂どろすな噴出ふきだすことはありがちのことであるが、もし地震ぢしん當時とうじ此現象このげんしよう觀察かんさつすることが出來できたならば、北條小學校々庭ほうじようしようがつこう/\ていおい實見じつけんせられたようなものゝ多々たゝあることであらう。じつ北條小學校職員ほうじようしようがつこうしよくいんによつてなされた前記現象ぜんきげんしよう觀察かんさつは、地震學上ぢしんがくじようきはめてたふといものであつた。
「地割れ開閉の説明圖」のキャプション付きの図
地割れ開閉の説明圖

 まへしるしたジャマイカ地震ぢしんならびにリスボン地震ぢしんける地割ぢわれの開閉かいへいは、北條小學校ほうじようしようがつこうおこつたような現象げんしようきはめて大規模おほきぼおこつたものとすれば解釋かいしやくがつくようにおもふ。はたしてしからば、ロアイヤルこうや、むかしベスンバぞくのゐた部落ぶらくみぎ現象げんしようおこすにもつと適當てきとう場所ばしよであつて、此等これら地方ちほう大地震だいぢしんによつてふたゝ同樣どうよう現象げんしようおこすこともあるであらう。わがくにおい此現象このげんしようだかつて大規模だいきぼおこしたことのないのは、たん此現象このげんしようおこすに適當てきとう構造こうぞう場所ばしよ存在そんざいしないのにるものであらう。
 みぎよう次第しだいであるから、著者ちよしや結論けつろんとしては、地割ぢわれに吸込すひこまれるような現象げんしようは、わがくににては絶對ぜつたいおこらないといふことに歸着きちやくするのである。されば竹藪たけやぶめとか、戸板といたいて避難ひなんせよとかいふ注意ちゆういあまりに用心ようじんすぎるようにおもはれる。いはんや竹藪自身たけやぶじしん二十間にじゆつけん移動いどうしたことが明治二十四年めいぢにじゆうよねん濃尾大地震のうびだいぢしんにも經驗けいけんされ、またそれをとほしておほきな地割ぢわれの出來でき實例じつれいはいくらもあるくらゐであるから、左程さほどおもきをかなくとも差支さしつかへない注意ちゆういであるようにおもふ。
 大地震だいぢしん遭遇そうぐうして最初さいしよ一分間いつぷんかん無事ぶし[#ルビの「ぶし」はママ]しのたとし、また餘震よしん地割ぢわれはおそれるにらないものとのさとりがついたならば、其後そのご災害防止さいがいぼうしについて全力ぜんりよくつくすことが出來できよう。此際このさいあるひ倒壞家屋とうかいかおく下敷したじきになつたものもあらうし、あるひ火災かさいおこしかけてゐる場所ばしよおほいことであらうし、救難きゆうなん出來できるだけおほくの人手ひとでようし、しかもそれには一刻いつこく躊躇ちゆうちよゆるされないものがある。これ老幼男女ろうようだんじよ區別くべつはず、一齊いつせい災害防止さいがいぼうし努力どりよくしなければならない所以ゆえんである。
 下敷したじきになつたひとたすすことは震災しんさい防止上ぼうしじようもつと大切たいせつなことである。なんとなれば震災しんさいかうむ對象物中たいしようぶつちゆう人命じんめいほど貴重きちようなものはないからである。もしそこに火災かさいおこおそれが絶對ぜつたいになかつたならば、この問題もんだい解決かいけつ一點いつてん疑問ぎもんおこらないであらう。しかしながら、もしそこに火災かさいおこおそれがあり、また實際じつさい小火ぼやおこしてゐたならば、問題もんだい全然ぜんぜん別物べつものである。
 大正十四年たいしようじゆうよねん五月二十三日ごがつにじゆうさんにち但馬地震たじまぢしんおいて、震原地しんげんちあたれる田結村たいむらおいては、全村ぜんそん八十三戸中はちじゆうさんこちゆう八十二戸はちじゆうにこつぶれ、六十五名ろくじゆうごめい村民そんみん潰家かいか下敷したじきとなつた。このむら半農半漁はんのうはんりよう小部落しようぶらくであるが、地震ぢしん當日とうじつ丁度ちようど蠶兒掃立さんじはきたてあたり、暖室用だんしつよう炭火すみびもちひてゐたいへおほく、そのうち三十六戸さんじゆうろつこからはけむりし、つひ三戸さんこだけはあがるにいたつた。一方いつぽうでは下敷したじきしたからたすけをふてわめき、他方たほうでは消防しようぼうきゆうぐるさけび、これにしてなき餘震よしん鳴動めいどう大地だいち動搖どうようとは、さいはひもつのがれたものにはくだしようもなかつたであらう。しか村民そんみんあひだにはかういふ非常時ひじようじたいする訓練くんれんがよく行屆ゆきとゞいてゐたとえ、老幼男女ろうようだんじよ第一だいいち火災防止かさいぼうしつとめ、ときうつさず人命救助じんめいきゆうじよ從事じゆうじしたのであつた。さいはひ小火ぼやのまゝでめ、下敷したじきになつた六十五名中ろくじゆうごめいちゆう五十八名ごじゆうはちめい無事ぶじたすされたが、のこりの七名しちめい遺憾いかんながら崩壞物ほうかいぶつ第一撃だいいちげきによつて即死そくししたのであつた。もし村民そんみん訓練くんれん不行屆ふゆきとゞきであり、あるひすことを第二だいににしたならば、おそらくは全村ぜんそん烏有うゆうし、人命じんめい損失そんしつたすけられた五十八名ごじゆうはちめいなかにもおよんだであらう。すなは人命じんめい損失そんしつ實際じつさい幾倍いくばいし、財産ざいさん損失そんしつ幾十倍いくじゆうばいにもおよんだであらう。じつにその村民そんみん行動こうどう震災しんさいたいしてわれ/\の理想りそうとするところ實行じつこうしたものといへる。けばこのむらはかつて壯丁そうてい多數たすう出漁中しゆつりようちゆうしつして全村ぜんそん灰燼かいじんしたことがあるさうで、これにかんがみて其後そのご女子じよし消防隊しようぼうたいをも編成へんせいし、かゝる寒村かんそんなるにがそりんぽんぷ一臺いちだいそなへつけてあるのだといふ。平日へいじつかういふ訓練くんれんがあればこそ、かゝる立派りつぱ行動こうどうでることも出來できたのであらう。
 また丹後大地震たんごだいぢしんときは、九歳きゆうさいになる茂籠傳一郎もかごでんいちろうといふ山田小學校やまだしようがつこう二年生にねんせい一家いつか八人はちにんとも下敷したじきになり、家族かぞく屋根やねやぶつてしたにかゝはらず、傳一郎君でんいちろうくん倒潰家屋内とうかいかおくないとゞまり、危險きけんをかしてめたといひ、十一歳じゆういつさいになる糸井重幸いとゐしげゆきといふ島津小學校しまづしようがつこう四年生よねんせいは、祖母そぼいもうととも下敷したじきになりながら、二人ふたりには退くちをあてがつて、自分じぶんだけはつてかへし、二箇所にかしよ火元ひもとゆきもつしにかゝつたが、祖母そぼいへよりも身體からだ大事だいじだといつて重幸少年しげゆきしようねんせいしたけれども、少年しようねんはこれをきかないで、幾度いくどゆきはこんでて、つひめたといふ。このため兩少年りようしようねん各自かくじ家屋かおくのみならず、重幸少年しげゆきしようねんごときは隣接りんせつした小學校しようがつこう二十戸にじゆつこ民家みんかとを危急ききゆうからすくたのであつた。じつにこれ義勇ぎゆう行動こうどうはそれが少年しようねんによつてなされたゞけに殊更ことさらたのもしくおもはれるではないか。
 日本につぽんける大地震だいぢしん統計とうけいによれば、あまおほきくない町村ちようそんおいて、潰家かいか十一軒毎じゆういつけんごと一名いちめい死者ししやしようずる割合わりあひである。しかるに、もしこれに火災かさいくははると、人命じんめい損失そんしつ三倍さんばい乃至ないし四倍よばいになるのであるが、これは下敷したじきになつたひとうち火災かさいさへなければ無事ぶじたすさるべきものまで燒死しようし不幸ふこうるにいたるものが多數たすうしようずるからである。地震ぢしん災害さいがい最小限度さいしようげんど防止ぼうしせんとするにあた主義しゆぎとして人命救護じんめいきゆうごもつとおもきをくことは勿論もちろんであるが、たゞ此主義このしゆぎ實行手段じつこうしゆだんとして、火災かさい防止ぼうし眞先まつさきにすることが必要條件ひつようじようけんとなるのである。もし此手段このしゆだん實行上じつこうじようともな犧牲ぎせいがあるならば、それを考慮こうりよすることも必要ひつようであるけれども、何等なんら犧牲ぎせいがないのみならず、火災防止かさいぼうしといふもつと有利ゆうり條件じようけんともなふのである。實際じつさい大地震だいぢしん損害そんがいおいて、直接ちよくせつ地震動ぢしんどうよりきたるものはわづか其一小部分そのいつしようぶぶんであつて、大部分だいぶぶん火災かさいのためにしようずる損失そんしつであるといへる。此關係このかんけい關東大地震かんとうだいぢしん但馬地震たじまぢしん丹後地震たんごぢしんおいて、此頃このごろ證據立しようこだてられたところであつて、別段べつだん説明せつめいようしない事實じじつである。

八、火災防止かさいぼうし(一)


 地震ぢしんともな火災かさい大抵たいてい地震ぢしんのちおこるから、其等それらたいしては注意ちゆうい行屆ゆきとゞき、小火ぼやうち消止けしとめる餘裕よゆうもあるけれども、潰家かいかしたから徐々じよ/″\がるものは、大事だいじいたるまで氣附きづかれずに進行しんこうすることがあり、つひ大火災だいかさい惹起ひきおこしたこともすくなくない。
 大正十四年たいしようじゆうよねん五月二十三日ごがつにじゆうさんにち但馬地震たじまぢしんおいて、豐岡町とよをかまちおいては、地震直後ぢしんちよくご三箇所さんかしよからあがつた。これは容易よういめられたので、消防隊しようぼうたいまた一般いつぱん町民ちようみんあひだには多少たしようゆるみもしようじたのであらう。市街しがい中心地ちゆうしんちける潰家かいかもとに、大火災だいかさいとなるべき火種ひだね培養ばいようせられつゝあつたことを氣附きづかないでゐたのである。地震ぢしんおこつたのは當日とうじつ午前十一時十分頃ごぜんじゆういちじじつぷんごろであり、郵便局ゆうびんきよくとなりの潰家かいかから發火はつかしたのは正午しようごぐる三十分位さんじつぷんぐらゐだつたといふから、地震後ぢしんごおよ一時間半いちじかんはん經過けいかしてゐる。これが氣附きづかれたときは、一旦いつたん集合しゆうごうしてゐた消防隊しようぼうたい解散かいさんしたのちであり、また氣附きづかれたのち倒潰家屋とうかいかおくみちふさがれて火元ひもとちかづくことが困難こんなんであつたなどの不利益ふりえき種々しゆ/″\かさなつて、つひ全町ぜんちよう二千百戸にせんひやつこうちその三分さんぶん全燒ぜんしようせしめるほど大火災だいかさいとなつたのである。しかも其燒失區域そのしようしつくいきまちもつと重要じゆうよう部分ぶぶんめてゐたので、損失そんしつ實際じつさい價値かちさら重大じゆうだいなものであつたのである。

九、火災防止かさいぼうし(二)


 普通ふつう出來できてゐる水道鐵管すいどうてつかんは、地震ぢしんによつて破損はそんやすい。たゞ大地震だいぢしんのみならず、一寸ちよつとしたつよ地震ぢしんにもさうである。とく地盤ぢばんよわ市街地しがいちおいてはそれが著明ちよめいである。關東大地震後かんとうだいぢしんご、この方面ほうめんける研究けんきゆうおほいにすゝみ、あるひ鐵管てつかん繼手つぎて改良かいりようあるひ地盤不良ぢばんふりよう場所ばしよけて敷設ふせつすること、むをなければ豫備よび複線ふくせんまうけることなど、幾分いくぶん耐震的たいしんてきになつたところもあるけれども、それも地震ぢしん種類しゆるいによるのであつて、われ/\がところ大地震だいぢしんたいしては、暫時ざんじ無能力むのうりよくとなるものとあきらめねばなるまい。今日こんにち都市としける消防施設しようぼうしせつ水道すいどう首位しゆいいてあつて、普通ふつう火災かさいたいしてはそれで差支さしつかへないのであるが、大地震だいぢしんのような非常時ひじようじおいては、たちま支障ししようきたすこと、其例そのれいあまりにおほい。
 非常時ひじようじ消防施設しようぼうしせつについてはべつ其局そのきよくあたひとがあるであらう。たゞわれ/\は現状げんじようおい最善さいぜんつく工夫くふうをしなければならぬ。
 みづなしの消防しようぼうもつと不利益ふりえきであるから、水道すいどうみづまらないうち機敏きびん貯水ちよすい用意よういをすることが賢明けんめい仕方しかたである。たとひ四邊あたり火災かさいおそれがないようにかんがへられた場合ばあひおいても、遠方えんぽう火元ひもとから延燒えんしようしてることがあるからである。著者ちよしや大正十二年たいしようじゆうにねん關東大地震かんとうだいぢしんさい東京帝國大學内とうきようていこくだいがくない地震學教室ぢしんがくきようしつにあつて、水無みづなしに消防しようぼう從事じゆうじしたくるしい經驗けいけんゆうしてゐるが、みづ用意よういがあつての消防しようぼう比較ひかくしてその難易なんいくことは、けだ骨頂こつちようであらう。この經驗けいけんによつて、みづなしの消防法しようぼうほうをも心得こゝろえくべきものといふことをさとつたが、實際じつさいにはみづ使用しようしてはかへつてくない場合ばあひもあるので、著者ちよしや專門外せんもんがいではあるけれども、かじつたことを略述りやくじゆつしてることにする。
 みづもちひてはかへつてくない場合ばあひ後廻あとまはしにして、みづもちひて差支さしつかへない場合ばあひ、もしくは有利ゆうり場合ばあひおいて、みづのあるなしによつて如何いかこれ處置しよちするかをべてたい。
 個人消防上こじんしようぼうじよう最大要件さいだいようけん時機じきうしなふことなく、もつと敏速びんそく處置しよちすることにある。これはちひさいほどやすいといふ原則げんそくもとづいてゐる。あるひ自力じりよく十分じゆうぶんなこともあり、あるひ助力じよりよくようすることもあり、あるひ消防隊しようぼうたい必要ひつようとすることもあるであらう。
 みづ燃燒ねんしようもとそゝぐこと、ほのほけむりいでも何等なんら效果こうかがない。
 障子しようじのような建具たてぐえついたならば、この建具たてぐたふすこと、衣類いるいえついたときは、ゆかまた地面じめん一轉ひところがりすれば、ほのほだけはえる。
 天井てんじようまであがつたならば、屋根やねまで打拔うちぬいて火氣かきくこと。これはほのほ天井てんじようつてひろがるのをふせぐに效力こうりよくがある。このさい竿雜巾さをぞうきん竿さをさき濕雜巾ぬれざふきん結付むすびつけたもの)の用意よういがあると、もつと好都合こうつごうである。
 隣家りんかからの延燒えんしようふせぐに、雨戸あまどめることは幾分いくぶん效力こうりよくがある。
 けむりかれたら、地面ぢめんふこと、手拭てぬぐひにて鼻口はなくちおほふこと。
 ほのほしたをくゞるときは、手拭てぬぐひにて頭部とうぶおほふこと。手拭てぬぐひれてゐればなほよく、座蒲團ざぶとんみづひたしたものはさらによし。
 接近せつきんするにたゝみたて有效ゆうこうである。
 みづもちひてはかへつてくない場合ばあひは、燃燒物ねんしようぶつあぶらあるこーるごときものゝ場合ばあひである。藥品やくひんうちには容器ようき顛倒てんとうによつて單獨たんどく發火はつかするものもあれば、接觸混合せつしよくこんごうによつて發火はつかするものもある。それにあるこーるえーてるとうごと一時いちじひろがるものがちかくにあるとき、すぐ大事だいじ惹起ひきおこすにいたることがおほい。あるひ飮食店いんしよくてんける揚物あげものあぶらあるひせるろいど工場こうじようなど、文化ぶんかすゝむにしたがひ、化學藥品かがくやくひんにして發火はつか原因げんいんとなるものが、ます/\えてる。關東大地震かんとうだいぢしんのとき、東京とうきようける大火災だいかさい火元ひもと百五十箇所程ひやくごじゆつかしよほどかぞへられてゐるが、其中そのうち化學藥品かがくやくひんるものは四十四箇所しじゆうしかしよであつて、三十一箇所さんじゆういちかしよ都合つごうよくめられたけれども、十三箇所じゆうさんかしよだけは大事だいじ惹起ひきおこすにいたつた。
 化學藥品かがくやくひん油類ゆるい發火はつかたいしては、燃燒せんしよう[#ルビの「せんしよう」はママ]さまたげる藥品やくひんもつて、處理しよりする方法ほう/\もあるけれども、普通ふつう場合ばあひにはすなでよろしい。もし蒲團ふとん茣蓙ござ手近てぢかにあつたならば、それをもつおほふことも一法いちほうである。
 揚物あげものあぶらなべなかにて發火はつかした場合ばあひは、手近てぢかにあるうどん菜葉なつぱなどをなべむこと。

 れないものはおそれるために、小火ぼやうちにこれをおさけることが出來できずして大事だいじいたらしめることがおほい。もしみぎのような性質せいしつ心得こゝろえてゐると、こゝろ落着おちつき出來できるため、危急ききゆう場合ばあひ機宜きゞてきする處置しよち出來できるようにもなるものである。しるしたものゝなかには實驗じつけんおこなるものもあるから、教師きようし父兄ふけい指導しどうもとに、安全あんぜん場所ばしよえらびて、これをこゝろみることはきはめて有益ゆうえきなことである。
 ついでにしるしてくことは、火災かさいがた場合ばあひ顧慮こりよしての心得こゝろえである。
 金庫きんこあし車止くるまどめをたしかにしてくこと。地震ぢしんのとき金庫きんこうごし、とびらがしまらなくなつたれいおほい。
 金庫きんこ書庫しよこ土藏どぞうにはおの/\おほきさに相應そうおうする器物きぶつたとへば土藏どぞうならばばけつ)にみづくこと。これは内部ないぶ貴重品きちようひん蒸燒むしやきになるのをふせぐためである。
 土藏内どぞうない品物しなものかべから一尺いつしやく以上いじようはなくこと。
 貴重品きちようひん一時いちじ井戸ゐどしづめることあり。地中ちちゆううづめる場合ばあひすなあつ五分ごぶほどにても有效ゆうこうである。
 火災かさい避難ひなんおいては旋風せんぷうおそはれさうな場處ばしよけること。
 大火災だいかさいのときは、地震ぢしんとは無關係むかんけいに、旋風せんぷうおこちである。火先ひさきなかくぼ正面しようめんもつ前進ぜんしんするとき、そのまがかどには塵旋風ちりせんぷうづくべきものがおこる。また川筋かはすぢせつした廣場ひろば移動旋風いどうせんぷうによつておそはれやすい。明暦大火めいれきたいかさい濱町河岸はまちようがし本願寺境内ほんがんじけいだいおいて、また關東大地震かんとうだいぢしん東京大火災とうきようだいかさいさい本所ほんじよ被服廠跡ひふくしようあとおいて、旋風せんぷうのために、死人しにん集團しゆうだん出來できたことはよくられた悲慘事ひさんじであつた。

一〇、餘震よしんたいする處置しよち


 むかしひとおそれてゐた大地震だいぢしんもどしは、最初さいしよ大地震だいぢしん主要部しゆようぶ意味いみであつて、今日こんにち所謂いはゆる餘震よしんすものでないことはまへべんじたとほりである。しかるに後世こうせいひと、これを餘震よしん混同こんどうし、したがつて餘震よしんまでも恐怖きようふするにいたつたのは災害防止上さいがいぼうしじよう遺憾いかん次第しだいであつた。
 餘震よしん恐怖きようふせるため、消防しようぼう十分じゆうぶん實力じつりよく發揮はつきすることが出來できなかつたとは、しば/\專門せんもん消防手しようぼうしゆから述懷じつかいであるが、著者ちよしや此種このしゆ人士じんし餘震よしん誤解ごかいしてゐるのを、もつと遺憾いかんおもふものである。
 統計とうけいによれば、餘震よしんのときの震動しんどうおほいさは、最初さいしよ大地震だいぢしんのものに比較ひかくして、その三分さんぶんいちといふほどのものが、最大さいだい記録きろくである。したがつて破壞力はかいりよくからいへば、餘震よしん最大さいだいなるものも最初さいしよ大地震だいぢしん九分くぶんいち以下いかであるといふことになる。ざつと十分じゆうぶんいちてよいであらう。其故それゆゑに、たん統計とうけいうへからかんがへても、餘震よしんおそれるほどのものでないことが了解りようかいせられるであらう。たゞ大地震直後だいぢしんちよくごはそれがすこぶ頻々ひんぴんおこり、しかも間々まゝきもひやほどのものもるから、氣味惡きみわるくないとはいひにくいことであるけれども。
 大地震後だいぢしんご餘震よしんあまりに恐怖きようふするため、安全あんぜん家屋かおく見捨みすてゝ、幾日いくにちも/\野宿のじゆくすることは、震災地しんさいちける一般いつぱん状態じようたいである。もし其野宿そののじゆくなにかの練習れんしゆうとして效能こうのうみとめられてのことならば、それも結構けつこうであるけれども、病人びようにんまでもその仲間なかまれるか、また病氣びようきおこしてまでもこれを施行しこうするにおいては、骨頂こつちようといはなければならぬ。大地震だいぢしんによりて損傷そんしようした家屋かおくなかには崩壞ほうかいふち近寄ちかより、きはどいところ喰止くひとめたものもあらう。さういふものは、地震ぢしんならずとも、あるひかぜあるひあめによつて崩壞ほうかいすることもあるであらう。また洋風建築物ようふうけんちくぶつにては墜落ついらくしかけた材料ざいりよう氣附きづかれる。さういふ建築物けんちくぶつには近寄ちかよらぬをよしとしても、普通ふつう木造家屋もくぞうかおくとく平屋建ひらやだてにあつては、屋根瓦やねがはら土壁つちかべおとし、あるひすこばかりの傾斜けいしやをなしても、餘震よしんたいしては安全あんぜん見做みなして差支さしつかへないものとみとめる。じつ木造家屋もくぞうかおくたん屋根瓦やねがはら土壁つちかべとを取除とりのぞかれただけならば、これあるときに比較ひかくして耐震價値たいしんかちしたといへる。なんとなれば、これ材料ざいりよう家屋各部かおくかくぶ結束けつそく無能力むのうりよくなるがうへに、地震ぢしんのとき、自分じぶん惰性だせいもつ家屋かおく地面ぢめん一緒いつしようごくことに反對はんたいするからである。また家屋かおくすこばかりの傾斜けいしやは、其耐震價値そのたいしんかちきづつけてゐない場合ばあひおほい。一體いつたい家屋かおくあたらしいあひだはしら横木よこぎとのあひだめつけてゐるくさびいてゐるけれども、それが段々だん/″\ふるくなつてると、次第しだいゆるみがる。これは木材もくざい乾燥かんそうするのと、表面ひようめんから次第しだい腐蝕ふしよくしてるとにるのである。それで大地震だいぢしん出會であつて容易よういいくらかの傾斜けいしやをなしても、それがためにくさびはじめてしてることになり、其位置そのいち[#「ことになり、其位置そのいちに」は底本では「ことになり。其位置そのいちに」]おい構造物こうぞうぶつ一層いつそうかたむかんとするのに頑強がんきよう抵抗ていこうするにあるのである。あだか相撲すまふのとき、土俵どひよう中央ちゆうおうからずる/\とされた力士りきしが、つるぎみねこらへる場合ばあひのようである。かうして[#「かうして」は底本では「かしうて」]最初さいしよ大地震だいぢしんこらへる家屋かおくが、其後そのご三分さんぶんいち以下いか地震力ぢしんりよくによつてられることはないはずである。
 著者ちよしや關東大地震かんとうだいぢしん調査日記ちようさにつきおいて、大地震後だいぢしんご家族かぞくとも自宅じたく安眠あんみんし、一回いつかい野宿のじゆくしなかつたことをしるした。また但馬大地震たじまだいぢしん調査日記ちようさにつきには、震原地しんげんちほとんど直上ちよくじようたる瀬戸せと港西小學校こうさいしようがくこう一泊いつぱくしたことをしるした。此校舍このこうしや木造二階建もくぞうにかいだてであつたが、地震ぢしんのために中央部ちゆうおうぶ階下かいかまで崩壞ほうかいし、可憐かれん兒童じどう二名程にめいほど壓殺あつさつしたのであつた。しか家屋かおく兩翼りようよくすこしくかたむきながら、つぶれずにのこつてゐたので、これを檢査けんさしてると、餘震よしんには安全あんぜんであらうと想像そう/″\されたから、山崎博士やまざきはかせはじ一行いつこう四人よにん其家そのいへ樓上ろうじよう一泊いつぱくした。其夜そのよ大雨たいうしたので、これまで野營やえいつゞけてゐた附近ふきん被害民ひがいみんは、みなつぶのこりのいへあつまつてあま大勢おほぜいでありしため混雜こんざつはしたけれども、みな口々くち/″\に、やすらかな一夜いちやごしたことをかたつてゐた。

 昭和二年十月しようわにねんじゆうがつ、プラーグにける地震學科ぢしんがくか國際會議こくさいかいぎ出席しゆつせきしたかへみち大活動だいかつどうひんせるヴエスヴイオをひナポリから郵船ゆうせん筥崎丸はこざきまる便乘びんじようし、十三日じゆうさんにちアデンおき通過つうかするころ本稿ほんこうしるし、おなじく二十九日にじゆうくにち安南沖あんなんおきぐるころ稿こうをはる。
著者 誌す





底本:「星と雲・火山と地震」日本児童文庫、復刻版、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日発行
底本の親本:「星と雲・火山と地震」日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「踏」と「蹈」、「附」と「付」、「ぢしん」と「じしん」、「地質學ちしつがく」と「地質學じしつがく」、「地鳴ちなり」と「地鳴ぢなり」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「地震ぢしんはなし」となっています。
※挿絵は、恩地孝四郎(1891-1955)によるものです。
※本文の活字に合わせて、見出しの字下げを決めました。
※底本における、図の挿入による見出しの字下げの変更は、統一しました。
入力:しだひろし
校正:仙酔ゑびす
2012年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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