蜜のあわれ

室生犀星




一、あたいは殺されない


「おじさま、お早うございます。」
「あ、お早う、好いご機嫌らしいね。」
「こんなよいお天気なのに、誰だって機嫌好くしていなきゃ悪いわ、おじさまも、さばさばしたお顔でいらっしゃる。」
「こんなに朝早くやって来て、またおねだりかね。どうも、あやしいな。」
「ううん、いや、ちがう。」
「じゃ何だ。言ってご覧。」
「あのね、このあいだね。あの、」
「うん。」
「このあいだね、小説の雑誌巻頭にあたいの絵をおかきになったでしょう。」
「あ、画いたよ、一ぴきいる金魚の絵をかいた。それがどうしたの。」
「あれね、とてもお上手だったわ、眼なんかぴちぴちしていて、とてもね。本物にそっくりだったわ。」
「頼まれて生れてはじめて絵というものを画いて見たんだよ。本当は絵だか何だか判らないがね。」
「あたいにも、そのうち一枚画いていただきたいわ。」
「絵は画こうとしたって却々なかなか、画けるものではないよ。君から見ると似ているかどうかね。」
「よく似ていたわ、それでね、あれから後に、一週間程してから、雑誌社からお礼のお金が書留で着いたでしょう。」
「これも生れてはじめて画料というものをもらったのだが、それがどうかしたかね。」
「どれだけいただきになったの。」
「文章が一枚半ついていてね、合わせて一万円貰った。」
「おじさまはそれをわたくしにね、正直に仰有おっしゃらなかったわね。幾ら来たってこともね。」
「金魚にお金の話をしたって、どうにもならないじゃないの。」
「だって、あれ、ほんとうは、あたいのお金じゃないこと、あたいをお画きになったんだもん、あたいにくださるとばかり、そうおもっていたわ。」
「何だか僕もそんな気がしないでも、なかったんだけど、」
「でね、おじさま、それについてね。」
「あ、」
「もうお金、だいぶ、おつかいになった?」
「半分つかったけれど、まだある。」
「何に半分、おつかいになったの。」
「千五百円の玉露を百目買ったし、雉子きじ羽根のはたきを一本と、赤玉チーズを一個買った、……」
「あたいには、とうとう、何も買ってくださらなかったわね。」
「君なんかのことは、まるで、わすれていた。」
「おじさまはずるいわね。あれ、本当をいえばあたいのお金じゃないの。」
「そういうことになるかね。きみを見て画いただけで、それがきみのお金になるものかな。」
「あたい、いつ下さるかと、窓の方を毎日のぞいていたのよ、で、ね、あと半分のお金、いただきたいわ。」
「一たいきみは何を買うつもりなの、」
「お友達の金魚をたくさん買ってほしいのよ。」
「あ、そうか、遊び友達がいるんだね、それは気がつかなかった。」
「それから金魚餌という箱入の餌がほしいわ、かがみのついている、美しい箱なのよ。」
「かがみっていうのはすずの紙の事だろう、あれはかがみになりますかね。」
「水にぬれるとぴかぴかして、かがみみたいになるわよ、それからね、めだかをたくさん買うの。」
「そんなめだかどうするんだ。」
「めだかの尾がとてもおいしいんですもの。毎日少しずつかじってやるの。」
「尾をかじっては、めだかが可哀そうじゃないか。」
かじってもかじっても、目高の尾というものは、すぐ、生えてくるものよ、だから、可哀そうなことないわ。」
「めだかの尾はたとえば、どんなあじがする。」
「ぬめっとして口の中でも生きていて、ひりひりうごいているわ、とても、おいしいのよ。」
「ざんこくだね。」
「おじさま、早くお金出してよ、あたいのお金なのに、出ししぶらないでよ。早くさ。」
「じゃ、千円札で五枚、それにあまったこまかいのが、百円札と銀貨を合わせて総計五千九百円になる。」
「ええ、これで決算済みよ、それからついでに、外にもっと細かいのもいただきたいわ。」
「銅貨で重くていいか、」
「かまいません、それからおじさま、あたい、歯のお医者様に行きたいんですから、別にその方のお金も頂戴。」
「金魚が歯医者にかかるなんて聞いたこともないが、歯がどう痛いの。」
「このあいだね、慌てて、石をんじゃった、がりがりって。」
「あわてるからだよ、たべものは一遍そっと口にさわって見てから、食べるようにするんだね、歯はいたむの。」
「痛いわ、骨にひびくわ。」
「骨にひびくって、骨にって背骨の骨のことか。」
「お背中の骨なのよ、おじさま、いま骨の話をしてからおじさまの顔色が、へんに変って来たわね、それ、どうしたのよ。」
「僕はまだ金魚の骨というものを見たことがないんだ、金魚に背骨があるかないかも昔からわすれていた。人間で金魚の骨を見た人が何人いるかしら、全くたいへんなことを忘れていたものだ。」
「どうしてそんな、あたい達の骨が見たいの。」
「見たいような見たくないような、また、怖いような気もするんだ。よく考えると人間は誰でも、いろいろな骨は見て来たけれど、まだ金魚の骨だけは見た人間は滅多にいない、たとえばきみの優しいからだに骨があるとは、どうにも考えられないことだ。」
「ぐにゃぐにゃだと仰有るの。」
「あんな針みたいな骨があるなんて、きみの顔を見ていたって、想像もつかないことだからね。」
「死んだら、かいぼうすれば、いいじゃないの。」
「人間は金魚の骨だけは見たくないって、皆さんがそう言っているんだよ。可哀そうだから。」
「あたいもまだ見たことないわ、じゃ、あたい、そろそろお友達を買いにいってくるわよ、黒いのやぶちなのや、それから、めだかも。」
「行って来たまえ、自動車に気をつけてね。」
「ええ、お金持になれて、とても今日は嬉しいわ。」
「ハンド・バッグをられないように気をつけておいで。」
「はい、行ってまいります。あ、いいお天気だなあ。」
「水道の水は飲むなよ、げえになるからなあ。」
「はい、すぐかえるから、おじさま、温和おとなしくして待っていらっしゃい。」
「よしよし、……」
「おじさまの好きな、いしごろも、買って来てあげるわ。」
「それから金平糖こんぺいとうもね、ちいちゃいのは頬ばるのに面倒だから、鬼みたいな大粒のやつがいいよ。」
「赤いのや青いのがまじっている、あれでいいんでしょう。どのくらいいります。」
「そうね、三百円くらいいるな、子供にけてやることもあるからね。」
「そのお金、先刻いただいた分とは、べつにいただかなきゃ。」
「そうか、ほら、これでいいね。なかなか抜からないね、きみは。」
「だってあたい、いろいろ考えてつかうから、おじさまの金米糖のお金は出せないわ。石ごろもの分は、あたいのおみやげにするけど。」
「有難う、たすかった。」
「ふふ、では行ってまいります。」
「道くさをしないで、ちゃんと、お八ツまでにかえって来るんだよ。」
「はい、」
「うなぎやさばを店さきで見ていると、さかなやさんに捕まって、売られてしまうぜ。」
「はい、はい。」

「ただいま、――あ、怖かった、も、ちょっとで誘拐されるところだった。」
「どうした、真青な顔をしているじゃないか。ふるえてさ、きみらしくもないね。」
「おじさま、お水を一杯ちょうだい、こんな怖い事はじめてよ、呼吸もつけないわ。」
「ほら、水だ、ぐっと飲んで気を落ちつけて、何が怖かったかということを話すんだよ。」
「あ、美味おいしい、も少し頂戴。先刻のクロロフィルの入った水よりか、よっぽど、美味しい。」
「何だクロロフィルなんて。」
「あたいね、おじさま、途中で思い出して丸ビルまで急に行ってみたのよ、お天気は上々だしね。」
「丸ビルまでか、驚いたやつだな、そんな派手な恰好をして。」
「此間からあたい、歯が痛い痛いって言っていたでしょう、だから雨がふるとこまると思って、七階のバトラー歯科医院まで思い切って行っちゃった。」
「彼処はきみたちの行く歯科ではないよ、きみたちは蟹科かにかに行けばたくさんなんだ、」
「失礼なおじさまね、蟹科は抜歯ばかりで、歯の技術はてんでだめなのよ、おじさまは何時も歯がお悪いくせに、何もごぞんじないんだ。」
「道理で永いお使いだと思っていたんだ。だってバトラーさんは時間ぎめだから、ふいに行っても療治してもらえない筈じゃないか、幾日の何時という時間を貰わなければならないんだが、」
「そこがあたいの腕のあるところなのよ、ちゃんと療治していただいて、うずきもとうに治っちゃった。」
「どうしてそんなウマイことをしたんだ。」
「黒の眼鏡をかけた、英語のぺらぺらのおばちゃんがいらっしゃるでしょう。」
「あ、いるいる、きょうもいたかい。」
「だからあたい、おばちゃんに歯がいたくて死にそうだと、たのんじゃったの、半分泣顔して見せてやったの。」
「そしたら、」
「そしたらセンセイのところにあたいを連れて行って、この子の歯の中に蟹の子がいるそうですから、つまみ出してくださいと頼んでくださいました。センセイはピンセットの先に、とうとう十二疋の蟹の卵を捜して、つまみ出して下すったわよ。」
「十二疋とはたいへん居たものだな。」
「そして一応抜歯してから、歯は入歯しなければならないんですって。」
「金魚のくせに入歯するなんて変じゃないか。」
「あたいの歯は二千円くらいだけど、こんどのおじさまの歯は金と白金とをまぜてつくるんですって、でなきゃ、どんなに叮嚀ていねいに作っても、おじさまの癇癪玉は、いつも入歯まで噛みくだいておしまいになりますと、センセイがおわらいになって仰有っていらっしたわ。」
「かかるだろうなあ。」
「そっと聞いたら八万六千円もかかるそうだわ、だから、あたい、べそを掻いたような顔をして見せて、着いたばかりの原稿料の小切手を置いて来たわ、これ内金でございます、なんしろおじさまは貧乏ですからと申し上げといたわ。」
「よけいなことは言わないものだ。」
「それからあたい、治療の椅子に腰かけていると、うがい器にどんな仕掛になっているのでしょうか、漂白硝子器に水がくるくる舞いをして、しじゅう清潔なお水が走って流れているんです、それを見ていると先刻からずっと、喉が乾いて尾も頭もからからになっていることに気づいたの、我慢がならなくなって、助手さんのすきを見てね、コップの水を飲んでしまった。飲んでから気がついて青くなっちゃった、あれみな水道の水なんですもの、だから慌てて口をもがもがしたけれど、もう遅かったわ、げえになりそうになっちゃったんです。」
「だから出しなにあんなに、水道の水は飲むなと、言っておいたじゃないか。」
「あたい、すぐ助手さんを呼んだわ、そしてこのコップの水を飲んだんですけれど、これ、毒でしょうかしらときくと、いいえ、召し上ってもかまいはしませんと仰有ったから、でも、金魚には水道の水は毒でしょうと聞きなおすと、そうね、金魚にもお毒ということはないでしょう、どうして金魚の事なぞいまどき仰有るんですかと言われたので、あたい、すっかりあかくなって家にたくさん金魚を飼っているものですから、ここにあがっても、いまごろどうしているかと心配でならないんでございますというと、助手さんは何てお優しいお嬢様でしょうというの、おじさま、あたいも外に出ると大したお嬢様になって見えるらしいわね、驚いちゃったでしょう。」
「ちっとも驚かないよ、きみが令嬢でなかったら、令嬢らしい者なんて世界に一人もいないよ。」
「おじさまもそう思ってくれるかナ、嬉しいナ、ところで助手さんはこのお水にクロロフィルというお薬がはいっているから、金魚の鱗にも効く場合がありますと仰有ったので、あたい、もう少し頂いたわ、クロロフィルって青い藻みたいに、美しい色をしているお薬なんです。」
「僕の胃腸薬なんかにも、クロロフィルが入っていて、散薬だけれど、まるで緑色の薬なんだ。」
「おじさま、こんどそのお薬少し頂かしてね。」
「何にするの。」
「お腹があまり大きくふくれているから、むとなおらないかと思うの。」
「その内頒けてあげるよ、併し金魚に効くかどうか、金魚屋さんによく聞いてからにするといいよ。いまどきの薬の事だから、間違うとたいへんな失敗になるからね。」
「それはよく聞いて頂かないとこまるわね。金魚屋さんて金魚のお医者様みたいだから、何でも聞くと知っていらっしゃるわ。」
「うっかり薬なぞ服まない方がいいよ。」
「それから療治をして控え室に戻ると、大きな西洋人が二人待ち合わせていて、二人とも睡っていたわ、あたいみたいに赤い顔をしていらっしったものですから、あたいまで睡くなっちゃった。あたい、このごろね、赤い雑誌の表紙の色を見ただけでも、すぐ睡気がして来るのよ。」
「金魚というものは泳ぎながら、みんな何時でも睡っているんだ、口をとじたままでね。」
「それからタクシーに乗ったら、燐寸マッチ一つ貰いました。お釣銭を貰おうとしたら、手を握られちゃった。言い分が気障きざじゃないの、お嬢さまのおてては何ておつめたいんですと来た、あたい怖くなって、さよならと言って降りたわ。」
「さよならなんて言わなくともいいんだよ、手をにぎられたくせに。」
「それからがたいへんなことが始まったのよ。」
「どう、たいへんなことっていうのは。」
「新橋で省線に乗ったでしょう、乗るとすぐあたいの肩に手をかけて、何処に行って来たんだと、青っぽい服を着た若い男の人がいうの、あたい、こんなにちんぴらでしょう、肩にらくに手を置けるんですもの、丸ビルの歯医者さんまで行ったんだと答えたら、どちらに帰るんだといったから、大森までというと、僕も大森に行くんだから下車したら五分間つきあってくれというの、あたい、きゅうに怖くなっちゃって、その人のそばを離れて後ろ側の吊り皮にかわっちゃったの、そのとき、つい失礼しますと言っちゃった。」
「ばかだなあ、そんな時に失礼しますなんて言う奴があるかね。それからどうしたの。」
「そしたら次の駅につくと、すぐあたいのそばにまた寄って来て、たくさん乗客ひとのいる中でも平気でいうんです。歯医者にかかっているなら度たび通わなければならないから、この次はいつ行くんだ、その日をいってくれれば、丸ビルで待ち合わそうじゃないかというんです。あたい、もうその人がとても急に怖くなって了った。こんな人のことをぐれんたいというんだなと思い、がたがたハンド・バッグを提げている手がふるえて来たわ。」
「一さい口を利かなかった方がよかったのだ、きみは一々返事をしたことがおぼこに見えたんだよ、何処までもきみはこどもくさいからね。」
「それでね、大森に降りたら、白木屋の入口で待っていろというの、あたい、もう黙って返事をしなかったわ。そしたら、待つか待たないか返事をしろと迫るの、あたい、もう誰かにたすけて貰おうかと思ったけど、例の肩の手がはなれないんですもの、だから、こんどは出口の方に行ってみると、すぐついて来たわ、そのついて来方があんまり早いもんだから、乗客は誰もふしぎそうに見る者は一人もいないんです。硝子戸ガラスどに顔をくっつけていると、硝子が曇っちゃって、あたいの心と同じ色になっちゃった。」
「それから男はどうしたい。」
「大森に着く前にもう一ぺん念を押していったわ、白木屋の前に来なかったら、ただじゃ置かないと、省線に張り込んでいるからそう思えと言ったわ、あたい、下車するとバスの停留場まではしったわ、うしろ向くとつかまえられると思ってがたがた趨った。」
「人もあろうに僕の家の者にも、そんな男の手が伸びるなんて、あきれたもんだ。まだ怖いかね。」
「おじさまにお話したら、ブルブルが取れちゃった、あたい、そんなにうきうきして見えるかしら、それが気になるのよ。」
「きみの少女くさいところを狙ったのだろうが、この狙いは、ねらいそこねなんだね、きみなんかのように少女くさいのは却々手にのりそうで、いざとなると、ぴょんとね上ってしまって草臥くたびれもうけさ。」
「あたい、もう丸ビルなんかに行かないわ、もうこりごりよ、けど、おじさまの顔みていると、だんだん怖いのががれて行くわ。よっぽど、おじさまの名前を言ってご用があったら、お家に来て頂戴と言おうかと考えたけど、お名前を出すのが悪いと思ってやめといたわ。」
「名前なんか出すのはよしなさい、言わないのが、りこうなんだ。」
「じゃ、あたい、りこうだったわね。」
「自然にふせぐ手をきみは知っていて、それを自分で考えないでやっていたことは、やはり身をまもることを知っていた訳なんだ。」
「おじさま、」
「なに。」
「あたい、お腹がきゅうに空いちゃった。お茶一杯飲まないでいたんですもの。」
「ではでもおあがり。」
「あたい、麩なんかぐにゃぐにゃしていや、塩からい、わかさぎの乾干からぼしがつっつきたいんですもの、くたびれちゃった。」
「じゃ乾干をおたべ。」
「あ、美味しい、おじさま、井戸水を汲んで来てちょうだい、柔らかい水にじっと、少時しばらく、かがみ込んで見たいわ。」
「よしよし、ほらおいしい井戸水だよ。」
「藻も少しいれてよ、古いのは棄てちゃって、ごわごわした生きのいいのがいいわ。あ、わすれていた。どう、この歯は立派でしょう。」
「あってもなくてもいいのに、おしゃれだね、きみは、」
「だって晩にはしくしくと何時までも疼いて、どうにも手がつけられないんですもの、おじさまがそんなに冷淡なこと仰有ると、化けて出るわよ。」
「金魚が化けられるものかい。」
「あたいね、ときどきね、死んだら、も一度化けてもいいからお逢いしたいわ、どんなお顔をしていらっしゃるか見たいんですもの。あたい達の命ってみじかいでしょう、だから化けられたら、何時か化けて出てみたいと思うわよ。」
「まだまだ死なないよ。夏は永いし秋もゆっくりだもの、冬は怖いけれど。」
「冬は怖いわね、からだの色がうすくなっちまうし、おじさまはお庭に出なくなるし、ねえ、冬んなったらお部屋にいれてね。」
「入れて大事にしてやるよ、暖かい日向にね。そしてわかさぎの乾干をやるよ。」
「鏡のついた箱入の餌もね、こまかく叮嚀にかなづちで砕いて、」
「溝川のみじんこ・みみずもさがして歩くよ、きみはあれが好きだから。」
「あ、嬉しい。おじさまは、何時も、しんせつだから好きだわ、弱っちゃった、また好きになっちゃった、あたいって誰でもすぐ好きになるんだもん、好きにならないように気をつけていながら、ほんのちょっとの間に好きになるんだもの。此間ね、あたいのお友達が男の人に、一日じゅうお手紙を書いていたわ、人が好きになるということは愉しいことのなかでも、一等愉しいことでございます。人が人を好きになることほど、うれしいという言葉が突きとめられることがございません、好きという扉を何枚ひらいて行っても、それは好きでつくり上げられている、お家のようなものなんです、と、そのかたの文章がうまくて、後のほうでしめくくりをこんなふうにつけてありました。わたくし旅行先でお菓子を沢山買って、それを旅館に持ってかえって眺めていると、誰が最初にお菓子を作ることを考えたのでしょうと、そんな莫迦ばかみたいなことも書いてございました。」
「きみはいくつになる。」
「あたい、生れて三年経っているの、だから、こんなにからだが大きいの。」
「人間でいうと二十歳くらいかな、頭なぞがっちりしているね。」
「ええ。でも、おじさま、人を好くということは愉しいことでございますという言葉は、とても派手だけれど、本物の美しさでうざうざしているわね。」
「それ以上の言葉は先ず見つからないね、女の人の言葉としては正直すぎているくらいで、誰でもそうは書けないものがあるね、大胆な表現でしかも極めて普通なところがいいね、どんな人なの。」
「逢ってみたいの。」
「きれいな人かどうか、それが気がかりなのさ。」
「それはそれはきれいな人よ。せいは低いけど。」
「何をしている人なんだ。」
「或る雑誌の編集をしている方、海棠夫人という名前がついている方なの。」
「その手紙を貰った相手は誰。」
「歌舞伎俳優だったのだけれど、いまは、たまにしか出ない名のある俳優なのね、おじさまはきっと名前をいえばお判りでしょうけど、あたい、お友達から口どめされているから、言えないわ。けどね、人を好くということは愉しいことでございますというのは、とても、たまらないよい言葉ね、人を好くということは、おじさま、言ってごらん遊ばせ。」
「いやだよ、いい年をしてさ。」
「ね、一ぺんこっきりでいいから言って見て頂戴、男の人の口からそれを聞いてみたいんだもの、人を好くということは愉しいことでございます、……」
「人を好くということは、……」
「愉しいことでございます、と、息をいれずにひと息に仰有るのよ、おじさまったら、歯がゆくてじれったいわよ、人を好くということは愉しいことでございますと言うのよ。」
「人を好くということは、……」
「またどもったわね、ずっと一気につづけるんだと言っているじゃないの。」
「人を好くということは、……」
「すぐ、あとを言いつづけるのよ。判らない方ね。」
「僕にはとてもいえない、かんにんしてくれ。」
「何て年よりのくせにはにかみやだろう、もう言わなくてもいいわよ。」
おこったね、じゃ言うよ、人を好くということは人間の持つ一等すぐれた感情でございます。」
「ちがうわね、勝手に言葉を作ってはだめじゃないの、人を好くということは、ほら、早くさ。」
「人を好くということは、……」
「何てじれったいおじさまでしょう、それで小説家だの何のって可笑おかしいわよ、あたいの言葉の終らない前に続けるのよ、人を好くということは、なのよ、あら、黙っちゃった。」
「…………」
「言わないの、早くさ。」
「僕はだめだ、きみひとりで其処で何度でも言ってくれ、僕はばかばかしくなるばかりだ。」
「わかさがないのね。」
「何もないよ、すっからかんだよ、好きでも口にはいえない言葉というものがあるもんだ。」
「あたいね、おじさまみたいなお年よりきらいになっちゃった、幾らいってもテンポがのろくて、じれじれして噛みつきたいくらいだわ。」
「金魚に噛みつかれたって痛かないよ、いくらでも噛みつくがいいよ。」
「あんなことを言っている、あたいだって一生懸命に噛みついたら、おじさまの痩せた頬のにくなんか、みとるわよ。」
「怖いね、大きな眼をして。」
「おじさまと遊んでやらなかったら困るでしょう。呼んだって返事しないからね。」
「慍るな、あやまる、きみが遊んでくれなかったら、誰と遊んだらいいんだ。」
「じゃ、先刻のことをもう一遍くり返していうのよ、ね、いいこと、人を好くということは、……」
「人を好くということは愉しいものです。」

「おじさま、早く起きて。」
「すぐ起きるよ、石が着いたらしいね。」
「どんどん着いているわよ、表に出て見て驚いちゃった。道ばたは通れないくらい積み上げて行ったわ。」
「まだまだ運んでくるよ、そうだな、今日一杯運搬はかかるね。」
「あんなに石をお買いになって、何をなさるおつもりなの。」
「あれで石の塀をつくるんだよ、石の塀は燃えないからね。」
「此間の火事でお懲りになったのね、あんとき、あたいくらいある大きい火の粉がどんどん降って来たわね、あたい、水の底から見ていると、しゅっと水に落ちた火の粉で、あたいのいるところの水まで熱くなっちゃった。おじさまが来なかったら水が熱く沸いて了って、死んでいたかも知れないわ。」
「平ったくなって水底でふるえていたね、眼だけ大きく開けて、」
「でも呼んだら来てくだすって、たすかったわ、あたい、あれからずっと眼が焼けたようにへんになっているのよ。」
「まるで二疋ずつ重なってふくれて見えた程だ、金魚に火事と来たら、それ以上の赤い色ないね、だからあの晩からおじさんは考え続けたのさ。」
「石の塀をおつくりになることでしょう。」
「今までの竹の胡麻穂だと燐寸一本で、火が一面にひろがるからね、まるで家の周囲に燃えやすい焚附たきつけを置いていたようなものなんだ。」
「火事があったら小母さまの足が立たないから、なかなか逃げ出せないし、あたいは小ちゃいからお手伝いができないもん、その前にあたいなんかあぶられて死んじまっているかも知れないわ、おじさまはどうして小母さまを背負い出すおつもりなの。」
「そこで塀は石につくりかえることに考えついたんだ。おじさんが死んだ後に垣根を結い返す必要もないしね、胡麻穂の垣根ってお金がかかるんだ、息子や娘がいてもみんなお金がとれないから、垣根をやり代えることも、一年遅れになり五年八年と遅れてボロ家にボロの垣根になってしまう、きみはおじさんの大事な友達だけれど、それはただの金魚というぴかぴかのおさかなに過ぎないしね。」
「何の役にも立たないわね、ただ、おじさまの精神的なパトロンみたいにはなっているけど、一緒に寝ることもできないわね。」
「生意気なことは、誰よりも生意気だし、……」
「おじさま、早く起きてよ。」
「いますぐ。」
「おじさま、あれ何て石なの、まぶしいくらい白っぽくて、かさかさして眼に痛いの。」
「あれは大谷石という石なの、あれで家のまわりをぐるっと包んで、火事があっても今までのように燃える心配がないだろう。七段くらい積み上げればね。」
「まるでお城みたいになるわね、気がついてよかったわ。」
「とうに気がついていたけれど、おじさんには、そんなお金がいままでになかったのだよ。」
「じゃ、いまあるの。」
「このごろのおじさんはね、やっと石塀くらい作れるようになった。人間は一生かかっていながら、垣根も結えない時が続いた訳だね。」
「おじさまは何でも一生かかってなさる事はしているわね、お庭、やきもの、お仕事、みんな晩成おくてなのね。」
「なまいき言うな。」
「おじさま、いろいろお物入りばかりつづくけれど、あたい、おねがいが一つございますけれど、とうから考えていたんだけれど、こんどはついでに作っていただきたいんです。」
「どういう頼みか、いってごらん。」
「あたいのお家もついでにつくってほしいの、あの石でまわりを囲うて広びろとしたお池みたいにしていただいて、真中にりゅうとした噴水をしかけて、噴き水がしたしたといちにち、山あいの滝のようにしぶくお家がほしいんです、その中であたい、おじさまに扇の孔雀のように泳いでお見せすることも出来るし、おじさまの好きな大口を開けてうたうことも出来るわ。」
「だんだんぜいたくになってくるね、作って上げるよ、そのつもりで黒い石もたくさん買って置いたんだ。」
「あ、嬉しい、あたい、白い石ばかりかと思って内々不服だったけれど、黒い石もお買いになっていたの、とても嬉しいわ、だからおじさまは気が利いていて好きだというのよ、尾のところにおさわりになってもいいわ、くすぐったくないよう、そよろそよろとお触りになるのよ。おじさま、尾にのめのめのものがあるでしょう、あれをおめになると、あんまりあまくはないけど、とてもおいしいわよ、しごいてお取りになってもいいわよ。」
「そんなことしたら、きみは泳げなくなるじゃないか。」
「すぐ作れるもの、いくらでも次からのめのめのあぶらが湧いて出てくるわ。あたい、あののめのめの沢山湧いている日が一等うれしい日なのよ、こう言っているまにぐんぐん湧いてくるわ。」
「尾の附根が光り出したね、ちょいと失礼だけれど、お尋ねしますがね、おこり出したらいけないよ。」
「なあに、」
「一たい金魚のおしりって何処にあるのかね。」
「あるわよ、附根からちょっと上の方なのよ。」
「ちっとも美しくないじゃないか、すぼっとしているだけだね。」
「金魚はお腹が派手だから、お臀のかわりになるのよ。」
「そうかい、人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕栄えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお臀のうえには、いつだって生き物は一疋もいないし、草一本だって生えていない穏かさだからね、僕の友達がね、あのお臀の上で首をくくりたいというやつがいたが、全く死場所ではああいうつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。」
「おじさま、大きな声でそんなこと仰有ってはずかしくなるじゃないの、おじさまなぞは、お臀のことなぞ一生見ていても、見ていない振りしていらっしゃるものよ、たとえ人がお臀のことを仰有っても、横向いて知らん顔をしていてこそ紳士なのよ。」
「そうはゆかんよ、夕栄えは死ぬまでかがやかしいからね、それがお臀にあたっていたら、言語に絶する美しさだからね。」
「おばかさん、そんなこと平気で仰有るなら、あたい、もう遊んであげないわよ。人間も金魚もいつもきちんとしたことばを口にすべきだわ。お臀って自分で見られないように、後ろ側についていて、人間の中でも一生自分のお臀を見ないで死ぬ人さえあるのに、おじさまったらその秘密がわからないの、どんな映画だってお臀だけは写さないわよ。」
「このあいだ『殿方ごめんあそばせ』って映画で、ブリジット・バルドーがお臀を見せるところがあったよ。可愛いお臀だった、もっとも、はなはだ瞬間的のものではあったがね。」
「おじさま、いやなところばかり見ていらっしゃるのね、あたい、おじさまと遊ぶのがまたいやになっちゃった。」
「人間でも金魚でも果物でも、円いというところが凡て一等美しいんだよ、十くらいの女の子がおしっこをしているのを外で見かけると、吃驚びっくりしていくらおじさまでも顔を反けたくなるね、自分というものを知らないでしていることが、それを全部知っている側から見ると、純潔以前の野蛮な感情で自分自身でどやしつけられるんだ。それが余りに不意に見なければならない状態に置かれた自分を責めたい気分だね、こまるね、そんな時はね。」
「あたいね、おじさまがコドモのおしっこしているのを見てさえ、自分のどこかに響かして考えようとするのは、不倖だとおもうわ、誰もそこまで考えをつきこんでいる人いないわよ。」
「そうかな、厭らしい事くらい反省を促してくるものがない筈だが、人間の子供のすることなぞ、一遍におじさまを遣附やっつけてくるんだ。いわば不倖かも知れないね、この不倖を不倖に感じない人間に、たまたま破廉恥な犯罪がうまれてくるんだね、今までにそのために何十人かの少女が殺されたかわからないね。おじさまだって自分を怖い処に立たせて見て、どれだけの分量で自分に厭らしさがあるかを調べているんだが、何時も恐ろしい結果がヘビのように首をあげてくるね、裁判官という人達はどれだけ他人をしらべていながら、犯罪者から教えられ又救われているか判らないね。だから人間は自分にあたえられたお臀ばかりを見つめくらしていさえすれば、他に苦情がおこらないんだ。たいがいの人間はそうしているんだよ。」
「おじさまは? おじさまだってまだお臀が見たいんでしょう。」
「そりゃ見たいさ。併し問題が夕栄えの景色から外したお臀のことになると、だんだん声が低くなるし大ぴらには言えなくなるね、おじさんの僅かばかり受けた教育がそうさせてくるんだね、人間に書物とか教養があたえられたことは、僕一人にとっても大へんな感謝に値するわけだね。」
「おじさまはそんなに永い間生きていらっして、何一等怖かったの、一生持てあましたことは何なの。」
「僕自身の性慾のことだね、こいつのためには実に困り抜いた、こいつの附きまとうたところでは、月も山の景色もなかったね、人間の美しさばかりが眼にはいって来て、それと自分とがつねに無関係だったことに、いよいよ美しいものと離れることが出来なかったね、やれるだけはやって見たがだめだった、何も貰えなかった、貰ったものは美しいものと無関係であったということだった、それがおじさんにたあいのない小説類を書かせたのだ、小説の中でおじさんはたくさんの愛人を持ち、たくさんの人を不倖にもしてみた。」
「おじさま、いい考えがうかんだのよ、おじさんとあたいのことをね、こい人同士にして見たらどうかしら、可笑しいかしら、誰も見ていないし誰も考えもしないことだもの。」
「そういう場合もあるだろうね、乞食のように生きてゆくひとは、犬や猫と生涯をおくることもあるからな、犬や猫は寝ていると女くさくなってゆくけれど、金魚とは寝ることが出来ないしキスも出来はしない、ただ、きみの言葉を僕がつくることによってきみを人間なみに扱えるだけだが、まアそれでもいいね、きみと恋仲になってもいいや、僕には美しすぎた過ぎ者かも知れないけれど、瞳は大きいしお腹だけはデブちゃんだけれどね。」
「あたいね、おじさまのお腹のうえをちょろちょろ泳いでいってあげるし、あんよのふとももの上にも乗ってあげてもいいわ、お背中からのぼって髪の中にもぐりこんで、顔にも泳いでいって、おくちのところにしばらくとまっていてもいいのよ、そしたらおじさま、キスが出来るじゃないの、あたい、大きい眼を一杯にひらいて唇をうんとひらくわ、あたいの唇は大きいし、のめのめがあるし、ちからもあるわよ。」
「しまいに過ってきみを呑みこんで了ったらどうなる、それが一大事件だ。」
「そしたらお腹の中をひとまわりして、また上唇のうえにもどって出てくるわよ、金魚ですもの、ねばり気のあるところでは、あたいのからだはどんなに小さくも伸び縮みすることが出来るし、早く泳ぐこともできるのよ。どう、お腹のうえを泳いであげたら、おじさまはくすぐったくなり嬉しくなるでしょう。」
「そうね面白いだろうね、けど、擽ったくてかなわないだろう、ぴちぴち跳ねられたら?」
「そっとして上げるわ、慎重に。」
「なにぶん、よろしく頼むよ。」
「では恋人になるわね。」
「何て呼んだらいいんだ、名前からつけなきゃ。」
「赤い井のなかの赤子、赤井赤子ってのはどう。」
「いいね、あか子、赤井赤子というのはちょっと変っていて、呼びいいね。ではそう呼ぶことにしよう。」
「それからね、いろいろ物を買っていただかなくちゃ、あたい、何一つ持っていないんですもの、頸飾ネックレスだの、時計だの、時計はきん色をしたぴかぴかしたのね、それから指環もいるけど靴だの洋服だの、……」
「きみがそんな物を着たりめたりしたら、お化けみたいじゃないか。」
「お化けでも何でもいいわよ、買っていただけるの。」
「買うよ、おじさんの買物を控えめにすれば、何でも買える。」
「も一つ肝腎なことは毎月小遣どれくらい貰えるの、それを決めてかからなきゃ、それが一等肝腎なことだと思うわ。」
「そうだな、千円もあればいいんじゃないか。」
「千円ぽっちで何か買えるとお思いになるの、どんなにすくなくとも五万円いただかなくちゃ暮せないわよ。」
「五万円という金はおじさんの小説一つ書いたお金の高だよ、それだけ毎月きみに上げたらおじさんこそ、どう暮していいか判らない、まアせいぜい一万円くらいだよ、それで尠なかったら恋人はやめだ。」
「こまるわ、一万円じゃ。じゃね、クリイムだのクチベニのお金は時々べつの雑費として出していただけます?」
「それは随時に出すことにするよ、現金では一万円以上はとても出せないよ、金魚のくせに金取ってどうするつもりなの。」
「じゃ一万円でいいわ、ふふ、一万円の恋人ね、あたい、はたらくことにするわ、縁日の金魚だらいに出てゆくわ。」
「そしてどうする。」
「買って行った人の家から、晩方にはおじさまの家に直ぐ逃げてもどるわ、あたいは一疋で三百円が懸値かけねのないおねだんだから、逃げ出してはまた別の金魚屋に売られて、またおじさまの処に戻って来るわ。」
「見附かったらどうする、殺されるぜ。」
「人間ってけちだから三百円もする金魚は決して殺しはしないわよ、それに、皆さんは金魚だけはどんな残酷屋さんでも、殺すもんですか、金魚は生涯可愛がられることしか、皆さんから貰ってないもの、金魚を見て怒る人もまた憎む人もいないわ、金魚は愛されているだけなのよ、おじさまも、それだけは頭に入れて置いてあたいをいじめたり、怒らせたりしちゃだめよ。」
「判った、きみはえらい金魚だ、娼婦であるが心理学者でもある金魚だ。」
「昔、支那の皇帝がお池で金魚の衣裳を着けた女達を泳がせたことがあるの、それ以来金魚は擬人法をならうことが出来たし、水の中でうんこをすることも覚えたの。」
「じゃ何かい、そのお池で誰かがうんこをもらした女がいたの。」
「そうらしいわ、金魚唐史に出ているわ、支那から泳いで来たというのはでたらめだわね。きっと商人達がもうけるためにお船で持って来たのよ、おじさま、もう、そろそろ寝ましょうよ、今夜はあたいの初夜だから大事にして頂戴。」
「大事にしてあげるよ、おじさんも人間の女たちがもう相手にしてくれないので、とうとう金魚と寝ることになったが、おもえばハカナイ世の中に変ったものだ、トシヲトルということは謙遜なことおびただしいね、ここへおいで、髪をといてあげよう。」
「これは美しい毛布ね。」
「タータン・チェックでイギリスの兵隊さんのスカートなんだよ、きみに持って来いの模様だね。」
「これ頂戴、」
「何にするの、厚ぼったくて着られはしないじゃないか。」
「大丈夫、スカートにいたします、まあ、なぜお笑いになるの。」
「だってきみがスカートをはいたら、どうなる、」
「見ていらっしゃい、ちゃんと作ってお見せするから。どう、あたい、つめたいからだをしているでしょう。ほら、ここがお腹なのよ。」
「お、冷たい。」
「むかしね、おじさま、」
「また秦の始皇が大きな鯉と寝て風邪をひいたという話でしょう、それなら何遍も聴いたよ、それでなきゃ唐の姫達が一疋ずつ金魚を口にふくんで、皇帝の穏座おんざを飾ったという話だろう、うまいことを考えついたものだね。金魚をくわえて伺候するなんてね。」
「むかしむかしね、おじさま。」
「ふむ。」
「あたい達の眼があんまり動かないので、瞬きをして表情を多様にするための眼のお医者様がいたのよ、いまの眼を大きくする病院みたいなところなのよ、その眼医者がたいへん流行はやっちゃって、みんな、眼の治療に行ったけれど、後でよく気がつくと、眼ん玉が引っくり返っただけで依然として、金魚の眼はまたたくことが出来ないで、じっとしているじゃないの。」
「金魚の眼はいやに動かない眼だな。」
「だから紅鱗こうりんひとみきそい、瞳孔どうこうひとこれを見ずという悲しい詩があるくらいだわ、おじさま、そんなに尾っぽをいじくっちゃだめ、いたいわよ、尾っぽはね、根元のほうから先の方に向けて、そっと撫でおろすようにしないと、弱い扇だからすぐ裂けるわよ、そう、そんなふうに水のさわるように撫でるの、なんともいえない触りぐあいでしょう、世界じゅうにこんなゆめみたいなものないでしょう。」
「先ず絶無といっていいね、人間なら舌というところだ。」
「あとでお腹の掃除もしてあげるわ。」
「何処に行くの、じっとしていたまえ、」
「背中のようすを見てから、胸のうえに登ってと、まるでお山が続いているみたいね。人間一人をつかまえてしらべて見ると、とても、大きいくじらみたいなものだわね。」
「寝たまえ、おしゃべりはいい加減にして寝たまえ。」
「ええ。おじさまは明日は何をなさるおつもり。」
「明日はね、石の塀をつくるんだ、職人衆の来る前に起きて、指図をしたり形をきめなければならないんで忙しいんだよ。」
「あたい、どうしていたらいいの。」
「あたいは一人で遊んでいたらいいんだ。目高を呑みこんだり吐き出したりしていればいいよ。」
「おじさまは遊んでくれないの、つまんないな。」
「きみと遊んでばかりいられないよ、そのほかに仕事もあるんだ。」
「また小説でしょう、あたいのことなぞ書いちゃいやよ、書く人と書かれる人のちがいは、大変なちがいだから書かないでよ、」
「ところがね、おじさんは此間から金魚はなぜあんなみじかい生涯を生きなければならないかと、そんな事をしじゅう、考え続けているんだ、たとえば目高は人間にしたしまないが、金魚はあしおとがすると、すぐ集まってくる、そこに目高と金魚の遠近が人類とむすびついて来る。」
「つまんない事を仰有るわね、それより、此方を向いて頂戴、ことわざに曰く作家老いて悲境に陥るということがあるが、おじさまもその部類ね、かくごはしていた、なんて仰有るけど、こうみるとすでにふつうの人の百歳の年齢に足をふみいれているわね、足はがさがさして鹿の足のごとく、お背中はやっと張っているだけね、遠い遠い百歳がもうやって来ているわね、七十歳でもう百歳の人、あるだけを書き、あるだけを叩き売った心のぼろを提げている踵のヤブれた人、そんなひとがさ、あたいのような若いのと一緒に寝るのは、百歳にして恋を得たとほこりがましく仰有っても、いいくらいよ、あたいはもう金魚じゃないわね、一枚の渋紙同様のおじさまだって生きていらっしゃるんだもの、一たい何処にいのちがあるのよ、いのちの在るところを教えていただきたいわ。」
「おじさんはおじさんを考えてみても、いのちを知るのに理窟を感じてだめだが、金魚を見ているとかえっていのちの状態が判る。ひねり潰せばわけもない命のあわれさを覚えるが、おじさん自身のいのちをさぐる時には、大論文を書かなければならない面倒さがある。」
「論文なんていやね。そしてあたいが麩をたべているときに、いのちを感じると仰有りたいんでしょう。あたいの生きていることは、おじさまを困らせている時ばかりだ。」
「スーツを買え靴を買えという時か。」
「そのほかにもある。追々わかってくるわ。しまいにおじさまはあたいを煩さがって、何処かに捨てに行きやしないかと思うことがあるわ。でなきゃ殺してしまうかの二つだわ。」
「きみが木々の間を泳ぎまわりおじさんにいているあいだ、おじさんはきみを大事にしているんだ、きみは何処にでも匿すことが出来るし邪魔にはならない。」
「おじさま、何時あたいが木の間に泳いでいるのをごらんになったの、」
「明るい日の中の梢に何だろうと見ていると、きみの泳いでいるすがたが見えていた。池を見るときみはいなかったのだ。きみは恐ろしい金魚だ、木の間をつたい、木の下におりて行ったが、いまでも本当の事だとはおもえないくらいだ。」
「あたいだってあれは本当のことに思えないわ。おじさま、仰向いて寝てよ、あたい、お腹のうえだと、とてもお話しよいのよ。」
「おじさんの方からは、顔がよく見えないじゃないか。」
「これでいい?」
「あ、それでいい、だいぶ、からだが温まって来たね、お腹がふにゃふにゃしてきたじゃないか。」
「お腹が空いてきたのよ、お水と餌とを持って来て頂戴、なんか大きな鉢のようなものに水を一杯入れてきてね、時どき、ざんぶりとはいらないと呼吸ぐるしいわ、ついでに揚タオルもね、早くね。」
「はい、はい。」
「おじさまはしんせつね、美味しいお水ね、冷蔵庫から取り出して来たのでしょう、おう冷たい、あ、色が変るくらい冷たいわね。」
「はい、干鱈ひだら。」
「こまかく刻んでくだすったわ、しょっぱくていい気持、おじさま、して。」
「キスかい。」
「あたいのは冷たいけれど、のめっとしていいでしょう、何の匂いがするか知っていらっしゃる。空と水の匂いよ、おじさま、もう一遍して。」
「君の口も人間の口も、その大きさからは大したちがいはないね、こりこりしていて妙なキスだね。」
「だからおじさまも口を小さくすぼめてするのよ、そう、じっとしていてね、それでいいわ、ではお寝みなさいまし。」

二、おばさま達


「石の上に子供達が集まって遊んでいるわよ、あれ、崩れたら、下敷きになっちまうわ。」
「そりゃ困るね、そんなに高く積み上げて行ったのか。」
「上へ上へと積み上げたもんだから、一等上の方から、地面を見ていると、眩暈めまいがして来るくらい高いわ。」
「きみ行って、子供を下ろしてしまえ。」
「ええ、そう言ってくるわ。あの、皆さん、その石の上で遊んじゃだめ、危いわよ、崩れて下になったら、死んじまう、お利口さんだから別の処に行って遊んで頂戴、ほら、ね、きゅうには降りられないでしょう、さあ、あたいが抱っこして上げるから、彼方に行って。」
「皆、行ったか。」
「行ったわ、あたいの顔を不思議そうに見ていて、あの人誰だい、あんな人、あの家で見たことがないじゃないか、と言っていたわ。」
「きみは派手な顔をしているからな。」
「おじさま、また来たわよ、怖いお隣の地主さんが来たわ、きっと、離れがお隣の地所に屋根をつん出しているのを、今度は何とかしなきゃね。」
「離れを一尺くらい、がりがり削り取るんだね。」
「こんどは石の塀だから、ふつうの場合とちがうわよ、どうなさる。」
「大工を呼んで境界ぎりぎりに削り取るんだ。でないと裁判沙汰になるし、法律では幅一尺の十五間分けんぶんの、つまりその三十年間の地代も払わなければならなくなる、やはり離れをこわすことになるんだ。」
「可哀そうなおじさまね、でも、やむをえないわね。」
「やむをえないね。併し片側の出来栄えは、なかなかいいじゃないか。やっと今度こそ生涯の垣根が出来た訳だ。」
「おじさま、此処へいらっしゃい、石塀の上に腰かけていると、ずっと町の彼方まで見えて来て、いい気持だわよ。」
「高きに登るということは、いいね。石塀を作って置いて宜かった。」
「あたいね、おじさまがおはなれをお毀しになるか、そのまま突っぱねるかどうかと、じっと見ていたわ。」
「この前、そうだな五年くらい前だ、お隣のおじさんが来てね、あなたも名誉のある方だから、いますぐとは申しませんが、塀を作りかえるような事があったら、地所は還してくださいと、そう言われていたんだ、地所といったって、僅か一尺に足りない軒先だけがお隣に飛び出していたんだがね、そこでお隣では、後日のために一枚の書附をくれといってね、おじさんは書附を書いて渡して置いたんだよ。」
「どう、お書きになった。」
「必要の時期にははなれを取毀しても、地所の出っ張りを引っこめますと書いたね。」
「その時期が来て了ったのね、今度は石の塀だから永い間壊れないから、軒先を引っこめたのね、だから、おはなれのお床の間がまがっちゃった。」
「だから素直にこわして雨落ちも、お隣に落ちないようにしたんだ。」
「地所というものは、憂鬱な境をもっているものね。」
「人間はむかしから国と国の間でも、そのために戦争もして来たんだし、個人の間でも、がみがみ咬み合ったもんだよ、だから、おじさんは地所というものは、一坪も持っていない、此の家も借地だし軽井沢の地所も借りている。」
「軽井沢に一度連れて行ってよ、汽車の中でも、温和しくしていますから連れてって。」
「土瓶に水をいれて、きみをつれて行くか。」
「駅々で水をかえてくださらなきゃだめ。水が列車でゆれどおしだから、あたい、ふらふらになっちゃって、とても草臥くたびれてしまうのよ。」
「山の水はきみにはどうか。」
「山の水にひたると、あたいのからだは燃え上って来るし、瞳は一そうキラキラになるわ。あたい、おじさまと毎日山登りをするわ。ね、考えても愉しいじゃないの。魚は木を越え山に登ると、誰かもいったじゃない? あたい、せいぜい美しい眼をして見せ、おじさまをとろりとさせてあげるわ。」
「きみは人間に化けられないか。」
「毎日化けているじゃないの、これより化けようがないじゃないの。」
「もっと美しい女になって、見せてほしいんだ。」
「おじさまはどうして、そんなに年じゅう女おんなって、女がお好きなの。」
「女のきらいな男なんてものは、世界に一人もいはしないよ、女がきらいだという男に会ったことがない。」
「だっておじさまのような、お年になっても、まだ、そんなに女が好きだなんていうのは、少し異常じゃないかしら。」
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、もっとも、性器というものはつかわないと、しまいには、つかい物にならない悲劇に出会すけれど、だから生きたかったら、つかわなければならないんだ、何よりそれが恐ろしいんだ、おじさんもね、七十くらいのジジイを少年の時分に見ていて、あんな奴、もう半分くたばってやがると、蹶飛けとばしてやりたいような気になって見ていたがね、それがさ、七十になってみると人間のみずみずしさに至っては、まるで驚いて自分を見直すくらいになっているんだ。」
「性器なんていやなこと、平気でおっしゃるわね。そんなことは、口になさらない方が立派なのよ。」
「心臓も性器もおなじくらい大事なんだ。なにも羞かしいことなんかないさ、そりゃ、おじさんだって性器というものには、こいつが失くなってしまえば、どんなに爽やかになるかも知れないと、ひそかに考えたこともあったけれどね、やはりあった方がいいし、あることは、どこかで何事かが行える望みがあるというもんだ。」
「そんなこと大声でおっしゃっては、あたいがあかくなって了うじゃないの。人間のたしなみの中でも、一等謹んでそっとして置くべきことなのよ、口にすべきことじゃないわ。」
「そりゃそっとして置きたいんだよ、けれども一遍くらいは七十の人間だって百歳の人間だって、生きて脈打っていることを知りたいんだよ。」
「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」
「だからきみとつきあっているじゃないか。おじさんが牧師や教員のまねをしていたら、生きることに損をする。そりゃ綺麗に生きるためにも、したいことはするんだ。きみはいま、おじさんのふとももの上に乗っているでしょう、そして時々そっと横になって光ったお腹を見せびらかしているだろう、それでいて自分で羞かしいと思ったことがないの。」
「ちっとも羞かしいことなんか、ないわよ、あたい、おじさまが親切にしてくださるから、甘えられるだけ甘えてみたいのよ、元日の朝の牛乳のように、甘いのをあじわっていたいの。」
「それ見たまえ、ちんぴらのきみだって、自分のつくったところに、とろけようとしているんじゃないか。何も解りもしないきみが、こすり附けたり噛みついたりしていても、それでっとも羞かしい気がしないのは、きみがらくなことをらくに愉しんでいるからなんだ。」
「あら、そうなるか知ら。だったら、羞かしくなるわね。」
「亢奮してからだじゅうぴかぴかじゃないか。これでおじさんの先刻から言ったこと解っただろう。」
「解ったわ。ごめんね、なんだかあたい、ふだん考えていること匿していたのね。」
「実際に行うていながらね。」
「つじつまが合わなかったわね。」
「つまり年をとると、本物だけになって生きかえっているところがあるんだよ。」
「だから若いひとがいいの。」
「こちらが少年になっているから、結局、若いのがよくなる。」
「けどね、おじいちゃんが若い人を好くというのは、ちょっと、いやあね。見苦しいわ。」
「ちっとも醜悪じゃない、当り前のことなんだ。」
「だから、あたいのような若いんじゃなくては、だめだというの。」
「きみより若いひとはいないね、たった三歳だからね。三歳のきみが七十歳のおじさんと、腕をくんで山登りするなんて、世界に二つとない珍風景だね。きみはきまりの悪い思いをしないか。」
「あたいは本当は、おさかなでしょう。だからちっとも羞かしくないわ。おじさまは他のかたにおあいになったら、きっとお困りでしょうに。」
「なるべく隠れて歩きたいな、発見みつけられたって構いはしないけど、おじさんの生きる月日があとに詰ってたくさんないんだもの、だから世間なんて構っていられないんだ。わらおうとする奴に嗤って貰い、許してくれる者には許してもらうだけなんだよ。きみはきらいかも知れないけど、その点で実に図々しく大手を振って歩けるんだよ、世間で手を叩いて莫迦ばか扱いにしたって平気なもんだ。生きるのに何を皆さんに遠慮する必要があるもんか。」
「おじさまはとても図太いことばかり、はっとすることをぬけぬけと仰有る。そうかと思うと、あたいのお尻を拭いてくださるし……」
「だってきみのうんこは半分出て、半分お尻に食っ附いていて、何時も苦しそうで見ていられないから、拭いてやるんだよ、どう、らくになっただろう。」
「ええ、ありがとう、あたいね、何時でも、ひけつする癖があるのよ。」
「美人というものは、大概、ひけつするものらしいんだよ、固くてね。」
「あら、じゃ、美人でなかったら、ひけつしないこと。」
「しないね、美人はうんこまで美人だからね。」
「では、どんな、うんこするの。」
「固いかんかんのそれは球みたいで、決してくずれてなんかいない奴だ。」
「くずれていては美しくないわね、何だかわかって来たわよ。」
「きめのこまかいひとはね、胃ぶくろでも内臓の中でも、何でも彼でも、きめが同じようにこまかいんだよ、うんこも従ってそうなるんだ。」
「おじさま、うかがいますが、あたい美人なの、どうなの教えて。」
「きみは美人だとも、きみのまわりに何時も十人くらいの子供が、うやうやしてきみを飽きることも知らないで眺めている。」
「どの子もお金を持っていないで、眺めているだけね。可哀想ね、子供はお金を持ってはいけないの。」
「子供はほかの事にお金をみんな使ってしまって、最後に金魚屋の前を通って、失敗しまった、あんなにお金はつかうんじゃなかったと、悲しげに金魚を眺めているだけなんだよ。何時も何時もそうなんだよ。」
「わかったわ、で、みんな悲観して茫然と立っているだけなのね。金魚は買えないし、見れば見るほど美しい、だから、先刻から一時間も立って眺めている、……おじさま、金魚を一尾ずつでもいいから、子供達に買ってあげてよ。」
「うむ、ほら、お金だ、きみが買ってみんなに頒けてやるがいい。」
「ありがとう。子供の顔ったら悲しそうで見ていられないわ。あら、あの金魚屋さんは、凝乎じっと先刻からふしぎそうにあたいの顔を見ている、……」
「どこかに見おぼえがあるらしいんだな。」
「あたいもの顔だけはわすれることが出来ないわ。毎日の顔ばかり見ていて、そだって来たんだもん、いまあたい、おじさまの頬っぺを引っぱたいても、慍らないでよ。」
「どうしてそんな事をする。」
「あたいがえらくなった証拠を、金魚屋さんの眼に見せてやるのよ、きっと驚くでしょう。」
「じゃ、引っぱたいてもいいよ。」
「ごめんよ、びっしりとゆくわよ、痛くないこと、」
「ちっとも、」
「金魚屋さんたらあきれちゃって、此方をきょとんとした眼で見て、口を開けたまんま言葉も出ないふうね。」
「他の者には女に見え、金魚屋には金魚に見えるきみが不思議なんだろう。」
「その金魚がお金を持ってね、金魚を買いに行くということは嬉しいお話じゃないの、ほらね、子供達がみんな此方を向いて、金魚をすくい出し始めたじゃないの。坊や、大きいのを上げるわよ、おばちゃんがお金払うから、心配しないで、どんどん、すくい上げていいのよ。」
「おばちゃん、十人もいるんだぜ。」
「何十人いたっていいわよ、おばちゃんは、きょうは、お金はうんと持っているんだ。」
「そんなら、証拠にお金を見せてよ、おばちゃん。」
「これだけみんな買ってあげるわ。あるだけたらいの金魚をすくい出して持ってお帰りになるがいいわ。ほしけりゃ金魚屋のおじいちゃんも売ってもいいわよ、ふふ、……こんにちはお久しく、おじいちゃま。」
「おう、三さいっ子、あれがおめえのだんなかい、うまくやったな、よぼよぼは直ぐかたがつくから、しこたま貰っとくがいいぜ。」
「何言ってんの、だんなじゃなくてセンセイだわ、締め殺したって死ぬ方じゃないわよ、心臓には鉄屑が一杯つまっていらっしゃるから、あんたなんぞの手に負えはしない。」
「それじゃ機関車じゃねえか。」
「旧式の機関車なもんだから、森林でも山でも、咬み倒して走ってゆくわよ。」
「おめえは一たい、あの方のなんなんだ、わかった、おめかけさんだな。」
「あたい、あの方のこれなのよ、お妾さんなんかじゃないわ、も一遍、ほっぺ叩いて見せてあげるわ、ね、ちっとも、お慍りにならないでしょう、あたいの言うこと何だって聞いてくれるのよ、いまにお池と魚洞うろをつくってくださるお約束なの、おじいちゃま、お金がほしかったら、こんど来る時にうんと金魚持っていらっしゃい、お池に放すんだから、どれだけ居たって足りることはないわ。」
「おめえは偉い金魚に、何時の間に早変りしたんだ。」
「対手次第でどんなにでも、かわれば変ることが出来るものよ、多少バカでもね。」
「いつでも鏡台にむかってべそ掻いていたからな、お客はつかないしからだは弱いしね。だが、三歳っ子、こんだ当てたな、あのじじイ、したたかな顔をしているが、商売は一体何だ。」
「知らない。」
「知らないことあるもんか、こそっとおらにだけ言えよ。」
「知らないったら知らないわよ、知っていたって金魚屋さんなんかに、あの人のこと言うもんですか。」
「言えない商売ならどろぼうか、かたりの類だろう、だが、どろぼうが石塀の中に住むことは、ねえからな。ひょっとすると図面引きかな。なんとか言ってくれよ。」
「知らない、あたい、あの方のこと言わないってお約束がしてあんだから、いくら、おじいちゃまだって言えないわ、誰にだっていうもんか。おうい、おじさま、そろそろお出掛けのお時間よ、早くおひげを剃ってお湯にはいって、ご用意なさらなければ、時間に遅れたら大変なことになるわよ。」
「憂鬱だな、講演というものはもう三日前から、食慾がなくなって了うし、胸はっぱくなるし、元気までなくなる、……」
「だってこの間からお書きになっていた原稿を程よく、時間をお置きになってろうどくなさればいいのよ、さあ、お髭をお剃りになって。」
「きみは来てはだめだよ。」
「だってあたいがいなかったら、おじさまはびくびくして講演出来ないじゃないの。あたい、うしろに隠れていて、おしりをつねっておあげするわ。」
「だからお節介せっかいはやめてくれと言うんだ。一人なら吃りながらでもしゃべれるが、きみがいると気が散るんだ、頼む、きょうは来ないでくれ。」
「なんて悲壮なお顔なさるわね、じゃ、行かないわよ。」
「慍るなよ、おじさんは一人だと、さばさばして何でもお喋りが出来るんだ。」
「じゃ、まいりません、あんしんして行っていらっしゃい。階段はすべるから気をつけてね。それから、パイプをわすれないで持って帰っていらっしゃい。」
「じゃ行って来る。」
テエブルの上にコップと水を頼んで置かなくちゃね。お話に詰ったら、おひやをあがるがいいわ。たすかるわよ。」
「金魚じゃあるまいし、水なんかいらないよ、水ばかり飲んで降壇したらどうなるんだ。水を飲みに演壇に立つようなものだ。」
「それなら、なお拍手喝采だわ、コップの水を飲んで、それきりで降壇するエンゼツもあっていいじゃないの。」
「あ、困った。」
「くるまが来たわよ、あら、美しい婦人記者がお迎えなのよ。ぴちぴちしていて、くるまと同じ色の靴はいていらっしゃる。」
「きょうは美人も眼にはいらない。」
「なんて顔なさるの、ほら、お帽子よ。」
「じゃ、行って来る、来ないでくれよ。」
「じゃ、行ってらっしゃい。おじさま、顔、もう一遍見せて、それでいいわ、もう元気が出て来て、かくごをしたお顔色になっているわ。」

「あの、お見受けしたところ、どこか、おからだがお悪いんじゃございませんか。」
「は、少し何だかきゅうに。」
「たいへんお呼吸が苦しそうですが、お水でも、おあがりになりましたら?」
「水なんかあなた、会場ここではとても。」
「お水ならあたい、いいえ、わたくし、持っていますから、水筒の口からじかにおあがりくださいまし、さあ、どうぞ。」
「まあ、これは、恐れいります。」
「どうぞ、ぐっと、……」
「は、」
「もっと召しあがって、あ、おらくになって、お顔の色が出て来ましたわ。ほらね、呼吸づかいがちゃんと、平均して来たじゃございませんか。」
「は、どきどきするのが停ってまいりました。何とも、お礼のもうしようもございません。」
「もう、ちょっと召しあがれ。」
「あ、おいしい。もう、おさすり下さらなくても、結構でございます。どうぞ、お手をおろしてくださいまし。」
「お呼吸の苦しい間、お背中が強張こわばっていましたけれど、あ、そう、わたくしもお水いただいて置きましょう。お廊下に出ておやすみになったら? 上山さんの講演も終りましたし。」
「では、ごめいわくついでに、ご一緒にしていただきます。」
「このクッションには、よりかかりがあってよございます。」
「もうすっかり楽になりました。わたくし心臓が悪いものですから、会場に参ってからも気をつけていたんですけれど、ふいに、前の方が暗くなってしまいまして。」
「あなたが俯向うつむいていらっしっても、お呼吸のはあはあいうのが聴えて来るんですもの、驚いちゃってどうしようかと、ひとりで、うろたえてしまったんです。」
「あの、へんなことお聴きするようですけれど、どうしてお水をあんなに沢山お持ちに、なっていらっしったんでしょうか。」
「ええ、少し訳がございまして、……」
「あら、ごめんあそばせ、失礼なこともうし上げまして、あなたがそんなにお若いのにご要心深いと、ついそう思ったものですから。」
「わたくしは何時もお水がほしい性分なものですから、水筒をはなしたことが、まだ一度もございません。」
「お井戸の水でございますね。」
「よくごぞんじでいらっしゃいますこと。それより今日は誰方のご講演をお聴きにいらっしったんですか、まだ、ご講演がある筈なんですが。」
「わたくし上山さんのご講演をお聴きして、もう帰ろうと支度しかかっていて、つい、めまいがしたものですから。」
「上山さんをごぞんじでいらっしゃいますか。」
「上山さんに書き物を見ていただいたことがあるんです。十五年も前のことですが、滅多めったにご講演なぞなさらない方なものですから、お目にかかりたくても機会がなかったのですが、新聞でお名前を見て今日は早くから参っていたのが、からだにさわったのかも知れません。」
「まあ、おじさまと十五年も前に、お会いになっていらっしったんですか。」
「おじさまって仰有ると、それは上山さんのことですか、水筒に上山と書いてあったものですから、はっとしたのですが、上山さんのご親戚の方なんですか。」
「ええ、親戚の、そうね、孫のような者なんですけれど、お身のまわりの事も見ておあげしている者です、どう言ったら巧くわたくしの立場がいい現わせるか、いいにくいんですけど。」
「でも、おじさまってお呼びになっていらっしゃいますから、きっと、同じお家にいらっしゃるんでしょう。」
「え、きょうのご講演は聴きに来ちゃいけないって、厳しく申しつけられていたんですけれど、家にいるのがたまんなくて参りましたの、あたいがいなくては、上山は何も出来ないんですもの。」
「まあ、あたいってお可愛らしいことを仰有る。」
「もう、言っちゃったから言うけど、あたい、おじさまが失言したりなんかしないかと、びくびくして聴いていました。そしたら巧くお喋りになれてほっとしちゃったの。そしたらこんどは、あなたのおからだが悪くなって、それが会場総立ちになったらおじさまが可哀そうだから、お水をさし上げたのよ、あたい、あんなに慌てたことがないんですもの。」
「あなたはお幾つにおなりなの。」
「あたい、幾つかしら、幾つだと言ったら適当なのかわかんないけれど、十七くらいになるでしょうか。」
「それで上山さんはあなたをお可愛がりになっていらっしゃるんですか、たとえば、おみやげとか、お買物とか、ご飯も、ご一しょにあがっていらっしゃいますか。」
「いいえ、ご飯は別ですけれど、あたいの食べる物は、ふつうの人とはちがいますもの。」
「どういうふうに、お違いになるんですか。」
「そんな事ちょっと簡単にはいえないわ、お食事はちがっていますけれど、夜もご一しょに寝ることもあるし、……」
「まあ、ご一緒にお寝みになるんですか、そんなことをあなたは平気でおっしゃいますけれど、ご一緒ということは、一つのお床で上山さんとお寝みになることなのよ、勘違いをしていらっしゃるんじゃない、……」
「いいえ、一つのお床なのよ、あたい、おじさまのむねや、お背中の上に乗って遊ぶこともあるし、……」
「遊ぶんですって。」
「ええ、擽ったり飛んだり跳ねたりするわ、おじさまは眼をつぶっていらっしゃいますだけだけど、あたい、そのお眼眼めめをむりに開けたり、それからお眼眼めめの上にからだを据えていたりしていますと、おじさまは、とても、眼が冷えてお喜びになります。」
「あら、そんな事までおっしゃって、あなたは大胆で無邪気でいままであなたみたいな方に、わたくしお会いしたこと一度もないわ、も一度おききしたいんですけれど、余り失礼なことでわたくし自身うかがうことも、羞かしいくらいなんですけれど。」
「どんなことか知ら、何でもお答え出来るわ、あたい、おばさまも好きになっちゃった、誰でも好きになって困るんですけれど。」
「おばさまといって下さると、嬉しくなるわ、あのね、お慍りにならないで聞いててね、あなたは上山さんと関係がおありになるの、夜もご一しょだとおっしゃるし、……」
「関係ってどんなことですか、あたい、関係ということ初めて聞いたわ。」
「おじさまはあなたとお寝みになってから、どんな事をなさいますの、こんなふうにものを言うの、ごめんなさいね、だって、こう言うより問い方がないんですもの、たとえばあなたをお抱きになったりなさいます?」
「いいえ、仰向きにねていらっしゃるだけなの、抱いていただいたことないわ、ただ、あたいの方でふざけるだけなの。」
「だってそんな事ある筈ないと思うんですけれど、まあ、あなたって方、女でもないみたいに、ちっとも羞かしがらないで、何でもふつうの事のようにおっしゃるわね、強く抱いたら潰れてしまうなんて、」
「潰れてしまうわ、あたい、ちいちゃいんですもの。」
「そんなに大きくなっていらっしゃるじゃないの、おっぱいもお棚みたいだし、腕もまん円くてあぶらで冷たいし、血色もいいし、それでおじさまが何もなさらないんですか。」
「あたい、おじさまのこもりうたかも知れないわ、ふうと来て、ふうと吹かれて行くだけなんですもの。でも、おじさまはたんと愉しいことを知っていながら、あたいに、してくださらない事になるわね、ずるいわ、あたい、おじさまに言ってやるわ、愉しいことを抜きにしちゃ厭だって。」
「そんな事おっしゃってはだめ、いままでどおりのおじさまで沢山じゃないんですか。わたくし詰らない事をお話しましたけれど。」
「あたい、これ以上愉しいことある筈ないと、何時もそう思っていたんですもの。」
「わたくしね、先刻いただいたお水をあんなに沢山持っていらっしゃる訳が、お聞きしたいんですけれど、どう考えて見ても判らないの。」
「あれは言えない、」
「なぜお笑いになります、だって水筒に一杯お水を持って講演会にいらっしゃる訳は、とても判らないわ。誰にでも判りっこないわ。」
「そうね、おばさまにはとても、判りっこないわ、誰も判る人ないわ、誰にも知られたくないあたいのヒミツなんだもん、おばさまにもいうこと出来ないのよ、あたいのお口に手をかけて吐かそうとなすっても、頑として言わないわ、おじさまだけがその訳知っていらっしゃいますけれど。」
「上山さんは何とおっしゃっていらっしゃるの。」
「何時もお水をわすれるなと仰有るわ、あたいの何も彼も、みんな知っていらっしゃるんだもの。」
「おからだに必要いりようなんですか。」
「そうなの、水がなくなると、あたいの眼が見えなくなるかも知れないんですもの。それよりか、一たい、おばさまは何故十五年もおじさまに、お逢いにならなかったの、あたい、その訳が聞きたいんです。おばさま、その訳を詳しくお話して頂戴、おばさまの顔は美しいけれど余りに白っぽいし、お背中だって先刻さすったときに感じたんだけど、まるで、おさかなみたいに冷え切っていたわ。」
「わたくしあの時、ずっと血の引いてゆくぐあいが、すぐ判っていたぐらいですもの、冷えるの当り前のことだわ。」
「いいえ、その事をお聞きしているのじゃないわ。なぜ、おじさまにお逢いにならなかったかという事なのよ、ね、それをお話して。」
「あなたにお水が必要でその訳が仰有れないように、わたくしがお逢いできなかったことも、いま直ぐにはお話出来ないわ、」
「それもヒミツなのね、」
「ええ、そうよ、ヒミツなのよ。」
「おばさまはあたいをお好き。」
「え、もう、今日会場にはいると、すぐあなたのおそばに坐るように、頭がふいにらせたの。」
「頭が報らせた?」
「そうよ、あの小さいお方のところに往け、そしておあいしろと言われたわ。」
誰方どなたに、誰方がそう言ったの。」
「頭がそう作りあげたのよ、その時、あなたも扉の方にチラと眼を向けて、ちゃんと知っていらっしたふうじゃないの。」
「あたい、あの扉から誰かが来る筈だと、会場にはいると、すぐ、ずっと、思い続けていたわ、一ぺんも会ったことのない人だが、会えばすぐ打ち融けてお話の出来る方で、お話しなければならないことが沢山たまっている方だとそう思っていたの。だから、お席をとってお坐りになれるようにしていたのよ。」
「あなたは嬉しそうににこにこしてたわね。」
「あたい、おじさまがバカを言わないかと、それが可笑しくて。あなたはどうしてご講演中うつむいてばかりいらっしったの。まるで聴いていらっしゃらないふうだったわ。」
「お顔を見るのが羞かしかったし、見られまいと懸命にうつむいていたの、そして遂に一度も見なかったわ。」
「何故、お顔をお見せにならなかったんです。」
「あの方にはお逢い出来ない訳がありますのよ。」
「どうして。」
「どうしても、」
「あたい、おじさまにあなたにお目に懸ったって、きょう帰ったらお話するわ、まあ、そんなにお顔の色を変えちゃって。お話するのが悪いんですか。」
「あなたに何も言って下さるなと言ったって、とても、だまってはいらっしゃらないわね、けれど、おじさまはわたくしにあなたが会ったと仰有っても、そんなばかな事があるものかと、信じてくださらないわよ。」
「何故か知ら、だってこうしてお会いしているのに? おばさま、お手々てて出して、こんなに確かりにぎっているのに、嘘なんかじゃないでしょう、おばさま、キスしましょう。」
「まあ、あなたって何てコドモさんなんでしょう、でも、キスすること知っているわね。」
「おじさまと何時もしているんだもの、あたい、の、つめたいでしょう。」
「ええ、とても。」
「あら、あら、おばさま、皆さんが出て来たわ、講演が終っちゃったのよ、あたい、こうしてはいられないわよ、おばさま、一緒におじさまの処に行きましょう。きっと吃驚びっくりなさるわよ、あら、そんなお顔をお変えになって一体何処にいらっしゃるの。」
「わたくし、これで失礼します。」
「ね、おじさまにお逢いになってよ、あたい、うまく取りなしておあげするから、一緒にいらっしゃい。」
「若しわたくしのこと仰有るようだったら、わすれないでいますと、そう仰有ってね、お仕合せのようにってね。」
「おばさま、往っちゃだめよ、だめよ、往っちゃ。」
「では、おわかれするわ、おりこうさん。」
「おばさま、お手手出して。」
「そうしていられないんですよ、では、あなた、おじさまを好く見てあげてね。」
「よくして上げるわ、往っちゃいけないというのに。」
「じゃね。」
「おばさま、おばさま。」
「…………」
「あ、往っちゃった、せっかく、大事なお友達が出来たのに往っちゃったい、おばさまのばか、戻って来て、おばさま、……」

「おじさま、あたいよ。驚いたでしょう、ちゃんと来ていたのよ。」
「吃驚するじゃないか、ちんぴら、どうして来たんだ。」
「ここ開けてよ、ずっと、ご講演を聴いていたのよ、飛んでもない事、おっしゃるかと思って心配しちゃった。ここ、開けてよ。」
「お這入り、あんなに来ちゃいけないって言っていたのに、困った奴だ。」
「だってお家にひとりでいるのが、胸がやきもきして、とても、たまんなかったもん、ご講演よく聴えたわよ。」
「でも、よく、ひとりでくるまを見附けて乗ったね。」
「駆けずり廻ってやっと見附けたのよ、このくるま新聞社のでしょう。」
「送ってくれるんだ、家まで。」
「あたい、赤い旗の立っているくるまに乗るの初めてだわ、とても、勇ましいわね。」
「水を持っているね、水筒なんか提げて要心深くていい。」
「おじさま、お話したいことが沢山あるのよ、此方お向きになって。」
「むずかしい顔をして何を言い出すんだね、くたびれているから、少時、何も言わないでくれ。」
「大変な事があったのよ、くたびれたでは済まないわよ、きょうね、あたいの横に坐っている方がいてね、顔色があおじろいんだか白いんだか判らないくらい、乳のような色をしている方がいらっしったの、うつ向いて講演を聴いていらっしゃるのよ、おじさまに顔を見られはしないかと、そればかり気にしているような方なのよ。」
「演壇からは人の顔なんか、暗くて見えはしないよ。」
「そのうちその方がきゅうにひどそうに、呼吸困難みたいになっちゃって、あたい、吃驚びっくりして水をあげたのよ、そしたら落ち着いて、ふうと呼吸もふだんのままになって来たのよ。」
「よく気がついたな、心臓が悪い人らしいね。」
「よくおわかりね、おじさまは。」
「何だ、人の顔をじっと見詰めたりなんかして、へんな子だ。」
「その方をお廊下の方におさそいして、やすませておあげしたの、もう、おじさまのお話が済んだ後だったから、クッションの上で永い間お話したわ、水のようにお廊下に人気がなくて、その方の顔の色があたいの五体にしみ亘るほど、へんに冷たかった、おじさま、その方は一体誰だとお思いになる、……」
「さあ、誰だかね。」
「おじさま、言って上げましょうか。」
「妙な顔をするじゃないか、知っている人なら早く言いたまえ。」
「吃驚しないでよ、田村ゆり子という方なのよ、とても鼻すじのきれいな方、あら、おじさまの眼の中がきゅうに動くのが停っちゃった。」
「田村ゆり子」
「そうなのよ、田村ゆり子っていう方なのよ、どう、吃驚したでしょう。」
「自分から田村ゆり子と名を言ったの、」
「あたいがお訊きしたからよ、そしたら水筒の水をおあげしたときに、上山って書いてあったのをお読みになったらしいわ、きゅうに眼をあたいにじっとそそいで、こう、おっしゃったわ。あなたは上山さんの誰方だとおいいになったから、あたい、おじさんの事何でも見てあげている者だといったら、お幾つとお聞きになり、あたい、十七歳だとおこたえしたわ。そしたらあたいの顔をまたじっと見直して、あたいのことがみんな解っているふうだったわ、どうかすると、おじさま、あの方、あたいがおじさまのどういう者だかも、ちゃんと解っているらしかったわ。」
「それは解るまい、いや、解っているかも知れないが、確かに田村ゆり子といったね、どう考えても、そんな女がいまごろ現われるなんてことは、ありえないことだ、本当のことを言おうか、その田村ゆり子という女は、とうに死んでいる女だ、死んでいる人間があらわれることは絶対にない。」
「まあ、死んでいる方なの。」
「その名前の人なら死んでいる、きみの話した人はその人ではないんだ、怖いか、」
「怖い。」
「思い当ることが何かあるの、こまかく言ってごらん。」
「たとえば余りにお綺麗で、何も彼も知っていらっしって、空とぼけていらっしゃるふうだったわ、あたい、しじゅう、ぞくぞく嬉しいような悲しいみたいな、それで気味が悪いような時々いやあな気がしていたわ、死んでいる人だといえばそんな気もしないではないのですが、不思議なことがあったわ、」
「どんなことなのだ。」
「あたい、気のせいか、おばさまの手をにぎって見たくて、きゅっと、握っちゃったの、あら、いつの間にかあたい、その方をおばさまと呼ぶようになっちゃったの、わずかの間にそういうふうに親しくなっていたのね、その時にね、おばさまの左の手に一つの傷あとを見つけたの、金属の擦過傷のようだったので、これ、どうなさいましたと言ったら、すぐ手をお隠しになったわ、あたい、そこに腕時計がふだんからめられていた痕が、あかくのこっているのを眼にいれたの。」
「腕時計のあとだって、」
「それが時計の形とくさりの痕が、まるでそのままでのこっていたのよ、だから、あたい、お時計きょうはあそばさないのといったら、こわれているものですからと仰有っていたわ、言葉がとてもきれいな方なのね。その時のお顔の色ったらとても悪かった。」
「その傷というのは酷くなっていたの。」
「そうよ、残酷に時計を手頸てくびからもぎ取った瞬間の傷あとだったらしいわ、あたい、その訳を聞こうとしたけれど、仰有らなかった、きっと、おじさまがおりになったのでしょうと言うと、上山さんじゃないと仰有ったわ、その他のことは何も仰有らなかった。まあ、おじさま、何ていやなお顔をなさるの、おじさま、おじさま、慄え出しちゃった、……」
「そんな人が物をいう筈がない、だが、その時計の話はほんとのことなんだ、明け方に心臓マヒで倒れてから、五時間誰もその部屋にはいった人間がいないんだ、掃除夫が鍵のかかっていないドアから何気なくすかして見ると、田村ゆり子は仰向けになって畳の上で死んでいた、その時にまだ時計はうごいていたのさ。」
「だっておじさまは何故そんなお顔をなさるの、また、額から汗がにじんで来たわ、ひょっとするとあぶらかも知れないわ。」
「おじさんの驚いたのは、その女ときみとが話をしたということに、驚いているんだ、きみはその女をまるで知らないくせに、いま言うことがみんな本当のことなのだ、その実際のことにやられているのだ。」
「お背中をさすっておあげした時、なりの高い方だということが、背中のすじの長いことですぐ判ったわ。」
「どういう声をしていたんだ、声のことを言ってごらん。」
「柔らかくて聞き返す必要のない透った声だったわ、あたい、あなたにお目にかかったことをおじさまに、みんなお話するというと、お停めしてもきっと仰有っておしまいになるから、おとめしないと仰有っていたわ。」
「そして何か言伝がなかったか。」
「あたいにね、おじさまを好く見てあげてと言っただけだわ、きょうは十五年振りにお目にかかれたと、それきりお別れしちゃった。いくら呼んでみても振り返りもしないで、出口の方にお往きになったのよ。」
「たしかにその人は田村ゆり子と言ったんだね、きみが介抱してあげた人がぐうぜんに、そんな名前の人だった訳じゃないね、時計のことも、ぐうぜんに似た話だとするより、おじさんの考えようがないんだが。」
「その女の人はおじさまの一体何なのよ。それから聞かないと話が判らないわ。」
「それは田村さんの書いた物をおじさんが読んで上げていたんだ、そうだな、五六年も間を置いて続けているうち、突然、書き物の原稿を送って来なくなったんだ。すると或る日警察の人が来てね、田村ゆり子が昨夜急死したと言って、おじさんが署に連行されて調べられたんだ、おじさんは家にも来て顔は知っているが、アパートの部屋なぞにはまるで一度も行ったことがない、だから死因も何も判っていないのだ、警察ではおじさんからの原稿を廻送した封筒から住所が判ったらしく、そんな封筒までちゃんと取ってあったそうだ。」
「おじさまは女だとお節介ばかりなさるからよ、警察からじゃ、いやあね。きっとお時計が失くなっていたからでしょう。」
「時計と外に洋服なぞも失くなっていたらしく、牛乳屋さんが配達に廻ったときに、ドアが開け放しだったそうだが、犯人は出なかったらしい。」
「おじさまの嫌疑は?」
「事件と関係がないことは直ぐ判ったさ、だが、その急死と同時におじさんは永い間見ていた原稿の内容から、田村さんという一人の女が、役にも立たない原稿を書きながら死んだということが、小説風な情景で頭にのこったのだ。」
「原稿はお上手だったの。」
「ふつうの人と変ったところはない、寧ろ拙い方だったかも知れないね、ただ、飛び切った二三行くらいの面白いところが処々にあったくらいだ、それは男の人と友達になると、すぐ此の人もだんだんに親しくなって、言い寄って来ないかと、それが見え透いて来ることが恐いと書いていたことだ、そしてその男が田村さんに口説いてくると、一遍に、避けてしまうという妙なくせのある文章の人だったのだ。」
「おじさまもきっと、引きつけられていたのでしょう。」
「田村さんの小説がそんなふうなので、何時も先を越されている気がしていたんだよ、あの人がいま頃出てくるなんて事はないさ。」
「でも、あたい、ちゃんと見たんだもん。」
「へんな事が重なるものだね、」
「おじさま、何処かでおやすみにならない、銀座に来たわよ、あたい、塩からい物がたべたいわ。」
「降りよう、バーに行こう。」
「お酒あがれないくせに、よくこの頃バーにいらっしゃる。」
「彼処に坐っていると皆さんの酒気が漂うて来て、頬が熱くなって酔ったような気がするんだ。」
「いらっしゃいませ。」
「何か塩からいものを頂戴、それから、おじさまはなあに。」
「何でもいいよ、匂いをかぐだけだから。」
「あら、金魚がたくさんいるわね、みんな、あたらしい水をほしがって、可哀想にあぶあぶしてひどそうだわ、あの、この金魚の水くさりかけていますから、可哀そうだから取りかえて上げて。」
「毎日お店に出てくるとすぐ、お水かえるんですけれど、きょうはつい忘れまして。」
「それからお塩をひとつまみ入れてあげて。」
「お塩がいいんですか。」
「くたびれた金魚にはほんのちょっぴり、お塩がいるのよ。おうい、ちびちゃん、お塩気がほしいんでしょう、そう、そうなのね。おじさま、ちゃんともう判っていて、そばに寄って来たでしょう、なに言っているのか幾らおじさまでも、このヒミツは判りっこないでしょう、お姉さまは何処からどうしていらしったって、そんな恰好かっこうがどうしたら出来たのと、皆、眼に一杯ふしぎな色を現わして、言っているのよ、口を開けて瞬きもしないであたいを見ているでしょう、あたいも見てやる、」
「きみ、あまり変なこというと、皆がへんな顔をするよ、身元を洗われるよ。」
「あ、お水が来たわ、そのお水ここに頂戴、あたいが入れてあげるから、みんなおつむをならべるのよ、したしたと、……どう、とても、さっぱりとい気持でしょう、したしたというこの音たまらないわね、みんな鱗の色も悪いし痩せているのね、硬い麩ばかり食べているからよ、ほら、お好きなお塩よ、それをぐっと飲んで胃ぶくろがひりついたぐあいが、とても、たまらないでしょう、みてご覧、ほら、ほら、眼につやが出て来たし、紅鱗たちまち栄えて来たわ。」
「いい加減にしないか。あの方、まるで金魚のご親戚みたいに何か言っていらっしゃる。よほど、金魚がお好きと見えるって言っているじゃないか。」
「人間にあたいの化けの皮がわかるもんですか、おじさま、ひさしぶりで不倖なお友達の様子を見て、おじさまがあたいを大事にしてくださることが、どんな仕合せだか判ってきたわ、おじさまに、お礼をいうわ。」
「だからね、金魚とお話するの止めるんだよ、皆さん、変な顔をしているじゃないか。」
「大丈夫、ちび達がはなれないんですもの、あら、白いかびのようなおできが出来ている子もいるわ、すぐ取らなくちゃ大変なことになる、……済みませんがお茶碗一つ貸して頂戴、この子をべつにしてかびを取らなくちゃ、じっとしていて、痛いのを我慢しているのよ、すぐ済むわよ、ほら、剥げたわ、このあとに塩をぬってと、さあ、もう遊んでもいいわよ、明日はさっぱりするから。」
「お嬢様は金魚屋さんみたいですね、どなたがいらっしっても、金魚のことなんかっとも見てくださらないのに、ご親切にして頂いて済みません、皆、お嬢様の方を見上げていますわ、言葉が解るような顔をしているんですもの。」
「ええ、あたいが好きだから、金魚の方でもわかるらしいのね、おじさま、金魚がおじさまのことをあなたの誰だと訊ねているわよ、だからあたい、この人はあたいのいい人だと言ってやったわ、そしたら皆がうふふ、……って笑っているわよ、あのこえ、あんな賑やかなの聴えて、おじさま。」
「聴えるもんか、みんな金魚って同じ顔しているじゃないか。」
「でも、顔の一つずつがみんな異っているわよ、親子姉妹別々な顔をしているわ、よく、くらべて見ると判るわよ。あたいね、お願いがあるんですけれど、きっと聴いていただけるわね。」
「何なの、」
「この金魚いただけないかしら、此処に置くの可哀想だから連れてかえりたいの、みんな不仕合せなんだもの、この儘、見て戻ったら、あたい、気になって今夜はとても睡れそうもないわ。」
「別の金魚を買って貰うことにしたら、きっとくれるよ、気になるなら買ってあげよう、訳のないことだ。」
「有難う、おじさま、五尾で百円出せばいいわよ、たんと出す必要ないわ、あたい、値段みんな知ってんだから。」
「では百円出すことにしよう。そろそろ帰ろうね。」
「ええ……あら、誰でしょう、誰かが扉の間から此方を覗いて見ているわ。女給さん、誰方か、いらっしっているらしいわよ。」
「あの人、ろうけつぞめの物を売っている方なんです。おいりようだったら、そう言いましょうか、何時もは中に這入はいっていらっしゃるんだけれど、今日はどうしたんでしょう、お這入りにならないわ、……」
「あら、ちょっとってておじさま、きょう会場にいらっしった方だわ、違いないわ、横顔がおばさまそっくりだもの。おばさま、おばさまじゃないの、あら、扉から顔を外しちゃった、おじさま、あたい、ちょっと追っかけて行ってみるわ。」
「何言っているんだ。」
「おばさま、田村のおばさま、あたいよ、昼間、お水をあげたあたいよ、ちょっとってて、其処の小路は行き停まりなのよ、おじさまもご一緒で、先刻からおばさまのお話をしていたところなのよ、ねえ、引き返して頂戴。」
「きみ、人ちがいだよ、蝋けつ染なんておかしいじゃないか。」
「おじさま、表に出ていらっしゃい、ほら、此方をお向きになった、おばさまだ、あの方よ、あの方なのよ、行き停まりなものだから、まごまごしていらっしゃる。ね、おじさま、塀の処を見るのよ、真正面で少しの惑いもなく立っていらっしゃるじゃないの、見てよ、見てよ。」
「見た、たしかに田村ゆり子だ、幾らぼやけたって嘘のない顔だ。」
「おじさま、何か仰有い、おじさまの仰有るのを待っていらっしゃるふうだわ、あ、お口が少しずつあいた、お微笑いになった、おじさま、腰をかがめて遂に挨拶なすったじゃないの、おじさまもご挨拶をなさい、早くよ、早くするのよ、笑ってお上げするのよ、なんて臆病なおじさまなことか、やっとしたわ。おばさまの嬉しそうなお顔ったらないわ、ふだん、あんなお顔で微笑っていらっしったの、凄い美しい顔だナ。」
「きみ、呼んで見たまえ。」
「おじさまが呼んで上げるのよ、あら、おばさま、其処の煉瓦塀れんがべいの穴は抜けられないわよ、おからだに傷がつきます、あたい、其処にいま行きますから。」
「行ってつかまえてくれ。」
「死んだってはなさない心算つもりで、お手々にぶら下がるわ、おじさまもいらっしゃい。」
「うむ。」
「おばさま、其処の穴は欠け石でがじがじして危いったら。抜けたって向う側はどろどろ川なのよ、っこったら死んじまう。」
「くぐったね、早いね。」
「あ、穴の外に潜って出ちゃった、あれ、水の音じゃない、ごぼんといったのは?」
「そう、水の音響おとかな。」
「おじさま、また汗とあぶらが先刻みたいに、額ににじみ出たわよ、」
「黙っていろ、何か聴える。」
「おばさまの声だわね、うなっていらっしゃるようね、水の中からかしら、それとも、……」

三、日はみじかく


「あたいね、先刻から考えていたんだけれど、こんな立派な入歯をおれになっても、おじさまは、お年だから間もなく死ぬでしょう。」
「そりゃ死ぬね、黄金キンの入歯だって何にもなりはしないよ、けど、これで何でも噛めるから至極安楽だね。」
歯齦はぐきの作りがみんな黄金キンでしょう、一体、どれだけ目方があるか知ら。」
何匁なんもんめあるものかな、何故、そんな事を聞き出すんだ、極り悪そうにしてさ。」
「おじさまが死んじゃったら、誰が一等先に入歯を取っちゃうか知ら。」
「誰だか判らないな、或いはきみかな、きみは、黄金キンをほしがっているんじゃないか。」
「あ、当っちゃった、あたい、おじさまがお亡くなりになったら、それ、誰よりも先に戴くわよ、それで耳輪と指環とをこさえるの、いまからお約束して置いてね、きっと、やると仰有って置いてよ。」
「やってもいいけれど、口の中に指を入れて入歯を外すときに、噛み附いて見せるから、それが怖くなかったら取るんだね。」
「ほんと、噛み附く気なの、だってお約束だからいいじゃないの。」
「その時の気分次第なんだよ、腹が立っていたら、指先をがにっと噛んでやる。」
「死んでいる人が噛み附くことなんか、ないじゃないの。」
「口だけ生きのこってやる。」
「ふふ、そしたらあたい、先におじさまの口の中に筆の穂をいれて、まだ、生きていらっしゃるかどうか、試して見てからにするわ、擽ったがらなかったら、直ぐ外すわ。」
「僕は擽ったくても、じっと我慢していて、指先が口の中にはいるのを待ちうけている。」
「いやよ、そんな意地悪するなんて、くださるものなら、あっさりとくださるものよ。」
「やるよ、死んでまで噛みつきはしない、ただ、そういって見たかっただけだ。」
「先刻からのお話をみんな聞いていて、ボックスにいる方、笑っていらっしってよ、でも、あの方、おじさまの顔とあたいの顔とを見くらべていて、どんな間柄だかを読んでいるみたいね、あの眼どうでしょう、っとも、智恵のまじっていない眼の美しさだわね。」
「利いたふうなことをいうね、ああいう眼をしている人は、も一つ奥の方に別の眼を持っていて、それが何でも見とどけているかわりに、表側の眼はいつも留守みたいに美しく見えるんだよ。」
「誰方かをってらっしゃるのか知ら?」
「さあね、なかなか好い顔をしている。きみみたいに、やはりぽかんとしているけれど。」
「ご挨拶ね、あの方、あたい達が入って来ると、すぐ後からいらしった方よ、あたいの顔ばかり見ていて、おはなししかけるみたいように、にこにこしていらっしゃるじゃないの。」
「金魚の化けの皮が判っているのかも知れないよ、珈琲は喫まずに水ばかり飲んでいるからだ。」
「あたい、あの方と、お話して見ようかしら。」
「それより出がけに来たてがみを見せてくれ。」
「ほら、はい。これを読むといい気持よ、このお嬢様のお母さまの小説なのよ、いいか悪いかは解らないから、読んでいただきたいって、お嬢様の手紙がはいっているのよ。」
「こういう場合もあるんだね。」
「お母さまがおじさまに直接に、手紙をお書きになるのが、きっと極りが悪いのね、あたい、こういうお嬢様になってみたい。」
「もう一通のは?」
「おじさまのお家の前を往ったり来たりしているのは、実はわたくしなのでございます、時間は五時、もしおてすきでございましたらお会いくださいましと書いてあるわ、あたい、そのお時間に出て見て、いらっしったらお通しするわ。構わないでしょう、五時なら何時もぽかんとしていらっしゃるお時間だから。」
「お通ししてもいいよ、べつにぽかんとしている訳じゃない。」
「だって何もなさらないで、茫乎ぼうっとしていらっしゃるじゃないの。あたいね、昨日ふいに(海をわたる一尾の金魚)と、書いてみたのよ、とても大きい海のうえに金魚が一尾、反りかえって燃えながら渡ってゆく景色なのよ、そう考えてみたら、あたい堪らなく絵がかきたくなっちゃった、それの反歌がふいに出たわ、(山を登ってゆくあたい、)というの。」
「ふむ、(海をわたる一尾の金魚、)か、」
「聞えたのかしら、あの方、こんどは公式にわらい顔をしていらっしゃるわよ、きっと、おじさまのお名前を知っている方なのよ、だから、あんしんして笑って聞いているのよ。」
「きみの声が大きいからなんだ、海をわたる一尾の金魚と聞いただけで、ぷっと笑いたくなるじゃないか。」
「金魚はおさかなの中でも、何時も燃えているようなおさかななのよ、からだの中まで真紅なのよ。」
「何故そんなにさかなのくせに、燃えなければならないんだ。」
「燃えているから、おじさまに好かれているんじゃないの。」
「そうか、」
「おじさまの胃潰瘍だってあたいが入って行って、めて上げて、お薬をたんと塗って上げたから、治ったのじゃないの、あたいの燃えたリンがあんな大きい胃袋の傷まで、お治ししてしまったじゃないこと、なに言ってんの、そんな濃厚なお菓子まで召し上れるようになったのも、みな、あたいのリンのせいなのよ。」
「それに病院のくすりの事も、わすれてはならないんだ。」
「病院の薬はただの物質だわよ、あたいのリンと、うろこのぬらぬらは、みんな生きているぬらぬらなのよ、いちど胃腸にはいっていったら、あたい、めだかのように憔悴して出てくるの、おじさまにそれが判らないの。」
「判るよ、大きな声を出すと、ほら、またあの人が笑うじゃないか。」
「あの方、ここに呼んでみるわ、誰も来もしない人をつなんて、どうかしている。」
「話しかけるのはよしなさい、なれあいの金魚みたいに、人間はすぐ友達になれるもんじゃない。」
「それもそうね、あたい達はすぐお友達になってしまうけれど、人間はそうはかんたんには、お友達になれないわね。」
「きみ電話だよ、歯医者の治療時間なんだ。」
「じゃ、行ってまいります。此処にいてね、四十分くらいかかるけれど、きょうで、もうお終いだから我慢してね。」
「二人とも歯が悪くては困るね。なるほど、歯医者さんにはちゃんと、くちべにはおとして出掛けるなんて、感心だね。」
「でなかったら先生の手も、お道具も、くちべにで真赤になるじゃないの? どう、とれましたか。」
「とれたよ、くちべにを取ると、まるでぼやけた顔になる。」
「くちべには女の灯台みたいに、あかあかと点っているものよ、消えたら、しんまでしょんぼりしてくるわ。じゃ往って来ます、あの、それから、あの方とあたいの留守中仲よしになったら、きかないわよ、うふ、あたいって妬きもちやきだわね。」
「大きな声を立てると聴えるよ、ほら、お金、」
「きょうのおきまりの煙草はもうあがっているから、あとは半本だってお喫みになっちゃいけないわ、煙草の箱、持ってゆくわよ。」
「一本だけ置いて行ってくれ。」
「だめ、つい一本が二本になるから、煙草を見たら、毒と思えということがあるわ、温和しくっていらっしゃい。じゃ、往って来まあす。」

「あら、何時かのおばさま、ほら、講演会でお会いしたおばさま、あたい、ちらっと見て、すぐ判っちゃった。」
「お一人じゃないわね、ずいぶん、大きくおなりになったのね。」
「おじさまとご一しょなの、さあ、行きましょう、おじさま一人でお茶喫んでいらっしゃるから、恰度ちょうど、いい時分だわ、何時か袋小路でお逃げになったでしょう、でも、きょうは放さないわよ。」
「きょうも急ぎの用事があるんで、こうしてはいられないの。だから、おじさまにはお会い出来ないわ、あなたとだけ、ちょっぴりお話するけど。」
「そんな事いわないで、いらっしってよ、おじさまはきっとお喜びになります、妙ね、歯のお医者様の所にくると、きっと、お目に懸れるなんて、此間もそうだったわね。此間はどうしてあんなにお逃げになったの。」
「羞かしいからでしょう、こんなきたない恰好しているから、お会いしたくないのよ。」
「ちょっとでもいいんですからいらっしって、ここ、放さないわ。」
「おじさまは、あなたを可愛がって、くださる、……」
「ええ、そりゃもう、何だって言うこと聞いてくださるわよ、あたいのお臀だってかゆいって言えば、掻いていただけるし。」
「まあ、お臀だって、……」
「あたいがこんなに小ちゃいでしょう、だから子供だと思っていらっしゃるのよ、ほんとは、あたい、子供なんかじゃないんですけれど、そして何だって知っていますのよ、おばさまがお会いにならないわけも、ちゃんと判っているのよ。」
「では、その訳いって頂戴、どうしてお会い出来ないかということをね。」
「おばさまは、ゆうれいでしょう、だからお会いになれないのでしょう、ほら、へんなお顔になったわ、むかしのゆうれいは、川のそばの柳の木の下にいたけれど、このごろは、ビルの中からも出ていらっしゃるわね。」
「そのゆうれいが物を言うのね、ほほ、でもあなただってゆうれいじゃないこと。」
「あたい、生きてぴんぴんしています、何でも食べているし、決して逃げたりなんかいたしません。」
「いたしませんけれどね、人間に旨く化けていらっしゃるじゃないこと。」
「ばれちゃったわね、おじさまが小説の中で化けて見せていらっしゃるのよ、もとは、あたい、五百円しかしない金魚なんです。それをおじさまが色々考えて息を吹きこんで下すっているの、だから、水さえあれば何処にでもお供が出来るんです、そしてあたい、甘ったれるだけ甘ったれていて、何時も、おじさまをとろとろにしているの、おじさまもそれが堪らなくお好きらしいんです。」
「あの方は元からそういう方なのよ、めだか一尾水盤に入れて、いち日じゅう眺めていらっしゃるような方なのね、何が面白いんだか判らないけど、飽きることもないらしい、そして突然顔をあげると街の中を歩くために、お家から飛び出しておしまいになる、……」
「そしておばさまとお逢いになる、おばさまは何時の間にか死んでおしまいになった、そのお化けさんがおじさまの隙間を見つけて、所と時間を構わずにおはいりになる、……」
「そこで金魚のあなたに見附けられたということに、なるわね。でも、金魚を見附けたことはさすがにおじさまだけれど、金魚だって当節油断がならないわよ、あなたみたいな大胆な金魚もいるんだから。」
「あたいね、金魚だってこと見破られたこと、はじめてなの、何時もそれが気になるんだけど、ゆうれいのおばさまに会ったら、かなわないわよ、けどね、おばさまがゆうれいだということ、ほんとうの事か知ら?」
「触ってみるといいわ、冷たくないでしょう、ほらね、ここに手をいれてみたって判るでしょう、こんなに、ほかほかと温かいでしょう。」
「ええ、おっぱいもあるし胸のふくらみもあるわ、やはりゆうれいという事はうそなのね、あたいの金魚だということは本物だけれど、あ、おばさま、何時の間にか来ちゃった、此処なのよ、ほら、彼処に一人でぽつんとして坐っていらっしゃるでしょう、あれもゆうれいのおじさまかも知れないけど、ね、お這入りになって、ちょっとでもいいから、逢っておあげしてね、あら、先刻の人がそばに来て何か言っているわ。」
「じゃ、わたくしこれで。」
「だめだと言ったら、顔だけでも見せておあげしてよ。」
「わたくしの方でお顔を見たから、それでいいのよ、おじさまはわたくしなんか見なくとも、見る人がたくさんおありになるんですから、じゃ、大事にしてあげてね。」
「また往っちゃった、何て脚の早い人なんだろう。おじさま、ただいま、あら、ご免遊ばせ。」
「この方はね、先刻の手紙の方なんだ、きょう夕方いらっしゃる筈だったが、丸ビルに用事があっていらっしって偶然に出会わして、あとをけて見えたんだそうだ、はは、後をつけたなんてこれは失礼。」
「でもおつけしたことは実際なんですもの、お目にかかれてとても嬉しゅうございますわ、歯のほう、お治りになったんですか。」
「ええ、もうすっかり、……」
「では、わたくし、これで失礼いたします。」
「そお、その内、宅の方にいらっしって下さい。」
「ご免遊ばせ。」
「変な方ね、あたいが帰ってくると、ろくに話もしないで往くなんて、あの方、おじさまがとうから知っている方なんでしょう、それをあたいがまだ子供だと思って、誤魔化していらっしったのね、ちゃんと判るわ、あたいのいない間にたんとお話したのでしょう。どうも、にこにことお話したそうな様子がおかしいと思っていたら、当っちゃった、何、お話していらっしったの。」
「きみの事さ。」
「あたいの何をお話していたの。」
「きみは僕のお嬢さまかと聞いたから、まあ、そんなものだと答えたんだ。そしたら、とても、お小さいけれどお利口そうだと言っていた。」
「妬きもちやきで困ると、仰有ったのでしょう。」
「それも言って置いたよ、何でも油断のならない子だと、」
「あたいが金魚だなんて、仰有りはしなかったでしょうね。」
「それは言わなかった、言っても本当だとは思わないからだよ、金魚がそんなに巧く人間の形をととのえることは、予想以上のことなんだ。」
「で、一体、何のご用があったの。」
「ちょっとした事だ、きみに言ったって判りっこのない事だ。」
「たとえば?」
「きみには判らないことなんだよ。」
「あたいに判らないことなんか、一つもない筈よ、匿さないで言って頂戴、あたい、はじめあの方に好意を持っていたけれど、おじさまをりあげるような人は、ことごとくみんな敵に廻すわ。」
「手厳しいな。」
「何か隠していることおありでしょう、きっと、隠している。」
「隠してなんかいるものか。」
「お顔の色が曖昧だわよ、気を附けて、誤魔化そうとしていらっしゃる。おじさまは、そんな時には、眼をあたいからそっとお外らしになるもの。」
「もう、此処を出ようじゃないか。」
「白状しなきゃ出ないわ、何時までも、坐っててやる。」
「じゃ、きみ一人いたまえ。僕はもう帰るから、給仕さん、勘定して下さい。」
「とうとう、白状しなかったわね、じゃ、あたいも、或る女の人に会ったこと言ってやらない。」
「誰に会ったの、廊下かね。」
「そんな事いう必要はないわ、おじさまが言わないのに、誰がいうもんですか。」
「例の講演会であった人の事だろう、きみの知っているのはの人の外には、凡そ人間のうちで誰も知っていない筈だ、どうだ当ったろう。」
「巧くお当てになったわ、以心通じるものがあるのね、あの方、突然、廊下であたいを呼び止めたの、おじさまが来ている事、ちゃんと知っていらっしったわ。」
「僕には逢いたくないと言っていただろう。」
「あんまりお逢いしたい時には、逆に人間は逢いたくないというものらしいわ、それでいて、逢わないで帰ってゆくのは、なんとも言えないつらい気分があるらしいわ。」
「どんな顔色をしていた。」
「ええ、お顔ははればれしていました、脚が早くて別れたとおもうと、もう、階段を降りていらっしった。あたい、おじさまに釣られてみんな言って了ったけど、まだ、おじさまはの人のことはちっとも話さないわね、一たい、どういうお話をしていらっしったの。」
「引っくるめていうと税金の話なんだ、あの女はこの頃、何でも働きつづめてやっと穴を抜け出したらしいの、穴って抱えの家のことなんだがね、そしたら二年分の税金がどかっとやって来たというんだ、二年間で八万何千円という税金の告知書を目の前に置いて、眼がくらんだそうだ、それを抱え主がすぱっと払ってくれたんだ、べつに頼みもしないのにね、そこで、ほら、あの女はもとの商ばいに逆戻りさせられるということになるんだ。」
「税金がまた穴ん中にあの方を突き墜したことになるのね。やっとい上ったところを、頭から無理やりに突き戻して了ったのね。」
「僕はそんな話を初めて聞いたが、税金を払うためにね、どれだけの人間が死ななくともいい命を死んだことか。」
「その税金の女の人とおじさまと、どんな関係があるというの。」
「関係はないんだけれど話だけは聞いてくれというんだ、だから僕は話を聞いたのだ、あの女が抱え主から逃げ出したことを聞いたのだ。」
「払えないものね、ところでおじさまにその金払ってくれというの。」
「きょう会ったばかりの人が、そんなことをいうものか。」
「では、おじさまのお名前を知っているということだけで、それを言いたかったというの。」
「そうだ、巧く言いあてたよ、わたくしはそれ以外に何ものぞまないと言っていたけれど、僕はこういって見たのさ、では、あなたは或る特定のお金をさしあげれば、僕と食事をし一日遊んでくれますかと言ったら、ええ、と答えてくれた、では、あなたはいま僕の言ったような事をいう対手に、みなそういうことを希み、またそれを平気でやりますかというと、多分、それはそう致しますまいと答えていた、つまりその女は頭をつかう仕事がして見たいというんだ、事務員とか経理の方とかの、頭のいる仕事を見附けたいと言いつづけていたのだ。」
「ところでおじさまはどう仰有って、あの方のみちを開いてお上げになったの。」
「僕は煙草のケースを進呈しただけだ。」
「ケースの中に、何時もの癖で、お金匿して持っていらっしたのでしょう。」
「うむ、まあね。」
「どうも煙草を取り出すふうもなさらないのに、ケースをよく持っていらっしゃると思っていたわ。女の人はそれを平気で受け取ったの。」
「貰ってもよい人から貰ったふうで、受け取っていたようだ、そしてわたくしどのように仰有ることをおつとめしたらいいのでしょうかと、真面目な顔附で言ったのだ、きみの言い分ではないけれど、叡智えいちのない水みたいな眼で、僕をおだやかに見ていた。」
「で、おじさまは、何かお約束をなさいました。」
「僕はまた割りのよい仕事で金は取れることもあるんだから、その金で逃げられるだけ逃げなさい、いまのあなたには逃げるより外にみちはない、誰でも人間は逃げなければならなくなったら、姿を消すにかぎるといったら、わたくしもそれに限ると思いますと言った。で、ね、きみ、この女の人はきょう出掛けに僕の家の前をぶらぶらしていて、僕らが出かけたあとから、ずっと街まで蹤けて来ていたんだ。」
「おじさまは、底なしに女にあまいわね。」
「僕があまいんじゃなくて女の方があまいんだ、僕は断ることは知っているし、知らぬ他人に誰が金なぞやるものか、ところが人間の心にはずみが出来る瞬間には、実に綺麗に対手に応ずる気合があるもんなんだよ、つまり割りのよい仕事が廻って来て失ったものを、別の人間が返してくれる場合だってあるものだ、それの予測というものが経験の中に生きているとしたら、生涯のある日にはそんな事の一遍くらいしたっていいんだよ。それをしないのは、人間の価値をなくする吝な奴の仕業なんだ。」
「その後で女の方が、おじさまの後をうて来たらどうなさる。」
「趁えば趁うて来るで、いいじゃないか。」
「しまいに、ぐるぐる捲きに捲いて来るわよ。」
「その時はその時だ、捲かれてよかったらそのまま捲かれていてもよいし、悪かったら抜ければいい、情痴じょうちの世界はその日ぐらしでいいもんだよ。」
「税金といえばあたいにも、税金がかかっているわ、金魚屋さんにいた時、おじいさんは税金をこまかく計算していてね、一尾ずつにみな少しずつかけていたわよ。」
「きみの五百円は高かった。税金が二割くらい、かかっていたんだね。」
「では、念のためにおじさまにお聞きいたしますけれど、たとえばあたいを売ってくれという人が現われて来たら、おじさまはお売りになるかしら。」
「売らないな、こんないい金魚はいないからな。」
「耳の穴のお掃除もするし、お使いにも行くし、何でもしているんですもの、売られてはたまらないわ、でも何万円とかいう大金を出す人がいたら、きっと、お売りになるでしょう。」
「何万円も出すばかはいないし、第一、人間のまねをする金魚なんて何処を捜してもいないよ。」
「じゃ、あの女におあげになったケースの中にあったお金ね、あれだけ、あたいにも、くださらない。」
「あれは偶然にそうなったんだが、いま更めてそう切り出されると、ごつんとつかえてくるね、こだわりが感じられてすらすらと出せない。」
「知らぬ人にお金をあげていて、あたいに、ぐずぐず言ってくださらないなんて、そんな法ないわ。」
「その内に出してよいものなら、出すことにする。」
「一たい、あのケースに幾ら入っていたの、あたい、それと同じくらいのお金戴きたいわ。」
「同じくらいなんて莫迦言いなさんな。」
「だから幾らあったのか、それを言ってよ。」
「よく覚えていないね、ねじこんで入れて置いたんだからね。」
「自分のお金の高が判らないなんて、そんな鈍間のろまなおじさまじゃないでしょう、はっきり正直にいうものよ、これだけはいっていたんでしょう。」
「そんなにはいるもんか、二つ折りにしてあったんだから。」
「じゃ、これだけ?」
「それも当らないよ、まあ、二本くらいが精々せいぜいなんだ。」
「嘘おっしゃい、ほら、また曖昧な眼附をして、お外らしになった、ちゃんと、どんな時どんな顔色をなさるかっていう事、毎日研究しているから解るのよ、これだけは確かにあった、……」
「それほどはなかった。」
「うそつき、あんな女にお金やって、あたいにちょっぴりしかくれないなんて、ごま化そうとしたってだめよ、同額でなきゃ承知しないから、正直にお出しになるがいいわ。」
「きょうは外に金は持っていない。」
「出掛けに社の方が持っていらしったお金ある筈よ、まだ、状袋にはいったまんまのお金だわ、お出しにならなかったら、からだじゅう調べるわよ、怖いでしょう、さあ、いい子だから、お手々あげてお襦袢じゅばんにポケットがついていて、そこにちゃんとお金はいっている筈よ、ほら、ご覧なさい、こんなにずっしりと状袋が重いくらいだわ、これ、みんな戴いとくわ、そしたらあの人にあげたお金のことなんか、もう言い出さないから、いい気味ね、べそを掻いたみたいな顔をしているわ、あたい、これで先刻から詰っていたものが、ぐっと一ぺんに下がっちゃった。」
「夕食はきみが払うんだよ、」
「いいわ、おごってあげるから何でも。」
「金魚でも女という名がつくと、なまずのような顔をする。」
「おじさまは懲らしめることの出来ない人間だから、うんと懲らしてあげるのよ、あたい、つねづね、なまずにもなって見たいし、ぬらぬらしたうなぎにもなって見たかったのよ、変ったおさかなを見るとすぐその真似まねがして見たくなる、一生ぴかぴかした金魚になり澄ましているのは、意気地がないし退屈で窮屈なんだもの。しまいに、くじらにでもなって、海のまん中でお昼寝してみたいわ。そしたらね、おじさまを背中にちょこんと乗っけてあげるわよ、泳げないおじさまはあたいの背中から、逃げ出すことが出来ないもの、何処へも、あの女のそばにも行けなくなって、背中で死んでおしまいになるかも判らないわ、でも、お背中で亡くなってくだすったほうが、あたいには気がらくで、とても嬉しいわ。」

「昨夜の運転手さんには、あたいも、まいっちゃった。そんな娘か孫のような若い女と一緒なら、料金の倍くらいはお払いになったっていいじゃないかと、ゆすられちゃった。それをおじさまったら、それもそうだ、君から見れば倍額の請求は当然だとか言って、お払いになったじゃないの。」
「あの時は僕の心はおちついていた、何を言われようがそれがちっとも、腹に応えないで、対手の心をそのままにして置きたかったのだ。僕には不思議にそんな気のする時があるんだよ。」
「でも、さすがに温和しくお払いになった後で、運転手が言ったっけ、どうも、つい独り身なもんですから、ご無理を申し上げましてと言って謝っていたわね、きっとお払いにならないと思って厭がらせのつもりだったのね。」
「あの時にきみはひと言もいわなかったのは、よかったね。にこにこして面白い事がはじまったという顔つきでいたのは、よい家庭に育ったお嬢さんみたいだったな。」
「あたいもそんな気がしていたわ、どうせ、おじさまはお払いになるんでしょうし、年もたいへん違うことも実際ですからだまっていたの、そしてね、あたい、あれほど人間なみに見られたことも、生れて初めてだったのよ、あたいも、えらくなったとそう思ったくらいだわ。だってあたい達の仲間はみんな酷い飼われ方をされているんですもの。」
「どうして金魚はみんながつがつお腹が空いているの。どの金魚もまたたきもしないで、空と餌ばかりさがし廻っているじゃないか。」
「一日餌をやっていて二日わすれている人達に、あたい達は飼われているんですもの、何時だってお腹が空いてひょろひょろしているわけだわ、だから、眼ばかりつン出てしまっているの、世界じゅうで一等酷い目にあっているのは、人間じゃなくてあたい達の仲間だわ、岩と岩の間に通路をこさえてあって、そこを泳ぐのが人間には面白い見物みものらしく、無理にがじがじした岩の中を歩かせるんだもの、尾も鱗も剥がれてしまう。」
「きのうも死んだ金魚が道ばたに、何尾も干からびて捨てられてあった。」
「おとといも、あたいも、眼の動かない金魚を一尾見たわ。生きている間も碌々食わさないで、死んだら道路におっぽり出すなんて酷い仕打だわね、お腹に砂金があると亜米利加アメリカの或る学者が、まんまとかついで見たけれど、あれはアマゾンのまむしみたいなお魚だったのね。」
「きみは大学では、何をやっていたんだ。」
「知れているじゃないの、編物と、そいから美容術と、魚介の歴史と、それくらいなものよ、おじさまもいい質問をしてくださるわね、きみは大学で何をやったなんて他人が聞いたら、本物だと思うじゃないの。」
「そのつもりで用心ぶかく言っているんだ、僕はね、何時でも男だから女の事を考えてばかりいるが、女の方では、男の事なんか些っとも考えていないと思っていたんだ、実際はそうじゃなかったんだね。」
「それはこういう事なのよ、女も男と同じくらいに、五対五の比率でいち日男の事ばかり考えているのよ、男の方からいうと、男ばかりが女の事をたくさん考えていると思うでしょう、実際は半分半分なのよ、朝ね、お顔を洗ってお化粧をしているでしょう、あの時だって男のことを一杯に考えているのよ、散歩とか食事とかを一人でするときにも、やっぱり男以外のことなんか考えていないわ、尾籠びろうなはなしですけれど、ご不浄の中にいる時だって、やはりそれを考えつづけているのよ。」
「どうしてかわやの中で考える事がきちんと何時もはかどるんだろうね、厠で考えた事は、何時も正確で後悔はない。」
「それからも一つ、お夕方に勝手でお茶碗やお皿を洗っている時があるでしょう、せとものがかちかち触れて鳴るでしょう、そしてその水をつかう音とせとものの音とが、突然、静まって音がしなくなり、しんとして来る時が不意にあるでしょう。」
「あるね、」
「あの時にね、どうして手を休めなければならないか、ご存じなの。」
「知らない。」
「つまり女が男について或る考えに、突然、取りかれてしまって手が動かなくなるのよ、ほんの少時といっても瞬間的なものだけれど、どうにも、身うごきの出来ないくらいに考え事が、心も身もしばりつけて来る瞬間があるのよ、あんな怖い鋭い時間ないわ、予感なぞがないくせに突然やってくるのよ、前後の考えに関係なく、不幸とか幸福のどちら側にいても、そいつがやって来たら動けなくなるわ、内容は種々いろいろあるけど、はっきりと分けて見ることは出来ないけど、それがやって来たら見事にしばらくその物が往ってしまうまで、にらんでいても、見過ごすよりほかはないのよ。」
「男にもその茫然自失の時がある、厠の中なんかでそいつに、取っ憑かれると放してくれない奴がいる。」
「名状すべからざるものだわね。」
「まさにそうだな、名状すべからざるものだ。つまり名状とまでゆかない生々なまなましたものだ。きみはそんな時どうする。」
「あたい、じっとしているわ、その考え事がすうと通りすぎるまで待つより外ないわ、来ることも迅いが、去ってしまうのも、とても素早い奴なのよ。」
「それ何だか判るか。」
「きょうという日が、あたいならあたいの中に生きている証拠なんでしょう。」
「そう言うより外に、言いようがないね、」
「それは嬉しいような場合がすくないわね、嬉しい事というものはそんなふうには、来ないものね、嬉しくないこと、つまり悩むということはからだの全部にとり憑いてくるわね。」
「そろそろきみの飯どきだ、時計が鳴ったぞ。」
「ヘンデルの四拍子ね、ウエストミンスター寺院のかねの音いろって、あまくてあたいには、恰度ねむり薬みたいに宜く効くわ。」
「外まで鳴ると、聴えるか。」
「え、お池のうえに寝しずまると、じゃんじゃんと聴えてまいります。おやすみと言うようにも、また、合唱をしているようにも聴えて来ます。」
「きみは晩には水にかえってゆくが、かえって往くことを何時だってわすれたことがないね。」
「そしたら死ぬもの。」
「きみを何とか小説にかいて見たいんだが、挙句あげくの果にはオトギバナシになって了いそうだ、これはきみという材料がいけなかったのだね、書いても何にもならないことを書いて来たのが、まちがいの元なのだ、おじさんの年になっても未だこんな大きい間ちがいを起すんだからね、うかうかと小説というものも書けないわけだ、何の某がどうしたああしたとか、不二子さんとか令子さんがああしたこうしたとも、もう極りが悪くて書けないし、いよいよ、おじさんの小説もこんどこそお終いになったかな。金魚と揉み合ってのたれじにか。」
「はたき尽してあるだけ書いておしまいになったから、あたいを口説いたんじゃないこと、誰もほかの女に持ってゆくには、あまりにお年がとりすぎているから、けんそんしてあたいを口説いて見たわけなのよ、そしたら金魚のくせに神通自在で、ひょっとしたら人間よりかなお知る事は知っていると来たのでしょう。で、書くことの狙いが外れちゃった訳でしょう。」
「はかないね、小説家の末路というものははかない、いま恰度、其処を何も知らずに、僕は帽子をかむって、てくてくほっ附き廻っているようなもんだ。」
「はかないという口くせで、きょうまでやっていらっしったんじゃないの、だから、後は仕方がないからそのはかないことばかり書くのよ、はかない人間がはかない事を書くのは当り前のことだわよ、金魚の事は金魚のことしかかけないし、人間は人間のことしか書けないのよ。」
「よし判った、ではゆっくりお休み。」
「おやすみなさいまし、明日また。」
「今夜はおじさんと寝ないんだね。」
「きょうはくたびれちゃって、おじさまを喜ばせるだけの体力が、あたいに、なくなっているのよ。」
「小さいからね、では、勢よく、どぶんとお池に飛びこめ、」
「どぶんと飛びこむわ、一、二、三、と、あ、わすれた、明日は理髪店とこやに行く日なのよ、お忘れにならないで、……」
「有難う、ちんぴら。」
「よいしょ、どぶん、……と、お池の神さま待ち兼ねや。」

「日がみじかくなったわね、四時半というのに、もう暗いわ。だんだん寒くなったらどうしましょう、お縁側に入れていただかなくちゃ、池が氷ったら、あたい、死んじまう。」
「硝子の鉢に入れて日向に置いてあげよう。」
「硝子の鉢はね、四方から見られるから羞かしいわ、あたい、何時でも裸なんだし、みんな見られてしまうもの。」
「じゃ別の鉢に入れよう。」
「え、そうして頂戴。あら、誰かが呼鈴を押したわ、お客さまよ、いま頃、誰方でしょう、もうお夕食の時間なのに。呼鈴もたった一つきりしか鳴らない遠慮深いところからみると、女の方らしいわ。」
「困るな、もう飯だし、……」
「出て見るわ。いらっしゃいまし、誰方様でしょうか。」
「ちょっと、お宅の前を通りあわせたものでございますからつい。」
「あの、ご用向きは何でしょうか、ただ今からお夕食をとることになっているんですが。」
「用事なぞはございませんけど、ただ、ちょっとお会いできたらと思いまして、あの、変なことをおたずねするようでございますが、あなたさまは、奥さまでいらっしゃいますか。」
「いいえ。」
「お嬢さまでしょうか。」
「いいえ。」
「ではお手伝いの方なんでしょうか。」
「いいえ。」
「秘書のようなお仕事をなすっていらっしゃるんですか。」
「そうね、あたいにも宜くわからないんですけれど、秘書みたいな役なんでしょうね、おじさまの事は何でもしてお上げしていて、それで、おじさまがお喜びになれば嬉しいんですもの。」
「おじさまなどと、平常おっしゃってらっしゃるんですか。」
「ええ、おじさま、おじさまと申しあげていますわ、併しあなたさまは誰方なんでしょう。ちっとも先刻からご自分のことは、仰有らないじゃありませんか。」
「わたくしはあなたを見たので名前も何もいう気がしなくなりました。お可愛いあなたがいらっしっては、お会いしてもくださるまいし、おあいしても、帰れと仰有るかも判りません。」
「変なことを仰有るわね、それでは、おじさまのむかしの方でいらっしゃるんですか。」
「もうだいぶ前に亡くなっている女なんですから、お訪ねしてもむだだとは思いましたけれど、女のはかなさで、ついお立寄りしたのでございます。」
「と、仰有いますと、あなたはゆうれいの方なのね、」
「ええ、ゆうれいなのでございます。」
「おじさまはどうしてゆうれいのお友達が、こんなに沢山おありなんでしょうか、も一人のゆうれいは講演会にまでいらっしったんですが、まるで本物そっくりに作られていました。あなただってこう見たところは、間違いない本物の女のかたに見えるんですもの。このごろゆうれいごっこが流行はやるのかしら。」
「あなただって、それ、そんなに、巧くお上手に化けていらっしゃる。」
「まあ失礼ね、でも、驚いちゃった、今まであたいの化けの皮をはいだ人は一人しかいなかったのに、あんたは一見、すぐ剥いでおしまいになったわね、どういうところでお判りになります、……」
「言葉づかいの甘ったれ工合でも判るし、第一、人間はそんなに絶え間なくブルブルとふるえていはしません、ちっとも、おちついていらっしゃらない。」
「これから気をつけるわ、あたいね、毎日、もう寒くてぶるぶるしているんですもの、でも、あんたの化け方は巧いわね、それに煙草でも喫んでお見せになったら、にせ物だとは誰も気附かないわ。」
「先刻ね、何でもおじさまの事はしてお上げすると、仰有ったわね。」
「ええ、言ったわ。だから、外の方には一さい何もして貰いたくないんです。あんただってお通しすれば、何をなさるか判りはしない。」
「じゃ、お通ししてくださらないのね。」
「ええ、まあね、かんにんして戴くより外はないわ、お送りかたわら、そこらまで歩きましょうか。」
「どうしてお取次してくださるのが、おいやなんですか。」
「いやだわ、もう、寒くなるとあたいは、からだの自由が利かなくなるんですもの、あたいがいなくなったら、毎日でもいらっしゃい、その前にゆうれいだということをおじさまにそう言って置きます。京都の病院で手術して死んだ方だと申し上げて置くわ。」
「あの時にも、手紙一本下さらなかった。」
「だってあんたは外の方と朝鮮まで、かけ落ちまでなすったのでしょう。おじさまを打っちゃらかしておいてね、そして四十年振りに手紙をくれと仰有るのは、無理だわよ、書くにも、書きようもなかったらしいんですもの。」
「あの時は手術後で、わたくしは弱って死にかけていました、そんな時妙なもので不意にあの方の手紙が読みたくなったのです。生きた人間の書いた字というものが人間の死際にも、きゅうに見たくなって来る時がございますもの。むかし沢山いただいた手紙に、まだれている何枚かがあるような気がして、それを書いていただきたかったの、そしてまだわたくしという者がその中にほんのちょっぴりでも、のこっていたらそれを読んで死にたかったんです、わたくしは毎日の注射でいのちをつないで、お手紙ばかり待っていました、二日生き三日生き、そしてお手紙を待っていたんですもの。」
「それがとうとう最期まで来なかったのね、あんなに女にあまいおじさまがそんな薄情なことが、平気でしていられるのかしら、想像も出来ないわ。」
「それはわたくしの仕打があまり悪かったからでしょう、恰度、わたくしが結婚する二日前におあいしたときにも、黙ってかくしていました。そして二日後には、もう逃げるようにして結婚して了ったんです。」
「騙し打ちだわね、そりゃあんまり酷いわ。」
「口に出してはいえないことだし、とうとうそんなふうになって了ったのです、お会いしていて今言おうか、ちょっと後で言おうかと迷いながら、ずるずるに言うことが出来なかったんです。」
「おじさまの怒りが四十何年の後にも、まだ、いま怒ったばかりのようになまなましいのは、あたいによくわかるわよ、それはあなたのやり方が余りに悪いのよ、それでいて今頃お会いしたいなんて宜い気なものね、いくら死んでいたって、取次いであげないわよ。」
「けれどわたくし、未だあの方が怒っていらっしゃるという気持に、すがって見たい気がしているんです。そこにまだあの方がわたくしに残していらっしゃるものが、消えない証拠があるんじゃないんでしょうか。」
「誰が騙し打ちをした人に気があるものですか、縋られて堪ったものじゃないわ。」
「お慍りになったわね、わたくし、正直に申し上げたんだけれど。」
「慍るも慍らないも、ないわよ、何のために今どきうろうろ出ていらっしゃるの、あたいのいる間、いくらいらっしったって、何時だって会わせて上げるもんですか。」
「だからその訳をいってゆっくり一度はあやまって見たいと、そればかり考えて、うかがって見たんです。」
「いまから幾ら謝りになっても、受けたきずあとがそんなに簡単に治るもんですか、あやまるなんて言葉はとうに、通用しなくなっているわよ。」
「怖い方ね、見かけによらない方。」
「おじさまは莫迦でいて女好きだから、あ、よしよしと仰有るかも知れないが、あたいの眼をくぐろうとしたって、一歩もお庭の中にも入れはしない。」
「では、帰ることにします。やはり来るんじゃなかった。訪ねても何にもならない事は、気のせいか、判っていたんだけれど、」
「つい来たくなったというのでしょう、本物のお化けなら門からふうわりと飛んで往って、おじさまのお書斎に行ったらいいでしょうに、そんな勇敢なまねも出来ないくせに、」
「そうよ、そんな勇気なんか微塵もないのよ、ただ、しょげて帰るだけですわ。」
「早くかえってよ、門の前では人が立ち停って見るし、この上、困らされてはとても迷惑千万だわ。」
「では、また、ご機嫌の好い時にうかがうわ。」
「二度といらっしゃらないでよ、何てぬけぬけした化け者でしょう。あんな女と若い時につきあったおじさまだって、おっちょこちょい極まるわ。一遍、男を振って置いて、自分で逢いたい時には化けて出るなんて、都合の好い化け者もこの世の中にはいるもんだナ、あばよ、一昨日おとといお出でだ。」

「どうしたの、永々と話をしていて、此方にちっとも、お客さまの案内もしないじゃないか。」
「やっと帰って行ったわ、お目にかかりたいといったから、いま、お食事がはじまるんだからって、お断りしたわ、それでいいんでしょう。」
「どんな顔をしているか見たかったね、四十五年も会わない人なんだ。」
「役者みたい白い顔をしていらっしった。むかしのまんまのお顔らしいわ。手術の後では、よほど、お逢いしたいふうな話だったけれど、おじさまをたすけなかった人は、こんどは、此方で見事に手厳しく振ってやったわ。」
「あの頃のおじさんはね、とても、正気の娘さんではつきあってくれない男だったんだよ、つきあう方がどうかしている、拙い顔をしているし、生意気だし、なりふりだって破落戸ゴロツキみたいだし、お金はないしね、そんな奴に対手になる女なんて一人もいはしなかったんだよ。」
「だって女の人に眼がなかったとも、言えばいえるわよ、幾らきたない恰好していたって若さが物言うじゃないの。若い男ってどんな不恰好な顔をしていらしっても、皮膚はぴいんと張っていて、それだけでも、一生のうちで一等美しい時なんだもの。」
「ところがキミ、僕ときたら、若い時分からジジイみたいな半老はんぼケのツラをしていたんだ、いくら剃っても髭はぎしぎし生えるし、毎日お湯にはいっても顔はきれいにならない、僕はね、その時分流行っていたカイゼル型の髭を生やしていたが、この髭ときたら、その頃の写真を見ただけでも、ぞっとしてくるね、何しろ生やし際はまだ薄いもんだから、ひそかに墨を刷いていたこともあるんだ。」
「あら、可笑しい、お髭を生やしていらっしったら、どんなお顔になるか、想像も出来ないわ、大体に於て人相好くないわね。」
「暴力団か、ゆすりの類だね。」
「でも墨をいれていたのは、ちょっと、哀しいじゃないの。」
「あさましい限りさ、それにお金は一文もないと来たら、どんな娘さんだって寄り附きはしない。」
「おじさまも、そんな時があったのかナ、すべからく、人は勉強して成人すべきだわね。」
「生意気いうな、だから、きょうの人、ちょっとくらい通してもよかったね、あれでも、おじさんの家にも来てくれたし、僕も訪ねて行ったが、何時でも帰りぎわには、手、手と玄関のくらがりで、お母さんに見られないように握手をしてくれたもんだよ。」
「握手がそんなに重大な意味があったの。」
「握手がいまのキスみたいに、効果があった時勢だったんだ。」
「そお、それなら、少時しばらくでも、お通しすれば宜かったわね、あたい、おじさまを振った女だと思うと、無性にかっとしちゃって、おじさまに会わせてやるものかという、気が苛立いらだって来ていたんですもの。」
「きみはすぐかっとするね。」
「燃える金魚というけれど、ほんとは温和しくみえても、すぐ、ほねの中までかっと燃えて来るんだもの、でも、あたいにね、あなたは奥さまでいらっしゃいますか、それともお嬢様なんですかとお聞きになったわ、あたい、つい赧くなっちゃったけれど、ここだと思って落着いて、秘書だと言ってやった。」
「うまく化けたね、さあ、飯を食おう。」
「あたいね、何時も塩気のないものは厭なのよ、もっとおいしい物がたべたいの。たとえば、髪の毛みたいな、みじん子みみずね、あれをそろそろと食べてみたいのよ、たまにおじさま、溝に行ってすくって来てちょうだいよ。」
「きたない話をしなさんな。溝にしゃがんでこの年になってさ、みじん子がすくえるものか、考えてもごらん。」
「そいでなきゃ羽根のある小さい虫が食べたいわ、蚊みたいなぶよ[#「虫+(くさかんむり/吶のつくり)」、U+8739、135-1]みたいな、ぴかぴかした羽根がおいしいのよ、舌のうえにへばりつくのがとても可愛くておいしい。」
「それ、何のまねをしているんだ。」
「これ、あたいのヒミツの遊びなのよ、こうやって藻を一杯あつめてまん円くして、その中にからだごとすぼっとはいりこむのよ、眼の中がすっかり青くなっちゃって、硝子の中にいるみたいに、とても宜い気分なのよ、この中でヒミツをひらく。」
「どういうヒミツなんだ。」
「あたいだってもともと女でしょう、子を生むまねもして見たいじゃないの。」
「あ、そうか。」
「はやく子どもが生みたいんだけれど、もう、こんなに寒くなっちゃったから、生めそうもないわ、だから子を生むまねをして、遊ぶだけは藻の中ででも遊んでみたいわ。」
「うれしそうだね。」
「卵をうんと産んでそれを毎日解らなくなるまで数えて見て、そしてその卵にからだを擦り寄せている気持ったらないわ。」
「金魚の子は可愛いね、きみのように大きくなると、憎たらしいところが出てくるけれど。」
「でも、あたいくらいにならないと、おじさまのお対手になれないじゃないの。あんまり小ちゃいと眼の穴の中にでも落っこちそうなんだもの、人間ってとても大きいからナ、口のそばなんか危くて近寄れないもの、人間って何故そんなにばかばかしく、大きいからだをしているんでしょうか。」
「これでも未だ僕は小さい方だよ、中には西洋人なぞ、二メートルもある奴がいるよ。」
「あたいなぞ人間の親指くらいしか、ないわね。」
「きみから見たら図体が大きいんで、いくら驚いても驚き足りないだろうね。」
「おじさま、そろそろ今年の最後の虫を捕りに行きましょうよ、こおろぎなら、まだ、そこらに沢山鳴いているわ。」
「明日の晩行こう、昼間にきみが籠を買って置いてくれれば、何時でも出掛けられる。」
「去年のこおろぎの眼ん玉なんか、すきすきになっていたわね、まるで石炭がらみたいになっていても、まだ、生きているんだもの、」
「人間はそうはゆかない、」
「あたいだっていまに尾もひれも、擦り切れちゃって、おしまいには、眼ん眼も見えなくなるでしょうね、それでも、生きていられるかしら。」
「さあね、」
「あたい、何時死んだって構わないけど、あたいが死んだら、おじさまは別の美しい金魚をまたお買いになります? とうから気になっていて、それをお聞きしようと思っていたんだけれど。」
「もう飼わないね、金魚は一生、君だけにして置こう。」
「嬉しい、それ聞いてたすかった、あたい、それではればれして来たわ。何処にも、あたいのような良い金魚はいないわよ、お判りになる、おじさま。」

四、いくつもある橋


「この頃、小母おばさまは些っとも、お歩きにならなくなったわね。」
「立って歩くのが大儀らしい。ひざばかりで歩いている。」
「あたいね、昨夜ゆうべ考えてみたんだけれど、膝ぶくろを作って膝にあてたら、どうかと思うの、でないと永い間には、膝の皮が擦りけて了うわよ。」
「膝ぶくろをけてもいいんだけれど、よく、ほら、街なんかに足なえの乞食がいるだろう、あの人達がね、膝の頭に袋をめているのを思い出して厭なんだ。ぼろ布のあつぽったい奴をくっ附けているのを見ると悲しくなる。」
「あたいも、そいを考えて見て、たまんなかった。歩けなくなってから何年におなりになるの。」
「そうね、十九年になるかな。」
「十九年めに小母さまのお部屋がやっと、出来たわけなのね。」
「橋の上には何時でも乞食がくそのように坐っていて、足も腰も立たないんだ。僕は毎日家で見るような光景が、橋の上にあるような気がして通りすぎるんだが、それも、田舎にある橋なぞではなくて、東京のまん中で見る橋なんだ、たとえば昔の数寄屋橋という橋はたまらなかった。」
「あそこに、お乞食こもさんがいたの。」
「お天気さえ好ければ、きっといた、或る日は男、或る日は女というふうに、どれも足のきかない人達がいたんだ、そしてこのごろは橋はないが、通るたびに眼に橋が見えて来て僕が彼処に坐り、また、僕の妻も、僕と交替に彼処に出ているような気がして、あの橋があそこを通るたびに見えて来る、そして新橋の方に夕雲がぎらついて、街は暮れかけていても、橋の上だけが明るく浮いて見えている。」
「おじさまったら、そんなふうに年中小説ばかり頭ん中で書いていらっしゃるのね。だって小母様が橋の上にお坐りになるなんてこと、ありえないことじゃないの。」
「人間は誰だって彼処にいちどは、坐って見る頭の向きがある。そうでなかったら、仕合せというものを認めることが出来ない訳だ。僕もあそこに何時だって坐って見るかくごはある。戦争中はみんな彼処に坐っていたようなもんだ。」
「じゃ、あたいは下水に流されてゆくのね。」
「きみは下水のお歯黒溝であぶあぶしているし、僕は橋の上で一銭呉れというふうに、一日呶鳴っているようなもんだ。」
「おじさまは仕合せすぎると、ぜいたくしたくなって、お乞食さんのまねまでしたくなるのね。いやなくせね。」
「それを真向からいえるということも、ふてぶてしくて好いじゃないか。」
「橋というものは渡れば渡るほど、先には、もっと長いのがあるような気がするわね。けど、橋はみじかい程悲しくて、二三歩あるくと、すぐ橋でなくなる橋ほど、たまらないものないわね、あたいの池の橋だって水の中から見上げていると、天までとどいているようだけど、先がもうないわよ。」
燐寸マッチ箱二つつないだような橋。」
「その橋の下を威張ってとおるたびに、橋は白っぽく長たらしく、僅かに日光をさえぎったところでは、この頃とても寒くなって来たわ、水はちぢんで、ちりめんじわが寄って暗いもの、あたい、どうしようかと毎日くよくよしているんだけど、おじさまだって判ってくれないもの。」
「縁側にきみを入れる、用意がちゃんとしてある。」
「そうでもしてくださらなかったら、このままだと水は硬いし重くなるばかりよ。」
「おじさんのお膝においで。」
「ええ、あら、もう大工さんが登りはじめたわね。あたいね、大工さんて、板や四角い木で字を書いている人だとおもうわ。とこという字を書いているうちに床の間が出来上るし、柱という字を書くために柱はとうに建ってしまうし、大工さんだって字書きとおなじだわね。」
「紙のようにかんたんに木を折り畳んで、つかっている人なんだ。」
「きょうはお二階のほうのお仕事ね。釘袋を下げ、そこに金槌を入れ、そしてのこぎりを腰にはさんでいて用意がいいわね。何処でも足がさわれば屋根の上までも、登って行けるのね、おじさまは登れないでしょう。」
「登るにも、眼が廻って登れない。」
「いい気味ね。あたいはきのう釘箱にあった一等こまかい釘を、一本盗んでやった。見ているとぴかぴか光っていて、無性にほしくなって来るんですもの。」
「何にするの、釘なぞ盗んで。」
「何にもしないけど、ただ、ほしいだけなの、ただほしいとだけ思う事あるでしょう。あれなのよ。」
「釘というものは妙にほしくなるもんだね。」
「あたいね、あんなに沢山の材木がどこでどう使われるか判らないけど、もう、何処かに毎日つかわれていて、幾らも残っていないのに驚いちゃった。家を建てるということは細かい材木が一杯要るのね。そして何処にどの材木がいるかということをちゃんと、一々細かい嵌め方も大工さんは知っているのね。一本盗んでやろうと見当をつけて置いた細い木も、何時の間にか、つかっていたわ、盗まなくて宜かった。」
「すぐ判って了うよ、どんな小さい木でも、みんな頭に覚えているからね。」
「おじさま、あれ、目高が池から飛び出しちゃった、危い、危い、ちんぴらのくせに勢い余って飛び出すやつがあるものか、ほらね、酷かったでしょう、眼を白黒させているわ。」
「水をいれ過ぎたかな。」
「お池の岸まで、お水をぴったり入れてあるからなのよ、それでは、ちょっとはねて見たくなるのね、おじさまが悪いんだ。」
「この頃目高の数がだいぶ、減って来たようだ、ひょっとすると。」
「そんなにあたいの顔を、見ないでよ、そんなにべてばかりいはしないわよ、疑りぶかく見つめていらっしゃる。」
「百尾もいたのに、もう、ばらばらとしかいないじゃないか、総計、五十尾もいない。」
「あたい、食べはしないもの。とても、にがい味がしていて、頭なぞ目高のくせにかんかん坊主で硬いのよ、食べられはしない、ふふ、でもね、内緒だけど弱っているの、いただくことあるわ。」
「にがいのが美味しいんだろう。」
「うん、かんぞうがにがくてね、とても、わすられない美味しさだわ。」
「そこで一尾ずつ呑みこんだ訳だね、生餌だと、うんこの色も臭いもちがって来るんだ。」
「だんだん薬喰いをして置かなければ、寒さでからだが持たなくなるのよ、あれ食べたあと、からだ中が燃え、眼なんかすぐきらきらして来て、何でもはっきり見えて来るんだもの、おじさま、慍らないでね、時どき、いただかしてよ。」
「可哀そうになあ。」
「だっておじさまは、でかい、牛まで食べておしまいになるでしょう、牛はもうもう鳴きながら毎日屠殺場に、なんにも知らないで曳かれて行くんだもの、目高なんかとけた違いだわ、もうもうは、殺されても、まだ、殺されたことを知らないでいるかも判らない、きっと、もうもうは、何時でも、昔の昔から何かの間違いで殺されているとしか考えていやしない。」
「もうもうも可哀そうだが、目高も可哀そうだ。」
「では、暢気のんきに、ぶらりぶらりと歩いている豚はどう。」
「あれもね、何とも言えない、みじめなもんだ。」
「これからは、もうもうも食べないし、ぶうぶうも食べないようにしましょうね、せめて、おじさまだけでも、その気になっていらっしったら、牛も豚も、よく聞いて見ないと判んないけど、うかぶ瀬があるような気がするわ。」
「うむ。」
「とうとう今年はあたい、子供を生もうと願いながら、産む間がなかった。ね、何とかしておじさまの子を生んでみたいわね、あたいなら生んだっていいでしょう、ただ、どうしたら生めるか、教えていただかなくちゃ、ぼんやりしていては生めないわ。」
「はは、きみは大変なことを考え出したね。そんな小さいからだをしていて、僕の子が生めるものかどうか、考えて見てご覧。」
「それがね、あたいは金魚だからよその金魚の子は生めるんだけれど、おじさまの子として育てればいいのよ、おじさまはね、毎日大きくなったあたいのお腹を、撫でたりこすったりしてくださるのよ、そのうち、あたい一生懸命おじさまの子だということを、心で決めてしまうのよ、おじさまの顔によく似ますように、毎日おいのりするわよ。」
「そして僕のような凸凹面の金魚の子に化けて生れたら、きみはどうする。」
「おじさまの子なら、似ているに決っている、人間の顔をした珍無類の金魚でございと、触れこんだら慾張りの金魚屋のお爺ちゃんがね、息せき切って買いに来るかもわからないわ。」
「そしたらきみは売る気か。」
「売るもんですか、だいじに、だいじにして育てるわ、みじん子食べさせて育てるわ。」
「みみずのみじん子食うのは、いやだ。」
「じゃ塩鱈しおたらはどう。」
「塩鱈のほうがいいね。」
「金魚の子ってのは、そりゃあずきくらいの小ささで、そりゃ、可愛いわよ、まるでこれがおさかなとは思えない小ささで、尾もひれも頭もあって泳ぐの。でね、名前をつけなくちゃ。」
「そうか、金太郎とでも、つけますか。」
「もっと立派な名前でなくちゃ厭、金彦とか何とかいう堂々たる名前のことよ。」
ゆっくり考えて置こう。」
「では、あたい、急いで交尾してまいります、いい子をはらむよう一日じゅう祈っていて頂戴。」
「あ、」
「朱いのがいいんでしょう。金魚は朱いのに限るわよ。黒いのは陰気くさいから、例によって燃えているたくましいやつを一尾、つかまえるわ。」
「しくじるな。」
「しくじるもんですか、炎のようなやつと、夕焼の中で燃えて取りくんで来るわよ。」

「おじさま、見てよ、木だの板だの、一つもなくなっちゃった。」
「うむ。」
「どんな小さい板切れも、みんな、つかったのね、覚えをしてあったものをみんな覚えのあるところに、嵌めこんで了っているわ。大工さんは大工さんという生きた機械なのね。」
「こまかいことでは、藤蔓ふじづるというものがみんな右巻きだということまで、知っているんだ。」
「じゃ豆だの、そいから草の蔓だのは、みんな右巻きになっているの。」
「左巻きはないらしいんだ。木の事では博士みたいな人達だ。」
「おじさま、お二階にあがって見ましょう。」
「上ろう。」
「あたい、今までに、お二階に暇さえあれば上っていたのよ、階段を一段ずつ上るのが面白いのと、それにお二階の畳の上にぺたっと坐っていると、誰も知らない遠い所に来たような気がしていて、ヒミツを感じていたわ、おじさまだってあたいがお二階にいたことは、ちっとも、知らなかったでしょう。」
「知らなかった。」
「お庭の景色がずっと見渡せるし、その景色が大きくふくらがって、拡がって見えて来るのよ、けど、小母様はお二階にはあがれないわね。」
「上っても下りることが出来ないんだ。」
「あたいね、お二階にいると、飛び下りたり、つたってひさしからぶらんこして下りて見たくなる。」
「僕も柱づたいに、つるつると不意に下りて見たい気がする。」
「それに二階というものは、かなしいところなのね、階下したとは世界がちがうし、階下したのことが見えないじゃないの。」
「それは階下したの人はどんなにあせっても、二階のことが見えないと同じもどかしさなんだ、階下した階上うえとで人間が坐り合っていても、この二人は離ればなれになっているんだ。」
「気が遠くなるような、難かしいお話なのね。」
「その内に二階の人がいなくなれば、それきりで会わずじまいになる、次にまた別の人が来て二階に住んでも、例によって会わなければ何処の誰だかも、判らないことになるんだ。」
「二階の人は空ばかり見ているが、階下したの人はお部屋にいても、空は見ることが出来ないとおっしゃるんでしょう。」
「そうだよ、階下した階上うえでは大きなちがいだ。」
「何だかお話が判らなくなって来たじゃないの、お二階の人はどうして階下したの人と、お話しないのでしょう。」
「二階にいるからなんだ。」
階下したの人は階下したにいるからなんでしょうか。」
「そうだよ、幾ら言っても同じことなんだ、問題は階上うえ階下したのことなんだよ。きみなら、ちょろちょろと泳いで階下まで行くが、人間はそうは簡単にゆかない。」
「よしましょう、こんな、めんどう臭い彼処此処廻っているようなお話は、幾ら言ってもおなじことなんだもの。」
「同じことじゃないよ、大きなちがいだ。」
「まだ言っていらっしゃる。それより、もっと吃驚するようなお話してあげましょうか、ゆうべね、おじさまのお書斎からかえって、また、このお二階にあがろうと、階段からあがって行ってふすまをあけますとね、外の明りがさしている中に誰か人がいるじゃないの、坐ってて、なんにもしないで、ぽかんと膝のうえに手を乗せているの、あたい、襖をほそ目にあけてみると、ふっと、その人がゆっくりと此方に顔をお向けになった。」
「きみは何時でも、そんな話ばかり見附けているんだね、僕よか余程へんなところを沢山に持っている。その人は一たい誰だというの、そんな人なんかちっとも僕にはめずらしくない、僕にはいろんな女でも、人でも、何時でもふらふら出会わしているんだ。」
「では、話するのやめるわ、今夜も来るかも知れないから、そっと此処に来ていて見ようか知ら。」
「さあ、日が暮れたから、下りよう。」
「え、階段ですれちがいに上って来る人がいるかも知れないわ。しかしおじさまには見えはしないわよ、人間の正気にはね。」
「ばかをいうなよ。」
「気をつけてね、すべるわよ。」
「うん、誰も上って来ないじゃないか。」
「おじさまに、それが判るもんですか。ほら、いま、おじさまはくさめをなすった、ぞっとお寒気がしたのでしょう、ほら、ほら、なんだか、すうとしちゃった。」
「何を見ているんだ。」
「お二階に誰かが上ったような気がするもんですから、おじさま、障子はしめていらしったわね。」
「うん、だが、わすれたかも知れない。」
「おじさま。」
「何だ、お腹なんか撫でて。」
「あのね、どうやら、赤ん坊が出来たらしいわよ、お腹の中は卵で一杯だわ、これみな、おじさまの子どもなのね。」
「そんな覚えはないよ、きみが余処よそから仕入れて来たんじゃないか。」
「それはそうだけれど、お約束では、おじさまの子ということになっている筈なのよ、名前もつけてくだすったじゃないの。」
「そうだ、僕の子かも知れない。」
「そこで毎日毎晩なでていただいて、愛情をこまやかにそそいでいただくと、そっくり、おじさまの赤ん坊に変ってゆくわよ。」
「どんな金魚と交尾したんだ。」
「眼のでかい、ぶちの帽子をかむっている子、その金魚は言ったわよ、きゅうに、どうしてこの寒いのに赤ん坊がほしいんだと。だから、あたい、言ってやったわ、或る人間がほしがっているから生むんだと、その人間はあたいを可愛がっているけど、金魚とはなんにも出来ないから、よその金魚の子でもいいからということになったのよ、だから、あんたは父親のケンリなんかないわ、と言って置いてやった。」
「そいつ、慍ったろう。」
「慍って飛びついて来たから、ぶん殴ってやった、けど、強くてこんなに尾っぽ食われちゃった。」
「痛むか、裂けたね。」
「だからおじさまの唾で、今夜継いでいただきたいわ、すじがあるから、そこにうまく唾を塗ってぺとぺとにして、継げば、わけなく継げるのよ。」
「セメダインではだめか。」
「あら、可笑しい、セメダインで継いだら、あたいのからだごと、尾も鰭も、みんなくっついてしまうじゃないの、セメダインは毒なのよ、おじさまの唾にかぎるわ。いまからだって継げるわ、お夜なべにね。お眼鏡持って来ましょうか。」
「老眼鏡でないと、こまかい尾っぽのすじは判らない。」
「はい、お眼鏡。」
「これは甚だ困難なしごとだ、ぺとついていて、まるでつまむ事は出来ないじゃないか。もっと、ひろげるんだ。」
「羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。」
「なにが羞かしいんだ、そんな大きい年をしてさ。」
「だって、……」
「なにがだってなんだ、そんなに、すぼめていては、指先につまめないじゃないか。」
「おじさま。」
「何だ赦い顔をして。」
「そこに何かあるか、ご存じないのね。」
「何って何さ?」
「そこはね、あのね、そこはあたいだちのね。」
「きみたちの。」
「あのほら、あのところなのよ、何て判らない方なんだろう。」
「あ、そうか、判った、それは失礼、しかし何も羞かしいことがないじゃないか、みんなが持っているものなんだし、僕にはちっとも、かんかくがないんだ。」
「へえ、ふしぎね、人間には金魚のあれを見ても、ちっとも、かんかくが生じないの、いやね、まるで聾みたいだわね、あたいだちがあんなに大切にして守っている物が、判らないなんて、へえ、まるで嘘みたいね、おじさまは嘘をついていらっしゃるんでしょう。シンゾウをどきどきさせている癖に、わざと平気をよそおうているのね。」
「うむ、そういうのももっともだが、きみだちの間だけで羞かしいことになっていても、僕らには何でもない物なんだよ。」
「人間同士なら、羞かしいの。」
「そりゃ人間同士なら大変なことなんだよ、お医者でなかったら、そんなところは見られはしない。」
「分んないな、人間同士の間で羞かしがっている物が、金魚の物を見ても、何でもないなんてこと、あたいには全然わかんないナ。」
「金魚は小ちゃいだろう、だから、羞かしいところだか何だか、判りっこないんだ。」
「お馬はどうなの。」
「大きすぎて可笑しいくらいさ。」
「じゃ人間同士でなかったら、一さい、羞かしいところも、羞かしいという感覚がないと仰有るのね。」
「人間以外の動物は人間にとっては、ちっとも、感じが触れて来ないんだ、まして金魚なんかまるでそんな物があるかないかも、誰も昔から考えて見たこともないんだ。」
「失礼ね、人間ってあんまり図体が大きすぎるわよ、どうにもならないくらい大きすぎるわ、金魚のように小さくならないか知ら。」
「ならないね。」
「でも、おじさまとキスはしているじゃないの。」
「きみが無理にキスするんだ、キスだか何だか判ったものじゃない。」
「じゃ、永い間、あたいをだましていたのね、おじさまは。」
「騙してなんかいるものか、まア型ばかりのキスだったんだね。じゃ、そろそろ、尾っぽの継ぎ張りをやろう。もっと、尾っぽをひろげるんだ。」
「何よ、そんな大声で、ひろげろなんて仰有ると誰かに聴かれてしまうじゃないの。」
「じゃ、そっとひろげるんだよ。」
「これでいい、」
「もっとさ、そんなところ見ないから、ひろげて。」
「羞かしいな、これが人間にわかんないなんて、人間にもばかが沢山いるもんだナ、これでいい、……」
「うん、じっとしているんだ。」
「覗いたりなんかしちゃ、いやよ。あたい、眼をつぶっているわよ。」
「眼をつぶっておいで。」
「おじさまは人間の、見たことがあるの。」
「知らないよそんなこと。」
「じゃ外の金魚の、見たことある。」
「ない。」
「お馬は。」
「ない。」
「くじらというものがいるでしょう、あのくじらの、見たことおありになる。」
「くじらのあれなんてばかばかしい。」
「人間がほかの動物に情愛を感じないなんて、いくら考えても、本当と思えないくらい変だナ。」
「きみはたとえばふなとか目高とかをどう思う、目高は小さすぎるし、鮒は色が黒くていやだろう。」
「いやよ、あんな黒ん坊。」
「それじゃ僕らと同じじゃないか。」
「そうかな、目高はちんちくりんで間に合わないし。」
「金魚は金魚同士でなくちゃ、なんにも出来はしないよ。」
「そういえばそうね。」
「うまく尾が継げたらしいよ。」
「眼を開けていい。」
「いいよ、尾を張って見たまえ。」
「ありがとう、ぴんと張って来て泳げるようになったわ。おじさまは相当お上手なのね、どうやら、彼処此処のぶちの金魚をだまして歩いているんじゃない? 尾のあつかい方も手馴れていらっしゃるし、ふふ、そいからあの、……」

「あ、つかまえた、田村のおばさま、きょうは放しませんよ、きょうで三日もいらっしっているんじゃない? あたい、ちゃんと時間まで知っているんだもの。きのうも五時だったわ。」
「ええ、五時だったわね、五時という時間にはふたすじの道があるのよ、一つは昼間のあかりの残っている道のすじ、も一つは、お夕方のはじまる道のすじ。それがずっと向うの方まで続いているのね。」
「そのあいだを見きわめていらっしゃるんでしょう、きっと、誰にも見られないように、でも、あたいには、それが見えてくるんですもの。」
「あなたの眼にはとてもかなわないわ。石の塀の上にいらっしゃるのが、遠くからは、朱い球になっていて見えている。」
「潜り戸からおはいりになってよ、おじさまもいらっしゃいます。退屈してぼうっとしているわよ、何時でもお夕食前になんだか、ぼうっとして気味のわるいくらい黙りこくっているわよ、ゆり子おばさまの来ることを知っているのか知らと思うことがあるわ。知っていて黙っているのか知ら?」
ちっとも、ご存じがないのよ、お夕方っていうのは、誰でもだまっていたい時間なのよ。」
「きのうもおばさまの話をしたけれど、ふんと言ったきり後にはなんにも、言わずじまいよ。だから、あたい、お腹が空いているんだと勘ちがいしたんですけれど、余りおあがりにならなかったわ。」
「ほほ、お腹が空いたなんて面白いこと仰有るわね。」
「まあ、おばさま、変にお笑いになっちゃ厭。どうしてそんな声でお笑いになるの。」
「べつにわたくし変な声でなんか、とくべつに、笑わないんですけれど、……」
「だって寒気がしてくるわよ。さあ、おはいりになって。」
「きょうはいけないの、お使いのかえりなものですから、すぐ戻らなきゃならないのよ。」
「誰のお使いなのよ、誤魔化したってだめ。」
「まだお買物があるんですから、それから片づけなくちゃ。」
「じゃ、あたいも一しょにお供するわ。離れないでついてゆくわよ。」
「いらっしゃい、あなたのお好きな物、何でも買ってあげるわ。」
「おばさま、じゃ金魚屋に寄って頂戴、うちの金魚にたべさせる餌を買っていただきたいの。」
「冬なのに、金魚屋のお店なんかあるかしら。」
「いえ、金魚の問屋のお爺ちゃんの家にゆけば、何時だってあるのよ。」
「問屋は何処にあるの。」
「あたい、ちゃんとそれを知っている、マアケットの裏長屋の二軒目で、おばあちゃんが古綿の打直しをしているんだから、綿打直シの看板を見てゆけばすぐ判るわ、おじいちゃんはそこに冬越しの金魚と一しょに暮しているの。えびをいてぬかをまぜた餌を一日作っているわ。」
「行ったことあるんですか。」
「ええ。」
「まあ、羞かしそうに顔をかくそうと、なさるわね。」
「いやよ、そんなに顔ばかり見ちゃ。あたい、あんまり度たび餌を買いにゆくもんだから、お爺ちゃんと仲よしになっちゃったんです。」
「そお、あそこの床の低いお家でしょう、古綿打直シ、ふとん縫いますって、看板出ているところでしょう。」
「ええ、おばさま黙っててね、あたい、お爺ちゃんとお話しますから。」
「はい、はい。」
「お爺ちゃん、今日は、きょうは冬越しの餌を買いにきたのよ、もうすっかりお挽きになったの。」
「おう、三年子、どうしたい、きょうはべらぼうに美しい女と一緒だなあ、おめえも、えらく大きくなって別嬪べっぴんになったもんだ、もうおめえも来年は四年子だ、四年子は化けるというぜ。」
「もっと低声でお話するものよ、あの方に聴えるじゃないの、きょうはうんと餌を仕込みに来たのよ、お金はあのおばさまがみんな払ってくださる。」
「おめえは何時でも金持と一緒でいいなあ、うんと、買ってくれ、冬場は目高一尾だって売れはしないんだ。」
「じゃ十箱ほどいただくわ。」
「おいおい、三年子、十箱で幾らになると思うんだ、千二百円もするんだぜ。」
「いいわよケチケチしないでよ、田村のおばさまがみな払ってくださるわ、それに、金魚藻をどっさり包んでね、ほかに、今年のたべおさめに、みみずのみじん子を缶詰の空かんに一杯入れて頂戴、久しくいただかないから、どんなに美味しいでしょう。」
「おめえはみじん子が好きだったな、これはおまけにしとくよ、けどなあ、三年子、おめえのような仕合せな金魚は、この年になるまで未だ一度も見たことがない、永い間この商売をしているけれど、病気もしないで何時もおめかしして歩いているのは、まあおめえくらいなもんだ。」
「美しからざれば人、魚を愛せずだわよ。」
「ときにおめえ、これじゃねえか。」
「ええ、お腹が大きいのよ、卵がぎっちり詰っている。お腹がぴかぴかして光っているでしょう。」
「どうだい、おれの家で産んではくれまいか、おめえの子なら、きっと、仕合せの好い子が生れるに決っている。」
「だめ、だめ、先約済みなのよ。」
「どうしてさ。」
「子供をほしがっている人間がいるのよ、だから、冬ぞらだけど、生むことにしたのよ。」
「人間がかい。」
「うん、あたいを大事にしてくれる人がいるの。」
「余程の金魚好きな奴なんだな、じゃ、冬の間はからだに気をつけてな、来年の春また思い出したら来てくれ。」
「おじいちゃんもお年だから、杖でもついて気をつけてね、あまり焼酎をおあがりになると、お腹が焼けてくるわよ。」
「うん、判った。」
「さよなら、あたいの育ての、二人とない大事なおじいちゃんよ。」
「卵から育てた生きのよい、お化けの三年子よ。」
「あの金魚屋のおじいちゃんは、とても、好いお人でしょう。」
「好い方ね、あなたの何に当る人なの。」
「そうね、しんせきみたいな人か知ら。」
「だってしんせきって変ね、ただの金魚屋さんなんでしょう、何の関係のない方なんでしょう。」
「ええ、それはそうなのよ、けど、こんなお話よしましょう、それよりお帰りにちょっと寄って、おじさまにお会いになって頂戴、でなかったら、折角いらっしったのに詰んないじゃないの。」
「けど、これから、お買物をしなきゃならないの。」
「じゃ、お買物を先になすったらどう。」
「ええ、そうね。」
「何をお買いになるんですか。」
「お野菜なんだけれど。」
「そこのお店にはいりましょう。百合根の球があるし、ほうれん草はいらないんですか。」
「もやしがいいわ、それから細葱を少しに黄色い蜜柑。」
「あら、厭だ、もやしをお買いになるの、白っぽくて蛆々うじうじしていて厭ね。それに細葱ほそねぎって、糸みたいで気味がわるいわ。おばさまは変なものばかりお買いになるのね。」
「あなたは何がいるの。」
「あたいはと、そうね、そうめんにしようか知ら。」
「そうめんて長くて、変に曇っていてきらいだわ。」
「冬、たべる物のない時に、たべますのよ。」
「上山さんもおあがりになるんですか。」
「おじさまは長細いものは何でも大嫌い、そうめんでも蛇でも、きらいだわ。」
「蛇でも、」
「ええ、冬は蛇がいなくなるから、いいわね。あゝ、も来ちゃった。ちょっとってて、おじさまがいるかどうか見るから。」
「危いじゃないの、塀に登ったりなんかして? まるで男みたいな方ね。」
「いるいる、また、何時もみたいにぽかんとしている、きっとお腹が空いているのよ、空いている時には、いつも、きっとあんな顔をしている。」
「じゃ、わたくしこれで失礼するわ。」
「何おっしゃるのよ、お這入りになる約束じゃないの、きょうは帰しはしないから、幾らでもだだをこねるがいいわ。」
「これから帰ってお食事のしたくもしなければならないし、お洗濯の取り入れもわすれていたのよ。」
「お食事のしたくって、誰のしたくをなさるのよ、おばさまは、お一人で暮しているんでしょう。」
「ええ、わたくしの食事のことなのよ。」
「だったら、おじさまと久振りでご一緒にお食事なさるがいいわ。」
「その他にも用事があります。」
「何もご用事なんか、あるもんですか。」
「お洗濯物の取り入れがあるのよ。」
「洗濯物なんかお帰りになってからでもいいわ、さあ、這入りましょう。」
「ほんとにきょうはだめなのよ、急ぐ用事が一杯たまっているんですもの。」
「おばさまのばか。」
「何ですて。」
「ばかだわ、お会いしたくて前をぶらぶらしているくせに、いざとなると、びくびくして避けているじゃないの。そんなに厭だったら、初めっから来ない方がいいのよ。」
「まあ、酷い。」
「何時だって現われると、すぐ逃げ出してしまうくせに、何のために現われるのよ、そんなのもう古いわよ。」
「だってご門の前に、ひとりでに出て来てしまうんだもの。」
「嘘おっしゃい、自分で五時という時間まで計って来ながら、お洗濯物の取り入れも、何もないもんだ、一緒にきょうはお家にはいるんですよ、でなきゃ、手に噛みついてやるわよ。」
「怖いわね、何とおっしゃっても、わたくし帰るわよ。」
「帰すもんですか。」
「手、痛いわ、何てちからがあるんでしょう。」
「噛みついたら、もっと痛いわよ。」
「じゃね、わたくし顔をなおします、だから、あなたの口べにと、クリイムを貸して下さらない、お池のそばでちょっと化粧を直すわ。」
「その間にずらかるお心算つもりなんでしょう。」
「ずらかるなんて口が悪いわ、そんな人の悪い事はしません、柿の木の下でじっと俟っているわよ、白粉も持って来て頂戴。」
「ええ、だけど心配だ、おばさま、お金のはいっているハンド・バッグをお預りするわ、ずらからない証拠にね。」
「はい、ハンド・バッグ。」
「じゃ、すぐ急いで取って来るわ、ほんと何処にも行かないでね、おじさまにそう言っとくから、きょうはじめてお食事するといったわね、あたい、嬉しいわ、おじさまもきっと、ほくほくなさるわ。」
「これも、ついでに、お料理してね。」
「百合根、いただくわ、もやしは厭よ。じゃ、すぐ戻るわ。おばさま、もう、白椿が咲いているからおりになっていいわよ、とてもいい匂いだから、俟っている間に※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)いでいらっしゃい。」
「ありがとう。」
「くらいから街灯けて置くわ。」

「おじさま只今。」
「何処に行っていたんだ、化粧道具なんか持っていま時分何処に行くんだ。」
「いい人が来ていて、おじさまにお会いするために顔をなおすと仰有っていらっしゃるのよ、だから、お化粧道具を持ってゆくんです。」
「いい人って誰なんだ。」
「当てて見てよ、当るかナ、」
「じらさないで言ってごらん。」
「田村ゆり子。」
「いま時分に、どうして君はあの人に会ったのだ。」
「お家の前でおあいして、一緒に買物をしてこれから一緒におじさまと、お食事のお約束したのよ。」
「うむ。」
「いやにれいたんな顔附ね、ご一緒におあがりになるんでしょう。」
「約束なら仕方がないが、いまごろどうしてうろついているんだろう。すぐ逃げ出すくせに。」
「きょうは大丈夫、ハンド・バッグ預っちゃった、何処にも往かないで俟っている証拠なのよ。」
「見せてみたまえ、」
「古い型だわね、二十年も、もっと以前の流行らしいのね、下げひもがついてないし、口金がみんなびついている。こんな古風なバッグ提げるの極りわるくないかしら。」
「中を開けてごらん。」
「人様の物を開けるの悪いじゃないの、おじさまらしくないこと仰有るわね。」
「まアちょっと開けて見たまえ。」
「開かないわ、錆びついているのよ、ええ、ぎゅっとねじって見るわ、やっと開いたけど、手巾とバスの回数券と、それに香水の瓶がはいっているきりよ。」
「バスの回数券があるの、ふうむ。」
「何処かにお勤めになっていらっしったのね。」
「さあ、どうかな。」
「どうして回数券なんか、要るんでしょうか。」
「よく見たまえ、この回数券は戦前もずっと前の、藍色あいいろの表紙じゃないか、あと三枚きりしかない。こんな物いまどき通用するもんかね。」
「あきれた。」
「くわせものだよ、きみが勝手に作り上げたおハナシなんだ。およし、こんな事を企んでおじさんを困らせるのはお止し。」
「だってあたい、実際、田村さんの手をうんと握って見たもの、講演会の時よりか、ずっとふとっていたわ。」
「庭で俟っているの。」
「そんな約束なのよ、きょうは間違いはないのよ、あたい、騙されるのいやだから、先刻ね、手を痛い程握ったときに髪の毛を二三本噛み切ってやったわ、ほらね、これ、本物の髪なんでしょう。」
「髪だね。」
「でも、人間の髪にまちがいないでしょう、つやといい、ウエーヴのかかっている工合といい、……」
「ウエーヴがかかっているな、併し古いあとだね、」
「おじさま出て見ましょうよ、お迎えしておあげしたらお喜びになるわ、ご門のきわにいらっしゃるんです。」
「いや、僕はここにいるよ。」
「ちょっとくらい出たっていいじゃないの、意地悪いわないで、さあ、どっこいしょと、立つのよ、どっこいしょと、……」
「僕は寒気がしているから出ないよ、きみ、往って連れて来てくれたまえ。」
「出たくないんですか。」
「うん、出たくない。」
「こんなにお頼みしてみても、だめなの。」
「気が重いんだ。」
「冷酷無情な方ね。」
「冷酷でも何でもいいよ。」
「おじさまのバカ、バカヤロ。」
「ばか、だと。」
「バカだわよ、わずかに庭にも出てやらないなんて、そんな酷い仕打ちがあるもんか、二日も三日も遠くから通っている人にさ、ちょっとくらい、出てあげてもいいじゃないの。」
「何とでも言いたまえ、きみが呶鳴ったって屁でもない。」
「じゃ本物の人間でないと言いたいんでしょう、だから、会う必要はないというのね。」
「よくそこに気がついたね、あれは本物の女ではないんだ、きみが金魚屋に行く途中で田村ゆり子のことを、考えながら歩いて、遂々とうとう、本物に作り上げてしまったのだ。」
「じゃ、何時か街の袋小路の行停まりで見たときも、あたいのせいだと、仰有るの。」
「あの時は僕ときみとが半分ずつ作り合わせて見ていたのだ、だから、すぐ行方不明になって了った。人間は頭の中で作り出した女と連れ立っている場合さえある。死んだ女と寝たという人間さえいるんだ。」
「それはユメなのよ。」
「ユメの中で男と逢った女で、はらんだ例は沢山にあるんだ。」
「おじさまのバカも無限なバカになりかかっているわね、後生だから庭にだけでも出て見て頂戴。」
「しつこい出目金だ。」
「出目金とはなんです。あたいが出目金ならおじさまは何だい、死に損ったふらふらお爺ちゃんじゃないの、あたい、往ってあんな死に損いなんかに会わないで、帰っていただくようにいうわよ。」
「ついでに、もう来ないでくれと言ってくれ。」
「会いたいくせにそれを耐えて、いらいらしていてそれが本心だというの、会いたくても飛び出せもしないくせしていて、意気地なしね、うそつきなのね、両方で同じことを言っているんだ、おばさまはおばさまで逃げ廻っているし、此方は此方で逃げを打つなんて、揃って人間なんて嘘のつき合いをしているようなもんだ。人間なんて生れてから死ぬまで、嘘のき合いをしているようなもんだ。」
「死んでいても、まだ嘘をついているかも知れないさ。嘘ほど面白いものはない、」
「じゃ、勝手に嘘をついていらっしゃい。あたい、おじさまってもっと女のこころが判る方だと思っていたら、ちっとも、判っていない方なのね、こまかい事なんかまるで判っていない、……」
「女のこころが判るものか、判らないから小説を書いたり映画を作ったりしているんだ、だが、ぎりぎりまで行ってもやはり判っていない、判ることはおきまりの文句でそれを積みかさねているだけなんだ。」
「もうそんなお話、聴きたくないわ、何時でも同じ事ばかり仰有っている、よく飽かないで言えるわね。」
「言ったことを何時も繰り返して言っては、人間は生きているんだ。」
「あら、誰かがあたいを呼んでいるんじゃないか知ら、黙っていて、ほらね、聴えるでしょう、おばさまが呼んでいるのよ、おじさまにはあのお声が聴えないの。」
「誰の声もしてはいないじゃないか、金魚の空耳という奴だよ。」
「いいえ、すぐ門のわきにいらっしゃるんだけれど、それにしては遠い声だわね、ほら、また、きれいな声で呼んでいる。」
「きみはすっかり何かに捲き込まれているね、少し変になっている。」
「おばさま、いま行くわよ、すぐ、行くわよ、おばさま。」
「そんな大声を出すと、家の人がみんな吃驚びっくりするじゃないか。」
「ほら、お答えになったわ、はやく、いらっしゃいってね、あの声が聴えないなんておじさまこそ、そろそろお耳が遠くなっている証拠だわ。」
「きみに聴えていて僕に聴えない場合だってある。とにかく、そんな女なんかはもう門の前にも庭の中にも、俟っていはしないよ。」
「薄情なおじさまと違うわよ、ちゃんと俟っていらっしゃるから、お約束だもん。」
「早く往って見たまえ。」
「早く往こうが遅く往こうが、あたいの勝手だわ、おじさまなんか、いやな奴には、もう、構っていらない。」
「いよいよ、ふくれて来たね。」
「明日から何もご用事聞いてあげないから、かくごしていらっしゃい。威張ったってろくな小説一つ書けないくせに、ふんだ。」

「あら、おばさまがいない、おばさま、何処なのよ、まあ、そんな処に跼蹐かがんでいらっしったら、わかんないじゃないの。」
「あなたお一人?」
「おじさまは出て来ないのよ、おばさまがきっとお帰りになっていると、思っているのよ。」
「わたくしもいま、帰ろうとしているところなんです、いろいろ有難う、じゃ、もう帰らしていただくわ。」
「だってそんな、……おじさまはお会いしたいくせに、わざと、冷然としていらっしゃるのよ、あたい、喧嘩しちゃった、明日からは一さい合財がっさいご用事してやらないってね。」
「困るわ、わたくしのためにそんなこと言ったりして。」
「何だか本当はお会いするのが怖いらしいのよ、煙草を持っている指先の顫えを見せまいとして、手を動かして誤魔化していたわよ。」
「どうしてでしょう。」
「ときにおばさま、右の手をちょっと見せて。」
「何なの。」
「まあ、まだ腕時計をねじ取ったあとがのこっているわね、この傷痕どうして永い間治らないのでしょう、これ、おじさまの仕業じゃないわね。」
「ちがうわよ、他の別の人、」
「一たい誰なの、お時計盗んだやつ。」
「それはいえませんけど、知っている人なんです。」
「きっと、以前おばさまにお時計を買ってくれた人でしょう、その人が訪ねて来た時に、おばさまはとうに死んでいた。そしてその男が出来心だか何だかわかんないけど、力一杯に手頸から時計をもぎ取って逃げ出したのね、おばさまの死んだことなんぞ、どうでもよろしかったのね、ただ、時計がきゅうにほしくなったのね。」
「あなたは探偵みたいな方、その男がわたくしの死顔も見ないで、その足で別の女の所に行って兼ねて約束しておいた時計だと言って、それをやったのよ、女は嬉しがり男はいい事をしたと思ったのでしょう。」
「その男っておばさまの、好い人だったの。」
「まあね、引き摺られながらも、いやでも、そうならなければならない場合が、わたくしにもあったんですもの。」
「おじさまは、その方の事を知っていらしった?」
「ごぞんじなかったわ。」
「おばさまはその人の事を隠して、言わなかったのでしょう、おじさまに厭な思いをさせたくなかったのね。」
「いえ、わたくしの事は何もお話したことがないし、お尋ねもなさらなかった……ただ、何時も見られているような気がしていたけれど、また何時もなにも無関心のご様子でもあったわ。」
「その時計を盗んだ方、憎らしいとお思いになる?」
「それほどでもないけど、男という者はみんなそうなのよ。」
「じゃ今頃、何処かの女の手頸にお時計がはめられているのね、いやね、死人の手頸からもぎ取った時計をはめているなんて、その女の人、おばさまご存じ?」
「一緒にはたらいていた事があったから、知っているわ、性質のいい人なのよ、だから騙されやすくて、騙されるのが嬉しかったのでしょう、そういう女だって沢山いるのよ、世間には。」
「騙されていながらそれが嬉しいことになるのか知ら、あたいにはそれがよく判らない。」
「騙されるということは、気のつかない間は男に媚びているみたいなものよ、気がつくと、がたっと何処かに突きおとされた気がしてしまうんです。」
「おばさまも突き堕されたのね。」
「ええ、では、もう暗くなったから、そろそろ行きましょう、もうこれで再度とお目にかかることもないでしょうから、あなたも寒い冬じゅう気をつけてね。」
「も一度おじさまを呼んで見るわ、あたいの呼ぶのを俟っているかも知れない。」
「呼ばないで頂戴、ね、呼ばないで。」
「ちょっと俟っててよ、ちょっと、んのちょっと俟って。」
「では、また。」
「おじさま、おばさまが帰るから、すぐ、いらっしってよ、おじさま。」
「そんな大きな声をなさると、近所のお家に聴えるじゃないの、お呼びになるとわたくし足がすくんで来て、きゅうに、歩けなくなるんですもの。」
「何しているんでしょう、まだ、何かにこだわってじっとしているのよ、出て見たくてならないくせに、何時もああなんだ、何をしているんだろう、ね、時計見ていてね、あと五分間俟って、五分経ったらいらしってもいいわ、拝むから。」
「ええ、では五分、でも、出ていらっしゃらないでしょう、こんなわたくしにお会いになるわけがないもの。」
「いま出ていらっしゃるわ、きっと。あ、五分経っちゃった。」
「じゃ、わたくし、……」
「いいわ、お帰りになってもいいわ。その道まっすぐだとバスの停留場が見えます。あ、それからおばさまのお持ちの回数券は戦争前の藍色券なのよ、あんな物、おつかいになれないからお気をつけてね。」
「ぞんじています。」
「そお、じゃ、どうしてハンド・バッグに入っていたんです。」
「どうしてはいっていたのか、わたくしにも、よく判らないわ。でも、それはそっとして置きたかったのよ。」
「そちらは反対の道路みちだわよ、其処にはもう人家がない、さびれた裏通りだもの、」
「ええ、」
「あら、其処は焼跡になっていて、街灯も点いてないのよ、道順教えておあげしますから俟っていて、水溜りばかりでとても歩けはしないわ。」
「ええ。」
「俟っていて頂戴、意地悪ね、きゅうにそんな早足になっちゃって、ほら、見なさい、危いわよ、水溜りにはまっちゃったじゃないか、ちょっと立ち停ってよ、一と走りお家に行って、懐中電灯持って来ますから。」
「…………」
「俟ってと言っているじゃないの。聴えないのか知ら、振り向きもしないで行っちゃった。」
「…………」
「おばさま、田村のおばさま。暖かくなったら、また、きっと、いらっしゃい。春になっても、あたいは死なないでいるから、五時になったら現われていらっしゃい、きっと、いらっしゃい。」
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後記 炎の金魚



「蜜のあわれ」の終りに、燃えながら一きれの彩雲に似たものが、燃え切って光芒だけになり、水平線の彼方にゆっくりと沈下して往くのを私は折々ながめた。こういう嘘自体が沢山の言葉を私に生みつけ、ついに崩れて消えるはれがましさを、払い退けられずにいたのである。七歳の少女が七歳であるための余儀ない遊びならともかく、私はすでに老廃、その廃園にある青みどろの水の中に、まだ盛りあがる囈言たわごとに耳をかたむけていたのである。
 私は去年の夏のはじめ、一尾のさかなを買って町を歩いていた。こんな実際の事が私にありうることでない奇蹟の日を記憶させた位だ。暇のない人間にある不意の暇というもの程、複雑に細かくはたらく時間はない、この日から私はいろいろな言葉を拾いはじめ、実にばかばかしい多くの囈言にうつつを抜かしていたのである。その間じゅう私はそわそわとして機嫌が好かった。聡明な作家というものはこんな駄じゃれや回顧を、何時も蹴飛ばして立派やかな材料と、つねに四つに取り組むのが本来の仕事なのである。危気あぶなげのある仕事には作家は親しまないものだ。だが、不倖にも私の中にあるインチキは、遂にいかなる巧みな完成を為し遂げようとしても、それはただの魚介を仮象としてごてつくばかりの世界に、ふらふら不用意にも迷い込んでいたのである。
 私は嘗て詩を書いて売り飛ばしていた男であり、いまも古い詩をたのまれると臆面もなく書いている詩人くずれの男であった。だが感心なことには数百篇をこえる小説物語の中に、嘗て詩をはさみ込んだ例は二度くらいしかない、小説の構成のうえで詩を書きいれることは、物語にたるみを生じるし、詩の印刷の頭が低いから其処にある隙間が、或る場合には小説の行列をこわして了うおそれがあるからだ。だから私はずっとそれを避けていた。数行の詩の挿入ですらそうであるのに、この物語に詩を匂わそうという意図は全然なかった。寧ろ詩の感応や漂泊があやまって現われそうであった時には、私はそれを現実に引き戻して極端に回避していたのである。
 では、この物語は一体何を書こうとしたのか、という問題はこれを書き終えてからも、私にあやふやな多くのまよいを与えた。読んだら判るじゃないかと、そう言って了えばそれまでだが、私自身にも何が何だか判らないのである。ただ、このような物語の持つ美しさというものは、どの人間の心にも何時もただようている種類のものであって、それは特定の現身ではないのだけれど、どの人間にもふかくはまり込んでいる妙な物なのである。或る一少女を作りあげた上に、このずるい作者はいろいろな人間をとらえて来て面接させたという幼穉ようちな小細工なのだ、これ以上に正直な答えは私には出来ない。
 先にも述べたように、一尾のさかなが水平線に落下しながらも燃え、燃えながら死を遂げることを詳しく書いて見たかった。つまり主要の生きものの死を書きたかったのだが、そんな些事を描いても私だけがよい気になるだけで、誰も面白くも可笑しくもなかろうと思って止めた。小説家という者はつねに好い気な人間であって、時に屡々しばしばこれは面白いと勘違いをしてくだらない事を長々と書くあやまちを何時も繰り返していて、それにとっ掴まると、まんまとやり損うのである。
 たとえば今日は気分が大変に悪い、どうにも、めまいがして遊泳の平均した姿勢を失っていると彼女は言い、私はすでに紅鱗に褪色のある彼女を見て、どこかが悪いというより、これはもはや此のさかなの死期が来ていると思った。泳ごうとしながらきりきり舞いをし、少し泳いではばったりと泳ぎ停まり、腹を横にしてそのままでいるすがたを見たが、また、再び背鰭せびれを立てようとして焦っても、その事はもう為し得なかったのである。嘗てあなたは若しわたしが死んだら、その日から水ばかり眺めていらっしゃるでしょうと彼女は言ったが、それは、そのような日が近づいていることが感じられ、よく見ると水には生気のない重いよたよたした波が、彼女の周囲に鉛色の空を映して取りまいていた。もっとよく注意してみると、もはやお喋りも、顔をつくろうという動いたものが見られなかったのだ、そこで勿論私は話しかけるとか、声で呼ぶとかをしなかった。あなたは死際の誰にでも冷淡でいらっしゃる、それが老いた人間の習性だということを、私は彼女から聴いた覚えを思い返した。或る未亡人に私は或る日ふと言ったことがあった。あなたは毎月のように友人のお通夜に行ったり告別式に詣ったりしているが、他人の死にはちっとも心を動かさなくおなりでしょうというと、そうです、わたくしは人が死んだその悲しみなぞと対い合っていても、夫の死ですっかり悲しみははたいて了っていて、何もいまは残っていませんという返事であった。私はそれも、もっともの事に思うた。夫の死に行き会うた人は、人間の死の最悪の時期を経験しているから、いかなる悲しみもそれ以上に参ることはあるまいからだ。
 或る若い婦人記者でその記者の仕事をまだどれだけも経験していない人が、帰り際に靴を履くために腰をかがめ、そして靴を履いてしまった小さな支度を終った眼で、ひとあたり庭先の水のあるところを眺めて言った。
「おさかなはどこにも、いないようですが。」
 婦人記者は私の長い二百枚もある、その物語を読んでいたのである。
「あれは、とうに死にました。」
「そお、それはお可哀そうなことをしました。」
 われわれはじかに生き物に親しんでいる間、われわれと心が其処に常住していることを疑わないために、屡々、その生き物に高度の愛情がわだかまっていることに今さらに驚くことがあった。私達のこの驚きはその生き物を喪った時にはじめてうなずける状態であって、平常は何でもない普通の事に思われていた。つまり、われわれはたとえ対手がどういう種類の生き物であっても、その生態としたしく一緒にこれを眺めて暮していたということから、他の生き物と比較にならない近親感があって、他人から見て実にばかばかしい可愛がり方を見せているものだ、或る一人の婦人を愛するという状態の男を、外から見る時には想像の出来ないこまやかさがあって、これにはただ、そうかなあ、こういう事もあるのだという結論を出してその聖地から引き揚げる外はないのである。
「ひでえ風邪じゃねえか、それでよく春まで持ちこたえたものだ。」
 小売商人の金魚屋の診察は、ただ、簡単にそういっただけであった。こんなの死んだら、また代りにどんな良いのでもいるから、お飼いになるなら電話を下されば直ぐ持って参りますと彼はいい、さかなも、こんなに裏返しになって浮いて来たら、いくらわたくしでも手の附けようもございません、こいつは三年子でよく生きた方です、素人さんがお飼いになったとしても、これ以上は持ちこたえることが容易ではないのです。病気の直接の原因はいわば睡眠不足というやつで、夜にお廊下にお入れになった事はいいとしましても、障子越しの蛍光灯が夜おそくまで水の中に差しこんで、さかなは何時もうつらうつらとしか眠れなかったのが、死因といえば死因なんでしょうね、それに胃腸の方にもしこりがあって固くなっています、こうなったらご覧のとおりに肌の色が先刻とは、ずっと朱の色を失って来ていますから、とても助かりようもございませんと言って、彼は素気なくさっさと帰って了った。そして間もなく金魚は一塊の朱になり、それも次第に黄ろい濁りを鱗の間に融かして浮び上って来た。
 大抵、私は書きはじめると書き損じはしない方であったが、それは原稿という紙を引き裂く鋭い音が何時も嫌いで、山を裂くように怖れたからだ。それが今日は殊更に頭に来て生き物の死に影響するような気がし、書き損じの原稿紙を四つに畳み、さらにそれを又四つに折って雑誌の間に片づけて了った。そして山を裂くような音響を封じたことが嬉しかった。
 永い作家生活の中でも、ひょんな事から、妙にその作品が成功したとも成功しないとも限らないのに、頭にのこって自分だけがそれを大切にあつかう作品が二三篇はあるものだ、それを書いていた日とか、うごかない動機とかが一綴りの原稿のまわりにまで溢れていて、それを書くことや整えることも出来ないもやもやがあるものだ、人間がつくる霧みたいなものなのだ、凡そ人間の事で書けない筈がないのに、そのもやもやは書き分けられないのである。書くのに破廉恥な事とか、きまりが悪く、あまったるい事とか、文章には表現出来ない顔や性質とか、そういう種類の物が作家のまわりに霧やもやとなり、もやもやになって何時も立ちめている。それらは或る小説の或る機会にうまく融け合ってくれるもやもやなのである。このもやもやを沢山持ち其処から首を浮べて四顧している者が、作家という者だと言えそうである。
 このもやもやは「蜜のあわれ」にまだ豊富にあることで、もう私は沢山という気がした。そして当然ここでペンをくべき日の来たことを知り、それにすら名残りが留められたのである。作家の慾はふかく実力はあさい、あさい才能の中で何時もどたばたする自覚を失っていることでは、余計な作為が分不相応に自分の中に暴れ廻っていることも、冷やかに眺めて通り過ぎる者も作者なのである。作家というものの五体のところどころには不死身の箇処があって、幾ら年月が経っても死なない部分だけが、色を変えずにつやつやと生きている。それがどのように狭小な部体であっても、深度があり記憶は素晴しい、へどもどして行き詰まるとそこをたたきさえすれば、扉はひとりで開き、中の物が見え聴える音は聴え、たすけを呼ばなくともたすけて呉れるのである。このあざのようながんに似た不死身の一処をさすりながら、彼は生き彼は書き、ありもしない才華へのあこがれに悶えている残酷さである。

 この解説のようなものを書き終えた晩、何年か前に見た映画「赤い風船」を思い出して、それを書きこむことを忘れないように心覚えをしてその晩は寝たが、翌朝になってすっかり忘れてしまい、まる二日間思い出せなかった。今朝になってやっと「赤い風船」の面白さを思い当てた。この映画のすじはわすれたが、貧しい一人の少年が坂上の人家の窓先から一個の風船を見つけ、それを失敬して持って逃げるのが物語の発端で、少年の往くところ風船がついて廻り、風船のあるところ町を往く少年のすがたがあった。最後に風船は悪少年共によって野外で踏み潰されるが、併し別の風船が突然数十球のつながりになって、町じゅうの少年等の持つ風船を集めて、碧藍へきらんの空に舞い上って往くという物語であったが、総天然色の風船群が逆光の中にあざやかに空高く、高層の建物と次第にはなれてゆく美しい光景で、この映画は先の少年の嬉しさを取り戻して終りを告げていた。この「赤い風船」を見た後に、こういう美しい小事件が小説に書けないものか知ら、何とかしてこんな一篇の生ける幼い愛情が原稿の上に現わせないものかと、一ヵ月くらい映画「赤い風船」に取り附かれ、ばかはばかなりに、悧巧ぶった考えを持とうとしていたが、悪小説家の悪癖は日を趁うて「赤い風船」の聖地から離れて往った。そして日々の忙殺は「赤い風船」の喜びもまた私の頭からあと形もなく飛散して了ったのである。
 だが、私はついに「赤い風船」を今日思い当てて、いつぞや、こういう物が書きたい願いを持っていたが、お前が知らずに書いた「蜜のあわれ」は偶然にお前の赤い風船ではなかったか、まるで意図するところいささかもないのに、お前はお前らしい赤い風船を廻して歩いていたではないか、お前だって作家の端くれなら、或る日或る時にひょんな事から感奮して見た映画の手ほどきが、別の形でこんな物語を書かせていたではないか、一旦書いて見たいという考えを作家が持つということは、作家と名のつく人間にはいつかは仕事の上に、何等の覚性もなく、ひとりでにこんがりと、色つやをおびて現われて来る機会があるのではないか、そしてその事が仕事が終った時にやっぱり風船はとうに頭の奥ふかくに取りついていたことが判るのだ。心が覚えをこめていたということは大したことなのだ。そして私は愛すべき映画「蜜のあわれ」の監督をいま終えたばかりなのである。漸く印刷の上の映画というものに永年惹きつけられていたが、いま、それを実際に指揮を完うし観客の拍手を遠くに耳に入れようとしているのである。
 私は会話とか対話で物語を終始したことは、小説として今度が初めての試みであって、一さいの野心も計画も持たなかった。最初三四枚すらすらと書き上げ、それを心に反芻はんすうしているあいだに自然にこんな情景は、この形で踏むことが面白いという教えを自分自身の中から受け、また自然である気がして進行したのであるが、危気あぶなげは百枚くらいに達して感じたものの、勢いとなめらかさは遂に説話体になり、それがたとえ失敗に終っても生涯に一度くらい失敗したってよいという度胸を決めて了ったのである。私自身がすこしでも気持好く書き分けられ、美しいものが作り上げられたら、それでよいという考えをもはや捨てることをしなかったのだ。昔は親を殺したり主人をあやめたりする人間の名前の上に、悪というけがれた文字をのっけて、その悪を死歿の後の※(「くさかんむり/刺」、第3水準1-90-91)しかんとしていた。悪七兵衛君、悪源太君もみなそういう武人であった。しかし女では悪・君子とか、悪・八重子なぞという※(「くさかんむり/刺」、第3水準1-90-91)冠の名前はない、悪小説家、悪作家という者がいたら、私なぞ悪文のかんむりはうにつけられているし、私自身も悪作家といわれた方がはるかに他の美名を貰うより潔い、だからこそ、この物語の穉気ちきを自ら好むのである。そしてこれが悪作ならいよいよ悪作家と名附けられるべきである。煮ても焼いてもくえない悪作家という者は、見渡したところ何処にもいそうもない、そこに一人前に坐りこむのも小気味好い話である。
 今日この原稿をじて終り、ふと毎月「新潮」の竹山道雄氏の手帖を読む例にならって、愛読の眼を凝らしてゆくと、「大宇宙の中で、われわれの生命は、(さながら大きな闇の中に弧をえがいて飛んでいく一つの火花のようなものだといったら、いちばん当っている。)」という数行に出会でくわして、この原稿の最初に書いた私の二三行そっくりなのに、ひそかに驚いた。私は何時もこの遠くで消滅する光芒が絶えずキラめいていることを感じ、竹山道雄氏のそれもこの火花にカチ当てられたのである。偶然ではあるが、話のよく合う人と話をした数瞬を感じた。何十万年来の人間の爪跡を尋ねている竹山氏の文献も、そしてたわいない私の文章の往くところも、一つの不死身の火を感じたことでは、同じ思いが邂逅かいこうしたわけである。





底本:「蜜のあわれ・われはうたえども やぶれかぶれ」講談社文芸文庫、講談社
   1993(平成5)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「室生犀星全集 第十一巻」新潮社
   1965(昭和40)年1月10日発行
初出:「新潮」
   1959(昭和34)年1月〜4月
※「二、おばさま達」の初出時の表題は「おばさま」です。
※「四、いくつもある橋」の初出時の表題は「橋」です。
入力:日根敏晶
校正:江村秀之
2017年6月25日作成
2019年11月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「虫+(くさかんむり/吶のつくり)」、U+8739    135-1


●図書カード