入江のほとり

正宗白鳥





 長兄の栄一が奈良から出した絵葉書は三人の弟と二人の妹の手から手へ渡った。が、勝代のほかには誰も興を寄せて見る者はなかった。
「どこへ行っても枯野で寂しい。二三日大阪で遊んで、十日ごろに帰省するつもりだ」と筆でぞんざいに書いてある文字を、鉄縁の近眼鏡を掛けた勝代は、目をらして、判じ読みしながら、
「十日といえば明後日だ。良さんはもう一日二日延して、栄さんに会うてから学校へ行くとええのに」
「会ったって何にもならんさ」良吉はそっけなく言って、「今時分は奈良も寒くってだめだろうな。わしが行った時は暑くって弱ったが、今度は花盛りに一度大和巡やまとめぐりをしたいな。初瀬はせ[#ルビの「はせ」は底本では「はつせ」]から多武とうの峰へ廻って、それから山越しで吉野へ出て、高野山へも登ってみたいよ。足の丈夫なうちは歩けるだけ方々歩いとかなきゃ損だ」
「勝はどこも見物などしとうない。東京へ行っても寄宿舎の内にじっとしていて、休日にも外へは出まいと思うとるの」勝代はわざと哀れをめた声音でこう言って、さっきから一言も口をかないで、炬燵こたつ頬杖ほおづえ突いている辰男に向って、「辰さんは今年の暑中休暇にでも遠方へ旅行してきなさいな。家の者は男は皆な東京や大阪や、名所見物をしとるし、温泉へも行ったりしとるのに、辰さんばかりはちっとも旅行しとらんのじゃから、気の毒に思われる。自分では東京へ行ってみたいとも思わんのかな」
「行けりゃ行ってもいいけど……」辰男は低いびた声で不明瞭な返事をして、口端をめずった。
「わしが東京にいる間に来りゃよかったのに。下宿屋に泊ってて電車で見物すりゃいくらも金はらないんだから」
「勝と辰さんは電車を見たことがないのじゃから、兄弟じゅうで一番時代遅れの田舎者だ。勝は岡山まで汽車に乗ってさえ頭痛がするのに、東京まで何百里も乗ったら卒倒そっとうするかもしれんから、心配でならんがな。その代り東京へ行ったら、三年でも四年でも家へは戻らんつもりだ」
「わしの春休みの間に行くようにすりゃ、連れてってやらあ。そうしたら帰りに大和巡りもできるしちょうど都合がいいんだよ」
「いやいや、勝は一人で行こう。それくらいの甲斐性かいしょうがなければ、自分の目的をげられませんもの」
「口でこそ元気のいいことを言っていても、途中で腹が痛んだり、汽車に酔ったりしたらどうするんだい。自分の村でさえ出歩けない者が、方角ほうがくも分らない東京へ行ってマゴマゴすると思うと心細くなるだろう。東京のいい家では、つい近所へでも若い女一人外へ出しやしないよ。栄さんが帰ってきたらよく聞いてみるとええ」
「死んだってかまわん覚悟をしとるんだもの……」
 勝代は負けぬ気でそう言って口をつぐんだが、ふと不安の思いがきざして顔が曇ってきた。良吉も話を外して、小さい弟をあやしなどした。
 そこへ晩餐の報告しらせ階下したから聞えたので、皆なドヤドヤと下りて行ったが、勝代は一人後へ残って、二三度母の呼びたてる声を聞いてから、ようよう炬燵を離れた。机の上の絵葉書帖に兄の絵葉書を挿んだ。そして、目をしかめて、夕月の寒そうにえている空を仰ぎながら、雨戸をとざして階下へ下りた。釣ランプを取囲んで、老幼取まぜて十人もの家族が騒々そうぞうしく食事をしていた。勝代は空いた席へ割りこんで、独り生冷たい煮返しに柔かい菜浸しを添えて、まずい思いをしてはしった。
 ほかの者のぜんには酢味噌すみそ飯蛸いいだこ海鼠なまこなどがつけられていて、大きな飯櫃めしびつの山がみるみるくずされていた。
 隣村まで来ている電灯が、いよいよ月末にはこの村へも引かれることに極ったといううわさが誰かの口から出て、一村の使用数や石油との経費の相違などが話の種になっていた。電灯を見たことのない子供たちは、いろいろに想像しては喜んでいた。良吉はメートルとかスヰッチとかタングステンとか洋語を持ちだして電灯の講釈をしだした。
「僕は東京の下宿にいた時には、五燭ごしょくの球をはずして、二十五燭のを使ってたよ。そうすると昼のように明るかった。こっちでもそうするといい。一つで家じゅう明るくならあ。そして長いひもで八方へ引張るさ」
「そんなことができるんかい。電灯も村へ来りゃまるで断るわけにゃ行くまいから、まあ義理に一つだけはつけることにしようが、畢竟ひっきょう無用の事じゃ」と、老父は言った。
「しかし、皆な電灯にすると、手数が掛らんし、火事の危険も少うなってようございますぜ」と次男の才次はそう言って、少くも二つは引かなきゃなるまいと言張った。そして、博覧会見物に行った際に見た東京のイルミネーションの美しさを語った。良吉もそれに相槌あいづち打った。
「夜も昼のようだ」
 平凡で簡単なこの言葉ほど、都会を知らぬ者の心に都会の美しい光景を活々いきいきと描かす言葉はなかった。
 が、辰男はこんな話にすこしも心をそそられないで、例のとおり黙々としていたが、ただひそかにイルミネーションという洋語のつづりや訳語を考えこんだ。そして、食事が終ると、すぐに二階へ上って、自分のテーブルに寄って、しきりに英和辞書のページをめくった。かの字をさぐり当てるまでにはよほどの時間を費した。
「ああこれか」と独言を言って、捜し当てた英字の綴りを記憶に深く刻んだ。ついでにスヰッチとかタングステンとかいう文字を捜したが、それはついに見つからなかった。
 広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜のけるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学にふけるか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。手足が冷えると二階か階下かの炬燵こたつの空いた座を見つけて、そっとあたたまりに行くが、かつて家族に向って話をしかけたことがなかった。すぐ下の弟の良吉とは、一時隣国の山間の小学校でいっしょに教鞭きょうべんを執ったことがあったので、多少打融けた話もしていたのだったが、それさえ年を経るとともに、隔たりが増して、この冬の休暇には親身な話はただ一度もしないで過した。
 でも、良吉が傍で洗濯物や乾魚を小さい行李こうりに収めて明日の出立の用意をしかけると、辰男も書物をいてしばしばその方をかえりみた。
 七八年前の冬休みに、うさぎを一匹もとめて、弟と交互かたみかついで、勤先から帰省したことが、ふと彼れの心に浮んだ。


 階下では、老父母も才次夫婦も子供たちも、あちこちの部屋に早くから眠りについて、階子段の下の行灯あんどんが、深い闇の中にかすかな光を放っていた。二階では良吉と勝代とが炬燵に当って、ひとしきり東京話を聞いたりかれたりしていたが、やがて別々の部屋に別れて寝支度ねじたくをした。
「良さんには当分会えんかもしれんな。来年高等学校を卒業したら、なるべくなら東京の大学に入れるような方法を取りなさいよ」と、勝代は兄の寝床を延べながら言った。そして、自分は寒さに傷まぬようにと、懐炉かいろを腹に当てて眠った。
 弟と妹の安らかな寝息を耳に留めながら、辰男はまだ椅子に腰を掛けて、雑誌に出ている和文英訳の宿題をいろいろに工夫くふうしていた。アルハベットの読方から、満足に教師によって手ほどきされたのではないので、まったくの独稽古ひとりげいこを積んできたのだから、発音も意味の取り方も自己流で世間には通用しそうでない。二年間東京の英語学校で正則に仕上げてきた良吉にしばしば「田舎で語学を勉強したって骨折損ほねおりぞんだ、それより早く正教員の試験を受けた方がいいぜ」と忠告されて、父や兄からもそれを最も賢い方法として説勧ときすすめられたが、彼れは馬の耳に風で聞流して、否か応かの返事をさえしなかった。で、家の者は彼れの心をはかりかねて、涼み台や炬燵の側での茶呑み話のおりおり、まじめの問題として持ちだされたことは二度や三度ではなかった。
「最初ヴァヰオリンを習って音楽家になりたいと言ったのを聞いてやらないんだから、それであんな風になったのじゃないかと思う」と、ある時父が思当ったように言った。
「そればかりじゃない。鼻がまだ直りきらんのでしょう。ちょっと見るとねているようじゃが、五年も六年も拗ね通されるものじゃない。身体に故障こしょうがあるからでさあ」と、才次は言った。
「あれじゃ商人あきんどにもなれんし、百姓にもなれまいし、まあかゆでもすすれるくらいの田地を分けてやるつもりで、ほうっておくか」
 とどのつまり、こう解決をつけて、もはや彼れの身の上を誰も問題にはしなくなった。見馴れた目には、彼れの行為もさして不思議には映らなくなった。
 十一時が鳴ると、辰男は椅子を離れて押入から夜具を取りだした。そして、便所へ行った帰りに、階下の炬燵の残り火をかき起して、半身をずりこませて、気ままに温まった。おのずから[#「おのずから」は底本では「みずから」]睡気の差すまで、こうして過している二三十分間が、彼れには一日じゅうの最も楽しい時間であった……今日あらたに習い覚えた英語を口の中で繰返していたが、ふと弟の明日の出立が思いだされて、自分が眠っている間に出かけられては残念な気がしたので、いつもよりも早目に炬燵を出た。
 しきいで仕切られているだけで、かつてふすまの立てられたことのない自分の居間で、短い敷蒲団しきぶとんに足を縮めて横になって目を閉じた。いつもならば、目を閉じるとすぐに睡眠に落ちるのだが、今夜は慣例を破って、まだ睡気のもよおさぬ前に炬燵を離れたためか、頭が冴えて眼つきが悪かった。
 どこかの障子しょうじを破っている猫の爪音がうるさく耳についた。辰男は「シッシッ」と言いながらたたみをパタパタと叩いたが、やがてランプをけて音のする方へ行ってみると、猫はもはや障子の破れ目から縁側へ飛下りて啼声を立てていた。雨戸を少し開けて猫を屋根の方へ追いだしながら、辰男は久しぶりに自分の村の夜景色を眺めた。十数町を隔てた小学校へ往来するほかには、春にも秋にもほとんど一歩も門を出たことがないのみか、家の周囲にどんな騒ぎがしていようとも、めったに窓の外へ顔出したことがなかったので、平生ふだん雨戸一枚隔てた外の景色とは馴染なじみが薄いのだった。
 夕月がすでに落ちて、幾百もの松明たいまつが入江の一方に絵のように光っている。耳をすますと小波さざなみの音がかすかに聞えたが、空も海も死んだようにしずまっている。宮を囲んだ老松は陰気な影を映している。彼れは他郷から帰省した者のように、今夜は少年時代の自分の姿を闇の中のあちこちに見詰めた。……もっと快活で元気のよかった昔の事が未生前みしょうぜん[#ルビの「みしょうぜん」は底本では「みせいぜん」]の時代のように心に浮んだ。
 冬でもの笠をかぶって浜へ出て、えさを拾って、埠頭場はとばに立ったり幸神潟こうじんがたの岩から岩を伝ったりして、一人ぼっちでよく釣魚をしていた。釣れても釣れなくても、兄弟や近所の友だちと遊ぶよりはおもしろかった。潮が満ちて潟が隠れると衣服を胸までまくしげて、陸へ上るので、衣服はいつも潮臭かった。あの時分は川尻によし[#ルビの「よし」は底本では「あし」]が生えていた。潟からは浅蜊あさりしじみはまぐりがよく獲れて、綺麗きれいな模様をした貝殻も多かった。が、今は入江の魚が減って、岩のあたりで釣魚をしたって、雑魚ざこ一匹針にかかってこないらしい。山や海の景色もあの時分は今よりもよほど美しかったように思われる。向いの小島へ落ちる夕日は極楽の光のように空を染めていた。漁夫の身体つきからして昔はいわ[#ルビの「いわ」は底本では「いわお」]のようだったり枯木のようだったりしておもしろかった。
 お宮の松にはふくろうんでいたのじゃがと、その不気味ぶきみな鳴声を思いだしながら、暗いこずえを見上げていると、その木蔭から一羽の鳥が羽叩はばたきして空を横切っているような気がした。
 辰男は雨戸を閉めて寝間へ戻ってからも、何となくもの哀れな気持がした。側の壁に懸けておきながら日ごろ忘れはてていたヴァヰオリンに目がついて、久しぶりで弾いてみたくなった。楽器を包んだ黄ろい袋は夜目にも目立つほど汚れていた。
 山間の寂しい小学校にいた間、俸給の余剰あまりを積んであがなって、独稽古ひとりげいこで勝手な音を出して、夜ごとにこれをもてあそんでいたことが、涙ぐまるるような追憶となって、乾いた彼れの心をうるおした。
「明日の晩にはぜひ弾いてみよう。春高楼を弾いてみよう」……彼れは新しい英字の変則な発音よりも、昔馴染のヴァヰオリンの変則な音色に、いっそう強く自分の魂が打ちこまれそうに思われた。


 辰男の明方の夢には、わらびえる学校裏の山が現われて、そこには可愛らしい山家乙女やまがおとめが真白な手をきだして草を刈りなどしていた。……と、誰かに呼びたてられたような気がして目を開けたが、左右の室には誰もいなかった。良吉はもはや出立したのかしらんと、急いで階下へ下りると、弟は竹の手のついた煙草盆をひざに載せている父親の前に不恰好ぶかっこうなお辞儀をして、これから出かけようとするところだった。みんなが上りがまちに突立って見送っていた。
辰男はそっと皆なの後に寄って、黙って弟の出て行くのを見ていたが、すぐに二階へ引返して、弟を乗せたくるま浜通はまどおりを過ぎるのを見下した。俥の音の消えるまで窓ぎわを離れなかった。
「良さんも行ってしもうた」いつの間にか勝代が傍に来ていた。「これで勝が出て行こうものなら、辰さんは二階に一人法師ぼっちさびしゅうなるぞな」
「………」辰男は黙ってぼんやりしていた。
「早う嫁さんをりなさいな。小串にちょうどよさそうなのがあって、東屋の爺さんが話を持ってきたから、も一度よく問糺といただして、なるべくならあれにでも極めたいと、お父さんが言うておった。少々気に入らんところがあっても我慢して、その人を嫁さんに貰うたらええにな。傍の者が皆な相応そうおうだと思うたら、辰さんもしいて否とは言わんでしょう」勝代は母親の命令で、何気なにげない風で兄の腹の中をさぐってみた。
「……そんなことはお前が訊かいでもええ」辰男は鬱陶うっとうしい声でそう言って、自分の居間から歯磨粉はみがきこ手拭てぬぐいをもってきて、静かに階下へ下りて井戸端へ出た。大きな酒樽さかだるにどっさり大根がけられてあって、大嫌いな糠味噌ぬかみその臭いが鼻を襲って逆吐むかつきそうになった。
 勝代は、「何でああ変人なのであろう。家じゅうで私だけが同情してやってるのじゃないか」と忌々いまいましく感じた。が、しかし、後ですぐに心をやわらげて、自分がこうしていっしょにいるのも今しばらくの間だから、できるだけ大切にしてあげて悪く思われぬようにしたいと思い返した。……ほかの兄弟は皆な好きな学問をしているのに、辰さんばかりは一生こんな汚い村の先生を[#「先生を」は底本では「生活を」]して暮すんだもの、可哀そうだ。お父さんが不公平だと、兄の身の上を不仕合ふしあわせな人としてあわれんだ。そして、紙箒はたきを持って兄の机の上のほこりを払いながら、書物の間にはさんである洋紙を覗いて、まずい手蹟で根気よく英字を書留めているのに、感心もし、冷笑を浮べもした。その中には、同窓の誰にも劣らなかった英語自慢の勝代にも解きえない文句が多かった。
 “Nonsense”という言葉には圏点けんてんをつけて、ノンセンスと仮名をも振って大事そうに記している。
「あなたの言うことはノンセンスよ」などと、朋輩の間で言合ったことを勝代は思いだして独笑いをした。そして、「辰さんはこの英語の意味を理解しているのかしらん」と訊きたかった。
 と、そこへ、辰男は梅干で茶漬の朝餐をすまして、歯を吸い吸い上ってきたので、勝代は押入から洋服を取りだしてやって、
「晩まで勝にこのテーブルを貸しておくれな。腰を掛けて勉強したら、お腹がよう減って気持がようなるかもしれんから」
「………」辰男は自分の机や椅子を他人に――たとい妹であっても――使われるのが厭であったが、他人に向って――たとい妹であっても――否と断言することはできなかった。むろんこころよい承諾を与える気にもなれないのだが……
「使うてもよかろう! 本はちゃんとこのままにしておくがな」
「フーン」と辰男はかすかな返事をした。カラアもネクタイもつけない洋服の上に短いトンビを着て、弁当をげて裏口から家を出て、狭い車道を通って学校へ向った。
 子供たちもそろって出て行くと、広々とした家の中は大風の跡のように静かになった。母や兄嫁は立ったり坐ったり、何となしに家事に忙しかったが、勝代はざっと二階の掃除そうじをして、時間はずれの朝餐を一人で食べると、下女に吩咐いいつけて、二階の炬燵こたつに火を入れさせて閉籠とじこもった。良吉の帰っている間入学試験の準備をおこたっていたので、もはや小説など読耽よみふけってはいられなかった。上京までの日数を数えると心があわただしかった。……もしも落第をしようものなら、一年前に入学している朋輩に対しても家の者や村の者に対しても、おめおめ顔は合わされない。とても生きていられないと、神経をたかぶらせながら、英語読本をひらいた。
 が、辞典を片手に精いっぱい研究していながら、心はややもすると書物から離れて、ほかの思いに疲れた。深夜も白昼のような東京で、落第した自分がモルヒネか何かの毒薬を飲んで自殺する悲しいありさまを空に描いたり、西洋の婦人と自在に会話を取かわしている得意なありさまに胸をとどろかせたりしていたずらに時を過した。運動不足のために、柔かい食物も消化が悪くて、勉強に取りかかると、腹の重苦しいのがいっそう気になった。
 辰さんのように一心不乱に勉強するつもりで、炬燵を離れて兄のテーブルに向ったが、すその方が寒くて、手の先も冷えて、とても長い辛抱はできなかった。で、ふたたび炬燵の側へ戻って、額をやぐらの縁に押当てて、取りとめのない空想にふけりだした。好きな蜜柑みかんを母親がかごに入れて持ってきてくれると、胃に悪いと知りつつ手をつけて二つ三つ甘い汁をすすった。

 辰男は極った時刻に学校から帰って、テーブルの位置も書物の配置も乱されていないのに安心した。衣服を着替えて椅子いすに腰を掛けると、昨夕ヴァヰオリンの音を恋しがったことを思いだして、壁の方へ目を向けたが、感興はいつの間にか消えていて、そんな物を手にるのさえものうかった。やはり英語修業に心がかれた。
 夕日は障子の破れ目から、英文典の上に細い黄ろい光を投げている。下女はランプに油を注いで、部屋部屋へ持廻っている。


 十日にはうまい魚を買溜めて待設けていたのに、栄一は帰ってこなかった。「もう四五日遊んで帰る」と、大阪の市街まちを写した絵葉書を寄越した。
 誰よりも勝代が一番長兄の帰省を待ちかねて、母親に向ってしきりにうわさをしていた。「栄さんが春まで家におってくれると、勝も東京へいて行けるのじゃけれどな、戻ったと思うと、すぐにまた行ってしまうんでしょう。東京で暮らすよりゃ田舎いなかに住んでおる方が仕合せだと、よく手紙に書いてくるけれど、自分だって、一月とも田舎にはじっとしておられんのだもの。……学問をした者は、こんな下等な人間ばっかり住んでおる村へ戻ってきたって話相手はないし、見るもの聞くものが嫌になってしようがあるまい。勝には栄さんの心持がよう分っとるがな。……勝も今の間にせっせとお姉さんや祖母さんのお墓へまいっておこうと思うとるけど、途中で人に顔を見られるのが気味が悪いから、どうしても出て行かれん。勝は外を通ってる人の声を聞いても時々気疎けうといことがありますぞな。ようあんな下卑げびたことを大きな声で喋舌しゃべってげらげら笑っておられると愛想がきてしまう。こんな人間ばかりのいる村で一生を暮らすとすりゃつんぼになりたいと勝は思うがな」
 無口な母親は、娘の言葉に軽く雷同らいどうするだけだったが、才次が傍で聞いていようものなら、黙って妹に話を続けさせておかなかった。兄弟じゅうではやや常識に富んだ穏かな彼れは、けっして烈しい口は利かないが、小間癪こましゃくれた妹の言語態度が女学生めいているのが気にさわって、からかうか冷やかすかしなければ虫が収まらなかった。
 ある夜も勝代が、上京心得といったようなことを書いてある東京の友だちの手紙を母に読んで聞かせて、母子が炬燵に差向いで話しこんでいるところへ、筒袖つつそでを着た才次が、両手を細い兵児帯へこおびに突込んだまま、のそのそ傍へやってきた。
「お前の友だちは皆なペンで手紙を書くんかい」と、四角な桃色の封筒を手に取った。
「昔風のそうろうずくめの手紙なら巻紙に筆で書くのがよう似合におうとるけど、言文一致にゃ西洋紙にペンを使うた方がええ。第一一枚の紙にもぎょうさんに字が書けて、お父さんの口癖の経済的にもなるんじゃもの」勝代は皮肉をまぜて答えた。
「まだ友だち同士英語で手紙のやり取りはできんのかい」才次は差出人の名前を見て封筒を下へ置いて、
「この女も東京言葉を勉強しに、高い資本もとでつこうて東京の学校へ入っとるのかい」
「そないな悪口は勝らには何ともないがな。ここにおる者でも、手紙にはお互いに東京言葉を使うとるんじゃもの」
「……東京の女子もへんてこな言葉を使うぜ。ちょっと道をいても、べらべらと言うて何やら訳が分らん」
「東京の人はいったい口が早いんじゃろうか」勝代はふとまじめに尋ねた。そして、いやしい田舎訛いなかなまりを朋輩にわらわれはしないかと気遣った。
「口が早いばかりじゃない、何かしらん忙しそうでゴタゴタした処じゃ。若い間はあんな町で好きなことをして暮らすのもよかろうが、歳を取ったらおれる所じゃない。田地まで売って大阪や神戸へ行った者が、よくみい、たいていは失敗しくじってヒョコヒョコ戻ってくるじゃないか。もうけて他所の銭を持って戻る者は十人に一人もありゃせん。たいていはこの貧乏村の銭を持ちだして都会へ捨てに行くんじゃから、村はますます貧乏になるばかりじゃ。近い話が寺の坊主からして、わざわざ損をしに神戸へ投機とうき[#ルビの「とうき」は底本では「やま」]をやりに行くというありさまだもの」
「来月の祖母さんの十三回忌までには、お住持じゅうじさんは戻ってくるのじゃろうか」と母親が口を出した。
「法事よりも村に葬式があったらどうするつもりでしょう。坊主は寺の物を売飛ばして他所へ行ってもよかろうが、そう荒して出られちゃ、後ではこの寺へ来てくれ手がないから檀家が迷惑じゃ」
耶蘇教やそきょうで葬式をすると、かえって軽便で神聖でええがな。勝はお経も嫌いだし黒住くろずみのおはらいも嫌いじゃ」
 才次は宗旨などどうでもいいので、妹が友だちの耶蘇信者が女学校で死んだ時の儀式の様子を話すのを難癖なんくせをつけずに聞いていたが、やがて、さっき言おうとしたことに話を戻して、
「家の者も東京なり神戸なり、出て行く以上は、その土地土地に一生落着くことにして、生活がむずかしゅうなって生家へ転がりこまんようにきっぱり極りをつけとかにゃならんと思う。都会住いをした者に田舎を手頼たよりにせられちゃ、こっちで質素な生活をしとる者は迷惑するし、第一割に合わん話じゃから、兄弟だからまさかな時にゃ世話になりゃええという量見りょうけんでおられちゃ共倒ともだおれじゃ」
「それは利己主義じゃがな……」
「どうせ皆なが利己主義じゃから、初めからそう極めとくに限るんじゃ。辰男だけはこの村で別家さすにしても、こことは少し離れて家を建ててやるとええ。すぐ側に親類が並んでると、よけりゃよし、悪けりゃ悪しで、ねたんだりけなしたりし合ってうるさいものじゃ」
「昔は兄弟は近い処におるのがええと言うて、高松の伯父さんなぞはすぐ裏の地続きに、自分の家と間取りから柱の数まで同じい家を弟に建ててやったのじゃが、今時はそうは行かんじゃろう」と、母親は反対もしなかった。
「兄弟同士ねたむことまで考えとかいでもええがな。家の兄弟にはそんな下等な人間はありゃすまいに」
 勝代は細い眉の間にしわを寄せて、「辰さんはあないな風なのに、誰もかもうてやらにゃ可哀かわいそうじゃがな。勝は貧乏してもどこで暮らしとっても、辰さんの力になってあげにゃならん」と、昂奮こうふんした調子で言った。
「他人のことよりゃ、勝は自分の身の間違いのないように考えとれ。女子がぐずぐずして歳を取って、英語を喋舌しゃべって学校の先生になったって、何がおもしろいことがあろうぞい」才次は、眼鏡めがねを掛けた妹の平たい顔を憐憫あわれな思いをして見入った。
「才さんに学資を出してもらやあせず……」勝代は兄がややもすると、自分の楽しい理想を破ろうとするのが口惜くやしくて、こう言放って、顔を見られぬように炬燵の上に俯伏うつぶした。
 才次は渋い顔をして口をつぐんだ。
「女子で月給取りになるのも、容易なことじゃあるまい」と、母親は感じのない声で独言のように言った。
 皆ながしばらく黙っているところへ、辰男は階子段はしごだんきしませて、のっそり下りてきて炬燵の空いた処へ足を入れた。
「辰さんはテーブルの下へ火鉢ひばちを置きなさいな。辰さん一人火の気のない処におっちゃ割に合わんぞな」勝代は今気がついたように言った。
「ランプをけっ放しにしといちゃ危ないぜ」才次は二階から差してくる灯火を見上げて言った。


 勝代は腹がチクチク痛みかけると、懐炉かいろだけでは心許こころもとなくて、熱湯を注ぎこんだ大きな徳利とくりを夜具の中へ入れて眠ることにしていたが、ある夜、徳利の利目ききめがなくって真夜中ごろにしばらく忘れていた激しい痛みを感じだした。階下へ下りて母親や兄嫁を驚かすのは気の毒であるし、それよりも自分の腸胃のまだなおっていないことを家の者に知られて、東京行を引止められるかもしれないのが恐ろしくて、腹をおさえてうめきながら我慢していた。が、疼痛いたみ[#ルビの「いたみ」は底本では「とうつう」]は容易に収まらなくって、呻き声は自然に高くなった。
 次の室に寝ている辰男の耳にも入った。彼れはふと目をまして、それと気がつきながら、妹の様子を見に行こうともせねば、声を掛けもしなかった。寝返りを打ってふたたび眠りにつこうとした。が、呻吟うめきがしだいに耳障みみざわりになってしようがない。猫を追いだすようにこの睡眠の邪魔物じゃまものを遠ざけるわけには行かない。……で、彼れはランプをけて、そっと自分の寝床を、先日まで良吉のいた次の室へ持って行った。そこでは呻吟声がだいぶ遠くなった。
「辰さん……」と、勝代はふすまれる灯火に目をつけて、術なげな声を出した。
 辰男は返事をしない。夜半の寒さに身震いして、寝床の中へもぐりこんで、灯火を消した。
 勝代はふたたび兄を呼んだが、返事がないので、寝床からいだして襖を開けてさらに呼んだ。「お父さんの机の上にある薬を取ってきてくれんかな」と頼んだ。薬嫌いで医者がくれた薬さえ二度に一度は秘密ないしょてたほどなのに、今の場合父の常用の消化薬をさえ手頼りにする気になった。
 たしかに兄は起きているのにといぶかりながら、勝代は手索てさぐりでマッチを捜して、ランプをけてみると、兄は例の処に寝ていなかった。近眼をしかめてようようその寝床を見つけると、腹を圧えながら側へ寄って耳許で声を掛けた。誰にも知らさないでそっと取ってきてくれと頼んだ。
 辰男は物をも言わず、突如だしぬけに起上った。そして、すその短い寝衣ねまきのままランプを持って階下へ下りて行った。行灯あんどんの火は今にも消えそうに揺めいていた。彼れは父の部屋や兄の部屋には年に一度足を入れることがあるかないかで、部屋の様子がどうなっているか知らなかった。
 音のせぬように襖を開けて入ると、子供の時分から見馴れていた赤毛氈あかもうせんを掛けた机が、以前のとおりに壁ぎわにえられてあった。机の上には大きなすずりや厚い帳簿や筆立や算盤そろばんがごたごたといっぱいに置かれてあった。新聞におおわれているあお薬瓶くすりびんを捜しだしながら、彼れはふと大谷円三という封筒の文字に目を留めた。母が先日問わず語りに言っていた縁談の周旋者しゅうせんしゃの名前が大谷だったので、彼れは封筒を取上げて覗いたが、手紙を引きだして読もうとはしないで、元の処に置いた。そして、柱に掛った寒暖計を見て、「三十五度か、寒いわけだ」と思いながら部屋を出た。どの部屋からも安らかな寝息がれていて一人も目醒めざめていなかった。ガランとした家の中には寒い風が流れている。
 勝代は待ちかねた薬瓶を兄から渡されると、すぐに手の平に薬を移して、「このくらいの分量でくじゃろうか」と兄に訊いた。
「そんな薬は毒にもならん代り利きやせん」と、辰男はぶるぶるふるえながら、顔をしかめた妹の苦しげな様を見下していた。
「水を持ってきてくれなんだのかな」
「……徳利の湯で飲んだらよかろう」
 もったいぶった兄の言葉を妹はおかしく感じた。教えられたとおりに、徳利のせんを抜いて口移しに湯をすすった。太息を吐いて、いくらか安らかな気持になって、
「階下では皆なとったかな。勝は心細いから、も少しそこで起きとっておくれな」
 そう言われると、辰男は自分の寝床へ退くことができなかった。
「勝はこないに身体が弱うちゃ困るがな。ほかの兄弟は丈夫なのに勝一人だけは……」
「……運動せんからじゃ」
「この村にゃ厭らしい人間ばっかりおるから外へ出るのが恐ろしいもの。……辰さんは身体が強いからええなあ。家じゃ姉さんが早う死んだし、勝も長生せんように思われるけれど、女子は婆さんになるまで生きておらん方が結句仕合せなように思われる。お姉さんは家で皆なに介抱かいほうされて死んだのじゃけれど、勝は他所の土地で一人で死ぬのじゃ」勝代は疼痛が和ぐのにつれて、こんなことを言って涙を浮べた。
 辰男は幾度もくさめをした。寒さにえられなくなるし、妹のおろかな言草に興も起らないので、言葉の切れ目にその側を離れて、自分の寝床へ入った。夜具の中へ首をすっこめて足を縮めて、冷えた身体の暖まるので[#「暖まるので」は底本では「暖まるまで」]、いい気持になっていたが、すると今見た手紙の内容がいろいろに想像されだして、自分に女房のできるのが不思議でならなかった。……学校の小さい生徒か母か妹かのほかには、女と口を利いたこともなければ、しみじみ女の顔を見たこともないので、思出にも若い女の影ははっきり浮ばない。山間の学校にいた時分には、土地の若い女に逢うと、極りの悪い思いをして顔をらせていたのだったが、今は平気でいて自然に目がつかぬようになっている。……彼れは自分の縁談から、どんな男にも、女房のあることに思い及んで、妙な気がした。そして勝代が出て行った後で、まだ見たこともない女と自分とが、この二階にすまうことを、夢のように感じながら、ぐっすり睡眠ねむりおちいった。
 翌日学校の往帰りの途中でも、彼れはしばしば結婚について珍らしげに考えた。擦違すれちがう女の姿形を無心に見過せなくて、むさぐる[#ルビの「むさぐる」は底本では「きたなら」]しい田舎女の一人一人が頭の中に浸みこんだ。テーブルに向うには向ったが、今日の英字の解釈に早く根気が疲れて、所在なさにしばしば机を離れては障子しょうじを開けて外を眺めた。
 西風のいだ後の入江は鏡のようで、漁船や肥舟は眠りを促すようなの音を立てた。海向いの村へ通う渡船は、四五人の客を乗せていたが、四角な荷物を背負せおうた草鞋脚絆わらじきゃはんの商人が駈けてきて飛乗ると、頬被ほおかぶりした船頭は水棹みさおで岸を突いて船をすべらせた。辰男はしばらく船の行方ゆくえを見入っていたが、乗客の笑い話は静かな空気を伝って彼れの耳にも入った。入日の海や野天の風呂場をも彼れは久しぶりに見下した。夜はいつもよりも長く炬燵こたつに当って過した。


 栄一が帰ってきたのは、予報の日取よりも遅れ遅れて、もはや誰も忘れたように、うわさにさえのぼさなくなったころであった。夕餐ゆうめしぜんが片づいて、皆ながあちこちへ別れているところへ、俥夫の提灯ちょうちんを先に、突如だしぬけに暗い土間へ入ってきた。散らばっていた家の者はまたぞろぞろ出てきて一ところに集まった。勝代も物音でそれと知ると、書物をいて二階から下りてきた。
 が、辰男一人は椅子いすから身動きもしなかった。二三日前から作り始めた英文に心を打込んでいた。「眠った海」「無用な行為」などが、みずから選んだ課題であった。大谷が間に立って取做とりなしかけた縁談は、ろくに話し進まぬうちに立消えになって、父の口からあから様に彼れに告げて意向を確める必要もなくてすんだが、彼れは二三日妄想もうそうに悩んだだけで、元の彼れに返って、テーブルに釘づけのようになっていられた。……
「風が吹けば浪が騒ぎ、潮が満ちれば潟が隠れる。漁船は年々殖えて魚類は年々減りつつあり。川から泥が流れでて海はしだいに浅くなる。幾百年の後にはこの小さな海は干乾ひからびて、魚の棲家すみかには草が生えるであろう。……」こんな自作の文章を、辞書を繰っては、いちいち英字で埋めて行った。
 以前二三度英語雑誌へ宿題を投書したことがあったが、一度も掲載けいさいされなかったので、今はまったくそんな望みを絶って、ただ自作の英文は絹糸でじた洋紙の帳簿に綺麗に書留めておくに止めている。自分ながら初めの方のに比べると、文章はしだいに巧みになっているような気がする。熟語などもおりおり使われるようになった。
 階下がにぎわっているので、炬燵に当りに行くのを遠慮していたが、末の妹が息をせかせか吐きながら上ってきて、「栄さんのお土産みやげ」と言って、栗饅頭くりまんじゅうを二つ机の上に置いて行った。辰男はインキに汚れた骨太い指でつまんで大口に食べた。そして、冷くなっている手を内懐に入れて温めながらしばらく息休めをした。
 妹と母とは、階下から夜具を運んで、次の室へ兄の寝床をのべた。と、間もなく栄一が上ってきたが、辰男の方をちょっと振返ったばかりで、次の室へ入って襖を締めた。すぐには寝ないで、手紙を書いたり雑誌を読んだり、良吉が残して行った書物を手に取ったりしていた。やたらに吸っている煙草の煙は、襖の隙間から洩れでて、辰男の顔のあたりにもただよった。
 階下が寝鎮まってからしばらくたって、栄一は部屋にみなぎった煙を外へ出して、灯火も消して寝床についた。平生眠つきの悪いのが癖なのに、堅い寝床が身体に馴染なじまなくてますます寝づらかった。
「辰はまだ寝ないのか。灯火が邪魔になっていけないな」
 四年目で耳に触れた兄の声は、相変らずとがっていた。辰男はその声を聞くと同時に、ペンを筆筒に収めてインキつぼふたをした。ランプをも吹消した。
 翌日は日曜なので、辰男は目醒めても容易に起上らないで、寝床の中で書物を読んでいた。お土産の栗饅頭を一つ母が枕許に置いて行ってくれた。風もないし、障子に差した朝日は春のようにうららかだった。
 栄一は早く起きて海岸を散歩してきたが、朝餐あさめし後に一時間ばかり読書すると、また外へ出ようとして階子段はしごだんの方へ行きかけたが、ふと振返って、「辰。……山へ登ってみんか」と誘った。そして、二三歩辰男の居間へ踏みこんで、テーブルの上に目を据えた。
 辰男は立上りざま初めて兄の顔を熟視じゅくしした。……四年前よりも父の顔にいちじるしく似通っていた。兄が身体を屈めて、英作文を一二行見ている間に、辰男は帽子をかぶりトンビを着て直立していた。
 一人はステッキを持ち草履ぞうり穿き、一人は日和下駄ひよりげたを穿いて、藪蔭やぶかげを通り墓地を抜けて、小松の繁っている後の山へ登った。息休めもしないで一気に登ったので、二人の額からは汗がぼたぼた落ちた。頂上近い処にある小祠まで来て、その側の石に腰をおろした。小祠は田舎の郵便箱のような形をしている。とびらは壊れて中には枯松葉が散っているだけで、神体はなかった。そこからは曲りくねった海を越し山を越して、四国の屋島や五劒山が微かに見えるのだが、今日は光が煙って海の向うはぼんやりしていた。
 草履を穿いている兄の方はかえって足が疲れ息切れがしていたが、冷々した山上の風に汗を乾かしてさわやかな気持になると、今までの沈黙を破って、弟に向っていろいろの話をしかけた。あちこちに見える島の名を訊いたり、近くの山のすその村々のありさまを訊いたりしたが、はっきりした答えは得られなかった。
 辰男はまるで他郷を見わたしているようで方角も取れなかった。万国史で見た西洋の天子の冠のような形をした小さい島が入江から真近い処にあるのに今初めて気がついた。入江に出入りしてくる漁船は皆その側を通っているのに、彼れはかつてそこまでも行ったことがなかった。
「あれが鍋島だ。樹がよく茂ってるから、あの周囲にはよく魚が寄ってると言うじゃないか」と、かえって兄に教えられたが、そう聞けば島の名前は子供の時から聞馴れているのだった。
「しかし鍋よりも王冠によく似ている」と思って、冠島という課題で英文を作ろうと思いついた。目の下の墓地も、海を渡っている鳥の群も、辰男には皆英文の課題としてのみ目に触れ心に映った。飛んでいる五六羽の鳥はとびだかがんだか彼れの知識では識別みわけられなかったが、「ブラックバード」と名づけただけで彼れは満足した。
「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟をかえりみて訊いた。
 ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目をまたたきさせた。すぐには返事ができなかった。
「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄はたたみかけて訊いた。
「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧あいまいな返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古けいこしなければ、役に立たないね」
「………」辰男は黙って目を伏せた。
「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
「………」足許でくぬぎの朽葉の風にひるがえっているのが辰男の目についていた。いやにわびしい気持になった。
「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」
「………」
娯楽なぐさみにやるのなら何でもいいわけだが、それにしても、和歌とか発句ほっくとか田舎にいてもやれて、下手へたなら下手なりに人に見せられるようなものをやった方がおもしろかろうじゃないか。他人にはまるで分らない英文を作ったって何にもならんと思うが、お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい」
 そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚をあわれむよりもののしあざけるような調子であった。
「………」辰男は黒ずんだ唇を堅く閉じていたが、目には涙が浮んだ。むろん他人に教えるつもりで読んでいるのではないし、他人に見せるために作っているのではないし、正格でないことはつねに承知しているが、全然無価値だとこの兄に極められると、つくづく情なかった。
「さあ、帰ろうか」と言って、栄一はすそほこりを払って、同じ道を下った。墓地近くなって、のろのろ下りてくる弟を待合せて、妹の墓と祖母の墓とへまいった。目がくぼんで息の臭かった妹の死にぎわの醜い姿は、辰男の記憶にはまざまざと刻まれていて、妹というてすぐ思いだしたが、今墓場に立っていると、×子の墓とった新しい石碑に対して追慕ついぼの感じは起らないで、石の下のかんの中でうじ[#ルビの「うじ」は底本では「うじむし」]に喰われている死骸の醜さが胸に浮んだ。
 僧侶そうりょ[#ルビの「そうりょ」は底本では「ぼうず」]が投機に凝りだしてからは、寺は雨戸をとざして空屋のように汚れて、墓場の道は草が生え木の葉の散るにまかせていた。兄弟は朽葉を踏んで墓地を下った。
「辰は家で許したら、学校へ入って真剣に英語の稽古をしようという気があるのかい」栄一は前とは異って穏かに話しかけた。
 が、辰男は兄の言葉に甘えた快い返事はしようとはしなかった。「別段学校へ入りたいということはありません」と、干乾ひからびた切口上きりこうじょうで答えた。
「せめて、もう四年も早く決心して、強硬に親爺に説きつけたなら、東京に英語研究に行けんことはなかったろうに。勝代さえ行くようになったのだもの。……しかし、お前は今からじゃあまり遅すぎるね」
 家へ帰ると、辰男はほかに自分の置く処がないようにテーブルの前に腰を掛けたが、作りかけの文章に目を向けるのが厭な気がした。
 午過ぎになると、所在なくて、文典など読みだしたが、今までのようにかたわら人なきがごとき態度ではいられなくて、兄の足音が聞えると書物を脇へ片寄せた。


 階下で両親や才次などが一家の雑務に取りかかっている間に、二階では三人が各自の部屋に籠って、それぞれに読んだり書いたりしていた。一人も他の部屋へ入ってむだ口を利くこともあまりなかったが、階下から才次などが上ってきて勉強を乱すことはなおさらまれだった。良吉のいた時分のような賑かな笑い声や打解けた雑談は二階では跡を絶っていて、栄一の帰省は勝代が予期したような明るみを家の中へもたらさなかった。
 栄一は自分をはばかっている辰男に向ってしいて話をしかける気はなかったが、でもおりおり辰男に対しては神経を凝していた。ランプの下で難解な英字に青春の根気を疲らせている弟の青黒い顔の筋肉の微動をも、襖越しに見透しているように感ずることもあった。しかし自分に親しみを寄せたがっている勝代をば、きわめて淡く見過していた。妹の聞きたがっている東京の女学校や女学生の気風について話をしてやるでもなく、妹の東京行について一口も明らさまに可否の意見を述べなかった。二十未満はたちみまん[#ルビの「はたちみまん」は底本では「はたちたらず」]の女が小説で知っている東京にあこがれて、東京の何とかいう英語学校へ入って、学問で身を立てて、一生独身で通すというような乳臭い言いぐさをまじめに聞いて、とやかくと無用な陳腐ちんぷな意見を述べる気にはなれないのだった。そして、ひそかに、「女の子にまで高等な学問をさせるようになったとすると、家の身代にもだいぶ余裕ができたな」と思った。
 大勢炬燵を囲んでいる時、
「わしが初めて東京から帰ってきた年に大病にかかって座敷で寝てると、勝が蚊帳かやの側へってきちゃ悪戯いたずらをしたり小便を垂れたりしてうるさくって困ったよ。それが一人で東京へ行くようになったのだから、わしも知らない間に歳を取ったのだね」と、栄一は幾年か隔てて会うたびに不思議なほど異っている妹の顔を見入った。
「栄さんよりゃ才さんの方がけて見えるがな。才さんの頭にゃ白髪がぎょうさん生えてる。もう若白髪じゃないなあ」勝代がそう言って、兄たちの顔を見比べると、ほかの者も知らず知らず相互たがい[#ルビの「たがい」は底本では「かたみ」]の顔や頭に目を留めだした。よく見ると、離れていた間の年月は誰の顔にも刻まれていた。発育盛りの妹ばかり違っているのではなかった。
「何といっても四十近くなると、人間はそろそろおとろえだすんだね」栄一は弟に向って言って、「おれたちが一生にやりたいと思う好きなことをやってみるのは今のうちだぜ、金を活かして使うのも今のうちのような気がするよ」
「そのことはわしの方がいっそう本気で考えてる」と、才次は話に乗ってきて、「少し資本しほん[#ルビの「しほん」は底本では「もとで」]が続けば、この土地でもずいぶん利益の上る事業があるんじゃが、資本を自由に出してわしに任せてくれる者がないからちっとも実行ができん」と言って、老父がいつまでたっても、財産の一部も彼らに手渡ししない不平を微見ほのめかせた。
「おれは事業をやろうとは思わないが、今のうちに少くも気ままな旅行をしてみたいな、十分の路用を持って、二三年西洋へ行ってこられればそれに越したことはないが、支那しなとか朝鮮とかあるいは日本の内地だけでも端から端までゆっくり旅行してみたいよ。も少し歳が老けると、足が弱ったり不精になったりして長旅が厭になるし、旅行の楽みというものが減ってくるからね。内地なら旅行費なんかいくらもかかりゃしない。千円もあれば半年ぐらい方々で気楽に遊んでられらあ」
 旅行費に千円とは、贅沢ぜいたくきょく[#ルビの「きょく」は底本では「きわみ」]のように勝代は思って、
「東京で暮すとすれば、見る物聞く物が[#「聞く物が」は底本では「聞く物が、」]何でもそろうとって、旅行なぞせいでもよかろうにな。東京でさえ年じゅういると単調になるじゃろうか。勝は去年の春から家の門のしきいから外へ出たことは数えるほどしかないのじゃもの」
「わしは旅行しようとも学問しようとも思わんが、自分の計画を一度は成功しても失敗しても実地にやってみにゃ寝覚めが悪い。この歳までたった一度も自分量見でやったことはないんじゃから」と、才次は言った。
「何かおもしろいことがあるのかい」
「それはちょっと今言うわけに行かんのじゃが、自分の得にもならんのに漁夫らの世話を焼いてやってもつまらんからなあ」
「しかし、この村の漁場をよくして村を繁昌はんじょうさせるのはおもしろい事業じゃないか。食うに困らないで、そういう公共的の仕事をやってるのは愉快じゃないかなあ」
「いや他人のことだと思うと張合いがない。漁夫の方からいうても、組長には相当な人間を他所からでも頼んできてそれで食えるだけの月給をやって働かせた方が得なのじゃ。月給を取らにゃ食えん人間なら、自然一生懸命に働いて、他村との懸合いでも漁場の見廻りでも、行届くだろうし、漁夫らの望みならむりなことでもやってくれるだろうが、名誉職の組長にゃそんな真似はできん。むりな註文をおいそれと聞いて飛廻る気にゃなれんからなあ」
「そうかもしれんね」栄一は軽く弟に同意した。
「紀州の沖や土佐の沖じゃ、一網に何万とぼらが入ったのぶりが捕れたのと言うけれどこの辺の内海じゃ魚の種が年年尽きるばかりだから、しだいに村同士で漁場の悶着もんちゃくが激しゅうなるんじゃ。漁夫もこのごろは将来の望みのないことに多少気がついてきて、思いきって百姓になる者ができてきたが、百姓だと米の飯に魚を添えて食うわけに行かんし、こんな村じゃ海でも陸でもええことはない」
 こう言った才次の言葉には力がこもっていた。
「しかし、ここいらの奴は皆な身体は強いし、ずいぶん過激な労働にはえるんだから、智慧ちえと資本のある者が先へ立って使ってやれば役に立つんだが……」
「そりゃどこでもそうだ」
 栄一は深入りして弟の計画の底をたたこうとはしなかったが、才次は平生胸の中にもだもだしている不満な思いを兄にこそ洩らしばえがするように感じて、何かと問わず語りをした。かなりの財産のある家から良吉を養子に欲しいと申しこんできているのだから、早くその話を極めて家の負担ふたんを減らした方がいい、わずかな財産の分配をされるよりは当人のためにもいいと言ったり、もしも夫婦養子の口があれば、才次自身たいていな家なら我慢して行ってやるつもりだ、こんなにぐずぐずして歳を取っているよりはましだからと言ったりした。弟や妹が自分の知らない英語ばかりこそこそ勉強しているのを彼れはさも目障めざわりでならぬといったような口調で話した。
 しばらく黙って聞いていた栄一は、「だけど、辰男が英語を楽みにして、一生通せるのなら、好きなようにさせといたらいいじゃないか。傍の者へ迷惑を掛けないのだから」と弁護するように言った。
「さしあたって迷惑は掛けんが、しかし、家族の一人として毎日同じ飯櫃めしびつの飯を食うとると、自然に傍の者の気を悪うすることがあるんじゃ。白痴ばかでも狂人でもないんじゃから、ほかの兄弟並に扱わにゃならんし、なおさら始末に困るが、どうも不思議な人間じゃ」
「おれの子供の時分の気持に似てやしないかと思う。おれも家にじっとしていたらああなったかもしれないよ」
 栄一は微笑しながらこう言って、弟の話を外した。
 勝代はとっくに炬燵を離れて、小さい弟を連れて座敷の縁側へ出て日向ひなたぼっこをしていた。落葉や鶏のふん[#ルビの「ふん」は底本では「くそ」]で汚れた小庭へ下りて久しぶりで築山へも登ったが、昔の庭下駄は歩きつけない足にも重くって、じきに息苦しくなった。


 栄一は毎日の日課として後の山へ上って沖を見わたした。瀬戸通いの汽船が島々のかなたにはっきり見えて、春めいたうららかな日光の讃岐さぬきの山々に煙っていることもあれば、西風が吹荒れて、海には漁船の影もなくって、北国のような暗澹あんたんたる色を現わしていることもたまにはあった。そんな風の強い日には、大きな家の中がさながら野原のようで、いくらふすまや帯戸を閉めきっても、どこからか風が吹きこんで、寒さを防ぐすべもなかった。
「これでは冬籠ふゆごもりもできないね。早く東京へ帰ることにしようか」と、栄一は故郷の様子を見ただけで満足して、ふたたび都の小さい借家へ帰ろうとした。不漁つづきで、海鼠なまこ飯蛸いいだこなどの名産もあまり口へ入らないし、落着いて勉強もできないし、ことに家族の中に交っていると、きゅうに歳を取ったような気持になるのが厭だった。
「明日のうちに立とう」と、栄一はきゅうに決めたが、ひそかにそれを喜んだのは、辰男だった。明日の晩から、何時までランプをけていようとも、もはや苦情を言う者はなくなるのである。彼れの英語の発音を試験したり、彼れの英文について無慈悲むじひな批評を下したりしたがるそぶりを見せて驚かす者がなくなるのだ。……辰男はこのごろ英字に親しめなくなって、ややもすると心が外へ散って、寂しいつまらない気持がしだしたのを、兄のせいと思っていた。
「この書物を読んでしまったからお前にやろう。荷物はなるべく軽くしときたいから」と、出立の前の夜、栄一は弟のテーブルの上に英書を二冊置いて行った。
 辰男は表題と著者の名前とを見詰めたが、読方をも意味をも判じかねた。そして知らない文字に攻められるのが恐ろしさに、内部をば開けてみないで、手馴れている自分の書物でおおうて机の片隅へ押遣った。
 今夜一晩と極ったため、階下の炬燵こたつには皆なが集まった。珍らしく親爺も加わって何かしら話がにぎわっていたが、辰男一人は相変らず、二階にじっとしている。書きかけの英作文にも取りとめのない疑いのみしきりに起って容易に書続けられなかったので、懐手をしてぼんやり、風に唸いている障子しょうじを見ていた。すると心がゆるんで、われ知らず机に頭を垂れて仮寝をしだした。
 やがて、夢の中の物音に驚いてふと目をますと、ランプは机の向うへ押落されて、火は障子に燃移っていた。……辰男は気抜けがしたような顔をして突立ちながら、声も立てず、すぐには手出しもしなかった。……外では風がザワザワ音を立てている。畳は石油に浸って青いほのおを吐いている。……「この家は焼ける」と思うとともに、灰燼かいじんになった屋敷跡が彼れの心に浮んだ。
 やがて、彼れは両手に力を入れて、何年も動かしたことのないテーブルを書物の載っているまま、次の室へ移した。そして、座蒲団を丸めて、火を叩消たたきけそうとしているところへ、階子段にけたたましい足音がした。
「火事だ……」と、栄一のあわてた叫声が階下にいる人々の耳をつんざいた。外を通っていた者をも驚かした。
 大勢がどやどや駈寄って、口々に荒い言葉で指図さしずし合って、燃えついている障子を屋根から外へほうりだしたり、バケツや手桶ておけ水甕みずがめの水をすくってきたりした。父の目も血走った。妹も息を切らして素足で井戸端へ駈けた。皆なが騒ぎだすと、辰男は後退りをして薄暗い処に突立っていた。石油が燃えつきるとともに火の手はみるみる衰えたが、彼れのテーブルも書物もずぶれになってしまった。転げ落ちたノートは半ば灰になってひらひらしていた。
 さっきから辰男の不注意をののしっていた父や兄は、火が消えて心が落着いてから、いちように彼れの方へ目を向けて問詰といなじったが、石のように身動きもしないで、堅く口を閉じているのにあきれて、しだいに相手にしなくなった。
 畳を上げて汚れ物を片づけて、念のために二階の部屋部屋を見廻って、階下へ下りたが、誰も皆睡気を醒ましていて、子供までなかなか寝床へは入らなかった。
 見舞に来た隣近所の者が帰って、表の戸をおろした後、草臥くたびれ休めの茶を沸して駄菓子を食いなどして、互いに無事を祝して夜をふかした。
「電気にしとけば、こんな危険はないのだがね」と、栄一が言うと、父は、
「電気は不経済なばかりじゃない、柱や鴨居かもいへ穴を明けて家を台なしにするから考え物じゃ。今夜のようなことがあるとすると保険はつけといた方がええかもしれんが」
「辰の奴、何かろくでもないことをしでかしやせんかと思うとった。これからは夜遅くまでランプを点けておかせんようにしましょう。勝も他所へ行って辰一人が二階にいることになると不用心でしようがないから」と、才次は眉根をひそ[#ルビの「ひそ」は底本では「しか」]めた。
「しかし、こんなことはめったにあるまいが、とにかく今年じゅうには嫁を取らせて、別家させて、自分の始末は自分でやらせることにしたら、ちっとは普通あたりまえになるだろう」
「さあ」才次は父の言葉は空々しく受けて、「一軒の家の災難はどんなことで湧いてこんとも限らん。今夜にしても、もう十分遅う気がついたら取返しがつかなんだのじゃ」
 皆なの言葉が止切れたところへ、時計が一時を打った。寒そうに風が音を立てている。父は手燭を点けて部屋部屋を見廻って自分の寝室へ入った。
 勝代は焼跡の隣で眠るのが厭さに、いつまでも炬燵こたつの側にて仮睡をしだした。兄二人が最後まで話にふけっていたが、そこへ辰男は忍足で下りてきて、便所へ行くが早いかすぐに階子段を上った。
「まだ起きとるんか」と、才次は声を掛けた。気にかかったので、手燭を点けて見に行ったが、辰男は焼跡の隅っこの畳に夜着をかぶって寝ていた。
「栄さんの室にいっしょに寝たらいいじゃないか」とやさしく説いたが、
「わしはここでええ」と言って、辰男は枕を直して目を閉じた。
 闇の中に目を閉じていても、辰男は絶えず周囲の汚れた焼跡を頭に描き鼻でいでいた。ぐちゃぐちゃになっている書物や帳面を日に乾さねばならぬと思ったり、何と何とが焼け失せたかしらべてみなければならぬと思ったりしたが、このまま塵屑ごみくず[#ルビの「ごみくず」は底本では「ちりくず」]にしてしまいたい気もした。……机上に安んじていた彼れの堅固な心が長兄の帰省前後から破れかけていたのに、今夜の災難は最後に下されたつちのようだった。
 すると、学校から帰った後の毎夜毎夜の長い時間を何もしないで持てあましている自分の姿がみすぼらしく目先にちらついた。……以前ふとヴァヰオリンが厭になったころには、語学に興味が起って、心がその方へ吸寄せられたが、今度は新しい道は開かれそうでなかった。
 陰鬱いんうつ気懶けだるい気持が夜が更けるにつれて刻々に骨のずいまで喰いこんだ。そして、いっそ今夜の火事が拡がって、机も書物も家も、自分自身も焔の中に包まれて、燃えてしまえばよかったように思われだした。
 家から家へ火が移って、村一面に焔の海となって、見覚えのある村の者どもが顔や手足を焼焦やけこがして泣叫んでいる光景を彼れは夢みた。


 翌朝辰男は火事話を避けるために、起きるとすぐに家を出た。始業時間までにはよほどの暇があったので、所在なさに、先日兄にいて上った山の方へ足を向た。墓地を抜けると、一歩一歩眼界が拡がって、えた朝日はなめらかな海を明るく照らしていたが、咋夕の不快な記憶が彼れの頭から消えなかった。先日のように目前の眺めが英文の新な材料として目に映らず、永の年月自分を押籠めた牢屋ろうやの壁か何かのようにわびしく見えた。……この先五年十年この土地にどうして生きていられるか生きるすべが見つからなかった。
 白い雲の漂っている海の向うへ出て、どこともなく旅から旅を続けたらと、ふと家出を考えたが、それも一瞬間の妄想もうそうに止まって、旅費なしには一日か二日も他郷へ出かける無謀な勇気を彼れは持っていなかった。「見ず知らずの人は一椀の麦飯も食わしてはくれない。ただでは汽車にも汽船にも乗せてくれはしない」ということを彼れは今さらしみじみと考えたが、それにつけても、今まで無用な書物を買いこんで月々の俸給を浪費したことが後悔された。で、これまでの俸給のすべてを貯蓄していたらば、いくらいくらになっていたのにと、諳算あんざんをしながら、山を下って学校へ行った。
 授業を終えて帰ってみると、兄は咋夕の騒ぎのために、出立を一日延していた。火事の跡始末がついていて、障子が新に張替えられ、テーブルも久しぶりで綺麗きれいぬぐわれてあったが、れた書物は西日の差した縁側へ乱雑にほうりだされてあった。乾いてしわをつくっていた。
 辰男はそれらを本箱に収めて、紙切一つ置かれていないテーブルの前に腰を掛けた。“Fire”“Conflagration”“Nonsense”などいろいろの英語が頭脳の中に黒くつづられながら現われた。
 新に買った二分心のランプを小さい妹が持ってきたが、辰男は日が暮れても灯火を点けなかった。記憶にきざまれている英語を闇の中で果もなく綴っては崩し、崩しては綴りしていた。兄がすでに整えている旅の荷物を乱すのが厭さに、終日何もしないで退屈醒ましに、勝代に英語を読ませたり、不審な字句を解いてやったりしているのが、襖越しに彼れの耳へも入った。
「辰はそこにいるのかい、ランプも点けないで」栄一は襖を細目に開けて暗がりを透かし見して、「ここへ来い、ここへ」と、むりじいに空いた座へ招いた。
 妹の机には青い机掛けが掛って、その上には木彫の奈良人形と、亡妹の写真を挿んだ写真立があった。毛糸のランプ敷にえられたランプの明るい光は、差向いで炬燵に当っている兄弟の手に持った英書を照らしていた。辰男は灯光の邪魔にならぬような処に坐った。
「わしも学校にいた時分には、会話に身を入れて、西洋人の夜学校へも通ったりして、一時はたいていの事は自由に話ができたものだ。しかし今はまるでだめだね。ちょっとした挨拶さえよく考えなくちゃ英語で言えなくなったよ。日本にいりゃ外国人と話をする機会はないし、会話の研究こそまったくのむだ骨だった」
 栄一は妹の「実用会話集」に出ている日常の用語を久しぶりで口ずさんだが、勝代は兄の唇の微動を見入った。自分も二三年したらあんな風に巧みに操れるだろうかと広々とした気持になって、
「……田舎者よりゃ東京生れの人の方が英語の発音が早く上手じょうずになるんでしょう」
「なぜ? 同じことじゃないか」
「……田舎は[#「田舎は」は底本では「田舎者は」]日本語の発音でも下等で頑固がんこじゃから、それが癖になってしまって英語でもすらすらと音が出しにくいんじゃないかと思うがな」
「そんなばかなことがあるものか。……勝も東京へ行って三月もすると、東京言葉を使って田舎者をばかにするようになるだろうな」栄一はそう言ってから、辰男に向って、「お前は今から学問したって追いつかんから、農業か何か実業をやってみい。そんな頑丈がんじょうな身体をしているし、辛抱強いのに、机の前でいじけてるのはつまらないじゃないか。先日こないだ山から見た島を借りて桃をえても、後の泥山をひらいても何かできそうじゃないか。兄弟の真似をしないで、お前一人は泥まみれになって本当の田舎者になっちまうさ」
「そんなことはできやせんなあ、辰さん」と勝代は代って答えた。「去年二百円も出して、青年会の人が松を山へえたんじゃけど、じきに枯れてしもうたのじゃもの、桃もつく処へはどこへでも栽えてるし、この辺の土地は衰微すいびしるとも[#「衰微しるとも」は底本では「衰微するとも」]今よりようなりゃせんと勝は思うがな。この先の島は漁夫が巡査に見つけられんように賭博とばくを打ちに行く処になっとるんじゃもの」
「へえ。あれが漁夫の賭博場かい。そう思ってみるとおもしろいね」栄一はひとかどのいい思いつきのつもりで言ったことを、妹のためにたやすく打消された照れ隠しにこう言って、
「しかし、自分で鋤鍬すきくわを持って働くつもりなら何かやれんことはないさ」
「それはやれないことはありません」と、辰男は意外にはっきりした返事をした。
「じゃ、田地を分けてもらって、百姓になりきっちゃどうだい」
「そういう気にもなるんだけど……百姓をして米や麦をつくってもおもしろうないから」
「おもしろくなくっても、田圃たんぼに麦や、米ができなきゃ困るじゃないか。……西洋の草花でも造りゃ綺麗きれいでおもしろいかもしれないが」
「花なら自然に生えてるのが好きじゃ。山におった時分に植物の標本をちょっとは集めたことがありました」
「植物の採集もこの辺にゃ珍らしいものはあるまいが、作州の山には高山植物があるんだろう」
「へえ。いろいろ珍らしいものがありました。二三百は異ったのを集めて蔭干かげぼしにして取っといたのじゃけど、あちらの学校を止めた時に皆な焼いてきました」
「そりゃおしいね。学校へ寄附しとけば植物学の教授に役に立つのだろう」
「名が分らんから教える時には役に立ちません。私にだけにしか誰にも分らんでしょう」辰男は雑草でも木の葉でも手あたりしだいに採集して、でたらめな名前をつけていたのだった。
「それで満足できるかね。世間で極めた名前を知らずに集めてばかりいても楽みになるのかい」
「へえ。あの時分は楽みにしとったんでしょう」
 今夜はなぜだか珍らしくテキパキと話すのを聞いていると、栄一は弟の辰男を、永年家族が極めているような低能児とも変人とも思われない気がした。が、顔を見ると、光のない鈍い眼、小鼻の広い平たい鼻、硬そうな黒い皮膚がどうしてもおろかものらしく彼れを見させた。他人から慈愛を寄せられそうなうるみや光は、身体のどこにも持っていない。
「何か望みや不平があるのなら明ら様に言ったらいいじゃないか。おれが立つ前に聞いといたら、多少お前のためになるようなことがあるかもしれないぜ」と、栄一は優しくいて弟の心の底をさぐろうとしたが、
「そんなことは他人に言うたってしかたがありません」と、辰男は冷かに答えた。押返して訊いても執念しゅうねく口をつぐんで、よそ目には意地悪く見えるような表情を口端にただよわせた。
「しかたがないって、お前なんかつまりは兄弟の世話にならにゃ生きてられない時が来るんだよ。両親の達者な間に方法を立ててもらっとかなきゃだめじゃないか、むだなことばかり気ままに勉強していても、食う道はちっともついていないのだから」
 兄の声がとがってくると、辰男は目を伏せて心を外へそらせた。
「勝は学校を出てお金を取れるようになったら、辰さんにあげるつもりじゃ、勝は利己主義は嫌いじゃから」勝代は気取った口を利いた。
 これで話を止めて、栄一は横になって、挽舂ひきうすの響きを聞きながらうつらうつら仮睡うたたねの夢に落ちた。勝代は温かすぎる炬燵で逆上のぼせて頭痛がしていたが、それでも座を立とうとはしないで、
「口がねばって気持が悪いから蜜柑みかんを食べたいがな。辰さんはおごってくれんかな」とねだった。
「お前が自分で買いに行きゃ奢ってやらあ」
「勝は物を買いになぞ行ったことはないのに。およしでも使にやりゃええがな」
「自分で行かんのならわしは銭を出さんぜ」辰男はかたくなに言った。
「辰さんは時々意地の悪いことを言うんじゃな」
 勝代は階下へ行って母にねだってもらってきた蜜柑の一つを兄の前に置いたが、辰男は手に取らなかった。


 栄一は翌朝くるまで村を離れると、のびのびした気持になった。二里も隔った停車場までのみちすがら俥夫はしきりに村の話をして聞かせたが、それによると、隣県の者が近いうちに乗合馬車をこの近所の国道へ通そうとくわだてているそうである。
「そうしたらお前たちは困るだろう」と訊くと、「馬車なぞは永続きはしますまい。何でもその金主は、性の悪いことをして監獄へ入っとって、このごろ出てきたばかりじゃそうですから」と俥夫は答えて、「若旦那はたくさん金をもうけてお帰んなさったんじゃと皆なが言うとりますがな」
 俥夫の話が自分のことや家族のことに関係しだすと、栄一は相手にならなかった。そして、汽車に乗ると勝代の顔も辰男の顔も心に薄らいで、ただ入江のほとりの古めかしい大きな家の二階にあんな弟妹の住んでいるのが、憎みも愛もなく顧みられた。
「辰はおれが遣った○○の英文小説を読むかしらん」と、ふと、思ったが、それもまたたく間に消えてしまった。
 辰男は二三日テーブルの前に懐手をして腰を掛けたまま夜を過した。妹の頁をめくる音を聞きながら……。





底本:「日本文学全集11 正宗白鳥集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日発行
初出:「太陽」
   1915(大正4)年4月
※誤植を疑った箇所を、「入江のほとり」春陽堂、1916年発行の表記にそって、あらためました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:住吉
校正:山村信一郎
2015年9月11日作成
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