昔の西片町の人

正宗白鳥




「日本の文壇は今全く不良少年の手に落ちました。何等の教養も何等の傳統もない不良少年の手に落ちました。」と、博士はその華やかであつた青年時代の、唯一の名殘りであるやうな、美しい眸を輝かしながら、嘆聲を洩らすのを聞く時には、雄吉は不良少年の手に落ちた文壇を悲しむよりも、博士自身に對して、妙な寂しさを感ぜずにはゐられなかつた。……
 覇氣に富んだ人氣作家K氏の小説集を讀んでゐるうち、「葬式に行かぬ譯」と題された一篇の中の、かういふ記事のあるところまで來ると、私は思はず、獨り笑ひを洩らした。そして、書物から目を離して、作中の博士について考へた。
「日本の文壇は、今全く不良少年の手に落ちました。」
 中田博士が、今から十餘年前に、京都大學の教室で、かう云つて歎息したといふことは私をして、十年前に若くして世を去つた博士の面目を、印象鮮明に思ひ浮べさせるよすがとなるのである。
 成るほど博士の云ひさうな言葉である。他の老大家などが云つたのなら、私は何の興味もなく聞き流すのであるが、中田博士が、京都の文科大學の教室で、學生に向つてさう云つたのは、私には甚だ面白いのである。
 その頃の文壇には自然主義がまだ跋扈ばつこしてゐた。詩が輕んぜられてゐた。田舍臭い蕪雜な文章や卑俗な思想が、新文學の名の下に臆面もなく世に現れてゐた。博士の胸に抱かれてゐた至醇の藝術とは相容れざること氷と炭との如くであつた。
「天下の文章、不良少年の手に落つ。」私は、中田博士の假聲こわいろを使つて、二三度呟いた。博士の心にあつた不良少年團の名簿には私の名前も黒い字で記されてゐたに違ひない。
 私は、官學出の文學者のうちでは、中田鋭氏には比較的頻繁に接してゐた。學生時代にも一二度訪問して、歐洲新文學の研究法を訊ねたり、書物を一二册借りたりした。氏と私との年齡の差は五六歳に過ぎなかつたが、氏の博學は早くから評判されてゐて、私の同窓の一人は、「中田さんは訪問客と話をしてゐる時でも、外國の本を手に持つて讀んでるさうだ。」と、感心して私に話した。「頭が二重に働くんだな。」と、私も、氏の頭が凡人に傑れてゐるらしいのに敬服した。耳で人の話を聞きながら、目では本を讀む癖をつけると、時間が無駄にならなくつていゝと、自分でも眞似をしようと思つた。その頃は讀書慾が旺盛で、多讀をえらいことのやうに思つて、千駄木の大家が夜二三時間しか眠らないで讀書するといふ噂を聽いて感歎したり、道を歩きながらも書物を讀んでゐる學生の勉強ぶりに心を惹かれたりした。そして、私自身も、無茶苦茶に本を讀みたがつてゐた。獨歩の「あの時分」といふ小説に、「あの時分は、誰れも彼れもやたらに本を讀んだものです。」と書いてあつたが、あの頃の學生は一體に今の學生よりも讀書に努めてゐたのかも知れない。……カツフエーも活動寫眞も蓄音機もラヂオも音樂會もなかつた時代だから、本でも讀まなければ爲方がなかつたのであらう。
 私は學校卒業後間もなく、Y新聞へ入社したが、それと同時に早稻田附近から森川町の下宿へ轉居したので、中田氏の西片町の住居が近くなつた。そして、新聞の材料を索りがてら、外國文學に關する新知識を得るつもりで、たび/″\氏の宅へ足を運んだ。氏は内心私の訪問を好んでゐないらしかつたが、しかし、一度も居留守を使はれたり、事に託して玄關拂ひを喰はされたりしたことはなかつた。いつも、上べだけは快く會つて呉れた。顏付にも音聲にもとげがなくつて、西片町界隈の他の學者達よりも親しみ易かつた。
「中田君はギリシアだのラテンだのと頻りに語學の通を振り廻してゐるが、あれはどういふものかなあ。僕らには心根が分らないよ。」と、ある時、中田氏の友人が私に云つた。
 衒學、氣取り、淺薄といふやうな惡評を、私も氏に對して下すやうになつた。氏に不快を感ぜさせるやうな記事を遠慮なく紙上に掲げながら、私は何喰はぬ顏して氏を訪問してゐた。「中田さんは、此間お醉ひになつて、兩肌を脱いで鏡を前に置いて、顏に白粉をおつけになつた。」と、下谷のある料理屋の女中が話すのを聞いて新聞に出した。「中田さんは江戸ツ子だから、少しでも東京を離れるのが苦痛なんださうです。此間も横濱へ講演に出掛けた時に、一人娘の××子さんと別れるのがつらくつて、玄關で父子の愁歎場を見せたさうです。」と、氏と懇意な歌人が面白さうに話すのを聞いて、それにおまけをつけて新聞に出した。
 ことに、官學の文科出身者評論を連載した時には、ことに中田氏に對しては、斟酌しない惡評を連發した。氏に反感を抱いてゐた同窓のある人々は、紙上の惡罵を痛快視してゐたらしかつた。
「此間、大學の正門の側で、A君と中田君とが立ち話をしてゐたよ。A君の評が新聞に出た時には、はじめの一回が(上)としてあつたから、長くつても(中)(下)とあと二日で終るんだから、まだ氣が樂だつた。ところが、今日から出掛つた中田論は(一)としてあるから、あと何日續くか分らないと云つて、中田君がこぼしてゐたよ。」と、中田氏の知人が、笑ひ/\私に話した。
 その評論が終つて、大分時日が經過してから、私は氏を訪問した。拒絶もされないで、いつものやうに、玄關の次の客室へ通された。いつものやうに、氏は二階から下りて來た。
「××をお讀みでしたか。」と、氏はこの前會つた時に私に勸めた歐洲の新刊書の名を覺えてゐた。
「いえ、まだ讀みません。」
 何度會つても、心の中まで打ち解けることはないのだから、話題は重に文學に關係したことに止まつた。
「此間、アストンの日本文學史を讀みましたが、あんなものは詰まりませんね。外國人の批評だと買ひ被つてあんなものまでも卓見があるやうに云ふ人がありますが、文學は外國人には本當には分らないんでせうね。」と、私が云ふと、
「あゝ、あれは大した物ぢやありません。……しかし、あの中に、西鶴を批評したところに、西鶴の外は、たゞ見て過ぎよと書いてあります。あの言葉は、ダンテの神曲にある言葉で、神曲を讀んでゐないものには、あの面白味は分りませんな。」と、氏はふと興に乘つたやうに云つて、「見て過ぎよ。」の伊太利語を口に出した。
 一しきり文學談をしたあとで、氏は圓い柔かい顏に微笑を漂へて、
「何でもないことを、人は大袈裟に話したがるものですからね。人の噂は常識で判斷して加減しなきや滑稽になりますよ。」
「さうでせうね。」私は、氏が横濱行の愁嘆場の記事を差して云つてゐるのだらうと察してゐた。
「消極的な人を讚美するのも變ぢやありませんか。隱遁してゐる人はボロを出す機會は少ないでせうが、それは必ずしも褒めたことぢやないでせう。」
「さうですね。」
 私が、當時はまだ文壇に現れてゐなかつたN氏を推讚して、中田氏を貶したやうな筆を弄した新聞記事に對して、例の婉曲な皮肉を云つてゐるのだらうと、私は察しながら空呆けてゐた。そして、
「男はボロを出しても傷を受けても、積極的に活動する方がいゝんですね。だから、私も人に憎まれても恨まれても、思つたことはどし/\書くつもりです。」と、笑ひ/\云ふと、
「しかし露骨な攻撃は攻撃としても效果が少ないものですよ。」
「そりや藝術的ぢやないでせうね。」
 そんな話をしてゐる間に、隣りの茶の間から、中田夫人と女客との話が絶えず聞えてゐたが、女客はふと、高い聲で、
「あら。お宅ではまたY新聞をお取んなさいますの。此間うちはお止めになつてたぢやありませんか。」と云つた。
 私はハツと思つて、中田氏の顏から目を外らした。夫人は小聲で何とか答へてゐたが、私はそちらの話聲を打ち消すやうに、熱心らしい聲で文學談をはじめた。
「ドーデーのナボツブを讀みましたが、あの人のものはどれでも話が面白いから、しまひまで退屈しませんね。」
「ナボツブは結末がいゝ。」
 私は話が一くぎりついたところで暇を告げた。雨が降りだしたのも關はずに出かけると、
「傘を持つていらつしやいな。」と、氏は私を呼び留めた。そして、夫人が茶の室の方から持ち出した雨傘は、氏の手を經て私の手に渡された。
 文壇の風潮はその頃から急激に變化して、消極的なN氏が世間へ引き出されて、俄かに文壇の視聽を惹くやうになり、一方ではS氏やK氏の作物が清新なる文學として持て囃されるやうになりだした。
 私の同窓の先輩であつたS氏が歐洲留學から、大抱負を持つて歸つて來たので、その歡迎會が紅葉館で開かれたが、そのあと間もなく、私は、中田氏を訪問した。その時、歡迎會席上で起つたいさかひが話題に上つた。……知名の二作家がふとしたことから言ひ爭つて、腕力沙汰にも及ばうとしたのであつたが、隔つた席からそれを見てゐた獨歩氏が、ふと麥酒罎を掴んで立ち上つて、「××の奴生意氣だ。毆れ。」と叫んで、喧嘩の一人を目がけて突進したのださうだ。
「獨歩は、その前に××の前へ出て挨拶して自分の名を名乘つたのださうです。さうすると、××が呆けた顏して、あなたは新體詩をお作りになるんですねと云つたさうですよ。それが獨歩の癪に障つてゐたのでせう。人心の機微に觸れてゐますね。」
 中田氏は靜かにさう云つて微笑した。その笑ひは冷笑か苦笑かである筈なのだが、氏の笑ひは、私の目にはいつも穩やかに見えて、冷苦辛酸の現れを面上に認めることが出來なかつた。
 氏は「人心の機微に觸れてゐる。」と云つたゞけで、露骨な説明はしなかつたが、氏の意味するところが、私にはよく解つてゐた。……長い間隱忍して來た獨歩も、小説家としてやうやく世に重んぜらるやうになりかけた頃で、「おれも小説家だ、甘く見るな。」といふ腹であつたので、中田氏に取つては、詩よりも小説が重んぜられる當時の文壇の惡傾向の一例として苦々しく思はれてゐたのであつた。
 私もやがて新作家の一人として文壇に立つやうになつたので、自然、中田氏の門へは足を向けなくなつた。一度氏の客室で會つたことのある二三の官學の俊才も、獨得の作風によつて一代を風靡しだしたN氏の膝下に集るやうになつた。博學の褒れ高かつた中田氏も、文壇の風潮の變化に連れて、影が薄くなつたやうであつた。東京が好きで避暑にも出ないと云つてゐた氏が、京都大學へ轉任すると聞いた時に、私は氏の心の寂しさを思ひやつた。
 四五年も經て、久し振りに氏に出會つたのは、帝國劇場開場式の夜で、そこの廊下で雜沓のうちに擦れ違ひざま、私は挨拶したのであつた。長らく御無沙汰をしてゐた間に、氏は文學博士になり、佛蘭西へも行つて來たのだが、頭のひどく禿げだしたのが、特に私の目についた。
「あなたの弟さんの繪を先日拜見しました。非常に面白う御座んした。」と、氏は云つた。西片町訪問を止めて以來、私は創作に努力して、過分の名聲を得てゐたのであつたが、氏は、私の成績については、一言のお世辭も云はなかつた。弟の繪はその時分は極めて未熟であつたのだ。
「京都へいらしつたら、お寄んなさいな。」と云つて、「永井君が來てゐる筈だが。」と呟いて、氏は行き過ぎた。
 私が、中田博士に會つたのは、これが最後であつた。
「中田さんも、あれでスバルの仲間なんかでは幅を利かせてるんだらうな。」と、私は知人に向つて云つたこともあつた。
 博士の死亡の通知は、どういふものか私のところへも屆いた。滅多に葬式には行かない私も、昔屡々訪問していろ/\な新知識を授けて貰つたことを思ひ出して、謝恩のつもりで、禮服を着けて、式場へ出掛けた。儀式は型の如く運ばれたのであつたが、たゞ一つ異樣な印象を殘されたのは、京都大學學生總代の弔詞であつた。靈前に向つて、突如として、「先生」と叫んで、死者の靈魂を眼前に見てゐるやうな態度で追弔の辭を述べたことであつた。かういふ型を破つた弔詞も、今では珍しくなくなつたのであらうが、あの時は、危く噴き出さうとしたほどに、私には滑稽に感ぜられた。博士は言文一致が嫌ひで、「みんなの文體がさうなつたら、一葉のたけくらべのやうな面白い文章は見られなくなりますね。」と歎じてゐたのに、その教へ子は、日用語で、散文的に亡師の靈を弔つたのである。
 中田博士を取り扱つたK氏の小説を讀んで、こんなことを、取り留めなく思ひ出したのであるが、最後に、今一つ興味をもつて思ひ出したことがある。
 それは、去年の一月歸省した時に、弟が購讀してゐた雜誌「明星」を明けて、ところ/″\走り讀みすると、千駄木の老大家が、京都にゐた中田博士に寄せた書翰のうちに、二ところ私の名前が出てゐるのが目についた。これは不思議だと思つて、その二通の手紙を熟讀すると、私がY新聞の新社長に嫌はれて文藝部の主任を解職されたことなどを内報してゐるのであつた。
 千駄木の老大家や中田博士のやうな人でも、私のやうな若輩が新聞の地位を去る去らぬを、多少でも心に掛けてゐたのは不思議であるが、しかしよく考へると、それが自然の人情なのであらう。
「人心の機微に觸れてゐますなあ。」私は、中田博士の靈に向つてさう云ひたいのである。
 私は、昔の學者町西片町に住んでゐた幾人かの官學出の學者を知つてゐるが、そのうちでは、何と云つても中田博士が最も話が面白かつたし、人間としても味ひがあつた。あの婉曲な暗示的な皮肉だけでも、多く得難いのである。





底本:「正宗白鳥全集第十二卷」福武書店
   1985(昭和60)年7月30日発行
底本の親本:「中央公論 第四十年第十号」中央公論新社
   1925(大正14)年9月1日発行
初出:「中央公論 第四十年第十号」中央公論新社
   1925(大正14)年9月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:山村信一郎
2013年11月16日作成
2016年6月7日修正
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