語學修業

正宗白鳥




 明治十年代の末期から二十年代へ掛けて、新時代の文學が芽生えたので、早稻田で文學部が創設され、早稻田文學が發刊された時分は、少數ではあつたが、若い文學愛好者の間には、清新な藝術氣分が、漂つてゐたのだ。坪内先生の企てられた文學部の教育方法は、幼稚であつても、未熟であつても、藝術教育であつた。實生活を顧慮しない天才教育のやうなものであつた。和漢の古典は元より、徳川時代の學者には蔑視されてゐた近松の淨瑠璃なんかも研究させた。西洋の哲學も學ばせた。米國製のリーダーさへろくに讀めない年少學徒に、シエークスピアを學ばせた。小説や演劇を、さも人間修養に重大要件である如く教育した。感受性の強い青年期に、かういふ雰圍氣に身を置いて、知能情緒を啓發されたのであるから、若し學生にして天分が傑れてゐたなら、清新な目醒ましい藝術を創出した筈であつたが、さういふ非凡人は一人も入學してゐなかつたのである。
 藝術教育や天才教育を受けた凡人は、却つて學窓を出た後、衣食を得るに困難するばかりである。シエークスピアの古語を小學讀本同樣に讀み覺えたつて、西洋の哲學を聞き噛つたつて實社會に出て多く役に立たないのである。それで、常識に富み責任感の強い坪内先生は、學士の前途について憂慮されだしたと推察される[#「推察される」は底本では「推祭される」]。その結果卒業後中學教員としての資格を得るやうに教育方法を次第に變更されたのであらう。
 私が早稻田の豫科(專修英語科)に入學して間のない、明治三十年頃、新たに英語學部が創立されるに際し、先生の述べられた講演は、印象つよく、今なほ私の耳に殘つてゐる。「大西祝君なんかもこぼしてゐるが、學生に語學の力がないために、參考書が讀めない。英語を學ぶと云つても、字引を引いて本を讀むだけでは世間へ出て用をなさない。英語を自由に話し、手紙ぐらゐ自由に書けるやうでなければならぬ。」と云はれた。それで、實用を主とした新英語學部が出來たので、私も先生の演説に感激して、本科入學を延して、その科へ入ることにした。外人教師が二人で、話すこと書くことを主として學んだのだが、學生は僅かに六七人であつた。大抵は早く本科へ入りたがつたのである。だから、學校も經濟上この英語科は維持されなかつたらしく、二三年で廢止になつた。しかし、私自身の經驗から云ふと、本科入學を急がないで、この科に留まつてゐたことが、一生どれほど役に立つたか知れない。英語のろくに讀めない英文學研究に、どれほどの價値があるだらう。教師の譯語をテキストに書き入れてやうやく覺えたシエークスピアにどれほどの價値があるだらう。西洋哲學も英文學も學校で教へられたゞけ、試驗のため復習したゞけしか知らないで、一生それつきりで終ることになるのだ。
 今日は、あの頃とはちがつて學生も諸國の言語に熟通するやうになつてゐるらしいが、假りにも歐洲文學を學ばんとするには、先づ原語を自由に讀みこなすやうに心掛けねばならぬと、私はこの頃痛切に感じてゐる。語學と文學とちがふと云つて、あやしい語學力で、文學的判斷を下すのはあやまれる態度である。私なども、若い時分變則な英語教育を受けたゝめ、數十年來英書を讀みながら、充分に翫味し得ないで、靴を隔てて痒きを掻く思ひをすることが多い。
 この頃は飜譯によつて歐洲古今の名作も、大抵讀み得られるやうになつてゐる。一般人は飜譯でも讀んでゐればいいのだ。しかし、飜譯は要するに模寫である。原作以上の飜譯は極めて稀であらう。日本人が歐洲各國の言語を學ばんとしても不可能であり、一生言葉ばかり學んでゐるのも、言語學者以外には、愚かなことであるが、少なくも一つぐらゐの外國語は、今日の時世では、學んで置くべきだと私は確信してゐる。一つの外國語を學ぶのは一つの新しい世界を發見したことになるのである。實際に役に立つばかりでなく、一生の間計り知れない樂みが得られるのだ。それで語學の修業は年少の時に身を入れて正則に學ぶに限るのである。





底本:「正宗白鳥全集第二十七卷」福武書店
   1985(昭和60)年6月29日発行
底本の親本:「早稻田學報 第四百八十五號」早稻田大學校友會
   1935(昭和10)年7月10日発行
初出:「早稻田學報 第四百八十五號」早稻田大學校友會
   1935(昭和10)年7月10日発行
※誤植を疑った箇所を、初出誌の表記にそって、あらためました。
入力:フクポー
校正:山村信一郎
2016年9月9日作成
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