私は紙である

槇村浩




 高い/\一万尺あまりもあらうといふ山の上に私は生れたのでした、或日一人の金持らしい人が登ってまゐりまして私や私の仲間を見て「惜しいものだ、りっぱな紙に成るのに」といはれました。私は別に気にも止めないで居ましたら四五日して大勢の人が私等のそばへやってまいりました。それから私等はりっぱな食物をいたゞく様に成りました。いく月もたった後一人の人がやってまゐりまして「もうそろ/\始めてもいゝな」といひ沢山の人を呼んで私等を切りました。いたいのをこらへて居ますとやがて四五日の中には皮はむかれ骨はのけられ見るからに浅ましい姿となりました。これは後で聞いた事ですが、あの金持は紙業家で早速に私等を買ひ紙にするつもりだったのださうです。私等はもう木ではありません。りっぱな/\日本紙です。する中に私等は汽車に積れました。「ナゴヤ――ヨコハマ――」等と外で云ふ声が聞えました。「シンバシ――」と大きな声がしますとすぐに「ガチャ/\ン」と大きな音がしました。
私等はふるへて居ますと大きな手が「ニューツ」と入って来て私らを石の上へ投げつけました。「キャツ」と思はずさけびました。やがてあら/\しいトゲだらけの車につまれ、いや、投げつけられ四五丁してから紙屋へ来ました。大勢の仲間は喜こんで私等をむかへました。「まだうれないのかナア」とは毎日私等のさけぶ声なのです。うれ行のよい西洋紙君等が浦山しくってたまりません、或日五十八九位のおばあさんがやってまゐりまして「日本紙二帖」と云って買って行きました。某人の家なのでせう。かるく机の上に叩きつけられました。おばあさんは「アヽつかれた」といって少し休んでから、私等の中から、三四枚ぬきました。私も其一枚なのです、やがて私の胸と腹へ黒い汁を流し始めました。一時間ばかりの後、それがすんだ様でした、随分長いものなのです。今度はおばあさんが小声でそれをよみ始めました。ほんとに哀れな事で私ももらひ泣きを致しました、おばあさんの目鏡も涙に曇て居ました。そしてやがて封筒の中へ入れられました。「ドン」と云ふ音と一しょに私等はもうポストの中でした。「グチャン/\ドーン」といふ音と共に私等は外へ出されました。「ヤレ安心」と思ったのは束の間、汗くさい/\むさ苦しい/\皮のかばんへ入れられました。二時間ばかりの後、「ドーン」と投げ出されました。それから「トン/\」と頭を叩かれました。そのいたかった事は未だに忘れられません。又も車につめこまれ元の新橋とかへ帰り、思出多きこのステーションを後にして又もや汽車に乗って北へ/\と行き始めました。「ミトーセンダーイ」と云ふ声が聞えました、「青森ー」と云ふ声と一しょに今度は汽車から下され少しの後は汽船に乗って北海道へと向って行ったのであります。やがて函館とかへつきました。之からの事はくだ/\しく申すまい。郵便局へよってから、一つの家へつきました。つきますと「手紙だ」「おや東京のお祖母さんから……」といふ声がして私らを手にとって読んで居ましたが、「アヽ可哀相に」「こんな事と知ったらあゝするんぢゃ無かったに」と云ひ合って居ました。私等は丁嚀に箱の中へ入れられました。過去一ヶ月に近い長旅も、之まで終を告げました。私等はもうここで休みませう、私等は近い中にすきかへされ皆さんの中へ或は書方に使ふ紙となり鼻汁をふく紙となり或は図画用紙となり、行きませう。皆さんはどうか楽しみにしてまって居て下さい。(完)
一一・九・二五





底本:「槇村浩全集」平凡堂書店
   1984(昭和59)年1月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※著者が、高知市立第六小学校三年生、四年生のときの作品。謄写版刷りの、同校文集「蕾」から、底本に採録された。
※底本は新字旧仮名づかいです。なお促音の小書きは、底本通りです。
入力:坂本真一
校正:雪森
2014年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード