櫻間中庸




 獏――私はたまらなくこの字が好きでありこの音が好きである。
 バク。ばく。BAKU。
 私はいつも斯う口すさんで見る。夢を食ふけもの――これがバクの内容である。このロマンチックな内容を持つたけもの。私の想の中にクツキリ生きてゐるけものに會ふ機を私は偶然拾つたのである。
 或る動物園の午後。たしか冬だつたと思ふ。私は日當りのいゝベンチを選んだ。五六間右には噴水がボソボソ水音をたててゐて、おしどりが月並に一つがひ岩の上で仲よくうづくまつてゐた。
 かなり私の眼は疲れてゐて斯うどつかり腰を降すとポトリポトリと眠氣が溶け込んで來るのである。どうもかうもならない程私の身體も疲れてゐた。
 眠つてはならない! と思つて見ひらいた私の瞳はそこで思ひがけなくも不思議な發見をしたのである。
 私の瞳は狐のその樣に輝いたであらう。私の唇は異樣に尖つてゐたかも知れない。兎に角私の足は正面五六間の所にある立札に直進してゐた。
 獏 獏 獏
 立札は私の網膜に擴大し始め獏は腦味噌に空想を強要し、腦は――眠つてゐた腦は――恐ろしく流轉し始めたのである。少くとも然う感ぜられた。
 バク。ばく。BAKU。 私は口すさんだ。が、私の見出したのは頑丈な金網と奧の薄暗さにあるセメントのほら穴だけだつた。私はもう一度立札を見た。
 獏――金網の中を見た。何もゐない。かなり失望を感じ乍ら私は次の區切りの金網の所まで行つて左側にほら穴を見出した。
 私のまなこは瞳孔をしきりに調節しながら暗さを模索し始めた。
 ゐる。ゐる。薄暗さにうづくまる獸。
 どろんとした眼。日本犬の持つた茶褐色の短かい毛。突出した鼻。あごの下にあるらしい口。
 この明るさを避けてかれ獏は今夢を食つてゐる。私は何とも云へない好奇と歡喜とに滿腹して飽かず眺めつくした。
 空想――私自身の空想にゐる獏であることは論を待たず昔人の空想したけものとのみ思つてゐた獏が突然現實の姿で自分の面前にみたのである。
 バク。ばく。BAKU。 私は常に口ずさむ。獏を見て以來私の腦味噌はもはや獏のため空想を要しなくなつた。
 だが――私は依然として夢を食つてゐるけものである。





底本:「日光浴室 櫻間中庸遺稿集」ボン書店
   1936(昭和11)年7月28日発行
※「一つ」は、底本では「つ」と印刷したところに「×」を付け、「一」と書き添える形で訂正してあります。
入力:Y.S.
校正:富田倫生
2011年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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