遥かなる憧憬

西村陽吉




所有者


『万物は万人のものなり、
何人の私有すべきものに非ず』
この思想のいかに当然にして、
しかして美しくして、
しかして、
いかに遠く我らの相距りたることよ!

我らは何物をも持たず、
げに何物をも持たず、
街を歩みて何物の一つをも、
これを自由にし、使用し、消費する能わず、
石ころの一つにも、
一木の枝にも、
その所有主の名は刻さる。

げに我らは、
暖かなる日光に浴し、
空気をも(その清新なるものを)呼吸し能わず。

欲求


我等は、
やわらかなる臥床に寝んことを希い、
美食に飽きんことを希い、
贅沢なる居室に居らんことを希う者に非ず、
ただ我等の飢を満たさしめよ、
我等自ら作りたる米を食わしめよ、
その宏荘なる蔵に蓄積せる、饒多なる米を食わしめよ。


今こそ必要なれ、
今、
我らが敵は奸佞なる守旧派に非ずして、
遅疑と逡巡と、実に躊躇となり、
遷延こそ最も怖るべき敵なれ、
我らの為すべきは今、
すぐ、
今よりなり。

独立


K子よ、
君の母上は君が婚期を過ぎむやを案じ給えり、
――もはや立派なる一人前の婦人と君はなり給えば――、
されど君は君自らの生活のしろを得給うゆえに、
『この方が結句気楽なり』と、
我に語りしことも一再ならず、
君は静かに、
君が居給う所に居給えり、
君は安んじ、満ち給えり、
されど君が終日の労働を終えて帰り来れる時の、
その白き面ざしの
なんぞしかく時折に淋しげなる。

“Bread for all”


世界には実に沢山のパンがある、
とても食いきれないほどある、
我らは実に富んでいる、
我らはみな平等にこのパンを食う権利を持っているのである、
それだのに、
なぜ飢えて死ぬ人があるのか、
それだのに、
なぜ痩せている子供があるのか、
それだのに、
なぜ泣いている婦人があるのか。

賃金制度


友よ、
君も働けど常に飢ゆる友なり、
我らは働きて少許の賃銀を得、
されどそは充分なる生活のしろを購い難し、
一日我らの労働を休めんか、
我らは一日飢えざるべからず、
我らはこの世に於て何物も所有せず、
我らの所有するものは予ら自らの肉体のみ、
我らは他に何ものをも獲得し、所有するの資格と保証とを有せず、
我らはこの天地に裸一貫なり、
我らは我ら自らの肉体を所有するのみ。

奴隷


我らのユートピアの顕現せられんか、
我らはなんの代償なくして、
食物を得、
住居を得、
衣服を得、
しかして時間を得、
我らはその時そのあまりの驚くべき恩典に、
むしろ茫然としてそを拒まんとさえするか、
ああこの奴隷根性こそ哀しけれ、
――我らの中にふかく根ざしたる。
(一九一五年十月二十日作 『生活と芸術』同年十一月号に発表)





底本:「日本プロレタリア文学集・38 プロレタリア詩集(一)」新日本出版社
   1987(昭和62)年5月25日初版
初出:「生活と芸術」
   1915(大正4)年11月号
入力:坂本真一
校正:雪森
2015年12月13日作成
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