梟の眼

大倉※[#「火+華」、第3水準1-87-62]子




ポケットのダイヤ


 陽子は珍らしく早起きして、朝のお化粧もすませ、ヴェランダの籐椅子にながながと両足を延ばし、ココアを飲みながら、頻りに腕時計を眺めていた。
 客間の置時計が九時を打つと、それを合図のように玄関のベルが鳴って、貴金属商の杉村が来た、と書生が取りついだ。貴金属商というのは表面で、実は秘密に婦人達の間を廻り歩いている、損料貸しなのである。指輪や時計の交換などもやるので、重宝がられているのだった。彼は如才ない調子で、お世辞を振りまきながら、女中が茶菓を運ぶのに出たり入ったりしている間は、ゆっくりと鞄から一つ一つ指輪を取り出して、テーブルの上に並べていたが、女中の姿が見えなくなると、懐中から別に持っていたのを出して、
「パリーで買ったものだというんですが――、カットも新しいし、これだけの上物は滅多にございません。――いかがでしょう? 二千五百円じゃお安いと思いますが――」
 三キャラット以上もありそうな、純白ダイヤ入りの指輪だ。陽子は蝋細工のような細い指にはめてみて、じっと眺めた。欲しいな、と思った、欲しい! しかし、この指輪に換えるだけの宝石を、残念ながら、持ち合せていない。もし是非ともこれを望むとすれば、まとまったいくらかの金をたしまえとして渡さなければなるまい。結婚してからまだ半年にしかならない二十一歳の若夫人の身では、それだけの金の工面は少し難しかった。欲しくって、欲しくって堪らないが、これは我慢しなければならないので、その代りに小指にはめるマルキイズを借りることにして、ルビーの指輪に若干の金を添えて話をつけた。
 杉村は鞄の中に指輪をしまいながら、
「米国観光団の大舞踏会があるそうでございますね。ご出席なさいますんでしょう?」
「ええ、招待状が来ているから、行く積りよ」
「そのために――、皆さん、大変ご苦労をなさいます。これは内々のお話でございますが、――私共の上等品は大部分当日のために出払ってしまいました」
 陽子は杉村が帰った後も、三キャラットのダイヤが眼の前を離れなかった。梅田子爵夫人ともあろうものが、あれ位のダイヤ一つ持っていないとは情けない、何とかして買いたいものだと思いながら、ぼんやり庭を眺めていると、縁側に忙しそうな足音がして、実家の次兄、平松春樹が訪ねて来た。
「あら、お兄さん」
 兄の顔を見ると急に甘えるような気持ちなって、何ということなしに涙ぐんだ。ダイヤが欲しいのよ、と、口先にまで出かかったのを、ぐっと押えて、陽子は唇を噛んだ。それは云ってはならぬことであった、こんなにまで欲しがっていると知ったら、この妹思いの春樹が、黙ってみているはずはない。どんな無理をしても、きっと、ダイヤを持って来てくれるにきまっている、その無理が――、彼女には恐しかった。
「お兄さんも舞踏会に行らっしゃるんでしょう? 西洋婦人が沢山来るそうですから、さぞ、奇麗なことでしょうねえ」と云った。
「米国人が半数以上だっていうから、ダイヤが踊ってるようだろうよ。君なんか、宝石をつけて行かない方がいいぜ。ケチな指輪をはめて行っちゃ、反ってみすぼらしいからな」
 兄の言葉もまるで耳に入らないように、陽子はじいッと考え込んでいたが、何を思ったのか、急に元気づいて、ち上り、
「どうせ買えないから、と思って断念あきらめたんだけれど、――お兄さん、私、これから三越へ行くわ。あそこは月末払いだから、――その時はその時の事で、どうにかなるわ。ほんとにうまいところに気がついた。三越へ行って、――ダイヤを見て来る。定めた!」
「馬鹿! 止せッて云ったら――、ッぽけなダイヤなんかみっともないぞ――」
「だから、――大きいの、買うわ」と、勢よく化粧室に飛び込み、パッフで顔を叩いて、外套に手を通しながら、浮き浮きとして出て来た。
 春樹は苦笑して、煙草に火を点け、
「じゃ、俺も一緒に出かけるとしようかな」
 二人は連れ立って出た。
 三越の前で陽子は兄に別れ、軽い歩調でエレヴェーターの中に入った。彼女はもうダイヤの事しか何も考えていなかった。
 エレヴェーターを出ると傍目わきめもふらず、真直ぐに、貴金属部へ靴先を向けた。ショウ・ウインドウを覗くと、パッと眼に入った大きなダイヤがあった。沢山の指輪に取り巻かれた真中に、それはまるで女王のように輝いていた。杉村の持っていたのなどより、ずッと立派なものであった。早速、馴染みの店員をんで、硝子ガラスの上をトントン指先で叩きながら、
「ちょいと、この指輪、見せて下さらない?」と云った。
 店員は五千八百円という正札を、ぶらりと下げているその指輪を陽子に渡し、なおそのほか気に入りそうなのを五つ六つ並べて見せてくれた、彼女はそれを一つ一つ指にはめては見惚れていたが、やはり最初目についた五千八百円が一番気に入った。欲しいなあ、と思うと我知らず溜息が出る。お金をどうしよう?――仕払いの時、もし、出来なかったら――、と思うと眼の先が真暗になる。だが、――どうにかなるだろう、構わない、買っちまえ! 彼女は顔をほてらせて、じっとダイヤを見ているうちに、何だか頭がぼうッとした。ふと我に返るとはッとして、また考えた。そんな無茶なことをしてどうする? 到底それだけお金が出来るはずがないのに、――無謀な考えを起したら、それこそ月末は大変だ、やっぱり――、断念めるより仕方がない。彼女は名残り惜しそうに指輪をぬいて、箱に納め、力なく返そうとしたが、傍にいた店員の姿が、どうしたのか見えなかった。四辺あたりを見廻すと、自分の側に、やはり同じように、指輪に見入っている婦人があった。ちょっと見た時西洋人かしらと思ったほど、洋装がしっくりとよく似合い、帽子から、靴まで薄墨色であった。背が高くて、スマートな、好ましい姿だ。と陽子はつくづく眺めた。余りじろじろ見たせいか、その婦人はすうッとむこうってしまった。そこへ店員が戻って来たので、指輪を渡し、
「また出直して来ますわ。気に入ったのが、――あることはあるんだけれど――」と云って悄然と三越を出た。
 銀座を歩いているうちに夕方になったので、円タクを拾って家へ帰ったが、外套を脱ぐのも億劫な位、がっかりした。考えれば、考えるほど、気が滅入る。
「ああ、あのダイヤが欲しい!」
 溜息と一緒に、ツイ口に出してしまってから、急に恥しくなり、顔を赤らめて起ち上り、ポケットからハンカチを掴み出した、カチリ! 床に落ちたものがある。オヤッと思って、見ると、白っぽい、光った小さなものがころころと転げて、へやの隅の壁際で停り、電燈の灯を受け、ピカッと眼を射た。
 ダイヤだ、ダイヤの指輪だ!
 三越の店員にたしかに渡したと思っていた五千八百円の指輪だ。彼女は頭の先から足の先まで、ジーンと電気でも伝ったように感じ、体が硬直こわばって身動きも出来ない。
 どうして、ポケットの中に、あのダイヤが入っていたのだろう? 欲しい! と深く思い込んだあの刹那の念力にひかれて、転げ込んだのではあるまいか。まさか――そんなことがあろうとは信じないが、かつてある霊能者の物品引寄せというものを見たことがある。もしああいう事が、実際に出来るものだとしたら――、あるいは――。
 陽子は怖くなった。
 今にも、三越から何とか云って来やしないだろうか。たとえそれが意識してやった事でないとしても、ポケットに入れるところを誰かに見られはしなかったろうか。訴えられたらどうしよう? 一層返しに行こうか。――それも変だ。反って疑われるかも知れない。――では、このまま、黙って、知らぬ顔をしていようか――。
 彼女は指輪を半紙に包んで、取り敢えず人目に触れない箪笥たんす抽斗ひきだしの奥に入れて、錠を下し、熱した頭を冷す積りでヴェランダに出た。夫に打ち開けて相談してみようか、しかしそれも心配だった。潔癖な彼が、どんな風に誤解しないとも限らない。
 それにもう一つ、陽子の胸を刺すような心痛があった。それは他でもない、兄のことである。
 春樹は風采も立派、学校の成積も良く、才物であったが、どういうものか、幼少の頃から盗癖があった。が、彼に云わせるとこうだ。世間の人は皆間抜けで、馬鹿揃いだ。すきだらけだから盗まれる。盗んでくれと云わんばかりな顔をしているのに、自分の不注意を棚に上げて、人に盗癖があるなんてチャンチャラおかしい。その気持ちは彼女にもよく分った。
 それに春樹は物を盗んで、それをどうしようというのでもない、ただ、他人が後生大切に身につけているものを、こっそりとりとる、それが愉快なのだ、その瞬間、実に何とも云えない快感を覚える、それを味いたいばっかりに、罪を重ねているのだが、盗んでしまえばそれぎりで、品物に執着がないのだから、持主の住所を調べては、送り返してやる。まさか、平松子爵の次男がスリだとは何人なんぴとも感付かないだろう、知っているのは妹一人位のものだと彼は考えていた。しかし、その愉快な遊戯も、陽子が梅田家へ嫁いだ日を限りに、きっぱりとやめたはずである。が、もしも盗癖というものが血統にあるのだとしたら――、知らぬ間に心のどこかに芽生えていたとしたら――、と、考えると、彼女は身も世もあられぬほど苦しくなった。


薄墨色の女


 警察から喚出よびだされた夢を見て、陽子は眼を覚ました。ガーゼの寝巻は汗で肌にはりついている。
 夫は起きて、新聞を読んでいた。何か出ているのではないか知ら、と思って、上目使いに顔色をうかがった。
「何だか、寝言を云ってたよ」
 ギョッとして、面を反向け心を落付けてから、何気なく、
「新聞に――、何か面白いことでも、出ておりまして?」と訊いた。
「ウム。『省電の通り魔』ッて題で、スリの一味が就縛された記事があるが、それを捕えた山梨刑事の写真が出ているんだ、この男、この間会社へやって来て、僕と暫時しばらく話したからよく知っているんだがね」と云って、新聞記事を読み上げた。刑事を知っているので、特別に興味を感じているらしかったが、陽子は何だか厭な気持ちがした。だが、黙っていても悪いと思って、
「山梨刑事ッて、どんな方?」
 とお世辞に訊いてみた。
「まだ若いが、なかなかの敏腕家だよ。庁内きっての美男子で、女のような優しい顔をしている、スリ仲間じゃ、鬼山梨で通っているそうだ」
「そんな奇麗な人を、鬼だなんて可哀想ねえ」
 陽子はその話をいい加減に打ち切ってしまいたかったので、枕時計を見て、
「あら! もう、八時過ぎてるわ」と吃驚びっくりしたように飛び起き、急いで寝室を出た。次の間の大きな姿見鏡に、彼女の顔が真青に映った。頭がずきずき痛む。
 夫が外出したら実家へ行って、春樹に相談しよう。こういうことは何人たれよりも、彼が一番よく理解してくれるだろう。助けてもくれるだろうし、きっと好い智恵も貸してくれるに違いない。
 彼女は心の苦しみをかくし、つとめて元気らしく装っていた。やがて夫を玄関に送り出すと、早速実家へ電話を掛けてみたが、兄はまだ起きていなかった。急用が出来たから、後刻行く、と云い残して、電話室を出ようとしたら、扉の前に女中が待っていて、
「奥様に、是非、お目に掛りたいと仰しゃって、ご婦人の方が、おいでになりましたが」と云った。
 陽子は何がなしに、ハッとして、
「何? ご婦人の方だって? お名前は?」
「仰しゃいませんが、お学校のお友達だから、お目にかかれば分りますって――」
「どんな方?」
「モダンな、お背のお高い、大きなお眼のお美しい方でございます。薄墨色のご洋装が、とてもよくお似合いで――」
 聞いているうちに、彼女の膝頭はガタガタと慄え出した。薄墨色の女! 背の高い、眼の大きな、あああの人だろう。三越の貴金属部で、自分と同じように指輪に見入っていたが、あれはお客さんではなかったのか知ら? 洋服部あたりには、よくああしたモダンな人を見受けるから、あの女もやはり店員の一人だったのかも知れない。と思うといよいよ不安になった。三越にしても梅田子爵夫人という身分に対して、滅多な真似は出来ないから、まず最初は穏かに話をつけようと、店員をよこしたのかも分らない。
 用件を訊かずに、知らぬ人と会ってはならぬ、という夫の日頃の吩咐いいつけも忘れて、名前さえ云わない、その未知の婦人を応接室に通させた。
「お茶だけでいい。ベルを鳴すまで、――来ちゃいけないよ」と我知らず、きつく云って、陽子は胸をドキドキさせながら、応接室のドアをさっと開けた。果して――。
 薄墨色の女は、にこやかに笑いながら一礼して、
「昨日は失礼いたしました。突然で――ぞ吃驚なすったでしょう?」
 と馴れ馴れしく云う。陽子は早く用件を云ってもらいたかったので、ただ、
「いいえ」と云って、微笑したぎり黙っていた。
 婦人は燐寸マッチを磨り、器用な手つきで巻煙草に火を点けた。何を云い出されるかとハラハラしながら、煙の行衛ゆくえを見ていると、薄墨色の女はやがて煙草の喫いかけをぐっと灰の中にさし込んで、
「突然、伺ッた用件、――奥様、――もうお分りでございましょう?」
 と意味ありそうな眼をして、にやりと笑った。
 陽子は唇を震わし、眼を膝に落して、
「何ですか、私には、――ちッとも――」と微かな声で答えた。
「あら、まだお分りになりませんの? 昨日、お預けしておいたものを――、頂戴に上ったんですのよ」
「?」
「オホホホ。とぼけていらっしゃるの? 奥様、お人が悪いのねえ。あのダイヤの指輪、――ポケットの中へ入れておいた――」
 彼女は一時に呼吸が止ったかと思うほど、驚いた。ダイヤの指輪は、この婦人のものだったのか。
「オホホホホホ。そんなに吃驚しないだッていいわ。貴女は何もご存じない。否え、何の罪もおありにならないんですのよ。あのダイヤは私が盗んで、ちょっと奥様のポケットを拝借したんですわ。私達仲間ではよくやることですが、――素人の方のをお借りしたのは、私、始めてです。どうぞ、返して下さいね」
 陽子は呆気に取られていたが、この女は三越の店員でも何でもなく、女掏摸すりだったのかと思うと、いくらか安心した。盗んだ人が分れば、もう自分に嫌疑がかかるはずもない。三越から何とか云ッて来たら、この婦人のことを話してやればいいんだ。
 彼女は指輪を返して、ホッとした。
 薄墨色の女は嬉しそうに、それを掌の上にのせて見惚れていたが、
「奥様、私なんかの手並に驚いていらッしゃるようじゃ駄目ですわ。明晩の舞踏会に無論ご出席なさるんでしょうが、あの観光団の中には世界的なスリの名人がいるんだそうですよ。非常な美人で、誰が見ても高貴な婦人としか思われないんですッて、――何しろ世界中のスリ仲間から、女王のようにあがめられているんですから、素晴しいじゃありませんか。私もせめて、一目拝みたいと思ってるんですが――」
 とすっかり隔てがとれて、まるで仲間同志に話しかけているような調子だった。
 あれほどまでに思い込んでいたダイヤだのに、どうしたものか、今はもうちっとも欲しくなくなった。返してしまってからは、反ってさばさばとして、心が軽くなる位であった。
 薄墨色の女が帰ると直ぐに陽子は実家へ行って、春樹に会い、昨夜からの出来事を話し、
「ダイヤを渡してやッたけれど、――大丈夫でしょうか、私、補助罪になりやしないかと思って――」
「現行犯でなければ大丈夫さ。尤も前科があれば別だけれど――、とにかくそれほどの女だ、心配はないよ。――そして、何かい、世界的の奴が観光団に交って来ているんだって? そいつあ愉快だな、その女を俺に紹介してくれないかなあ」と春樹は眼を輝かせて云うのだった。


世界的の名人


 観光団歓迎の大舞踏会は、グランド・ホテルの大ホールで開かれた。
 平松春樹は瀟洒しょうしゃたる服装で、美しく着飾った妹の陽子を伴い、会場へ急いだ。入口には主催者側の紳士淑女がずらりと十数名一列に並んで、来客を受けていた。陽子はちょっと気後きおくれがしたように躊躇ためらっていたが、兄を顧みて口早に云うのだった。
「皆さん、お立派で――、私きまりが悪いから、――はやく、このネックレースをとってしまって頂戴よ」
 春樹は苦笑して、
「馬鹿だなあ。だから、止せッて云ったんだ」
 と云いながら、ルビーと真珠をちりばめたネックレースの環を外してやった。
 陽子は春樹の先に立って、その列の前を通りながら、一人々々挨拶をした。中ほどのところまで来て、何気なく次ぎの女の顔を見た。彼女は驚いて足が竦んでしまった。それは昨日会った薄墨色の女ではないか、しかも、その左の指に煌々と輝いているダイヤ――、それは慥かに見覚えのあるものであった。スリがどうして主催者側の一人として立っているのだろう? 余りの不思議さに暫時棒立ちになっていると、先方から陽子の手を握って嬉しそうに微笑み、「昨日は失礼、――今晩はよくいらっしゃいました」と愛想よく云って、隣の夫人へ、梅田子爵夫人であると紹介した。春樹は妹の後にいたので、名も知らない薄墨色の女に握手もし、自己紹介もした。
 列を通り越してホールの中に入ると、陽子は周囲を見廻しながら、兄の耳に口を寄せた。
「大変ですよ。お兄さん。あの薄墨色の女はスリです」
「えッ、だって、主催者のリスイーヴング・ラインに立っていたじゃないか。人違いだろう、うっかりスリだなんて云うと大変だぞ」
「でも――、昨日は失礼と云いましたよ。確かに間違いではありませんわ」
「もしか、それがほんとうだとしたら、――痛快だな。――どんな女だか、僕はもう一度見てくる」と云って、止めるのもきかないで、また入口の方へ後戻りしてしまった。
 陽子は呆れて、兄の後姿を見送っていたが、軈て自分達のグループの方へ行った。
 春樹のシイクな風采とスマートな社交振りとは西洋人の気に入り、殊に若い女達の間には大もてだった。忽ち番組のカードは予約で一杯になった。
 せかえるような強い香水、甘たるい皮膚の香、柔らかそうな首筋、クリーム色のふっくりした胸、それ等は彼に何の刺戟も与えなかったが、ダイヤの魅力には時々自制の念を失うような、恐しい誘惑を感じた、春樹は宝石に眼を反らせて、ホールの中を踊り歩いているうちに、幾度も浮墨色の女と廻り合った。最初は黙礼を、次ぎには微笑を、終いには眼で合図するほど親しくなった。その眼がまたよく物を云う。偶然にバッタリ瞳が合う時など、春樹は身内がすくむような気持がした。日本人だろうか、西洋人だろうか、あるいは雑種児あいのこかも知れないが、いずれにしても不思議な魅力を持つ眼である。
 世界的のスリの名人、それがこの中にいるというのだが、皆立派な人ばかりで、怪しげな者は一人もいない、が、春樹はどうかして探し当てようと思いながら、次ぎから次ぎへとかわって行く相手の女に、注意深い眼をそそいでいた。
 十二時を打つと同時に、ドラが鳴って、食事を知らせた。デザートのフォークを置くともう音楽が始った。忙しい、と口小言を云いながらも、皆愉快そうに、ナフキンをテーブルの上に投げ捨てて、ホールへ馳せ参じた。シャンペンに元気づいて、ふらふらする足を踏みしめながら、春樹は薄墨色の女と踊っていたが、その次ぎの時には、銀髪の肥った貴婦人の手を取っていた、見るからに金持らしいこの人は、年にも似合わぬ派手なネックレースをしていた、大粒のダイヤがぶらりと胸に垂れ下って、これみよがしに光っている。
 酒の酔いが手伝って、すっかり大胆になっていた彼は、夢中に踊っているふりをしながら、背中に廻していた片手で、首筋に喰い入るようにめり込んでいる細い鎖をぐって環を外した、と、思ったら、するするとネックレースをポケットの中にべり込ませてしまった。銀髪の婦人はいい気持ちに踊っていたので、少しもそれを知らなかった。幾番か過ぎた後、フト胸のダイヤの失くなっているのに気がついて、騒ぎ出した。
 急にホール内がざわめいて、困惑したような青い顔の支配人は、銀髪の婦人を別室に伴って行った。
 何事だろう? と次ぎから次へ、訊いたり答えたりして、噂は忽ち拡がった。貴婦人達は各自に云い合せたように、自分の宝石が失われてはいないかと、改めてみた。
「シャンペンに、大分酩酊していらしたから」
 と一人が云った。
「どこかに、落したんじゃないでしょうか」
「いいえ。盗まれたんですのよ。あの方、米国の大金持なんですってねえ」
 舞踏会はすっかり白けてしまった。


ネックレース


 ネックレースの紛失で大騒ぎをやっている頃、平松春樹は地下室のバアで愉快に酒を飲んでいた。彼は何となく嬉しくってたまらなかった。ボーイを掴まえては冗談を云ったり、酒を注いでやったりしていたが、相手がいなくなると急に淋しそうに、ぽつとして、ちびり、ちびりと飲みはじめた。すると後に軽い靴の音がして、薄墨色の女がすいと入って来た。
「ラム酒を頂戴!」と云って、どこに腰掛けようかというように、ボックスを眺めていたが、ふと彼の顔を見るとにッと笑って、いそいそと傍へやって来た。春樹は慌てて半席を譲った。
「お一人でこんな処にいらしたの? いつホールを脱け出しておしまいになったか、私、ちっとも知らなかった。ご一緒に飲むお約束をなすったくせに、おいてきぼりするなんて、酷い方ねえ」
「くたびれちゃったから――、少し休んでまた行く積りだった。酒でも飲んで、元気をつけてね、――さア、どう? もう一度僕と踊らない?」
 女は吃驚したように、
「まあ、あなた、何もご存じないの? もう舞踏会はお終いになっちゃったんですよ。悪い奴がいて、銀髪の奥さんのネックレースを掏ッたんだそうですわ。ホールの中は、いま、その事で大騒ぎしているの」
 春樹はプッと吹き出して、
「誰がやッたんだろうな。またどこかのポケットにでも入れてありゃしないか知ら?」
「オホホホ、お妹さん、もう話しちゃッたのね、いやだわ」と女は笑いながら、大きな眼で睨んだ。彼はちょっと真面目になって、
「だが――。あの話は少し変だね。僕は妹から聞いて、直ぐ三越に電話で問い合せてみたが、ダイヤは一つも紛失して居りませんッて云ってたぜ」
「それや不思議はないわよ。三越のダイヤなんかに手をつけやしませんもの。ありゃ私が持っていた偽物ですわ。それを使ったのよ」
「用意周到だなア。しかし、偽物を返してもらったって、儲からないじゃあないか」
「あの場合は目的が別にあったから、儲けなくってもよかったんですわ」
「どんな目的?」
「あなたにお会いしたかったからよ。お妹さんに御紹介して頂こうと思ったの、そのためにあんな苦労して、狂言まで書いたんですわ」
 春樹は少しくすぐったかったが、それでも悪い気持はしなかった。
「今夜は君の話につられて来たんだが――、世界的のスリなんて、どれがそうだか分りゃしない。失望しちゃったよ」
「まあ! 妙な事に興味をッてるのね。世界的の名人って、大抵知れてるわ。私なんかの眼から見りゃ――」と云いながら、ちょっと起ち上ったが、どうした拍子にか靴を辷べらせて、危ぶなく前へのめりかけた。彼は中腰になって、肩を支えてやった。彼女は起ち直ると顔を赤くしながら、
「これは、――私が頂きましたよ」と云ッて、彼の掌の上に、冷めたい、シャリッとしたものを載せ、「ダイヤのネックレース!」と力をこめて云った。春樹は胸がドキンとした。夢中でそれを睨んだ。薄墨色の女は誇らしげに細い鎖を撮み上げていたが、低い、小さい声でアッと叫んだ。それはネックレースには違いなかったが、ダイヤではない、ルビーと真珠を鏤めたもので、銀髪婦人のと似てもつかぬ安物であった。春樹は顔を赤らめ、それを奪い取って自分のポケットに押し込み、
「生意気な真似をしやがる、だが、これは俺のものじゃないんだ」
「じゃ、誰のものなの?」
「妹のさ。陽子の奴、俺が止せって、あれほど云うのもきかないで、こんな安物を首にぶら下げて来たもんだから、ホールの入口まで来ると恥しくなって、とってしまい、俺に預けたんだ」
 彼女は失望のいろを顔に浮かべながら、苦笑いしていた。
「しかし、君もなかなか凄い腕だね」とつくづく感心したように云ったが、急に舌打ちして、
「だが――、忌々いまいましいなあ、俺は今まで人にやられた事は一度もなかったんだのに――」
「それや仕方がないわ。相手が私だもの」
「何だって?」
「世界的のスリの名人を向へ廻しちゃ、いくら平松の若様だッて、かないッこありゃしない」
「フム、やっぱり君だったのか。多分、そんな事ちゃないか[#「そんな事ちゃないか」はママ]と思っていた。しかし、観光団で豪いスリがやって来たって事は大分評判らしいぜ。余り警察を甘く見ていると取っ掴るぞ」
「大丈夫だわよ。警察で躍起となって捕えようとしていても、私はこの通り、平然と、大東京の真中を大手を振って歩き、ダンスをやって遊んでいるじゃないの。私の好きな蛇のように、捕えようとしても、するすると辷べり出て逃げっちまうんですからね。警察の網の目は私には少々大き過ぎるんですよ」
 彼は気を呑まれて、ちょっと返事が出来なかった、女は急に今度は調子を変えて、
「私のような世界中をまたにかけた、あばずれ者でも、生れ故郷の恋しさには変りがないんですのよ。だから、こっそりと観光団に交って来ましたのよ。今度の帰朝は商売ばかりが目的ではなく、よそながら母や妹達を見ようと思ってやって来たんです。――だって、公然と会うことが出来ないんですもの、可哀想じゃない? 父は非常に厳格な人ですから、私の姿を見たら容赦なく捕えて警察へ突出すでしょうよ。親の手を振りきって逃げる勇気はないから、最初から会うことは断念めて、遠くから、みんなの姿だけを眺めて喜んだり、悲しんだりしているんですわ」と云って、少し打ち萎れた。春樹はその話を聞いているうちに、この女が何だか可哀想になった、しかし、また考えると癪に触る、この俺の持物を掏った奴だ、と思うと憎くて堪らない、何人よりも勝れていると信じていただけに、彼は非常な屈辱をさえ感じているのであった。
「君の手腕には全く感心した。世界的の名人と云れるだけある、実際スゴイもんだ。が、俺だって、そんなに馬鹿にしたもんじゃないぞ。俺には親分もなければ、仲間もない。誰に教わったのでもないんだが――」
「それやそうでしょう。私の仲間中で、平松子爵の若様ッて云ったら、知らない者は一人もありませんからね。どの程度の腕だかは知らないけれど、相当なもんだッて事は分ってるわ。でも――、現場を見ないんだからねえ」
「じゃ、見せてやろうか」
「オホホホ。そんなに己惚うぬぼれると失敗するわよ。耻を掻かせるといけないから、今日はおあずけにして、またこの次ぎ見せて頂きましょう」
「そんなことを云うなよ。是非、一つ見てもらいたいんだ」
 女の手首を掴んで、起ち上った。


現行犯


「まあ、手近かなところ、どこでもいい」
 春樹は気が進まないらしい様子をしている女を、引立てて歩いた。
 折柄ホテルの玄関は、舞踏会の客が帰るので大混雑だった。彼は興奮した顔をして、人を推し分けつつ、物色していた。
 夜会服を着た一人の貴婦人が、自分の自動車を眼で探しながら、夢中になって延び上っているのを見た。春樹はその背後に近づき、ちょっと突当るや、目にも止まらぬ早さで、ダイヤのピンを抜き取り、しっかと握ったままその手を外套のポケットに突込んだ、それと同時に、彼の利腕ききうではぐいと掴まれた。ハッとして振り返ろうとする耳許に、恐ろしく底力のある太い声で、
「君の名誉を思って――、この場は穏かにしてやるが――」
 いやに横柄な物云いだ。しかも声の主は薄墨色の女ではないか。春樹は狼狽した。
「神妙にしろ!」
 冷めたいものが彼の背筋を走った。女はぐっと睨んで、鋭く、云い放った。
「現行犯だ!」
「エッ!」
 があんと頭をひとつ、玄翁げんのう殴打なぐられたような気がした。彼はよろめきながら、女の顔を正面からじッと見据えた。
 薄墨色の女は巧みな変装を解いた。
「あっ。鬼山梨!」
 女装の人、それはスリ仲間で一番怖れられている、山梨刑事であった。





底本:「大倉※(「火+華」、第3水準1-87-62)子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 一三巻三号」
   1937(昭和12)年3月号
初出:「キング 一三巻三号」
   1937(昭和12)年3月号
※表題は底本では、「ふくろうの眼」となっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード