情鬼

大倉※[#「火+華」、第3水準1-87-62]子





「小田切大使が自殺しましたよ」
 夕刊をひろげると殆ど同時にS夫人が云った。その瞬間、私の頭の中をすうッとかすめたある影――、それは宮本夫人の妖艶な姿であった。
 小田切大使の自殺に宮本夫人を引張り出すのはちょっと可笑おかしいが、私の頭の隅に、二十年前の記憶が今なお残っていたからであろう。
 その当時は小田切大使も宮本夫人もまだ若かった。少壮外交官の彼と彼女とは到る処で話題の種をまきちらしていた。そして二人の関係は公然の秘密として余りにも有名であった。宮本夫人は器量自慢で、華美はで好きで、才子ぶるというのでとかく評判がよくなかった。大会社の支店長代理という夫の地位を笠にきて、横暴な振舞をすると云って、社宅の婦人達の反感を買い、何も知らない宮本氏へ夫人の不行跡を洗い立てて、密告した者さえあった。それがために宮本氏は憤死したとさえ伝えられているが、実際は任地で風土病にかかって死んだのだった。
 両人の関係を承知の上で、大谷伯爵が自分の愛嬢まなむすめを小田切氏にった。この結婚がまた噂の種になった。必ず小田切時代が来ると伯爵が断言したとか、真実ほんとか嘘か分らないが、いずれにしてもその予言が当って、その後小田切氏はとんとん拍子に栄転した。
 それはとにかく、小田切氏の結婚と同時に宮本夫人に、好感を持たなかったある一部の連中は、いい気味だ、絶世の美人も伯爵令嬢という肩書には美事背負投げを喰わされたではないか、と云って嘲笑した。しかしそんな噂も一時で、やがて二人の問題も口にする人がなくなり、後には宮本夫人の存在すら忘れられてしまった。
 そういう記憶があるので、私は小田切大使の自殺と聞いて、直ぐ宮本夫人を聯想したわけなのである。
 新聞には最初自殺とあった。それからまた一時他殺の疑いが濃厚となり、種々な臆測が伝えられて、世間を騒がしたが、結局自殺と確定された。
 自殺に撰んだ日が亡き夫人の一周忌にあたり、しかも夫人の写真を懐に抱いていたというので、私は最初から自殺説を主張していたが、S夫人はそれに対して別段反対説を唱えるでもなく、といって私の意見に同意した様子もなかった。
「あすこは任地から云っても重要な処ですからね。小田切さんとしてはほんとに働きばえのする、腕のふるいどころでしょう。外交官としては面白い檜舞台。そこへ撰ばれてやられたんですから、あの人としては今が最も華やかな時代だと云っても差支ありますまい。その得意な時に、ただ奥さんが恋しい位の理由で自殺するなんて、そんな馬鹿々々しいこと考えられないけれどね――」
「じゃ他殺だとお思いになりまして?」
 S夫人とは違って私は直接小田切大使を知っていた。豪気な才物だが、また一面には情にもろい、涙のある優しい人だった。おまけに亡き夫人とは思い合った間柄だったとも云われるし、あの人だからこそ自殺したのだろうと私には思われるのだが――。
「他殺と断定するわけでは無論ないんだけど、しかし自殺とすれば何かそこにもっと深い原因があるわけでしょう。一時的発狂とも考えられないことはないけれど、小田切さんはそんな人じゃないでしょう、冷静な、落ちついた人だという評判だから」
「でも、また半面には熱情家でもあったんですの。だからこそ宮本夫人ともああした関係にちたんではございますまいか?」
「それはそうかも知れないんだけど、自殺とすれば他にもっと重大な問題が必ずあると思いますね。例えば外交上の失敗だとか、秘密書類をどうかしたとか、また本省の意見なり命令なりに無理がある場合、それを承知で横車を押さなければならない場合もあるでしょう。そんな時いつも貧乏くじをひくのは外交官ですわね。日本と外国との間に板挟みになって、散々非道ひどい目にあって悶え苦しんだ揚句が神経衰弱。心ない人からは無能呼ばわりをされる。さもなければたちの悪い婦人関係か、とにかく外交官には秘密が多いから、そうそう単純に片附けてしまうわけにはゆきませんよ。他殺だったら興味があるから新聞にもいろいろ書き立てられるでしょうが――」
「自殺となると地味ですから、余り新聞でも騒がないと仰しゃるんでしょう?」
 夫人は私の顔を見て苦笑した。
 それきり二人は小田切大使の自殺については話し合わなかった。
 忙しい仕事に追われている私は遂々とうとう告別式にさえも行かれなかった。それがまた気になるので、恰度半日ばかり閑が出来たのを幸に、急に墓参を思い立った。
 時候のいい頃だからいいようなものの、朝から荒れ模様であった空が、午後には暴風雨あらしとなった。荒れ狂う風雨あめの音を聞くと出足もしぶり勝となるが、やっと勇気を出して出かける決心をした。
 ひどい荒れで、雨は横なぐりに円タクの窓に打ちつけた。そのしぶきを浴びて、座席のクッションまでしっとりと湿ってきた。私は運転台と座席の間に洋傘こうもりを広げて立てかけ、そのかげに小さくなっていた。電線はうなり、大木は風にしなって今にもへし折れそうだ。こんな日に出歩く物好きな人もいないと見えて、甲州街道は人一人歩いていない。トラックに一度行き違ったきり、円タクなどは影さえ見えなかった。
 墓地の入口には両側に茶店が並んでいた。その一軒の前に車を停めて、
「小田切大使のお墓はどこでしょうか?」
 と運転手が窓から首を出して訊いてくれた。
「まだお墓はありませんよ。事務所へ行ってよく訊いてごらんなさい」
 長火鉢の前にいたお神さんは、煙管キセルで事務所の方向を指しながら、親切に教えてくれた。
「お参りなら、管理事務所に頼んで、納骨堂に案内しておもらいなさるとよござんすよ」
 教えられた通り、管理事務所のドアを開けた。机を前に調べものをしていた管理人に来意を告げて納骨堂への案内を頼んだ。洋服を着た管理人は無言で立ち上って金庫から合鍵を取り出し、先に立って案内してくれた。納骨堂は別棟になっていて、椎や樫の老樹の間に、まるで土蔵のような形に建てられてあった。コンクリートの長い廊下を伝って、入口の方へ曲ろうとした時、参詣をすませて帰るらしい若夫婦と擦れ違った。
 女の方は小造りで、目立たない極くありふれた格好の人だが、男の方は素晴らしく奇麗だ。痩せ形で西洋人のようにスーツがしっくりとよく身についている。いい姿だな、と思わず振り返って見ると、先方の二人も同じように振り向いて見ていた。どこかで見たような顔だがどうも思い出せない。この頃の若い連中には美しい人が沢山あるが、こんなにすべてが整った人は多くはないだろう、黒い大きな眼鏡がちょっと邪魔になるが、上品な顔だちと、貴公子らしい風采とはいつまでも眼に残った。何んて奇麗な男だろう。
 小田切大使の遺骨は黒い布に覆われて、ガラス戸棚の中段に安置されていた。その前には黒いリボンを結んだ小さな造花の花輪が供えてあった。私はそこにひざまずいて祈祷を捧げた。



 それから一ヶ月ばかり過ぎたある日、事務所に働いて居る私の処へ、給仕が一葉の名刺を持って来た。
 小田切久子と書いてあるその名刺をS夫人に示しながら云った。
「小田切大使の令妹いもうとさんでございますの」
 もうこの頃では小田切大使の死も世間からそろそろ忘れられかけていたし、自分達の間でさえも、自殺か他殺かなどと問題にしなくなっていたので、この突然の訪問はちょっと妙な感じを与えたのだった。
「こちらにお通し申して下さい」
 給仕の後について久子さんは静に部屋へ入って来た。
 十数年振りで会った彼女は、昔の面影もなく、痛々しくやつれて、この人も今に死んでしまうのではあるまいかと、ふとそんなことを思いながら、一通りの悔みを述べて後、来訪の用件を訊いてみた。
「あなたがこういうお職業しごとをしていらっしゃるという事を承わっていましたので、実は急にお力を拝借したいと思って突然御都合も承わらずに伺いまして――」
 と軽く頭を下げてから、急に声を低くして云うのだった。
「極く秘密に、世間に知れないように、調べて頂きたいことが出来まして、実はそのお願いに上ったのでございますが――」
 久子さんはちょっと言葉をって、気兼ねするように傍のS夫人を見た。彼女はそれと気がついて、
「御心配なく、どうぞ。決して他人に漏らすようなことはございませんから」
 と云われて安心したらしく見えたが、それでもなお四辺あたりを憚かるような小さな声で語るのだった。
「実は妙なことなんですの、兄の遺骨が誰かに盗まれたらしいのでございます。いいえ、盗まれたらしいと云うよりもすりかえられたのではないかと思われるんですの」
 夫人と私は思わず顔を見合せた。
「それはまた、どういうわけなんですの?」
「おはずかしいお話ですが、兄はあの通りの無頓着な人だったものですから、まだ墓地がなかったんでございます。昨年あねが外国でくなりました時は、取敢えずおこつを嫂の実家の墓地へ同居させてもらっておきましたが、この度兄と一緒にまつることにいたしましたので、小田切家の墓所を新たにつくることになりまして、かろうとしらえます間、一時、遺骨をお預けしておいたのでございます」
「納骨堂へは先日私も御参りしましたのでよく存じて居ります」と云うと久子さんは丁寧におじぎして、感謝の意を表してからまた続けて、
「それで私共は安心して居りました処、十日ばかり前に、知らない名の女の人から書面が参りまして『お兄様のお遺骨は私が頂戴いたしました。御生前からのお約束でございますから、お預りいたして大切にお守をすることにいたしました。何卒御承知置下さるようにお願いいたします』と藪から棒にこんな事を申して来たんでございますの。私は驚いて、早速墓地管理事務所に参り、いろいろ調べてみましたが、お預けしてある骨壺には何の異状もなく同じ場所に安置されてあるのでございます。それにあれほど厳重になって居りますので、そんなことの出来るはずもないとは存じますが――、また戯談いたずらにそんなことをわざわざ申して来る人もあるまいと思いますので、念のため、お参りにいらして下すった方々の事を詮議してみましたが、その中にちょっと妙に思われる方が一人ございました。いつぞや暴風雨の日がございましたね。二十日ばかり前になりますが――、あの日、あの荒れの真最中に御夫婦連れの方がお見えになって「小田切の親類の者だが、今日故郷くにへ帰るについて暇乞いとまごいかたがた参詣に来た、是非納骨堂に案内して欲しい」と申したそうでございます。そこで係りの人はその夫婦者を案内しますと、旦那様の方は入口の扉のところに立っていて管理人と話していたそうですが、奥様は一人で中へ入り遺骨の前に跪いて、長い間すすり泣いていられたと申します。それがまた余り長いので、しまいには旦那様が退屈なすって、欠伸あくびをしながら、煙草を御自分も喫み、管理人にも一本下すったそうでまたその煙草が外国製のものらしく、とても堪らないい香がしたが、吸っているうちに何だか少し頭がぼんやりしてきて、いい気持ちに眠くなった。何という煙草だろうと後で同僚に話したそうでございます。私もそのお人に会ってお訊きしてみましたが、はっきりした記憶はないらしく、ただ旦那様という方は非常な美男子で、女のようにきゃしゃなほっそりしたお人だったということと、これから直ぐ汽車に乗るのだと云って、大きな荷物を持っていられたことだけは分りました。何分にもあの暴風雨の最中なので、荷物の置場に困り、納骨堂の入口に持って行ったそうでございます。しかし私の方ではそんな方にはどうも心当りがなく、むろんそんな親類もございませんので――」
「じゃ、その御夫婦のどっちかが、お兄様のお遺骨をすりかえたらしい、と仰有るのでございますか?」
「どうもそう思うより他には心当りがございませんものですから、でもまるで雲を掴むような話で、何人だれかの悪戯かとも思うのでございますが――、でも万一ほんとにすりかえられたものとしましたら、どんな事をしても取り返さなければ兄へ対して申訳がございません。知らない他人様のお遺骨を葬って、肝心の兄のは行方不明では大変でございますものね」
 久子さんは帯の間をさぐって、見知らない婦人の手紙というのを出して見せた。



 S夫人と私は早速墓地管理事務所を訪ねた。事務所では夫婦者が暴風雨の日に参詣はしたが、預ってある遺骨には断じて異状はないと頑張って、しまいにはこちらの問にも答えず、てんで相手にもなってくれなかった。
 秘密に取り扱ってもらいたい、世間に知れるのが嫌だという久子さんの依頼もあるので、この上押しきって調べるわけにもいかなかった。
「遺骨をすりかえるなんて常識じゃ考えられませんわ。誰かの悪戯じゃございますまいか?」
「悪戯としたらちょっとうまい思いつきよ、どうも女の考えらしい。盗んだと云えば第一遺骨が紛失するので、直ぐ知れてしまうんだけど、すりかえたと云うんだと内容だけが変ってる事になるから、お骨には何の証拠もないし小田切さんの妹さんだって迷うわね」
「管理人に突撥ねられたから云うわけじゃございませんが、すりかえるなんてそんなこと、なかなか出来やしませんわ」
 納骨堂の扉を開けてもらうのさえ随分面倒だったあの日の事を思い出して、私は云ったのだった。
 それなり二人は無言のまま歩きつづけていたが、暫時しばらくすると、夫人は突然こんなことを訊いた。
「あなたの知ってらっしゃる宮本夫人というのはどういう人で、今はどうしていられるの?」
「それは美しい人でございますよ。しかし顔に似合わず大胆で押しが強くって、負けず嫌いで、性質はいい方じゃございません。悪くいう人はあれや毒婦だなんて申しましたからね。でも今はどうしていますか、御主人が亡くなってから、幾度も結婚したという噂を聞きました。小田切さんもあの人には随分悩まされたろうと蔭では皆同情していましたの。何しろ評判のよくない人でしたから」
「小田切さんの妹さんは宮本夫人とお兄様との関係を知らないんでしょうか?」
「知っておりましょう。でも利口者だから。黙っているんじゃございませんか」
「居所判ってるか知ら?」
「さあ、いかがでしょう。名前も変っておりましょうし、何でも落魄して満洲に行き、支那ゴロと同棲してるなんて話も聞きましたから。しかしそれも、もう大分前のことでございますわ。今はどこにどうしていますか、無論内地ではないでしょう。でもあの勝気な女のことでございますから、小田切さん御夫婦の仲のいい評判なんかが耳に入ったら、それこそじっとしてはおりませんはずですのに、一向表面にあらわれて来ない処をみると、事によったらもう死んじまっているかも知れません、とにかく小田切さんとはあれっきり全然交渉はなかったんだろうと私は思って居ります」
「じゃ宮本さんのいた会社に問合せても無駄でしょうかね?」
「人事課でも最早もう分らないかも知れません。何しろ姓が幾度も変っておるのでしょうし、それにあの会社とは今は何の関係もございませんでしょうから――。それよりは、むしろ久子さんに直接あたって訊いてみた方がかえって何かの糸口がつかめるかも知れませんわ。あんなに仲のよかった兄妹きょうだいなんですから、お兄さんのことは何でも知っていましょうと思いますが」
 夫人は前々から宮本夫人には興味をっていた。勿論本人を知っているのではないが、想像力の強い人だけに、世間の噂さだの、私から聞いた話だのを集めて、一人の宮本夫人を造り上げていた。しかしこの事件に何も関係のない、彼女を引きずり出して来る夫人の気持はどうも分らなかった。たぶん彼女をつっついたら、何かしらぐり出す方法があるかも知れないという位の考えなのだろうが、今頃こんな人を、ほじくり出した処で、どうせ何も出やしないと思ったので、私は余り気乗りがしなかった。しかし夫人の案内役として久子さんを訪問することは拒めなかった。
 久子さんは一度嫁いだが、不縁になって戻って来てから、小田切さんの留守宅を預って、番町の屋敷に伯母さんと二人で暮らしているのだった。
 宮本夫人と聞くと、久子さんは急に眉を曇らせた。兄の昔の過失あやまちを今更明るみへ引き出されて、詮議だてされることは辛かったのだろう。
「宮本さんは兄が亡くなりました時でさえも、まるっきりお姿をお見せになりませんでしたし、お噂もとんとお聞きいたしませんから、私は何も存じませんの」
「では、他に何か御婦人のお心あたりはございませんでしょうか?」
「それが一向ございませんので――。兄は以前はともかくも、嫂と結婚いたしまして後は、ほんとうに真面目だったんでございます。嫂の死後は一層身を謹みまして、只管ひたすら嫂の冥福を祈って居りましたのですから、たとえ人様が何と仰しゃいましても、兄には婦人関係などなかったと存じますの」
 夫人は幾度もうなずいて後、ちょっと云い憎そうにいうのだった。
「失礼ですが、お兄様の日記のようなものはおありになりませんでしょうか?」
 久子さんは席を立って出て行ったが、間もなく鼠色の厚いノートを手に持って入って来て、夫人の前にそれを置きながら云った。
「心覚えに書いておいたものらしゅうございまして、ちょっと読んでみましたが、何のことだかさっぱり分りませんのよ」
 日記は日本語と仏国フランス語と半々位に書かれてあった。夫人を失った悲しみが胸を打つらしく、至る処に悲痛な歎きが見出される。ある時は夫人の後を追うて、死を切望するらしい文字もあった。私は小田切さんを知っているだけに、彼の心中を思って涙ぐましい気持になった。過去の古疵から何を探り出そうとするのだろうか、夫人の冷めたい態度に思わず軽い反感をいだいた。この上死者の心をきずつけたくない、汚したくない。しかしそんな気持などにはまるで頓着なく夫人はノートを久子さんに返しながら云うのだった。
「おついでにアドレッス・ブックも拝見出来ないでしょうか?」
 久子さんはまた立ってアドレッス・ブックを持って来た。
 夫人は頻りにページを繰って何か探し求めている容子ようすだったが、軈て見つかったものと見えて、自分の手帖を出して書き留めていた。私は何気なく覗き込んでみると、それは吉岡五郎という人の宿所であった。



「吉岡五郎さんと仰しゃる方は?」
 夫人は自分の手帖を納めながら久子さんに訊いた。
「吉岡さんは兄の秘書官でしたの」
 そう云って、何故か久子さんはちょっと顔を赤くした。
「秘書官? と仰しゃるとやはり外務省の方でございますね?」
「いいえ。兄個人のですから外務省とは全然関係ございません」
「ではお兄様個人の秘書?」
「はい。そうなんですの。吉岡さんは面白い方で、個人の秘書ではねうちがないからって、御自分の事を秘書官、秘書官って仰しゃいますのよ。吉岡秘書官がなどとね、無論御冗談にですが、それで私達もつい口癖になってしまいましてあの方のことを秘書官と申しますの」
「じゃあお役人さまではありませんのね?」
「はい。それに今度あちらから帰朝いたしました時、初めて連れてまいった人でございます」
「その方、只今でも時々見えられますか?」
「いいえ、兄が亡くなったものですから、自然用事もなくなり、それに伯母がやかましくって――」
「伯母様が?」
「はい。吉岡さんはお美しい方だものですから、ああいう方がいつまでもいらっしゃると目立つからなどと申しましてね」
 なるほど久子さんは今独りでいるので、世間の誤解を恐れる。そこで伯母様が心配されるのだと分った。
「吉岡さんはお兄様のお気に入りでしたか?」
「はい。大変気に入って居りました。テキパキした方だものですから。それに頭がよくって、語学が達者なので調法だと申して居りました」
「じゃ何かお考えがあって、特に目をかけていらしたというようなことはございませんか、たとえばあなたとご結婚でもおさせしようとか――」
 久子さんはびっくりしたようだった。
「いいえ。そんな事は決してございません。兄は吉岡さんと私とが接近するのさえ余り好みません位でしたから」
「吉岡さんはどこに住んでいらしたんです?」
「宅の離室はなれをおかしして上げていました。こんどの兄の滞在は余り長くない予定でございましたので――」
「お兄様が日光でお亡くなりになりましたのはたしか午前二時だったと思いますが、その当日やはり吉岡さんはお兄様とご一緒に日光においでになったのではありませんか?」
「いいえ一緒ではございませんでした。そしてあの方が外出先から帰っていらしたのは夜分の十一時頃だったと思いますの。忘れもしませんが、あの晩吉岡さんは非道い胃痙攣いけいれんを起して大騒ぎいたしました。それからずッとお体が悪るくって、兄の告別式にさえお出になられませんでしたの」
「只今でもお音信たよりがございますか?」
「もうさっぱり――」
「いつ頃あちらへ帰られました?」
「兄の告別式がすんだ翌日でございます。もともとあちらから連れて来た人なんですから」
「でもあちらがお故郷くにというわけでもないでしょうにね?」
「何ですか吉岡さんは男には惜しい、余り美し過ぎるといつぞや伯母と私が噂していましたら、兄がそれを聞いて、支那人の混血児にはどうかするとああいうタイプの美男子があると申していましたから、もしかすると混血児なのかも知れません」
 それだけの事を訊いて、二人はひとまず小田切邸を辞した。
「吉岡って人、何だか臭いじゃありませんか?」
 S夫人は私の問いには答えないで、頻りに何か考え込んでいたが、
「これからちょっとわきへ廻ります。あなたはお先へ事務所へ帰って待っていて下さい」
 そう云い捨てると通りがかりの円タクを拾って、さっさと車の中へ入ってしまった。
 私は命令通り事務所へ帰って、夫人の帰りを待つ間に、自分の考えをまとめてみようと思ってノートへ書きつけた。
 まずこう考えてみる。
 吉岡五郎。年齢不明。イタリー人あるいはスペイン人と支那人との混血児。頭はいいが素情のよくない人。才智にけた美男子。
 まず小田切大使に取り入り、令妹と恋仲になる。勿論それは最初からの予定の行動で、結婚とまで運べばもうしめたもの、財産も分けてもらえるだろうし、失業の怖れもなさそうだ。そこで吉岡は腕によりをかけて久子さんを弄落にかかる。処が肝心の兄さんが賛成しない。吉岡の才能は愛するが、妹の夫として撰ぶ人物ではないと思っているらしいと吉岡が感づく。そこで彼には小田切氏が邪魔になってくる。
 事によるとこれは自殺ではないかも知れない。支那人などがよく用いる巧妙な手段で、殺害されたのではあるまいか。支那人には残忍性があるから、その血をひいているとしたら、自分の目的を達するためには、どんな悪辣な方法でもやるだろう。だからこそ大使が死ぬと早速故国へ引揚げてしまったのではないか。ほとぼりをさましてから素知らぬ顔で小田切家にまた現れてくるに相違ない。もしかするとその秘密の一部を久子さんも知っているのではあるまいか。そこまで考えると何かしら彼女の身辺にも暗い翳があるように思われる。恋のためには親を殺す者さえある。久子さんが吉岡の話をする時の態度から察しても、大分両人ふたりの間は進んでいるようだ。小田切大使がどうしても二人の恋を許さなかったとしたら?
 私はすっかり吉岡を犯人にでっち上げて考えている処へ、忙しそうに階段を昇って来る夫人の足音がした。



「さあ、これから吉岡五郎さんを訪問するんですよ。あなたも一緒に行らっしゃい」
 夫人は荒原の女豹が獲物を捕える時のように生き生きとした眼を輝かせながら、私をれて外へ出た。私はちょっと狐につままれたような気がした。
「吉岡五郎さんは支那へ帰ったんじゃございませんの?」
「いいえ、東京にいるんですよ」
「もうやって来たんですの?」
「ずうっといるんです。支那へ帰ったなんて嘘ですよ」
 夫人は先に立って円タクを交渉し、京浜国道を驀地まっしぐらに大森の方へ走らせた。
 途々みちみち夫人はこんなことを云った。
「小田切さんの妹さんの処で日記を見たでしょう? それから吉岡って人怪しいと思ったんですよ。あの日記で読むと大使は死ぬ日の夕方吉岡さんを連れて中禅寺湖から日光へ歩いたんです。二人で山越しをしながら云々うんぬんという処があったんですもの――」
「でも、どうして今までそれが問題にならなかったのでしょう? 日記があったなんて事はどの新聞にも書いてございませんでしたがね」
「日記は持ち去った人があったのでしょう。よしんばその場に日記があったとしても他人には解らないでしょう。特殊の文字が使ってありますから、つまり暗号なのですが私は幸いそれを知っていましたからね、まあ吉岡さんに会ったら、何かもっと新らしい発見があるだろうと思うんです」
「じゃやっぱりあの人が犯人なんでございますか?」私は内心いささか得意だった。
 二人は大森のBホテルの玄関で車を乗り捨てた。そして夫人は私を入口に待せたまま受付の中へ入って行った。
 やや少時しばらくすると戻って来て、こんどは玄関とは反対の裏口から庭へ廻った。日はすっかり暮れてしまって四辺はもう暗かった。大きな番犬がどこからか出て来て、迂散臭うさんくさそうに二人の後をついて来る。二人は植込みを抜けて広い芝生の上を歩いた。芝生は露に濡れていて、着物の裾がしめっぽくしっとりとなった。
 私は夫人のうしろに従って足音を忍ばせながら、建物の一番端れの方へと近づいて行った。そこの庭に面した一つの窓にはまだブラインドが下してなかった。しかも電気がついているので室内は一目でよく見えた。長椅子、安楽椅子、壁掛まで全部同色の鼠色で、寄木細工の床の上には処々にペルシャ絨氈じゅうたんが敷いてある。あるものは正方形に輝き、あるものは細長くあたかも蛇の背のように冷めたく光っている。光線の加減だろうか、硝子ガラス越しに見るせいだろうか、部屋全体の感じがまるで水の中のように思われた。
 次のへやへ通ずる扉が半開きになっていて、どこからさし込むか、月の光が蒼白く照らしている。その月の光を上半身に浴びてしどけなく座っている女の姿があった。少し離れた処にモーニングを着た男がこっちを向いていかにも行儀よく、俯向き加減になって、深々と安楽椅子に腰かけていた。私は息もかずに延び上って見ていた。やがて女は膝頭でいざり始めた。まるで蛇のような曲線美を描きながら、男の傍にすりよってズボンの膝に両手を置いた。その片方の手には何か小さいほの白い棒のようなものを持っていた。女は最初しきりに何か掻きくどいていたが、男がてんで相手にもしないので、しまいには男の膝に顔を伏せてしくしく泣き出した。泣きながらこんどはその小さいほの白い棒に頬ずりしたり、唇をつけたり、はてはぴしゃぴしゃとしゃぶり出した。しかし相手は一向無表情で身動き一つしない、同じ姿勢を崩さずにちゃんとしているのだ。
 その時、女は何気なくふと私達の立っている窓の方へ振り向いた。細面の鼻の高い、素晴らしい美人だ、その顔が誰やらに似ている。誰だったか知ら? 誰だろう、と思った瞬間ふっと思い出した。宮本夫人! ああそうだ、宮本夫人だ、確実たしかにそうだ。と思うと同時にこんどは男の顔も思い出せた。小田切大使! 思わず声を立てようとした。と、柔かい夫人の手が、つと私の唇を押えた。
 宮本夫人はするすると裾を引きずって二人の目の前まで歩いて来た、私はもう息が詰りそうな気がした。しかし幸にも彼女は窓の外から隙見していることなど全く気がつかないようだった。静かに私達の目の前のブラインドを降し、スウィッチをひねって電気を消した。多分ブラインドを降すことを忘れていたために来たものだろう。
 私は夢から醒めたように深い太息といきをつくと両手で頭を押えた。私は気が狂ったんじゃないか知ら、しかしたしかに宮本夫人を見た。小田切大使を見た。この目で見たんだから間違うはずはない。でも、そんな事があり得ようか、もう一度見直したいと思うが、もう次の間との境の扉も閉められたので、室内はのぞき見るよしもなかった。まるで妖気に打たれたとでもいうような、無気味な感じがして、今見たもののすべては夢であったような気もするのだ。
 ぼんやりしている私を見て、夫人はにこにこしながら云った。
「慥かに宮本夫人だったでしょう?」
「はあ、それは慥かにそうですけれど――、でも。まあ、どうしてあすこに小田切大使までがいらしたんでしょう?」
「オホホホホホホ。気がつかなかったの? あれや人形ですよ」
「えッ。人形?」
 私はぞっとした。
「あの似顔なかなかよく出来ていましたね」
「じゃ宮本夫人が持っていたあのほの白い棒、あれや何でございますの?」
「さあね、まあ云うのは止しましょう。どうせいまに分るでしょうから」
 夫人は意味ありそうに微笑した。私はあの小さいほの白い棒が気にかかってならなかったが、強いて訊いてみるだけの勇気もなかったので、その儘黙ってしまった。夫人は気の抜けたようになっている私をき立てて、こんどは改めて表玄関から名刺を出し、吉岡五郎氏に面会を求めた。二人は長い間玄関の敷石の上で待たされた。
 軈て取り次ぎのボーイに案内されて、細長い廊下を幾度も曲り、やっと吉岡氏の扉の前に立った。ボーイはノックしておいてから二人を残して立ち去った。
 ここでもやや少時待たされた。室内をあっちこっち歩く靴の音を聞きながらたたずんでいると、扉が内からさっと開いて、吉岡五郎氏の美しい姿が燈を背にしてすらりと立っていた。
「宮本さんの奥様、いや。今日は吉岡秘書官としてお目にかからせて頂きましょう」
 はっとしている宮本夫人を押し入れるようにして、S夫人は室内に入り、同時に自分で扉を閉めてしまった。
 次の間のテーブルの上には、黒い布で覆われた四角な箱が置いてある。それは確かに見覚えのある品であった。暴風雨の日納骨堂で見た小田切大使の遺骨、たしかにそれに違いない。しかも目前に立っている人は? あの日コンクリートの廊下で擦れ違った黒眼鏡の美しい男ではないか。宮本夫人と小田切大使の遺骨、私は何だか全てが判ったような気がした。そしてほの白い棒の謎までも。
 S夫人は丁寧に頭を下げながら、しかし命令的な語調でいうのだった。
「小田切さんの遺族のお代理として出ました。お遺骨のお返しをお願いいたします」
 宮本夫人の顔は見る見る蒼白になった。



 ながい沈黙の後、遺骨を前にして宮本夫人が語った話はこうだ。
「私と小田切さんとの関係は彼がこの世を去る最後の日までずっと続いていたのでした。世間ではうの昔、二人の縁は断れたものと思っていたでしょうが、そう思わせるように仕向けたのも、実は私達の考えからやったことで、二人の関係を続けて行こうとするには、何よりも人の口端くちのはにのぼるということが一番困ることだったのです。ですから世間の噂をさけるために、故意わざと私は姿を消していたのです。
 私の夫宮本が任地で病死した後、当然小田切さんは私と結婚するものと信じきって居りました。処が利口な彼は世間の噂にまでのぼった二人の関係を、結婚によって裏書するような真似はいたしませんでした。そればかりではなく、二人の噂を封じるためには、どうしても表面をちゃんとつくっておく必要があると申します。そして間もなく伯爵令嬢との結婚が発表されたのです。だまされたとは思いませんでしたが、その時始めて小田切さんの姿、いや、男の人というものの真の姿を見たような気がいたしました。
 どんなことがあっても、二人は決して離れまいと誓い合い、かたく約束したほどではありましたが、さて相手の男が、他の女と正式に結婚してしまったとなると、たとえ男の心が少しも変っていないと分っていても、どうも面白くありません。
 私はいろいろに自分で自分の心を慰めて居ました。世間から認められなくても、小田切さんのほんとの妻は私だ。結婚という形式を踏まなくても、彼の心を完全に掴んでいれば満足じゃないかとか。新夫人は表面をつくるための道具でしかないんだと――。
 しかし真実の心は、そんな慰めなんかにごまかされていませんでした。口惜しくって、口惜しくって、自分で自分が可哀想になり、しまいには腹が立って当り散らし、狂気のようになって小田切さんに喰ってかかることもありました、それだのに思い断って別れてしまおうという気にはなれないのです。私はほんとにあの人を愛していたのでしょう。愛してはいましたが、また一面では憎んでもいたのでございます。
 私はいつでも自分で自分の心を判断するのに苦しみますが、どうしてこんなに愛している人が憎いんでしょうか。絶えず小田切さんをいじめる事ばかり考えていました。私同様にあの人も私がどんな乱暴な真似をしても、私から離れて行くことの出来ないのをよく知っていますので、それをいいことにして、いろいろと苦しめてやりました。その手段として撰んだうちで、一番ききめがあったのは浮気をすることだったんですの。男から男へ渡り歩るくのを凝と眺めているのは、小田切さんにとっては実に辛かったらしゅうございます。それだけに迚も愉快でした。
『もういい加減に勘忍して下さい』
 うめくように小田切さんがいいます。
『私と結婚すれば勘忍して上げるわ』
 するとあの人は黙ってしまうのです、新夫人を迎えてから、彼と私とは始終口争いをして居りました。
 それでも自惚うぬぼれの強い私は去年外国で夫人が亡くなられた時、今度こそ必ず私と結婚するだろうと思い込んで居りました。すると小田切さんは自分には地位があるからと申すのです。その一言でかあとして一時に怒りが頭へ込み上げて来ましたが、それをじっと我慢して、『地位ですって? オホホホホホ――』
 故意とお腹を抱えて笑ってやりました。
 余り私が可笑がるものですから、小田切さんは間の悪るそうな顔をして云い直しました。
『イヤ、仕事に追われて、結婚など考える暇がない』
『嘘お吐きなさい。あなたに再婚問題が起っているのもちゃんと知ってますよ』
『イヤ、あれは嘘だ、僕は再婚だけはしない、それは断じてしない、そんな事をしてはそれこそあなたに対してすまないことになる。僕を信じて下さい』
『お上手を仰しゃること。再婚しないのをいやに恩にせて、しかし場合によっちゃ表面を作る必要が起ってくるんですからね。実に勝手なものよ』
『そう誤解しちゃ困る』
『じゃ正式に結婚して頂きましょうかね』
『何でも承知しきって、ようく解ってるあなただのに、どうしてそんな分らない事をいって僕を困らせるんだろう。人を苦しめて喜ぶなんて淑女のするこっちゃあない。そんな事はすれっからしの西洋かぶれのした売娼婦か何かのやる手ですよ。宮本夫人ともあろうあなたが、そんな浅間しい真似をしちゃいけません』
 噛んで吐き出すように小田切さんがいいました。私はちょっと返事に詰ったものの、負け惜しみから口唇に微笑わらいを見せて、横を向いて居りました。するとあの人は少時暗い顔をして沈んで居ましたが、
『何もかも僕が悪いんだから、どんなにあなたから苦しめられたって仕方がないんだけれど――。僕が今、あなたと結婚することはちょっと難しいという事は分っているんでしょう? ねえ、だからもう少し待って下さい。云い逃れをするんじゃありません。僕が隠退して、官界を退き自由な身になるまで――』
『自由な身になるとまた何か云い分が出来るんでしょう。面倒臭いからどうでも御勝手になすって頂きますわ。結局私はあなたに欺されたという結論になるんですから。しかし欺されて、泣寝入りに終ってしまう女だかどうだか、私という人間を一番よく知っていらっしゃるのはあなただから、もう何も申上げますまい』
 小田切さんは私の顔をじいと見ていましたが、急に調子をかえて、優しく機嫌をとるように申しました。
『冗談ですよ。怒りっぽいね、あなたは。じゃ約束しましょう。もう少し待って下さい。ねえ、いいでしょう?』
『もう少しって、いつのことですの? あなたのもう少しなんて、何年先の事だか、何十年先の事だか、永久来ないもう少しだか分りやしない。その手で何年釣られたと思召おぼしめすの? はっきりしたところを仰しゃって頂きますわ』
『そんな我意わがままを云うなら、意地にもいえません』
『それごらんなさい。嘘がばれたもんだから返事が出来ないんですわ』
『嘘はいいません』
『否え嘘です。その嘘で××は欺ませても私は欺ませませんよ』
『勝手になさい』
『ええ、勝手にしますとも』
 そんな口喧嘩を最近はのべつ繰返すようになり、そのためお互の間も段々気拙ずくなってまいりました。
 そこへある事件の打ち合せのため、急に本省から電報で呼び寄せられることになりました。小田切さんの帰朝を耳にすると殆ど同時に、またある確実な処からこんな情報を得たのでございます。それはある有名な家からあの人へ結婚の申込みがあって、話は順調に進んでいる。再赴任せられる時は新夫人を伴って来られるだろうというのです。
 私はもう我慢してはいられませんでした。真偽をたしかめようと小田切さんを散々詰問してみましたが、どうも要領を得ません。遂々私はあの人の秘書という触れ込みで、男装して日本へいて来てしまったのです。そして小田切さんと会うために最初からこのホテルに宿をとって居りましたが、久子さんの御厚意で、あの方の家のお離室はなれをお貸し下さることになったので、両方に住んで居りました。
 小田切さんと私とは忙しそうに家を出てはこのホテルで会っていました。会っては喧嘩ばかりして居りました。このホテルでも私をほんものの秘書官だと信じて居りますし、久子さんのお家の方達も少しも怪しまず、お兄様の秘書として一生懸命に働いているものと思い込んでいられたようでしたから、万事に都合がようございました。久子さんなどは大変親切にして下すって、よく気をつけ、いたわって下さったり、度々優しい情のこもったお手紙を頂きましたが、いい加減にあしらって居りました。
 その中に、争いに争いを重ねて、遂々最後の日が来たのでございます。私達は中禅寺から日光へ出るのに、言い争いをしつづけながら、わざわざ人の通らない路を撰んで歩きました。
 再婚はしないとあれほどきっぱりと申しておきながら、私に厳しく問い詰められて、小田切さんは遂々本根を吐いてしまったんですの。長官の娘だから断りきれないんだと申すじゃあございませんか。その時位小田切さんが詰らなく、情けない人間に見えたことはありませんでした。
『私や買い被った!』
 そう云うと急に口惜しさが胸に込み上げて来ました。欺されたんだ、欺されたんだ、ああ遂々欺されちゃったんだ。
 私は小田切さんを突き飛して、無茶苦茶に馳け出しました。あの人は後から追いかけて来て肩を押え、頻りに何かくどくど云い訳しながら謝罪あやまっているのですが、もうすっかり逆上し切っている私には、何を云ったって聞えもしないし、分りっこもありません。
 あの晩は宵闇で暗うございました。私は山路でピストルをあの人の胸に突きつけて云いましたの。
『殺しっちまう、殺しっちまう、私を欺して――。よくも欺まして、私の一生は、ああ私の一生は――。滅茶々々になってしまった!』
 私はピストルをそこに投げ出して、急に泣き出してしまいました。
『こんな目にあって、黙って引込んでしまえると思う? それほどの意気地なしだとみくびっていらっしゃるの? 私はあなたなんかに敗けているもんですか。世間に発表します。一身を投げ出して、捨て身になって、社会に訴えてやるんだ。ついでに何もかもしゃべってしまうわ。私を信用してべらべらと話して下すった外交上の秘密も、こんどの大事な使命も、すっかりちまけてやる。秘密書類の紛失事件、あれが公になったらば、いくら図々しいあなただって、おめおめとこうやっちゃあいられやしない。私の復讐がどんなものだか、楽しみにして見てらっしゃるがいいわ』
 私は狂人きちがいのようになって叫びました。怖しい権幕におびえて、小田切さんは一言も云わず、青い筋を額に見せて、唇を噛みしめていました。
 私は自分で手を下して殺すか、生きながら葬ってしまうか、二つに一つだと深く決心をいたしました。やろうと一度ひとたび決心した事は必ずやり遂げる。それが私の性質なのです。あの人はそれをよく知って居りました。もうこうなってはいくらなだめても心を翻すような女でないということも、彼にはよく分って居りました。
『社会的に殺されるよりは、むしろあなたの手で殺されたい。ああ僕ももう疲れた!』
 あの人の乾いた唇から出た言葉はこれだったのです。私は悪魔のような笑いを唇に浮べて云いました。
『あなたに殺されたい? まだそんなお世辞を云ってる。誰が殺してやるもんか。あなたのような人間を殺すだけの情も、最早私は持ち合せてないんですよ、死にたかったら御自分で勝手にお死になさい――』
 ピストルを拾って小田切さんに突きつけました。――そのピストルであの人は遂々死んでしまったんでございます」
 宮本夫人は云い終ると骨壺を抱きしめて、懐かしそうに頬ずりしなから、私達の手にそれを返した、そして更に附け加えていうのだった。
「あんなに喧嘩ばかりしていましたが、やはり私は小田切さんを愛しています。あの人も私を憎めなかったんでしょう。二人は真実に愛し合っている癖に、始終あらそいばかりしていました。が、さてあの人はもうこの世にいないと思うと、この先どうして生きて行っていいか分らなくなります。口惜しさも腹立たしさも皆消えてしまって、残っているのはただ深く彼を愛しているという心だけですの、せめてお遺骨のお傍にでもいなくては寂しくて一刻ひとときも生きていられなかったものですから、実は告別式のすんだ晩、遺族の方達が皆疲れてしばらく休んでいられた間に、私はそっとお遺骨をすりかえておいたのでございます。が、どうにも不安でならなかったものですから、納骨堂にあるお遺骨を異物と思わせようと苦心した結果、あなたにお目にかかったあの暴風雨の日などは、女優をしている従妹いとこに涙を流す役をつとめさせたりしたのです。私の秘密を知った従妹からの重なる要求に応じかねて、拒絶しましたので大変彼女を怒らせてしまいましたから、多分従妹が久子さんに何事か密告したものだろうと考えますが――。しかし段々日がたつにつれてやっとあることわりを感得しました。そしてもうお遺骨を抱いていなくても、小田切さんの全霊たましいは私の心の中に生きていると思うようになりましたので、今はもうお遺骨には何の執着も未練もなくなりました。自身でお返しに出なければならないのに、あなた方をおわずらわせするような事になりまして、まことに何ともお申訳がございません。覚悟の上でかような罪を犯しました私を、どうぞあなた方のお手でどんなにでもご処分遊ばして下さいませ。私は決して逃げもかくれもいたしません。御沙汰のあるまでこのホテルに留って居ります。どうぞ久子さんへよろしくお詫びをお願いいたします」
 S夫人は遺骨を抱いて私の先に立って室を出た。見送っている宮本夫人の眼には涙が光っていた。





底本:「大倉※(「火+華」、第3水準1-87-62)子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「踊る影絵」柳香書院
   1935(昭和10)年2月
初出:「踊る影絵」柳香書院
   1935(昭和10)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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