錢形平次捕物控

敵持ち

野村胡堂





「八、近頃お前は、大層な男になつたんだつてね」
 錢形平次は、珍らしく此方から水を向けました。ガラツ八の八五郎が縁側へ腹ん這ひになつて、手長猿のやうに遠方の煙草盆を引寄せ、默つてお先煙草を二三服立て續けに吸つたところへかぶせた話のきつかけです。
「それほどでもありませんがね。――尤も人を助けるといふのは、まことに、良い心持のもので」
「大きいな、さうしてゐるところは大した貫祿くわんろくだよ」
「ところが、叔母さんと來た日にや、あつしの人助けを、お節介せつかい物要ものいりの、無分別の大馬鹿野郎だといふんですよ。――女の古いのはどうしてあんなに口が惡いんでせう。尤も近頃は助けた娘と氣が合つて、すつかり仲好しになつたやうですが」
「叔母さんの言ふのが本當かも知れないよ。お前の叔母さんは、少し頑固だが、根が正直で氣の優しい人だ。――兎も角お前が若い女一人を拾つて、向柳原の叔母さんの家へ連れ込んだ經緯いきさつを話して見るが宜い。俺はそれを聽いてから、とくと思案を定めることにしよう」
 平次は草花いぢりで少し泥になつた手を叩いて、八五郎と並んで縁側に腰を掛けると、八五郎の手から煙管きせるを取上げて、藁で縛つた五匁玉から、少し馬糞臭いのを器用につまみ上げるのでした。
 四月の陽は縁から雨落に這つて、江戸の櫻ももうお仕舞ひ、狹い庭に草の芽がえて、蟻はもう春の營みに、忙しい活動を續けて居ります。
「五日前の晩でしたよ。本所の歸り兩國へかゝると、橋の中程で欄干らんかんにもたれて、若い女が泣いてゐるぢやありませんか」
「約束通りだ、時も、場所も」
「危い――と思つて聲を掛けると、いきなり欄干を越して、大川へ身を投げようとするぢやありませんか、飛付いて引おろすのが精一杯、いや驚いたの驚かねえの――」
「月はあつたのか」
「少し朧だが、良い月夜で、後ろから抱き締めて、欄干から引離すと、怨めしさうに振り返つたお里の顏が、ぞつとするほど綺麗でしたよ。――色白の左の頬に、ぽつちりほくろがあつて」
「そのまゝ向柳原の叔母さんの家へ連れて來て、三日經つても、五日經つても、お前はぞつとして居るんだらう」
からかつちやいけません、放つて置けば又死ぬ氣になるかも知れないし、何處へも行きどころが無いといふから、あつしの家へ連れて來たまでのことで」
「そこで八五郎は、一番男を立てたといふわけか。――助けたのが、薄汚い爺いだつたら、お前はどうする、矢張り自分の家へ連れて來て、默つて飼つて置く氣になるか」
「其處までは考へませんよ」
「まア、宜い、――ところで、その娘の人別はわかつて居るのか」
「それが何より氣になりますよ。人別は長崎の寺にあるさうで、父親と一緒に、江戸へ出たのが三年前、その父親に死に別れて、日本橋の大店おほだなへ、請人うけにんの無いのを承知で住み込んだが、主人にしつこく口説くどき廻されて、思案に餘つて死ぬ氣になつた――と斯ういふんです。聽いて見ると、綺麗に生れ付いたのが災難で、苦勞から苦勞を重ねるやうなものですね――素姓も育ちも良いらしく、色白の丸ぽちやで、そりや可愛い娘ですよ」
「ひどく思ひやりがあるんだね」
「でも、可哀想ぢやありませんか。――尤も口説かれて死ぬ氣になるなんて量見は、こちとらにやわからねえが――」
「八五郎から、嫌はれて死ぬ氣になる」
「死ぬ氣になるほど嫌はれて見てえのが、あつしの心願ですがね」
「いよ/\以てお前といふ人間は氣味が惡いよ。ところで、叔母さんは、その人別の無い綺麗な娘を、默つて置く氣になつたのか」
「最初は散々文句を言ひましたよ。そんな事をすると、お前の縁談にさはるんだつて、嬉しいぢやありませんか?」
「で?」
「當人の娘――お里といふんですがね、それを引取つて一二日世話をしてゐると、すつかり氣に入つてしまひましたよ。かどの乾物屋の二番目娘よりも、氣立てもきりやうもぐんと良い、これで親元さへ確りしてればと、それはもう夢中で」
「餘つ程氣に入つたと見えるな。――その叔母さんが此處へやつて來て、――八五郎は人間は甘いやうだが、あれでなか/\侠氣をとこぎがありますよ。兩國橋で身投げの娘を助けて來て、妹のやうに可愛がつて居りますが――と褒めちぎつて居たよ。俺はまた氣を廻して、八の野郎が、何處かの岡場所から、下つ腹に毛の無えのを仕入れて來て、兩國橋で助けたことにして、叔母さんを誤魔化して居ることだらうと思つて居たよ」
「そんな人の惡いことはしませんよ」
「マア精々可愛がつて置くが宜い、そのうちに怖い兄さんが、匕首か何んかを持つて、妹を頂戴に來るだらうから」
 平次は八五郎の不足らしい顏に構はず、最後までからかひ面でした。


 それから十日ばかり、八五郎の足は明神下に遠退いて、江戸の初夏は、漸く青葉の色も濃くなります。
「珍らしいことだな、八の野郎が十日も顏を見せないぜ。近頃は御用も隙だし、信心詣りや金の工面に追ひ廻される柄ぢやなし、さてはの表は戀と出たか、兩國で助けた娘が、魔性の者でなきや宜いが――」
 平次はそんな事まで氣を廻して、八五郎の身の上を案じて居るのでした。
「そんな事はありませんよ、八さんはあれで、根が確かりして居ますから――」
 お靜は一應八五郎のために辯解してやりましたが、十日も御無沙汰をするのは、從來の八五郎には無いことです。
 そんな噂をして居る時でした。
「わツ、大變、親分は?」
 當の八五郎は、血相變へて庭へ飛込んで來ました。まだ朝のうち、平次はくはへ楊枝やうじ沓脱くつぬぎの鉢ものゝ世話などをして居る時です。
「あ、今日あたりは、お前の、『大變』が來さうな空合だと思つたよ。――お里坊が逃出したとでもいふのか」
「そんな氣樂な話ぢやありませんよ。あつしの隣の加納屋甚兵衞のお神さんが殺されたんで―」
「あ、あの因業いんごふ家主の」
 八五郎の叔母さんの家といふのは、俗に言ふ向柳原、正しく言へば佐久間町四丁目の裏地の、それも念入りに奧の奧で、突き當りには家主で地主で、此邊に響いた金持の加納屋甚兵衞が住んで居る。それは西國者の武家崩れで、十年程前夥しい金を持つて土地に流れ込み、地所も家作も、町年寄の株まで買つて、此處に住みついた五十年輩の男だつたのです。
 その内儀といふのは、まだ四十臺の立派な中年者でしたが、それが殺されたとあつては、放つて置くわけに參りません。
「行つて見よう、八」
 平次は手早く仕度をすると、朝飯も食はずに、八五郎を追つ立てるやうに飛出しました。
「ま、お前さん」
 などと、お靜が杓子しやもじを持つて追つ驅けた時は、二人の姿はもう、お臺所から金澤町の角へ消え込んで居りました。
 佐久間町四丁目裏は、早くも噂を聽いた町の人達で、恐ろしい群衆でした。それを掻きわけて入ると、かまへはさして大きく無いが、裕福の聞え高い加納屋は、さすがに數寄をこらした建物で、木口から間取り、調度の末に到るまで、一つも非の打ちやうの無いと言つた、町人には珍らしい物の凝りやうです。
 土地家作、貸金なども多かつたので、主人は番頭佐吉に家事一切を任せ、自分は花鳥風月を樂しむのが唯一の仕事と言つた結構な身分。茶席や運座の會や、碁友達の集まりなどに日もこれ足らぬ有樣でした。
 その頃の江戸は、創業の殺伐さつばつな氣分が失せて、町人に大通だいつうや物識が輩出し、風流韻事ゐんじも漸く武家の手から町人の手に移つて行く時代で、加納屋甚兵衞最初は兩刀を捨てゝ蓄財に專念し、後に家業を放り出して、遊びと風流に打ち込んだのも、無理のない成行だつたのです。
「錢形の親分。いや、飛んだことでな、萬事は番頭の佐吉から訊いて下さい」
 などと、内儀に死なれた主人の甚兵衞が、甚だ氣のないのも、風流人の雅懷がくわいといふものかもわかりません。
「へエ、へエ、私が御案内いたします」
 主人の後ろから、如才なく顏を出したのは、番頭の佐吉でした。主人の甚兵衞は、五十五六の脂の乘つた醜男なのに、番頭の佐吉は、三十四五の痩せぎすのちよいと良い男で、取なしも世辭も申分なく、人間の堅實さは、佐久間町中に響いてゐる程の褒めものです。
 殺された内儀お徳の死骸は、奧の八疊に取込んで、布團の上に寢かしてありますが、これは四十を越したばかり、色の白い、髮の黒い、そして唇の赤い、ちよいと仇つぽいところのある年増で、大家の内儀にしては、端たなさも無いではありませんが、生れ乍らの武家の子で、斯うした仇つぽさや輕々しさは、この女の性格的なものであつたらしく、夫に兩刀を捨てさした原因にはなつても、身持に後ろ指されるやうなことは無かつたと皆んなに信ぜられて居ります。
「昨夜、夜半よなか過ぎに、御小用おこように起きたことは、旦那樣も御存じだ相で、何時まで待つても戻らないので、手燭をつけて行つて見ると、縁側の雨戸が一枚開いて、お内儀さんは手洗鉢てうずばちの上にブラ下がつて死んで居たさうで、大きな聲を立てられたので、家中の者が飛んで參りました」
 佐吉は大きく固唾かたづを呑みました、その時のことを思ひ出したのでせう。
「それから」
「細引でひさし垂木たるきに吊つてありました、あわてゝ居るので、綱は容易に解けません。主人が脇差を持出して、漸く切りましたが、その時はもう、お内儀さんは息が絶えて、町内の本道ほんだうを呼んでせましたが、呼び生ける手だてもございませんでした」
 話を聽き乍ら平次は、念入りに死骸を調べました。首には無慙な繩の跡もありますが、それは吊つた爲ではなくて、締め殺した跡で、下手人は内儀を殺した後、厄介な手順で、手洗鉢の上の庇に吊つたものでせう。
 美しいので評判だつた年増も、死の苦しみにすつかり變貌して、まことに見る影もなく、その上額や頬や首筋のあたりに、得體の知れないきと皮下出血があり、更に少しばかり泥のついて居るのは、曲者は憎しみの餘り、死骸の頭から顏のあたりを、踏みにじるかどうかしたとしか思へません。


 一應の調べが濟むと、平次は二階の居間に、主人甚兵衞と相對して居りました。脂の乘り切つた年配で、精悍らしいところのあるのは、元は武家出のためでせうが、世渡り術にも長けて、尊大なうちにも、妙に人を反らさないところがあり、大藩の留守居などに、よくある型の五十男です。
「お氣の毒なことで、――それにつけても、下手人を一日も早く擧げなきやなりません。何んか心當りはございませんか」
 平次は定石通り問ひ進むと、
「いや、もう、私も途方に暮れましたよ。病氣で死んだのと違つて、不意にこんな目に逢はされると、心持のやり場がありません」
「御尤もで」
「元は二本差した覺えもあり、若氣の過ちから、隨分人にも怨まれましたが、何んにも係はりの無い女房が、殺される程の怨を受けるわけはありません」
「――」
「それも、手洗鉢の上の、庇にブラ下げて、死に恥をさらさせるとは、何んといふことでせう」
 加納屋甚兵衞は、心外らしく唇を噛むのです。
「お内儀さんは、毎晩夜半過ぎに、お小用に起きましたか」
「癖だね。毎晩きまつて、夜半過ぎに――子刻こゝのつから丑刻やつの間に、暑くとも寒くとも、必ず小用に起きましたよ。――それに恐ろしい疳性かんしやうで、雨戸を開けて、手を洗はなきや我慢の出來なかつた性分で――妙な癖が、命とりになりました」
 小用に起きなかつたら、そして夜中に雨戸を開けるやうな不用心なことをしなかつたら――と加納屋甚兵衞は口惜しかつたことでせう。
「どれ位の時刻ときが經つてから、見に行つたので?」
「四半刻(三十分)、いや半刻(一時間)近く經ちましたか知ら、手洗場へ迎ひは變だが、あんまり遲いから、持病の腹痛でも起しはしないかと、手燭を持つて行つて見ると、縁側の雨戸が一枚開いて、――月の無い晩で、外は眞つ暗だが、覗いて見ると、頭の上から――」
 甚兵衞はさすがにその時のことを思ひ出したか、舌が硬張つたやうに絶句するのです。
「手水鉢は自然石のまことに立派なものですが、柄杓ひしやくが見えなかつたやうですが――」
「庭にはふり出してありましたよ。女房が死に際に、手から抛り出したのかも知れないと思ふと妙に淋しくなつて、手水鉢で洗つて、家の中へ取込んでありますが」
 そんな心持にもなるものか、――平次はフト甚兵衞の氣持にもなつて見たりしました。
「ところで、御主人を一番怨んでゐるといふのは、どんな人でせう」
 平次は新しい問に入りました。
「私の家の裏に住んで居りますよ」
「?」
 それは不思議な答です。平次のキヨトンとした顏を見て、甚兵衞は心持苦笑し乍ら續けました。
「私が仕へた藩中の朋輩石郷いしがう時之丞と申す者が、殿の不興を蒙つて、腹を切つて亡くなりました。最早十年も昔のことで、私が主家を退轉する頃のことでした。その子時三郎と申す者、父親の不行屆から起つた自害を、私の所爲せゐと思ひ込み、父の敵を討つのだと申して江戸に參り、私をつけ狙つて、ツイ此家の裏に住んで居ります」
「此家の裏?」
「八五郎親分の叔母さんの家の方ではなく、私の家を挾んで向側、詳しく言へば佐久間町三丁目寄りで、背負ひ呉服屋の時三郎」
「あ、あの背の高い」
「背は高いが、至つて柔弱者で、正面から私に敵名乘などを擧げる柄ではない、闇討の折でも狙つた事であらうが、その隙も無いとわかれば、隨分罪も無い女房にたゝらないものでもあるまい」
 甚兵衞は内儀お徳殺しの下手人を、背負ひ呉服屋の時三郎ときめて居る樣子です。
「外に心當りは?」
「先づ無いな、商賣や家業のことで、氣まづい思ひをした者もあるだらうが、近頃では敵を作らないやうに心掛けてゐるから、舊藩の關係以外には、生命までもと怨んで居る者は無い筈だ」
 主人甚兵衞は、若かりし日、相當の罪を作つた樣子です。


 主人夫婦と番頭の佐吉の外には、十九になる娘のお仙と、二十六になる下女のお米の二人だけ、娘のお仙は身體の置場も無いやうに、彼方へ行つて泣いたり、此方へ行つてぼんやり立つて居たり、まことに氣の毒な樣子でしたが、平次の前へ出るとさすがに氣を取直して、
「どうか、敵を討つて下さい。私は何んにも知りませんけれど――」
 一生懸命に頼み込むのです。母親の美しさに似ず、どちらかと言へば、父親似の肥つた四角な顏で、決してきれいだとは言へませんが、充分に聰明らしく、そして十九娘らしい純情家でもある樣子です。
 母の死に對しては何にも知らず、自分の不器量を知り拔いて、紅白粉とも縁の無い其日を暮して居るらしく、母の命を斷つたのは、此娘の情事に關係したものでないことは、誰の眼にも明かです。
 下女のお米は、娘のお仙と反對に、充分に澁皮の剥けた年増で、出戻りの小遣稼ぎに、手當の良い加納屋に奉公して居るのだと、自分でも放言して居ります。
「私は何んにも知りませんよ。でも、近頃は、横町の木戸から、時々内を覗いて居る、若くて綺麗な女の人がありましたが」
「それは誰だえ?」
「今まで見たことも無い人です」
「ほかには?」
「番頭の佐吉さんは、妙な癖がありますね」
「どんな癖だ」
「女を見る眼が容易ぢやありませんよ。私などにあんな樣子を見せるやうぢや――」
 お米はそれつきり口をつぐんでしまひましたが、下女の自分にまで妙な素振を見せるんだから、お内儀さんや、お孃さんには、どんな事をして居るか、わかつたものでない――と言つた調子です。
 平次は加納屋の外廻りを一應見て巡りましたが、手洗鉢のところへ來ると、フト足を留めました。
「妙なことがあるぢやないか、八」
「何んです親分?」
「その雪見燈籠ゆきみどうろうの笠を見てくれ」
 平次は植込の蔭の小振りな雪見燈籠を指しました。
「金持はつまらねえものに、何十兩と金を出すんだね」
「値段の話ぢやないよ。その雪見燈籠の笠の苔がひどく傷んで居ることに氣が付かないのか」
「燈籠の苔なんざ、糠味噌に漬けたつて、おかずの足しになりませんよ」
「お前は相變らず氣樂だよ。――宜いかえ、内儀は絞め殺された上、嫌がらせに庇にブラ下げられたに違ひないが、人間一人を綱で庇へ吊るためには、その吊られる人間より、重い人間でなきやむづかしいわけだらう」
「?」
「早い話が、十貫の物を吊り上げるには、十三貫なり十五貫なり、吊り上げられる者より重い身體の人間で無きや出來ない」
「?」
「十貫目の人間を十貫目の人間が吊り上げるといふことは、どんなに頑張つたところで出來ないことだ。――そこで、内儀より輕い人間が、内儀の身體を庇に吊り上げるためには、綱の端つこを立木に縛るか、重い石か何んかを卷きつける外はあるまい、庇の垂木たるきは檜だし、綱はよく滑る」
「成る程ね」
「内儀を庇に吊るのに、雪見燈籠の笠の重さを借りたとすれば、下手人は内儀より身體の輕いものぢやないか」
「内儀より輕い者なんかありやしませんが、あの家には」
「それが不思議なんだよ」
 平次も此處で行詰つてしまひました。


 平次と八五郎は當然の順序として、加納屋の裏の背負ひ呉服屋の時三郎の家へ行つて見ることにしました。
 見掛けはひどく貧弱ですが、思ひの外小綺麗な暮しで、主人の時三郎は、女房のお松と二人、隣の騷ぎに膽をつぶしたものか、商賣にも出ずに、何か來るべきものを待つて居る樣子でした。
「お前は時三郎といふんだね」
「へエ」
「お隣の加納屋の主人を親の敵とつけ狙つて居る相ぢやないか」
「その通りですよ。あの加納屋甚兵衞が、御金奉行をして居るとき、藩の大金を取込み、その罪を下役の石郷時之丞に被せて逐電ちくでんしたため、石郷時之丞は自害をして主君に申譯しました。私がその伜の時三郎ですよ。加納屋甚兵衞を親の敵とつけ狙ふのは、不思議があるでせうか」
「それで、お前が、加納屋の内儀を殺したといふのか」
「飛んでもない、甚兵衞には怨もあるが、その配偶つれあひには何んの怨もありやしません」
 時三郎は頑固に手を振りました。
 雪見燈籠の世話などになりさうも無い、背の高い立派な男。三十歳にはまだ手の屆きさうも無い若さ、女房のお松は二十四五で、これはなか/\の良いきりやうでした。
「昨夜は何處に居たんだ」
 平次は自分乍ら、問の平凡さに愛想をつかして居ります。
「此處から一寸も動きませんよ、加納屋の戸締りと來たら自棄やけに念入りで」
「此處に居たといふ、確かな證據があるのか」
「口惜しいが、女房の外には證人がありませんよ。――尤も、いつかは私が、加納屋の主人を殺すことになつたでせう。主人の甚兵衞が誰かに殺されたとわかれば、私は下手人の罪を背負つて名乘つて出ますよ」
 時三郎は、斯んな皮肉なことを言つて、人を馬鹿にしたやうに、ケラケラと笑ふのです。
 平次は、時三郎からは、これ以上の手掛りを引出せないと思つたか、八五郎に眼配めくばせして、宜い加減のところで切上げ、加納屋の塀の内を、もう一と廻りして、フト足を止めました。
「八、お前の叔母さんの家にゐる、お里といふ娘は、何處に寢てゐるんだ」
 平次の問は八五郎を仰天させます。
「何んです? 親分」
「お前も獨り者だ、ちよいと氣になるぢやないか」
 平次の説明の他愛なさ。
「大丈夫ですよ、あつしは御存じの通り二階で、叔母さんは階下したの六疊、お里さんは、お勝手の隣の三疊に寢て居る筈だ」
「その三疊には、そつと外面そとへ出られる口があるのか」
「ありますよ、三尺の潛戸くゞりで」
「驚くなよ、八」
 平次はいきなり妙なことを言ふのです。
「何んです、親分?」
「加納屋の下女のお米は、若くて綺麗な娘が横手の木戸から、時々加納屋の樣子を覗いて居たと言つたらう」
「?」
「ところで、俺は妙なものを見付けたんだよ」
「へエ?」
「加納屋の忍返しのびがへしは、一應嚴重には見えては居るが、一々當つて見ると、横手の潛戸くゞりの上が、手輕るに外れることに氣が付くぢやないか」
「?」
「その忍び返しを外せば、外から樂に乘越せるだらう。女子供にはむづかしいが、踏臺がありさへすれば、何んでも無いことだ、あつらへ向きの踏臺は、この用水桶ぢやないか」
 消火栓などといふものはまだ無かつた頃、大きい屋敷では、火事早い江戸の名物に備へて、塀外に天水桶か、でなければ、杉なりに積んだ用水桶を用意して置いたのです。
 曲者はそれを足場にして、忍び返しの一角を外しさへすれば、何んの苦もなく、嚴重らしく見える加納屋の塀の内に忍び込むことが出來ます。
「八、その塀の上を調べてくれ、遠慮することは無いよ、お前は曲者ぢや無いんだから。梯子を使つて構はないとも」
 平次に言ひつけられて、梯子を持出したガラツ八は、潛戸の上のあたりを念入りに調べましたが、
「おや、こんなものが、釘に引つ掛つて居ましたぜ」
 と、むしり取れたらしい、着物の茜裏あかねうらの一部――三角に千切れたのを持つて來るのでした。
「そんな事だらうと思つたよ、ところで八」
「へエ」
「近所へ來たんだから、久し振りで、お前の叔母さんの顏も見て行き度いな」
「そんな事を聽くと、叔母が喜びますよ」
「では、引揚げるとしようか」
「下手人は? 親分」
「一向見當もつかないのさ」
「驚いたね、どうも」
 八五郎はそんな心持で、少しは得々として、自分の宿――叔母さんの家へ案内するのでした。


 八五郎の叔母さんは、加納屋の塀の外に、かさぶたのやうに喰つ附いて住んで居りました。日頃尊崇そんすうしきつて居る錢形平次が、不意に訪ねて行つたことが、どんなに叔母さんを驚かしたことでせう。
「叔母さん、御無沙汰して濟まなかつたね、今日はお隣へ來た序にちよいと覗いたんだが。――八五郎から聽くと、お里さんといふ娘が居るさうぢやないか――引合せて貰ひ度いな」
「あれ、親分さん、――そんな事なら」
 叔母さんは次の間を覗きましたが、そこには肝腎のお里が居なかつたらしく、お勝手から二階へ、手洗場てうずばまで覗いて、
「何うしたことでせう、親分さん。ツイ今しがたまで居たあの娘が、何處へ行つたか、姿を見せませんよ。――若い人といふものは、どうしてあんなにはにかみ屋なんでせう」
 叔母さんは狹い家の中を、幾度も/\搜し廻りましたが、お里の姿は何處にも見付かりません。
「お里は矢張り見えませんよ、親分」
 叔母さんの最後の答は斯うだつたのです。
「八、矢張りお里といふのが臭かつたんだ。――お前を佐久間町の住人と知つて、身投げの狂言を書いて入り込み、蔭乍ら加納屋の樣子を見て居たに違ひあるまい」
「そんな事が親分」
 八五郎はまだ躍起やくきになつて、お里を辯護して居るのです。
「よし、それぢや、お里の寢卷を持つて來い、叔母さん、茜裏の寢卷があるでせう」
「寢卷といふわけでは無いが、赤い裏の袷が一枚寢卷代りにあの娘に貸してありますよ。これぢやどうです」
 八五郎の叔母の持つて來たのは、お里が着て居た、赤い裏の寢卷で、その裏を返して見ると、鈎なりにむしり取られた跡があり、先刻加納屋の塀の上の釘に引掛つて居た布が、意地惡くピタリとその跡に合ふのです。
「親分、こいつは、あんまり意地が惡い。お里はそんな大それた娘ぢやありませんよ。兩國橋の上であつしに助けられたのを恩にきて、この十四五日の間、本當に骨身を惜しまずに働いてくれたんですもの」
 八五郎は、平次の叡智の冷たさに對して、精一杯の反抗を續けるのでした。
「だが、證據は證據だよ、八。加納屋の内儀を殺したのは、加納屋の内儀より身體の輕いもの、――お里は痩せすぎの、細つそりした娘ぢや無かつたか」
 平次は遠慮もなくまくし立てるのです。
「意地が惡いなア、親分。あの娘はそんな、人殺しをした上、ひさしにブラ下げるなんて、そんなむごたらしいこと、出來る娘ぢやありませんよ」
「でも、怪しい事ばかりだぜ、八。長崎生れの人別の無い娘が、お前の家を選つて居候をしたり、加納屋の塀の上に、袷の裏の裂けた布を殘したり、俺が來ると知るや、姿を隱したり」
「それが皆んな、あの娘の潔白のせゐとも言へるぢやありませんか。おびえきつた小娘は、何をやらかすか、此方こちとらには見當もつきませんよ」
 八五郎の辯解は泣き出しさうでした。平次はそれに説き伏せられる筈は無いのですが、何を感じたか、
「まア、い、お前が折角さう言ふんだから、俺は默つて歸るとしようよ。尤も、お里にはまだまだ用事がある。戻つて來るやうなことがあつたら、俺が是非逢ひたいと言つて居るからと、無理にも引留めて置いてくれ」
 平次は八五郎に別れて外へ出ましたが、加納屋の前を通ると又氣が變つたものか、庭口から入つて、問題の縁側のあたりへ顏を出しました。
「あ、錢形の親分、何んか、用事で?」
 主人の甚兵衞は、内儀の葬ひの指圖でもして居たものか、八疊から顏を出して、ハタと錢形平次と顏が逢ひました。
「丁度宜いところでした。店から入ると人目が多いので、斯んなところへ廻りましたが、實は内々でお話をき度いことがあるんで」
「どんなことでせう、親分」
 甚兵衞は縁側に中腰になつて、平次の問を迎へます。
「外ぢやありませんが、九州なまりのある、二十歳位の若い娘を御存じありませんか」
「若い娘、――名は?」
 甚兵衞は眼を見張りました。
「本名かどうか、そこまではわからないが、お里と言つて居るやうで」
「お里?」
「色白の品の良い娘で、左の頬に黒子ほくろがある――」
「あ、あれだ」
「御存じでせうね」
「若氣の過ちの一つ、十年前に飛んだ罪を作つたが――あの女の娘が、もう二十歳になるのか」
「そのお里といふ娘が、お内儀を怨む筋があつたでせうか」
「それは無い。私は怨まれても仕方が無いが、女房にはかゝはりの無いことだ。――その娘がどうかしましたか」
「其處まではあつしにもわかりませんよ」
 平次は言葉を濁して立去りました。
 元の枝折戸から、入口の方へ廻ると、
「錢形の親分さん」
 そつと後をつけて來たのは、番頭の佐吉の迷ひ拔いた顏だつたのです。
「あ、番頭さんか、用事は?」
「斯んなことは、申上げて宜いか、どうかわかりませんが――」
「知つてることがあるなら、正直に話してくれた方が宜い、どんな事だえ」
先刻さつきのお話を、聽くともなく聽いてしまひましたが、そのお里といふ娘は、主人がさる大藩に仕へて居た時の、朋輩の娘だ相で――」
「?」
「主人が酒に醉つた時、そつと私に話してくれました。――こいつは私の女房には内證ないしよだが、十年前、國に居るとき、惚れた女を斬つたことがある。女には夫も娘もあつた筈だが、夫といふのは男振りはよくても柔弱者だつたから、女敵討めがたきうちにやつて來るほどの氣力もあるまい。いやもう若い時は飛んだ罪を作るもので――と笑つて居たことがあります。そのお里といふ娘は、どうかしたら、母親の敵を討つ氣で、主人をつけ狙つて居るのではありませんか。主人を怨んでも、娘一人の細腕では容易に討てないから、手始めにお内儀さんを殺したのかも知れませんね――これは主人の口から申上げ憎いかも知れませんから、そつと親分のお耳に入れて置きます」
 佐吉は斯う教へてくれるのでした。


 それから幾日か經ちました。
 お里はそれつきり姿を見せず、時三郎にも加納屋甚兵衞を殺したといふ確かな證據は無く、平次の智慧でもこれ以上の發展はむづかしく、氣の揉める日が、一日々々と過ぎて行くのです。
 尤も、細かいことは、いろ/\わかつて來ました。内儀を殺した細引は、加納屋の物置にあつたもので、縁側には少し泥の附いて居たこと、内儀が何をする積りか、少からぬ臍繰りを持つて居たこと、――など、事件と關係はあり相でも、下手人を手ぐり出す、直接の證據にはなり相もありません。
 尤も、番頭の佐吉が、甚だ女道樂が強く、下女端女はしためは言ふまでもなく主人の内儀にまで、變な素振りを見せたことは、下女のお米の話でもわかりましたが、この佐吉が案外の黒鼠で、外では隨分派手に金を費つて居ることも、次第に判つて來ました。併し、それと言つても、内儀を殺すほどの原因ではなく、事件はそれつきり、迷宮めいきう入りになつてしまつた。
「親分、お里が昨夜、叔母さんに逢ひに來た相ですよ、――あつしの留守を承知の上で」
 八五郎がそんな事を言つて來たのは、四月の半ば頃、お里に逢はなかつたのが、いかにも惜しさうです。
 それから二三度、お里は向柳原に姿を見せたやうですが、何時も八五郎の留守の時ばかりで、お里を縛る氣があるか無いかは別として、八五郎のやるせなさは一と通りではありません。
 が、この頃になつて、事件は急轉直下しました。
「親分、大變ツ」
 と八五郎が、本當の大變を持込んで來たのは、それから又二三日の後、しかも夜半近い、亥刻過ぎのことでした。
「どうしたんだ、八」
「やられましたよ、加納屋甚兵衞が」
「何んだと」
「庭の中で、胸を一と突き。――元は武家だといふから、腕に覺えがあつた筈なのに、他愛がありませんね」
「よし、今度は逃さねえぞ。行つて見よう、八」
 もう眞夜中近い道でしたが、平次と八五郎は、初夏の良い月に照され乍ら、向柳原に急ぎました。
 加納屋は恐ろしい緊張をはらんだまゝ、月の光の下に、死の如く靜まり返つて居ります。
 主人甚兵衞の死骸は、八五郎の指圖で、庭に置いたまゝ、下女のお米は娘のお仙の介抱に餘念もなく、死骸の側には番頭の佐吉が、ぽつ然として默祷もくたうでも捧げて居るやうに番をして居りました。
「あ、錢形の親分」
 佐吉は平次と八五郎を迎へて、救はれたやうにホツとした樣子です。
「八、お前は近所の下つ引を、何人でも宜い、出來るだけ多數おほぜい集めてくれ」
「三四人お勝手へ來て居ますが」
「よし/\、それぢや、裏の背負ひ呉服屋の時三郎の家と、お前の家を見張らせてくれ」
あつしの家?」
「詳しく言へば八五郎の叔母さんの家だよ。お里がゐるに違ひ無い。今、お前の家の前を通る時、格子の内に、見馴みなれない赤い鼻緒の下駄があつたやうだ。――お月樣の良いのも惡くないよ」
「あ、そんな事が――」
 八五郎は仰天しましたが、まさか自分で飛んで行くわけにも行かず、そのまゝ、平次の指圖を受けて、何彼と調べを手傳ひます。
 加納屋の主人は庭の眞ん中で、後ろから刺されたもので、刺した脇差も鞘と別々に其處へ落ちて居ります。左肩胛骨かひがらぼねの下から、見事に心の臟を突いたらしく、恐らく大したあがきもせずに死んだことでせう。
 月光は庭一杯を隈なく照して、曲者が此處へ出て來たとしたら、殺された加納屋甚兵衞には、何も彼も見えなければなりません。
「どうして斯んなところへ出たんだ」
 平次は佐吉に訊ねました。
「此間から變なことばかりあるので、旦那は夜中に一度づつ家の外廻りを見て歩きました。毎晩のことで、大した氣にもせずに、私共は家の中で休んで居ると、庭で人の悲鳴が聞えたので、お米どんと一緒に、旦那の見廻りに出た縁側から飛出しましたが――」
 佐吉の説明は行き屆きます。續いて下女のお米が、
「此間から、又いつかの若い娘が、家の樣子を覗いてましたよ。――それに裏の背負ひ呉服の時三郎も、裏口のあたりへ來てウロウロして居るし、旦那がひどく氣を病んだのも無理はありません」
 何時の間に來たか、縁側から聲を掛けるのでした。
「今晩何んか變なことがあつたのか」
 平次はお米に訊ねました。
「庭先で、ズルズル物を引摺るやうな、變な音がしました。私はお勝手の隣に休んで居ますが、其處まで聞えた位ですから、旦那が驚いて飛起きたのも無理はありません」
「この脇差に見覺えがあるかえ」
「いえ」
 お米も佐吉も首を振ります。それは柳原か日蔭町あたりの古道具屋によくあるガラクタで、紺の柄卷き、蝋塗鞘の、何んの個性もない、犬脅いぬおどかし見たいな脇差です。
「親分、弱つたことになりましたよ」
 平次は加納屋の庭を一と廻りして、何處で拾つたか、變な繩と板片を持つて元の場所へ戻つて來ると、八五郎は、妙な顏をして居るのです。
「何が弱るんだ」
「若い者が餘計な氣をきかせて、時三郎に繩を打つて引立てると、あつしの家へ行つた仲間も、叔母さんが止めるのも聽かず奧へ踏込んで、お里を縛つてしまひました」
 八五郎が泣き出しさうにして居るのはそれだつたのです、
「仕樣ねえ奴等だ。が、――無闇に人を縛つちやならねえといふことを、此處で見せつけてやらう。二人の繩付をつれて、此處へ來るやうに、さう言ふが宜い」
「へエ」
 八五郎は庭木戸を出ると、右から下つ引二人に引張られて腰繩をつけた背負ひ呉服の時三郎、左から――これは八五郎にひどく叱られて、繩は解きましたが、お里を左右から引立てゝ別の下つ引が二人入つて來ました。
 月下の庭は、死骸を中心に、これらの人達を、影繪のやうにクツキリ照し出します。


「一人も動いちやならねえ――宜いか、八、逃げ出さうとした者があつたら、遠慮なく縛れ」
「――」
 平次は靜かに始めました。
「最初お内儀かみさんが殺された時のことから話さう――下手人は二度とも同じ人間だ。――先づ曲者は手洗鉢の前で手を洗つて居るお内儀の首に細引を卷いて、締め殺したに違ひあるまい。柄杓ひしやくが庭に抛り出してあつたんだから、手を洗ふ前でも、手を洗つた後でも無いことは確かだ」
「――」
「あの晩は月が無くて眞つ暗だつたが、それでも、お内儀の前から、首へ細引をかけるといふことはむづかしい。これは曲者は家の中に居て、お内儀の後から首に細引を掛け、縁側で絞め殺したに違ひあるまい。――その死骸を、大骨折で庇の垂木たるきつたのは、深い怨のある者の仕業と思はせるためだ。が、人間の身體を宙に吊上げるには、その人間より重い身體の人でなきや出來ない」
「?」
 深い沈默でした。皆んなは固唾かたづを呑んで、平次の説明に聽入ります。
「曲者は、下手人をお内儀より身體の輕いもの、つまり下手人を女と思はせる爲に、お内儀の死骸を吊るのに、雪見燈籠の笠石かさいしを借りたやうに見せた。燈籠の笠石のこけはがしたのは、念入な細工だが、燈籠は少し遠くにあるし、笠石にはかどがあるから、實はそんな仕掛けは出來さうで出來ないことだ。俺は現にやつて見たが、どうしてもうまく行かなかつた。まして眞暗な中で、氣がせくのに、そんな細工は出來るものではない。――下手人は矢張り男だ。そして苦もなく死骸を庇の垂木に釣上げたのだ。もう一つ、お内儀は小用場から出て來て、手を洗ふ時初めて雨戸を開けたわけだから、その前に忍び込んで來たので無ければ、下手人は家の者だ」
「あつ」
 皆んなは聲を合せました、が、平次は冷靜な調子で續けます。
「次は主人を殺した下手人だ。――脇差は何處でも賣つて居るガラクタで、誰のものとも見當はつかないが、この明るい月に照されて、主人の背後へ廻つても、主人が不思議とも思はないのは、時三郎やお里ではあるまい。主人の背後へ聲でも掛け乍ら寄つて、隱し持つた脇差で、いきなりグサツとやるのは、矢張り家の者だ」
「――」
「それから、庭で變な音がしたので、主人は夜半に見廻りに出たといふが、變な音の正體はこれだ。古い板片いたきれを繩で縛つて、その繩の端を長くして格子から戸の隙間に入れ、部屋の中で引つ張つてガタガタ、ゴソゴソ言はせたのだ。主人が外へ出ると、繩の端は格子の外へ捨て、主人の後を追つて刺したことだらうが、あとで板片や繩の仕掛を片付ける隙はなかつた。主人を刺して裏口からそつと入り、物音に驚いて飛出した下女のお米の後から、庭へ顏を出したのが精々の早業だつた」
「親分」
 八五郎はさすがに見當が付いたか、飛出して曲者につかみ掛らうとしたが、
「曲者は折をねらつて居つたのだ。前々から此家の金をうんとこ取込んで、何時惡事がバレるかもわからないし、その上お内儀にチヨツカイを出して、ひどく恥を掻かされたことだらう。時三郎とお里が、主人を敵と狙つて居るのを知つて、二人に罪をせる氣で、飛んでもないことをしてしまつたのだ」
 平次の言葉の了らぬうちから、一生懸命逃げ道を搜して居た曲者は、此時一氣に飛出さうとするところを、早くも氣の付いた八五郎に取つて押へられました。曲者の憎惡と失望にゆがんだ顏は、月の光の下にも、番頭佐吉だつたことは言ふ迄もありません。
        ×      ×      ×
 佐吉は主殺しで極刑に處せられ、お仙は加納屋の跡を繼ぎましたが、斯うなると、加納屋の沒落は目に見えて居ります。
 時三郎は腹の底からの背負ひ呉服屋になり、お里は事件落着後、故郷の九州に歸りたいと言ひ出しました。八五郎と叔母が、どんなにそれを引留めたことか――。
 でも、去る者は矢張り、去り行く運命に任せる外はありません。よい道伴みちづれが見付かつて、お里が向柳原の八五郎の叔母さんの家から、遠い/\九州への旅に上つたのは、五月も半ば過ぎになつてからのことでした。
 平次の女房のお靜が、どんなに親身になつてその旅仕度をしてやつたことか、皆んなで送つて行つた品川の宿外れ、
「左樣なら、皆さま、――叔母さん、八五郎さん」
 色白の丸ぽちや、三度笠を手に取つて、振り返つた左の頬には、何時までも何時までも可愛らしいほくろが見えて居ります。
 その黒子ほくろがボーツと霞むまで、八五郎は默つて立つて居りました。
「八、もう歸らうよ、――高輪の木戸を入つたら一杯やらかすことにしようぜ。そしてこれからチヨクチヨク兩國橋へ行つて見ることだな、又良い娘を助けるかも知れないぢやないか」
 平次は八五郎の涙ぐんだ肩を、ポンと威勢よく叩くのです。





底本:「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月8日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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