錢形平次捕物控

凧糸の謎

野村胡堂





 三田四國町の大地主、老木屋おいきや勝藏の養父で今年六十八になる八郎兵衞は、その朝隱居所の二階で、あけに染んだ死骸になつて發見されました。
 老木屋といふのは、裏庭に一とかゝへに餘る松の老木があるので知られた家で、先代の主人八郎兵衞は病弱のため五年前に隱居し、家督かとくを夫婦養子の勝藏お元に讓つて、老妻のお妻と二人、母屋からは廊下續きになつて居る小さい二階家の離屋に住んで、雜俳ざつぱいに凝つたり、笊碁ざるごを打つたり、時間をつぶすのにばかり苦勞すると言つた、まことに結構な身の上だつたのです。
 その結構人の八郎兵衞が、老妻のお妻が麻布の親類へ行つて泊つた晩、離屋の二階六疊で、喉笛を掻き切られ、冷たくなつて死んでゐるのを、朝の掃除に行つた、下女のお今に發見され、老木屋始まつて以來の騷ぎになつてしまひました。
 早速醫者も呼ばれ、麻布の親類へ人を走らせて、お妻も呼戻しましたが、最早匙も藥も及ばず、六十五歳のお妻が、生涯を共にした夫を失つて、絶え入るばかりの悲歎の中に、土地の御用聞、赤羽橋の友吉、子分と共に乘込んで、一と通りのことは調べて見ましたが、さてに落ちないことばかりで、古い型の調べと、力押しの外にはのない友吉は、最初から兜を脱いで[#「兜を脱いで」は底本では「兜を脱いて」]しまひました。
 その友吉の折入つての頼みで、錢形平次と八五郎が三田四國町へ乘込んで來たのは、その日の晝過ぎ、一應の檢死は濟んだものゝ、下手人の見當もつかなくて、お葬ひの手順もつかないといふ、ゴタゴタの中です。
「錢形の親分、遠いところを呼立てゝ、濟まなかつたね」
 迎へてくれた赤羽橋の友吉は、四十がらみの働き盛りで、此邊では顏の良い御用聞ですが、厄介な事件などになると自分一人では裁きがつかず、ツイ年の若い平次に助け舟を求めることになるのです。
「いや、飛んだ修業になるよ、暇で/\仕樣がなかつたんだ」
 平次は相手の素直な氣持をう受けるのでした。
「全く不思議な殺しで、俺にも見當が付かないんだ、ア見てくれ」
 赤羽橋の友吉は、先に立つて案内します。此界隈かいわいの大地主としては、住居も調度も質素な方ですが、これが反つて老木屋の手堅さと、含蓄ぐわんちくの容易ならぬものを忍ばせるやうでもあり、何んとなく底光りのする暮し向きです。
「御苦勞樣で」
 廊下で挨拶したのは五十前後の老實さうな男。
「番頭の勘七さんだよ」
 友吉は通り過ぎてから教へてくれました。庭に突つ立つて、物好きさうに見て居るのは、十五六の少年で、小僧の幸太郎といふ親類の厄介者と後でわかり、お勝手の障子の蔭から覗いて居る年増は、隱居の死を發見したといふ、下女のお今に紛れもありません。
 母屋から廊下で續いた二階造りの離屋、それを抱くやうに、西側に繁つて居るのは、屋號の老木屋といふのを生んだ、巨大な老松で、恐らく江戸開府以前からのものでせう。數度の火災にも免れて、三田一帶の町家を見おろして居るのは、なか/\に雄大な姿です。
 繁りに繁つた老松の枝の蔭になつて、離屋の階下したの部屋は殆んど使ひ物にならず、物置き同樣にガラクタを詰めて、二階の二た間、六疊と三疊に、隱居――先代八郎兵衞と、その内儀のお妻が、心靜かに生活して居るのでした。
 友吉に案内されて二階へ登ると、取つ付きの三疊に、死んだ八郎兵衞の養子で、勝藏といふ四十前後の主人が、女房お元と神妙に控へて、近所の衆や、親類の人達に應待して居ります。
 勝藏は先代の眼鏡に叶つて、赤の他人から養子になつただけに、申分の無い立派な町人でした。恰幅の良い、言葉のハキ/\した、顏の道具は少し脹つぽい感じですが、何んとなく大所おほどころの旦那といつた、押のきいたところがあります。
 女房のお元は先代八郎兵衞の遠い血筋で、これはやゝ蒼白い神經質な大年増ですが、充分の才智と、刻薄こくはくな性格の持主で、店子や借地人からは評判が宜しくない方、一部では亭主の勝藏を引き摺り廻して、此内儀が老木屋の采配を振るつて居るのだといふ噂もあります。
「お騷がせいたします、――飛んだことになりまして」
 後ろに居るお元が斯う挨拶すると、前に坐つて居る勝藏は、人形使ひの人形のやうに、ピヨコリとお辭儀をするのでした。内儀が老木屋の世帶の音頭を取つて居るのだといふ、世間の噂が必ずしも嘘では無い樣子です。
 平次は二つ三つ無駄なことを訊いて、次の間を覗きました。
 驚いたことに、老木屋の隱居の住んで居るにしては、調度も何んにも無い、貧し氣な六疊です。
「御隱居な身體が弱かつた上に、綺麗好きで、傍へ餘計な物を置くのを嫌ひましてね」
 主人の勝藏は辯解らしくさう言ふのです。
 血に染んだ部屋、檢死の後で一應清めた相で、生濕りの上に薄縁うすべりなどを敷いて、その上に床を取り、死骸を其處に寢かしてあります。その傍に、しをれ返つて居るのは、涙でであげたやうに、八郎兵衞の老妻のお妻、悲歎と激情と、絶望とにさいなまれて、まことに見る影もありません。
 老婆の後ろに、それを介抱するやうに差覗くのは、びつくりするやうに美しい娘、あとでそれは、勝藏の一人娘で、老婆には孫にあたる、お秋といふ十八になる評判者とわかりましたが、この突き詰めた空氣の裏に、ピカピカする存在は、少なからず八五郎を驚かした樣子で、場所柄も辨へず、平次の袖を引いたり何んかして居ります。
 死骸の八郎兵衞は、六十八といふにしては、ひどく老衰して居りました。何處か致命的な病氣を持つて居るらしく、青白い汚點しみだらけの皮膚、細い手足、險しい頬など、見るから痛々しい老人ですが、その首筋左の方から一とゑぐり、頸動脈けいどうみやくを切つて、見事な手際です。


 平次が一とわたり調べ了る頃、友吉の眼顏で追はれて、主人の勝藏その他、全部母屋に引取りました。
「刃物は無かつたのか」
 平次は顏を擧げると、それを待ち構へたやうに、
「それが不思議だよ。死骸の傍に、短刀は確かにあつたし、さやも部屋の隅に投げ飛ばして居たが、その短刀には血も何んにも附いて居ず、その上洗ひも拭きもした樣子は無く、薄いさびまで浮いて居たとしたらどうだ、――此通り」
 さう言つて赤羽橋の友吉は、懷ろから手拭に卷いた、細身の短刀を取出し、平次の前に押しやるのでした。
 それは女持らしいこしらへの華奢きやしやな短刀で、蝋塗ろぬりの鞘は少し光澤を失つて居り、拔いて見ると切尖に錆が浮いて、血潮の跡などは一つもありません。
「成程、これは人を斬つた道具ぢやない」
 平次は、それを鞘に納めて友吉に返しました。
「外に何んにも無かつたのだよ。刃物が無いんだから、こいつは殺しに間違ひあるまい。下手人は刃物を持つて逃げたとして、さて、拔身の短刀が死骸の傍にあつたのは變ぢやないか。殺された隱居は、まさか此短刀で曲者と渡り合つたわけでもあるめえ」
「此短刀の持主を訊かなかつたのか」
「訊いたよ。主人の勝藏も内儀のお元も、母屋の用箪笥にあつたもので、祖先――と言つても遠いことではない、隱居の伯母かなんか御殿勤めをした人があつて、その人の形身だといふことだ」
 さう聽けばありさうなことですが、その短刀が、八郎兵衞の死に關係が無いとすると、話が反つて六つかしくなりました。
「今朝、隱居の死んで居るのを見附けたといふ、下女のお今を呼んでくれ」
 平次に言はれて、八五郎は母屋へ行きましたが、間もなく三十前後の出戻りらしい、平凡な女を連れて來ました。
「何んか御用で?」
 その平凡さうな三十女が、前掛で手を拭いて、縁側へキチンと坐ると、思ひの外しつかり者らしい地が出るのです。
「昨夜から今朝へかけての事を詳しく話してくれ」
「昨夜は、御隱居樣はお一人で、淋しさうでしたが、遲くまで起きてゐらしつた樣子で、私が休むときも、まだ灯が點いて居りました。窓を開けて居らつしやる樣子で、階下したからもよく見えました。いえ、寢酒は召し上りません。以前は少しづつやられましたが、三年ほど前から、お身體に惡いからと、旦那樣がお止めになりましたさうで」
「床はとつてやらないのか?」
「御自分でなさいますよ、――今朝、亥刻むつ少し過ぎ、雨戸を開けて上げようと思つて、離屋の二階へ上ると、西側の窓が開いたまゝで、障子の中は明るくなつて居りました。そんなことは、滅多に無いのですから、聲を掛けて障子を開けると――」
 お今はその時の凄まじさを思ひ出したらしく、大きく固唾かたづを呑みました。
「――」
 平次は默つて先を促します。
「御隱居樣は窓にもたれて居りました。首をうな垂れて變な恰好で」
「床の中では無かつたのか」
「床は直ぐ傍に敷いてありました」
 窓の外は亭々たる老松、尾根の上まで差し伸した枝は、もがき苦しむ腕のやうに、古怪こくわいな曲線でのしかゝります。
「今朝、戸閉りに變つたところは無かつたのか」
「毎晩戸閉りは私がいたします。その上旦那樣が一度見廻りますが、今朝は何の變つたところも無かつたと思ひます」
「すると、曲者は外から入るわけは無いのだな」
「この窓が開いてゐただけです。でも」
「でも?」
 さう言ひ乍ら平次は窓の外を覗きましたが、板庇いたびさしがひどく腐つて居て、曲者がこれを渡つて窓へ近づいた樣子もありません。
「それから、斯んなことは申上げて宜いか惡いかわかりませんが――」
「知つてることがあるなら、皆んな話してくれ。あとでわかると、うるさい事になるよ」
 平次は一本釘を差して置きました。この思ひの外氣の廻る女は、何んか知つて居さうな口吻くちぶりだつたのです。
「今朝御隱居樣の死んで居るのを見付けた時は、お部屋の中に何んにも無かつた筈ですが、あとで御檢死の時氣がつくと、死骸の側に、短刀が――拔身のまゝで轉がつて居りました」
「それは本當か」
 平次も事の重大さに乘出します。
「間違ひはありません。不思議なことがあるものだと、つく/″\見た位ですから」
 下女のお今は、短刀の出現を、呑込み兼ねる樣子です。
「御隱居を怨む者でも無かつたのか」
「飛んでもない、佛樣のやうな方でした。でも、この二三年は淋しさうでした」
「それはどういふわけだ」
「お身體が惡い上に、何んの樂しみも無いので、――二人とも、しよんぼりして居らつしやいました」
「三度のものは?」
「此處へ私が運んで差上げます」
「どんなものが好きだつた」
「好きも嫌ひもありません。お年寄ですから、あぶらつ濃いものは惡いと旦那樣が仰しやつて」
 下女のお今の口振りには、何か割り切れないものがある樣子です。
「御隱居に道樂は無かつたのか、碁とか將棋とか、音曲とか」
「近頃は何んにも無かつたやうで。尤も若い時分はかなりのお道樂で、わけてもひどく楊弓やうきうに凝つたことなどがある樣です」
「その楊弓は無いのか」
「階下のガラクタの中にありましたが」
「持つて來て見せてくれ」
「へエ」
 お今は階下へ行きましたが、やがて古びた楊弓を一張持つて來ました。小さいうつぼに入れた矢が五六本、羽も大方蟲喰ひになつて居りますが、不思議なことに、矢も弓も古い乍ら埃を拂つて、今直ぐでも使へるやうになつて居るのは、老人が時々若い時のことを思ひ出して、取出しては眺めて居たのかもわかりません。


 下女のお今が母屋へ歸ると、間もなく小僧の幸太郎が、赤羽橋の友吉に耳打して、お婆さんのお妻が、平次へ話し度いことがあると傳へるのです。
 直ぐ呼ばせると、泣き濡れたお妻婆さんが、一とかたまりのボロ切れのやうに、平次の前ににじり寄つて、
「親分さん、私は爺さんから、斯んなものを預かつてありますが、御覽下さいませんか」
 と、帶の間から古風な財布を出し、その中に入れて置いたらしく、みくちやの紙片を取出すのです。
「どれ/\」
 取上げると、半紙一枚にかなり達者な帳面字で書いたもので、その讀下しは平次にも難儀でしたが、兎も角も、
私は殺されるかも知れない、相手は淺ましいが家の中の者だ。有金も地所も家作も、皆んなり上げた上、私が邪魔になつて、命までも奪らうとして居る、その證據は――
 と、此處で紙が盡きて居るのです。
「お婆さん、これを讀んだことがありますか」
「いえ、私の讀めるのは假名文字かなもじだけで、そんな六つかしい字はとても讀めません。兎も角、一年ほど前に爺さんが、用意のためだと言つてそれを私に渡し、萬一の場合には、誰かわかつた人に見せるやうにと申しました」
「亡くなつた御配偶おつれあひは、當主の勝藏さんと仲が惡かつたのか」
「良いも惡いもございません。老木屋の隱居が、何も彼も取上げられた上、斯んなところに押込隱居をさせられて、味噌をめてかゆすゝつて居るのですもの」
「――」
「足腰の達者な私は、時々は麻布の親類へ行つて、うまい物も喰べさして貰ひますが、身體の不自由の爺さんは、家の中を歩くのが精一杯で」
 お妻の言葉には容易ならぬ暗示があります。
「何んと言つても老木屋の先代の主人ぢやないか。夫婦養子の當主勝藏が、そんな事をするとは思はれないが――」
「御近所でお訊き下さればよくわかります。勝藏を養子にしたのは、全く私の配偶の眼鏡違ひで、あれは鬼より恐ろしい人間でございます。その上――これは後でわかつたことですが、昔はやくざ者だつたとやらで、少しは武藝の心得もあり、氣の弱い私の配偶をおどかしては、有金から地所も家作も皆んな取上げ、その上命までも狙ひました」
「でも、此家で一人や二人は、御隱居の味方になる者もあつたことだらう」
「嫁のお元は、勝藏にも劣らぬ惡い女で、私共に鹽、粥を一杯づつくれるのが惜しくて惜しくてたまらない樣子でした。その鬼共の中で、私と爺さんを氣の毒がり、そつと菓子などを持つて來てくれたのは、孫のお秋たつた一人だけ、あの娘ばかりは鬼神の産んだ佛樣でございます」
 お妻はさう言ひ乍ら、自分で自分の言葉のかもし出した感傷にひたつて、聲をあげて泣くのです。
 お妻の愚痴を宜い加減に切り上げさせると、平次は友吉とその子分達に近所の噂を掻き集めさせ、八五郎一人をつれて、庭をグルリと、老木屋の外廻りを調べて見ました。
 簡素ではあるが、至つて用心の良い、物持らしいかまへ、庭も此邊らしく相應の廣さがあり、西窓の前の老松の下などは、よく濕つて人間が近づけば、必ず足跡を遺すやうに出來てをりますが、今のところ何んの變化もありません。
「外から忍び込んだ樣子はありませんね」
 八五郎は西窓を中心に、四方を嘗めるやうに調べて、諦めて腰を伸しました。
「これは何んだえ」
 平次は少し離れたところから、一と握りの凧絲たこいとを見付けました。
「凧絲ですね」
「凧絲はわかつて居るが、血が附いて居るぢやないか」
 一と握りにした凧絲は、ほぐせば五六間はあるでせう。そのところ/″\に、新しい血の附いて居るのは、平次にも呑込めないことです。
「あの部屋から持出したものでせうか」
「いまにわかる」
 平次は懷紙を出して、その凧絲を丁寧に包むと、元の母屋に引返しました。


「錢形の親分さん、ちよいと」
「あ、御主人か、何んか用事で?」
 老木屋の主人勝藏に呼び留められて、平次は縁側に足をよどませました。
「先刻、離屋で、母親が何んか變なことを申上げませんか」
「變なことゝいふと?」
「何分、年を取つて居りますから、まだ六十五ですが、子供に還つて、遠慮といふものが無くなつて居ります。何を言ひ出すかわかりません。どうぞ眞面目にお取上げになりませんやうに」
「でも、お母さんは、年寄には違ひないけれど、心持はシヤンとして居るやうだが――」
「そんなことは御座いません。若い時分から、むらで癇の強い人でしたが、近頃はもう何を申上げて居るか、自分でも時々わからなくなることがあるやうでございます」
 勝藏は躍起やつきになつて養母の言葉を嘘にし度い樣子す。
「ところで御主人」
「へエ」
「お前さんは、亡くなつた御隱居と、大層仲が惡かつたさうぢやないか」
「と、飛んでもない。私共は町内でも評判の仲の良い父子おやこでございましたよ」
「少しばかりの寢酒を止させたり、三度のものも、粥を一膳に、味噌か鹽を嘗めさせて居たといふが――此邊に聞えた大身代の老木屋の隱居が、それで宜かつたのかな」
 平次は思ひきつて突込みました。斯う言つた刻薄な人間に對する、持前の義憤が煮えこぼれます。
「それは、年寄の身體のことを考へたことで、養生をして、百までも生きて居てもらひ度かつたのですよ」
「五年や三年早く死んでも、もう少し樂な暮しもし、好きなものを喰べたかつたかも知れないよ。それに無理に隱居をさせて、有金から地所家作、皆んなお前さんのものにして、離屋の二階に追ひ上げて居るし――と世間では散々の評判だといふぜ。赤羽橋の友吉親分は、町内の噂を手一杯に集めて來て居るが」
「そんなことは御座いません。それは老木屋の身上をねたむ者のこしらへごとで御座いますよ」
「何が拵へごとで、何が本當なんだ」
「――」
 勝藏は口をつぐんでしまひました。
「御隱居を殺した曲者は、外から入つた樣子は無い。下手人は家の中の者ときまると、六つかしいことになるぜ、御主人」
 平次は何やら考込んでしまひました。それの前に立つた、主人勝藏の照れ臭さ、やがて挨拶もそこ/\に店の方へ行つてしまひます。
「親分」
「何んだ、八」
 八五郎が少しあわてゝお勝手の方からやつて來ました。
へつゝひの中に、こんなものがありましたよ」
 何やら燒け殘つた棒のやうなものを振り廻します。
「刀の鞘だらう」
「親分は目が高いね、匕首の白鞘しらさやですね。薪の中に半分燒け殘つて居るのを見付けて來ましたが」
「宜いものが手に入つたよ。その中味が何處にあるか、それを見付けさへすれば、下手人の見當もつくわけだ」
「さうでせうか」
「ところで、その匕首の持主は?」
「主人勝藏のものださうで――」
「誰がそんな事を言つた」
「番頭の勘七に訊きましたよ。虫干の時見たことがあるが、何處かの抽出ひきだしへでも入つて居たことでせう――といふことで」
「赤羽橋の親分の子分の衆に頼んで、家の中から外へかけて、念入に搜してくれ」
「へエ」
 八五郎は飛んで行きました。間もなくバタバタ始まつたのは、平次の言ひつけ通り、老木屋の家の中から外へかけて、煤掃すゝはきほどの騷ぎが始まつた證據です。
 それは八五郎に任せて置いて、もう一度二階へ行つた平次は、縁側で、思ひも寄らぬ人に呼び留められました。
「あの、あの、親分さん」
 それは精一杯の、消えも入りさうな聲です。
「――」
 默つて振り返ると、勝藏の娘のお秋が、此上もなくおびえた樣子で、自分の袂を噛んだり揉んだり、平次の後ろから追ひすがるのです。
「お孃さんかえ」
「あの、お願ひがありますが」
「言つて見なさるが宜い、遠慮することは無い」
 平次は言葉を柔らげて、縁側から三疊へ滑り込みました。幸ひ其處には誰も居ません。
「お父さんが、縛られるでせうか、親分」
 お秋はそれを心配して居たのです。隱居の八郎兵衞と仲の惡かつた父親の勝藏は誰の眼にも第一番に下手人の疑ひを受けさうです。
「どうしてそんな事を? お孃さん」
「赤羽橋の親分が、子分衆とそんな事を話して居るのを、聞くともなしに聞いてしまひました」
「友吉親分が?」
「下手人は家の者に違ひない、――すると、主人の外に隱居を殺す者は無い筈だから、平次親分が縛らないうちに、此方で擧げてしまはなきや――とそんな事を申して居りました」
「?」
「そんな事はありません。お父さんにも惡いことはあつたにしても、御祖父おぢいさんを殺すなんて、そんな事は――」
 お秋は言葉少なに抗議するのです。
「それはお孃さん、本當の下手人が擧らないうちは、私の力でも何うすることも出來ないよ。友吉親分がするのを、暫らくは見て居る外はないが――」
 平次も斯う言ふ、煮え切らないことを言ふのが精々です。
「でも、親分さん」
 お秋は絶句ぜつくしてしまひました。言ひ度いことは千萬無量でも、處女むすめの舌はさう滑らかには動かず、唯シクシクと泣くばかりでした。
 十八といふにしては、やゝ柄の大きい方、豊かな娘姿で、充分可愛らしいうちに、何んとなく清らかな聰明さを感じさせるのは、父親にも母親にも似ぬこの娘の良さです。
 お秋はそのまゝ、泣き乍ら梯子を降りて行くと、入れ違ひに二階へ來た八五郎は、
「どうしました親分、あの娘は泣いて居ましたぜ」
「可愛想だが、友吉が主人の勝藏を縛るのを、何んとかして止めてくれと言ふんだよ。これは俺にも六つかしい」
 平次は苦い顏をするのです。
「するとあの勝藏は矢張り下手人ですか」
「いや、まだ解らないよ。だが、養ひ親を離屋の二階へ追ひ上げて、粥をすゝらせて來たやうな男は、一度は親殺しの疑ひで縛られても仕方はあるまい。俺はもう歸るよ、八」
 平次は諦めた樣子で、歸り仕度をするのです。もう秋の日は暮れかけて、三田の森で、うるさく烏が啼きます。
「驚いたなア、親分は何んか考へて居るんでせう」
「いや、何んにも考へちや居ないよ。お前は氣にかゝるなら、後に殘つて、あのを見てやるが宜い」


 老木屋の隱居殺しは、それつきりわけのわからぬものになつてしまひました。
 赤羽橋の友吉は、父親殺しの疑ひで、その日のうちに主人の勝藏を擧げ、平次の思惑などに構はず、手を盡して調べて見ましたが、本人の勝藏は口を開かない上、しかとした證據が無いので、一と月經たないうちに歸されてしまひました。
「主人は歸されたが、眞當ほんたうの下手人の擧らないうちは、世間の人は白い眼で見ますから、老木屋は火の消えたやうですよ」
 八五郎がさう言つて來たのは、十月に入つて間もなく。
「娘のお秋はどうした」
 平次もあの純情らしい娘のことは氣にかけて居たのです。
「父親が歸つて、ホツとした樣子ですが、でも、あの娘には全く可哀想でしたよ」
「何が?」
「半病人のやうになつて居る母親の世話から、隱居所に獨り取殘された、お妻お婆さんの世話まで、大變なことでした」
「婆さんは元氣か」
「年寄は連れ合ひに死なれると、見じめですね。油のなくなつた燈明見たいに、あのまゝ消えてしまひさうで」
 八五郎がこんな表現をするのは、大したことです。
「相變らず粥をすゝらせて居るのか」
「主人が縛られて、内儀が寢込むと、あの家は采配さいはいるものが無いから、娘の存分になるやうで、近頃は隱居所へ運ぶ三度の膳も大した御馳走ですよ」
「ところで、お前はもう少しあの家を見張つて居てくれ、俺には腑に落ちない事ばかりだ」
「へエ、そいつは惡くねえ仕事だが、泊り込んぢやいけませんか。神田から三田は、通ひぢや遠過ぎますよ」
「あのの顏ばかり見てるんだらう。虫の毒だぜ」
「そんな事はありません。あつしは虫氣の無いが親の自慢だつたさうで」
「お前の虫ぢや無い、向う樣の虫だ」
「へツ、違えねえ」
 八五郎はそれから暫らくの間、神田と赤羽橋と、三田四國町の間を往來しました、老木屋に泊り込みも六つかしかつたので、赤羽橋の友吉のところに泊り込んで、三日に一度は平次のところに報告を持つて來たのです。
 それから又半月あまり、
「わ、親分、大變ツ」
 八五郎が明神下の平次の家へ飛込んで來たのは、十月も殘り少くなつてからの、ある晴れた朝、
「何んだ八、お前の大變が來さうな日和ひよりでも無いが」
「落付いちやいけませんよ。今度は、老木屋の婆さんがやられましたぜ」
 この報告は、なるほど平次に取つても豫想しなかつた事でした。
「何處で、どうして?」
「今日は亡くなつた隱居八郎兵衞の四十九日でせう。昨夜はその逮夜たいやで、坊主を呼んでモガモガとやらかして、寢たのは亥刻よつ過ぎ、あつしは其處まで見窮めて、赤羽橋へ歸ると、今朝は夜の引け明けに急の使ひだ。飛んで行つて見ると、隱居の婆さん、あのお妻といふ――名前だけは若いが、恐ろしく皺びた婆さんが――」
「無駄が多いな」
離屋はなれの裏の松の木の二間ほどの高さの大枝にブラ下がつて居るぢやありませんか」
「首を縊つたのか」
「足は大地から三尺も離れて居るし、踏臺の無いところを見ると、自分で首を縊つたのぢやありませんよ」
「松へ登つてブラ下がる工夫もあるぜ」
「親分も御存じでせう。あの松は二た抱へもある大木で、梯子でも掛けなきや、大の男だつて、手掛りが無くて登れやしません。まして雜巾見たいな皺くちや婆アが――」
「止さないかよ、そんな口の惡いことは」
「へエ、相濟みません。惡氣ぢやないんで」
「その上惡氣があつちや、お前といふ人間は附き合ひきれないよ。幸ひ人間は此上もなく甘口だから宜いやうなものゝ」
「驚いたね、小言を聽きに來たやうなものだ」
「赤羽橋の友吉親分はどうした?」
「こいつは殺しに違えねえから、今度こそは日頃仲の惡かつた、主人の勝藏か、内儀のお元を縛るんだ。――と手ぐすね引いて居ますよ」
「よし、そいつは物騷だ。行つて見よう」
 平次は八五郎と一緒に、朝の町を、三田へ飛んだことは言ふ迄もありません。


 老木屋は火の消えたやうでした。女隱居のお妻の死骸は、松の枝から取おろして、曾ての日、八郎兵衞の死骸を置いてあつた、離屋の二階に移しましたが、其處には主人勝藏も、内儀のお元も姿を見せず、番頭小僧と娘のお秋が唯ウロ/\して居るだけ。
「親分さん、父も母も、赤羽橋の親分につれて行かれました。お祖母さんを殺したに違ひないといふんです。でも、そんな事があるわけはありません。助けて下さい、お願ひです。親分さん」
 今まで祖母の枕元に、經机やら線香やらを飾つてたらしい娘のお秋は、錢形平次の姿を見ると、飛附くやうにやつて來て、袂にすがりつかぬばかりにせがむのです。
 あまりの事に顛倒てんたうして、とみには涙も出ない樣子ですが、佛の前に仕へる少しばかりの靜かな營みを離れると、唯もう十八娘の純情さに還つて、駄々つ兒のやうに錢形平次に訴へるのでした。
「親分、お秋さんがあんなに言ふんだから、何んとかしてやつて下さいよ。主人と内儀は下手人なんかぢや無いんでせう親分」
 八五郎もお秋の涙を見ると、もう十手も捕繩も忘れてしまひます。
「待て/\、さう手輕にきめちやいけない、少し調べさしてくれ」
 平次は女隱居をんないんきよお妻の死骸を調べましたが、首筋に二本の繩の跡があり、しかもそれは血がにじむほどひどく縛られたもので、一と握りしか無い。女隱居をんないんきよがブラ下がつた位では、これ程の重さが加はらうとも思はれません。
 外へ出て松の枝を仰ぎましたが、紙屋の西窓の上スレスレの大枝は、大地の上からは、ザツト二間もあるでせう。六十五歳の女隱居やは飛附ける筈も、なはを架けられる筈もなく、松の木の下はジメジメで、死骸を取おろした人の足跡は澤山殘つて居りますが、女隱居が跣足はだしでブラ下がつて居たといふのに、女の跣足の足跡などは一つも殘つては居りません。
 その上、足が地上三尺位のところにブラ下がつて居たとすれば、首縊りの踏臺がある筈ですが、そんなものは無く、松の古木は手掛りも足掛りも無いとすると、尋常な首吊りでないことは餘りに明かです。
 女隱居のお妻が首を吊つた枝の上には、二つ三つの太い枝があり、二階の窓の上のあたりには、松の葉隱れに、何やら鳥の巣があります。多分鳶か烏でせう。雛は夏のうちに巣立つて、今は空つぽになつて居る樣子が、下から見ても、葉隱れによくわかります。
「首を吊つた綱があるだらう」
「これですよ」
 八が物置から持つて來たのは、三間あまりの麻の丈夫な細引で、死骸を取おろす時、一端は切つてあり、結び目は嚴重で、妥協だけふの無い男結びです。
「もう一度、二階へ行つて見よう」
 平次が二階へ引返すと、女隱居お妻の死骸の前は、孫のお秋の手で飾られて、どうにかかうにか恰好が出來て居り、開けた西窓からは、新しく線香の煙が流れて、窓外に老松の枝が蜘蛛の巣のやうに掛つて居ります。
 平次はそれをけて窓に顏を出すと、暫らく庇を見て居りましたが、それから床の上に横たへた女隱居の死骸の裾に廻つて、兩方の足の裏を念入りに調べて居りましたが、
「八、わかつたよ」
「何がわかつたんで、親分?」
「主人の勝藏夫婦が下手人でないといふことが、大概見當が附いたやうだ。お前は番所に行つて、赤羽橋の友吉親分をつれて來るが宜い。多分まだ口書くちがきを取つちや居ないだらう。主人の勝藏と内儀のお元もつれて來ると有難いが――」
「親分、それは本當ですか。待つて下さい」
 八五郎がスツ飛んで行くと、後に殘された平次の前へ、お秋は物も言はずに深々とうな垂れて居るのです。平次の言葉に驚いて、唯もう涙が、後から後からと、泉の如く湧くのでせう。


「錢形の親分、外に下手人が見附かつたさうぢやないか」
 赤羽橋の友吉は、ひどく機嫌が惡さうでした。四十男のしたゝかさ、長い間の十手れで、人に彼れこれ言はれるのが、我慢のならない屈辱だつたのです。
「いや、他に下手人を見附けたわけぢや無いよ」
 平次は靜かに答へました。友吉の後からはその子分達と八五郎が、腰繩を打つたまゝの主人勝藏と内儀のお元をつれて來ます。
「それはどういふわけだ。まさか、錢形の親分ともあらう者が、俺の仕事にケチをつけるわけぢやあるめえ」
 友吉の言葉には、何處までもとげがあります。
「飛んでも無い、――俺も實は此儘にして置き度いと思つたよ。主人勝藏夫婦は少し罪を作り過ぎた、――が、下手人でも無いものを所刑しおきにしては、一生寢覺めが惡いばかりでなく、お上の御威光にも拘はるといふものだ。それに、この娘に泣きつかれると、俺は何が何んでも、兩親を助けてやり度くなつたよ」
 平次はその側に泣き濡れて居る、お秋のいぢらしい姿を振り返りました。この娘ばかりは離屋の二階にそつと菓子などを運んで、八郎兵衞夫妻を親切に見てやつて居たのです。
「すると、下手人は誰だえ」
 友吉はまだ尖つて居ります。
「ま、待つてくれ。その前に、俺は主人勝藏夫婦に訊き度いことがある」
「――」
「ね、御主人、お前さん方は夫婦養子ださうだ。先代の八郎兵衞さんが身體が弱くなると、無理に家督を讓らせた上、有金から地所家作皆んな自分のものにし、隱居二人を離屋の二階に追ひ上げて、粥をすゝらせて居たといふぢやないか」
「――」
「そんな不心得な人間は、鈴ヶ森に死首をさらされても、文句は言へねえ筈だ、――俺が默つて引込んでしまへば、お前さん達二人は、磔刑はりつけ柱を背負はされるかも知れないぜ」
「親分さん、堪辨して下さい、我が惡う御座いました。どうぞ、娘に免じて」
 主人の勝藏は始めて悲鳴をあげたのです。此處で錢形平次に手を引かれては、決して助かる見込は無く、磔刑柱はりつけばしらが幻のやうに、眼の前にチラ附くのです。
「その娘のお秋さんの優しい心づかひが、お前達二人を助けたのだよ――實を言ふと、隱居の八郎兵衞夫婦はなぶり殺しにされるよりも、ひどい念ひで死んで行つたのだ」
「親分さん」
 泣き出したのは、女房のお元でした。平次に斯う指摘されると、この五年の間、養父母に加へた虐待ぎやくたい凌辱りようじよくが、あり/\記憶に蘇生よみがへるのです。
「よし、さうまで言ふなら助けてやらう」
「――」
「八、お前はその押入の中の楊弓やうきうと、此間外で拾つた凧絲を持つて來てくれ。そして外へ出て松の枝の下で待つて居るのだ」
「へエ」
 八五郎が階下したへ行つて、窓の下に立つた頃を見計らつて、平次は血の附いた凧絲たこいとの一端に、羽のところに少し蟲の附いた楊弓の矢を結び、その矢を窓から、松の三番目の大枝、丁度屋根の上のあたりへ被さつた大枝の上へ射てやりました。
「うまいぞ」
 楊弓の矢はその大枝を越すと、凧絲に牽制けんせいされて、枝の向うへスル/\と落ち、窓の下に居る八五郎の頭の上へ下がるのです。
「その矢を窓の中へはふり込んでくれ」
「へエ、それヨ」
 二度三度しくじつて、揚弓の矢は凧絲の一端を結んだまゝ、窓の中に入り、平次の手の中に納まります。これで平次の持つて居る凧絲は、見事に松の三つ目の大枝に掛つたわけです。
「友吉親分、これからが大事だ、見てくれ」
 平次は凧絲から楊弓の矢を外すと、弓と共に側へ置きました。
「この楊弓は階下のガラクタの中に返すのが本當だが、先づ、その積りにして置いて」
 平次は火鉢に突つ立つて居る、眞鍮磨しんちうみがきの逞ましい火箸を取ると、凧絲の一端に結び、その結び目のところを、絲を少しほぐして、寄れば直ぐ切れるやうにして置きます。
「此火箸は匕首の積りだ。御隱居は此の凧絲に結んだ匕首で自分の喉笛を掻き切り、恐ろしい苦しみを我慢して、凧絲の一方の端を引つ張つたのだ」
 さう言ひ乍ら凧絲の一端を引くと、凧絲は火箸をブラ下げたまゝひさしを渡り宙に浮いて、松の三番目の大枝まで吊り上げられ、其處で止つたところを、凧絲をグイと引くと、結び目のところで凧絲は切れて、火箸は誂へたやうに、その下枝、丁度松の葉の繁みに掛けた何やら、鳥の巣へポトリと落ちるではありませんか。
「八、あの火箸を取つて來てくれ。火箸の[#「火箸の」は底本では「火鉢の」]外に、其處には血の附いた匕首も落ちて居る筈だ」
「よしツ」
 八五郎は三間梯子を持つて來て、松の三番目の大枝へかけると、スルスルと登つて上から鳥の巣を覗きましたが、思はず町内中に響き渡る聲になります。
「ありましたよ、親分、火箸と重なつて、匕首が――」
 血染の匕首と眞鍮しんちうの火箸を持つて、八五郎は轉がるやうに梯子を降りて來ました。
「恐れ入つたよ、錢形の親分、だが――」
 赤羽橋の友吉も最早一言も無い姿です。
「待つてくれ、赤新橋の親分、――俺は最初から、ガラクタの中の古い楊弓や矢に埃の無いのも變だと思つたし、血染の凧絲を外に投つてあつたのも變だと思つたよ。御隱居は養子の主人夫婦を怨み拔いて死んだが、唯死ぬのはつまらないと思つて、自殺し刃物を隱し、細工に使つた凧絲を、死際の苦しみの中で窓の外へ捨てゝ、養子の主人に下手人の疑をきせようとした。が、主人の勝藏が本當に下手人なら、外から曲者が入つたやうに、何處か戸締りを加減する筈だ。それに匕首の鞘をお勝手の土竈へつゝひで燒かうとしたのもをかしい」
「――」
「俺は御隱居の細工と、見拔いたが、死んだ隱居の身にもなつて、わざと放つて置いたよ。尤もいよ/\死罪といふ時は、飛出して來て助ける積りであつたが」
「お婆さんのお妻さんは?」
 友吉はまだ腑に落ちないものがあつたのです。
「お氣の毒なことに、――配偶つれあひのお妻さんには、自分を親類へ泊りにやつて自殺した、御隱居八郎兵衞さんの氣持はよく判つた。そこで、前以て書いて置いた書き置きなどを見せたが、一度しばられた養子の勝藏がすぐ歸されたので、今度は自分が死ぬ氣になり――」
「ありや自分でやつたんですか、親分」
 八五郎は口を尖らせます。
「松の下に足跡が無く、足が三尺も大地の上にブラ下つて、踏臺が無いのは殺したに相違ない――と一應思はせたが、死骸の足の裏を見るが宜い、苔と埃で一パイだ、――窓の外の庇を踏んだのだ」
「へエ――?」
「どうかして松の一番下枝に綱をかけ、二階の庇に出て、その綱を首に卷いて飛降りたのだよ、――足は大地に着かないし、踏臺も無いわけだ」
「あゝ成る程」
「ね、勝藏さん、いや、御主人」
「――」
「お前はこれ程まで、養ひ親二人にうらまれて居たんだぜ。磔刑柱はりつけばしらを背負はされても、不足は言へめえ」
「お秋の孝心と、優しい心掛が二人を救つたのだ」
「親分、親分さん方、此私は惡う御座いました。私を此まゝ縛つて行つて下さい。私は矢張り親殺しに間違ひもありません。錢形の親分」
 勝藏は今更座にも堪へない樣子で、身をもがくのです。
「もう宜い、芝居は澤山だ。お前が本當に改心するなら、――磔刑柱を背負はせなくたつて世の中には、することが澤山ある筈だ」
「親分」
 勝藏も、お元も、娘のお秋も泣いて居りました。
「八、さア歸らう。赤羽橋の親分、それぢや」
 平次は八五郎を促してわだかまりもなく立ち上がるのです。
        ×      ×      ×
 道々八五郎は、
「隱居の死骸のそばにあつた短刀は、ありや誰のやつたことでせう。あつしにはわけもわかりませんが――」
 と訊くと、平次は、
「娘のお秋の細工だらうよ。あの娘は、それ位のことをやり兼ねない利口者だ。刃物が無いと殺しといふことになるが、曲者は外から入つた樣子もなく、日頃兩親隱居夫婦の仲が惡いから、兩親に疑ひのかゝるのを心配して、自害に見せる積りで、あんな細工をしたのだらう。短刀へ血をつけて置くと申分ないが、それを忘れたのは、娘らしい手落ちか、それとも氣味が惡くてそんな事は出來なかつたのか」
「へエ」
「何を感心して居るんだ」
「それにしても良い娘でしたね」
「好い娘には違ひないが、諦らめろ。相手は身上しんしやうが大き過ぎるし、智惠が廻り過ぎて、お前には釣り合はないよ」
「へエ、お氣の毒樣見たいで」
 二人はこんな調子で明神下へ歸るのです。





底本:「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年4月11日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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