錢形平次捕物控

弱い浪人

野村胡堂





 増田屋金兵衞、その晩は明るい内から庭に縁臺を持出させ、九月十三夜ののちの月を、たつた一人で眺めることにきめました。
 金があつてしみつ垂れで、人づき合ひが嫌ひで、恐ろしく風流氣のある金兵衞は、八月十五日の名月も、この獨自のシステムで觀賞し、こと/″\く良い心持になれたので、それを又くり返して、その頃嫌つた片月見にならぬやうにと、いとも經濟的な魂膽こんたんだつたに違ひありません。
 奉公人や近所の者が何んと言はうと、思ひ立つた事は遠慮會釋もなく實行に移すのが、それが金持の特權であり、風流人のたしなみであると信じきつてゐるので、番頭やせがれがその不穩當さを非難したところで、耳を傾けるやうな金兵衞では無かつたのです。
 この變つた獨り月見の異變を、作者が辛棒強く平敍へいじよして行くより、江戸の御用聞、お馴染錢形平次の、明神下の住家で、子分の八五郎をして語らしめた方が手つ取早く埒があきさうです。
「ね、親分、金があつて暇があつて、妾があつて風流氣があるんだから、思ひ付くことだつて、世間と違つて旋毛つむじが曲つてゐますね」
「まるでお前見たいぢや無いか」
 錢形平次は相變らずの調子で、半分は冷かし乍ら、適當なテムポで八五郎の報告を聽いて居ります。
「へツ、違げえねえ、こちとらは借金があつて、仕事があつて、情婦いろがあつて、喧嘩氣がある」
「それから先を話せ」
「増田屋金兵衞、二た抱へはたつぷりあらうといふ名物月見の松の下に縁臺をゑさせ、松の葉蔭から、ユラ/\と昇る月を眺め乍ら、チビチビと呑んだり、鹽豆を噛つたり、下手な發句ほつくを考へたり」
「鹽豆は變な好みだな」
しみつ垂れだから、一人で呑むんだつて、酒の肴のぜいは言はない、――尤も一代に何千兩といふ身上を拵へる人間は、蟲のせゐで刺身さしみ蒲鉾かまぼこは自腹を切つちや食はないんですね」
「――」
「御存じの通り、昨夜ゆうべは良い月でしたね、あんな月を見ると、こちとらはあはせ位は曲げて呑み度くなるが、金兵衞は酒のお代りも言ひつけずに、下手な發句ばかり並べて喜んでゐる――、麻布名物の月見の松の下でね――」
「それからどうしたんだ」
 平次は後を促しました。良い月夜の翌る日は、シヨボシヨボした秋雨になつて、夕方はもう眞つ暗、平次と八五郎が相對してゐる、神田明神下の――詳しく言へばお臺所町の路地の奧は、申刻なゝつ過ぎにもうあかりが欲しいやうです。
 火鉢を挾んで、寒山拾徳じつとく見たいなポーズで、たつた一本の煙管を、平次がすめば八五郎が拾ひ、八五郎が投り出せば、平次が取上げると言つた、世にも氣樂な親分子分風景でした。
「話の前に、増田屋金兵衞は生れ乍らの町人では無く、元は武家の出で、今から二十年前、増田屋の亡くなつた後家に惚れられ、還俗げんぞくして町人になつたといふことを覺えてゐて下さい」
「還俗て奴があるかえ。――兩刀を捨てるとか、何んとか言ひやうがあるだらう」
「同じやうなもので、――兎も角、さむらひのくせに弓馬槍劍はから下手ぺた、ちよいと男がよく、辯舌が達者で、算盤そろばんが出來て、風流氣があつた――そこを見込まれて、元々身上の良い増田屋の後家に惚れられ、増田屋の庭先の、鼠の巣のやうな長屋から這ひ出して、披露も御挨拶もなく、ヌツと増田屋に納まつて、浪人まげを町人髷にした」
「――」
「増田屋には先の亭主の遺した、新吉郎といふ今年二十八の伜があり、多與里たよりといふ、今の主人の金兵衞の娘があります。これは十七になつたばかり、可愛らしい娘ですよ」
「お前に言はせると、娘は皆んな可愛らしいから不思議さ」
「それでも妾のお鈴には及びませんよ、これは二十歳はたちか二十一でせう、素人の出だといふが、凄いほどの女で」
「道具建てはそれ位にして、月見の話はどうなつたんだ」
 平次も少ししびれをきらしました。
「増田屋金兵衞の人柄から話さなきや、この話は面白かありませんよ、――何しろ二十年前に増田屋の後家のところへズル/\ベツタリ入り込んで、それから増田屋の身上を倍にも三倍にもした男だ、人のうらみも隨分買つてゐるわけで、此間からたちの惡い惡戯が引つ切りなしだ、塀や羽目は落書きで一パイだし、石をはふる者、店先へ泥を飛ばす者、出入の鳶頭かしらの半次が見張つた位ぢや、防ぎやうが無い」
「――」
「それがかうじて到頭、昨夜の縁臺の獨り月見で、主人の金兵衞半死半生の目に逢つた」
「――」
「縁臺に腰を掛けて、チビ/\やり乍ら、松の葉越しに昇る月を眺めて下手な發句を――」
「それはもう聽いたよ」
「ところへ、いきなり頭の上からバラリとわなが落ちて來た、――アツと言ふ間もありやしません、氣の付いた時は、首を吊られた主人金兵衞の身體が、縁臺を離れて、フラ/\と宙へ吊り上げられて居たとしたらどんなものです」
「驚くよ、――俺だつてそんな目には逢ひ度かない、誰が一體そんな亂暴なことをしたんだ」
「それがわかれば、あつしがしよつ引いて手柄にしまさア、釣られた主人は一切夢中だし、家中の者は誰も氣が付かない、繩は松の大枝から下つて、五十七歳の増田屋金兵衞、まるで蜘蛛くもの巣に吊られた一匹のはへのやうに、月見の松へキリ/\と引上げられた」
「成程、氣味のよくねえ話だな」
「足は大地を離れてゐるから、ジタバタしたつて、踏むのは虚空ばかり、罠で首を締められてゐるから、助けを求めやうにも聲が出ねえ」
「刄物を持つてゐなかつたのか、元は武家だといふから、せめて脇差か何んか」
「そんな物はありやしません、手に持つてゐるのは、筆と短册たんざくだけ、――増田屋金兵衞ばうとなつてしまつた。何刻なんどき經つたかわからねえが、實は煙草一服の間かも知れません、松の上から金兵衞を吊り上げた曲者は、繩尻を大枝に止めると安心して逃げてしまつた、あとは金兵衞が死ぬのを待つばかり」
「――」
「が、丁度その時、増田屋のかゝうどで、近頃來たばかりの浪人者――用人棒といふにしては人柄の良い、椿三千麿つばきみちまろといふ若い武家が、外から歸つて來て、庭木戸の外から此ていを見た、月が良いから、庭の中は一と眼だつたといふんで」
「フン」
「いきなり木戸を押し開けて飛込み、脇差を拔いて飛上りさま、金兵衞の頭の上で繩を切つた、金兵衞が蜘蛛の巣から離れた蟲のやうに、ドタリと落ちて來るのを、危ふく宙に留めたといふから大した手際でせう。その時はもう、金兵衞蟲の息も通つて居なかつたが、柔術やはらの方で、落ちた人間の手當を心得てゐる椿三千麿が、背を割つて活を入れ、顏へ水をブツ掛けると、宜いあんべえに金兵衞は息を吹返しました」
 八五郎は漸くこの話を終りました。
 麻布へ用事で行つた歸り、土地の御用聞から聽き込んで、稼業冥利しやうばいみやうりに増田屋を覗いて來たといふのです。


 二度目の異變は、十一月の十七日。
 増田屋金兵衞は、離家はなれ母家おもやを繋ぐ、廊下の端で刺されました。
 この時は向柳原の八五郎の家へ、麻布からわざ/\の使があつたので、八五郎に誘はれた錢形平次は、神田から遙々の道も厭はず、好奇心で張り切つて飛んで行きました。
 麻布の十番、俗に言ふ十番馬場の近くで、飯倉新町の一角を占めた増田屋は、大地主であり、武家の出身であつたにしても、いさゝか僭上な構へで、破風造りの堂々たる住居でした。從つてその部屋々々の關係も複雜怪奇で、一度覗いた位では、平次にもチヨイと見當はつきません。
「錢形の親分さん、遠方を御苦勞樣でした。主人が、どうしても親分さんに來て頂き度いと申しますので、へエ」
 番頭の伊之助が案内してくれました。五十前後の、先代から奉公してゐる、忠義者――と後に主人金兵衞は紹介して居ります。二代の主人に仕へて、少しも厭な顏もせず、不自然な態度も示さなかつた、徹底的な順應主義者といふ意味でせう。
 柄は大きくありませんが、よく肥つた愛嬌のある男で、誇張された感情を、すぐ顏に出して見せる、特色のある印象を持つて居ります。
 主人の部屋は母屋の奧で、階下したの八疊でしたが、その頃はやかましかつた長押なげしを打つて、床の間なども書院造りらしく見せて居り、主人金兵衞の出身やたしなみを匂はせて居るのです。
「錢形の親分ですが」
「いや、飛んだ無理を言つて濟みません」
 番頭に紹介されると、主人金兵衞は、絹物の夜具の上に、僅かに首を動かしました。五十七八の痩せぎすの小柄な男、若い時分は隨分美男でもあつたでせうが、しわが寄つて、眼の下に脂肪がついて、顏色が青黒くなつて、眼玉がドンヨリしては、若い時美男であつただけに反つて淺ましく醜くゝ見えます。
 床の側に居るのは、二十歳そこ/\の、素晴らしく肉感的な女、骨細であぶらが乘つて、彈力と骨格を失つてしまつたやうな、――早く言へばみだらな感じのする女でした。顏の道具はよく整つた方、八五郎が言ふほどの美人ではありませんが、人に依つては斯んなのに、飛んだ點を入れるかも知れません。
 平次が、事件の説明を訊くと、主人金兵衞は、眼顏で妾のお鈴に席を外させ、思ひの外の元氣さで、斯う説明しました。
「昨夜亥刻よつ半頃、此處から離屋に通ふ廊下に立つてゐると、いきなり横から刺されました、刄物は脇差のやうでした、眞つ暗で何が何やらわからず、思はず大きな聲を出すと、曲者はバタ/\と逃げたやうですが、間もなく母屋の方から、椿さんが手燭を持つて驅けつけてくれました。なアに、傷は大したこともありませんが、此間から手を替へ品を變へ、意地の惡い惡戯が續きますので、到底我慢がなり兼ねて、親分に來て頂いたやうなわけで――」
 主人は何んとなくおびえてゐる樣子ですが、言葉だけは、さり氣なく元氣に聞えます。
「傷は?」
「左の脇腹で、一寸右へ寄れば、心の臟をやられるから、命は無かつたと外科が申します。廊下のあの邊は古い屏風やら建具やら、澤山のガラクタを積んでありますから、曲者は其處に隱れて居たことでせう」
亥刻よつ半といふと半夜よなかだが、御主人は何んだつて、そんな場所へ行つたんです。話の樣子では、灯も無かつたやうだが」
「それは、フト、氣になることがありましたので――」
「氣になるといふと?」
「離屋の方で物音がしたやうに思ひました、――私の空耳だつたかもわかりませんが」
 主人金兵衞はひどく言ひ憎さうです。
「刄物は落ちてゐなかつたので」
「それも申しました、家中の者に搜させた時は、何んにも無かつた相で」
つまらねえことを訊くやうですが、御主人をうらむ者は?」
「二十年前は兩刀を手挾たばさんで居りました、若氣の過ちで、隨分我儘氣隨な振舞もいたしましたが、それはもう昔のことで――町人になつてからは、人と爭はないやうに、そればかり氣をつけて參りましたが」
 主人金兵衞は、さうは言ひきつても、何んとなく割りきれないものがありさうです。
 大方話の了つたところへ、伜の新吉郎と、娘の多與里たよりが入つて來ました、新吉郎は二十七八の、平凡過ぎるほど平凡な男でした、金にも健康にも何んの不足も無いのに、二十七八まで嫁の無いといふことからして、此頃の世間並では尋常ではありません。
 娘の多與里は十七、これは金兵衞の本當の子で、おもざしもいくらか父親に似て居り、細面ですがふつくりした頬やあごに、何んとも言へない可愛らしさがあります。
 平次は一應二人にも訊いて見ましたが、若い二人には何が何やらわからず、父親が松の木に吊られた時も、昨夜の騷ぎのときも、二階の自分達の部屋に居て、驚きあわてたといふだけのことでした。
 番頭に案内させて、平次は廊下から離屋を調べました、廊下は二間の板敷で、長さは二間程、北の方は窓を塞ぐほどの道具を並べて、曲者が居たとしたら、何處にでも身を隱せさうです。
 窓は全部内から塞いで居り、滅多に風も入れないらしく、びついて、容易には開けられません。
 其廊下の盡きるところは、三疊に六疊の離屋で、先代の頃隱居が使つて居たといふ、ほこり臭い建物、縁側などを透して見ると、縱横に足跡の亂れてゐるのは、何んとなく淺ましさを感じさせます。
「足跡は隨分澤山あるが、女の足跡が無いぢやないか」
 平次は妙なことに氣がつきました。
「こんな埃の中へ入るのに、草履ざうりも穿かずに、足袋跣足はだしは變ですね」
「逢引は素足の方がピタリとするだらう、大きいのと小さいのと、素足の跡が入り亂れて居ると洒落れてゐるが」
 そんな柄にも無い事を言ひ乍ら、念の爲に雨戸を開けて見ると、庭の植込を隔てゝ、低い生垣の外に曾ては今の主人が住んでゐたといふ、浪宅があからさまに見えますが、軒は傾き、柱も歪んで、ひどく危なげです。
「あの家には誰が住んでゐるのだ」
「松井小八郎樣と仰しやる御浪人で――」
 番頭伊之助は酢つぱい顏をして居ります。この浪人に對してあまり良い感じは持つて居ないのでせう。
 平次は元通りに雨戸を閉めようとして、フト母屋の二階を見上げましたが、番頭を振り返つて、
「あれは」
 と雨戸の陰に身を引いて指すのです。
「椿三千麿樣でございます、此夏頃から御滯在ですが――」
 見ると娘の多與里と親しさうに話して居るのは、二十四五の若い浪人者でした。少し多血質らしくはあるが、人品の良い、身のこなしの上品な、粗末な木綿物の袷に同じ木綿の紋附を羽織つて、脊の高さも尋常、何んとなく好ましい感じのする男でした。
「お孃さんと仲が良いやうだが――」
「へエ、お互に若いことですから」
 番頭伊之助は、少しくすぐつ度い表情です。


 一とわたり見て、裏口へ出た平次が、下女のお猪野ゐのにつかまりました。
「親分さん、――昨夜御新造(お鈴)が何處に居たか、御存じでせうね」
 それは二十二三の良い年増でした。
「お前は何んか知つてゐるやうだな、――遠慮なく言ふが宜い、御主人は夜中に何んな用事があつて起出したんだ」
 平次はこのきりやう良しの下女から、何んか容易ならぬ事を訊き出せさうな氣がしたのです。
「御新造があの通り若くて綺麗なんですもの、お年寄の御主人とうまく行かないのも無理はありません、――近頃はお部屋も別々ですし」
 たつたこれ丈けのことで、平次には何も彼も呑込めたやうな氣がしたのです。傷ついた主人の側に居た妾のお鈴に對する、主人金兵衞のよそ/\しさが、唯事でないやうに思つたのも、主人が用もないのに夜中に飛起きて、灯も持たずに廊下に潜んだのも、下女のお猪野の謎のやうな言葉で一ぺんにわかつたのです。
「それで?」
「今までも、旦那樣が時々夜中に飛起きて、忍び足で飛んでもないところに行き、ヂツと耳をすましてゐることがありました。お氣の毒なことに、あの月見の晩から後、旦那樣はおち/\お休みにならない樣子なんです」
 斯んな事をツケ/\言つてのける下女のお猪野の心持も、平次はよくわかるやうな氣がするのです。
 そのお猪野――まだ何んか言ひ度さうな顏をしてゐるお猪野と別れて、裏庭の方へ廻ると、八五郎は何時の間にやら平次の側からぬけ出して、五十五六のむくつけき男と話して居りました。
「あれは下男の酉松とりまつですがね、二十五六年も此家に奉公して居るさうで、いろ/\面白いことを教へてくれましたよ」
「何んだい、その面白いことゝ言ふのは?」
「奉公人は大抵奉公人同士庇ひ合ふものですが、お妾と居候には妙にそりが合はないやうですね」
「何んのことだえ、それは?」
「お妾のお鈴の評判の惡さといふものはありませんぜ、まるで奉公人と敵同士だ、ケチで高慢で浮氣で、贅澤で――現に主人の眼を忍んで變な男を引入れるんですつてね、あの女は」
「――」
「主人は酒が好きで、寢酒を二本もやると、まるで他愛が無いんですつて、それを寢かしつけると、あの女はそろ/\動き出すといふから厄介でせう」
「お妾のお鈴が逢引してる男は?」
「それは教へてくれませんよ」
「俺にはよくわかつて居るが」
「へエ、親分がね」
 八五郎は又も平次に先を越されて、呆氣に取られた樣子です。
「庭の先、あの生垣が一とまたぎだ、あの邊から道が付いてゐるのは皮肉だね、野良犬や子供の歩いた跡ぢやあるめえ」
「成程ね、男の名前をあつしに言はないわけだ、相手は武家ぢや、あとがうるさいから」
「そこで相談があるんだがな、八」
「へエ?」
「少し危ない仕事だが、お前は思ひきつてやつて見る氣は無いか」
「何をやらかすんです」
「耳を貸せ、八」
 二人は何やら話をし乍ら、外の方から大廻りに、隣の浪人松井小八郎の家を訪ねました。
「何、神田の平次、それは珍らしいな、眞つ直ぐに庭に入るが宜い、丁度怠屈たいくつして居るところだ」
 小さい古い浪宅――庭口から平次と八五郎を迎へ入れた松井小八郎は、縁側に片膝を立てゝ、呑氣さうに話しかけるのです。
 三十五六の、それは苦み走つた男でした。少し骨張つた顏ですが、脊が高く、身體つきもたくましく、調子の磊落らいらくなのも、ひどく人の好感を誘ひます。
「松井樣は、何時から此處に住んでお出でですか」
「三年前だ、――浪人暮しも長くなると、水の手が切れるから、増田屋さんの厄介を承知で居坐つてゐるよ、尤も、近頃御主人の機嫌が變つたやうだから、近いうちに引越さうとは思つて居るがね」
 さう言つたことを、平氣で打ちあける松井小八郎です。
「昨夜増田屋の御主人が、怪我をされたことも御存じでせうな」
「聽いたよ、――増田屋金兵衞殿、昔は武士だと言つたが、まことに武術不鍛錬ふたんれんだな」
「松井樣はさぞ、武術の方は御自慢でせうな」
「ほんの一と通りだが、暗い廊下へ不用心に入るやうなことはしない積りだ」
「へエ、なる程」
 平次はつまらぬ事を感心して居るうちに、松井小八郎を挾んで、その左側に居た八五郎は、側に置いた浪人者の一刀を横抱へに、二間ばかり飛退いて、いきなりスラリと拔いて見たのです。
「あつ、何をする、無禮な奴ツ」
 松井小八郎後ろの方に置いた脇差を取ると、いきなり引拔いて、無禮者――八五郎の鼻の先へつけたのです。
「八、止せ、飛んでもない事をしやがる、御武家が腰の物を大事になさるのを、お前も知らない筈はあるまい」
 平次は松井小八郎の脇差の手に飛付いて、思はず聲が高くなりました。
「へツ、武藝の御自慢ですから、お腰の物を拜見し度くなつたんですよ、さぞ立派な事だらうと」
 八五郎はあわてゝ一刀をさやに納めると、松井小八郎の方へ押し返すのです。
「ハツ、ハツ、ハツ、ハツ、刀を見たかつたのか、二人で相談をして、つまらない芝居を打つたんだらう。それならさうと言へば、器用に見せたものを、五郎正宗でも何んでも良い、無銘の備前びぜん物だが、長い方にも脇差にも、一點の血曇りも無いぞ、よく見るが宜い」
 松井小八郎は全く良い男でした、平次と八五郎の思惑がわかると、深くとがめる樣子もなく、カラカラと笑つて、拔刄ぬきみを投出すのです。
「有難うございました、つまらない事を考へた、私の方が極りが惡くなります。どうぞ御勘辨を願ひます」
「まア、さう改まらなくたつて――尤も外に刄物があるかも知れないと思ふだらうが、御覽の通りの貧乏暮しだ、差換さしかへの一と腰は一年も前に質流れになつて、あとは刄物と言へば、お勝手の菜切庖丁だけ、それも男世帶で鰹節かつをぶしも削れば、時には薪も割る、まるでのこのやうになつて居るよ、いやもう、面目次第もないやうな」
 松井小八郎は面白さうに笑ふのです。
 散々お詫びを言つて引揚げる途中、平次は八五郎に、
「氣持の良い武家だね、お前の嫌ひな二本差にも、あんなカラリとした男もあるぜ、ニチヤニチヤしたお妾と逢引するやうな柄ぢやない」
 とさゝやくのでした。
「それぢや下手人は誰でせう?」
「まだわかるものか、容易ならぬ曲者だよ」
 二人が母家へ入つて來ると、二階から降りて來た若い浪人者と、縁側でハタと顏が合ひました。先刻下から見上げた、客分の椿三千麿です。
 まだ二十四五でせう、これは本當に良い男です。智的な額、血色の良い――頗る黒々と陽焦けのした顏、鳳眼ほうがんで、唇が堅く結んで、如何にも好ましい青年武士です。
「旦那、椿樣と仰しやるんで」
「さうだ、用事は?」
「あつしは町方のもので、昨夜の騷ぎのことでめえりました、恐れ入りますが、旦那の御腰の物を拜見さして頂けませんか」
 松井小八郎で懲りて、今度は正面から斯う出る平次でした。
「――」
 椿三千麿はサツと顏色を變へましたが、暫らくして、思ひ直したものか、兩刀をわしづかみに、默つて平次の方に差出しました。
「拜見いたします」
 作法も何んにもありません、靜かに鞘から拔いて調べましたが、これも二本とも何んの異状もなく、燒刄の匂ひも美しく、玲瓏れいろうとして水が垂れさうです。
「他に、お差換は?」
「無い」
 短いが斷乎とした言葉でした。平次はそれを押して訊ねる言葉もありません。


 麻布十番の増田屋の事件は、それつきり何んの發展もなく、ウヤムヤのうちに日が經つてしまひました。
 錢形平次の手掛けた事件では、これほど時間を喰つたのは、滅多に無いことです。
 尤も、その間も麻布十番から眼を離したわけでは無く、八五郎をやつては、絶えず情報を集めて居ります。
「親分、妙なことを聽きましたよ」
 八五郎がフラリとやつて來たのは、その年もあと十日で暮れやうといふ、押し詰つた日の夕方です。
「何が妙なんだ、松井小八郎といふ浪人が引つ越しでもしたのか」
「越し度い越し度いと言ひ乍ら、相變らずあの家に居ますよ、引つ越し三百といふから、多分その金が無いんでせう」
「では?」
「あの椿三千麿といふ好い男の浪人者は、思ひも寄らぬ大ペテン師ですぜ」
「嘘だらう、あれは正直者らしいぜ」
 平次は首を振りました。
「親分の鑑定めきゝも、人相見ほどには行きませんね、――あの浪人者は、どんなきつかけで増田屋へ入つたと思ひます」
「それは訊かなかつたな」
「それが大變で――斯うですよ、もう半歳も前ですが、増田屋の主人金兵衞が、お孃さんの多與里と、鳶頭かしらの半次をつれて、久しぶりに淺草の觀音樣へお詣りに行つたと思つて下さい」
「思ふよ、で?」
「仲見世から雷門を出ると、いきなり突き當つて、喧嘩を吹つかけたやくざ者が五人、お孃さんを人質にして、因縁をつけたが、武家の出のくせに、あの主人の金兵衞はろくに武藝も知らず、鳶頭かしらは年を取つて、啖呵たんかは切れるが腰が切れねえ、――人立ちはする、娘は泣き出す、どうなるか思つたところへ、あの椿三千麿といふ、良い男の若侍が飛び出し、五人のやくざを手玉に取つて、増田屋親子の者と鳶頭を助けた」
「まるで芝居の序幕じよまくだね」
「それから増田屋とあの椿三千麿が懇意こんいになり、近頃増田屋が、何者とも知れぬ敵に惱まされて居るので、精一杯に頼んで用心棒代りの客分で、増田屋へ入り込んだと――斯ういふわけなんです」
「それつきりなら、大した妙でもないぢやないか」
「これからが大變で、――盛り場でそんな事をするやくざは、大概見當が付いてるから、内々探りを入れて見ると、増田屋親子に因縁をつけた五人組はすぐわかりましたが、一杯呑ませて訊くと、その芝居は皆んな人に頼まれて、一人頭二分づゝで引受けた馴れ合ひの立ち廻りとわかつて、私も變な心持になりましたよ」
「頼んだのは誰だ」
「驚いちやいけませんよ、あの生眞面目な顏をした、美い男の若侍、椿三千麿と聽いたらどうします、親分」
「本當か、それは」
「嘘だと思つたら生證人のガン首を五つ並べてお目にかけませうか」
「お前のガン首だけで澤山だよ――ところで、さう解ると、物事は恐ろしく六つかしくなり相だ、あの椿三千麿といふ若侍の素姓をトコトンまで調べてくれ」
「やつて見ませう」
「それから、もう一つ頼むことがある」
「――」
「増田屋の家中の者の足を調べるのだ」
「足ですか」
「變つた足をしてゐる者は無いか、どうかしたら、下女のお猪野ゐのが知つてるかな、時々は奉公人の足袋も洗つてやるだらう」
「それから、椿三千麿といふ若侍と、娘の多與里が相變らず仲が良いか、それも氣をつけてくれ、お前には打つてつけの仕事だ、色事の鑑定にかけては、俺もお前には叶はない」
「有難い仕合せで、何時までも獨りでゐるからでせう」
「主人金兵衞の前の身分、どこの藩中で、どうして浪人したか、それも訊き度い」
「それ位のことなら、わけはありませんよ」
「頼んだぞ、八」


 八五郎の報告が來たのは、年が明けて七日の朝でした。
「お早やう、漸くわかりましたよ、親分」
 相變らず、獵犬のやうに仕事に熱中する八五郎です。
「七草だぜ、今日は、おかゆは濟んだのか」
 平次は熱い粥を吹き/\、雜煮ざふにも七草粥も忘れて飛んで歩く八五郎を見やりました。
「それどころぢやありませんよ、唐土たうどの鳥ほどの、でつかいのが捕まり相ですぜ」
「どうしたといふのだ」
「臭いのは矢張りあの良い男の若侍椿三千麿ですよ」
「はてね?」
「椿三千麿なんて、大嘘ですよ、前に居た長屋から、素姓をたどつて調べると、本名は春木道夫とふんだ相で、椿三千麿は考へましたね。元は上方生れ、公卿侍くげざむらひの子で、二十年前に不心得な母親に逃げられ、間もなく亡くなつた父親に言ひ含められて、父親に代つて女敵討めがたきうちを心掛けて居るといふ――大變な男ですよ」
「その母親と逃げた男は、増田屋金兵衞だらう」
「その通りで、昔は坂井金兵衞と言つて、これは寺侍、歌や發句や風流事は上手だが、武藝の方は一向いけないのはその爲だ」
「それから?」
「その春木道夫の椿三千麿が、漸く坂井金兵衞を搜し當てると、麻布十番の増田屋金兵衞となつて、うんと金を溜めて納まつて居る、その金兵衞と上方から逃げた母親は二十年も前に死んでしまつて、今は怨を言ふ相手もないが、せめて金兵衞の懷ろへ飛込んで、亡くなつた父親の怨を晴らす積り、淺草のやくざを語らつて、麻布十番の増田屋へ入り込んだ――此處まではわかりましたがね」
「有難い、それ丈わかれば」
「椿三千麿を縛れるでせう、金兵衞を松に吊つたのも、廊下で刺したのも、あの若侍に違ひありませんよ」
「待て/\八、松の木にられた金兵衞を繩を切つて助けたのは、あの椿三千麿ぢやないか」
「へエ?」
「廊下で刺したのも、三千麿のやうな氣がしない、刀に血が附いて居なかつた――いや刀は外にもう一口ひとふり位はあるだらうが、三千麿が曲者なら、ワケも無く金兵衞を殺せた筈だ、兎も角、増田屋へ行つて見よう」
「さうですか」
 八五郎は珍らしく氣の進まないやうな顏をするのです。
「あ、忘れてゐたよ、八五郎は腹が減つてゐるんだ、かゆでも何んでも、存分に積め込んでからにしよう」
「さうですか」
「言ひ當てられて、極りが惡くなつたのか、大丈夫鍋ごとかぶり付いたつて笑やしないから」
 二人は兎も角、腹拵へをして、麻布十番まで驅けて行きました。
 が、これは又、恐ろしい手違ひでした。
 七日の吉例七草粥を、家風で奧で喰べた男二人は、間もなく七轉八倒の苦しみを始め、若くて元氣な方の若旦那新吉郎は、驅けつけた醫者の吐劑とざいがきいて辛くも命が助かり、年のせゐで近頃滅切り弱つてゐた主人の金兵衞は、手當ての甲斐もなく息を引取つてしまつたのです。
 七草粥に入つて居た毒は、その頃一般に用ひられた、『石見銀山いはみぎんざん鼠捕り』の砒石ひせきとわかりましたが、さて、誰が一體そんな事をしたのか、土地の御用聞が三四人顏を寄せましたが、まるつきり見當もつきません。妾のお鈴と、娘の多與里は、女同士で最初の七草粥の膳には加はらず、椿三千麿や番頭の伊之助と一緒に祝つたのでこれは無事、下女のお猪野や、下男の酉松は、まだ粥にもありつかなかつたので、この毒害には無關係で濟みました。
 其騷ぎの眞つ最中に、平次と八五郎が、寒天に汗を掻いて飛込んだのです。
「何? 主人が死んだ、――粥に入つて居た石見銀山で、若旦那は箸をつけたばかりだつたから、命は助かつたといふのか」
 平次は立騷ぐ人々の話を掻き集めて地團駄を踏みましたが、今となつては追ひ付きません。
「もう一日早かつたら、畜生め、こんなわざをさせるんぢや無かつた」
 八五郎は自分の手落のやうに口惜しがります。
「ところで、八、これから本氣になつて下手人を搜すんだ」
「冗談ぢやありませんよ、下手人はあの男でせう」
 八五郎は飛込んで行つて、多勢の中から椿三千麿を引つこ拔いて來さうにするのです。
「あわてるな、八、椿さんは下手人ぢやない、ね、椿さん、この野郎が彈みきつて手をつけられません、京から江戸へ、坂井金兵衞を追つかけて來てから、淺草で一と芝居をやつた事まではわかつて居ますが、その先の事を話して下さい、――金兵衞が死んだ今となつては、隱すほどのことも無いでせう」
 平次は人數の中から椿三千麿を呼んで來て、遠慮も掛引もなく斯う言ひきるのです。
「よく解つたよ、平次殿、私にもわからないことだらけだ、懺悔ざんげのため、皆んな打ちあけて話さう、――多與里さんもよく聽いて下さい」
 椿三千麿は、すつかり緊張を解いて、靜かに語り出すのでした。
 死んだ父親の遺命を受け、逃げた母親と、その母親をつれ出した奸夫に怨みを言ふため、京から江戸にたつたのは三年前、手段を用ひて増田屋に入り込んだことは、平次と八五郎が搜し出した筋書と少しも變りはありません。
「私は主人金兵衞を殺さうと思つた、が、親しくなるにつれて、今は氣まで弱くなつてゐる金兵衞の良さもわかり、なか/\手を下せるものではない、――それに私も堂上方に仕へて、風流の道にこそ詳しいが、武藝の方は甚だ怪しく、淺草で五人のやくざを投げ飛ばしたやうな、芝居事なら兎も角、敵呼ばはりをして、主人と刀を合せる氣力もなく、フト思ひついたのは、あの月見の松の仕掛けだ」
「――」
「主人は八月十五夜にも、松の下で獨り月見をやつた、九月十三日の後の月にもそれをやると聞いて、私は外出といふことにして、人の目の屆かぬ折を覗つてあの松の枝にぢ登り、主人が松の下で、月を眺め乍ら、苦吟をして居る隙を見計らつて、投げわなはふり、主人の首に絡んで松の大枝に吊り上げ、その繩を松の大枝に留めて逃出した、主人金兵衞の身體が輕かつたので、これは大した骨の折れる仕事ではなかつた」
「――」
「私はそのまゝ、此家を去る積りであつたが、松に吊られて苦しむ主人の姿を見、奧の方から、何んにも知らずに、はしやぐ多與里殿の聲を聞くと、急に自分のする事が恐ろしくなり、木戸からもう一度庭に飛込んで、自分で吊つた繩を自分で初つて主人を助けてしまつた」
「――」
「私といふものが、何んといふ腑甲斐ふがひない人間かと、胸をかきむしつて口惜しがつたが、主人始め多勢の人、わけても多與里殿に、心から禮を言はれると、自分のした事も忘れてしまつて、私はもう心の中から嬉しさがこみ上げて來る、――二十年前、父親の受けたはづかしめと怨みは、年と共に私の胸から薄れて行くが、たつた今、この私の前でくり返しくり返し言はれる禮の言葉は、私の心を春の水のやうに、うるほしてくれる」
「――」
「私は不孝な子であつたかも知れない。でも二十年も經つて父親の昔の怨を、伜の私が此手で解いてやるのは、決して惡いことでも、耻かしいことでも無いやうに思つて來た」
「廊下で主人を刺したのは?」
 多勢の不思議な沈默を破つて、平次は口を容れました。
「あれは私でない、――私なら、私と言ふのに、少しも憚らないが」
「廊下ですれ違つた人があつた筈だが」
「あつたやうに思ふ」
「男ですか、女ですか」
「男だ、私の持つて居た灯で、驚いて姿を隱したが」
「その時離屋には」
「直ぐ戸を開けて見たが、誰も居なかつた、――雨戸も皆んな締つてゐた、伊之助がよく知つてゐる」
 事件は次第に、椿三千麿の口から、その全貌ぜんばうを示して來たのです。
「八、離屋にあつた足跡は、足袋を穿いたのだけだつたな」
「草履も素足もありませんよ」
「貧乏な浪人者は、滅多に足袋は穿くまい、それから、家中の者で、變つた足をして居るのは無かつたか、――その話はまだお前から聽かなかつたが」
「ありましたよ、下女のお猪野が知つて居ました、若旦那の足には土踏まずが無い――つて」
「それだよ、あ、あの男だ」
 八五郎が驚いて隣の部屋に飛込むと、今まで其處で唸つて居た、半死半生の若旦那新吉郎は、ムクムクと起上ると、恐ろしい勢で庭へ逃出したのです。
 飛込んだ八五郎が、それをつて押へたことは言ふ迄もありません。その掛けられる早繩の下から、
「あの野郎が、二十年前に私の父親を殺したのだ。――隣の浪宅から忍び込んで來て、――その仇討に、松井さんがお鈴のところに忍んで來ると見せかけ、あの野郎に死ぬほど苦勞させる積りでやつた細工さいくだ、殺したのが何處が惡い、あの野郎は、私に取つては二十年前の親の仇だ、――それを知つたのは近頃だ、下男の酉松が教へてくれなきや、何んにも知らずに、あの野郎を父親と思つて居たことだらう、二十年の間、親みたいな顏をして、勝手なことを言はせたのが口惜しい」
 新吉郎はのろひに呪ひ乍ら、大地を蹴つて泣きわめくのです。
        ×      ×      ×
 親殺しの新吉郎は、當然極刑に處せられる筈でしたが、平次の心ざしで、お白洲に證人として酉松が呼出され、その證言で島流しで濟みました。
 椿三千麿の春木道夫は、多與里とあんなに親しくして居ましたが、何を感じたか、飄然へうぜんとして増田屋を去つてしまつたのは一と月ほど後のことでした。
「妙な騷ぎだつたな八、――でも此中で一番惡いのは坂井金兵衞の増田屋金兵衞さ。椿三千麿が、二十年前の怨を捨てたのは、意氣地が無いやうだが、俺はあべこべに見あげる心持になつたよ。人は人を怨んで、何代も何十年も忘れないといふのは、決して立派なことでも何んでもないと思ふよ。松の枝からブラ下がつて、キリ/\首にもがいて居る敵の姿を見て、繩を切る氣になつた椿三千麿には、嬉しいところがあるぜ」
 古い、長いうらみ、人間の魂を消耗して、地獄への道をひた向きに走るコースを、耻と我慢を捨てゝ絶ち切るのは、一面から見れば、大丈夫の勇氣では無かつたでせうか。
「すると、親分でも、主人を松に吊つたのは椿三千麿とは、あの口から聽くまではわからなかつたのですか」
「いや、あの九月十三夜の晩、――椿三千麿が、木戸の外から月明りで、庭の松の枝に人間のブラ下がつて居るのを見た――と言つた時から、變だとは思つたよ、私が直々に聽いた話ではないが、いかに十三夜の月夜でも、名物と言はれたしげりに繁つた松にブラ下がつた人間は、木戸の外からぼんやり見た位では見付からないよ」
「それにしても、弱い浪人が揃つたものですね、松井小八郎は兎も角、金兵衞も三千麿も」
 八五郎は頬を凹ますのです。
「武家は皆、岩見重太郎や宮本武藏のやうに強かつたのは昔の話さ、二本差しにも強いのも弱いのもあるぜ、いや、弱い方が多い位さ。百姓町人の裕福なのに取入つて、幇間たいこのやうに暮してる安御家人や浪人崩れがある世の中だから」
「それにしても意氣地が無さ過ぎますね」
「――」
 今度は平次が默つてしまひました。
「でも、多與里といふ娘は可哀想でしたね、あれから二三度行つて見たが、何時でも泣いて居ましたぜ、好きな同士が一緒にもなれないやうな、世上の義理なんてくそでもくらへだ、これがあつしなら――」
 八五郎の哲學は何んと簡單明瞭なことか。





底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年4月5日発行
初出:「改造」
   1951(昭和26)年1月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年12月12日作成
2016年2月6日修正
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