錢形平次捕物控

蝉丸の香爐

野村胡堂





「親分、松がれたばかりのところへ、こんな話を持込んぢや氣の毒だが、玉屋に取つては、此上もない大難、――聽いてやつちや下さるまいか」
 町人乍ら諸大名の御用達を勤め、苗字帶刀めうじたいたうまで許されてゐる玉屋金兵衞は、五十がらみの分別顏を心持かげらせて斯う切出しました。
「御用聞には盆も正月もありやしません。その大難といふは一體何で?」
 錢形の平次は膝を進めます。往來にはまだ追羽子おひばねの音も、たこの唸りも聞える正月十三日、よく晴れた日の朝のうちのことです。
「外ぢやない、さる大々名から、新年の大香合だいかうあはせに使ふ爲に拜借した蝉丸せみまる香爐かうろ、至つて小さいものだが、これが稀代の名器で、翡翠ひすゐのやうな美しい青磁せいじだ。それが、昨夜私の家の奧座敷から紛失した。――たつた香爐一つと言つてしまへばそれまでだが、一國一城にも代へ難いと言はれた天下の名器で、公儀へ御書き上げの品でもあり、紛失とわかれば、内々で御貸下げ下すつた、御隱居樣の御迷惑は一と通りでない。私は先づ腹でも切らなければ濟まぬところだ」
「――」
 平次は默つて聽いて居りますが、玉屋金兵衞の困惑は容易のものでないのはよく解ります。
「親分は、お上の御用を勤める身體だ。香爐の紛失は言はゞ私事わたくしごと、こんな事を頼んではすまないが、これは金づくでも力づくでも叶はない。愈々香爐が出て來ないとなると、私の命一つは兎も角として、さる大々名のお家の瑕瑾かきんともなるかも解らない。折入つての願ひだが、何とか一と骨折つては下さるまいか」
 玉屋金兵衞は、疊に手を突かぬばかりに頼み入ります。大町人らしい風格のうちに、茶や香道で訓練された、一種の奧床しさがあつて、斯うまで言はれると、平次もむげには斷り切れません。
「宜しうございます。それ程の品が無くなるのは、容易ならぬわけのあることでせう。出るか出ないかは兎も角として、一つ當つて見るとしませう」
「有難い、親分」
「ところで、無くなつたのは何時のことでございます」
「昨夜の宵のうち、――詳しく言へば、戌刻いつゝ頃までは確かにあつたが、今朝見ると無くなつて居る」
「怪しいと思つた者はありませんか」
そとからは容易に入れる筈は無いから、家の中の者だらうと思ふが、困つたことに、その部屋は一方口で、手前の部屋に居たのは、私の娘おいくの踊友達、親類のやうに附き合つてゐる、お糸といふ十九になつたばかりの娘だけなんだが――」
 玉屋金兵衞の調子は、その娘にうたがひをかけ度くない樣子でした。
「兎に角、お店へ行つて、みんなに引き合せて貰ひませう。その上間取りの具合でも見たら、また何か氣が付くかも知れません」
「それぢや親分、何分宜しく頼みますよ」
 少し言ひ足らぬ顏ですが、さすがに大店おほだなの主人らしく、言葉少なに引揚げて行きます。
 その後ろ姿を見送つて、
「親分、大變なことになつたネ」
 ガラツ八の八五郎は乘出します。
「何が大變なんだ、――大名高家では、青磁せいじ香爐かうろ一つと、人間の命と釣替に考へて居るやうだが、こちとらの眼から見れば、猫の子のお椀と大した違ひがあるものか。そんな事で玉屋の主人が首でもくゝるやうな事があつちや惡いと思ふから乘出す氣になつたのさ。俺は寶物の詮議など、本來なら眞平だよ」
「そんな話ぢやねえ、親分、大變と言つたのは、あの娘ですよ」
「玉屋のか」
「いえ、玉屋の娘のお幾は世間並の雁首がんくびで、何んの變哲もありませんが、その踊友達のお糸といふのが大變なんで」
「何が大變なんだ」
「親は本郷一丁目の古道具屋與次郎といふ、大跛者おほちんばの愛嬌者だが、娘は本郷一番のきりやうですよ。あんなピカピカするのは、江戸一番と言つても文句を言ふ奴はありやしません。玉屋の息子の金五郎が、命がけの參りやうで、貧乏人の娘を承知の上、貰ふとか貰はれるとか、町内の若い衆をワクワクさせてゐますぜ」
「そいつは初耳だ。何か筋が深さうぢやないか、行つて見るとしよう」
 平次は立ち上がりました。が、煙草入を懷に入れて、お靜に羽織を出させて居ると、
「今日は、――親分さんはゐらつしやいませうか」
 おづ/\した聲が入口に立つて居ります。


「私は本郷一丁目の古道具屋與次郎で御座います。お願ひで御座います、娘をお助け下さい。娘のお糸が盜人ぬすびとの疑を受けて、大名屋敷へ引渡されさうになつて居ります。引渡されたが最後、生きて歸りつこはありません」
 さう言ふのは、五十に近からうと思はれる見る蔭もない男、涙と鼻水と一緒にかなぐり上げて、一生懸命さが無精髯ぶしやうひげの面に溢れます。
 ガラツ八の言つた通り、右の脚は大怪我でもしたらしいびつこで、生活に疲れ果てた顏には、いたましいやつれさへ見えます。
「娘が何うしたと言ひなさるんだ。それ丈けぢや解らない、落付いて話して見るが宜い」
 平次はさり氣なくなだめて、兎も角も座を設けてやりました。
「有難う御座います、親分さん。私はまア、何うなることかと思ひましたが、フト思ひ付いたのは錢形の親分さんの事で、打明けてお願ひ申上げたら、ヒヨツと助けて下さることもあらうかと――」
 話は要點を遙かに外れて、兎もすれば愚痴ぐちになり相です。
「そんな事はまア何うでも宜いとして、娘が何うしたといふんだ。それを聽かうぢやないか」
「へエ――實は斯う言ふわけで御座います」
 與次郎はたど/\しい調子で話し始めました。
 女房に死に別れたのは十八年前、一人娘のお糸が、竹の中から生れた傳説のお姫樣のやうに、美しく輝やかしく育つのを樂しみに、下手物げてものの道具を並べて、細々とやつて來た與次郎ですが、三年ほど前から玉屋の養ひ娘お幾と踊の相弟子で懇意になり、その家へ遊びに行くうち、息子の金五郎と、好い仲になつてしまつたといふのです。
 提灯と釣鐘ほどの違ひで、まとまり相もない縁談でしたが、無理に割けば、相對死もやり兼ねまじき若い者の情熱に引摺られたのと、娘可愛さの與次郎の必死の運動が效を奏して、近頃になつて玉屋も漸くその氣になり、假親でも立てゝ、春になつたらお糸を嫁に――といふ話が進んで居たのでした。
 養ひ娘のお幾は、金五郎と一緒にする筈でしたが、自然暖簾のれんを分けて、外から養子でも迎へることになるでせう。
「これで八方圓く納まるだらうと喜んで居ると、この騷ぎです。――丁度娘が泊りに行つた晩、娘がやすんだ部屋の隣に置いてあつた、何とか言ふ大名道具の香爐が無くなつたさうで――娘が歸つてから氣が付くと、追手でも掛けたやうに、番頭の甚助さんが飛んで來て、娘が盜つたと決めたやうな無理難題でございます」
 兎もすれば愚痴ぐちになる與次郎の話の中から、平次は辛くも筋を讀み取ります。
「證據でもあつたのかい、――娘さんが盜つたと言ふ――?」
「甚助さんが改めると、娘の稽古本けいこぼんを包んだ風呂敷には灰がいつぱい附いて居ります。香爐でも隱したんでなければ、風呂敷へ灰なんか附くわけはないと申します。それに、困つたことに親の私は古道具屋で、骨董こつとうには一應眼が利くだらうし、隱すにも賣るにも、何彼と都合がよからうと、斯う思つて居る樣子で御座います。――でも、親分さん、私などは古道具屋と申しても、店にある品と申しては、鍋や釜や、古いお勝手道具や、精々化けさうな佛樣ばかり。大それた品を持込んだら、直ぐ知れてしまひます」
「――で、娘さんは何うしたんだ」
 際限もない愚痴を封じて、平次は話の要領を辿りました。
「品が出て來る迄、娘は玉屋さんが預ると申して、甚助さんが一緒に伴れて參りました。去年の秋甚助さんが、娘を自分の嫁に欲しいと言つた時、私もツイポンポン斷りましたが、それを根に持つたにしても、あんまりひどい仕打で御座います。お上のお手に掛るのなら、縛られてもつながれても文句はありませんが、苗字帶刀を許されても、町人は矢張り町人同士でございます。まして番頭風情が、人の娘を誘拐かどはかすやうに、つれて行つて宜いものでせうか、親分」
 與次郎の愚痴は際限もありません。
「よし/\、解つたよ。それぢや、玉屋へ行つて見よう、香爐が出さへすれば文句はあるまいから」
「有難うございます、親分さん」


 平次とガラツ八は、直ぐ本郷一丁目へ飛びました。玉屋金兵衞の大名屋敷ほどの家と、古道具屋與次郎の小さい汚い店は半丁とも離れて居りませんが、成程提灯と釣鐘以上のへだたりです。
 最初に行つたのは玉屋、打合せがあつたので、待ち構へたやうに主人が迎へて、早速奧へ案内しました。
「香爐の無くなつたのはこの部屋だが、雨戸を締めると、何處からも入りやうはない――」
「香爐はあの箱に入れてあつたのでせうね」
 平次は違ひ棚に載せてある打紐うちひもの掛つた時代付の桐箱を指しました。
「その通りだよ親分、箱から拔かれたのを、翌る日の朝まで氣が付かなかつたのは迂濶うくわつさ。裸にして置けば、その晩のうちに氣が付いたかも知れないのに」
「紐は結んでありましたか」
「確かに結んであつた筈だが、今朝見ると解いたのを宜い加減につくねて、正面から見ると結んであるやうに見せて居た」
「餘程急いだのですね」
「――」
 金兵衞は平次の顏を見ました。紐を結んでなかつたといふことが、何か手掛りの一つのやうに聞えたのです。
「隣りの部屋に一と晩泊つた者が盜つたのなら、紐位結ぶ隙はあつた筈ですね」
 平次は明かに、お糸のむじつを、たつた一本の眞田紐さなだひもで證明しようとして居るのです。
「尤も、お糸さんが誰かを手引して入れると別ですね、親分さん」
 誰やら口を容れた者があります。振り返ると、平次の後に立つて居るのは三十前後の一寸好い男、卑屈な薄笑ひが薄い唇の上に殘つて居ります。
「お前さんは?」
「へエ、番頭の甚助でございます、へエ」
 甚助は口の過ぎたのに氣が付いたものか、揉手もみでをし乍ら尻込みをして居ります。
「お糸をつれて來た相だが、お上の御用も勤めるのかい」
 平次の舌は辛辣でした。
「と、飛んでもない。支配人の申付けで、よんどころなくあんな事を致しました、へエ」
「支配人を呼んで貰はうか」
「へエ――」
 甚助はキリ/\舞ひをし乍ら飛んで行きました。
「あれは子飼ひですか、旦那」
「いや、三年ほど前、名古屋から添状そへじやうを持つて來た男だが、よく氣の付く働き者で、今では支配人の片腕のやうになつて居ますよ」
 そんな話を聞き乍ら、平次は縁側から、霜解けのひどい庭などを見て居ります。
「昨夜は暖かでしたね」
「さう、こほらなかつた樣だが――」
「人が歩けば、足跡が付く筈ですね、庭石の上もあの通り綺麗だし」
 平次は此處でも、お糸が曲者を手引したといふ、甚助の疑を粉碎したのです。
 其處へ支配人の庄八が飛んで來ました。
「親分さん、御苦勞さまで。――私の指金さしがねで、お糸さんに來てもらひましたが、飛んだお叱言を頂戴した相で、まことに相濟みません、へエ――」
 六十近い、よく光る頭を撫でて、すつかり恐れ入つて居ります。
「叱言をいふわげぢや無いが、嫁入前の娘へ、傷を付けちや惡いと思つて、ツイあんな事を言つて見たのさ」
「へエ――」
「そのお糸さんは何處に居るんだ、ちよいと逢つて見たいが」
「これへつれて參りませう」
 と庄八。
「いや、此方から行かう」
「へエ、――それぢや斯うお出でなさいまし」
 平次とガラツ八は、庄八と甚助に案内されて、廊下續きの裏の離屋へ行きました。
 が、縁側をグルリと廻ると、多勢の足音に驚いた樣子で、障子を中から開けて、パツと飛出した者があります。
「あ、若旦那」
 聲を掛ける庄八を突き飛ばすやうに、
「庄八、甚助、お前達は、寄つてたかつてお糸を泥棒にする氣かい」
 屹となつたのは、二十一二の、典型的な大店おほだなの若旦那です。言ふまでもなく玉屋の一人息子の金五郎、今までお糸を慰めて居たのでせう。
「飛んでもない、若旦那」
「宜いよ、解つたよ。お前達が、それほどお糸を目の敵にするなら、俺が此家を出て行くか、お前達に身を退いて貰ふか、何方かにするから」
「若旦那、そんなわけぢやございません。現に錢形の親分さんも、お糸さんに怪しい事は無いと仰しやつたばかりで――」
 庄八にさう言はれると、金五郎は始めて氣の付いた樣子で、
「あ、錢形の親分、助けて下さい、――此奴等がたくらんで、お糸を殺してしまひます」
 いきなり平次に飛付きました。我儘息子らしい激情が、一ぺんに爆發したのでせう。
 平次は靜になだめ乍ら、金五郎が今出て來た離屋へ入つて行きました。其處には十九になるお糸が、木綿の不斷着のまゝ赤いかんざしを顫はせて泣いて居るのです。
「――」
 平次は暫らく默つて見て居りましたが、誇りを傷けられた處女をとめに、何を言つてやつたところで、無駄だと思つたものか、
「八、お糸さんを家へ送つて行くが宜い、後から俺も行くから」
 八五郎をかへりみて、率直に言ひます。
「へエ――」
 ガラツ八はほんの少しばかり躊躇しました。泣き濡れてはゐるものゝ、此時不思議さうに顏を擧げたお糸は、全く美し過ぎたのです。
 平次はそれから、養ひ娘のお幾に逢ひました。これは世間並の平凡な娘で、踊は天才的だと聽きましたが、きりやうは一向つまりません。
 その上、金五郎とはわらの上から一緒に育つて、兄妹としての愛情しか感じないらしく、お糸とのこまやかな仲を見せられても、一向無關心で居られる樣子です。
 店の者にも一と通り逢つて、
蝉丸せみまる香爐かうろは此家から出た樣子はありません。無くなつてまだ半日も經たないんだから」
 平次は斯う結論するより外にはなかつたのでした。


 間もなく平次は、與次郎の古道具屋に現はれました。
「有難う御座います。親分さんのお蔭で、娘も無事に戻りました。縁談には面白くないことですが、後のところは若旦那が、何とかして下さることでございませう」
 與次郎は、金五郎の純情にゆだね切つて、娘の幸福を疑ふ樣子もありません。
「安心するのは早からうよ、まだ香爐が出たわけぢやないからな――」
 平次は、併し、釋然とした樣子もありません。
「へエ――、すると、何んなことになりませう? 親分さん」
「香爐が出て來なきや、玉屋は申譯が立つまい。大名一軒に瑕瑾きずが付くか付かぬかの騷ぎだ」
「へエ――」
「金にも寶にも代へ難い品だといふから、玉屋の身上を振つても追つ付くことではない。主人が腹を切るか、曲者を搜し出して成敗するか、――暫らくは祝言どころの沙汰ではあるまいよ」
「へエ――」
 與次郎の顏には、あり/\と失望の色が讀めます。
「ところで、ほんの念の爲だ。十手捕繩に物を言はせるわけぢやないが、――家の中を見せて貰い度い」
「へエ――」
 不滿らしい響きが平次の心を焦立いらだたせます。
「玉屋も念入りに調べ、奉公人の荷物も皆んな見せて貰つた」
「香爐はございませんでしたか、矢張り」
「無い」
「それぢや致し方がございません、存分に御覽下さいまし」
「氣の毒だがさうさして貰はう」
 平次はガラツ八をさし招くと、二人で狹い家の中を搜し始めました。
 ガラクタ山のやうな店から、たつた一と間の居間、お勝手、狹いと言つても、商賣柄道具が多いので、相當の手間を取りますが、翡翠ひすゐのやうな美しい青磁せいじの香爐といふのですから、外のものと紛れる筈もありません。
 床下から天井裏から、水瓶みづかめの中までも覗いて、一刻ばかり後には、
「無い」
 平次とガラツ八は、元の店に顏を見合せて居りました。與次郎はおど/\し乍らそれを眺めるばかり、娘のお糸は、見るに堪へない樣子乍ら、逃げも隱れもならず、美しい顏を反け勝ちに、この傍若無人な家搜しの濟むのを待つて居ります。
「親分、香爐はまが備前燒びぜんやきのと、あかのと、たつた二つ切りで青磁なんかありませんぜ」
 ガラツ八も少し不平さうです。この氣品の高い娘の怒の前に、何時まで續く家搜しでせう。
「よし、よし、これも念の爲だ。玉屋にも此處にも無く、外から盜人ぬすつとの入つた樣子も無いとすると、消えて無くなつたとでも思はなきやなるまい。こんな事で引あげようか、八」
 何と言ふ器量の惡さ、二人はスゴスゴと神田へ引揚げます。
「親分、今朝玉屋から出た者はありませんか」
「不思議なことに、お糸が出たつ切り、猫の子も外へ出ないとよ」
 二人は歩き乍らこんな事を言つて居りました。
そとから來た客は?」
「それも無い」
「ぢや、香爐は玉屋にあるわけですね」
「お糸が持出さなきや、さう言ふわけだ」
「御用聞に持出させるはありませんか」
「それも考へたが、酒屋米屋の御用聞は、お勝手口で下女に逢つた切りだ。香爐を受取る隙などは無い、あの通り人目が多いから」
 二人は暫らく默つて歩き續けました。
「親分、番頭の甚助は朝のうちに出て居るでせう」
 ガラツ八は顏を擧げます。
「それを忘れて居たのさ。甚助はお糸の迎ひに出た、――こいつは筋が立ち過ぎてゐるから、朝のうちに出た人間に勘定するのを忘れたのさ」
「その途中で香爐は隱せないでせうか、親分」
「玉屋から與次郎の古道具屋まで、たつた半町そこ/\、その間にほんの五六軒しか家がない。物を隱す場所は無いやうに思ふが、――待つてくれ八、兎も角引つ返して見よう」
 平次はきびすを返すと、元の本郷一丁目へサツと引返しましたが、其邊は軒を並べた明るい店造りで、物が隱せる場所などがある筈もありません。
「無いな、八」
「誰かに渡したんぢやありませんか、時刻じこくを打合せて」
「そんな暇は無かつた筈だ」
「――」
 二人は默つて又神田へ取つて返しました。萬策盡きた姿です。


 その晩は事無く過ぎましたが、翌る日の朝、玉屋から急の使で、平次は飯も食はずに飛んで行きました。
「親分、香爐は出て來ましたよ」
 番頭の甚助の顏は店口に輝きます。
 奧へ入つて行くと、主人の金兵衞も支配人の庄八も、全くよみがへつたやうでした。今度は羽が生えて飛出すとでも思つたのか、翡翠色の美しい香爐を奧座敷の眞ん中に据ゑ、二三人の者がそれをめぐつて、大名屋敷へ持つて行く支度の出來るのを待つて居ります。
「親分、飛んだ騷ぎをさせて濟まなかつたが、この通り蝉丸せみまるの香爐は返つて來ましたよ」
 主人の金兵衞は笑み崩れさうです。
「何んな具合に返りました、旦那」
 と平次。
「今朝起きて見ると、この部屋の床の間に、チヨコンと据ゑてあるぢやないか、いや驚いたの驚かないの」
「誰が見付けました」
「娘だよ」
 おいくの無表情な顏を、平次は部屋の隅つこに見出しました。
「戸締りは何處か變つて居なかつたらうか」
 平次は誰へ言ふともなくうしろへ振り向きます。
「氣が付きませんでしたが――」
 庄八甚助も、何の心當りも無い樣子です。
 平次は奉公人達を案内させて、念入りに家の内外を見廻りましたが、戸締りにも、庭の霜柱にも何の變りもありません。
「これ程の品を、家の中に隱してあつたとは思はれない。八、もう少し念入りに見てくれ」
 鼻の良いガラツ八を先に立てゝ、庭からへいの外を搜し廻りました。
「變なところに棒があるが、誰が斯んなところへ持出したんだ」
 支配人の庄八は、裏口から出ると、路地の出口に立てかけた棒を指さしました。長さは二間位、かなりたくましいもので元の方には、したゝかに泥が着いて居ります。
「植木の突つかひ棒ですよ、誰が持出したんだらう?」
 甚助も心當りが無い樣子です。
「外へ出る物ぢやないが、――どれ/\」
 平次はいきなりその棒を取上げると、塀へ立てかけて見たり、庭へ持込んで、屋根へ掛けて見たりしましたが、離屋の軒の下に、一箇所霜柱しもばしらの碎けたところを見ると、其處へ棒を立てかけて、左右前後から見廻して居りましたが、やがて木戸を押しあけて庭へ入ると、丁度奧の部屋の前あたりにピタリと立ち止りました。
梯子はしごを貸して貰ひ度いが――」
 裏の物置から持つて來た九つ梯子を雨落ちに据ゑると、一番上は丁度雨戸の欄間らんまに屆きます。
 それを登つた平次は、默つて調べて居りましたが、暫らくすると、一人で呑込んだまゝ降りて來ました。
「何か變つたことがありましたか、親分さん」
 支配人の庄八の心許ない顏を見乍ら、平次は靜かに言ひ切ります。
「大變な奴だ、――棒一本で塀を越した上、離屋はなれひさしに登つて、忍返しのびがへしをけ/\此處まで來ると、欄間をコジ開けて音も立てずに入るとは――」
「泥棒が外から入つて、香爐を置いて行つたのだらうか、親分」
 主人の金兵衞もさすがに仰天ぎやうてんした樣子です。
「こんな藝當の出來るのは誰だらう、――棒一本で、どんなところへも忍び込むのは?」
 平次は委細構はず首を捻つて居ります。多勢の惡者を手掛けて、捕物の名人と言はれた平次ですが、こんな恐ろしい人間のあることをまだ聽いたこともありません。
 平次の首が何う捻らうと、香爐が出て來た上は、もう問題も何にもありません。支度の出來たのをきつかけに、主人の金兵衞は庄八を伴につれて、香爐を大名へ返しに出かけ、早春の庭先には、平次とガラツ八と、甚助とだけが取殘されました。
「番頭さん、こんなことの出來るのは誰だらう、見當は付かないかね」
「解りませんよ、親分さん」
 甚助は少し不機嫌でした。
「實はね、番頭さん、こんな細工を見る前までは、曲者は外に居るに相違ないと思つたが、これを見て少しばかり考へが變つたよ」
「へエ――それはどう言ふわけで? 親分」
「外から香爐を戻しに入つた曲者くせものなら、最初塀を乘越して入る時から、棒が入用だつた筈だ。こんな締りの嚴重な家へ、音も立てず道具も無しに入つた程の曲者なら、歸る時だつて棒なんか要らない筈ぢやないか。わざ/\裏庭にあつた植木の突つかひ棒で塀を乘り越して、その棒を外へ――これで出ました――と言はぬばかりに置いて行くのは可怪しいぢやないか」
「――」
 平次の慧眼けいがんは、妙なところまで見透します。
「これは内に居る者が、外から曲者が入つたやうに見せかける爲に、棒を使つて、つまらない細工をしたのさ。棒を外へはふり出して、開けて置いた木戸から入つて、後を締めて置きさへすれば宜いわけだから」
「なアる程ね」
 ガラツ八は長い顎を撫でて居ります。
「この家の中に、棒一本で庇へ登つて、欄間を鼠のやうに渡れる、恐ろしい人間が居るに相違ない、――江戸ではそんな惡者の話は聽いた事が無いから、多分他國から流れ込んだ、兇状持きようじやうもちの仕業だらう」
「――」
「奉公人も十二三人居るやうだが、他國、遠國の者は誰々だらう」
 平次は此處まで追ひ詰めて行つたのです。名古屋から添状を持つて、三年前に來た甚助の、苦い顏といふものはありません。


 それから四五日、無事に日が流れました。やがて二十日正月といふ時、又一つの大きい事件が起つたのです。
「親分、大變だぜ」
「なんだ八」
 いきなり飛込んで來た八五郎は暫らく口も利けません。
「番頭が殺されましたよ」
「え?」
「玉屋の番頭の甚助が、湯島の聖堂裏せいだううらで絞め殺されて居るのを、往來の人が見付けて大騷ぎして居ますよ」
 八五郎の報告は全く大變でした。
「それ、行つて見ろ」
 驅け付けたのは、まだ卯刻半むつはんそこ/\、往來の人は、聖堂裏の淋しい木立の下に立つて、物をも言はずに、緊張した動搖を續けて居ります。
「退いた/\」
 八五郎にみちびかれて行つて見ると、大溝の中に落込んで、襤褸切ぼろきれのやうになつて居るのは、玉屋の番頭甚助の死骸。まだ檢死が濟まないので、手を付ける者もありません。
 平次はいきなり水の無い大溝に飛降りて、近々と死骸を見ました。恐ろしい強力に締められたものと見えて、喉佛は碎け、顏色は紫色に踵れ上がつて、二た眼と見られない惡相ですが、
「おや?」
 驚いたことに、死骸の下には、山吹色の小判が一枚、キラキラと氷の中にめり込んで光つて居るのです。
 拾ひ上げて見ると、
「あツ」
 平次が二度喫驚したのも無理はありません。小判は吹き立てと言つても宜いほど眞新しい眞物ですが、その表には、ある可き筈の檢印けんいんが捺して無かつたのです。
「親分」
「八、大急ぎで奉行所へ飛んで行つて、書き役から、近頃檢印の無い御用金か何か盜まれた事が無かつたか、訊いて來てくれ」
「へエ」
 八五郎は、さう囁かれると獵犬のやうに飛んで行きました。
 平次は其上に調べることが無いと思つたか、溝から飛出すと、一丁目の玉屋へやつて來ました。
「錢形の親分さん、――今お迎ひに行つたところでした」
 すつかり顛倒した庄八は、平次の顏を見るとヘタヘタと坐つてしまひました。
「昨夜番頭さんが家を出たのは、何刻時分だらう」
 平次は手つ取早く調べにかゝります。
「私は存じませんでしたが、店に居た小僧に聽くと、亥刻よつ少し過ぎだつた相でございます」
「もう一人出た筈だが」
 平次のとひのさり氣なさ。
「でも、若旦那は直ぐお歸りになりましたよ」
 庄八はツイこんな事まで釣られてしまつたのです。
「その若旦那に逢ひ度いが――」
 平次は有無を言はせませんでした。直ぐ奧へ通つて、若旦那の金五郎に逢ふと、興奮し切つて居るのも構はず、グングン問を進めます。
「昨夜、甚助の後を追つて出た相だが、何處へ行きなすつた?」
「何處へ行つたつて構はないぢやありませんか」
 金五郎は突つ張りました。
「構はないやうなものだが、――甚助は殺されて居ますぜ」
「自業自得さ。あんな惡い野郎は無い。――誰も殺してくれなきや、この私が殺す筈だつた」
 金五郎の怒は容易に納まりません。
「それは何う言ふわけで?」
「お糸をつけ廻して、此處へ寄り付かれないやうにしたのは彼の野郎ですよ」
「だが、その甚助が殺されて居るんだ」
「宜い氣味だ」
「その殺された甚助の後を追つて、出て行つたお前さんにもうたがひが掛からずには濟むまい。もう少し前後の樣子を話して貰へまいか」
 平次は穩かに話を進めます。
「金五郎、親分へ皆んな打開けるが宜い。つまらない事を言ふと取返しが付かないよ」
 奧から、騷ぎを聽いて出て來た、主人の金兵衞も言葉を添へます。
「お糸を皆んなで邪魔にするから、こんな事になるのですよ。――お幾なんか、あんな濟した顏をして居るけれど、甚助をけしかけてどんなにお糸をいぢめたかわからない」
 金五郎の怒は、憤々として、何處へでも焔を擧げます。
「つまらない事を言ふな、――それより昨夜お前は何うしたんだ」
 金兵衞は聽き兼ねた樣子で、金五郎の肩を掴みました。
「何うもしやしません。甚助がコソコソ外へ出て行くから、又いづれ惡い事の支度だらうと、後を跟けて行つたまでの事です。尤も出る時手間取つたので何處へ行つたか、直ぐ見失つてしまひましたよ。暫らくお糸の家の前に立つて居たけれど、親父の與次郎は留守のやうだし、留守番に頼んだ近所の婆さんと顏を合せるのもイヤだから、すぐ戻つて來て寢てしまひましたよ」
 金五郎もいくらか穩かになつて、これ丈けの事を説明してくれました。時間から言へば、間違ひもなく甚助の殺された時誰も見てゐない外に居た筈の金五郎ですが、若旦那育ちの細腕で、相當したゝかな甚助を、絞め殺せるとは、どうも受取れません。
 平次は疑を殘して今度はお幾に逢ひました。が、これは泣くばかりで、何を訊いても解りません。多分、お糸が出現してから、金五郎の心が急速に其方そつちへ傾いて行くのを見て、一時は踊に沒頭して、何も彼も忘れようと骨を折つたのでせう。が、端なくもこんな事件が起つて、いろ/\の激情的な場面を見せつけられ、ツイ胸の奧に祕んで居た、金五郎とお糸に對する深い/\怨心うらみごころが燃え立つたと見る可きでせう。
「――」
 平次は默つて引揚げました。この上、お幾をさいなむ殘酷さをつく/″\考へたのです。


 その足ですぐ與次郎の古道具屋を訪ねると、與次郎は眠さうな顏をして、店に坐つて居りました。
「眠さうだね」
 ヌツと入つた平次。
「親分さん。イヤな事ですね、私は根岸の友達が死んで、お通夜に行つて何にも知らずに今歸つたばかりですが――」
 與次郎はゴクリと臆病らしく固唾かたづを呑みます。
「根岸の友達?」
「へエ――、友達と言つても、商賣仲間で、十年も前から懇意こんいにして居ますが、上根岸の源三郎だなに居る、喜六といふ男で、――まだ四十七になつたばかりですが、昨日の朝卒中そつちうにやられて、後が女房に子達が六人、可哀想で見ちや居られませんでしたよ」
 斯う聞くと、平次はもう押して訊ねることもありません。
 平次はそれでも念の爲に上根岸までして見ました。源三郎店の喜六と言ふ小道具屋は間違ひもなく昨日の朝急死して、昨夜は仲間でもあり、格別の間柄でもあつた與次郎が、明るい内から來て世話をして一と晩皆んなと一緒に佛のとぎをしたことは、多勢の人が口を揃へて證明して居ります。
「與次郎は一とき(二時間)位拔け出したと思ふが――誰も氣が付かなかつたらうか」
 平次は念の爲に訊ねて見ました。
「引つ切りなしに飮んで食つて、百萬遍も稱へて居たんですもの、拔け出す暇なんかありやしません。尤も、手水てうづ位には立つたでせうが、どんな長雪隱ながせつちんでも四半刻(三十分)と姿を見せなきや、皆んな氣が付きますよ」
「成程ね」
 さう言はれると一言もありません。昨夜のお通夜は、家族の者を別にして、外から來たのは精々十二三人、狹い家の中は、相當ゴタゴタしたにしても、與次郎のやうな中心人物は四半刻と人に氣が付かずに、拔け出せる道理はありません。
「與次郎は何をして居たらう、亥刻よつから子刻こゝのつの間の事を聽き度いが――」
 幸ひ聖堂裏の甚助殺しも此處までは知られず、平次は思ひの儘こんな事が訊けたのです。
「あの男は不思議に念佛嫌ひでね、――百萬遍が始まると、お勝手へ行つてお燗番かんばんをしたり、料理の手傳ひをしたりして居ましたよ」
「有難う、飛んだ邪魔をして濟まなかつた」
 平次は何んの得るところもなく、本郷へ歸つて來ました。
 丁度玉屋へ入らうとすると、
「親分」
 店の中から飛んで出たのは八五郎です。
「解つたか、八」
「それが解らねえから不思議で」
 二人は物蔭へ歩み寄つて居りました。
「檢印の無い小判を奪られた事が、奉行所の記録にも無いと言ふのかい」
「十年この方ありませんよ」
「はてね?」
「二十年前の帳面まで調べたが、矢張りありません」
「フーム」
「二十三年前、金座の後藤へ忍込んで、小判で三千兩盜んだ大泥棒があつた相で――」
「少し古いな」
「外には心當りが無いさうですよ」
「玉屋の主人は幾つだらう」
「五十幾つでせう」
「支配人の庄八は六十近いな」
「――」
「死んだ甚助はまだ赤ん坊だつた筈だし、古道具屋の與次郎もほんの子供だつた――」
「親分、二十三年前の泥棒なんか詮索せんさくしても、何にもなりませんぜ」
「さうかも知れないな」
 二人は玉屋から遠く、裏通りを選つて、聖堂裏の方へ歩いて居りました。
「待て/\、俺は大變な間違ひをして居たらしいぞ。――殺された番頭の甚助は、あの朝香爐かうろを持出して、古道具屋へ行く前に何處かへ隱した――とまでは考へたが、表通りばかり搜したのは大手ぬかりだ。一寸裏通りへ廻つて、隱し場所を搜せない筈はないわけだ」
「何處へ行きなさるんで、親分」
「默つて跟いて來るが宜い、そんなに遠い筈は無い」
 平次はいきなり、あさりだなの裏から、御小人おこにん屋敷、定火消御役屋敷(今の元町)の方へ行きました。
 塀の下、石垣の崩れ、積んだ材木の隙間を見て行くうちに、
「此邊だ、甚助は家から持出した香爐を此邊に隱して空手からてで古道具屋へ行つたに違ひない」
 平次は獨り言を言ひ乍ら、狹い路地の中の、とある石垣の崩れへ手を差し込みました。人目に付かないところ、子供の手の屆かないところ、泥や下水に汚されないところと言ふと成程、大人の背の高さほどの、石垣の崩れた穴が一番恰好な隱し場所です。
「あツ」
 平次は思はず聲を立てました。引出した手には、山吹色の小判が二三十枚、そのいづれも、檢印の無い品ばかりではありませんか。


 上根岸の喜六の葬式へ行つて居た古道具屋の與次郎は、その日の夕刻、上野の鐘が六つを打つと一緒に、大變な使を受取りました。
「本郷の與次郎さんは居ますか、――大、大變な事が――」
 息を切つて飛込んだのは、顏見知りの町内の若い者です。
「お、町内の方、何が起つたんで!」
 とむらひの跡形付を手傳つて居た與次郎が顏を出すと、
「お糸さんが、若旦那と逃げ出したよ、書置きをして」
「えツ」
「行先は東海道だ、――江の島で心中をするんだつて」
「しまつたツ」
 與次郎は飛出すと、あはせの尻を端折つて驅け出しました。上根岸から御徒士町へ、筋違ひから、日本橋へ――。
 大跛足おほちんばで、家の中を歩くのさへ不自由さうにして居た與次郎の足の早いこと。
 その頃の江戸の町人は、滅多に駕籠に乘れなかつたもの、急ぐ用事は、二本の足で驅けるより外に方法はありません。
 娘お糸、――十九年間手鹽にかけて輝くばかりに美しく育てた一人娘お糸の命を救ふ爲には、與次郎はもう跛足ちんばなんかの眞似をして居られなかつたのです。事實、右の高股たかもゝを切られて、跛足だつたには相違ありませんが、異常な體力の持主で、そんな事は見事に征服するだけの自信があつたのです。
 上根岸から日本橋まで、ほんの四半刻ともかゝりません。この勢ひで驅けて行つたら、品川手前でお糸に追ひ付き、その無法な道行から引戻すことも出來たでせう。が、日本橋へ差かゝつた時、與次郎は思はぬ障害に出つくはしました。
「待て/\與次郎」
「え?」
天狗てんぐ小僧の與吉、――三千兩の御用金泥棒、――玉屋の番頭甚助殺しの下手人、神妙にお繩を頂戴せい」
 橋の眞ん中に通せん坊をして居たのは、夕闇の中にもはつきり、錢形平次の勝ち誇つた姿と判つたのです。
「あ、おのれは平次」
「上根岸から此處まで四半刻で驅けつける位なら、百萬遍を稱へて居るうちに、聖堂裏まで行つて人を殺せる筈だ」
 平次は、ツと一歩進みました。
「――」
 後を振り向くと、大手を擴げて突つ立つたのは、ガラツ八の八五郎。
「錢形の親分、――いかにも俺は天狗小僧、二十年堅氣で暮したのは、一人娘のお糸が可愛いゝばかりだ、――その娘の出世をさまたげる甚助、殺したのが惡いか」
 與次郎の聲は凄慘でした。
「人を殺して惡くない筈はない」
 と平次の聲は冷たく響きます。
「あの野郎は、無體の横戀慕をして、香爐を盜んだ罪を娘に着せ、玉屋との縁談をこはしにかゝつた、――俺は昔取つた杵柄きねづかで、感を働かせて石垣の間から香爐を見付け、その翌る晩玉屋へ返したが、――」
「棒をなぜ外へ捨てた」
「あんまりしやくにさはるから、甚助へ少しばかり疑がかゝるやうにしたのさ」
 平次の明察を、與次郎は裏書きします。
「その甚助を何で殺した」
「あの野郎の親は、俺の昔の相棒だ。それを知つて居て、二十何年前に書いた、連判帳を種におどかし、お糸を嫁にくれと言ふから、その代り五十兩で連判帳を買ひ取ると約束し、聖堂までおびき出して殺したのさ」
「その時、檢印の無い小判を一兩落したのを氣が付かなかつたらう、天命だ、お繩を頂戴せい」
 人立ちの次第に多くなるのを恐れて、平次はツト進みました。
「待つた、錢形の親分。娘には何の罪も無い。後を頼まれては下さらぬか、――天狗小僧一生のお願ひだ」
 與次郎の聲は悲愴でした。
「よし、引受けよう。必ず金五郎と添はせてやる」
「有難てえ、錢形の親分が引受けて下されば思ひおく事はない。お禮心に、三千兩の隱し場所を申上げる」
「何?」
「二十三年前に盜んだ御用金三千兩は、濱町河岸の石置場、百貫あまりの御影石みかげいしの下だ――左の小さいくさびを取ると、子供にも取出せる」
「よし、解つた。お上へ申上げてお慈悲を願つてやる。お繩を頂戴せい」
 平次とガラツ八の挾撃は次第に近くなつて來ました。橋の兩袂に群がる人數は、思はずワツと喊聲かんせいをあげます。
「親分、天狗小僧も五十だ。今からお處刑しおきでもあるめえ、それ丈けは勘辨しておくんなせえ」
「あ、待て/\」
 と言ふ間もありません。與次郎は懷から取出した匕首あひくち、自分の喉に突つたてると、そのまゝ、欄干らんかん越しに、闇の水に落ち込んでしまひました。
        ×      ×      ×
「親分、變な捕物だね」
 その歸り途、ガラツ八は寒々と愚痴をこぼします。
「これをお糸へ言ふのが一と仕事だ。何か親の罪だけでも胡新化ごまかしやうはないかね」
「死骸は揚つたし、三千兩の小判は出たし、隱しやうはありませんよ」
「困つたな八」
 平次はお糸の歎きを見るのが何より嫌だつたのです。
「親分、あの石垣の穴に小判があつたのは、何う言ふわけです」
 ガラツ八は又繪解きをせがみました。
「濱町の石置場から見せ金の積りで五十兩持つて來たが、死骸と一緒に置くわけには行かないし、檢印が無いから急には捨てる場所も思ひ付かない。フト殺された甚助が香爐を隱して置いた穴を思ひ出して、其處へ投り込んで上根岸へ飛んで歸り、二十年前の連判帳はかまどの下か何かで燒いたのさ」
「成程ね」
「二十年前に足を洗つた天狗小僧が、無事に天命をまつたうする積りで、娘の育つのを眺めて居たのは殊勝ぢやないか、――その娘の爲に、こんな事になつたのは考へて見ると可哀想でもあるよ」
「――」
「これから、お糸と金五郎を添はせるのが一と仕事だ、が、お互同志の氣さへ確りして居れば、何とかならない事はあるまい」
 平次はしんみり言つて、遲い月を仰ぎました。寒い晩でした。





底本:「錢形平次捕物全集第五卷 蝉丸の香爐」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年5月25日発行
   1953(昭和28)年6月20日再版発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1937(昭和12)年2月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月15日作成
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