錢形平次捕物控

平次屠蘇機嫌

野村胡堂





 元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、海賊橋かいぞくばしを渡つて、青物町へ入らうと言ふところでヒヨイと立止りました。
「八、目出度いな」
「へエ――」
 ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。
「旦那方のめえぢや、呑んだ酒も身につかねえ。丁度腹具合も北山だらう、一杯身につけようぢやないか」
 平次は斯んな事を言つて、ヒヨイとあごをしやくりました。成程、その顎の向つた方角、活鯛いけだひ屋敷の前に、何時の間に出來たか、洒落しやれた料理屋が一軒、大門松を押つ立てゝ、年始廻りの中食で賑はつてゐたのです。
「へエ――、本當ですか、親分」
 ガラツ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツヒぞ斯んな事を言つたことの無い親分の平次が、與力笹野新三郎の役宅で、屠蘇とそを祝つたばかりの歸り途に、一杯呑み直さうといふ量見が解りません。
「本當ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言ふ氣遣ひはねえ。サア、眞つ直ぐに乘り込みな」
 さう言ふ平次、料理屋の前へ來ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並めた屠蘇とそが、今になつて一時に發したのでせう。
「親分、あぶないぢやありませんか」
「何を言やがる。危ねえのは手めえの顎だ、片附けて置かねえと、俺の髷節に引つ掛るぢやないか」
「冗談でせう、親分」
 二人は黒板塀を繞らした、相當の構の門へつながつて入つて行きました。
 眞新しい看板に「さざなみ」と書き、淺黄あさぎの暖簾に鎌輪奴かまわぬと染め出した入口、ヒヨイと見ると、頭の上の大輪飾おほわかざりが、どう間違へたか裏返しに掛けてあるではありませんか。
「こいつは洒落て居るぜ、――正月が裏を返しや盆になるとよ。ハツハツ、ハツハツ、だが、世間附き合ひが惡いやうだから、ちよいと直してやらう」
 平次は店の中から空樽あきだるを一梃持出して、それを踏臺に、輪飾りを直してやりました。
「入らつしやい、毎度有難う存じます」
「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へツ、へツ」
 帳場に居た番頭と若い衆、掛け合ひで滑らかなお世辭を浴びせます。
「何を言やがる、身錢を切つた酒ぢやねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかツてんだ」
「へツ、御冗談」
 平次は無駄を言ひ乍ら、フラリフラリと二階へ――
「お座敷は此方でございます。二階は混み合ひますから」
 小女が座布團を温め乍ら言ふのです。
「混み合つた方が正月らしくて宜いよ。大丈夫だ、人見知りをするやうな育ちぢやねえ。――尤もこの野郎は醉が廻ると噛み付くかも知れないよ」
 平次は後から登つて來るガラツ八の鼻のあたりを指すのでした。
 小女はんがりともせずに跟いて來ました。二階の客は四組十人ばかり、二た間の隅々に陣取つて正月氣分もなく靜かに呑んで居ります。
「其處ぢやさらし物見たいだ。通りの見える所にしてくれ」
 部屋の眞ん中に拵へた席を、平次は自分で表の障子の側に移し、ガラツ八と差し向ひで、威勢よく盃を擧げたものです。
「大層な景氣ですね、親分」
 面喰つたのはガラツ八でした。平次のはしやぎ樣も尋常ではありませんが、それより膽を冷したのは、日頃堅いで通つた平次の、この日のあざやかな呑みつ振りです。
「心配するなよ。金は小判といふものをフンダンに持つて居るんだ。――なア八、俺もこの稼業には飽々あき/\してしまつたから、今年は一つ商賣替をしようと思ふがどうだ」
「冗談で――親分」
「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言へるものか。大眞面目の涙の出るほど眞劍な話さね。八、江戸中で一番儲かる仕事は一體何んだらう。――相談に乘つてくれ」
 さう言ふうちにも、平次は引つ切りなしに盃をあけました。見る/\膳の上に林立する徳利の數、ガラツ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めて居ります。
「儲かる事なんか、あつしがそんな事を知つてゐるわけが無いぢやありませんか」
「成程ね。知つて居りや、自分で儲けて、この俺に達引たてひいてくれるか。――有難いね、八、手前の氣つぷに惚れたよ」
「――」
 ガラツ八は閉口してぼんのくぼを撫でました。
「――尤も、手前の氣つぷに惚れたのは俺ばかりぢやねえ。横町の煮賣屋のお勘ん子がさう言つたぜ。――お願ひだから親分さん、八さんに添はして下さいつ――てよ」
「親分」
「惡くない娘だぜ。少し、唐臼からうすを踏むが、大したきりやうさ。何方を見て居るか、ちよつと見當の付かない眼玉の配りが氣に入つたよ。それに、あの娘は時々垂れ流すんだつてね、飛んだ洒落た隱し藝ぢやないか」
「止して下さいよ、親分」
「首でもくゝると氣の毒だから、何んとか恰好をつけておやりよ、畜生奴」
「親分」
 ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。錢形平次は際限さいげんもなく浴びせ乍ら、滅茶々々に饒舌り捲つて二階中の客を沈默させてしまひました。
 四組のお客は、それにしても何と言ふおとなしいことでせう。そのころ流行はやつた、客同士の盃のやりとりもなく、地味に呑んで、地味に食ふ人ばかり。そのくせ、勘定が濟んでも容易に立たうとする者はなく、後から/\と來る客が立て込んで、何時の間にやら、四組が六組になり、八組になり、八疊と四疊半の二た間は、小女が食物を運ぶ道を開けるのが精一杯です。
「なア、八、本當のところ江戸中で一番儲かる仕事を教へてくれ、頼むぜ」
 平次は尚も執拗しつあうにガラツ八を追及します。
「泥棒でもするんですね、親分」
 ガラツ八は少し捨鉢になりました。
「何んだと此野郎ツ」
 平次は何に腹を立てたか、いきなり起上つてガラツ八に掴みかゝりましたが、散々呑んだ足許が狂つて、見事膳を蹴上げると、障子を一枚背負つたまゝ、縁側へ轉げ出したのです。
「親分、危いぢやありませんか」
 飛びつくやうに抱き起したガラツ八、これはあまり醉つてゐない上、どんなに罵倒ばたうされても、親分の平次に向つて腹を立てるやうな男ではありません。
「あゝ醉つた。――俺は眠いよ、此處で一と寢入りして歸るから、そつとして置いてくれ」
 障子の上に半分のしかゝつたまゝ、平次は本當に眼をつぶるのです。
「親分、――さア、歸りませう。寢たきや、家に歸つてからにしようぢやありませんか」
「何を。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願ひだから、此處で――」
「親分、お願ひだから歸りませう、さア」
 ガラツ八は手を取つて引き起します。
「よし、それぢや素直に歸る。手前てめえこれで、勘定を拂つてくれ。言ふまでもねえが、今日は元日だよ、八、勘定こつきりなんて見つともねえことをするな」
「心得てますよ、親分。――小判を一枚づつもやりや宜いんでせう」
「大きな事を言やがる」
 ガラツ八は平次をなだめ乍ら、財布から小粒を出して勘定をすませ、板前と小女に、はずみ過ぎない程度のお年玉をやりました。
「あ、親分、そんな事は、をんなにやらせて置けば宜いのに――危いなアどうも」
 八五郎もハツとしました。平次は覺束ない足をふみ締めて、自分の外した障子を一生懸命元の敷居へはめ込んで居るのです。
「放つて置け。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どつこいしよ」
 平次はまだ障子と角力を取つて居ります。


 八五郎は平次を引つ擔ぐやうにして、何うやら彼うやら帳場まで降りて來ました。
 帳場に坐つて居るのは、中年の番頭が一人。
「お歸りで? 親分さん、毎度有難う存じます。又どうぞお近いうちに」
「飛んだ騷がせたね、濟まねえ」
 平次はフラフラと首をしやくつて、草履を突つかけます。鼻緒はなをがなか/\足の指にはまりません。
「つまらないもので御座いますが、どうぞお手きになすつて下さいまし」
 番頭は帳場の側へ二た山に積んだ、お年玉の手拭のうちから白地のを二本取つて、平次と八五郎に渡しました。
「有難てえ、遠慮なしに貰つて行くぜ。ところで番頭さん、俺は斯う見えても大の親孝行者なんだ」
「へエ、へエ、結構なことで――」
「お袋は取つて六十七だが、白地の手拭は汚れつぽいからと言つて、淺黄あさぎの手拭でなきや、どうしても使はねえ」
「――」
「お安い御用だ。ひよいと一本だけ、その淺黄の方と換へてくんな」
 平次は貰つた手拭を下へ置いて、番頭の方へ手を出しました。
「御冗談で、――親分さん。その白地の方が品がぐつと良くなりますよ。淺黄は染も地も惡くなりますが」
「その地の惡いのが好きなんだ。どうも手拭の良いのは、顏の皮を剥いて、始末にいけねえ」
「飛んでもない。これは出前の註文に入らつしやる御近所の衆や、お使の方に差上る分で――」
「そんな事を言はずに、頼むから一本」
 平次は根氣よく絡み付きます。生醉なまよひらしい執拗さに、番頭はすつかり持て餘しましたが、小腹が立つたものと見えて、手拭の山を後にかばふやうに、頑として平次の望みを斷わり續けるのでした。
「親分、宜い加減にして歸りませう。淺黄の手拭が要るなら其邊で二三反買つて行かうぢやありませんか」
 見兼ねてガラツ八が口を出します。
「何だ、人の財布を預かつてゐると思つて、いやに大束おほたばを決めるぢやないか――まア宜いや、手拭一と筋で喧嘩にもなるめえ、素直に歸らう」
「危ない、其處は敷居ですよ、親分」
 あんよは上手――の形で、漸く平次を外に伴れ出したガラツ八、日本橋を越してホツとしました。
「八」
「へエ――」
「誰も見ちや居ないな」
「へエ――」
 神田が近くなると、平次の態度は、俄然變つたのです。
「淺黄の手拭を出しな」
「へエ――」
「番頭と揉んでゐるうちに、手前懷へ一本忍ばせたらう。――あんな隱し藝があるとは知らなかつたよ」
 平次はヒヨイと手を出しました。しやんとした足取り、顏の色も、身體の安定も、日頃の平次と少しも變りません。
「淺黄の手拭にいはくがあるだらうと思つて、一本持つて來ましたよ。さうでもなきや、親分は何時まで番頭とやり合つて居るか解らねえ」
 ガラツ八は懷から淺黄の手拭を一と筋、のし紙に包んだまゝのを出しました。
「手前の指先の働きを見屆けたから、俺は番頭にからむのを切上げたんだ。大した腕だぜ八、岡つ引よりあの方が柄に合やしないか」
「冗談でせう。――ところで、親分は醉つちや居なかつたんで?」
 ガラツ八は先刻から、打つて變つた平次の樣子が不思議でなりません。
「本當に酒を呑んだのは、吸物椀と盃洗と、吐月峯はいふきさ」
「へエ――」
「俺は三猪口ちよことは呑んぢや居ねえ」
「すると?」
「間拔けだなア。――あの家を、不思議だとは思はなかつたのか、手前は?」
「へエ――」
 ガラツ八にはまだ解りません。
冒頭はなから、話さう。――第一番に、入口の輪飾りが引つくり返つて、裏の方を見せて居たらう」
「へエ――」
縁喜えんぎ物を裏返しに掛けるあわて者が何處の世界にあるものか――空樽を踏臺にして、やつと手の屆くところだから、子供のしたことぢやねえ」
「成程ね」
 ガラツ八は長いあごを撫でました。
「それ丈けなら物の間違ひとも思ふが、――表二階の障子が一枚、裏返しになつて居たのに氣が付いたか」
「さう言へば、親分の倒した障子を、そのまゝ敷居へはめたら、骨の方が外を向いてましたね」
 ガラツ八は、あの時の平次の醉態すゐたいをはつきり思ひ出しました。
「客商賣の家が、元日早々、障子を裏返しにして置くといふ法はないよ」
「フ――ム」
 ガラツ八は鼻の穴をふくらませました。平次の話が次第に重大さを加へるので、そつと後を振り返りましたが、此處へ來るともう元日の街も思ひの外淋しく、廻禮の麻裃あさがみしもや、供の萠黄もえぎの風呂敷が、チラリホラリと通るだけ、兩側の店も全く締めて、松飾りだけが、青々と町の風情を添へて居ります。
「たつたそれだけで、俺は素通りが出來なくなつた。屠蘇機嫌と言つた顏で、輪飾りを引くり返したり、障子をわざと外して、裏表を直したり、飛んだ生醉なまよひの芝居をしたが、――勘定を濟まして、外へ出て振り返ると――」
「――」
「輪飾りは矢張り裏返しになつて居たし、二階の障子も、眞ん中の一枚は、骨が外へ向いて居たよ」
「へエ――」
「手前は其處までは氣が付かなかつたらう」
「恐れ入つた。親分、もう一度引返して樣子を見ませうか」
「馬鹿、此上相手に要心させてたまるものか。さうでなくてさへ、俺を平次と見破つたんぢやあるまいかと、大ビクビクものだつたぜ」
 それにしても、『さざなみ』の謎は解けさうもありません。
「何んだつてそんな事をしたんでせうね、親分」
「それが解らねえ」
 平次は往來の眞ん中で腕組をしてしまひました。
「輪飾りを引つくり返したり、障子を裏返しにすると、何かの禁呪まじなひになるでせうか。今年は流行やまひがあり相だからとか何とか」
「そんな馬鹿なことがあるものか。その上、あんなに立て混んでゐる客が、元日だと言ふのに、少しおとなし過ぎたよ」
「――」
「場所は海賊橋だ。――街を通る人から、たつた一と目で見える輪飾りと障子に細工があつたんだぜ――」
 二人の足は、何時の間にやら、平次の家へ――路地を入つて居りました。
「親分、その手拭に何かありやしませんか」
「それだよ、――兎も角、お屋敷へ歸つてからとしようぜ」
「へツ、北の方お待兼ねと來やがる」
なぐるよ、此の野郎」
 噂をされる女房のお靜は、この時まだ若くも美しくもあつたのです。


「どうだい八、番頭が物惜みをしただけに、手が混んでゐるぢやないか」
 平次は淺黄の手拭を疊の上に擴げました。
「成程ね、十二支と江戸名所づくしだ」
 手拭は一面の模樣で、細かく十二に割つた區劃くくわくの中に、十二支の動物や、塔や、橋や、鳥居や、人物が、統一も順序もなく並べてあるのです。
「江戸名所に、鍋釣なべづるや賽ころは無いぜ」
 それ以上は二人にもわかりません。兎に角、最初の一と區劃は、塔と飛んでゐる動物と、橋の欄干らんかんがあるだけ。
「こいつは親分、兩國橋から見た淺草の五重の塔ぢやありませんか」
「飛んで居るのは」
とびか何かで」
かもめなら判つてゐるが、――恐ろしく腰の細い、足の長い鳶ぢやないか。まるで蜂か蚊だぜ」
「――」
「兎に角、この手拭を持つて行つて、何處で染めたか突き止めてくれ。はじつこに印があるから、商賣人が見たら判るだらう。紺屋が判つたら、誂主あつらへぬしを訊くんだぜ」
「へエ」
「それから、正月早々氣の毒だが、暫らくの間、あの『さざなみ』を見張つて居て貰ひ度いな。手が足りなかつたら、下つ引を狩り出しても構はねえ」
「そんな大物でせうか、親分」
博奕ばくち宿か、大名の洒落か判らないが、兎に角、お膝元に不似合なものらしいよ」
 二人はそれつ切り別れました。
 平次はそれからすつかり寢正月をして、三日の朝不精床を這ひ出すと、
「お早やう」
 ガラツ八の八五郎が忠實まめな顏を持つて來たのでした。
「何だい、八、年始はもう濟んだ筈だぜ」
 平次は啣楊枝くはえやうじで淡い陽の中から聲をかけます。
「あれツ、忘れちや情けないね。親分、海賊橋の輪飾り」
「あ、そんな事もあつたやうだね。三日二た晩寢通して見るが宜い。御用のことは兎も角、女房の面も忘れるよ」
 平次はそんな事を言ひ乍ら、せつせと遲い朝の支度をしてゐる、お靜の素知らぬ顏をチラリと見やります。
「へツ、惚氣を聽きに來たんぢやねえ。手拭の誂主は判りましたぜ、親分」
「誰だ?」
さざなみの番頭で」
「馬鹿野郎、『さざなみ』のお年玉を、『さざなみ』の番頭が誂へるに、何んの不思議があるんだ。もう少し、詮索せんさくをして見ろ」
「しましたよ、親分、驚いちやいけませんよ」
「脅かすなよ」
「こいつを驚かなかつた日には木戸は要らねえ。『さざなみ』は昨日のうちに店を疊みましたぜ」
「何だと」
「大晦日に店を開いて、正月の二日に店仕舞をしたと聽いたら、親分だつて驚くでせう」
「よし、直ぐ行つて見よう。大家は何處だ」
「裏の倉賀屋――質屋が家主で」
 それを半分訊いて、平次はもう出かける支度です。
「あれ、お前さん、まだ朝飯も、濟まないぢやありませんか」
 驚いたのはお靜でした。
「お前一人で濟まして置け。――羽織は何處だ、――紙入と手拭は?」
 二人は呆れるお靜を後に、ほんとに鳥のやうに飛んで行つてしまひました。


 海賊橋へ行つて見ると『さざなみ』は店を締めて、近所で訊いても、何處へ引越したとも解りません。『さざなみ』の眞裏、庭續きの質屋――倉賀屋――へ行つて訊くと、
「どうも驚きましたよ。暮の二十五日に來て、正月早々店を開き度いからと、一兩二分で貸しました――へエ、店貨は確かに一と月分頂戴しましたが、店を開いて、たつた一日で、どうも商賣は思はしくないから、故郷の府中へ歸ると言ひ出すぢやございませんか、あんな店子たなこは見た事もありません」
 主人の總七は、五十恰好のよく練れた人相を、解き難い謎に曇らせます。
「借り手は何んな人間で?」
「主人は顏を見せません。番頭は四十がらみの、世辭せじの宜い男で」
 それなら平次もよく知つて居ります。
「雇人は?」
「下足が一人、板前が二人、下女が二人、それにお座敷女中が三人位は居たやうでございます」
「あれほどの店を貸したんだから、證人があるだらう」
「それが、その、江戸へ出たばかりで、知合が無いからと言ふお話で、その代り敷金を半年分九兩入れました。――尤もそれは昨夜お返し申しましたが」
「それにしちやお年玉の手拭を誂へたのは可笑しいな。暮の二十五日ぢや間にあはねえ筈だ」
「へ――エ?」
 獨り言ともなく、言つた平次の言葉、主人の總七も何やらピンと來た樣子です。
「何んか書いたものは無いだらうか、請取とか、名札とか?」
「生憎何んにもございません」
 これでは取付く島もありません。平次も暫らくは、煙草のけむりを輪に吹くばかり。
「それぢや、あの店を私に貸してはくれまいか」
 平次は大變なことを言ひ出しました。
「それはもう、親分さんの御用と仰つしやれば、決して否應は申しません。が、生憎『さざなみ』が、立ち退くと入れ違ひに、借手が付いてしまひました」
「はて? 何處の何と言ふ人だえ」
「何でも、古道具の糶屋せりやさんださうで、五日にはきつと越して來るからと、手金まで置いて行きました」
「ちよいと、その手金を見せて貰はうか」
「へエ――」
 主人は帳場格子の中で、何やらガチヤ/\させると、四兩二分の金を持つて來て、平次の前に並べます。
「この金に目印でもあるのかい」
「何にも御座いません」
「それぢや、どうして金箱の中から選り出したんだ」
「へエ――」
 斯うなると、少しも要領を得ません。
「五日に越して來るなら、今日は三日だから、四日一日は空いて居るだらう」
「へエ――」
「その空いてる四日一日だけ貸して貰はうか。五日の朝のうちには、綺麗に引拂つて行くから」
「へエ――」
 倉賀屋總七は、あまり氣の進まない樣子ですが、顏の良い御用聞の申出を斷わるほどの勇氣も無かつたのです。
「店賃は一兩二分、一と月分に負けて貰はうか。――もつとくれと言はれても、それで正月の小遣ひ總仕舞だ」
 平次はそんな事を言つて、一兩二分の金を取出します。
「それには及びませんよ、親分さん。たつた一日位のことなら、どうぞ御自由にお使ひ下すつて」
「いや、借りた家の店賃は、矢張り拂はないと氣が濟まねえ。その代り一筆請取を書いて貰はうか」
「それぢや、暫らくお預り申します」
 平次の引きさうもない樣子を見ると、主人の總七は澁々ながら一筆請取を書いて出しました。


「八、いよ/\商賣替だよ」
「へエ――」
「氣のえ返事をするなよ、何んとか景氣をつけてくれ」
「何をやらかすんで」
 倉賀屋の歸途かへり、平次は斯んな事を言ひ出すのです。
「判つてゐるぢやないか、『さざなみ』の後を借りたんだ。――當節は何んと言つても儲けの早いのは食物屋さ」
「驚いたなア」
「驚くことなんかあるものか。手前てめえ庖丁はうちやうの心得はあるかい」
「そんなものはありやしません。十手小太刀の心得なら少しはあるが――」
「生意氣なことを言ふな。どうせたつた一日だ。俺は帳場へ坐るから、手前は板前よ。お靜は下女でお品さんに手傳つて貰つて、これはお座敷女中」
「大變なことになつたね、親分」
 ガラツ八の驚き呆れる間に、平次は着々とその支度を整へました。尤もガラツ八の板前では納まりません。知合の料理屋から、手の空いて居る限りの人數をカキ集め、座布團も、火鉢も、膳椀も一日のうちに運び入れて、正月の四日には、もう夜が明けると一緒に店を開いたのです。
「親分、到頭眞物ほんものですね」
「ざつと斯んなものだよ、八、表を見てくれ」
 平次に言はれて表に廻つた八五郎。
「あツ」
 さすがに驚きの聲をあげました。
「どうだ八」
「あの通りだ、輪飾りも、――二階の障子も」
 輪飾を裏返しに、二階の障子の骨は此方を向いて居るのです。
家主おほやさんへ行つて、火鉢を二つ三つと、帳場で使ふ當り箱と、掛物を一幅借りて來い――何だつて構はないとも、山水でも花鳥でも、お佛樣でも、――相手は質屋だ。それ位の品が無い筈は無いよ」
おうツ」
 斯うなるとガラツ八も一生懸命でした。
 未だ廻禮のある時分で、巳刻よつ頃からボツボツ客が來ますが、本職の板前や女中が入つてゐるので、帳場の平次少しも驚きません。
 晝頃になると、家主の主人總七が、ブラリと樣子を見に來ました。
「親分さん、商賣はどんな樣子で?」
「お蔭樣で大繁昌です。いよ/\私も商賣替をして、此處へ根を生やしませうか」
「飛んでもない」
 平次のニコ/\した顏を、凡そ、見當の外れた樣子で眺め乍ら、倉賀屋の主人は歸つて行きました。
「八」
「へエ――」
「何人來て居る」
「六人ばかり、皆んな此居廻りの下つ引ですよ」
「それで宜い、江戸橋と、日本橋の御高札場と、萬町よろづちやうと、青物町と、二丁目の河岸つぷちへ一人づつつ張り込ませてくれ。立ち話をする奴か、往來の人へ合圖をする者があつたら、構はねえから邪魔をするんだ。時と場合ぢや引つくゝつても宜い」
「へエ」
「これは大きな聲ぢや言へねえが、倉賀屋の丁稚小僧が外へ出たら、一々後をけるんだぜ」
「へエ――」
 八五郎を出してやると、平次は又帳場に脂下やにさがります。
 新店のせゐか、客は一かう來ません。――いや、新店でも元の『さざなみ』はあんなに客が立て混んだのです。今度は一體何としたことでせう。
「入らつしやい」
「許せよ」
 ズイと入つて來たのは、虚無僧こむそうが二人。
「どうぞお通りを」
「遲れて心配いたした。元日といふ約束であつたが、箱根の關所で手間取つて、今日漸く江戸へ入つた始末ぢや」
 何が何やら解りません。
「御苦勞樣で――さア、どうぞ二階へ、お通り下さいまし」
 平次は一生懸命でした。が、天蓋てんがいの中の顏は、見る工夫もありません。
「手形はこれだ」
「へエ――確かに頂戴いたします」
 小さく疊んだ紙片、平次は押し戴くやうに懷中へ入れます。
「許せよ」
 二人の虚無僧は天蓋を冠つたまゝ、靜かに階子はしご段を踏んで二階へ昇りました。
 平次はその後ろ姿を見送つてそつと紙片かみきれを開きました。中には月日と假名と數字ばかり。
二月十八日(ウ)三五八
四月 六日(サ)一〇〇
同 廿九日(カ)一〇
七月廿八日(サ)八
九月十七日(ス)六五
十月 七日(ハ)六
 以上七項が書いてあるのです。
 半刻ばかりの後、輕い食事を濟ました二人の虚無僧は、綺麗に勘定を拂つて二階から降りて來ました。
「有難う存じます、またどうぞ」
 少しギコチないが、精一杯の世辭をふりく平次に、
「お年玉を貰はうかの」
 若い方の虚無僧は手を出したのです。
「――」
 平次はハツとしました。何も彼も殘るところ無く用意を整へた積りでしたが、お年玉の白い手拭と、淺黄の手拭だけは、染める暇が無かつたのでした。
「例年のことだが――」
 平次の躊躇ちゆうちよするのを見て、虚無僧の一人は屹となりました。
「お生憎樣ですが、元日一日で出拂つてしまひました」
「何、出拂つてしまつた。そんな筈は無い。我々を何んと心得て仲間外れにするのだ」
「飛んでもない――あ、御座いました。一筋だけ殘つて居りました。少し皺くちやになりましたが、これで御勘辨を願ひます」
 平次は元日此處の帳場から、ガラツ八がくすねた淺黄の手拭を懷から出して、折目正しく疊み直し、用意の熨斗紙のしがみに包んで、恐る/\差出しました。
「よし/\、皺になつても、貰ひさへすれば。――それでは又逢はう」
「有難う御座います。それでは、お靜かに」
 振り返りもせずに立去る二人の虚無僧を見送つて、平次は思はず冷汗を拭きました。
「八、八は居ないか」
「親分」
 ノソリと物蔭から出たのはガラツ八です。
「あの二人の虚無僧の後を跟けてくれ」
「へエ――」
 ガラツ八は獵犬のやうに、尻を七三に引つからげて飛出します。


 二た刻ばかり後、今日一日の店を仕舞ひ、借りた物は返し、やとつた人には手當をやつてゐるところへ、ガラツ八の八五郎は濡れ鼠のやうになつて飛込んで來ました。
「あツ、ブル/\。あの若い虚無僧の腕には驚きましたよ、親分」
「ちよつかいを出して、大川へでも投り込まれたんだらう」
 平次は案外驚いた顏もしません。
「ちよつかいなんか出せるものですか。神妙に後を跟けて行くと、龜戸へ行つて、深川へ廻つて、それから永代を渡つて又此方へ戻るぢやありませんか」
「どんな家を訪ねて廻つたんだ」
「何處へも行きやしません。天神樣へお詣りして、落書を一とわたり讀んで、矢立を出して柵へ何んか書いて、八幡樣へ行つて同じことをして、それから永代橋の欄干らんかんの裏へ何んか細工をして」
「フーム」
 平次の顏は次第に眞劍になります。
「立去つた後、その欄干の下をヒヨイと覗くと、いきなり若い虚無僧が戻つて來て、先刻から我々兩名の後を跟けて居るやうだ。不埒千萬――だつて言やがる」
「投げられたのか」
「へエ――十手を出す暇もありやしません。いきなり一本背負しよひに、欄干を越してドブンとやられたには驚きましたよ」
「危いね」
「親分の前だが、永代の下の水は、思ひの外鹽つぱい」
「馬鹿野郎」
 さう言ひ乍らも、寒空にガタガタ顫へてゐる八五郎の着物を脱がせ、皆んなから一枚づつ剥いて、何うやら斯うやら暖めた上、倉賀屋から布團を借出して來て、梯子の下の六疊に寢かしました。
「風邪を引きさうだぜ、親分」
「今熱燗あつかんで一本やるから、それを呑んで寢てしまへ。俺はこれから八丁堀へ行つて、明日の朝迎ひに來る」
「少し淋しいね、親分」
「何を、子供ぢやあるまいし」
 平次は大勢の手傳ひを皆な歸した上、八五郎一人を留守番にして、其處から遠くない八丁堀組屋敷へ急ぎました。
 與力笹野新三郎に逢つて、
「旦那、この日附と數に、お心附きは御座いませんか」
 虚無僧が手形と言つて置いて行つた紙片を見せました。笹野新三郎暫らく眺めて居りましたが、
「平次、これは何處から手に入れた」
 膝の上に置いて容易ならぬ眼を擧げます。
「虚無僧が置いて行きました。尤も私を仲間と間違へたやうで」
「これは大變なものだぞ。――此處ぢや詳しいことは解らない。御數寄屋橋へ行つて、書き役の方に伺つて見るが宜い」
「有難う御座います、それぢや」
「待て/\、俺も行かう。これは近頃の大捕物になるかも知れない」
 笹野新三郎、即刻支度を整へ、平次共々御數寄屋橋内、南奉行所に急ぎました。
 書き役は留守。
 思ひの外手間取つて、添役に記録を調べさせると、重大事件の輪廓が次第に判つて來ます。
「これは大變でございますよ、笹野樣。昨年の二月十八日は、東海道宇津谷峠うつのやたうげで金飛脚が殺され、三百何十兩の金が取られて居ります」
「えツ」
「それから四月六日には※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)さつたたうげ商人あきんどが殺され、路用を奪はれましたが、金高はわかりません。その月二十九日には、蒲原かんばらの酒屋に押込が入つて、賣溜を奪つて逃げ、七月二十八日は小夜さよの中山で追剥おひはぎが旅人を脅かし、九月十七日には飛んで鈴鹿峠すゞかたうげで大阪の町人夫妻が殺されて大金を取られ、十月七日は、箱根で一人旅の女が身ぐるみ剥がれて居ります」
「それは大變だ」
 と笹野新三郎。
「して見ると、あの『さざなみ』は泥棒の顏繋かほつなぎをする場所だつたのですね」
 錢形平次は斯んな事だらうとは思ひましたが、今更事件の重大さに驚くばかりです。多分、全國の泥棒どもが年に一度の顏寄せに、お互の功名を誇り合つた上、獲物を何かの方法で分配でもするのでせう。
「平次、しつかりやれ、これは容易ならぬことだぞ」
 笹野新三郎は平次の腕に期待をかけます。


 平次は笹野新三郎と打合せて、八丁堀を繰出したのはあけ寅刻なゝつ。霜を踏んで倉賀屋から、『さざなみ』の前後を、すつかり取圍とりかこませました。
『さざなみ』に行つて一應ガラツ八の樣子を見ようと思ひましたが、なまじそんな事をして、曲者に用心させてはと、手先捕方を隙間もなく配置し、兎も角も夜の明けるのを待つことにしたのです。
「何と申しても、怪しいのは倉賀屋でございます。自分の持家を寄合に使つて居るのを、知らない筈は無いのに、何彼と胡麻化ごまかすことばかり考へて居るやうで、あの總七といふ主人あるじは油斷がなりません」
 平次は倉賀屋へ第一番に疑をかけた上、手に及ぶかぎりの下つ引を動員して、二人の虚無僧の落付いた先を調べさせました。
「夜が明け切つては、近所の家で驚く。もう宜からう平次」
 笹野新三郎は若いだけに功名を急ぎます。
「それツ」
 平次の號令につれて、前後左右から倉賀屋の圍みを絞つたのは寅刻半なゝつはん頃。
「御免よ。板原左仲樣御屋敷から來たが、かねて、入質の大小、今日の御登城に御用ひになる相だ。すぐ出して貰ひ度い」
「板原左仲樣――と仰しやる方は存じませんが」
 臆病窓を開けた手代、淡い曉の光の中に立つて居る、お屋敷者らしい男を、不審さうに見やりました。
「そんな事があるものか、御身分柄内々の質入だ。主人に逢へば判る、潜戸くゞりをちよいと開けてくんな」
「へエ――」
 手代は爭ひ兼ねて潜戸を開けると、
「御用ツ」
「神妙にせい」
 一隊の人數が、つぶてのやうに亂れ入ります。
 が、併しこの襲撃も、飛んでもない結果になつてしまひました。折角狙つて來た倉賀屋の主人總七は奧の部屋で寢たまゝ刺し殺され、おびたゞしい金と、番頭の九郎助が行方不明になつて居たことが判つただけだつたのです。
 家搜しをして見ると、藏の中はお觸書にある贓品だらけ。
「矢張り、この總七は泥棒の片割れでした。――質屋になつて、永い間仲間の盜んだ品をさばいたのでせう」
 平次の解つたのは、たつたこれだけです。
「番頭は?」
「仲間割れがしたか――主人あるじの總七が裏切る樣子でもあつたので手を廻したのかも解りません」
「引續いて、頼んだ手を緩めてはならぬ」
 與力笹野新三郎は、萬事を平次に任せて、朝のうちに引揚げてしまひました。
「ところで、八は何うして居るだらう。此騷ぎにも起き出さないのは、餘つ程疲れたのかな」
 平次は『さざなみ』へ行つて見ました。手を掛けると、閉めた表戸はわけも無く開いて、サツと射込む朝の光の中に、布團で昂布卷こぶまき[#「昂布卷に」はママ]された上、丁寧に猿轡さるぐつわまで噛まされたガラツ八が、階子はしごの下まで轉げて來て、情けない眼を光らして居るではありませんか。
「馬鹿野郎、何んてざまだ、一人前の岡つ引きが――」
 平次は大叱言を浴びせ乍らも、表戸をピタリと締めて、手早く八五郎の繩と猿轡を解いてやります。この淺ましい姿を人に見せ度くなかつたのです。


 併しこの失敗は事件のクライマツクスでした。しをれ返るガラツ八を連れて神田の家へ引揚げて來た平次は、それから四五日、物も言はずに一と間に籠つてしまつたのです。
「親分は?」
 お勝手口から臆病らしく顏を出した八五郎が、拇指をそつとお靜に見せたのは、十日の晝過ぎ。
「相變らずよ。腕組みをして、唸つてばかり居るんですもの、――何とかして下さいな、八五郎さん」
 戀女房のお靜も、すつかり持て餘し氣味です。
「大丈夫ですか、いきなり怒鳴りやしませんか」
 八五郎はあの失敗以來、すつかり御無沙汰して、此家このやの敷居がまたぎ切れないやうな心持だつたのです。
「八か、大丈夫だ。噛付きはしないから、入つて來い」
 奧から思つたよりも晴々しい平次の聲。
「へエ――」
 ガラツ八は恐る/\小腰を屈めて、髷節ばかり障子の中へ入れました。
「何んて恰好だい。まア入れ、八」
「へエ――、もう怒つちや居ませんか、親分」
縮尻しくじりはお互だよ。――ところで八、今日は何日だつけ?」
「正月の十日ですよ、早いもので」
「年寄染みた事を言ふな。――その十日に來たのはお前の運がなかつたんだ、これを見てくれ」
「へエ――」
 ガラツ八は恐る/\滑り込みました。平次は疊の上へ置いた半紙へ、變哲なものを書いて一生懸命それと睨めつこをして居るのです。
「これは何だと思ふ、八」
「橋の欄干らんかんぢやありませんか。――あツ、あのお年玉の手拭の模樣を書いたんで? 親分ですかえ、これは、うめえもんだね」
「お世辭を言つちやいけねえ。――手拭は虚無僧にやつてしまつたが、心覺えがあるから、あの模樣の一番初めのを書いて見たんだ」
「へエ――」
「ところで、橋の欄干として何處にこんな橋があるだらう」
 平次の問は第二段に進みました。
「兩國ですよ、間違ひはありません。擬寶珠ぎばうしの形で解りまさア」
「成程、兩國かも知れない。――あの邊には見世物と水茶屋ばかりだが、道具屋のあるのを知つてるかい」
「知りませんよ」
「實はな、八、この手拭の染め模樣が何かの符牒ふてふに違ひないと思つて、俺は五日考へたよ」
「へエ――」
 平次のこんの強さに、ガラツ八は洒落も出ません。
「おめえは十二支と江戸名所だと言つたが、どうも、さうらしくもねえ。いろ/\考へた末、思ひ付いたのは、南部の盲暦めくらごよみだ」
「――」
「奧州の南部には、字の讀めない者に讀ませるやうに、――繪で書いた暦がある。――禿頭はげあたまに濁りを打つて半夏はんげと讀ませる――と言つたやうな話を思ひ出して、俺は早速麻布あざぶの南部樣御屋敷へ出かけたのさ」
「へエ、――暦はありましたか」
「あつたよ、御用人にお願する迄も無いや、馬丁べつたうに知つてるのがあるから頼んで一枚貰つて來た、これだ」
 平次は半紙一枚につた、粗末な木版の盲暦を出して、見せました。刀の大小を並べたり、賽の目や、太鼓や、田植ゑ笠や、塔や、いろ/\のものを畫いて、庚申かうしんは何月何日、社日しやにちは何時、彼岸は何日と判じて讀ませるのです。
「これで見ると、十日と讀ませるには、塔の蚊を書いて居る手拭り模樣の最初のがそれだ。手前てめえは觀音樣の五重塔ととびだと言つたが、あれは蚊だつたよ、八」
「成程ね、道理で無闇に足が長いと思つた」
「手拭の模樣は十二に分けてあつたから、最初は正月と見て宜い、正月の十日といふと今日だ」
「――」
 妙な緊張に、ガラツ八は唇を甞めました。
「兩國橋の近くに、何んかあるに違ひない、――どうだ八、この繪解ゑときは面白からう」
 平次は斯んな事を言つて落着いて居るのです。
「それぢや行きませう、親分、十日の日もあと一ときで暮れますぜ」
「その暮れるのを待つて居るんだ」
「風をくらつて逃げたら?」
「大丈夫。お品さんが、利助兄哥の子分衆に言ひ付けて、兩國の橋の見えるところで、二階正面の障子が一枚、裏返しになつて居る家を、朝つから見張つて居る筈だ」
「へエ――」
 ガラツ八は喫驚しました。五日籠つてゐた平次の神算鬼謀しんさんきぼうが、日本中の大泥棒の巣を、叩き潰す迄に運んで居たのです。
        ×      ×      ×
 その晩、兩國の料理屋、鶴喜つるきの離室を借りて、年に一度の參會を開いてゐた道具屋の一隊は、石原の利助の子分を先鋒とする、八丁堀の組子に十重二十重に取圍まれ、多勢の怪我人まで拵へて、盡く召捕りになりました。その中には東海道荒しの僞虚無僧二人、木曾荒しの女泥棒、その他五街道の惡者殆んど全部、十五六人にもなりましたが、江戸の老賊、『暗がりの總七』だけは居なかつたといふことです。
 錢形の平次は、併し、これを自分の手柄にはしませんでした。
輪飾わかざりが裏返うらがへしになつて居るのを見ただけさ、いやはや」
 さう言つて首筋を掻く平次だつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第五卷 蝉丸の香爐」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年5月25日発行
   1953(昭和28)年6月20日再版発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1938(昭和13)年1月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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