錢形平次捕物控

辻斬綺談

野村胡堂





「親分、あつしはもうしやくにさはつて癪にさはつて」
 ガラツ八の八五郎は、いきなり錢形平次の前に、長んがい顎を漂よはせます。
 よく晴れた秋の日の朝、平次は所在なく雁首がんくびを爪繰り乍らあまり上等でない五匁玉の煙草包をほぐして居るのでした。
「何をブリ/\してゐるんだ。腹の立て榮えのする面ぢやないぜ、手前なんか」
 一服吸ひ付けて、平次は暫らく薄紫色の煙をなつかしむ風情です。
「だつて、これが癪にさはらなかつた日にや、親分、生きてゐるとは言へないぜ」
「大層思ひ込んでしまつたんだね。其の癪にさはるわけを言つて見な。誰が一體手前に三年前の割前勘定わりかんなんか催促したんだ」
 平次はまだニヤリニヤリとして居ります。
「そんなんぢやねえ。割前なんか、拂はねえことに決めてゐるから、催促されたつて驚くあつしぢやねえが――」
「成程、氣は確かだ」
「町内の蝦子えび床へ入つて、順番を待つうち、中で木枕に頭を當てゝ、ついウトウトとしかけたと思ふと、多勢立て込んだ客が、あつしが居るとも知らずに、飛んでもねえ話を始めた――」
「――」
 ガラツ八の癪の原因は、何か筋道が立ちさうな氣がして、平次も少しばかり本氣になります。
「――近頃神田一圓を荒し廻る辻斬野郎、――最初は弱さうな二本差を狙つてゐたが、近頃はタチが惡くなつて、町人でも女子供でも、見境なくバサリバサリやつた上、死骸の懷中物ふところまで拔くといふぢやないか、――武家の惡戯は、町方役人の知つたことぢやねえと言ふ積りだらうが、一體誰がこれを取締つてくれるんだ、――錢形とか平次とか、大層顏の良いのが居たつて、辻斬へ指も差せねえやうぢや案山子かゝしほどの役にも立たねえ、――と斯うだ、親分」
 ガラツ八が腹を立てたのも無理はありませんが、町内の衆が、浮世床で不平をもらしたのも理由わけのあることでした。この夏あたりから、神田一圓を荒し廻る辻斬の無法慘虐な殺戮さつりくは町人達は言ふ迄もなく武家も役人も、御用聞の平次も腹に据ゑ兼ねてゐたのです。併し、市井しせいの小泥棒や、町人同士の殺傷沙汰と違つて、腕の利いた辻斬では、平次の手にも負へず、それに、神出鬼沒の早業で、幾度か正體を見屆け損ねて、夏も過ぎ、秋も半ばになつたのでした。
「その通りだよ、八、町内の衆の言ふ事にこれんばかりも間違ひはない」
 平次は自責の念に堪へ兼ねた樣子で、思はず深々とうな垂れます。
「親分、さう言はれると、一も二もねえ。が、床屋の店先で、遠慮もなく親分の惡口をまくし立てるのは、憎いぢやありませんか。一番憎い口をきいたのは、遊び人の――」
「そいつは聽かない方が宜い、――なア八、憎いのは町内の衆ぢやなくて、人間を牛蒡ごばうや人參のやうに斬つて歩く、辻斬野郎ぢやないか」
「――」
 平次はツイ、無法な殺戮者に對する、鬱積した怒を爆發させます。
「二本差同士なら兎も角、町人まで斬つて歩くのは我慢がならねえ。八、手を貸してくれるか」
「そいつは危いぜ、親分、辻斬は大抵、腕自慢がかうじた野郎だ」
「どんな腕の出來る人間でも、惡業あくごふが積めば年貢ねんぐを納める時が來るものだ、――俺はきつと辻斬野郎を縛つて見せる。年寄や女子供まで斬つて歩くやうな野郎を、どんな大身だつて勘辨して置くわけに行かない」
 平次はこまぬいた腕をほぐしました。眉宇の間に、何やら決然たるものが閃めくのでした。
「親分、早速出かけませうか」
 さう言ひ聽かされるとガラツ八は、大江山へ酒呑童子しゆてんどうじでも退治に行くやうな氣組です。
「辻斬はまだ朝寢をしてゐるよ」
「違げえねえ」
「だがな、八、無暗に歩いても、何時辻斬に逢ふか見當が付かねえ、――まさか鉦太鼓で搜すわけにも行くめえから、少し物事に順序を立てゝ考へて見ようぢやないか」
 平次は日頃の冷靜に返ると、理智的にプランを立てゝ、その中へ辻斬を追ひ込まうとするのでした。
「順序てえと」
「早い話、辻斬は夏から始まつて、十二三人もあやめたらうが、不思議なことに荒し廻るのは、兩國から明神樣まで、外神田一圓と下谷淺草の端つこだけ、――寛永寺の寺内、湯島天神樣の境内、淺草寺本願寺寄りを避けて、大川と神田川の向うへは一度も乘り出さない」
「――」
「こいつは、曲者が外神田に住んでゐる證據だ。どんな大膽不敵な野郎でも、血刀を腰に差して、夜更けの御見付は通られねえ」
「成程ね」
「明神下から兩國までとなると、思ひの外狹くなる。その間に住んでゐる、旗本御家人の殺伐な次男三男、お留守居の伜、若くて荒つぽい浪人、――斯んな手合を調べたら、思ひの外早く目星が付くといふものだらう」
 平次の論理は、もう整然とした網を描いて、その中に辻斬の曲者を追ひ込んで行きます。
「それぢや、わけは無いぢやありませんか。辻斬なんかやる野郎は、どうせ親孝行で身持のよい筈は無い。五六人性の惡いのを當つて見ちや――」
「馬鹿なことを言ふな、相手はいづれ武家だ。怪しい素振りがあるからと言つて、直ぐしよつ引いてくるわけにはいかねえ――」
「成程ね」
「斯うしてくれ。十二三人も斬るうちには、いづれ一度や二度は、腰の物を研屋とぎやへ出すだらう。外神田の研屋、下つ引を二三人使つて、片つ端から當つて見てくれ。外神田に無きや、下谷、本郷、淺草、日本橋あたりまで、手を延ばすが宜い」
「――」
「人を斬つた刀のあぶらは、素人の手では、拭いても洗つても落ちるものぢやねえ。脂の浮いた刀か、刄こぼれのある刀を、近頃研屋へ持込んだ奴が判れば、占めたものだ」
「成程、そいつは氣が付かなかつた、――それぢや親分、三日ばかり待つておくんなさい三四人手分けをして、江戸中の研屋をあさつて來ますから」
「頼むぜ、八」
「親分は?」
「その間、晝寢でもしてゐるよ」
 平次は淋しく笑ひました。腹の中では、辻斬を搜し出してその刄の前に立たうと言つた、突き詰めた計畫を樹てゝゐたのです。


 辻斬を釣り出すことは、危險は兎も角、驚く可き辛抱強さを必要とする仕事でした。三月ばかりの間に十何人あやめた曲者が、毎晩外神田をうろ/\して居るとは限らず、よしや犧牲者を漁り歩いたところで、うまい具合に平次と廻り逢ふことは保證が出來なかつたのです。
 平次は一と晩毎に、念入りの變裝を凝らしました。遊び人、手代、隱居、安用人、中間――と、それ/″\の身扮みなりが、素人が見ては、岡つ引の變裝とは思へぬほど、手に入つたものですが、夜と共に、外神田中を歩き廻つて、もう七日あまり、ろくな犬にも吠えられなかつたのでした。
 その間、不思議なことに、三日の日限を切つて、研屋あさりに出かけた、ガラツ八からも何の便りもありません。
 平次は併し、根氣よく續けました。近頃は斬つた死骸の懷中物まで拔く、夜盜に等しい辻斬の所業は、平次の職業意識を、一日毎にかき立てゝ行くのです。
「親分、何處の研屋も、血刀なんか引受けた覺えは無いつて言ひますよ」
 ガラツ八がぼんやり歸つて來たのは、八日目の朝でした。
「表から十手なんか突つ張らかして、開き直つて訊いて歩いたんだらう」
「へエ――」
「馬鹿野郎、誰がそんな事をヌケヌケ御用聞に言ふものか。――いづれいはくのある腰の物を引受けるのは、筋の通らない小さい研屋に決つてゐるんだ。奉公人か何か呼出してよ、定めの研賃とぎちんの倍も三層倍も取つたのはないか――そいつを訊き出して來るが宜い」
「へエ――」
「もう一度、町内から廻つて來やがれ」
「へエ――」
 ガラツ八はすご/\と立上がりました。
「待ちな、八」
「へエ――」
「研屋廻りは晝だけで澤山だ、日が暮れたら俺の方へ手傳つてくれ」
「何をやらかすんで――? 親分」
「辻斬を追ひ出すのに、どうも一人ぢや手が廻らない。今晩から二た手に別れて、右左から、東西から、南北から――と言ふ具合に漁つて見ようと思ふんだ」
「そいつは危いネ、親分」
「なアに、手前は逃げ廻つて居りや宜いのさ」
「逃げる前にバサリとやられ相ですぜ、親分。どうも此二三日夢見が惡いと思つた」
 ガラツ八は甚だ氣が進まない樣子です。
「仕樣のねえ野郎だ。それでお上の御用が勤まるかい、馬鹿野郎」
「やりますよ、親分、やらないとは言やしませんよ」
「それぢや斯うしようぢやないか、手前は十手をひけらかして、御用の提灯をブラ下げて歩くんだ。どんな醉興すゐきような辻斬だつて、手先御用聞を斬るやうなことはあるめえ」
「それならやりますよ、親分」
 勇猛なガラツ八も腕の利いた辻斬には怖毛おぢけを振るつて居ります。
「獸を追ひ出しや、手前は役濟みよ。それなら、どんな唐變木でも勤まるだらう」
「まるで勢子せこだね、親分」
「その氣で、日が暮れたら打合せに來るが宜い」
「へエ――」
 ガラツ八は器量が惡く立ち去りました。が、威勢よくガラツ八を叱り飛ばした平次の方も、何の成算があるわけでは無かつたのです。
 そのうちにも、事件は益々急迫しました。平次がそんな計畫を樹てゝゐるうち、人斬の暗躍は休んだわけではなく、十二日の間に三ヶ所ばかりで、おびやかされたり斬られたり、外神田一帶、益々物情騷然たる有樣です。
 思ひ立つてから十五日目、物持の隱居が、碁か雜俳の集りから歸ると言つた恰好で、平次は佐久間町三丁目から筋違橋すぢかいばし(今の萬世橋)の方へ辿つて居りました。
 薄寒い月の無い晩で、頭巾に顏を隱すには好都合ですが、着膨れて懷手までして居るので、何となく掛引の自在を缺きさうです。
 佐久間町一丁目、本田唐之助屋敷角まで來ると、往來はハタと絶えて、左手は川岸縁かしぶちまで空地、右手は屋敷の塀で、暫らくは淋しい道が續きます。
 平次は小腰を屈めて、杖などを突いて居りました。右手は懷に入れたまゝ、時々頭巾の眼庇まびさしをあげて、月の無い空を仰いで見たりして居るのでした。
 此上もない遲々たる歩み――、來るなら今だ――といふ風にもそれは見えます。
 屋敷の角を曲つて、筋違橋の方へ出ようといふ時、
「え――ツ」
 横合から紫電しでん一閃、平次は眞つ二つ――と思ひきや、一髮の違ひで危ふく免れました。サツと斬つて落されたのは、突いてゐた長い杖だけ、隱居にやつした平次の身體は、よろめくやうに、後へヨロヨロと二三歩退いたのです。
「危ない、何をしなさる」
 そんなとぼけた事を言ふ平次は、もう餘裕を取戻して、相手の第二の襲撃を待つて居たのでせう。
「えーツ」
 續く襲撃、相手に心得があると見て取つた曲者は、備へも直さず眞一文字に胴へ――、
「冗談しちやいけない」
 平次はもう一度よろけました。一體辻斬といふものは、据物斬の要領で、最初の一と太刀を損ずれば、刀を引いて引揚げるのが本當です。二度まで空を斬らせられて、尚ほ執念しつこく絡み付くのは、物盜りにかゝつた、何よりの證據とも見るべきでせう。
 三度、切つてかゝる前に、隱居と見せた平次の腰はシヤンと伸びました。懷に入つた右手を拔くと、得意の投げ錢がサツと夜風を剪つて曲者の面上へ――。
「あツ」
 曲者は一刀の背で辛くも面をかこひました。ジーンと刄金を叩く錢の音。
 そのやいばを返して、襲撃に移る前、平次の手からは、第二、第三、第四の錢が、絲を繰り出すやうに曲者の面へ、ひぢへ、喉笛へと見舞ひます。
 驚いたのは曲者でした。唯の町人の隱居と思つたのが、江戸で一番したゝかな御用聞、錢形の平次と判ると、そびらを返してサツと飛んだのです。いや、平次の投錢は恐れないにしても、物々しく四方に犇めく氣合、いづれは役人の包圍の網が、此處を目當てに絞られるでせう。
「御用」
 曲者の背を見ると、平次は浴びせるやうに御用の聲を掛けました。相手の足をすくませるには、これほど有效な掛聲はありません。
 曲者はそれにも關らず、人間離れのした輕捷さで、路地から路地へ、眞一文字に旅籠町の方へ飛びます。
「野郎ツ、逃げるかツ」
 その後を追う平次、少し着膨れて居りますが、捕物に馴れた足は、さながら宙を飛んでヒタヒタと曲者に迫るのでした。
「御用ツ」
 もう一度叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)した平次の聲、それが木魂こだまするやうに、
「御用だぞツ」
 昌平坂の方から、ガラツ八の聲が應じます。その夜、明神樣を中心に、平次と呼應して漁つてゐたガラツ八が、遠くの方から狩り出して來る、平次の聲を聞いて、急にきほひ立つたのは無理もありません。
 あと十歩、平次の手は曲者のそびらに及びさうになると、旅籠町の往來から、サツと路地へ曲者の姿は隱れます。
「曲者ツ、御用だツ」
 續いて路地の中へ、飛込む平次。
「御用だぞツ」
 向うから木魂するやうに、御用の聲を掛けて、飛んで來たのは、紛れもないガラツ八の、長大な姿だつたのです。
「あツ、八」
「親分」
 闇の中でも、お見それ申す顏ではありません。
「曲者は?」
「知りませんよ」
「確かに此路地に追ひ込んだ筈だ」
 二人は顏を見合せました。路地の中には犬つころ一匹居る樣子もなかつたのです。


「親分」
 ガラツ八は指しました。僅か三十間ばかりの路地の中に、灯の點いて居るのはたつた一軒、それも入口の格子が半分開いて、此處へ逃込みましたと言はぬばかりのがあつたのです。
「此家を知つて居るか、八」
「小田卷直次郎――で」
「惡いな」
 平次も首を縮めて小さく舌打ちしました。小田卷直次郎といふのは、神田一番の惡侍で、何處の藩の浪人か知りませんが、兎に角、押借、強請ゆすり、喰ひ逃げ、喧嘩、博奕ばくち、人の嫌がる事なら、何でもやつて歩くと言つた、飛んでもない中年男だつたのです。
 その癖、腕前は拔群で、小田卷流を編み出して、近いうちに八間四面の道場を建て、江戸中の道場を一つ殘らず叩き潰す――と、口癖のやうに豪語して居りました。――相手が惡い――と錢形平次が眉をひそめたのも無理のないことです。
「やり相な柄ですぜ、親分」
 ガラツ八は指で斬る眞似をして見せました。小田卷直次郎なら、三月の間に十何人斬つても、その死骸から財布を拔いても、何の不思議もありません。
「いや、――小田卷にしては弱過ぎたと思ふが――」
「へエ――」
「兎に角當つて見ようか、八」
「大丈夫ですか。相手の出やうぢや、引つ込みが付かなくなりますよ」
 ガラツ八が二の足を踏む間に、平次はもう、小田卷直次郎の浪宅の入口に立つて居ります。
「御免下さい」
「――」
「お願ひ申します」
「通れツ」
 酒氣を帶びた聲が、平次をのつけから門付け乞食扱ひにします。
「物貰ひぢやございません。少々物を伺ひます」
「明日にせい」
 取付く島もありません。が、平次は押して訊き返しました。
「小田卷先生がいらつしやいませうか、私は平次でございますが」
「何處の平次だ」
「お上の御用で、夜中此邊を廻つて居りますと、いきなり私に斬りかけた奴がございます」
「金があると思はれたんだらう。怪我が無かつたら、締めろ」
 小田卷直次郎傍若無人の放言をし乍ら、盃を重ねてゐる樣子。平次に斯う言はせて、立たうともしません。
「それを追ひ込んで來ると、曲者は此路地に逃げ込みました。外に逃げる筈はございません。路地の中で、表の開いてゐるところと言ふと、お宅ばかり――」
「何だと――」
 小田卷直次郎は立上がつた樣子です。
「若しや、曲者が飛込んでは居ませんでせうか。ちよいとつまんで、お引渡し下されば、有難うございますが――」
「默れ」
「へエ――」
「この小田卷直次郎が、辻斬や剽盜おひはぎをかくまつて居るとでも言ふのか」
「飛んでもない、先生」
「さう申すなら、如何にも家搜しでも何でもさしてやる。その代り、もし曲者が居なかつたら、その方の首を申受けるぞ」
「へエ――」
 障子をガラリと開けると、中は小さい居間、長火鉢の銅壺に徳利を突つ込んで、舐物なめものを二つ三つ猫板に並べ、一人者の氣樂に獨酌をやつて居る眞つ最中です。
「この通り、たつた二た間の家だ。あとは臺所に、押入に、雪隱せつちん、匿す場所も、隱れる場所もある筈は無い。踏込んで、床下なり天井裏なり、勝手に搜せ」
「へエ――」
 さう言ひ乍らも平次は、上りかまちからザツと眼を配りました。小田卷直次郎が言ふ通り、隱しやうもない狹い家の中、これで押入と便所の戸を開けて貰へば、一ぺんに見通せるわけです。
「小田卷直次郎、これでも武士だ。辻斬や剽盜に朋友も知己も無い、――さア、踏込んで見ぬか。怪しい者は居ない代り、金はうんとあるぞ。小判と言ふものを堪能するほど拜ましてやる。それ」
 押入を開けると、中から重さうに引出したのは、手頃の風呂敷、その小口を解くと、
「あツ」
 さすがの平次も仰天しました。小判、小粒取交ぜて、どう少く踏んでも、五六百兩はあるでせう。
「これで道場を建てゝ、小田卷流を江戸中に擴めるのだ。よく拜んで行け。大きな顏をしても、其方などには、これ程の大金を夢にも見たことはあるまい」
「――」
「あとは雪隱だ、よく見ろ」
 行燈を片手に、ヨロヨロと立つた小田卷直次郎。ツイ鼻の先の便所の引手を掴んでサツと開けました。
 中は空つぽ。


 平次とガラツ八は、旅籠町の路地を、這々はふ/\の體で引揚げました。腕に覺えの小田卷直次郎が、家の中を見せた揚句、本氣になつて引つこ拔をやつたのですから、その上突つ込んで調べやうは無かつたのです。
「親分、飛んだ見當違ひでしたね」
 ガラツ八は往來へ出て漸く胸を撫で下ろします。
「何が?」
「曲者が逃げ込んだのは、もう一二軒先だつたかも知れませんよ」
「ハツハツハツ、ハツ」
 平次はそれを聽くと急に笑ひ出しました。
「何が可笑しいんで、親分」
「心配するな、八、曲者の逃込んだのは、矢張りあの家さ」
「へエ――」
「これを見るが宜い」
 平次がそつと出したのは、かなり洒落しやれた雪駄が一足、好みの若々しさが、夜眼にも紛れやうは無かつたのです。
「親分、これは何處から持つて來なすつたんで――?」
「小田卷直次郎の土間からちよいと借りて來たよ」
「へエ、――これをやらかしたんで」
 ガラツ八は眼の前へ持つて行つた食指を屈げて見せました。
「そんな事はどうでも宜いよ」
「へエ――、そんなもんですかね」
「この雪駄を見て、何か氣の付くことは無いか、八」
「洒落た履物ですね。本南部に、白鹿革しろしかがはの鼻緒。町人ぢやありませんね、旗本か、御家人、――それとも、工面の良い浪人者?」
「それから?」
「突つかけて履いた具合、淺黄裏あさぎうらぢやありませんね。粹な若い武家ですね」
「それから?」
「あとは解りませんよ、親分」
「肝腎の事に氣が付かない――それ、裏金が無いだらう」
「あツ、成る――」
「新しい雪駄の裏金を剥して履いて歩くのは、どんな人間だい」
「辻斬?」
「その通り、――この雪駄が、小田卷の入口にあつたんだ」
「それぢや、矢張り」
 ガラツ八は、小田卷直次郎の押入の中にあつた、おびたゞしい小判と小粒のことを考へて居ました。
「だがな、八、小田卷直次郎が、身に覺えがあるなら、何だつて金を見せたんだい」
「それが、あつしにも解らねえ」
 ガラツ八は仔細らしく小首を傾けます。
「持ちつけない金を持つと、人に見せびらかし度くなるものか、ね、八」
「違げえねえ」
 だが併し、それでは説明し切れないものが、二人の胸に大きく根を張つてゐるのでした。割り切れない心持で明かした一と晩、翌る日は局面がすつかり變つて居りました。
「た、大變ツ、親分」
 ガラツ八が飛込んで來たのは、まだ卯刻半むつはん(七時)そこ/\、平次は漸く起出して、これから朝飯と言ふ時です。
「何だ、八、又誰かやられたのか」
「それが大變なんで、親分」
「早く言ひな、斬られたのは誰だ?」
「小田卷と犬で」
「何?」
「小田卷直次郎と、白犬が斬られましたよ、親分」
「しまつた」
 平次は唇を噛みました。うつかり變な雪駄せつたなどを見付けて、自分の智慧と運とを誇り度いやうな心持になつたばかりに、辻斬に縁のある小田卷直次郎の口を、永久にふさがれてしまつたのです。
 二人は其儘飛出しました。朝の膳の支度をして居た女房のお靜が、呆氣に取られて眺めてゐるのなどは、素より振り向いても見ません。
 聖堂裏まで來ると、大變な人立ち――、町役人が聲を涸らして追つ拂つても、頭の黒い野次馬は、蠅のやうにたかつて來ます。
「あツ、錢形の親分」
 平次はその期待のざわめきの中をかき分けるやうに、むしろを掛けた死骸に近づきました。
「親分、驚いちやいけませんよ」
 ガラツ八の聲を聞流して、筵を剥した平次。
「あツ」
 あまりの事に暫らくは口も利けません。中年男の武家の死骸――着物や腰の物や、毛だらけな足や竹刀だこの手は紛れもなく小田卷直次郎の無殘な姿ですが、その首は――なんと、白犬の首を切つて竹串で小田卷直次郎の胴に繼いだものだつたのです。
 小田卷直次郎に、どんな怨があつての仕業か解りませんが、首を斬つて、犬の首を繼いだのは、底の知れない殘虐な惡戯いたづらでなければ、深怨に凝固こりかたまつた人間の、惡魔的な復讐でなければなりません。
「傷は?」
「ありませんよ、親分」
「腦天をやられるか、一刀の下に首を切られたわけだね、――が、それにしちや、着物に血が少い」
 平次は忙しく死骸を改めました。
「身體がまだらになつてますね、親分」
 ガラツ八も、死骸の胸のあたりの凄まじい紫斑しはんに氣が付いた樣子です。
「これ位の使ひ手は、醉つた位ぢや滅多に斬られないよ。――毒でやられたんだ」
「へエ――」
「首の切り口がなますのやうぢやないか、――ひどい事をしやがる」
 あまりの事に、昨夜脅かされた事も忘れて、ツイ義憤のやうなものが燃え上がります。
「此所は町役人の方にお任せして、旅籠町へ行つて見ようか、八」
「――」
 八五郎は默つて從ひました。
 旅籠町の路地の中、昨夜脅かされた小田卷直次郎の家の前へ行くと、此處にももう、噂が傳はつたものか、五六人の野次馬が、恐る/\外から閉めたまゝの家の中を覗いて居ります。


 小田卷直次郎の家を調べると、昨夜見たまゝ、長火鉢の猫板の上の舐め物まで何の變りもありませんが、不思議なことに、押入の中にあつた筈の小判小粒、五六百兩にも餘らうと思ふ大金は、影も形もありません。
「夢ぢやなかつたでせうね、親分」
 ガラツ八が、眼を擦つた位、ことも鮮やかな紛失振りです。
「夢なら宜いが、――これは少し念入りだよ」
 平次は四方あたりを見廻しました。
 その眼の色を讀んだものか、野次馬は掛り合ひを恐れてパツと四方に散ります。
 漸く壁隣の家の親爺を捉まへて聽くと、平次とガラツ八が引揚げて間もなく、小田卷直次郎は何やら獨り言を言ひ乍ら出て行つた切り、ひつそり閑として、朝まで何の物音も無かつたと言ふのです。
 その間誰も來なかつたか、念入りに訊ねましたが、親爺の答は取止めもなく、
「何分、半分眠つて居たことですから、へエ、確かなことは少しも解りません」
 斯う言つたところに落ちてしまひます。仁八といふ五十年輩の背負ひ呉服屋、これも獨り者で、あとは猫の子の口も無かつたのです。
 そのうちに、小田卷直次郎の首と、白犬の胴は、大溝おほみぞの中から見付けました。犬の首を一と息に切り落してあるところを見ると、萬更刀の持ちやうも知らぬ者でないことだけは明かです。
 疑は、慾の深さうな隣の親爺仁八、町内の遊び人で腕の立つと言はれた權三郎、それに、小田卷直次郎の竹刀しなひ友達やら飮友達で、足繁く出入りしてゐる、浪人の臼井金之輔、御家人南久馬、旗本の次男で三津本弦吉――などに掛けられました。
「親分、大變ツ」
 ガラツ八の八五郎が、二度目の大變を賣り込んで來たのは、それから又三日目の朝でした。
「又辻斬かい、八」
 平次は妙に落付き拂つて居ります。
「そんなつまらない話ぢやありません。ね親分、三輪の萬七親分が、背負呉服屋の仁八を縛つて行きましたよ」
「それつ切りか」
「それつ切りぢやありませんよ。あの仁八の野郎が、五百何十兩といふ大金を隱して置いたのを、三輪みのわの親分が嗅ぎ付けたんださうで」
「止せば宜いのに――ありやをとりだつたんだ」
「へエ――、親分もそれを知つて居なすつたんで――」
「共同井戸の流しの下に投り込んであつた筈だ――蚯蚓みゝずの巣の中に五百何十兩は、變な圖だつたよ」
 平次は何も彼も見通しだつたのです。
「へエ――、驚いたね、そいつは」
「あの晩、俺達の掛合ひを、親爺が見て居たのさ。そして、小田卷直次郎が一と晩歸らない上、翌る朝聖堂裏で殺されてゐると聽くと、早速の早業で、あの家に忍び込み、みんな氣の付かないうちに、風呂敷ごと五百何十兩の金をさらつて、腐つた流しの下へ匿したんだらう――」
「親分は見てゐなすつたんで――」
「見てゐたわけぢやねえ、が、親爺があんまり流しの下を氣にするから後でちよいと行つて覗いて見たのさ」
「へエ――」
「あの親爺は叩き上げた人間で、根が食へねえから、まだ何か知つてゐるに違ひない、――それに、小田卷直次郎の五百何十兩は、何處から持つて來たか、それが判るまでそつとして置き度かつたんだ――放つて置いても當分親爺は金を持出して逃げるやうなこともあるまいし、それに、小田卷直次郎の家へ、あの金を搜しに來る人間があるに違ひないと思つたんだ」
「へエ――」
「三輪の兄哥あにいもつまらねえ事をしたものだ。この噂がパツとなりや、辻斬野郎當分旅籠町へ寄り付くことぢやあるめえ。この上はもう一つのだ。八、あの研屋をもう一度虱潰しらみつぶしに當つて見てくれ」
「へエ――」
「俺は此邊中の雪駄直しを一人殘らず當つて見る。あの裏金を剥がした後のつくろひは、素人の手際ぢやねえ」
「成程ね」
 平次とガラツ八は、斯うしてもう一度新しい部署を定めたのでした。


 手違ひは、先から先へと、平次の手を潜つて事件を迷宮のうちに引摺り込みました。
「親分」
 翌る日の朝、飛込んで來たガラツ八の顏を見ると、平次はさすがに膽を冷やして起上ります。
「又大變――だらう、今度は何んだ」
られたツ」
「誰だ?」
研屋とぎや、――末廣町の研屋忠兵衞が、昨夜、押込みに――」
「しまつたツ」
 平次は直ぐ驅け付けました、が何も彼も遲蒔おそまきです。ガラツ八と、平次配下の下つ引が、神田中の研屋を、手を變へ品をかへ、虱潰しに調べてゐるのを覺つた曲者は、研屋忠兵衞の口の割れぬうち、先廻りして斬つてしまつたのでせう。
 研屋の内外は、上を下への騷ぎ、その騷ぎをかきわけて入ると、女房と二人の弟子が、二三人の泣きわめく子供と一緒に、氣違ひ染みた混亂と興奮を續けてゐるところです。
 兎にも角にもなだめて、樣子を訊きましたが、薄明るくなつてから、覆面の武士が表を叩いて入つて來て、亭主と何やら二た言三言交すうち、一刀拔き討ちに切つて捨て、帳場の註文帳をさらつて、雲をかすみに逃げた――といふだけしか解りません。
「その武家に見覺えはないか」
「主人は知つてゐる樣子でしたが、――私共には何にも――」
 女房もかう答へるのが精一杯、奧で寢て居た奉公人達には素より何にも解りません。
「研賃を澤山貰つた口は無いか――、この店の一番の華客とくいは誰だ――」
 と重ねて聽きましたが、主人の一存でやつたことで、これも女房や奉公人には解らず、
「亭主が人手に掛けさせずに、自分で研いだ刀は無いか、――」
「さア――」
 その問にも滿足な答は得られなかつたのです。
 平次は改めて主人の死骸を見せて貰ひましたが、傷は肩先から胸へかけて、見事に斬り下げたもので、並々ならぬ手練と解りますが、その代り、聲も立てずに死んだことでせう。
「これは、いかぬ」
 平次もこんなに閉口したことはありません。疑はしいのは、日頃小田卷直次郎の家へ出入した、遊び人の權三郎と浪人の臼井金之輔と、御家人の南久馬と旗本の次男の三津本弦吉げんきちの四人ですが、權三郎を除けばあとは立派な二本差で、無暗に縛つて引つぱたいて口を割るといふわけにも行かず、此上は第三段の雪駄から、手繰つて行くか、四人の出入を監視して、その後を跟けさせる外はありません。
「憎いね、親分、こんな野郎は、どんな事をしたつて見逃しちや置けねえ」
 ガラツ八は腕をさすりますが、どうもガラツ八では齒の立ちさうな相手では無かつたのです。
「辻斬や剽盜おひはぎは憎いが、こんなに手を燒かせるのは、餘つ程惡智惠の廻る奴だらう、――待てよ、何だつて小田卷直次郎を殺したんだ、――小田卷直次郎は辻斬ぢやねえ、――あんなに金を持つてゐるのは可怪しいが、――旅籠町の路地へ逃込んだ時の後ろ姿ぢや、もう少し小柄で――若かつたやうに思ふが――、その野郎を小田卷直次郎が逃してやつた、――押入の中の金――、待てよ」
「親分」
 ガラ八は平次の獨り言が少し不氣味だつたのでせう。
「待つてくれ、俺は考事をしてゐるんだ、――五百何十兩は大金だ。尾羽打枯らした痩浪人が持つてゐる筈は無い――、それを見せびらかして、平氣でゐたのは、自分が盜つた金ぢや無いからだ。第一、曲者の履いてゐた、裏金を剥いだ雪駄が洒落過ぎてゐる――」
「――」
「小田卷直次郎は、何だつて夜中に飛び出したんだ、――毒を盛られて斬られて、犬の首とすげ替へられたのは、餘つ程相手に怨まれた證據だ――怨まれても宜いほどの事を相手にして居たのだらう、――身分のある相手の首根つこを掴んで五百何十兩を吐き出させたとしたら何うだ――解つたツ」
「親分」
「解つた、八」
 平次は勃然として起ち上りました。


「江戸中の雪駄直しを搜して歩くなんて、俺は何んて間拔けなんだ、――支配頭へ行つて訊けば、一ぺんに解るのに。なア八、氣の毒だが、近頃大金を握つて江戸を賣つた雪駄直しは無いか――工面がよくなつて、神田から他の稼ぎ場へ廻つた奴はないか、大急ぎで訊いて來てくれ。お上への奉公だから、隱しちやならねえ――つて言ふんだよ。丁寧にしなきや、腹を立てゝ教へてくれないよ」
 平次はガラツ八を飛ばして、雪駄直しを搜す間に、下つ引を三四人使つて、權三郎と、臼井金之輔と、南久馬と、三津本弦吉の出入りから、身許を出來るだけ調べさせました。
 困つたことに、四人とも若く、四人ともよく使へて、四人とも滅多に夜歩きをしたこともありません。わけても身分のある南と三津本は、小田卷直次郎の腕ををしんで、人間の始末の惡いのを知り乍らかなり深く交つてゐたことは、誰でも知らぬ者のない事實です。
 權三郎は遊人に惜しいほどの腕でした。一年ばかり前、女出入りで、手ひどく小田卷直次郎にやられたことがありますが、惡く賢こい人間で、尻尾を卷いてそれつ切り反抗しようともせず、あべこべに家來か幇間ほうかんのやうに、小田卷直次郎の浪宅に出入りして居りました。
「こいつが一番臭いが、町人の辻斬は少し變だ」
 平次は一應疑ひましたが、辻斬の手際や、研屋を斬つた腕の冴えは、どうも遊び人の長物弄ながものいぢりではありません。
 八五郎が歸つて來たのは、その日の夕刻。
「解りましたよ、親分、筋違見付外へ出て居た雪駄直しの長吉といふのが、四五日前十兩ばかりの大金を掴んで來て、――江戸も飽きたから大阪へ行つて見度い――と、支配頭の添書を持つて、草鞋を履いた相ですよ」
「有難い、何だつて早く氣が付かなかつたんだらう」
 平次の喜びは法外でした。八五郎に墨を磨らせて、サラサラと書いた手紙が四本。
「お靜、いつもの使屋に頼んで、大急ぎでこれを宛名のところへ屆けてくれ、――何處から持つて來たか、言つちやならねえ、しつかり口止めするんだよ」
「ハイ」
 まだ若くて美しい女房のお靜は、四本の手紙を持つて大急ぎで出かけました。
「親分、何の手紙で?」
「何でも無いよ、――身に覺えの無い者は、あれを見ても何とも思はないが、脛に傷持つ奴は、あわてゝ飛んで來る禁呪まじなひが書いてあるのさ」
「へエ――」
「これで宜し、晩までは暇だ、――八、一杯附き合はうか」
「冗談でせう、親分」
「大眞面目さ、今夜こそ命のやり取りだ。まだ日が高い、さア」
 平次の持出した猪口ちよこ、ガラツ八はいなみもならず、冷で注いでキユーツとやります。
「親分、これや一體何の禁呪で――、長いこと、一緒に仕事をしてゐるが、捕物に出かける前に、酒なんか飮んだことはありませんぜ」
 ガラツ八は盃から顏を擧げます。
「まア宜いやな、こんな稼業をしてゐると、何時どんなことで別れになるか知れねえ」
「いやになるぜ、親分」
 八五郎はゾツと肩をすくめました。
 その晩――、亥刻よつ(十時)少し過ぎ。
 平次はガラツ八を連れて、佐久間町河岸の空地へ入つて行きました。こんな廣々とした場所を選んだのは、町中や林の中で、相手に逃げられるのを嫌つた爲でせう。
 霧の立つた夜ですが、幸ひ月はありました。
「八、手前は手を出しちやならねえ、――此處で眺めてゐるんだよ」
 平次は物蔭を指します。
「親分、今晩の相手は、物騷な奴なんでせう」
「さうだよ」
「ぢや、あつしも一緒に逢ひませう」
 ガラツ八の眞劍さ。
「馬鹿な事を言へ、二人でうろ/\して居やうものなら、鳥が飛ぶぜ」
「へエ――」
「その代り、いざと言ふ時は飛んで來てくれ。俺が聲を掛けるまでは、ヂツとして居ることだよ。解つたか、八」
「へエ――」
 八五郎は此邊で妥協する外はありません。
 やがて亥刻半よつはん(十一時)平次は和泉橋の方へ靜かに歩み寄りました。ガラツ八が隱れてゐるところからは、十歩、二十歩、心もとなく次第に遠ざかります。
 間もなく、月を踏んで、一人の覆面の武士が近づきました。
「長吉か」
「へエ――」
 小腰を屈めたのは手拭で頬冠りをした錢形平次です。
「不都合な奴だ、――あといくら欲しいと言ふのだ」
「へエ――、ほんの十兩ばかり」
 平次は下品に左のてのひらをヒラヒラさせ乍ら、武士に近づきました。
「少し聲は違ふやうだが、長吉に相違あるまいな」
「へエ――」
「手拭を取れ」
「へエ――」
 懷を探つて取出した十兩の金子を左手に持つたまゝ、覆面の武士は躊躇して居ります。
「頬冠りを取れと言ふに」
 武士は一歩進むと見せて、空いた右手が一刀のつかに掛りました。
「旦那え、それを拔くと後悔なさいますよ」
「――」
「それよりは、默つて十兩お惠み下さいまし、――五六人の仲間を八方に隱してありますから、その人切庖丁を拔くのを合圖に、見付の番所へ飛びますぜ」
「何だと?」
「江戸中を騷がせた辻斬――、その上に小田卷の旦那と、研屋忠兵衞を殺した――」
「默れ/\」
 覆面武士が威嚇的ゐかくてきに乘出しますが、平次は自若として驚く樣子もありません。
「裏金の無い雪駄が何より證據で、へツ」
「もう宜い、――さア、十兩だ。これを持つて、今度こそ間違ひなく京、大阪へ行くのだぞ」
「へエ/\、それはもう」
 差出した武士の手、平次はその小判を受取るやうな恰好で一歩近づくと、
「あツ」
 何んと言ふ早業でせう。大地を蹴つて飛上がつたと見るや、平次の手は伸びて武士の面上から、サツと覆面を引剥ひきむいたのです。
「や、其方は?」
 驚く平次へ、間髮を容れず、――
「己れツ」
 サツと浴びせた一と太刀、平次は辛くも身をかはしましたが、あまりに近々と寄せた不覺で、あはせの上から、左の肩先を少しばかり割かれました。
「御用ツ」
 平次の唇から、初めて御用の聲が漏れます。
「えいツ」
 二度目の太刀、二三歩飛退いて、平次の懷中からは、得意の錢が取出されます。
「器用なことをしやがるツ、野郎ツ」
 最初の投げ錢が眼と眼の間を打つて、たじろぐ曲者。
「親分、我慢がならねえ、助太刀だツ」
 ガラツ八は暗がりから飛出して、むずと曲者の後から組付きました。
 二人がかりで縛つた曲者は、遊び人の權三郎、あまりの事に、ガラツ八も暫らくは口が塞がりません。
 それを送つて、かすり傷の手當をした歸り、白々明けの街の霧を踏んで、平次は斯う話しました。
「今度ばかりは全く見當違ひだつたよ。權三郎と氣が付いたら、劈頭はなから踏込んで縛るのに、三人の武家にばかり眼を付けて、飛んだ手間取つてしまつたよ」
「辻斬が遊び人の惡戯とは、誰だつて氣が付きませんよ」
 ガラツ八の慰め顏のしをらしさを、平次は面白さうに見乍ら續けました。
「あの腕は武士も武士、餘つ程使へる人間と思つたのが間違ひの基さ、――俺の見當では、小田卷直次郎にそゝのかされて、辻斬の味を覺えた武家が、今度は小田卷直次郎に強請ゆすられて、剽盜おひはぎまで働いて金を貢がなければならなかつた――と思ひ込んだ。辻斬が表沙汰になると、どんな家でも取潰しの上、本人は切腹だ。――小田卷直次郎に強請られて、五百何十兩も絞られるやうでは、御家人の南久馬か、旗本の次男の三津本弦吉の二人のうち、何方かに間違ひはあるまいと思ひ込んだが、身分が身分だから、繩を打つことも、踏込んで家搜しすることもならない」
「――」
「萬一、立入り過ぎた事をして居たら、俺は首を縊つても追つ付かなからう。危いところさ、なア八」
「驚いたね、親分」
「研屋の方も、武家の註文主ばかり訊いて歩いたから解らなかつたんだ。遊び人の權三郎が、研賃をうんとはずんで、研屋忠兵衞に血脂ちあぶらを落さしたとは夢にも思はねえ」
「でも、良いぢやありませんか、親分」
「さう言ふのは素人さ。十手捕繩を預る者が、見當の外れた捕物をしちや、自慢にならねえ」
 萎れ返る平次を、ガラツ八はもう慰めやうもありません。
「遊び人の權三郎が、小田卷直次郎に強請られて大金を出したのは可怪しいぢやありませんか、親分」
「遊び人だつて同じ事さ、――辻斬が知れては命が無い――尤も、道場を拵へたら、權三郎を師範代にする――位のことは言つたかも知れない。あの晩、小田卷直次郎が、權三郎を追つかけたのは、ヘマをやるから、師範代を取消すとか、もう少し金を出せとか、手嚴しい事を言つたんだらう。あんまり無法なことを言ふから、騙して毒酒を呑ませた上、あんなむごたらしい事をしたんだらう。五百何十兩と絞られたのが、權三郎に取つちや、骨身に徹へるほど口惜しかつたのさ、――尤も、武藝自慢が嵩じて遊び人のくせに、武家風に化けて辻斬などを道樂にしたのが破滅のもとさ」
「成程ね」
「考へて見ると、人間へ犬の首を繼ぐやうな無法なことは、武家方のすることぢやねえ。腕が出來ても、腹の出來ない人間といふものは、何處かで尻尾を出すんだね。それに氣の付かなかつた、俺の間拔けさは何うだ」
 名人平次は、まだ見當違ひの功名を口惜しがつて居ります。





底本:「錢形平次捕物全集第五卷 蝉丸の香爐」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年5月25日発行
   1953(昭和28)年6月20日再版発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1937(昭和12)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月8日作成
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