錢形平次捕物控

庚申横町

野村胡堂





「親分、向うの角を左へ曲りましたぜ」
「よしツ、手前は此處で見張れ、俺は向うへ廻つて、逆に引返して來る」
 平次とガラツ八は、近頃江戸中を荒し廻る怪盜、――世間で『千里のとら』と言ふのを、小石川金杉水道町の路地に追ひ込んだのです。
「合點だツ、親分、八五郎がせきを据ゑりや、辨慶べんけいが夫婦連れで來ても通すこつちやねえ」
 ガラツ八の八五郎は、懷から手拭を出すと、キリキリとよりを掛けて居ります。
 まだ薄寒い二月の眞夜中、追ふ方から言へば、意地が惡く月も星も見えませんが、曇つて居るだけに、物のくまが濃くないのは、逃げる者に取つては案外樂でないかもわかりません。
「無駄を言はずに要心しろ、此處へ追ひ込めば袋の鼠だ。手前か俺が縮尻しゆくじらなきア、逃げられる場所ぢやねえ」
 平次はさう言ひ乍ら、引返して逆に、右手の路地を入つて行きます。言はゞ蹄鐵形ていてつがたの長い路地を、一方の口にはガラツ八が頑張り、一方の口からは平次が入つて行つたのですから、左右の町家の何れかへ飛込むより外に道は無い筈です。
「あツ」
 路地へ入つた時、平次は思はず聲を出しました。向うから飛んで來た曲者の姿が、チラリと平次の眼に入つたと思ふと、蹄鐵形の路地の頂點あたりで、き消すやうに消えて無くなつたのです。
 平次は其儘駈け續けました。
「あツ、親分」
「なんだ、八か」
「曲者の姿が此邊で見えなくなりましたぜ」
「お前もさう思ふか」
「路地へ消えたか大地に潜つたか、兎に角引返さないことだけは確かで」
 關所に頑張らずに曲者の後を追つたのは八五郎の出過ぎですが、其代り、曲者の消えた場所を二人の眼で、左右から正確に見定めることの出來たのは怪我の功名でもありました。
「左側だ、――其邊に人間のくゞるやうな穴は無いか」
「穴はねえが、木戸が一つありますよ」
「押して見ろ」
「開きませんよ」
「どれ」
 近づいた平次、粗末な三尺の木戸を押して見ましたが、中からさんがおりて居ると見えて、力づくでは開きさうもありません。
「乘越して見ませう」
 ガラツ八は木戸へ這ひ上ると、思ひの外身輕に越して、向う側からガチ/\やつて居ります。
「何うした、手間がとれるぢやないか」
輪鍵わかぎが外れませんよ」
「逃げ道に輪鍵は念入りだね」
 漸く押し開けて入つた時は、目の及ぶ限り、曲者どころか野良犬の影も見えません。
「違やしませんか、親分」
「確かに此處に追ひ込んだのは、『千里の虎』だ。間違ひはねえ。針が落ちたほどの足音を聞き付けて、お前を犬つころ投げにして逃げた曲者ぢやないか。その上祥雲寺しやううんじ門前から此處まで、蜘蛛手くもでの細い路地を拾つてあんな具合に飛んで來るのは、『千里の虎』で無きアふくろだ」
 二人はそんな事を言ひ乍ら、薄明りの中に奧まで見通しのきく、袋路地へ入つて行きました。
 袋路地と言つたところで、一方は寺の高い塀、一方は押し潰したやうな三軒長屋が一と棟、幅一間ばかりの路地の行止りには隣町の大きい家の裏木戸が一つ、こいつは雇人の夜遊びを嫌つてか、内からも出られないやうに、形ばかりですが錆び付いた中形の海老錠えびぢやうがおりて居ります。
「八、變な路地だねえ、お前此處は始めてかい」
「知つてますよ親分、これは名題の庚申かうしん横町ぢやありませんか」
「はてね」
「小石川の庚申横町て言や知らない者はありやしません」
「俺は知らないよ。お猿の石碑せきひでもあるのかい」
「三軒長屋の取つ付きが按摩あんまの竹の市で、その隣は女が美い癖に、無口で不愛嬌で、町内の嫌はれ者になつて居るお妾のお糸、一番奧が空き家で――」
「それぢや、見ざる、言はざる丈けぢやないか」
「突き當りが、俳諧はいかいの宗匠で其月堂鶯谷きげつだうあうこくの裏口、俳諧はからつ下手だ相ですが、金があるのと、つんぼなのでその仲間では有名ですよ」
「成程それが、聞かざるか。三猿揃つて庚申横町は洒落しやれたものだな。誰がそんな名を附けたんだ」
あつしぢやありません」
「當り前だ、そんな洒落た智惠がありや、世間樣が岡つ引なんかにして置くものか」
「まるで叱られて居るやうだ、――ところで親分、一軒々々叩き起して見ませうか」
 ガラツ八はさう言ひ乍ら、一番手近にある、按摩の竹の市の表戸を叩きました。が、もう彼れこれ丑刻やつ、容易のことでは起きさうもありません。


 一年ほど前から、風の如く去來する怪盜が、江戸中の岡ツ引を手古摺てこずらせて居りました。狙ふのは大抵非道と名を取つた金持か、評判のよくない武家屋敷ばかり、盜るものは必ず現金げんなまと決つて居りますが、不思議なことに、一夜のうちに、二里も三里も離れた、山の手と下町を荒したり、偶々人に追はれても、疾風の如く逃げ去つて、ちりほどの手掛りも殘さなかつたのです。
 千里往つて千里還る――と言ふ意味で、あれは『虎』だ、『千里の虎』だと言ふやうになりました。
 闇の中でも物を見るらしいのと、非常な體力を持つて居るのと、貧乏人を困らせないのとで、何時の間にやら『千里の虎』は、江戸つ子の英雄になりました。後、鼠小僧や辨天小僧がやんやと言はれたやうに、少し物好きで、少し世紀末的になりかけた當時の人達に、『千里の虎』は一種の人氣を持つたのも無理のない事でした。
 南北町奉行、與力、同心、岡つ引まで、江戸つ子の拍手喝采かつさいを聞く毎に躍起やくきとなりましたが、『千里の虎』の超人的な腕と脚と、目と耳と、それにも優してよく働く智惠には、どうすることも出來ません。
「千里の虎も大分増長したやうだ、そのうちに自分から進んでゑさに付くよ、放つて置くが宜い」
 去年の秋頃から、錢形平次はそんな事を言つて、兎もすればこの兇賊に挑戰しようとする、ガラツ八の八五郎を牽制して居りました。
「でも、千里の虎は人氣者ですよ、非道な金持から盜つて、貧乏人へ惠んで居ると言ふぢやありませんか」
 八五郎も少しばかり『千里の虎』に喝采を送り度い方です。
「飛んでもねえ、百兩盜つた内から十兩惠んで義賊面がしやくぢや無いか。そんな安い運上があるものか。九十兩は自分の懷へ入れて、それでやんやと言はれりや世話はねえ、一體世間の人が面喰ひ過ぎるよ、馬鹿々々しい」
「成程ね」
ひんの盜みとでも言ふなら、可哀想にもなるが、百兩二百兩も盜んで、貧乏人に五兩や三兩惠んで好い心持になつてるやうな野郎を俺は大嫌ひさ。盜んだ金を惠まれたつて、好い心持のものぢやあるめえ。惡事を働いて人助けをするなんてのは、お釋迦樣しやかさまも御存じの無い善根だよ」
 錢形の平次がこんなに激しい言葉を使つたのを、ガラツ八は見たことも聽いたこともありません。
「驚いたねえ親分、そんなに腹が立つんですかい」
「人の物でも盜らうと言ふ程の量見なら、一度はお處刑しおきになつて、地獄へ眞つ逆樣に落込む覺悟をするが宜い。運上の積りで善根を施こす泥棒なんか、俺は蟲が好かないよ、――そのうちにきつと俺の手で縛つてやるから、見て居るが宜い。嘘だと思ふなら、構ふ事はねえ、江戸中へ觸れて歩くさ」
 日頃、滅多めつたに腹を立てない平次が、蟲の居所が惡かつたものか、斯んな飛んでもない事を言ふのでした。
 この噂が、パツと江戸中に擴がつた頃から、『千里の虎』は時々平次をからかひ始めました。
 最初は、平次の家のすぐ前、路地の外の酒屋――枡田ますだ屋に押し込んで有金五十兩ばかりを出させ、『此處で待つて居るから平次を呼んで來な、後學の爲に千里の虎の姿だけでも拜ませてやらう』と、丁稚でつちをツイ近所の平次のところまで使に出し、平次が店から入つて來ると同時に、裏口から拔出して姿を隱して了ひました。
 二度目は坂本町の兩替屋に押込む日取りを平次に知らせ、一と晩平次に待ち呆けを喰はした上、平次が引揚げるのと入れ違ひに押入つて、夜が明けてから、百二十兩ほどせしめて悠々いう/\と立ち去つたのです。
 三度目は今夜。
 平次に警告を出して、戸崎町の質兩替屋渡世伊勢屋に忍び入り、宵のうちに拔け出さうとしたとしたところを、平次に裏を掻かれて、伊勢屋の表裏を嚴重に張り込まれ、寺の境内から、大番屋敷、傳通院の境内を逃げ廻つた揚句あげく、眞夜中過ぎまで追ひつ追はれつ、到頭、金杉水道町の袋路地へ追ひ込められて了つたのです。
 平次が大言壯語したのは、言はゞ『千里の虎』をおびき寄せる『餌』だつたことは言ふ迄もありません。


 話は元へ返つて、――
 ガラツ八が自棄やけに叩くと、按摩あんまの竹の市は漸く起き出して來ました。
「誰だえ、今頃戸を叩くのは、仕事なら明日にして貰ひ度えが――」
 建付の惡い戸を開けて、薄明りの中へ顏を出したのは、四十前後の大男、汚い寢卷姿、灯も何にも無いのは、眼の見えない者の氣樂さでせう。
「お前さんは竹の市だね」
「へエ――」
 平次の高飛車な調子に竹の市は少しムツとした樣子です。
「仕事を頼みに來たのぢやねえ、――今しがた此の路地へ飛込んだ者があるんだが、氣が付かなかつたかえ」
「知らないよ」
「何?」
「路地の番人ぢやねえ、斯う見えても店賃たなちんを拂つて住んで居るんだ、――尤も二つ三つ溜めては居るがネ」
 竹の市は啖呵たんかを切り乍らニヤリとしました。この一本調子と茶氣で、界隈の旦那方から可愛がられて居る男だつたのです。
「大層な威勢だね」
「當り前だ、夜中過に飛込んで來やがつて、ドジも拔け裏もねえものだ」
 竹の市は又この洒落しやれに堪能して、ニヤリとなりました。
「成程、こいつは俺が惡かつた、勘辨してくんねえ。お上の御用だ」
 平次はやはらかに言つて、薄明りの中に、竹の市の樣子を見直して居ります。
「ポン/\言ふぜ、少しは相手を見るが宜い、神田の錢形親分だ」
 ガラツ八はたまり兼ねて横合から口を出しました。
「えツ、――錢形の親分さんで、それは何とも相濟みません、目の不自由な悲しさで、飛んだことを申上げました」
「まア、宜い。八も餘計な事を言ふな」
「へエ――」
 今度は八五郎の方が凹んで了ひます。
「ところで、此の路地へ大者を追ひ込んだが、暗くて見當が付かねえ。提灯があつたら貸して貰ひ度いが」
「へエ」
 竹の市は家の中をモゾ/\やつて居りましたが、やがて、小田原提灯一つと、鼠の喰ひ缺いた蝋燭らふそくが一と塊り、それに、火打道具を添へて持つて來ました。
「有難う、眼の不自由な人にしちや良いたしなみだね、――お前さん配偶つれあひは?」
 平次は火打がまを鳴らし乍ら訊きます。
「そんなものはありやしません。貧乏な按摩のところへ誰が來てくれるものですか」
「さうぢやあるまい、お前さん、飛んだ金を殘して居ると言ふぢやないか」
「世間ぢやそんな事も言ふ相ですが、飛んでもない話で、金がありや、人樣の足腰なんか揉んで居るものですか、盲目めくら相應の出世でも致しますよ」
 平次の誘ひに引つ掛るともなく、謙遜するうちにも、萬更溜めて居ないでもない口吻くちぶりです。
「三度の世話は」
「町内の糊賣婆のりうりばあさんが來てこさへてくれますよ」
 平次は漸く提灯に灯りを入れて、竹の市の世帶へ一と通り眼を通しました。表構よりは小綺麗で、世帶道具も一と通り揃つて居りますが、家の中はひどく亂雜で足の踏み場も無いと言つた感じです。
「お前さんは幾つから眼が惡くなつたんだえ」
 と平次。
「中年からの盲目で、感が惡くて困ります」
内障眼そこひのやうだね」
「へエ」
 平次は提灯の灯りを竹の市の眼の前へ持つて行つて、左右へ振つて見ましたが、瞳は凝然として微動もしません。


 それからかこひ者のお糸の家へ。
 此處は叩く迄もなく開けてくれました。
「ちよツと聞きえが、先刻此路地へ追ひ込んだ者があるが、氣が付かなかつたかえ」
「聞きましたよ、――驅け込んで來て、突き當りの其月堂さんの木戸をこぢ開けようとして居た樣子でしたが、内外からしまりがしてあるもんですから、寺の塀へ飛付いて、境内へ逃げ込んだやうです」
 無口で無愛嬌――と言はれるお糸が、思ひの外親切に教へてくれます。二十七八の美い年増、丑刻やつ過ぎといふのに、帶まで締めて、びんのほつれも見せないのは、さすがに良いたしなみです。
 行燈の後ろから恐る/\顏を出したのは下女のお喜代、見事な恰幅に、寢卷を引つかけて顫へて居ります。
「八、行つて見よう」
 平次は八五郎を促して、もう一度路地の奧へ行つて見ました。
「親分、この塀が人間業で越せますか」
 崖の上にめぐらした黒板塀を見上げてガラツ八は舌をふるひました。高さは六尺そこ/\ですが、崖の高さを併せると八尺餘りで、その上、足場の良いところには、用心の爲に、忍び返しが打つてあるのです。
「フーム」
 平次はうなりました。
「その忍び返しは外せますよ」
「えツ」
 振り返ると後ろへ、妾のお糸が立つて居るではありませんか。
「町内の子供達がよく乘り越して遊んで居ますが、その木の根の上に登ると、頭の上の忍び返しが三尺ばかり外れるんです。塀の中には、古石塔ふるせきたふで足場が拵へてある相ですよ」
「成程、――そんな事もあり相だ。八、登つてみな」
「へエ――」
 八五郎は木の根に登つて、忍び返しに手を掛けると、成程そのまゝ外れて、樂々と乘越せるやうに出來て居るのです。
「八、提灯をやらうか」
 平次の出した提灯、それを受取つて塀の向う側を照して居た八五郎は、
「親分、古石塔で段々が拵へてありますぜ。おや?」
 頓狂とんきやうな聲を出します。
「何だ、八」
「手拭が落ちて居ますよ」
「拾つて來い」
「へエ――」
 八五郎は寺の境内へ飛降りましたが、暫らくは歸つて來ません。
「何うした、八。手拭を買ひに行つたんぢやあるまいな」
「向うへ行つて見ませうか、――寺の門まで見通しですが」
 塀の向う側から八五郎が言ひます。
「無駄だ、引返す方が宜いよ。寺の外は往來だ、曲者が其邊でマゴマゴして居るものか」
「へエ――」
 八五郎が引返して來る迄、平次の側には、お糸が心配さうに立つて居りました。
「錢形の親分さん、見苦しいところですが。一服召上つていらつしやいまし」
「有難う、ちよつと休まして貰はうか、ところで、私を平次とは、どうして氣が付きなすつた」
「お隣で、子分衆が大きな聲で仰しやつたぢやありませんか」
「成程、そいつは大笑ひだ。種を聞けば、天眼通てんがんつうでも何でも無かつた」
 平次もツイわだかまりもなく笑つて了ひます。
「親分さん、この路地へ何が逃げ込んだのでせう」
 お糸は無氣味さうにお喜代を顧みました。
「お前さんも噂を聞いて居るだらう、『千里の虎』を追ひ込んだのさ」
「えツ」
「だが、心配することは無いよ、『千里の虎』は非道な金持か、評判の惡い武家屋敷でなきア荒さないから」
「でも、女二人で、萬一の事があつたらどうしませう」
 お喜代はさすがにおびえ切つて居ります。
「大丈夫だよ、――それ丈けの恰幅なら『千里の虎』位は組伏せられるよ、――お前さんは幾つだえ、何? 十八? 孤兒みなしごになつて、御新造の厄介になつて居る? さうかい」
 下女のお喜代のたくましい身體を、平次はつく/″\眺めて居ります。
「親分さん、こんな物騷な晩に、女二人ではとても我慢がなりません。お願ひですが、夜明まで在らしつて下さいませんか」
 お糸は湯を沸させたり、座布團を持出したり、下女と並べて敷いた次の間の床を疊ませたり、一生懸命引止めて居ります。
「夜明けまではあと一刻もあるまい。入つて一と休みしようか、八」
 平次は日頃のやり口に似氣なく、上り込んで煙草入などを取出します。
「親分」
 驚いたのはガラツ八でした。かこひ者などの家へ夜中御輿みこしを据ゑる親分では無かつた筈です。
「何て面をするんだ、氣に入らなきア隣の空家へでも行つて見な、それとも、竹の市に腰でも揉ませるか」
 平次は取り合ふ色もありません。


馬鹿野郎、一と晩俺の側に居た癖に、到頭捉めえ兼ねたぢやないか、名御用聞もねえものだ、この後は大きな口を利かない方が無事だぜ、あばよ。
千里の虎より
 こんな手紙が翌る日平次の家へ投込まれました。恐ろしい惡筆ですが、相當の文筆を使つて居るところを見ると、下書きして人に書き直させたか、でなければ、左手で書いたものでせう。
「親分、癪にさはるぢやありませんか、こんな惡戯いたづらなんかしやがつて」
「怒るな、八、斯うゑさに付いて來れば占めたものだ」
 平次はその足で直ぐ、下つ引富坂の勘助を訪ねました。
「おや、錢形の親分」
 荒物屋を表商賣にして居る勘助は、平次とガラツ八の顏を見ると直ぐ裏木戸を開けて、狹つ苦しい代り人目に付かないところへ案内してくれます。
「勘助、外ぢやねえが、あの庚申横町の連中をよく知つて居るだらうね」
「三度のおかずまで知つて居ますよ、親分」
「竹の市は少し溜めて居るつて言ふが本當かい」
「金のあるやうな顏はしませんが、――大分持つて居るやうです」
「感の惡い盲目だが」
「惡いの惡くねえの、こぶばかり拵へて居ますよ、よくあれで牛にも馬にも踏みつぶされないことで」
「按摩はうまいのか」
「からつ下手ですがね、内々武家方や町人へ金を廻して利分を取つて居るといふ噂もありますよ」
 勘助の説明で、竹の市の全貌が次第に判然して來ます。
「お妾のお糸の旦那は誰だえ」
「それが大變なんで」
「大變な旦那と言ふと?」
「宗匠ですよ」
「――」
「路地の突き當りの其月堂鶯谷宗匠きげつだうあうこくそうしやうですよ。かなりの年でせうが、達者なもんで」
 勘助はニヤリニヤリして居ります。
「それぢや路地へ直ぐ出られる裏木戸へ、内外から錠をおろしたのは何う言ふわけだ」
「奉公人が夜遊びに出るからと言ふのは口實で、實は宗匠の内儀おかみが、一方ならぬ嫉妬やきもちで、あんなところから出たのを見付かつたら大變なことになります」
「成程」
「だから、運座へ行くと言ふことにして、三日に一度は表通りから大廻りにあの横町に辿たどり着くんで、――町内で知らない者はありません」
「面白いな」
「面白いのはそんな事ぢやありまん。宗匠が來ると、間もなく若い男がお勝手口からコソコソと逃出しますぜ」
「へエ――」
「宗匠が歸る頃、何處からともなく若い男が歸つて來るなどは、十七文字には無い智惠で」
 勘助はすつかり悦に入つて、兩手を揉み合せて居ります。
「その若い男の素姓が判るかい」
「そればかりは判りませんよ、何時でも手拭で頬冠ほゝかぶりをして――誰かに後を跟けられたと覺ると、その逃げ足の早いと言ふことは――」
「それから、あの一番奧の家は、何時から空いて居るんだ」
「もうズーツと一年も空いて居ますよ。尤も、誰か借りて一年分の店賃たなちんを前拂ひにしたまゝ、上方へ行つて了つたと言ふ話もありますがね」
「持主は?」
「角の米屋で」
「有難う、それだけ聞けば澤山だ」
 平次とガラツ八はそれつ切り外へ出ました。


「親分、あつしはあの手拭が氣になつてならねえ、寺の方をさがして見ちやどうです」
「俺もそれを考へて居たよ、行つて見ようか」
 二人はグルリと一と廻り、寺の表から入つて行きました。
 かなりの伽藍がらんですが、住職は七十以上の老人、それに小僧はまだ十二三、何を訊いても一向らちがあきません。
 裏へ廻つて墓場から、石塔を積んだ石場のあたり、忍び返しまで調べましたが、何の變つたことがなく、唯曲者が此處から脱出したところで、寺の門を通つて往來へ出て了へば、何うすることも出來ない事だけが判然と解つた位のものです。
「親分、此處にも手掛りはありませんね」
「がつかりするなよ、八、俺には手掛りがあり過ぎるほどなんだ」
「へエ――」
「逃げ込んだ木戸へ、手探りで輪鍵を掛けたり、忍び返しの外れた場所を知つて居たり、――そんな事をする人間は、何處に居ると思ふ」
「成程、この寺の近所と言ふわけですね」
「その通りだよ、早速、お隣りの其月堂宗匠に逢つて見ようぢやないか」
 二人は寺の隣りに、しもたや風の心憎き住居を訪ねました。
 耳が遠いから、俗用は召使の者に――と言ふのを、神田の錢形平次と名乘つて、押して逢つて貰ひました。
 通されたのは奧の六疊、型の如く明窓淨几めいさうじやうき、側には俳書らしいのを入れた本箱、前のには釜がチンチンたぎつて、俳畫の細物の一軸が後ろにあると言つた道具立てゞ、主人の鶯谷あうこくは茶色の頭巾を深々と冠り、被布ひふを羽織つたまゝ、口をもぐ/\させて二人を迎へます。
「私は神田の平次ですが、――ちよいと伺ひ度いことがあつて上りました」
 挨拶がすむと、平次は早速膝を乘出しました。
「左樣、左樣、結構なお天氣で、――親分も矢張り、その道のたしなみがおありかな」
 五いんの外れた聲、あまりの事に二人は顏を見合せるばかりです。
「さうぢやありませんよ、宗匠、裏木戸の錠のことですが」
「よく聞えますよ、裏木戸が何うかしましたか」
 大きい聲だけは辛くも聞える樣子ですが、つんぼの癖で、半分聞えたのを、すつかり呑込んで了ふので話の運びの六づかしさと言ふものはありません。
 それでも何うやら彼うやら、裏木戸の錠は二年前におろしたまゝ、一人も開けた者の無いと言ふことだけは確かめました。
「それから、宗匠、あのお糸と言ふ――」
 女の話を訊かうとすると、其處へ大丸髷おほまるまげ四十前後の、恐ろしく若造りな女が出て來ました。
「いらつしやいまし、私は其月堂の家内で――」
 と、お屋敷勤めの昔を匂はせようと言ふ小笠原流の挨拶が始まつたのです。
 こんなのに出られては、平次とガラツ八も引揚げるより外にが無くなりました。
「いづれ又參ります、今日は急ぎますから」
 はふ/\の體で立上ります。
「あれ、宗匠、頭巾づきんのまゝで御挨拶は失禮ぢや御座いませんか」
 内儀が大きい聲で注意すると、鶯谷宗匠はあわてゝ茶色の頭巾を脱ぎました。樣子の年寄染みる割合には、胡麻鹽の毛が房々と生えて、びんも髷も、思ひの外見事です。
 挨拶がすむと宗匠は、くるりと背を向けて、机の上と俳書に目を注ぎ始めました。送つても出ようとはしない傍若無人さが、世捨人らしい氣樂なところでせう。
 内儀に送られて縁側に出た平次は、何としたことか、よく磨き拔いた板敷に滑つて、ステンコロリと轉びました。
「あツ」
 その上障子を一枚見事に押倒しましたが、其月堂鶯谷宗匠は振り向いても見ません。
「これは飛んだ粗相そさうをいたしました」
「どういたしまして、お怪我はありませんか」
「粗相は生れ付きで、こんな事は馴れて居りますから」
 平次の恐縮振りと言ふものはありません。逃げ出すやうに、八五郎を引立てゝ飛出して了ひました。


 平次は其足で直ぐ麹町三丁目の御典醫、梅木淳庵うめきじゆんあん先生のところへ飛んで行きました。
 その歸り路。
「八、お前は、めくらの眞似と、つんぼの眞似と、何方が樂に出來ると思ふ」
 平次は妙なことを聞きます。
「そりや、判り切つてるぢやありませんか、親分」
「それが一向判り切らないんだ」
「盲目の眞似は眼をつぶつて居るだけでも樂ぢやないでせう。聾なら聞えない振りをして居さへすれば宜い――」
「さうかなア」
「さうですとも親分」
うしろで、いきなり大きな音を立てられて、平氣で居る――なんてことは出來るかな」
「――」
 ガラツ八も默つて了ひました。平次は其月堂鶯谷のことを言つてるのでせう。
 家へ歸つて見ると、待ち構へたやうに、又惡筆の手紙が來て居ります。
平次、もう十手捕繩をお上へ返せ、俺には齒も立つまい。今日もツイ側に居たぢやないか、ところで、お前の馬鹿さ加減を思ひ知らせるやうに、今晩は富坂の角の米屋に押入る、時刻まで教へてやらう、宵の酉刻むつから戌刻いつゝ迄の間だ。
千里の虎より
「畜生ツ、今晩こそ思ひ知らせてやるぞ」
 平次がこんなに腹を立てたのは、ガラツ八もツイ見たことがありません。
 その晩は全く見物みものでした。
 今まで押入られる先を警戒して、何時でも出し拔かれた平次は、その日は宵から庚申かうしん横町の外、駄菓子屋の店を借りて張り込むことにしたのです。
「親分、もう酉刻むつ半ですよ」
「シツ」
 二人は半分閉した店の障子の開から、庚申横町の口を嚴重げんぢゆうに見張つて居ります。
「最初に出て來た人間を捕まへりや宜いでせう」
「さうだよ」
 恐ろしい緊張――、二人は思はず固唾かたづをのみました。
 四方がすつかり暗くなつた頃。
「――」
 眼の早い八五郎は、平次のひぢをちよいと突きます。庚申横町の木戸を内から開けて、闇の中へスツと出た者があるのです。
「御用ツ」
 飛び付いた平次。
「何をしあがるツ」
 曲者は恐ろしい剛力で突飛ばしました。
「神妙にせい」
 うしろから八五郎がガバと組付きました。
 が、この捕物は思ひの外早く片附きました。キリキリと縛り上げて、街の灯のさすところまで連れて來ると、それは豫期した通り、竹の市の怪奇な坊主頭です。
「錢形の親分、惡い冗談だ、私をどうなさる積りで」
「默れツ」
 平次は無愛想にきめ付けて、番所まで引いて來ました。
「平次、『千里の虎』を擧げた相だが、大層な手柄だ」
 吟味與力笹野新三郎は、我が事のやうに喜んで待つて居たのです。
「有難う御座います、思ひの外手輕に掴まりました」
「旦那、私は『千里の虎』なんかぢやありません、唯の按摩あんまの竹の市で」
 竹の市はガラツ八に突飛ばされると、其處にある物につまづいて土間に坐り込みます。
「千里の虎でなきア、何だつて盲目の眞似をした」
「えツ」
 ガラツ八も驚きましたが、それよりも驚いたのは竹の市でした。
「僞盲目とどうして判つた。平次、それを話してやれ、本人も何時迄も盲目の眞似をするのが、馬鹿々々しくなるだらう」
 笹野新三郎はうまい事に氣が付きます。
「盲目でない證據は澤山ありますが、先づ家の中をあんなに取散ばして居るのが變です。盲目といふものは、居廻りの物をキチンと片付けて、何が何處にあるか、よく解るやうにして置くものです」
「成程」
「それから、いくら感が惡いと言つても盲目です、目明きのお糸が聞き付けた曲者の足音を聞かなかつた筈はありません」
「――」
「この通り目を開いたつ切りで、本人は内障眼そこひだと言つて居ますが、何時までも瞳が動きません、動けば凝つと明後日の方を見詰めて居ます。三番町の梅木先生に行つて聽くと、内障眼で盲目になつた人の瞳は、物の見定めと言ふものがないから、灯にも物のかたちにもかまはずに、フラリフラリと動くものだ相です」
「フ――ム」
「それから、先刻、御用ツと言つただけで、私を平次と知つたのも變ぢや御座いませんか」
 平次は動きの取れない證據を上へ/\と積んで行きます。
「嘘だ/\。――盲目は如何にも僞だが、これは世過ぎの爲だ。目明きの接摩ぢや流行はやらねえから、少し眼のうといのを思ひ付きに、盲目の眞似をしたまでの事だ。人の物なんか盜るやうな大それた人間ぢやねえ、千里の虎なんて飛んでもねえ話だ」
「默れ」
「いや、默らねえ。錢形の親分ともあらうものが、そんな目違ひをして濟むと思ふか」
 竹の市は氣違ひ染みた聲を出して猛り立ちます。
「それぢや、忍び返しの向う側、寺の境内へ手拭を投げ込んだのは誰だ」
「知らねえ、知るもんか」
「あれは曲者が逃げたと見せる爲に、お前が投げ込んだ手拭だ」
「知らねえ/\」
「あの手拭は酒屋の配り物で町内に百本もあるが、あれにだけは目印があつたんだ」
「――」
のり賣婆さんが、自分の家へ持つて來て洗濯する時、同じ模樣の手拭と間違へないやうに、お前の分へ墨で印を付けたんだ」
「嘘だ」
「いや嘘ぢやねえ」
「俺の手拭を盜んで、誰かお寺の方へ投り込んだんだ」
「そんな事があるものか、――お前が忍び返しを外して、寺へ逃げ込んだ――と思はせて何の役に立つ、現にお前は自分の家に居たぢやないか」
 平次の明察は、疊みかけて竹の市の口をふさぎます。
 その時丁度、庚申横町の竹の市の家を搜させた、下つ引の勘助とガラツ八が歸つて來ました。
「親分、縁の下の植木鉢の中と、押入の天井に、小判で百五十兩隱してありましたよ」
「あツ」
 ザラリと疊の上へ並べた小判。
「これでも唯の按摩か、――千里の虎――ともあらうものが未練だぞ、白状せい」
 平次は竹の市の驚き呆れる肩に手を掛けました。


 それから四半刻ばかりも、竹の市を責めて見ましたが、何としても、『千里の虎』だとは言ひません。
 が、兎に角、近頃の大物で、番所へ止め置くわけにも行かず、平次、ガラツ八、勘助の三人で數寄屋すきや橋まで送らうと言ふ時、
「た、大變ツ」
 町の若い者が二三人轉がるやうに飛込んで來ました。
「何うした、騷々しい」
「角の米屋へ押込おしこみが入りました」
「えツ」
「俺は『千里の虎』だ、と威張り返つて、有金十五兩盜つた上、手向ひする手代を斬つて、何處ともなく逃げて了ひました」
「あツ」
 平次もガラツ八も、笹野新三郎も開いた口が塞がりません。
「確かに『千里の虎』と言つたか」
 平次は僅かに平靜を取戻します。
「言ひましたよ、――錢形の親分に約束したが時刻も丁度戌刻いつゝだ、――つて」
 若者の一人は米屋の丁稚でつちでせう。
「平次」
 暫らく經つて笹野新三郎は言ひ出しました。
「旦那、これは私の一代の失策しくじりかも知れません、――少し考へさせて下さい」
 平次は打ちしをれて、番所の隅に腕をこまぬきます。
「見あがれ、眞物の『千里の虎』が出て來たらう。サア、俺を何うしてくれるんだ、――無闇に人を縛りやがつて、錢形の平次もねえものだ、畜生ツ」
 竹の市は、事情を察して、口汚くのゝしり始めたのです。
「面目次第もありません、これは全く私の間違ひで御座いました。竹の市の繩は解いてやつて構ひませんか」
「勝手にするが宜からう」
 笹野新三郎のゆるしを受けると、平次は竹の市の後へ廻りました。繩を解いてやる積りだつたのです。
「嫌だ、今更繩なんか解いて貰ひ度くねえ。此儘お白洲しらすへ突き出してくれ。錢形平次を日本一の阿呆にしなきア、俺の腹の蟲が納まらねえ」
 竹の市は身體を揉んで解かせまいとします。
「まア勘辨しろ、手前も盲目の眞似なんかしたのが惡いんだ――平次のした事が氣に入らなきア、坊主になつて謝まる」
「本當か」
「本當とも、坊主――」
 フト平次は手を休めました。
「どうした、平次」
 笹野新三郎も何となく氣が氣ぢやありません。
「あつ、解つたツ――今度は逃さねえぞ」
 言ひ殘して平次は、疾風の如く驅け出したのです。續いて忠實なガラツ八。
 庚申横丁まで來ると、平次はピタリと立止りました。
「八」
「へエ――」
「命がけだよ」
「――」
 八五郎のガラツ八は、默つて默首うなづきました。其處からお妾のお糸の家まではほんの五六間――
「今晩は」
「どなた?」
 下女のお喜代の開けた格子の中へ、平次は一文字に驅け込んだのです。
「千里の虎、御用ツ」
「何をツ」
 立上つたのは、大黒頭巾を耳まで冠つた宗匠の鶯谷あうこくと、妾のお糸でした。
「何をしあがる」
 後ろから平次へ飛付いたのは、下女のお喜代、非凡な力に、平次も思はずたじろぎます。
「これでも食らへツ」
 鶯谷は何處から出したか、匕首あひくちひらめかして眞一文字に平次の胸倉へ、それは實に危機一髮といふ際どさでした。
「親分、危ないツ」
 飛込んだガラツ八、絡み付くお喜代に手が伸びると、平次はそれに引かれるやうに、僅かに身をかはして辛くも匕首のさきけます。
「逃げて下さい、早く」
 お糸は氣違ひ染みた聲を振り絞り乍ら、皿、小鉢、鐵瓶、火箸ひばし、見境もなく投げ出しました。
「八、その女を押へろ」
「親分」
 ガラツ八がお喜代一人と揉み合ふ間に、平次は飛込んでお糸を押へ、猛然として切りかゝる鶯谷の匕首を除け/\、右手を懷に入れて、取り出したのは得意の投げ錢です。
「え――い」
 一つはひたひへ。一つは匕首を持つ手へ、一つは鼻柱へ――。
 思はぬ武器にひるむ鶯谷、裏口へ逃げ路を搜すところを、手練の十手が、ピシリとその肩を叩きます。
「神妙にせい」
        ×      ×      ×
 兇賊『千里の虎』は、つんぼ俳諧師はいかいし其月堂鶯谷きげつだうあうこくだつたのです。年は精々四十七八、あんな老人になりすました非凡の變裝に、新三郎も平次も舌を捲くばかりでした。
「親分、あつしには解らない事ばかりだ。いつもの通り、繪解をしておくんなさい」
 翌る日、ガラツ八の望みで、平次は斯う話して聽かせました。
「最初から俺は宗匠を疑つたが、梅木先生から、つんぼの眞似は簡易に出來るものでないと聞いて迷つたのさ。鶯谷は背後うしろで俺が轉んでも、障子が倒れても身動みじろぎもしなかつたらう。僞聾にはあれは出來ないことだ」
「すると――」
「一方、竹の市はすぐ僞盲目と判つた。が、縛つた後で、千里の虎は米屋へ押込んで居る、俺はあの話を聞いた時ほど驚いたことは無い、本當に坊主にでもならうかしら――と、フト頭へ手が行つた、その時、其月堂の頭巾づきんのことに氣が付いたんだ。年寄だし、まだ薄寒いし、頭巾を冠るに不思議は無いが、耳の上までスポリと引下げて居たのは可怪しい」
「――」
「俺が歸らうとする時、氣が付いたやうに取つたが、あれは疑はれ度くない爲だ」
「フ――ム」
「あの時俺は、鶯谷の耳の穴に、何か鼠色の光るものが、入つて居るのを見たやうな氣がするんだ。耳の聞える者が聾のふりをするには、耳の穴を塞ぐより外には無い、あれはらふで、耳の穴なりに拵へて詰めてあつたんだ」
「な――る」
「蝋の詰めで耳を塞いだ時は鶯谷宗匠、それを取つた時は『千里の虎』さ」
「お糸の家へ宗匠が來ると、若い男が裏口から逃出したと言ふのは何でせう」
 ガラツ八は最後の問ひを持出しました。
「それが鶯谷さ、一人二た役だよ。自分の家からは決して、『千里の虎』の身扮みなりで出ないのがあの男の惡賢い所だ。鶯谷宗匠で大廻りに廻つてお糸の家へ來る、直ぐ引拔いて『千里の虎』の若い姿になつて荒仕事に出かける、歸つて來ると、元の鶯谷になつて、又大廻りに自分の家へ歸つて行つたんだ」
「へエ――驚いたね」
「裏木戸へ内外からぢやうをおろしたり、お糸の隣の家を一年借りたり、何しろ細工は細かいよ。その上、あの宗匠の内儀と見せたのは妹で、めかけのお糸は本當の女房、お喜代も惡者の一味だつたんだ」
「最初の晩、『千里の虎』は矢張りあの塀の忍び返しを外して逃げたんで――」
「いや、そんな暇は無かつた筈だ。お糸の家へ隱れて居て、俺達がお糸に忍び返しの細工を教はつたり、お糸がかねて用意に投り込んで置いた、手拭を拾つたりして居るうちに、路地の木戸から逃げたんだ。あの時は甘々とお糸にやられたよ、――長い間十手捕繩を預つて、今度のやうな見當違ひをしたのは始めてだ、岡つ引は自惚うぬぼれちやいけないな」
 平次はしみ/″\とさう言ふのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第六卷 兵庫の眼玉」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1935(昭和10)年7月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月8日作成
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