錢形平次捕物控

御落胤殺し

野村胡堂





「親分、――ちよいと、八五郎親分」
 ガラツ八は脊筋をくすぐられるやうな心持で振り返りました。菊日和の狸穴まみあなから、榎坂えのきざかへ拔けようと言ふところを、後ろから斯うなまめかしく呼止められたのです。
「何處だ」
 グルリと一と廻り、視線で描いた大きい弧がツイ鼻の先の花色暖簾のれんの隙間を見落して居たのです。
「此處よ、ちよいと、親分」
「なんだ、――俺をかもだと思つて居るのか」
 ガラツ八はそびらを向けました。茶店の姐さんが、客の無い怠屈さに、顏見知りの自分へ聲を掛けたのだらうと思つたのです。
「あら、私は此店こゝの姐さんぢやありませんよ。神田から親分の後を跟けて來て、御用の濟むのを待つて居たんぢやありませんか。ちよいと、お顏を貸して下さいな、内々のお願ひですから」
 肩で暖簾を揉んで、輪廓りんくわくかすむやうな眞白な顏を出したのは、二十一、二の女、素人とも玄人ともつかぬ、拔群の艶めかしさを發散させます。
「御免を蒙らう、俺は忙しい、――御用繁多だ」
 ガラツ八は獨り者の癖に、若い女には妙に突つ劍呑でした。いやどうかしたら、獨り者だから反つて若い女には無愛想だつたのかも知れず、若い女に無愛想だから、何時まで經つても獨り者だつたのかもわかりません。
「ホ、ホ、ホ、ホツ、ホツ」
 女はいきなり笑ひ出しましたが、麻布中の空氣を薫蒸くんじようするやうな笑ひです。
「何が可笑しい」
 ガラツ八は彌造を肩のあたりまで突き上げて、拳骨の先から相手の女を睨め廻します。
「だつて、御用繁多な方が、一軒々々菊細工きくざいくを覗いて、一刻半も油を賣つてるんですもの」
「何?」
「その癖、お茶も呑まずに引返すぢやありませんか。良い御用聞がそんな心掛けぢや、世間が穩やかなわけはないねえ」
「――」
 ガラツ八はもてあそばれて居るやうな憤懣と、妙に腹の底からコミ上げて來る愉悦を感じました。女の調子には、皮肉な色つぽさがあつて、羽根ばうきで顏中を撫で廻されるやうな心持だつたのです。
 菊細工はまだ麻布の狸穴坂の兩側を本場にした頃、ガラツ八は飯倉へ用事で來た序に、此處まで足を伸して、千輪咲や原始的な細工物や、百姓家の畑に育つたまゝの菊を眺めて、引返したところをあやかしの網に引つ掛つたのでした。(註、菊細工の本場は文化以後染井巣鴨すがもに移り、弘化年間に根津、谷中、駒込を中心として精巧な菊人形に進化し、一時中絶して、明治十年頃團子坂の菊人形に復活したのです。)
「ね、八五郎親分、洒落や冗談ぢやありません、――人一人の命に拘はる事なんだから、聽いて下さいな」
 女は差し寄つて斯う囁やくのです。
「一人の命?」
「え、私のをひが人手に掛つて死んだのに、屆けるところへ屆けても、取合つてくれる者もありません。それぢやこの世の中は闇ぢやありませんか」
 頬に通ふ香ばしい息、――それよりもガラツ八の本能は、話の重大性を直感して、この女の言ひなり放題に、茶店の奧へ通る氣になつたのです。
「その話を聽かうぢや無いか、人一人の命に係はるとか、甥が人手に掛つて死んだといふ話を――」


 ガラツ八の八五郎が神田へ歸つたのは、やがて戌刻いつゝ半とも思ふ頃でした。
 麻布から辿たどつて一刻あまり、夜風にも醒め切れないホロ醉の顏を、押し拭ひもせずに、其まゝ錢形平次の前へ持つて來たのでせう。
「親分」
 長い舌がペロリと上唇をめました。
「なんだ、八か。今頃何處から歸つて來たんだ」
「親分」
「まア坐れ、入口に突つ立つて物を言ふ人間は無いよ、――あツ、懷手をしたまゝ坐りやがつた、呆れた野郎だ」
 平次は口小言を言ひ乍らも、氣の置けない微笑を浮べて、果しまなこの八五郎を迎へました。何か素晴らしい獲物をくはへて來た獵犬を迎へる主人の態度――と言つた調子です。
「それどころぢやねえよ、御府内に人殺しがあるのを、御用聞が知らずに居るといふ法はねえ、――知つて下手人をつかまへねえといふ法も無い筈だ、ね親分」
「をかしな事を言ふぢやないか、俺の繩張うちに、目こぼしになつた『殺し』でもあつたと言ふのかえ」
「その通りですよ、親分」
「おや/\/\、それは初耳だ。聞かして貰はうぢやないか八、次第に寄つては、十手捕繩を返して、坊主になつてわびをしよう。何處の誰が一體殺されたんだ」
 平次も少しばかり眞劍になりました。
「親分が惡いといふわけぢやありませんよ、相手の大名がしやくにさはるんで、――落付いて聞いて下さいよ」
「俺はあわてちや居ないよ、手前こそ落付いて話せ」
 彈み切つた心持を誘發いうはつされて、二人は思はず顏を見合せました。が、次の瞬間にはもう融然として笑つて居ります。
「斯うですよ、親分、――鎌倉町の源太郎親分のところに、綺麗な娘が二人あつたのは知つて居なさるでせう」
「知つて居るよ。源太郎はやくざだが、姉娘のお銀が大名のお部屋樣になつて、跡取の男の子を生んでから、すつかり隱居して、堅氣になつて居るといふ話だ――それが何うしたんだ」
「その跡取の男の子――大名の若樣が死んだんで」
くはしく話して見るが宜い、何かわけがあり相だ」
わけは大ありで――先刻狸穴まみあなの歸り、後から聲を掛ける者があるぢやありませんか。振り返つて見ると凄いほど美い女で――無理にあつしを茶店へ引入れて、――何を言ふかと思や、平次親分が乘出すやうに、骨を折つてくれと――」
「誰だい、その凄いほどの女といふのは?」
「源太の二番目娘、お銀のかたの妹のお徳ですよ。親父の子分でお小姓の捨吉と言はれた好い男と出來て、駈落かけおちまでした札付の娘でさ、一時は品川に巣を構へて小唄か鼻唄の師匠をして居たといふ――」
「何だ、あの轉婆娘か。――さぞ手前はめられた事だらう」
「姉のお銀が大名のお屋敷に上がつて、男の子を生んだ時、親父も氣が挫けたものか、妹のお徳の不始末を勘辨して、捨吉共々家へ呼び入れた相ですよ」
 ガラツ八は委細構はず話を進めて行きました。お徳にくすぐられるやうな目に逢はされて、ツイ先刻までポツと醉心地だつたことはおくびにも出しません。
「それから、何うしたんだ」
「お銀の奉公先は、江州の小室で一萬二千石の領主小堀和泉守樣――江戸御上屋敷は駿河臺するがだいだ。奧方には御姫樣ばかりで跡取が無い。行儀見習に上がつたお銀は、殿樣の覺召に叶つて御手が附き、男の子十次郎樣を生んで、御部屋樣に直つた。跡取の御腹樣で、大した勢だつたが、奧方の嫉妬やきもちが何としても激しい」
「――」
「源太郎の娘で、氣象者で通つたお銀の方も、椎茸髱しゐたけたぼの女中共にいぢめ拔かれて、少し氣が變になつた。到頭若樣十次郎を伴れて鎌倉町の親のところへ歸つたのはツイ一と月ばかり前、お邸から人橋かけての迎ひを蹴飛ばして居るうちに、――五日前」
「その十次郎樣といふのが霍亂かくらんで死んだといふのだらう」
「へエ、親分は知つて居るんで――?」
 ガラツ八の顏の長さ。
「季節外れの霍亂で、源太郎の孫がやられたといふ話は聞いたが、それが大名の跡取りとは知らなかつたよ。源太郎には孫が多勢あつた筈だ」
「錢形の親分でも燭臺下暗しよくだいもとくらしさ」
「燈臺下暗しだらう」
 と平次。
「何方だつて、大した違ひぢやねえ。――その霍亂が、駿河臺の御屋敷から屆いたお菓子を喰つた晩から起つて、翌る日の陽の目も見ずに、若樣が冷たくなつて居たとしたら、どんなもんで」
「それは知らなかつた」
 平次も豫想外の顏色です。
「菓子にてられたに違ひはねえ。怪しいのはそれを持つて來た桑原伊織といふ侍だが、相手が一萬二千石でも大名だ。町人ややくざの悲しさ、どんなに疑ぐつでも腹が立つても、ゴマメの齒ぎしりで何にもならねえ」
「――」
「お部屋樣のお銀はそれから半病人、親父の源太郎も取る年だし、伜源助と妹婿の捨吉は弱氣で當にならず、お徳がたつた一人で腹を立てゝ、何んな事をしても下手人を探し出し、敵が討てない迄も面を見てやり度い、お願ひだから錢形の親分さんに乘出して下さるやうに――と斯う言ふ話で」
 ガラツ八はお徳の聲色こわいろまで使つて聞かせました。縁臺の上で、菊の香りにひたり乍ら、二つ三つはお徳にグリグリをやられたのでせう、何しろ、その熱心さは一と通りのことではありません。


「そいつは御免をかうむらうよ、八」
「へエ――?」
 ガラツ八は驚きました。話が一段落と見るや、平次はツイと座を立つて、縁側の雨戸を一枚引あけ、水の如く入つて來る月明りの中に、ホツと太息といきを漏らしたのです。
「氣の毒だが、そいつは構つちや居られねえ。俺は町方の御用聞、大名のお家騷動に口を出せる道理もなく、よしや下手人が判つたところで、乘込んで縛るわけにも行くめえ」
「だがネ、親分」
「無駄だよ、八、放つて置くが宜い、手前てめえはお徳の阿魔あま魅入みいられたんだ」
「親分」
「判つて居るよ、どうせお銀も跡取を亡くしてお屋敷へ歸れないと決ると、奧方の一味が小癪にさわるから、騷ぎを大きくして公儀の耳に入れ、あわよくば小堀の家へケチでも附けようと言ふだらう。――親父の源太郎は今こそ老耄おいぼれた顏をして居るが、あれでなか/\の軍師さ」
 平次は益々落着き拂ひます。
「何だか知らないが、主人の血筋を引いた赤ん坊を毒害するのは、あまりぢやありませんか。ねえ親分、主殺しは磔刑はりつけだ」
「厭だよ、誰が何と言つても、俺は大名の御家騷動に掛り合ふのは御免だ、――茶碗一つ、色紙一枚紛失ふんしつしても、腹を切つたり、手討になつたりする世界だ。町方の御用聞は江戸の町人を相手にして、何事もなく暮せば役目は濟むんだ。お徳は何と言つたか知らねえが、手前も深入しちやならねえ」
「――」
 八五郎は不平で/\たまらない樣子でした。が斯う言つたら最後、容易に言ふ事を聽いてくれる平次でないことはよく知つて居りますし、お徳にからみ付かれた時の亢奮が次第に醒めると、この事件は全く、町方の岡つ引とは縁の無いやうな氣がして來るのでした。
「親分、それぢや歸りませう」
 八五郎はシヨンボリ立上りました。
「何だ、これからねぐらへ歸る積りかえ。泊つて行くが宜い、もう亥刻よつ過ぎだらう」
「へエ」
 さう言ふ平次の調子には、漸く温か味がよみがへります。
「美い月だが、少し寒いぜ」


 翌る日の朝。
「さア、起きた、八」
「あ、親分」
 ガラツ八が眼を覺ますと、枕元にはすつかり仕度をした平次が立つて居たのです。
「大急ぎで仕度をしろ、鎌倉町まで明け切らないうちに行くんだ」
「行つて下さるんですか、親分」
「當り前よ」
「昨夜の話は?」
「人が聽いて居たんだ」
「えツ」
「手前が、御丁寧にも麻布からうまを引いて來たんだよ。御用聞が人に後をけられて知らずに居るなんざ、あんまり褒めたことぢやえぜ」
「へエ――」
 ガラツ八の八五郎、全く開いた口がふさがりません。
「手前の後を跟けて來て、勝手口の方から裏へ廻つた奴があるから、月を眺めるやうな顏をして、縁側から覗くと、戸袋の隱から、刀の小尻こじりが二本」
「へエ――」
「だから、ポン/\言つてやつたのさ。――殺したのは大名屋敷の者でも、殺されたのは――大名の跡取だか何だか知らねえが、洗つて見れば町人の子だ、――行つて見ようぜ、八」
「有難てえ、親分、これであつしの顏も立つ」
 ガラツ八有頂天で飛出したことは言ふ迄もありません。
 鎌倉町へ着いたのは、卯刻むつ少し前、早起きの店は表戸を開けて、往來の掃除を始めた頃です。
「お早やう」
「あ、錢形の親分さん」
 源太郎の家の格子を洗はせてゐた若い男が、振り返つて聲を掛けました。
「精が出るねえ、捨吉兄哥」
 平次は愛想よく斯う受けました。大尻端折で、二人の子分を指圖して居るのは、二十七八にはなるでせうが、小柄で、意氣で、四ツ五ツ若かつたら、寺小姓のやうに綺麗だつたでせう。お小姓の捨吉とは、全くうまく附けた綽名あだなだ、――と平次も感心させられた程です。
「親分、よく御出で下さいました、徳がどんなに喜ぶでせう」
 捨吉は端折をおろすと、男のくせに片靨かたゑくぼを見せて、まだ閉め切つた儘の奧へ入つて行きました。
 それから、顏を揃へる迄には四半刻もかゝりましたが、平次は寸刻も無駄にせずに、仕度の出來たのから順々に逢つて行つたのです。
 最初に出て來たのは、隱居の源太郎、これはもう七十を越した老人で、氣ばかり滅法若くとも、事件にはあまり關係があり相にも思はれません。
「錢形の親分、皆んな氣の弱いことを言ふが、あつしはお徳の言ふのが本當だと思ひますよ。いよ/\孫の敵と決つたら、相手が大名だつてビクともすることぢやねえ、一番ふんどしを締め直して、四つに取つ組んで見ようと思ふが何うだらう」
 斯んな事を言ふ親爺だつたのです。大柄で筋骨きんこつたくましい身體や、額のきずや、赤銅色の刻みの深い顏など、惡人らしくはありませんが、大親分の昔を忍ばせるには充分です。
「あら、八五郎親分、――矢張り錢形の親分を伴れて來て下すつたのね、有難うよ、お前さんは親切さうだから、きつと私の頼みを聽いて下さるだらうとは思つたけれど――」
 お徳は派手はでしなを作り乍ら、もうすつかりガラツ八を『お前チユト仕掛アイエ』で呼んで居ります。天道てんたう樣の下で見ると、決して良い容貌きりやうではありませんが、陽氣で仇つぽくて、調子がよくて、これで厚化粧でもしたら、隨分ガラツ八を面喰はせたことでせう。
「お徳さんかえ、昨日は八五郎が飛んだ世話になつたんだつてねえ、昨夜は寢付けないほどの逆上のぼせやうさ」
「あら、錢形の親分さん」
 ちよいと振り上げた袖が、平次の肩を打つ眞似をしやうと言つたたちの女です。
 お銀やお徳の兄で源太郎の後を繼いだ源助は、四十近い年配で、無口な氣むづかし相な男でした。親父の顏で厭々乍ら多勢の子供を預かつて居りますが、七十を過ぎた親父の源太郎に萬一の事があれば、惜氣もなく繩張を人にやつて、堅氣の商賣をするだらう――と世間は言つて居ります。
「お早う御座います。錢形の親分、妹のやつが、飛んだことをお願ひした相で」
 落着いた陽氣な調子は、妹の出過ぎた仕打に、腹を立てゝ居るやうに取れますが、本人は案外平次の出馬に感謝して居るのかもわかりません。
 源助の女房のお冬は三十そこ/\、少し病身らしい、こんな稼業には似もつかぬ平凡な女です。
 最後に顏を出したのは、お徳の姉で、お部屋樣のお銀でした。
「――」
 平次はたつた一と目で、うなつたほどのこれは好い縹緻きりようです。寢起らしい不活發なところの微塵もない、爽やかな表情のうちにも、愛兒をうしなつた悲痛な隈があつて、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)らふたきばかりの美しさに、にじみ出る自然の愛嬌も世の常ではありません。
 こんなのは、人間の子の中でも、變り種の大傑作で、眼が何う、鼻が斯うと言ふ種類の美人とは、全く質の異つたものです。妹のお徳は仇つぽい作爲的なしなで、ちよいと見は綺麗にも艶やかにも映りますが、斯う並べると、玉にきざんだ女神と、燒棒のお狐樣ほどの違ひがあります。一萬二千石の大名が、たつた一と目で所望したのも、奧方が必死の嫉妬陣やきもちぢんを布いたのも、決して無理ではありません。
「錢形の親分さん、妹が飛んだことをお願ひ申した相で――」
 唯のやくざ、源太郎の娘に返つて、へり下つた態度も、妙に人を悲しませます。
 源太郎の家族と言ふのは、これが全部でした。
「他には」
「子供達が居りますが、十一から下で、三人共まだ夜中ですよ」
 捨吉は取なし顏に斯う言ひます。
「お前さんの?」
「いえ、飛んでもない」
 莞爾につこりとすると又片靨かたゑくぼの寄る捨吉、極り惡さうに手を振つて見せるのは、子供は皆んな源助のだ――と言ふ意味でせう。それにしても、この男の美しさも尋常ではありません。


 平次は一通り皆んなの言ひ分を聞きました。が、小堀家からの使者として、側用人桑原伊織が持つて來た、立派な菓子を喰べさせると、若樣の十次郎は、その晩散々に苦しんで、翌る日も待たずに死んだ――と言ふ以外には何の手掛りもありません。
 たつた三つになつたばかりの十次郎は、一と晩の苦惱に骨と皮になつて、死體には凄まじい紫斑しはんが一杯であつたと言ふのですから、毒殺されたことは、先づうたがひも無いことでせう。
「他にその御菓子を喰べた人は?」
あつしが孫の招伴に預りましたよ」
 源太郎は少し耄碌まうろくした、首を振ります。
「お前さんにはあたらなかつたんで」
「中るもんですか、――若い時分には、四人で海豚汁ふぐじるをやつて、三人まで死んだのに、あつし一人腹がチクリともしなかつた事がありますよ、毒なんぞにやられるやうなヤワな身體ぢやねえ」
 肉體の衰へを自覺しまいとする、年寄の一てつさをムキ出しに、斯んな事を言ふのでした。
「海豚と毒藥とは違やしませんか、――子供にだけ中る毒てえのはあるでせうか」
 ガラツ八が囁くのを押へて、
「默つて居ろ。孫太郎蟲のやうな子供だけに利く藥がある位だから、子供だけにきく毒だつて無いとは限るまい」
 平次はそんな事を言ひます。
「菓子を搜して見ようぢやありませんか」
「もうあるまい、――が、訊いて見な」
 平次に承知をさせると、ガラツ八は早速殘りの菓子を見せてくれ――と言ひ出しましたが、不思議なことに、誰もその後で菓子を見た者が無かつたのです。
「榮御前も八しほも居るよ、證據になる菓子などを、其邊に殘して置くものか」
 平次にさう言はれると、ガラツ八は躍起となりました。暫らく奉公人や子分を一人々々、虱潰しらみつぶしに當つて居りましたが、やがて、
「お勘坊が捨てたやうですよ」
 誰やらが斯う言ふのを聽くと、いきなり、十六七の相模者さがみものらしい下女の襟髮を掴んで來ました。
「さア、言つて了へ、菓子を何處へ隱した」
 ガラツ八の馬鹿力が、容捨もなく汚な作りのお勘坊をさいなみます。
「痛いよ、何をするだよ」
「菓子を何處へやつた、それを言へ」
「坊ちやんが中てられた菓子だつて言ふから、裏の埃溜ごみだめへ捨てゝ了つたゞよ。誰が喰つても惡かんべい」
「よしツ、一緒に來て見ろ」
 ガラツ八はお勘坊を引つ立てました。續く平次、何やら期待する樣子で、ニヤリニヤリと笑つて居ります。
「あツ」
「何處だ、そんなものは無いぢやないか」
「一つも無いよ、確かに此處へ捨てたんだが――犬でも喰つたぢやないかね」
「馬鹿ツ、犬が菓子を喰ふか、それも三つや四つぢやあるめえ」
「二三十あつたよ」
 これでは手の付けやうがありません。
「お勘、――誰に頼まれて捨てた」
 平次はズイと出ると、お勘坊の縞目しまめの怪しいあはせの肩に手を掛けました。
「――」
 見上げたお勘坊の白い眼、反抗と敵意が燃え上つて居ります。
「お前の智惠ぢやあるまい」
霍亂かくらんになる菓子を捨る位の智惠はあるよ」
「よし/\、お前は思ひの外悧口さうだ、がこれは隱し切れる事ぢやないよ」
 平次はそれつ切り手を引きました。
「――」
 うな垂れると紫色に見える首筋、矢張り女の子らしく、白粉位は塗りこくるのでせう。それがあぶらほこりに交つて、地色の褪赭セピアを紫色に仕上げて居るのです。


 事件はその日のうちに飛躍的な發展を途げました。
「親分、變なのが來ましたぜ」
 ガラツ八が面喰つて取次いだのは、その日の晝近い頃です。
二本差りやんこか」
「いえ、こればかりは親分も見當が違ひましたよ、椎茸髱しひたけたぼで――」
「丁寧にお通し申すんだ」
「へエ――」
 道化だうけた樣子で取つて返したガラツ八は、間もなく椎茸髱――と言ふのは大袈裟おほげさですが、少なからず御守殿の匂ひのする、三十前後の女を案内して來ました。
「私は小堀和泉守樣御上屋敷に仕へて居ります、早瀬はやせと申します、御見識おみしり置きを――」
 三つ指が縁無し疊の上を滑つて、小笠原流にピタリと極るのを、錢形平次さすがに持てあまし氣味でした。
「へエ、あつしが平次で、――御用は何でございませう」
「内々にお願ひ申上度いことがございます、お人拂ひを――」
「ハハ、人間らしいのはあれ一人ですが、あれは八五郎と言ふあつしの子分で、何を聞かせても心配のある人間ぢや御座いません。馬だと思つて、御遠慮なく仰しやつて下さい」
 平次は氣輕に笑ひました。小笠流に對抗して、五分も引けを取らぬ心得の準備だけは出來たのでせう。
 ガラツ八はプイと背を向けました、――馬だと思つて――が少し氣に入らなかつた樣子です。
「それでは申上げます、が、御存じの通り小堀家は御先祖遠江守たふみのかみ政一樣以來茶道の御家柄で、東照公樣御封の遠州流奧傳の秘書と、江州小室一萬二千石永代安堵えいだいあんどの御墨附を、二つの家寶といたして居ります」
「――」
 物々しい前置き、平次もガラツ八も固唾かたづを呑みました。
「その二つの家寶が、一と月ほど前から紛失いたしました」
「一と月前?」
「左樣で御座います、お部屋樣御銀の方が、御里へお越し遊ばされた頃に當ります」
 お銀が疑はしいと言はぬばかり、屹と擧げた顏には端然として、感情の動きもありませんが、腹の中はもうそれに決めて居るやうな口吻くちぶりです。
「何處へ置かれたのでせう?」
 と平次。
「殿お側の御手文庫に入れてあつた筈で御座います」
「それほど大事な品を?」
「御參覲の度毎に、御國元から江戸へ御持參になりますが、江戸御屋敷には御寶藏が御座いません。萬一の場合の用意に御手文庫に入れたまゝ、殿の御側にそなへさせられます」
「鍵は?」
「年に一度、公儀の御品調べがあり、外に馬遠の軸物、砧青磁きぬたせいじ香爐かうろ聖茶碗ひじりちやわんなどと共に差出し、御調べ濟の上、元の御手箱に返したのが、二た月ほど前、鍵は私の兄、側用人桑原伊織が預かりますが、何かの都合で殿へ差上げた時、ほんの半日だけ、御寵愛ごちようあいのお銀の方に預けられた事があるとお側の者が申して居ります」
「お手箱には變りは無いでせうな」
「何の變りも御座いません」
「すると、桑原伊織樣か、殿樣か、お銀の方か、この三人のうちの一人が取出されたといふのでせう」
「殿は何にも知らぬと仰せられます、――兄は藩中第一の正直者で、これも嘘僞うそいつはりを申す筈は御座いません」
「それでは矢張りお銀の方が隱したといふ事になるわけで」
「兄桑原伊織が再三掛け合ひましたが、お銀の方親元源太郎は、奧方の心が柔らいで、お銀の方がお屋敷に召還された上探して進ぜよう――といふ傍若無人ばうじやくむじんの返事で御座います」
「フ――ム」
「五日前に若樣――と申しても、御腹樣のお銀の方御身持に信用いたしてよいものやら惡いものやら存じませんが、――兎に角、十次郎樣御不慮ごふりよのことがありまして、一夜のうちに御他界になつたのを駿河臺上屋敷の者の毒害と言ひ掛りをつけ、毒菓子の計略で若樣をあやめた下手人を出さないうちは、秘傳書と御墨附も、未來永劫みらいえいごふ此世に出る氣遣は無い、と恐ろしい事を申して居ります」
「フ――ム」
「公儀の御封を受けた品や、東照公御墨附が紛失すれば、明年の御品調べを待たず、小堀家は重くて改易、輕くて減地轉封はまぬがれません。相手は市井のやくざ者、力づくでも金づくでも思ふ儘にはならず、一家悉く心を痛めて居ります。親分樣御力を以つて、一萬二千石小堀家の危急をお救ひ下さるやう、お願ひで御座います」
「あツ、拜んぢやいけません。手をお擧げ下さい。私は多寡たくわが町方の御用聞で、巾着切や屋尻切やじりきりを追ひ廻すのが身上しんしやうで、大名方の御家騷動に、首を突つ込むやうな大した働きのある人間ぢや御座いません」
 平次はさすがにあわてました。早瀬といふ御守殿が、冷靜そのものゝやうな眼に、涙を溜めて、それを隱すやうに、疊の上へひれ伏したのです。
「二つの品は御屋敷には御座いません。下々しも/\の者の手で隱された上は、矢張り親分のやうな方に搜して頂く外は御座いません。もし萬一の事があれば、奧の取締をいたして居る私と側用人の兄は生きては居られません、――兄妹二人の命で濟めば、これほどたやすい事は御座いませんが、一萬二千石の小堀家の興廢となると、家中の者の難儀は思ひやられます。お願ひで御座います、親分」
 早瀬はもう顏を擧げる氣力もありませんでした。ガラツ八は、斯んなに冷たい取濟した女も泣くものだらうか――と言つた樣子で物珍らしさうにその白いうなじを見て居ります。


「驚いたらう、親分」
 早瀬を送つて出ると、ガラツ八はもう斯んな事を言ひます。
女狐めぎつねのやうなお徳に口説かれる方が、まだしも樂だらうよ。御守殿崩ごしゆでんくづしは苦手だ」
 平次もさすがに堪能した樣子でした。
「これから何をやりや宜いんで」
「もう一度鎌倉町へ行つて見よう、――昨夜からけ廻したのは、小堀家の者と判つたから、此上の遠慮は要らねえ」
「すると、麻布からあつしを跟けて來たのも、戸袋の蔭の二本差りやんこも?」
「さうだよ、まさかお側用人の桑原伊織ではあるまいが、奧方一味には違ひ無いよ。お徳の行方ゆくへを跟けて、お前を嗅ぎ當て、それから此處へ來て見張つて居たんだ。今朝鎌倉町へ行つたのを見て、あわてゝ此處へ渡りをつけに來たのさ。一萬二千石のお家の大事だから、家中三蓋總出だらう」
「大名の力でやりや、源太郎の家位は踏潰ふみつぶせさうなものぢやありませんか、家搜し位はお茶の子さい/\で」
「そんな事をして見ろ、噂は公儀へ筒拔けだ。萬一おめかけの持出した二た品が出なかつた日にや、一萬二千石がもろに潰れる、――それに家搜し位のことぢや、祕傳書とお墨付は搜し出せない」
「何處へ隱したのでせう」
「それが判りや、何でも無いがネ」
 二人が鎌倉町へ着いたのは、もう夕暮近い頃でした。
「親分さん、お勘坊が逃出しましたよ」
 捨吉は早くも迎へて、素晴らしい情報ニユースを知らせてくれました。
「あつ、押へて置くんだつけ、飛んでもねえ手ぬかりだ。――書置は?」
「ありますよ、金釘流かなくぎりうで三枚半と」
「そいつは念入りだ」
 平次は苦笑ひし乍ら入つて行きました。
 源太郎、源助夫婦、お銀、お徳――は首をあつめて、金釘流の判讀中。
「親分さん、お勘坊がこんなものを殘して逃出しましたよ」
「聞いたよ、どれ/\」
 お徳の手から受取ると、成程、書きも書いたり、蚯蚓みゝずと古釘とが滅茶々々に雜居したやうな、素晴しい難文で、
(――私には好いた同志の男があるから、それと一緒に世帶を持つ、給金の殘りと荷物は、いづれ家が決つたら受取りに來る――)
 と言つたやうな事を、惚氣交のろけまじりに、番硬の禿筆ちびふでで根氣よく鼻紙三枚半にのたくらせたものです。
「これは驚いた。氣が付かないではなかつたが、手が廻り兼ねましたよ。見えなくなつたのは、何時頃でせう」
「居ないのに氣の付いたのはツイ今しがたですよ。晩の仕度をさせようと思ふと、此始末で」
 お冬はひどく機嫌を惡くして居ります。
「あのにも男はあつたのかな?」
 ガラツ八は感慨無量な聲を出しました。
「そんな氣のきいたものがあるもんですか、出入りの御用聞か何か、からかつたんでせう」
 捨吉は少しばかり面白さうでした。
「兎に角、お勘坊の部屋と、埃溜ごみだめを明るいうちに、もう一度見せて下さい」
 平次はお徳に案内させて、お勝手に入ると、薄暗い三疊、――お勘坊の寢間を見せて貰ひました。布團一とそろひ竹行李たけがうりが一つ、外に何もありません――。竹行李の中にも、お勘坊相應の着物があるだけ。
 お勝手から裏へ出ると、淺い釣瓶井戸つるべゐどがあつて、物置があつて、その裏に埃溜がありますが、何んなに念入りに搜したところで、菓子の片らも見付かることではありません。
 平次はグルリと廻つて、せまい路地を、鎌倉河岸のお濠の方へ出て見ました。
「おや?」
 平次はお濠端の草叢くさむらに眼を落しました。水際から疊み上げた石垣の上に、踏み殘した草が生えて、その草の中に、菓子の粉と見れば見られる物が落ちて居たのです。
 外濠といつても三十六見附の役人の目があつて、今日のやうに、無暗にごみなどは投げこめなかつたのですが、丸橋忠彌が石を投り込んだ内濠と違つて、二十や三十の菓子なら、夜陰ひそかに投り込めないことでは無かつたでせう。
 平次はそのまゝ家の中へ引返しました。朝から出入りした者と、お勘の親元、身元引受人などの名、所を訊くと、それを一々書き止めて、さて、改めて源太郎に向ひました。
「十次郎樣をあやめた下手人は、きつとあつしが搜し出すが、その前に小堀家の寶物――遠州流祕傳書と、東照公御墨附を渡して貰へないだらうか」
 齒にきぬ着せぬ直談判を始めたのです。
「錢形の親分、氣の毒だが、小堀家の寶物とやらを私は知るわけは無い、――それよりかお主殺しの惡黨を先に見付けて下さい」
 源太郎は斯う言つた調子です。
「本當に知らないと言ひなさるんだね」
「先づ知らないよ。尤も、孫の敵を討つた上で、又何う氣が變つて寶物とやらを搜して上げない物でもないが」
 お銀の小堀家に歸る見込が絶えたとなると、源太郎一家の者は、全く何をやり出すかわからなかつたのです。
「それは無理だ、寶物を引渡さなきア、下手人の出つこはねえ。一萬二千石の大名を潰して、數百人に難儀をかけたところで、お前さんの手柄にもなるまい」
「お氣の毒だが、錢形の親分、それぢや物わかれだ。親分をお願ひしたのは、素々お徳の阿魔あまの仕業で俺の知つたことぢやねえ。私にして見れば、味噌摺みそすり用人の一人や二人に腹を切らせるより、一萬二千石の大名を叩き潰す方が、どんなに溜飮が下がるかわからねえ。――ね親分、相手がいやな事をしあがると、此處から眼と鼻の間の龍の口御評定所へ驅け込みうつたへをするからさう思へ――と言つて下さい。源太郎は取つて七十一、もう惜しい命ぢやねえ」
 昔鳴らした凄味がよみがへつて、斯う言ひ出したら後へ引く源太郎では無かつたのです。
 振り返ると、無口な源助も、その配偶つれあひのお冬も、はねつ返りのお徳も、妙に氣色ばんで、平次の後ろへ詰め寄つて居るではありませんか。


 その晩、大きな事件が二つありました。一つは、鎌倉町を飛出したお勘坊の死體が神田川に浮いて來たことゝ、もう一つは、源太郎の家は二三十人の覆面ふくめん武士に襲はれて、天井裏から床下まで、殘る隈なく家搜しをされたことです。
 子分と言つても家に居るのはほんの二三人、あとは老年と女ばかり、口は達者でも、七十を越した源太郎、二三十本かけ並べた白刄の前には、どうすることも出來なかつたのです。
 この家搜しは、亥刻よつから始まつて申刻半なゝつはんまでかゝりました。三分の一は白刄で脅して家族を一室に追ひ込め、あとの三分の一は、部屋々々を舐めるやうに搜し、あとの三分の一は家の廻りを、垣一つ古釘一本も見落さじと調べ拔いたのでした。
 が、二つの寶物は何處にもありません。唐紙からかみを割き疊の表を剥がし、布團の綿を引出し、着て居る着物や帶までも割きましたが、祕傳書と言つた嵩高かさだかなものは素より、御墨附の紙片一枚さへ見付からなかつたのです。
「ざまア見あがれ、明日は龍の口の評定所へ駈け込み訴へだ。一萬二千石は三月經たないうちに微塵みぢんさ。それが嫌なら、娘をお屋敷へ呼返した上、下手人に繩付けて來い」
 源太郎は曉闇あかつきやみの中を引揚げて行く覆面武士の一隊を見送つて、氷のやうな冷罵を浴びせました。
「己れツ」
 たまり兼ねて、若侍二三人、白刄を閃めかしました。源太郎の首を切る位のことは、本當に一擧手一投足の勞だつたのです。
「さア、斬つて貰はう。面白いや、俺が斬られても人種が盡きるわけぢやねえ、身内の者が一人でも殘れば小堀の家を根こそぎ引つくり返してやるよ。――一人殘らず殺されゝば、祕傳書と御墨附は其儘人目に觸れずにくさつて了ふばかりよ。さア、斬つてくれ、大名の家と釣替なら、一家七人か八人の命は安いものだ」
 源太郎は何時の間にやら、皺だらけの大肌脱になつて、破目の外れた大啖呵おほたんかを浴びせるのでした。
 二三十人の武士も、これには齒が立ちません。頭立つた中年の武士になだめられて、すご/\と引揚げて行きます。
 一方、お勘坊の死體の揚つたのは、それから一刻も經つてから、ガラツ八の注進で平次が飛んで行つた時は、慘めな姿にこもを冠せて、數十人の彌次馬がそれを取卷いて居りました。
「退いた/\、見世物ぢやねえ」
 ガラツ八に彌次馬を追はせてこもを引剥ぐと、死んでから反つて綺麗になつたお勘は、濡れ腐つたまゝ何の苦勞もなく眼をつぶつて居るのです。
 胸にひしと抱いたのは女物の片袖。
「おや?」
 驚く平次。
「見覺えがありますよ、それはお徳のあはせで」
 ガラツ八も愕然とした樣子です。
「深い仔細があり相だ、鎌倉町へ行つて見ようか」
 死體の始末を町役人に任せて、平次とガラツ八は鎌倉町へ飛びました。
 お徳に逢つて訊いて見ると、
「そんな馬鹿なことがあるものですか、私の袷は此の通り――」
 と奧から出して來たのを見ると、片袖は見事に千切られて居るではありませんか。
「あツ」
 お徳はあまりの事に口もきけません。
「氣の毒だが番所まで來て貰はうか」
 平次は日頃にも無い容捨のならぬ顏を見せます。
「娘がお勘坊を殺した? 冗談だらう、そんな馬鹿なことがあつてたまるものか」
 源太郎老人はプンプンして飛出しましたが、動きの取れぬ證據を突付けられては、さすがにグウとも言へません。


 番所へ――と言つた平次は、お徳をつれて眞つ直ぐに家へ歸りました。
「心配することは無いよ。斯うしなきア、本當の下手人げしゆにんが出ないんだ、暫らくの辛棒だ」
 平次は家へ歸ると、日頃の平次に返つて、斯んな事を言つて居ります。
「本當に下手人が出るでせうか、親分」
「俺には大抵判つて居るよ、――ところで、昨日の夜の騷ぎの中で、誰か居ない者のあるのに氣が付かなかつたかえ」
「皆んな居ましたよ」
「そんな事は無い筈だが」
「父さんは宵寢よひねだし、兄さんは錢湯へ行つたきりだし、捨さんは風邪の氣味で夕方から床へ入つたし」
「小堀家の武家が押込んだ時は?」
「皆んな居ましたよ、兄さんが仕舞湯から歸つたところを捕まつただけで――」
「皆んな一緒に押し込められたんだね」
「最初は捨さんだけ別の部屋でしたよ」
「フーム」
「だつて奧の部屋へ一人で寢て居たんですもの」
 こんな話からは、何も引出せさうもありません。
 丁度その時、路地を入つて來た武家が一人。
「御免、平次殿はお在宅か。拙者は小堀和泉守家中、桑原伊織いおり――」
 眞つ直ぐに名乘るのが、筒拔けに聽えます。
 平次はお徳を女房のお靜に預けて、ガラツ八が案内して來た武家と相對しました。
「下手人を出さなければ、本日正うまこく、龍の口評定所へ訴出ると言ふ強談ぢや。――主家の安危には替へ難い、拙者いさぎよく名乘つて出ようと思ふ。主殺しの汚名を、萬代の後まで殘すのも亦致し方が無い。二品の紛失と若樣毒害を言ひ立てられては、小堀家が危ない」
 桑原伊織は暗然として首を垂れました。
 四十前後の立派な武士、妹の早瀬よりも人間味があつて、何としても主殺しなどをしさうも無い骨柄です。
「致し方が御座いません、お伴いたしませう」
 平次に[#「平次に」はママ]立ち上りました。續くガラツ八。
「お靜、一寸鎌倉町へ行つて來る。その客を頼むよ」
 外へ出ると、格子の外には、涙を押へて、しよんぼり妹の早瀬が立つて居るのでした。
「來てはならぬと言ふのに」
 伊織の聲は尖りました。
「私もお供いたします、兄上樣」
「いや」
「御菓子に毒を入れたのは、私の仕業で御座います」
「馬鹿なことを」
 桑原伊織は取り合はうともしません。
「それでは、せめて兄上樣御先途ごせんどを見屆けさせて下さいまし」
「――」
 伊織は、それもならぬとは言ひ兼ねました。


 桑原伊織、その妹早瀬、平次とガラツ八が附添つて、鎌倉町の源太郎の家へ乘込んだのは晝少し前でした。
 評定所へ驅込訴かけこみうつたへをしようと言ふ源太郎も、下手人が名乘つて出たのを見ると、さすがに度膽を拔かれた樣子で、
「そいつは面白い、侍の腹を切るのを見るのは始めてだ、皆んな來い」
 源助捨吉を始め、尻込をする女共まで呼び集めます。
「拙者生害の上は、祕傳書と御墨附、確にこれなる妹早瀬に御渡し下さるだらうな」
「よからう、お前さんも武士だ、本當に腹を切つたら、此場で相違なく渡してやらう」
「然らば、縁先を拜借いたす」
 桑原伊織は惡びれたる色もありません。縁側に坐り直すと主家と思ふ方角を遠く伏し拜んで、肌をぐいと擴げました。右手にはもう一刀の切先近く懷紙で卷いたのを持つて居ります。
「然らば、平次殿、御檢分役ごけんぶんやくを頼み申す」
 キラリと光る刄、女共はさすがに顏色を失ひました。早瀬は深々と顏を埋めて、兄の顏を仰ぐ氣力もありません。
「待つた」
「――」
「待つて下さい、桑原樣」
 平次は聲を掛けたのです。
「何だ、平次殿」
「たつた一つ承り度いことがあります。昨夜、此處へ押込んだ時、外から歸つて來た人間がある筈です。それは誰でした、仰しやつて下さい」
「いや」
「お隱しになるには及びません、昨夜の人數の中に、旦那が入つて居た事は皆んな知つて居ります」
「それでは言はう――」
 伊織はグルリと四方を見廻しました。
「此處に居るでせうか」
「居る、その男ぢや」
 ピタリと指したのは、捨吉の青褪あをざめた顏です。
「女の着物を着て居たでせう」
「その通りだ。女かと思つて引つ捕へるとその男だ。――剥いだ女の袷は、片袖千切れて居た」
「有難い、旦那、それで何も彼も判りました、腹を切るには及びません」
「何?」
「八、それツ」
 平次が聲を掛ける迄もありません。八五郎は飛付いて、逃げ腰になる捨吉を押へたのです。
「な、何をしやがるんだ」
 綺麗な顏を引歪ひきゆがめて爭ふ捨吉。
「お勘殺しの下手人だ、――いや、それよりも、十次郎樣に上げた菓子へ、石見銀山の鼠取り藥を仕込んだのは手前てめえだ」
 平次の言葉はりんとして響きます。
「嘘だ/\、俺はそんな覺えはねえ」
「いやある。お銀さんを小堀樣の屋敷へ返さない爲に、そんな惡企わるだくみをした筈だ。――手前は五年前からお銀さんを附け廻したが、小堀樣のお屋敷へ上ると、妹のお徳に乘り替へたのだ。ところが、お銀が歸ると、又お徳が嫌になつた。お銀樣を小堀樣お屋敷へ返さないやうにする細工に、手前はお菓子へ毒を入れたらう――若樣を亡き者にすれば、お銀さんはお屋敷へ歸る手蔓てづるが無くなるから行く/\はお前の張つたわなに落ちて來ると見込んだらう」
「嘘だ/\」
「その上お勘坊をだまして菓子を捨てさせ、お勘坊の口が割れさうになると、もう一度だまして家出をさせ、お徳の着物を着て、奧の部屋から拔出し、お勘坊を川へ突落してもその罪を女房のお徳へ着せようとしたのだ」
「嘘だ、そんな覺えは無い」
 捨吉は必死と爭ひ續けますが、平次の論告は、益々峻烈しゆんれつを極めて、上から/\とのしかゝります。
「お銀さんが皆んな知つて居る。手前は大名のお部屋樣を口説き廻したらう、太てえ奴だ、――もつと證據が欲しかつたら手前が鼠取りを買つた生藥屋きぐすりやを伴れて來ようか」
「――」
 捨吉はもう爭ふ力も拔けて、ガラツ八の膝の下に組敷かれて了ひました。
「斯うなれば、小堀樣の寶物は、伊織樣へお返しするのが順當だ。とつさん、祕傳書と御墨附、出してやつて下さい」
 平次は改めて源太郎の方へ向直ります。

十一


「御免蒙らう」
 源太郎の答は以ての外でした。
「えツ」
「俺はな、平次親分、そのお侍が腹を切つたら二た品を出すと言つたが、捨吉を縛つたら出すとは言はなかつたぜ。ねえおい、錢形の、若いくせに耄碌まうりく[#ルビの「まうりく」はママ]をしちやいけねえ」
「それは話が違ふだらう、とつさん」
 平次も今更驚きます。
「何を言やがる。爺さん/\と安くして貰ひ度くねえよ、安岡つ引のくせにしあがつて、神田の源太郎を知らないか」
 源太郎は何時の間にか、片肌を脱いで、鐵火箸かなひばしのやうな脛をピタリピタリと叩いて居ります。
「今となつて、そんな事を言ふのは、爺さんにも似氣ないぢやないか」
「何を、そんなに欲しきア、自分で搜せ、錢形の平次が聽いて呆れらア。俺の隱した物を搜し出せなきア、坊主にでもなるが宜い」
「――」
 平次は默つて考へ込みました。大名種の孫に死なれて、娘が元の屋敷に歸る見込が無いとなると、一克者の源太郎がこれ位の事を言ふのも無理はありません。
「どうだい、平次」
「それぢや、俺が搜し出して持つて行く分には、文句は無いだらうな」
 と平次。
「文句も糸瓜へちまもあるものか」
「よしツ」
 平次はもう立上つて外へ出て居ります。それを追ふ大勢の眼。
「爺さん、お前の手柄にさせる積りで、今まで知らん顏をして居たが、斯うなつちや仕方があるまい」
 平次は釣瓶井戸を覗くと、眞新しい竹竿を、釣瓶のブラ下つたまゝ、縁側へ持つて行きました。
「この釣瓶の竿の中から何が出るか知らないが、小堀樣へお詫の印、せめて爺さんの手で竹を割つた方が宜からう」
 平次はさう言つて、一梃のなたを、源太郎の手に持たせたのです。
        ×      ×      ×
「親分、釣瓶の竹竿に寶物二た品を仕込んであると、何うして判りましたえ」
 ガラツ八は繪解をせがみます。鎌倉町から平次の家を指して歸る途中です。
「家の中でなきやア、居廻りに隱してあるんだ。源太郎は昨夜放つて置けば腐ると言つた相だから、多分外だらうと思つた」
「フーム」
「あれだけの物を隱すのは、人の思ひも寄らぬ場所だ。二た品とも紙だから思ひも寄らぬ場所と言ふと火の中でなきア、水の中さ。火の中へは隱せるわけが無いから一番先に井戸を見ると、釣瓶の竹竿が新しくて、やけに太いぢやないか、――その上端の方に、節を拔いた穴へ、せんを打ち込んで塞いである」
「なア――る」
「水の中へ書き物を隱すのは、竹筒の外に無い、――と斯う考へたのさ」
「源太郎に竹を割らせた時、さすが強情な親爺も男泣きに泣いて居ましたよ」
「あれで小堀樣から、少しでも捨扶持すてぶちが貰へるだらうよ――憎いのは捨吉だ。お主の一粒種を殺し、お勘坊を殺した上、女房にまで濡れ衣を着せようとしやがつた」
「可哀想なのはお徳で――」
「それを考へると、俺は足が進まないよ」
 二人は眞にトボトボ家路へ向つて居たのです。





底本:「錢形平次捕物全集第六卷 兵庫の眼玉」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1935(昭和10)年11月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年6月9日作成
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