錢形平次捕物控

お藤は解く

野村胡堂





「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」
 南町奉行配下の吟味與力ぎんみよりき笹野新三郎は、自分の役宅に呼び付けた、錢形の平次に斯う言ふのでした。
「へエ、――旦那の仰しやることなら、いやを申す私では御座いませんが」
 平次は縁側にうづくまつたまゝ、岡つ引とも見えぬ、秀麗な顏を擧げました。笹野新三郎には、重々世話になつて居る平次、今更頼むも頼まれるも無い間柄だつたのです。
「南の御奉行が、事をわけてのお頼みだ、――お前も聞いたであらう、深川木場の甲州屋萬兵衞が今朝人手に掛つて死んだと言ふ話を――」
「ツイ今しがた、たまりに居る八五郎から耳打をされました。あのへんは洲崎の金六が繩張りで――」
「それも承知で頼み度い。――甲州屋萬兵衞は町人乍ら御奉行とは別懇べつこんの間柄、一日も早く下手人を擧げ度いと仰しやる――金六は一生懸命だが、何分にも老人で、屆かぬ事もあらう、直ぐ行つてくれ」
「畏まりました」
 吟味與力に頼まれては、嫌も應もありません。平次は不本意乍ら、大先輩洲崎の金六と手柄爭ひをする積りで、木場まで行かなければならなかつたのです。
「八、手前が行くと目立つていけねえ、神田へ歸るが宜い」
 永代まで行くと、後から影の如くいて來る、子分の八五郎に氣が付きました。
「歸れと言へば歸りますがね、親分、あつしが居なきア不自由なことがありますよ」
 八五郎の大きな鼻が、淺い春の風を一パイに吸つて悠々自惚心を樂しんで居る樣子です。
「馬鹿、大川のかもめが見て笑つて居るぜ」
「鴎で仕合せだ、――此間は馬に笑はれましたぜ。親分の前だが、馬の笑ふのを見た者は、日本廣しといへども、たんとはあるめえ」
あきれた野郎だ、その笑ふ馬が木場に居るから、甲州屋へ行くついでに案内しようと言ふ話だらう、おちはちやんと解つて居るよ」
「へツ、親分は見通しだ」
 八五郎は何んとか口實を設けては、親分の平次に跟いて行く工夫をして居るのです。
 木場へ行くと、町内大きな聲で物も言はない有樣で、その不氣味な靜肅せいしゆくの底に、甲州屋の屋根が、白々と晝下りの陽に照されて居りました。
「お、錢形の」
 何心なく表の入口から顏を出した洲崎の金六は、平次の顏を見ると、言ひやうも無い悲愴な表情をするのでした。
「ちよいと見せて貰ひに來たよ、八の野郎の修業に――」
 平次はさり氣ない笑顏を見せます。
「笹野の旦那の言ひ付けぢやねえのか」
「飛んでも無い、旦那は兄哥あにきの腕を褒めて居なさるよ、年は取つても、金六のやうにあり度いものだつて」
「おだてちやいけねえ」
 金六は漸くほぐれたやうに笑ひます。近頃むづかしい事件と言ふと、八丁堀の旦那方が、直ぐ平次を差向け度がるのは相當岡つ引仲間の神經を焦立いらだたせて居たのです。
「俺の手柄なんかにする氣は毛頭ねえ。どんな事だか、ちよいと教へて貰へめえか」
「それはもう、錢形のが智惠を貸してくれさへすれば、半日でらちが明くよ。證據が多過ぎて困つて居るところなんだから」
 根が人の良い金六は、自分の手柄にさへケチを付けられなければ――と言つた心持で、氣輕に平次と八五郎を案内しました。
 店の中は、ムツとするやうな陰慘いんさんさ、この重つ苦しい空氣を一と口呼吸しただけで、人間は妙に罪惡的になるのではあるまいかと思ふやうです。


 木場の大旦那で、萬兩分限ぶげんの甲州屋萬兵衞は、今朝、卯刻半むつはんから辰刻いつゝまでの間に、風呂場の中で殺されて居たのです。
 取つて五十、江戸一番の情知わけしりで、遊びも派手なら商賣も派手、藝人や腕のある職人を可愛がつて、四方八方から受けの宜い萬兵衞が、場所もあらうに、自分の家の風呂場で、顏を洗つたばかりのところを、剃刀かみそりで右の頸筋を深々と切られ、凄まじい血の中に崩折れて死んで居たのです。
 聲を立てたかも知れませんが、風呂場は二重戸で容易に外へは聽えず、下女のおさめが行つて見て、始めて大騷動になつたのでした。
 家族といふのは本妻が五年前に死んで、奉公人からズルズルに直つためかけのお直、――三十五といふ女盛りを、凄まじい厚化粧に塗り立てゝ居るのを始め、先妻の間に出來た一粒種のせがれ、萬次郎と言つて二十三、親父の萬兵衞が顏負けのする道樂者と、主人萬兵衞の弟で、店の支配をして居る傳之助といふ四十男、それに、番頭の文次を始め、手代小僧、十幾人の多勢です。
「どんな證據があるんで、金六兄哥あにき
 風呂場の血潮の中から、拾つた剃刀かみそりや、先刻居間に運んだばかりの、萬兵衞の死體を見乍ら、平次は先づ金六に當つて見ました。
「人は見掛けに寄らないと言ふが、――こんな騷ぎがあつて驚いたことは、甲州屋の家の者で、主人の萬兵衞を殺し兼ねない者が四五人は居るぜ」
「へエ――」
「世間體は良い男だつたが、通人つうじんとか、わけ知りとか言ふ者は、大方斯うしたものだらう。お互に野暮ほど有難いものはねえ」
 金六はすつかり感に堪へた姿です。
「何うしたんだ、洲崎の兄哥」
「妾のお直は二三日前から、出るの引くのと言ふ大喧嘩おほげんくわだ。――萬兵衞が他に女が出來て、それを家に入れようとして居るんだ」
「成程」
「伜の萬次郎は恐ろしい道樂者で、昨夜も歸らなかつたと言ふが、今朝のさわぎの後で氣が付くと、二階の自分の部屋へ入つて、グウ/\寢て居た」
「それから」
「番頭の文次は血の附いた着物をそつと洗つて居るところを、下女のおさめに見付けられ――」
「――」
「主人の弟の傳之助は、店を支配して居るから、萬兵衞が死ねば何萬兩の身代が自由になる、それに、内々の借金もかなり持つて居る相だ、――第一、動きの取れない證據は、萬兵衞を殺した剃刀はこの傳之助の品で、家中の剃刀では一番よく切れる。傳之助は、逢つて見れば解るが、――恐ろしい毛深い男で、三日もひげをあたらないと山賊見たいになるから、自分の剃刀だけは人に使はせないやうに、町内の髮結床かみゆいどこの親方にがせて、大切にしまひ込んであるのさ」
「フーム」
「その外、一番先に死骸を見付けたのは下女のおさめで、その時はまだ萬兵衞は息はあつたと言ふから、これとても下手人でないといふ證據は一つも無い」
「――」
「もう一人、萬兵衞のをさな友達で、今は蒔繪師まきゑしの名人と言はれる、尾張町の藤吉の娘、お藤が居る。これは並大抵でない綺麗な娘だから、氣の多い萬兵衞がちよつかいを出して居たかも知れない」
「その娘が何だつて、こんな家へ來て居るんだらう」
行儀見習ぎやうぎみならひと言ふ名義だ、――俺の娘なら、こんな家で行儀なんか見習つて貰ひ度くはねえよ」
「有難う。それで大方判つた。風呂場を見て、それから一人々々逢はせて貰はうか」
 平次は死體の側を離れてまだよく掃除さうぢして居ない風呂場を見ました。


 中は慘憺たる碧血へきけつ、――檢死が濟んだばかりで、洗ひ清める暇も無かつたのでせう。
 金六が説明した通り二重戸で此處で大概の物音をさしても、店や、お勝手へは聽えなかつたのも無理はありません。萬兵衞は通人らしくたしなみの良い男で、外出でも思ひ立つて、髯をあたりに入つたところを、後ろから忍び寄つた曲者に、逆手さかてに持つた剃刀で右の頸筋をやられたのでせう。
 風呂場の構へは大町人にしても立派で、外からのたつた一つの入口は、用心よく内鍵うちかぎで嚴重に締めてあります。
「外から入りやうは無いな」
 平次は自分へ言ひ聽かせるやうに駄目を押しました。
「その通りだ、下手人は家の中に居た者だ」
 金六も解り切つたことを合槌あひづち打ちます。
「親分、――今朝、朝飯が濟んでから半刻の間、主人の弟の傳之助は何處に居たか誰も知りませんぜ」
 八五郎は早くも別の方面に手を付けて、最初の報告を持つて來ました。
「よし/\、惡い事をする奴に限つて、自分の居た場所などを、念入りに人に知らせて置くものだ。傳之助は、馬鹿でなきア、潔白けつぱくだらう」
「へエ――」
 斯う言はれると、勢込んだ八五郎もツイ氣が拔けます。
「伜の今朝歸つた姿を誰も見た者が無いと言つたが、もう一度よく聽いてくれ。それから、皆ないつもの通り仕事をするやうに、と言つてくれ。彼方此方へ固まつて、コソコソ話して居るのは、めたことぢやねえ」
 平次はさう言ひ乍ら、まだ念入りに家の中を見廻つて居ります。
「支配人の傳之助は、兄哥に逢ひ度がつて居るぜ」
 金六は店の方を指さしましたが、
「もう少し、――今度は外廻りを見よう」
 庭下駄を突つかけて外へ出ると、庭から、土藏のあたり、裏木戸の材木を漬けた堀、おびたゞしい材木置場から、元の庭へ歸つて來ました。
「伜の部屋は何處だらう。――何處の家でも、息子は一番良い部屋を取り度がるものだが――」
「あれだよ」
 金六の指したのは、裏木戸から入つて、見上げる形になつた二階でした。嚴重な格子がはまつて、人の居る樣子もありません。
「當人は何處に居るだらう」
 と平次。
「親父が死んぢや遊びにも出られない。つまらなさうな顏をして、先刻さつきまで店に居たが」
 何と言ふ嫌な空氣の家でせう。
「錢形の親分さん、御苦勞樣で御座います。洲崎の親分さんにもお願ひしましたが、何とかして一日も早く、兄の敵を討つて下さいまし」
 たまり兼ねた樣子で、主人の弟――支配人の傳之助は庭に迎へました。成程四十三四の青髯あをひげ、人相は凄まじいが、その割には腰の低い男です。
「お前さん、何時髯をあたりなすつたえ」
 平次の問は唐突で豫想外でした。
「へエ、三日前で御座いました。こんな騷ぎが無ければ、今日はあたる筈でしたが――」
 傳之助は恐縮した姿であごを撫でて居ります。
「剃刀は何處へ置きなさるんだ」
「風呂場の剃刀箱の中に入れて居ります」
 そんな事を訊いたところで、何の足しになり相もありません。


 次に平次が逢つたのは、番頭の文次でした。三十七八の狐のやうな感じのする男で、商賣は上手かは知りませんが、決して人に好印象かういんしやうを與へるたちの人間ではありません。
「着物の血を洗つて居たと言ふが、そんな事をしちや、反つて變に思はれるだらう」
 平次の言葉は峻烈しゆんれつです。
「へエ、――それも存じて居りますが、血が附いて居ちや、氣味が惡う御座います」
「何うして附いた血だ」
「主人を介抱しようと思ひましたので、へエ」
 斯う言つて了へば何でもありませんが、平次は一脈の疑念が殘つて居るらしく、番頭が向うへ行つて了ふと、ガラツ八に言ひ付けて、文次の身持と、金の出入、借金、貯金等のことを調べさせました。
 三番目は妾のお直。
「親分さん、お手數を掛けて、本當に濟みませんねえ」
 主人が死んでも、化粧だけは忘れなかつた樣子で、帶の上を叩いて、斯う流し眼に平次を見ると言つた、世にも厄介な人種です。
「お前さん、主人と仲が惡かつた相だね」
 と平次。
「飛んでもない、――主人は本當によく可愛がつて下さいましたよ」
「二三日前から、出すとか、出るとか言ふ話があつた相だが」
「御冗談で――三月になつたら箱根へ湯治たうぢに行く約束はしましたが、その話を小耳に挾んで、飛んだことを言ひ觸らした者があるのでせう。本當に奉公人達といふものは――」
 自分が元奉公人だつたお直は、二た言目には、此のせりふが出るのでした。
「主人から貰ふ手當は何うなつて居るんだ」
「そんなものは御座いません。給金を貰へば奉公人ぢやありませんか、――主人はよくさう申しました。この家をお前の家と思へ、不自由なことや、欲しいものがあつたら、何でも言ふやうに――つて、ホ、ホ」
 隣の部屋に、その主人萬兵衞の、うらみを呑んだ死體のあるのさへ、お直は忘れて居る樣子です。
 最後に店から呼出されたのは息子の萬次郎でした。――不眠と不養生と、酒精しゆせいで、眼の血走つた、妙に氣違ひ染みた顏は、馴れない者には、決して好い感じではありません。
「お前さんの、昨夜歸つた時刻は、誰も知らない樣だが、本當のところは、何刻なんどきだつたらう」
 平次は、穩やかですが、突つ込んだ物の訊きやうをします。
「今朝でしたよ、辰刻いつゝ(八時)頃でせうか――」
「誰も見た者が無いのはをかしいが――」
「親父が死んで、大騷動して居たんで、氣が付かなかつたのでせうよ。――私は眞つ直ぐに二階へ行つて、昨夜から敷きつ放しの床の中にもぐり込んで了ひました」
「誰にも見られないと言ふのは可怪しい。それに、店にはお前さんの履物も無かつたやうだが」
 平次は一と押し押して見ました。
雪駄せつたは何時でも二階へ持つて行きますよ。店へ置くと誰かに突つかけられて叶ひません」
 それはあり相なことでしたが、二階へ雪駄を持つて行くのは、決して良い趣味しゆみではありません。
 が、金六が飛んで行つて見ると、雪駄――新しい泥の着いたのが、二階の格子の内に、間違ひもなく裏金を上にして竝べてありました。
 丁度そんな事をして居るところへ、ガラツ八の八五郎が歸つて來たのです。
「親分、大變なことを聞込みましたよ」
「何だ、八?」
「支配人の傳之助が、小僧を使にやつて、三百兩の現金げんなまを持出して居ますよ」
「何時だ、それは?」
「今日、――それも二た刻ばかり前」
「フーム」
「日頃、兄の物眞似で、遊びが激しいから借金こそあれ、金のある筈は無い傳之助です。それが今日に限つて三百兩も持出させたのは不思議ぢやありませんか」
 これは幾通りにも考へられますが、一番通俗な解釋は、騷ぎの大きくなる前に、兄を殺してくすねて置いた金を持出させ、火の付くやうに催促さいそくされて居る借金の一と口だけでも、まぬかれようと言ふのでせう。一番小さい小僧に持出さしたのは思ひ付きですが、權柄づくで物を言ひ付ける習慣が付いて居るので、うつかり心付けをして置かなかつたのが、ガラツ八如きにしてやられる、重大な失策になつたのです。
「野郎、神妙にせい、兄などを殺して、太てえ奴だ」
 洲崎の金六は、もう傳之助を引立てゝ來ました。まだ繩を打つたわけではありませんが、物馴れた鋼鐵のやうな手が傳之助の手首をピタリと押へて居るのです。


「あツ、それは間違ひです。叔父さんは、下手人ぢやありません」
 美しい聲――少しうはづつて居りますが、人の肺腑はいふに透るやうな、一番印象づける美しい聲と共に、十八九の娘が飛込んで來ました。
「お前はお藤、――こんな場所へ入つちやならねえ」
 金六はさう言ひ乍らも、眼は言葉の調子を裏切つて、微笑をたゝへて居ります。この娘だけが、甲州屋中での、美しい明るい存在だつたのです。
「でも、見す/\間違ひをするのを見ては居られません」
 娘は全身を金六と平次の前へさらしました。死んだ主人萬兵衞の幼友達、江戸一番と言はれた蒔繪まきゑの名人、尾張町の藤吉の娘のお藤といふのはこれでせう。
 若く美しく健康と幸福を撒き散らして歩くやうな娘で、この陰慘な家には、一番似つかはしくない存在でもあります。それだけにまた、主人萬兵衞が可愛がつても居たのでせう。
「間違ひとは何だ、お藤」
 と金六。
「でも、傳之助叔父さんは店中で知らぬ者の無い左利きで、箸と筆を右に持つのが不思議な位です。旦那樣のきずは、右の頸筋で、後ろから右手に剃刀を持つて斬つたのでせう。――そんな事が出來るものですか、傳之助叔父さんは、右手に刄物を持つと、紙も切れない位なんです」
「――」
「それに、傳之助叔父さんはあの時、土藏くらの中に入つて居ました」
「えつ、お前はどうしてそれを?」
 驚いたのは金六――いや、それよりも驚いたのは傳之助自身でした。
「朝の御飯が濟むと、そつと入つて、半刻ばかり何かして居ました。多分、お金を取出したのでせう。金箱の鍵はむづかしいから、旦那でないと、なか/\開かない相です」
 お藤の言葉には、寸毫すんがうも疑ひを挾む餘地はありません。
「それは本當か、傳之助」
 と金六。
「面目次第も御座いません。――今日に迫つた内證の拂ひ、どう工面しても三百兩とはまとまらなかつたので、兄には濟まないと思ひましたが、朝の忙しいところを狙つて、そつと藏の中に忍び込み、違つた鍵と釘で大骨折で金箱を開け、三百兩取出したに相違御座いません。その證據は、開けるには何うやら開けましたが、あとを閉める工夫が付かないので、金箱はそのまゝぢやうをおろさずにあります」
 打ちしをれた傳之助に嘘がありさうもありません。
「三百兩は何處へやつた」
「そのうちに兄が殺されて、家中が騷ぎになりました。金を持つて居ると疑はれるもとですが、私が出掛けるわけにも參りません。工夫くふうに餘つて、口の堅い、一番小さい小僧に八幡前まで持たしてやりました。――金を取出したのは惡う御座いますが、兄をあやめるやうな私では御座いません」
 何と言ふことでせう。平次の明智を働らかせる迄もなく、たつた十九のお藤が、即座に傳之助に掛る疑ひを解いて了つたのでした。
 次は、誰でせう。


「親分、此野郎が逃出しましたよ」
 ガラツ八の八五郎が、番頭の襟髮を取つて引立てゝ來たのはもう申刻なゝつを廻る頃でした。
「何だ、文次ぢやないか」
 金六は飛付くと、八五郎の手から※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ぎ取るやうに、その顏を擧げさせます。
「――」
 青いやるせない顏と、狐のやうなキヨトキヨトした態度は、金六の心證を、最惡の方面へ引摺ひきずり込みます。
「何處へ逃げる積りだ、――手前てめえ覺えがあるだらう」
「――」
「白状して、お上のお慈悲を願へ、馬鹿野郎」
 金六の腕は、腹立紛れに、文次の胸倉を小突き廻します。
「私は何にも知りません」
「知らない者が逃出すかい、太い野郎だ、――着物の血を洗つたと聞いた時から變だとは思つたが眞逆まさか逃出すとは思はなかつた。飛んでもねえ奴だ」
 金六はすつかりムキになります。
「金六兄哥あにき、その番頭は少し臆病過ぎはしないか、――顫へてるぢやないか」
 平次は注意しましたが、金六いつかな聽くことではありません。
「芝居だよ、これは。惡者もこれ位こふを經ると、いろ/\な藝當をする」
 金六は双手を掛けてさいなみ始めました。
「親分さん、――こんな事を言つちや惡いでせうか」
 お藤はたまり兼ねた樣子で、薄暗い部屋の中へ、邪念じやねんの無い――が、おろ/\した顏を出します。
「お藤さん、構はないから、思ひ付いた事は皆な言つて見るが宜い、――飛んだ人助けになるかも知れない」
 平次は精一杯の柔かい調子で、この聰明さうな處女をとめを小手招ぎました。
 奉公人にしては贅澤な銘仙のあはせ、赤い鹿の子の帶を締めて洗つたばかりらしい多い髮を、無造作に束ね、おびえた小鳥のやうに逃げ腰で物を言ふ樣子は、不思議な魅力を撒き散らします。
「文次どんは下手人ぢやありません。お店から一寸も動かなかつたんですもの」
「それだけか」
「それに、洗つた着物の血はすそへ附いて居りました。後ろから旦那を斬つたのなら、返り血は顏か肩か胸へ附く筈です。あれは矢張り騷ぎに驚いて驅け付けた時、裾へ附いた血です」
「――」
「文次どんは、店中の評判になつて居るほど臆病なんです。着物の血を洗つてとがめられたので、すつかり脅えて、今度は縛られるに相違ないと思ひ込んだんでせう。――逃げ出したのは、この人の臆病のせゐで、旦那を殺した爲ぢやありません。嘘だと思ふなら、店の手代、小僧さん達に聞いて御覽なさい。――文次さんは御飯の後で店から少しも動かないのは、私もよく知つて居ります」
 錢形平次に一句も言はせないやうな明察です。この不思議な娘の辯護を、文次はなんと聽いたでせう。金六のたくましい腕の下にさいなまれ乍らも、兩手を合せて、ポロポロと泣いて居るのでした。
「娘さんの言ふ通りだ。金六兄哥、その番頭さんは人を殺せないよ」
 と平次。
「チエツ忌々しい野郎だ」
 金六は突飛ばすやうに、文次を放してやりました。


「錢形の、これぢや何うにもなるまい、一度引揚げるとしようか」
 家中に灯が入ると、年寄の金六は、里心が付いたやうに、斯う言ふのでした。
「いや、もう一と息だ。――俺は何だか、次第にわかつて來るやうな氣がする」
 平次は少し瞑想的になつて居ります。
 店の次の八疊、古い道具の多い部屋ですが、灯が點くと、それでも少しは華やかになります。
「八、お直を呼んでくれ」
「合點」
 八五郎は柄に似合はず輕快に飛んで行くと間もなく妾のお直を伴れて――いや、お直に引摺られるやうに入つて來ました。
「お前さんの手文庫てぶんこの中から、小判で二百三十兩ほど出て來たが、あれは何うした金だい」
 平次はこの念入りに化粧した顏を、出來の惡い人形でも見るやうな冷淡な眼で、ツクヅク眺め入り乍ら問ひかけました。
「私の小遣ですよ」
「大層多いやうだが――」
「でも、あれ位は持つて居ないと心細いでせう。ホ、ホ」
 隣室に萬兵衞の死骸のあることを、この女は又忘れた樣子です。
「お前さんは萬兵衞と喧嘩をして居た、どうかしたら近いうちに捨てられたかも知れないぜ――」
「冗談でせう、親分さん」
「お前は、この家の跡取あととりの萬次郎とは仲が惡かつた相だね」
 平次は話題を一轉しました。
まゝしい中ですもの、それはね――」
 白粉の首を襟に埋めて、妙に感慨無量なポーズになります。
「主人には嫌はれ、息子とは仲が惡い、――お前の行くところは無くなつて居た」
「そんな事はありませんよ、親分」
「それぢや訊くが、今朝は主人と睨み合つて朝飯もそこ/\に、何處かへ姿を隱した相だが、――あの騷ぎの起るまで四半刻ばかりの間、何處に居なすつた」
「私の部屋ですよ」
「誰か見て居たのか」
「いえ」
「誰も見ないとすると、自分の部屋に居たか、湯殿に居たか判るまい」
「親分、そりや可哀想ぢやありませんか。私は、そんな大それた女ぢやありません」
「氣の毒だが、疑ひは皆なお前の方へ向つて居る」
「そんな、そんな、馬鹿なことがあるものですか、私は口惜しいツ」
 お直は到頭泣き出して了ひました。白粉の凄まじい大崩落だいほうらく春雨はるさめに逢つた大雪崩なだれのやうなのを、平次は世にも眞顏でぢつと見詰めて居ります。
「親分さん、――それぢやア、お置さんが可哀想ぢやありませんか、そんなにいぢめて――」
 お藤は見兼ねた樣子で、又入つて來たのです。
「お藤さんか、氣の毒だが、主人殺しは此女より外に無い」
「いえ、大變な間違ひです。お直さんは良い人です。――それに旦那が死ねば、此先お直さんの面倒を見てくれる人がありません、萬次郎さんとは仲が惡いし」
 お藤は矢張り一番壺にはまつた事を言ひました。
「で――?」
「家中の者が皆な疑はれても、お直さんだけには、疑ひが掛らない筈です」
「居間に一人で居たのを誰も見た者は無い」
「それだけは嘘です、親分さん、――聽いて下さい。お直さんはあの時、裏口で私と愚痴ぐちを言つて居たんです。御飯の後四半刻ばかり、旦那の事を彼れこれ言つたので、申上げ難かつたのでせう、――ねえ、お直さん」
「――」
 お直はうなづきました。一言も口はきゝませんが、その眼には、感謝らしい光が動きます。
「御飯の後、あの騷ぎのある迄、私とお直さんは一緒でした。どんな事があつても、お直さんけは下手人ぢや御座いません」
 屹としたお藤の顏、その美しさも格別ですが、人に疑はせるやうな陰影は微塵もありません。


「こいつは驚いた、――外から曲者が入つた筈が無し、家の者であやしいと思つたのが、一人一人無實だとすると、下手人はお前さんより外に無いぜ」
 ガラツ八の無作法な指が、お藤の胸を眞つ直ぐに指しました。
「馬鹿、何と言ふことをぬかす。――もう一人、一番怪しいのが居るぢやないか、若旦那を連れて來い」
 平次は少し機嫌をそこねて居ります。默つてうな垂れるお藤――自分の出過ぎた態度を後悔して居る樣子が、いかにもいぢらしい姿でした。
「私は彼方へ參りませう」
 と、お藤、もう立ちかけて居るのを、
「いや、居て貰つた方が宜い」
 平次はさう言つて押へ乍ら、一方若旦那の萬次郎を迎へました。
「お前さんの歸つた姿を見た者が無いと、少し話が面倒になるが――」
「へエ――、驚いたなア、そんな事で親殺しにされちや叶はない」
 宿醉ふつかよいも醒めて、萬次郎もさすがに閉口した樣子です。
「朝のうちで、誰も店に居ない時と言ふと、飯時より外に無い。その時そつと入つて、風呂場へ行つても、氣の付く者は無い筈だ」
 平次の論告は、相變らず峻烈でした。いつもの、出來るだけ人を罪に落さないやうにする調子とは、何と言ふ違ひでせう。
「そんな事が出來るものですか、飛んでもない」
 萬次郎もさすがに腹に据ゑ兼ねた樣子です。
「お前さんは、親旦那と仲が惡かつた、――その上惡所通ひの金にも詰つて居る」
「――」
「親旦那が亡くなれば、この身代が自分の物になつた上、馴染なじみの神明藝者お染を入れても、誰も文句を言ふ人は無い」
「えツ、默らないか。岡つ引だからと思つて聽いて居ると、何て事を言やがるんだ。この萬次郎は、深川一番の不孝者だが、まだ親殺しをするほどの惡黨ぢやねえ」
 氣の勝つた萬次郎、昨夜の酒が激發したものか、思はず平次に喰つてかゝります。
「萬次郎さん、――お願ひだから、そんなに腹を立てないで下さい。錢形の親分さんは、お上の御用で仰しやるんぢやありませんか、――少し位は極りが惡くても、今朝も曉方あけがたに歸つて來て、物置の梯子はしごから屋根へ飛付き、格子を外してそつと入つた事を話して了つた方が宜くはありませんか」
「――」
 萬次郎は默つてお藤の方を見やりました。
「二階からは、お勝手に居る人達に顏を見られずに、風呂場へ入れません。――いつものやうに、旦那に小言を言はれるのが嫌さに、曉方歸つて來て屋根傳ひに二階へ入つた事さへ言つて了へば、何でもないのに」
 お藤に素破拔すつぱぬかれると、萬次郎はそれに抗らふ氣力もなく、がつくり首を落して、平次の前に二つ三つお辭儀をしました。
「どうも濟みません、ツイ向つ腹を立てゝ、これが私の惡い癖で――」
「正直者は腹を立て易いよ、――お藤さんの言ふのに間違ひはあるまいね」
「へエ――」
 平次は斯う解ると、我意を得たりと言つたやうに莞爾とするのでした。
「冗談ぢやないぜ、親分、殺し手が無くなつた日にや、引込みが付かないぢやないか」
「八、俺にはよく解つたよ、これは自害でなきや鎌鼬かまいたちかも知れないよ」
 平次は斯んな事を言ふのです。
「風呂場は外から鍵が掛つて居た相ですよ親分、自殺した者がそんな藝當が出來るでせうか」
「騷ぐな八、今によく解る。とに角、若旦那の部屋を見せて貰ひませう、――それから後で、下女の何とか言ふのと、お藤さんの荷物を見せて貰ひませう」
 平次は立上ると、金六と八五郎と萬次郎をしたがへるやうに、若旦那の部屋――裏二階へ登りました。灯を點けて見ると、成程格子は樂に外せて、屋根から直ぐ物置の梯子に足が屆きます。雪駄せつたに附いて居る泥が、屋根と梯子に附いて居ないのが不思議と言へば唯一つの不思議ですが――
「金六兄哥――俺は若旦那の通つた道を行つて見て來る、兄哥は若旦那や八と一緒に、此處で待つて貰ひ度いが――」
「宜いとも――」
「少し長くなるかも知れないが心配しないやうに頼むぜ」
 平次は言ひ捨てゝ、屋根から梯子へ、それから靜かに裏庭へ降り立ちました。
 四方はすつかり暗くなつて、お勝手の方からはかまどの灯がゆら/\と見えるだけ、この騷ぎで、今晩は風呂も立たず、奉公人一同は、店の方に集つて小さくなつて居る樣子です。


「あツ」
 お藤は思はず悲鳴を――いや悲鳴と言ふよりは、もつと深刻しんこくな、小さな叫びをあげました。
「お藤さん、――燒く物はそれで皆なか」
「――」
 誰も居ないお勝手、かまどで書いたものを燒いて居ると、いきなり、後ろへ錢形平次が立つて居たのです。二人の顏は近々と逢ひました。お藤の顏は火のやうなうらみに燃えましたが、平次の靜かな瞳に見詰められると、その激しさが次第に解けて、何時の間にやら、赤ん坊のやうに泣きじやくつて居たのです。
 涙に濡れた青白い頬、その平面ひらおもてをクワツと竈の火が照して言ひやうもなく惱ましいのを、平次は手を擧げて招きました。
「此方へ來るが宜い、――此處では人に聽かれる」
 お藤は立上がると、フラリとよろけましたが、やがて心を押し鎭めたものか、平次の後に從ひました。
 薄寒い二月の夜、月が町家の屋根の上から出かゝつて、四方は金粉きんぷんを撒いたやうな光がくんじます。
「お藤、――俺には皆な解つて居る、が、言はなければ本當にしないだらう。此處へ掛けて聽くが宜い、俺の話が濟んだら、お前にも訊くことがある」
「――」
 お藤は默つて捨石の上に腰をおろしました。
「お前は風呂場へ入つて行つて、主人の萬兵衞に我慢のならない事をされた。で、思はず側の箱から傳之助の剃刀かみそりを取上げて、萬兵衞の頸筋を切つた、――お前は直ぐ飛出した。まさか萬兵衞が、あんなきずで死ぬとは思はなかつたらう――」
「いえ、――死んでくれゝば宜いと思ひました」
 お藤は始めて口を開きました。
「よし/\、それならそれにして置かう。間もなく死體が見付けられると、お前は逃れるだけ逃れようと思つた。――氣が附くと後ろから斬つた時、萬兵衞が振り返つたので、お前の髮へ少しばかり返り血が掛つた。あの騷ぎの中に、お前は髮を洗つたらう、お前の髮がれて居るので俺は氣が付いたよ、が、お前はどう見ても惡人らしくはない」
「――」
「俺はわざと、いろ/\の人を疑つた。傳之助が危くなるとお前はたまり兼ねて飛出して助けた」
「――」
「番頭の文次が危なくなると、又ぢつとしては居られなかつた――お前は自分の罪を人にかぶせることの出來ない人間だ」
「――」
「お直が疑はれた時は、お前はお直と一緒に、裏口で四半刻も話して居たと言つた、が、あれは嘘だ。お直は矢張り自分の部屋に居たが、俺に問ひ詰められると、誰も見て居た者が無いので言ひ譯が出來なかつた。あの女はかしこくないから、お前が自分の疑はれる時の用意に、裏口で二人話して居たと言ふと、喜んでそれに合槌あひづちを打つた。お前はお直を救ふと一緒に、自分も救ふ積りであんな細工さいくをしたのだらう。大概の者は騙されるかも知れないが、さう言はせるやうに仕向けた俺は騙せない。お前の細工に合槌を打つたことは、お直の開け放しの顏を見ただけでも解る」
「――」
 恐ろしい平次の明智に打ちひしがれて、淺墓あさはかな細工をした自分が耻かしくなつたのでせう。お藤は默つて首を垂れました。美しい月の最初の光りが、この血に染んだ處女むすめを、世にも淨らかな姿に照し出して居ります。
「お前は裏口に四半刻も居たと言つたくせに、文次が店から動かないのを見たと言つた。裏口から店は見えない筈だ。それから傳之助が藏へ行つて居るのを見たと言つた。それも嘘だ。裏口からは藏の戸前が見えない、風呂場からはよく見えるが――」
「――」
「若旦那の萬次郎も、親殺しの疑ひを言ひ解く道が無くなるとお前は助け舟を出した。萬次郎が時々父親の目を盜んで屋根から入るのを知つて今朝も屋根から入つた、――風呂場の前は通らないからと言つた、が、それは嘘だ。昨夜の雨で雪駄の裏はひどくどろが附いてるが、梯子にも屋根にも泥は無い。今朝に限つて萬次郎は店から入つて居る」
「――」
「お前が萬兵衞を殺したのは何の爲かわからない、が、多分貧乏で名高いお前の父親が、若い時の友達だつた萬兵衞に、金の事で苦しめられて居るのだらう。――お前の荷物を調べると言つたのは、何か證據しようこが欲しかつたのだ。いや、――お前の證據を隱すところを見たかつたのだ」
「――」
かまどで燒いたのは何だ」
「――」
「借金の證文か」
「いえ」
 お藤は觀念し切つた顏を上げました。


「何だ、言つてくれぬか」
 と平次。
「親分さん、私をしばつて下さい。私は親の敵を討つたのですが、――人一人殺して助からうとは思ひません」
 お藤は靜かに立上がると、自分の手を後ろに廻して、平次の側へ寄つたのです。
「親の敵?」
「母の敵――、あの萬兵衞は鬼とも蛇とも言ひやうの無い男でした。父とをさな友達なのに、父が江戸一番の蒔繪師まきゑしと言はれ、後の世まで名が殘るほどの仕事をして居るのをねたみ、自分はこんなに身上が出來て居るのに、長い/\間たくららんで、父をひどい目に逢はせました」
「――」
「要らないと言ふお金をうんと貸して、十年も放つて置いた上、利息に利息を附け、とても拂へさうも無いたかを、三四年前になつて不意に拂へと言ひ出したのです」
「成程」
「萬兵衞は、父と若い時張合つた母を横取りするのが目當でした。私の口からは申されませんが、三年前、母は萬兵衞のわなに落ちて、到頭自殺して了ひました」
「――」
「それにもりずに、今度は私を奉公によこせと言ふ難題です。――證文が入つてるので、父にもどうにもならず、去年の暮から此家へ行儀見習といふ名目で來て居りますが、萬兵衞は、間がな隙がな、私を――」
「よし、解つた。手籠めにされ相になつて、ツイ剃刀かみそりで斬つたのだらう」
「いえ敵を討ち度い心持で一パイでした」
「燒いたのは證文か」
「え、――それから母の手紙」
「――」
「親分さん、私を縛つて下さい」
 お藤はもう泣いては居ませんでした。觀念の顏を擧げると月がその美玉の清らかさを照して、平次の眼にも神々しくさへ見えます。
「俺には縛れない、――俺が默つて居さへすれば、これは江戸中の御用聞が來て洗ひ立てゝも解る道理は無い。――宜いか、お藤、俺の言ふ事を聽くのだぞ。こんな家に一刻も居てはならぬ。子分の八五郎に送らせるから、此足で直ぐ父親のところへ歸れ。御用聞冥利みやうりに、お前を助けてやる」
「――」
「それから、誰にも言ふな、この平次は御用聞だが、親の敵を討つた孝行者を縛る繩は持つて居ない。宜いか、お藤」
「親分さん」
 平次に肩を叩かれて、お藤は身も浮くばかりに泣いて居りました。そのわなゝく洗ひ髮を照して、何と言ふ美しい春の月でせう。
        ×      ×      ×
 八五郎にお藤を送らせ、金六には別れを告げて、平次は八丁堀の役宅に、與力笹野新三郎を訪ねました。
「どうだ、平次、下手人は解つたか」
 笹野新三郎は、この秘藏の御用聞の手柄てがらを期待して居る樣子です。
「平次一代の不覺、――下手人は擧りません。おわびの印、十手捕繩を返上いたします」
 平次はさう言つて、懷中から出した銀磨の十手と、一括の捕繩を笹野新三郎の前に差出しました。
「又何か縮尻しゆくじりをやつたのか、仕樣の無い男だ――まア宜い、奉行所の方は、鎌鼬かまいたちにして置かう」
「鎌鼬は剃刀を使ひません」
「それでは自害か――自害に下手人のある筈は無い、十手捕繩の返上は筋が立たぬぞ」
「へエ――」
「ハツ、ハツ、ハツ、困つた男だ」
 笹野新三郎は笑ひ乍らそびらを見せました。昔の捕物には、斯う言つた馬鹿な味があつたものです。
「親分、あの娘は大した代物しろものだね。あんなのは滅多にねえ、――何だか知らないが父親と手を取り合つて泣いて居たぜ」
 尾張町から歸つて來たガラツ八は、八丁堀の役宅門前で平次に逢つたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第六卷 兵庫の眼玉」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1936(昭和11)年2月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月8日作成
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