錢形平次捕物控

死の矢文

野村胡堂





 相模さがみ屋の若旦那新助は二十一、古い形容ですが、日本橋業平なりひらといはれる好い男の癖に、去年あたりからすつかり、大弓につてしまつて、大久保の寮に泊り込みのまゝ、庭の※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちで一日暮すことの方が多くなりました。
 主人の喜兵衞はそればかり心配して、親類や知己に頼んで、縁談の雨を降らせましたが、新助はそれに耳をかたむけようともしません。
 大久保の寮の留守番には、店中の道樂者茂七を置いて、出來ることなら、若旦那新助の趣味しゆみを、歌舞伎芝居なり、江戸小唄なりに振り向け、間がよくば、遊びの一つも覺えさせようとしましたが、それが大當て違ひで、道樂者の茂七までが、木乃伊ミイラ取りが木乃伊になつて、大弓に凝り始めたといふ情報が、大久保にやつてある下男の權治の口から店の方へ傳へられました。
 相手とも師範ともなるのは、同じ大久保のツイ近所に住んでゐる浪人者佐々村佐次郎、これは二十六七、男が好く、器用で、字もよく書き、弓もよく引き、法螺ほらもよく吹く、一かう身は持てないが、その代り遊び友達には此上もなく調法な男でした。
 その日も晝頃から始まつて、申刻なゝつ前にはかなり草臥くたびれましたが、近頃油の乘つて來た新助は、なか/\止さうと言ふことを言ひません。
「熱心も宜いが、お茶を淹れるのを忘れては困るな、俺はのどでも濡らして來る」
 佐々村佐次郎は町人風なぞんざいな口を利いて、そゝくさと肌を入れると、苦笑を殘して立ち上がりました。
 十月といつても、半日陽に照りつけられると、全く樂ではありません。
 それから又暫らく――。
「若旦那、お茶でもれさせませうか。當る當らないと言つても、凡そ程合ひのあるもので、――今日はまるでまとの方が逃げて居るやうですぜ」
 茂七はおどけた顏をしました。主人にこんな事を言ひ乍ら、少しも怒らせないやうな、なめらかな調子があります。
「無禮なことを言ふな、茂七、――お前が見て居るから當らないんだ。向うを向いて居るがいい。一本で金的を射止めるから」
「へエ」
「お前の顏を見ると、大概の的は逃げ出すよ。後向になつて御覽」
「矢を持つて驅けて行つて、的へ突つ立てるんぢやないでせうね、若旦那」
「馬鹿にしてはいけない。私は本當に怒るよ」
「へエ/\斯んな工合に?」
 茂七は神妙に後向になりました。
「顏も其方へ向けるんだよ。眼の隅から、チラチラ見たりしちやいけない」
「へエ――驚きましたネ、――的の方が飛んで來て、食ひ付きやしませんか」
「――」
 冗談を言ふ茂七には取り合はず、新助は本矢に近い頑固ぐわんこやじりが入つた稽古矢を一本選ると、その根の方へ、袂から取出した矢文――小菊へ細々としたゝめて、一寸幅ほどに疊んだのをキリヽと結び付け、手馴れた弓につがへて、ひやうと射ました。
 矢は※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちの上を遙かに越えて、その後のまばらな木立を拔け、隣の庭――植木屋の松五郎の庭――へと飛んで行きます。それからほんの暫らくの後――。
「もう宜いんですか、若旦那」
 さう言ふ茂七の聲と、植木屋の庭から聞える不氣味な悲鳴と一緒でした。
「――」
 新助は何とも知れぬ豫感に、サツと顏色を變へます。
「何でせう? 若旦那」
「――」
 新助は立ち盡しました。※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちの上を越して、隣の庭へ射込んだ矢は、何時でも松五郎の娘のお駒が、間もなく木戸を開けて、『矢が飛んで參りました』――さう言ひ乍ら、袂でくるんだやうにさゝげて、新助の手へ渡してくれるのですが、今日は何時まで經つてもお駒の姿は見えません。
 そればかりでなく、隣の庭は次第に騷がしくなつて、泣き聲や、人を呼ぶ千切れ/″\の聲までが、筒拔けに聽えて來るのでした。


「若旦那」
「行つて見よう、茂七」
 二人は※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちの後ろへ廻ると、木戸を押し開けて、植木屋松五郎の庭に飛込みました。が、
「あツ」
 たつた一と目で、其處に釘付けにされたのも無理はありません。松五郎の娘お駒、山の手一番と言はれた十九の艶姿あですがたが、無慙大地の上に仰向に倒れて、玉を延べたやうに美しい咽喉、少し左寄りの方へ、矢文を結んだまゝの矢が、箆深のぶかく突つ立つて居たのです。
「何うした何うした」
 生垣を一と跳びに、後ろから飛んで來たのは佐々村佐次郎――。あまりのむごたらしさに、ハツと息を呑みました。三人の眼玉が飛出さなかつたのが不思議な位です。
「お駒――」
「確りしておくれ」
 お駒を抱き上げたのは母親のお辰と、客分に置いた親類の娘お雪の二人でした。
「誰がこんな事をしたんだえ、お駒」
 お駒の白い首筋を染めて、襟元へ溜つた血が、母親の胸へ膝へとあふれかゝります。
「茂七、外科を呼んで來い」
 一番先に理性を取戻したのは、さすがに浪人者の佐次郎でした。
「お駒、――確りしておくれ、――死んぢやいけないよ、――お駒」
 半狂亂になつた母親、膝の上へ抱き上げたお駒の、次第に頼み少くなるのを見ると、犇々ひし/\と抱きしめ乍ら、自分の身體と一緒に搖ぶりました。
「お駒、――誰だい、こんな目に逢はせたのは」
 が併し、お駒はもう正氣もありませんでした。うつろな眼を開いて、わなゝく唇が少し動くと、宙に物の影を追ふやうに、
「若旦那――若」
 たつた一と言、さう言つたまゝ、ガツクリ首を垂れてしまつたのです。
「お駒」
「お駒さん」
 母親とお雪は左右から取縋とりすがりました。が、もうこと切れては何うすることも出來ません。
 その時、――
「何? お駒がどうしたと?」
 飛んで來たのは、父親の松五郎、少し醉つて居る樣子ですが、一と目、此の場の樣子を見ると、お駒の側へ行く前に、
「やりやがつたな、畜生ツ」
 恐ろしい勢ひで新助へ掴みかゝります。
「松五郎、馬鹿なことをするな」
 驚いて二人の間へ割つて入つたのは佐々村佐次郎でした。
「馬鹿な事ぢやねえ、娘の敵を討つんだ、退いてくれ」
 腰から拔いた植木鋏うゑきばさみを當座の武器に、新助目がけて振り冠つたのです。
「矢が※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちを越えたのは過ちだ。つまらない事をするな」
 佐次郎は後ろから羽掻締めに、暫らくは揉み合ひます。
「町人が弓なんか玩具おもちやにするから、こんな事を仕出かすぢやないか。何べんも文句を持込んだのを調戯からかひ面で聽きやがつて、こんな出來の良い娘を、玉無しにしてしまつて畜生ツ、何うするか見あがれツ」
 五十男の一こくな松五郎は、本當に鋏位は新助に突つ立て兼ねません。佐々村佐次郎、それを押へるのが本當に精一杯でした。
「――」
 新助はしをれ切つて、何時の間にやら、生濕なまじめりの土の上へ坐つて居りました。言ひ交したお駒を殺した激動に打ちのめされて、松五郎の憤怒などは、素より眼中にありません。
 茂七に追ひ立てられるやうに、其處へ外科が來ましたが、こと切れた娘の死骸へ、魂を吹込むすべはありません。


「錢形の親分が此處に居なさるのも、なんかの廻り合せだらう。檢屍けんしの濟む前に、一と通り見て下さい」
 百人町の重吉は良い男でした。ガラツ八の八五郎とは無二の仲で、嘗ては錢形平次の世話になつたこともあるので、御用聞根性を忘れて、斯う平次の智惠を借りようとしたのです。
 近頃はちよい/\凄い押込があつたので、その足取を辿るともなく、百人町の重吉の家へ來合せた平次。大久保小町と言はれた、植木屋松五郎の娘お駒が、稽古矢けいこやに射られて死んだと聽いて、さすがに商賣氣を離れた好奇心は動きます。
「稽古矢で射られて死んだと言へば、何の變哲へんてつもないが、――坊主矢で射られた位ぢや人間はなか/\死ぬものぢやねえ。兄哥さへよかつたら、ちよいと覗かして貰はうか」
「そりや、願つてもないことだ、親分」
 重吉は案内役に立上がりました。續く平次、ガラツ八。
 植木屋は直ぐ其處、中へ入ると、全く眼も當てられぬ愁嘆場しうたんばです。
 若旦那の新助を撲ち殺して娘の敵を討つ――といふ松五郎を、佐々村佐次郎と平次が、どんなに骨を折つてなだめたことでせう。檢屍の濟まぬ死體は、まだ家の中へ入れるわけには行きませんが、兎にも角にも、松五郎を家の中へ押し込め、人心地もないほど興奮する新助は、茂七を付けて寮へ引取らせ、直ぐ樣親の喜兵衞に來るやうにと、日本橋の相模屋さがみやまで使の者を出させました。
「八、これから少し調べて見よう、手傳つてくれ」
「何をやりやいゝんで、親分」
「第一番に、後ろへ廻つて、娘の身體を起してくれ」
「斯うですか、親分」
 八五郎は後ろから娘の死骸を抱き起しました。頸動脈から噴出した血は、首から襟へ胸へと、殆んど半身をひたして、碧色みどりいろの艶をさへ帶び、娘の蒼白い顏は、不意を喰つたにしては、少し深刻な恐怖を刻んで、美しさを破壞しない程度乍らも、物凄くゆがんで居ります。
「矢へは手を付けなかつたらうな」
 平次は四方あたりを見ました。
「誰も手を掛けません」
 母親のお辰は、涙の隙から、僅かに引取りました。矢の根の方へ近く結んだ文が、鮮血に染んで見る影もありませんが、誰かゞその上から握つたらしく、結び目が亂れて、少し滅茶々々になつて居るのです。
「八、をかしいとは思はないか」
「へエ――」
 八五郎はキヨトンとして居ります。
「錢形の親分、向うから飛んで來た矢なら眞つ直ぐか、下向きに立つ筈だが」
 重吉はさすがに氣がついた樣子です。
「その通りだよ兄哥あにき、矢は上向きに突つ立つて居る、――しやがんだところを後からやられなきや、こんな工合になるわけはねえ」
 平次は矢を拔いて見ました。何の他愛たわいもありません、ほんの頸動脈をやられただけです。
「おや?」
 矢の根が普通の稽古用のではなかつたのです。
「新助はたしなみだと言つて一本づつはそれを持つて居るが――惡いものを射たな」
 佐々村佐次郎は獨り言ともなく言ひます。その間に平次は血に染んだ結び文を、丁寧に解いて見ると、
 ――『今夜いつもの刻限に木戸のところで逢ひたい――』
 といふ他愛たわいもないもの。お駒どの、新の字と署名した、何の疑もない代物です。
「お前さん達は騷ぎのあつた時、何處に居なすつた」
 平次はまだ泣きじやくるお辰に訊ねました。
「お勝手で晩の支度をして居ましたよ」
 お辰はその時の事を思ひ出して又ひとしきりしやくり上げました。
「お前は?」
「縁側で縫物をして居ましたよ」
 お雪はスラスラと應へて、平次をふり仰ぎます。二十一二でせう。その當時にしては少しき遲れ氣味で、死んだお駒と比べるせゐか、あまり見よげな娘ではありません。
「お駒は?」
「お隣で弓が始まると、何か用事をこしらへて裏へ出ますよ。だから斯んな目に逢つたんでせう」
 お雪は少し忌々いま/\しさうでした。
「親方は何處に居たんだ」
「畑で植木の手入れをして居た筈ですが――」
「筈?」
「時々仕事の合間を見て飮みに行くから、當てになりませんよ」
 女房のお辰は妙なところで日頃の憤懣ふんまんを洩らしました。
「今日も飮んで居たやうだな、八」
はさみをモギ取る時、奈良漬ならづけ臭いのをウンと吹掛けられましたよ」
 ガラツ八は酸つぱい顏をして見せます。
「この手紙で見ると、新助とお駒は、時々逢引あひびきして居たやうだが、お前さんは、知らなかつたのかい」
「知らないでは御座いませんが、若い者は止めても聽き入れちやくれません」
 お辰は自信のない調子です。恐らく相手は大家の若旦那なので、見て見ぬ振をしてゐたものでせう。
「ところで變なことを訊くやうだが、あれは親方の本當の子かい?」
 平次はお駒の美しい死顏を指しました。
「――」
「あんまり似なさ過ぎる。が、お神さん、本當のことを言つてくれ、どうせ後で知れることなんだから」
「私の連れ子ですよ、親分」
「といふと?」
「あのが二つの時前の亭主に死別れて、此處へ連れ子を承知で二度目の嫁入しました。でも、家の人は、それは/\お駒を可愛がつてくれました。――十七年も手鹽てしほにかけて育てたんですもの」
 お辰はそれとなく夫の松五郎の爲に辯解して居ります。
「これは?」
 平次の指はお雪を差しました。
「主人のめひですよ」
 美しい養子とみにくい姪と、此邊にも因縁がからんでゐさうです。


「親分、歸りませうか」
 ガラツ八は大きな欠伸あくびまでして見せました。たかゞ稽古矢の間違ひで人を一人死なせた位のことで、日の暮れるのも構はず、植木屋の庭と相模屋の寮から離れようともしない、親分の平次の態度が不思議でたまらなかつたのです。
「待ちな、八、今晩はきつと面白いことがあるから」
「へエ――、どんな面白いことで?」
「あの松五郎は一と通りの男ぢやねえ、三道樂の修業が積んで、人間を叩き上げてゐるから、あれ程の娘を殺されて、唯で引込む筈はねえ」
 平次は其處までにらんでゐたのです。
「金にする積りで?」
「それも五十や百の金ぢやあるめえ」
「へエ――、太てえ親父があるものですね」
「太いか細いか、もう少し經つて見なきや解るまい」
 平次はなか/\歸る樣子もありません。
 それから半刻はんときばかり。
「おや、相模屋の主人が來ましたよ、番頭と二人で」
 ガラツ八は平次の袖を引きます。
「靜かにするんだ」
 三人は平次を中に、れ縁に腰を竝べました。
 中は六疊の一と間、檢屍の濟んだ死骸は、まだくわんにも納めず、煎餅せんべい布團の上へ北枕に寢かし、二枚折屏風びやうぶを逆樣に、手習机を据ゑて駄線香をフンダンにいぶし乍ら、松五郎はその前に神妙に膝小僧を揃へ、ポロポロと涙をこぼしては、お茶にまぎらせた湯呑の冷酒をあふつて居ります。
「相模屋さんがお見えだよ、お前さん」
 お辰は後ろから聲を掛けました。
「何を?」
 振りあげた顏の前へ、もう相模屋喜兵衞は恐れ入つて坐つてゐました。年の頃五十七八、大町人らしい恰幅かつぷくで、後ろに從へた優さ男の茂七とは、對蹠的たいしよてきに堂々として居ります。
「親方、――何にも言はない、――伜に代つて私が詫びます。どうか許してやつて下さい」
「――」
 喜兵衞はピタリと疊の上へ兩手を突きました。が、松五郎は血走る眼を擧げてジロリと見たつ切り一言も言ひません。
「あんな綺麗な一人娘に死なれて、親方の氣持はどんなだらう、考へただけでも、私も胸が痛くなる――どんな事をされても決してうらみとは思はない――が」
「どんな事をされてもかい」
 松五郎の血走る眼は又光ります。
「伜も惡氣でした事ぢやない。其處を何とか勘辨してやつて下さい。親方、頼みます」
 喜兵衞は本當に七重の膝を八重に折りました。
「ならねえよ」
「え?」
「勘辨などは思ひも寄らねえ、――なア、相模屋さん、あつしはケチな植木屋、お前さんは江戸の長者番附にもるほどの分限者ぶげんしやだ。言はゞ提灯に釣鐘つりがね、――それは判つて居るが、思ひ合つた二人の仲、目をつぶつて許してやつたら、こんな事にはならなかつた筈だ」
「――」
「仲を割かれて、危ない矢文などを飛ばすから斯んな事になるんぢやねえか。なア、相模屋の大將、――若旦那がおめえさんへ、お駒と夫婦になりたいと言つた時、『あんな貧乏人の娘を貰つちや世間や親類方の手前も惡い、せめて吉原の華魁おいらん、入山形に二つ星の名ある太夫でも請出して來い』――と言つたさうぢやないか。貧乏人の子かは知らないが、お駒は生無垢きむくの素人娘だ。賣女ばいた夜鷹よたかおとるやうに言はれて、親の俺はどんな心持だと思ふ」
「それを言はれちや、親方」
「お駒は身でも投げ兼ねない樣子だから、逢引あひびきも見て見ぬ振をして居たんだ。――こんな思ひまでさせられた上、娘を殺されて引つ込んで居られると思ふか、ヤイ」
「親方」
 松五郎の激怒の前に、喜兵衞は口も利けません。
「やイ、の面下げて來やがつたんだ。禿茶瓶はげちやびん唐變木奴とうへんぼくめ、詫が言ひたかつたら、せめて伜の首でも持つて來やがれ、手前てめえ雁首がんくびまで欲しいとは言はねえ」
 松五郎は湯呑の冷酒をガブりとあふると、中腰になつて喜兵衞を睨み据ゑます。
「親方、何と言はれても一言もない。重々私が惡かつた、――改めて人でも頼んで詫を入れませう。今晩のところは私の心持が濟むやうに、せめて線香でも上げさして下さい」
「ならねえ」
 膝行ゐざり寄る喜兵衞は、松五郎の手に彈き飛ばされました。
「それぢや、これだけでも受けて下さい。ほんの私の寸志、香奠かうでんの代りだが――」
 帛紗ふくさのまゝ押しやつたのは、どう少く見ても、百兩は下らなかつたでせう。が、それを見ると松五郎の忿怒は爆發點に達しました。
「何をしやがる。人の命まで金で買はうとしやがる、金持根性はそれだから氣に入らねえよ。申譯がないと思つたら、腹を切るなり坊主になるなり、せめて娘があれほどまでに思ひをかけた、伜の瓢箪へうたん野郎をお通夜にでもよこしやがれ、間拔因業爺いんごふぢゝい奴、相模屋の身上、逆樣に振つて持つて來たつて、勘辨なんかしてやるものか」
「親方」
 餘りの劍幕に驚いて、喜兵衞も立上がりました。松五郎は本當に掴み懸りかねまじき勢ひです。
「そんなに有難い金なら持つて歸りやがれ、金を有難がるのは金持ばかりだ、ざまア見あがれ」
 松五郎は帛紗ふくさをさらつたと思ふと、喜兵衞の額のあたりへ叩き付けました。幸ひ、一髮の違ひで避けましたが、帛紗は柱に碎けて、中から飛出したのは、小判で百枚、嵐に吹き散らした何かのはなびらのやうに、バラバラと亂れ散ります。
 散々の體で逃げ歸る喜兵衞と茂七、松五郎はその後姿を見送つて、ポロポロと涙をこぼし乍ら笑つて居りました。


 その晩、お通夜へ行つた筈の新助が、木戸の外で、植木ばさみのどを突かれて死んで居たのです。
 見付けたのは迎へに行つた番頭の茂七、その時はもう夜が明けて居りました。朝露の中に崩折れた形になつて、――お駒と同じやうに――、半面半身に血を浴びた新助の死骸は、何となく約束事のやうで、茂七を顫へ上がらせたのも無理はありません。
「た、大變だ」
 茂七が這ふやうにして歸つたのを見ると、妙に不安な一夜を過した喜兵衞は、跣足はだしのまゝ飛んで出ました。
「新助」
 抱き起しては見ましたが、朝露に冷々と洗はれた顏には、最早生命の餘燼ほとぼりも殘つては居ません。
「誰が斯んな事をした」
 死骸の側に投り出されたのは、使ひ古した植木鋏が一挺、碧血へきけつに染んで、この下手人を物話つて居さうです。
「おや?」
 茂七は死骸の下になつて居た淺草紙あさくさがみを取出しました。露に濡れないところを見ると、夜のうちから此處に置いてあつたのでせう。凡そ下手な字で、
 ――三途の川でお駒が待つてるぞ――
 とこれだけ。
 兎にも角にも小僧を走らせて、百人町の重吉を呼んだのはそれから四半刻はんときの後。
 それをたつた一と眼見た重吉は、
「到頭やりやがつたな」
 昨夜、平次に言はれた警戒の手を、宵だけ解いてしまつたことを口惜しがります。
「親分、これは、あんまりぢやありませんか、敵を討つて下さい。――伜も惡かつたには相違ないがあやまちでしたことの爲に、命まで取られちや叶はない」
 喜兵衞はもう下手人を松五郎と決めてかゝるのでした。
「よしツ」
 重吉は飛んで行きました。植木屋の戸口を叩くと、戸は中から開いて、バアと出たのは主人の松五郎です。
「おや、親分さん、お早やう」
 と松五郎。
「お早やうぢやねえ、太てえ野郎だ。手前昨夜何をやつた」
「へエツ、あの一件ですか、相模屋の禿頭はげあたまへ小判を叩き付けた」
「違ふ――そんなつまらねえ話ぢやねえ、證據は皆んな擧つてるんだ。素直にお繩を頂戴しろ」
「何の證據で、親分」
 松五郎の顏には何のわだかまりもありません。
「昨夜お通夜に來た新助を木戸のところで殺したらう」
「えツ」
「白ばつくれるな松五郎。娘の敵と言ふならお上にもお慈悲がある、神妙にお繩を頂戴せい」
「あの、新助が、木戸のところで?」
「知らないと言ふ積りか」
 重吉の左手は、松五郎の手首に掛つて居りました。右手に懷をさぐると取出したのは一條の捕繩。
「そいつは大笑ひだ、――いかにもこの松五郎が殺したよ、娘のかたきともに天を戴かず」
「そいつは親の敵だ」
 重吉の繩は、さう言ふうちにも、キリキリと松五郎を縛り上げます。
「あれ、お前何うしたのさ」
 驚いたのは女房のお辰でした。ろくに眠らなかつたらしいれた眼を、眩しく外へ出したのです。
「騷ぐなよ。――俺はな、昨夜新助の野郎を撲ち殺したんだ――敵は確かにこの親父が討つた――とお駒の死骸にさう言つてくれ」
「お前さん、氣でも違やしないかえ」
「氣は確かだ、酒もまだ飮まねえ――なア、お辰、手前は生さぬ仲だからつて、俺がお駒を可愛がりやうが足りないやうな顏をして居たが、今度はよく判つたらう、俺はお駒が可愛くてならなかつたんだ。――敵を討つたのは俺だともさ、他の奴であつてたまるものか」
 松五郎は泣癖らしい眼をしよぼ/\させて重吉に追立てられました。
「お前さん」
 追ひすがるお辰。
「達者で暮せよ、後添のちぞひなんか搜す氣になるな、馬鹿奴」
「それどころぢやない、――お前さん本當にやつたのかえ」
「本當ともさ、あんな野郎、生かして置けるか置けねえか考へて見ろ」
「――」
 お辰はヘタヘタと崩折れると、手放しで泣き出しました。
「好きだからつて無闇に生物なまものを食ふな、馬鹿野郎」
「お前さん、私一人置いて行くのかえ」
「當り前だ、畜生」
「――」
 朝の陽の豊かに射し始めた中を、二人は次第に遠ざかります。


「おや錢形の親分」
 その日の巳刻よつ前、松五郎を番所へ預けてホツとしたところへ、平次と八五郎が訪ねて來ました。
「重吉兄哥、――あれから何うしたえ」
「いやもう大變な騷ぎでしたよ、親分」
 重吉にして見れば、『今夜何か一と騷ぎあるだらう』と言つた平次の豫言があまり見事に當つたのが不氣味でもあつたのです。
「そんな事だらうと思つたから、神田からひと飛にやつて來たよ」
「有難てえ、親分」
「どんな事があつたんだ」
「松五郎が、お通夜に來た新助を、木戸のところで植木鋏で突き殺したんで――」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
 平次もすつかり面喰めんくらつた樣子です。
「本人が白状したんだから、間違ひありません。それにこんなものまで書いて死體の下へ入れて置いたんで」
「はてな?」
「娘の敵を討つた――てんで大威張おほゐばりですよ」
「何處に居るんだ、松五郎は?」
「番所ですよ」
「よし、行つて見よう」
 平次は百人町の番所へ飛んで行きました。係り同心の出役はまだ。番太の老爺と、重吉の子分の下つ引が、一生懸命、松五郎を見張つて居る最中でした。
「親方」
「あゝ錢形の親分さん」
 松五郎は顏を擧げました。昂然かうぜんとして、何の恐れもありません。
「親方、大變なことをやつたさうだな」
 と平次。
「へツ、へツ」
 松五郎は泣き笑ひをして居たのです。
「よく切れるネ、あの脇差わきざしは」
 平次は變なことを言ひ出しました。
「家重代の脇差わきざしだから、斬れもしますよ」
「一と太刀でやつたのかい」
「へエ」
「見事な袈裟掛けさがけだネ」
「さうでもねえよ、親分」
 話が次第にとん珍漢になるのを、重吉は酢つぱい顏をして眺めて居ります。
「何か書いた物を置いてあつたさうだな」
「へエ、何、ほんの惡戯いたづらで」
「お前のところのお宗旨は何だい」
法華ほつけですよ、親分」
「それでお題目だいもくを書いて、手にかけた者の死骸の側へ置いたのか、大した心掛だな、親方」
「それほどでもねえよ、親分」
 松五郎の極り惡さうな顏といふものはありません。
「あの紙は何處で買つたんだ、奉書のやうだが――」
「日本橋で買ひましたよ、特別上等の奉書で」
 話は次第に脱線して行くばかりです。
 平次は此遍で切上げると、フラリと外へ出ました。
「錢形の親分」
 重吉は狐につまゝれたやうな顏です。
「重吉兄哥、あの通りだ、――下手人は松五郎ぢやねえ」
「でも白状しましたぜ」
「さう言つて威張ゐばりたかつたんだ、――松五郎はそんな男だよ」
「すると?」
「この騷ぎは最初から間違ひだらけさ、――お駒が新助の射た矢に當つて死んだのなら、松五郎に新助をうらむ筋もあるが、――お駒は人に殺されたと解つたら、松五郎も繩まで打たれて喜んぢや居ないだらう」
「えツ、お駒は人に殺されたと言ふんで?」
 重吉は仰天した。平次の言ふのがあまりにも桁外けたはづれです。
「その通りだ、――物置の羽目板に立つた矢を拔いて、お駒の喉笛のどぶえへ突つ立てた奴が居るんだ。現場でその證據を見せてやらう」
「――」
 平次はガラツ八と重吉を從へてもう一度植木屋の庭へ入りました。
「それ見るがいゝ。物置の羽目には、この通り矢の突つ立つた跡が澤山ある。隣の庭で弓が始まるとお駒は此處へ來て矢文を待つて居たんだ」
「――」
※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちを越して、此羽目へ射込むには、坊主矢ぢや駄目だ。新助が本矢鏃ほんやじりを使つたのはその爲さ」
「――」
「ところで、此處に居るお駒をそつと殺せるのは、母親のお辰と父親の松五郎とめひのお雪の外にはない。――お雪では、矢で人を突殺せる力が無いから、俺は最初、松五郎ぢやないかと思つた。あれは女房の連れ子で本當の娘ぢやないから、殺して置いて新助のせゐにすれば、相模屋から百や二百は強請ゆすれる」
「――」
「が、松五郎は本當の娘よりもお駒を可愛がつて居る。それに、昨夜のあの劍幕だ。あれは芝居や掛引で出來ることぢやない」
 平次の説明に、ガラツ八と重吉の眼の前には、全く新しい事件の角度が見えて來ました。
「ぢや、誰でせう、親分」
「此方へ來て見るがいゝ」
 平次は植木屋の裏口へ行くと、そつと姪のお雪を呼出しました。
「お雪――本當の事を言つてくれ。お駒が生きて居る時、一番執念深く附きまとつたのは誰だい」
「三十人位ありますよ」
「冗談ぢやない」
「大久保小町と言はれたお駒さんですもの、町内の獨り者は皆んな附け廻したと思つても間違ひありません」
「そのうちで、一番うるさくしたのは?」
「お隣の茂七さんかしら?」
「――」
 茂七はあの時新助の側に居たのです、お駒を殺せる道理はありません。
「それとも佐々村さんかしら?」
 あの時佐々村佐次郎は、お茶を飮みに母屋おもやへ歸つて、遙かの後方うしろに居た筈です。
「變な頼みだが、――此家で使つて居る鼻紙を一枚貰ひたいが」
「お易い御用で」
 お雪は笑ひ乍ら、懷紙を出してくれました。まことにあり來りの塵紙ちりがみですが、新助の死體の下にあつた淺草紙とは違ひます。


「お前はお駒に氣があつたさうだネ」
「へエ、恐れ入ります。が、親分さん、町内でお駒に氣のねえのは、地藏樣ばかりで」
 茂七は遊び慣れた人間らしく輕くらしました。
「ところで、お前さんは新助の側に居てよく知つてるだらうが――弓を射てから、悲鳴が聞えるまでどれほどの間があつたらう」
 平次の問は不思議です。
「へエ、それが不思議なんで――煙草半服ほどの間がありましたが」
 茂七の顏は伸びたりちゞんだりします。矢が飛んでから、悲鳴が聞えるまで、そんなにひまのあるのは何とした事でせう。
「有難う、――それから、此家に佐々村佐次郎さんの書いた物があるなら、内證ないしよで見せて貰ひたいが」
「へエ、――お手紙が二、三本と、弓の傳授書があつた筈で――」
 茂七は奧から二品三品持つて來てくれました。能筆と噂された佐次郎の筆蹟ひつせきは、全く見事なもので、新助の死體の下にあつた、淺草紙の文字とは比較にもなりません。
 でも平次は淺草紙の文字を出して、そつと比べて見ました。
「違ひ過ぎるね、親分」
 覗いたのはガラツ八の長い顏です。
「それから、塵紙か淺草紙があつたら一枚貰ひたいが、――半紙はいけない」
「へエ――、あまり綺麗ぢや御座いませんよ」
 茂七は下男部屋から淺草紙を二、三枚持つて來てくれました。比べて見ると、曲者ののこした紙と全く同じもの、斷ち口までピタリと合ひます。
「もう一つ、昨日、此處で留守居をして居たのは誰だらう」
「下男の權治で御座います」
「呼んで來て貰はうか」
 平次は次第に攻撃の網をしぼつて行く樣子です。
おらがに用事かね」
 ヌツと庭口へ來たのは三十前後山出しらしい男です。
「つかぬ事を訊くが、――昨日佐々村さんはあの騷ぎの前にお茶を飮みに來た筈だね」
「へエ、來ましたが、お茶をれて上げると、喉が乾いて面倒臭せえから水をくんろ――と言つてね、柄杓ひしやくで一杯飮んで――」
「それから騷ぎの始まるまで此處で休んで居なすつたのか」
「大方さうだんべい、――俺は直ぐ煙草を買ひに百人町まで行つたから、後の事は知んねえ」
「誰の頼みだ」
「佐々村樣の頼みだよ」
「フム」
「歸つて來たらあの騷ぎだ、――あツ、まだ、その時の煙草を佐々村樣へ渡さなかつたよ」
 權治はあわてゝ下男部屋へ飛込むと、五匁玉の刻煙草きざみたばこを持つて來たのです。
「その煙草は俺が持つて行つてやる、どれ」
 平次は手を伸ばして煙草を引つたくるやうに庭の方へ出ました。
「親分、下手人は一體誰でせう?」
 とガラツ八。重吉も覺束おぼつかない顏をして眺めて居ります。
「まだ解らねえ、――手前と重吉兄哥は、此處を眞つ直ぐに※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちの前を通つて、木戸をあけて、ゆつくり植木屋の裏へ出てくれ、何か變つた事があつたら、遠慮なく聲を出してもいゝ」
「へエ――」
 何が何やら解りませんが、ガラツ八と重吉は平次に言はれた通りの道を、植木屋の裏へ出ました。何の變つたこともありません。
 いや、變つたことには、植木屋の裏へ出てから出會でつくはしたのです。
「おや?」
「どうだ、俺の姿は見えたか」
 其處には寮の裏口で別れた錢形平次が先廻りして立つて居るではありませんか。
「親分、何處を來なすつたんで」
「寮の裏口からいきなり植木屋の庭へはいれるんだ。しばかなめで一パイだから、此處まで駈け拔けて來ても、庭や※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あづちのあたりから見えねえ、曲者は此道を通つて來てお駒を口説いたのさ」
「えツ、すると――」
「お駒は聽くわけはない。男がカツとなつたところへ、頭の上の羽目板へ矢文を結んだ矢が突つ立つた、――こいつが邪魔をするのだ、と思ふと、前後の見境もなく、その矢を拔いて下から突き上げるやうにお駒の喉を突いた」
「――」
 二人は固唾かたづを呑みました。
「曲者は自分には疑ひは少しも掛らないと思つた、――その上、松五郎は腹を立てゝ、新助を殺すと言つて騷いだ、――曲者はそれを聞くと、戀敵の新助もやつゝける氣になり、お通夜に來るのを木戸口で待ち受け、松五郎の植木鋏うゑきばさみで突き殺した、――それだけにして置けば宜いのを、人間が器用なばかりに、餘計な細工をしたのだよ。寮の下男部屋から淺草紙を持出し、變な字を書いて、松五郎の仕業と思はせようとしたのが惡かつた」
「だがあの字はまづかつたぜ、親分」
「左手で書いたのだよ、ハネるところに左癖ひだりぐせがある、――それに左手で書いても巧い人の字はウマ味がある。名筆も惡筆も一つの癖だから左で書いても右で書いても大した手筋に違ひのあるものぢやねえ、――それに下手へたは上手の眞以が出來ないやうに、上手も下手の眞似は出來ないものだ」
「成アる」
 平次の説明は一點の疑ひもありません。下手げしゆ人は間違ひもなく、殘されたたつた一人の人間を指して居るのです。
        ×      ×      ×
「岡つ引奴――よく當つたよ」
「あツ」
 木立の間から、ヌツと出て來たのは、浪人佐々村佐次郎のニヤリニヤリと笑ふ顏でした。
「智惠は手前の方が少しばかりまさるだらうが、腕は俺の方が確かだ。來いツ、三人共なますにしてやる」
 ギラリ引拔いた一刀、佐次郎の顏はあゐのやうに見えます。多分激情に自制心を失ふ、不思議な變質者ででもあつたでせう。
「御用だ」
「神妙にせい」
 ガラツ八と重吉は左右に分れました。正面からは平次。
「手前のする事は卑怯ひけふだ。二本差の癖に、何と言ふ野郎だらう」
おのれツ」
 疾風しつぷうの如く斬込んで來るのを、引つ外して右の手が高々と擧りました。久し振りに平次得意の投げ錢です。
「あツ」
 佐次郎はしたゝかに眼を打たれたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1936(昭和11)年11月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年2月25日作成
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