錢形平次捕物控

人肌地藏

野村胡堂





 かねやす迄を江戸のうちと言つた時代、巣鴨や大塚はそれから又一里も先の田舍で、田も畑も、武藏野の儘の木立も藪もあつた頃のことです。
 庚申塚かうしんづかから少し手前、黒木長者のいかめしい土塀の外に、五六本の雜木が繁つて、その中に、一基の地藏尊、鼻も耳も缺け乍ら、慈眼を垂れた、まことに目出度き相好さうがうの佛樣が祀られて居りました。
 尤も、板橋街道の直ぐ傍で、淋しいと言つても、半町先には町並らしいものがあり、黒木長者に出入する商人やら里人やら、この地藏尊の側を通して貰はなければなりません。が、何分にも、時代も素姓も知れぬ濡れ佛で、折々のときを獻ずる者はおろか、涎掛よだれかけの寄進に付く者もないといふ哀れな有樣だつたのです。
 それが、何時から始まつた事か、冷たい筈の石地藏の肌が人間のやうに生温なまあたゝかくなつて居ることが發見されました。最初は多分、其邊で鬼ごつこでもして居る、里の子供達が氣が付いたのでせう。何時の間にやらそれが、大人おとなの口に傳はつて、巣鴨、大塚、駒込界隈一圓の大評判になつて了ひました。
「地藏樣の肌が暖かい! そんな馬鹿なことがあるものか、石できざんだ鼻つ缺けの地藏だ。大方陽が當つて暖まるんだらう」
 そんな事を言つて、一向取り合はない人達もありましたが、
「いやに利いた風な事を言ふぢやないか、嘘だと思ふなら行つて觸つて見るがいゝ。まだ陽の當らねえ朝の内ほど温かで陽が高くなると、段々冷たくなるんだ。これは地藏樣が、夜のうちだけこちとらと同じやうに、床の中へ入んなさるからだと言ふぜ、ばちが當ることを言ふものぢやねえ」
 斯う言はれると、この時代の迷信深い人達は、返す言葉もなかつたのです。
 畑の中の石の地藏樣が、人肌に暖まると言ふのは、隨分變つた奇蹟きせきですが、その上、誰が試みたかわかりませんが、この地藏の臺石の上へ上げて置いた、穴の明いた青錢が、翌る朝行つて見ると、一分金に變つて居たといふ噂が傳はつたのです。
 地藏樣の臺石の上で、一夜のうちに寛永通寶くわんえいつうはうが、ピカ/\する一分金になる――そんなことは、今の人では信じ兼ねるでせうが、その頃の人は、極めて素朴そぼくに、暢氣のんきに、この奇蹟を受け容れて了ひました。
「あの地藏樣に上げた青錢や鐚錢びたせん、ピカピカする一分金や板銀に變るとよ」
「俺もやつて見よう、少し元金もとを貸しな」
「何を言やがる、手前に貸す位なら、俺が持つて行つて自分でやるよ。こんな手數の掛らない金儲けは、滅多にあるわけのものぢやねえ」
 と言つたやうな騷ぎ――、事實、人肌地藏の臺石の上に置いた青錢や鐚錢びたせんは、時々、丁銀や豆板銀に變つたり、まれには一分金に變つて居ることもあるのでした。
 その變りやうが突拍子もなく、臺石の上の錢が毎晩決つて變ると限らないところが、變に射倖的しやかうてきな迷信をあふつて、巣鴨の人肌地藏は、十日經たないうちに、福の神のやうに人氣と尊敬を集めてしまひました。
 我がガラツ八――捕物の名人、錢形平次の子分で、本名を八五郎、又の名ガラツ八といふ人氣男――が、親分の用事で庚申塚かうしんづかの邊まで行つた歸り、フト、畑の中の人だかりを見付けて、鼻の下を長くして嗅ぎ廻つた擧句、半刻ばかりの間にこれだけのネタを擧げてしまひました。神田へ歸つて、身ぶり澤山にその話をすると、日頃あんまりガラツ八の話に身を入れた事の無い平次が、
「フーム、そいつは新しいだ。十日經たないうちに、請合變つたことがある。幸ひお膝元の用事は片附いたから、手前は暫らく其方を見張つて居ちや何うだ」
 と乘氣になります。
あつしが? へエー、巣鴨すがもまで毎日出かけるんですかい」
「不足らしい事を言ふな、細工の細かいところを見ると、相手は容易ぢやねえぞ。甘く見ると、飛んでもねえ目に逢はされる」
「へエー、そんなもんですかねえ」
 腑に落ちない乍ら、ガラツ八は其日から巣鴨へ詰めることになつたのです。


「親分、大變だツ」
「何だガラツ八、相變らず騷がしいぢやないか。そんなに泡食あわくはずに、靜かに物を言へツ」
「それが靜かに言へねえ、何しろ巣鴨から一と息に驅けて來たんだ」
「どうしたツてんだ。地藏樣が踊り出したとでも言ふのか」
「そんな事なら驚きアしねえ、何うせ毎朝人肌に暖まつて居ようといふあらたかな佛樣だ」
「おや、變に落着いてるぢやないか、何が一體大變なんだ」
 錢形平次も、少しばかり乘氣になります。
「黒木長者の當主孫右衞門と、土地の百姓とが睨み合ひになつたんだ、今にも血の雨を降らさうてえ騷ぎ――」
「言ふ事が大きいなア、睨み合ひの元をたゞせば何だ」
「それが、例の怪物えてもの――、何しろ青錢や鐚錢びたせんを、板銀や一分金に變へるといふあらたかな地藏樣だ。慾張りで通つた黒木長者が、自分の畑にある地藏樣だから、屋敷内に移してまつつて上げるつて言ひ出したのも無理はあるめえ」
「成程」
「ところが土地の者が承知しねえ。いかにも畑は黒木長者のものに相違ないが、地藏樣は昔から此處にあつたもので、誰がこせえたのか、誰が建立こんりふしたかわからない筈だ。いかに長者の威勢でも、神樣や佛樣が儘になるわけはねえと來た」
「それは面白いな」
「少しも面白かあねえ、まるで百姓一だ。黒木長者の雇人が二、三十人、木刀や手槍まで持出して、地藏樣を屋敷内に移さうとすると、土地の人は、くは、鎌、竹槍でよろつて、さうはさせねえと言ふ騷ぎ。巣鴨はまるで戰場だ、親分、ちよいと行つて、何とかしてやつておくんなさい。放つて置くと、請合怪我人位はこせえるぜ」
 ガラツ八は一生懸命ですが、平次は一向驚く樣子もありません。
「放つて置け/\。そんなカラ騷ぎを見通して、何處かで赤い舌を吐いてる野郎があるに相違ねえ。多分、そんな騷ぎも何かのト書きの一つだらう。もう少し眼鼻が付かなきやア、手を出さうにも出しやうのねえ仕事だ」
 煙管を指先で廻して、斯んな事をポンポン言ひ乍らも、妙に考へ込んで居ります。
 平次が見透した通り、ガラツ八が報告に驅け付けた後で、黒木長者と、土地の人との間に、漸く妥協案だけふあんが出來上がりました。
 それは、石の地藏樣は、黒木長者の屋敷内に移させるが、その代り、土地の者が外から自由に出入をして、拜むことも賽錢や供物くもつを上げることも從來通りにさして貰ひたいと言ふ條件を容れることになつたのでした。
 石の地藏と言つたところで、時代の付いた御影石みかげいしで、精々十二、三貫目位、まことに不景氣なものですから、雜木林の中から、半町ばかり先の黒木長者の邸内に持つて行くことなどは元より物の數でもありません。
 邸内と言つたところで、北側の土藏の裏木戸のあつたところで、一間幅の道が、塀に圍まれて屋敷の中へ食ひ込んだところですから、邸の外とあまり變りはありません。
 其處に移された地藏樣は、急に涎掛けをしたり、香華かうげを供へられたり、たつた一日のうちに見違へるやうに豪勢な姿になりました。やがては雨露をしのぐ屋根も出來るといふ話、寄進は言ふ迄もなく黒木長者で、江戸から宮大工を呼んで明日は積らせるばかりに計畫は進んで居りました。


 悲しいことに黒木長者は、まだこの地藏の肌――乙女をとめの肌のやうに滑かに暖かいといふ肌――に、觸れて見たこともありません。日頃苦蟲を噛みつぶしたやうな顏を、威嚴ゐげんそのものゝやうに心得て居る孫右衞門長者は、土地の小百姓や町人の前で、地藏の肌に手を觸れて見るやうな、不見識なことは出來なかつたのです。
 翌る朝黒木長者は、夜の明けると一緒に飛起きました。誰も其邊へ姿を見せぬ前に、地藏樣の臺石の上を調べても見、一つは人肌のやうに暖かいと言ふ、朝の内の地藏樣の肌に觸れても見たかつたのでした。
 眞に拔足差足といふ言葉を文字通り、五十男の黒木長者が地藏樣へ忍んで行く形は、まことに不思議な見物みものでしたが、幸ひまだ誰も其邊には姿を見せません。
 塀に付いて廻ると、朝の光をほのかに受けて、眼の前に立たせ給ふは萬有還金ばんいうくわんきんの尊い地藏尊と――思つたのは、黒木長者の幻覺で、臺石の上に立つて居る筈の人肌地藏は、薄じめりの大地に轉落てんらくして、其邊は踏み荒した人間の足跡だらけ。
「あツ、これは何うぢや」
 地藏の肩に掛けた黒木長者の手は、人肌どころか、何と氷のやうに冷たい感觸に顫へ上がつて居るではありませんか。
 變つた事は、それだけではありません。地藏樣の樣子に驚き呆れる長者の耳へ、
「た、大變ツ、誰か、誰か」
 とあへぎ/\塀の内から叫ぶのは紛れもない、庭男の權助爺の聲です。
 今開けたばかりの裏門を押して、横つ飛に飛込むと、大地の上に尻餅しりもちいた權助は、に飽きた金魚のやうに、口をモグ/\させ乍らも、あまりの事に聲も立て得ず、兩手の指を交る/″\に突き出して、前方に立塞がる、海鼠塀なまこべいの土藏を指すのでした。
「あツ」
 黒木長者も危ふく尻餅を搗くところでした。土藏の息拔きの上から、直徑二尺ばかり物の見事に切り拔かれて、中の眞ツ黒な穴が物凄じく、朝の光を吸ひ込んで居たのです。
 そのうちに、騷ぎを聞付けて、多勢の家の子郎黨達が驅け付けました。
「泥棒ツ、泥棒ツ」
 と言つたところで、其處にはもう曲者がまご/\して居るわけはありません。
 黒木長者を助けて、二三人の重立つた番頭達が、土藏の大戸前を開けて入つて見ると、土藏の奧に杉なりに積んだ千兩箱のうち上の三つが、影も形もありません。
 千兩と言ふと氣安いやうですが、その頃の性の良い一兩小判は、今頃の金の相場にして壱萬圓強、經濟状態や通用價値を考へると、五萬圓以上にも相當しますから、千兩箱一つが今の人の氣持から言へば五千萬圓にも當るわけです。
 その代り重さも相當で、一枚四匁の小判が千枚入つたとすると、千兩の重さは正味四貫目、それにかしの頑丈な箱の目方を加へると、どうしても五貫近いものになります。安政年間に江戸城の御金藏を破つた、藤岡十郎と大塚富藏が、二人がかりで持出した千兩箱がたつた四つ、今から考へると馬鹿々々しい話ですが、十兩盜むと首を斬られた世の中ですから、これが徳川幕府始まつて以來の大盜賊どろばうだつたに相違ありません。
 黒木長者の土藏、――かしと栗とで腰張をして、その上を海鼠なまこに塗り上げた、金庫のやうな土歳を切り破つて、千兩箱を三つ盜み出したのですから、これは尋常一樣の盜人でないことは明かです。それを見ると、慾で固めたやうな黒木長者は、
「ワーツ、大變ツ」
 一ぺんに目を廻してしまひました。


 何か變つたことがあつたら――と、この盜難を豫期するともなく、ガラツ八を附けて置いた平次、その日の朝のうちに一らつを聞込んで了ひました。
「それ見ろ、言はないこつちやない」
「親分は見透しだ、全く恐れ入つたよ。何しろ黒木長者は眼を廻す騷ぎだから、屋敷の中は煮えこぼれさうだ。巣鴨すがもの兄弟分――牛屋の喜平のところへ泊り込んで、これだけの事を聞くと、飛込んで一と當り調べようかと思つたが、下手へたをすると取り返しが付かねえから、取り敢えず飛んで歸つて親分のお耳へ入れたわけなんだ」
「そいつは上出來だ、さう言つちや惡いが、自分のあまりかしこくねえことを、よく知り拔いて居るところが、手前の取柄さ」
「チエツ、骨を折つてからかはれりや、世話アねえ」
「まア怒るな八、どりや出かけよう」
 二梃の駕籠、江戸の街霜を踏んで、一文字に巣鴨へ飛びました。
 黒木長者の屋敷へ着くと、その頃顏も名も賣れた御用聞の錢形の平次が、神田からわざ/\驅け付けて來たといふので、家の子郎黨達は下へも置かぬあしらひ。
「旦那は?」
 騷ぎの中に主人の孫右衞門の見えないのを不審ふしんに思つて訊くと、
「あまり氣を使ひ過ぎて、奧で休んで居ります。親分が見えたと申上げたら、宜しくとのことで御座いました」
「さうか」
 平次は別に追及もしません。
 案内に立つたのは、番頭の藤三郎、萬兩分限ぶげんの支配人にしては、年も若く人品も立派で、一寸武家の用人と言つた心持のある三十男です。
 平次は藤三郎に引廻されて、屋敷の内外、特に人肌地藏を勸進くわんじんした嚴重な土塀のあたりや、その丁度内側になつて居る金藏、切り拔かれた穴の樣子や、主人孫右衞門の寢所から廊下續きになつて居る藏の入口の工合などを、手數構はず念入りに調べ上げました。
「この藏の鍵は何誰どなたが持つて居なさるんだえ」
「主人の孫右衞門が、腰から離しません」
「すると、泥棒がソツと鍵を盜んで、戸前を開けて入り込むやうなことはありますまいね」
「そんなことは、あるわけが御座いません」
 藤三郎の顏には、皮肉ひにくな薄笑ひが浮びました。土藏の海鼠壁なまこかべは、あの通り見事に切り拔かれて居るのに、泥棒が鍵を盜んで入りはしないかと言ふ問が、あまりに迂濶うくわつだと思つたのでせう。
「兎に角、この屋敷の中に住んで居る人を、皆んな此處へ呼び出して下さい、一人々々に聞きたいこともあをし、少しは人相も見て置かなきア」
「――」
 藤三郎の頬には、もう一度薄笑ひが浮びましたが、默つて引つ込むと、やがて母屋に住んで居る人間全部を、庭先に並べました。
 第一番には今まで横になつて居たと言ふ黒木長者の孫右衞門、これは五十前後の巖乘な中老人、びんに霜を置いて、月代さかやきも見事に光つて居りますが、慾も精力も絶倫ぜつりんらしく、改めて平次に挨拶した樣子を見ると、三千兩の打撃で、すつかり萎氣しよげ返つて居るうちにも、何となく金持らしい尊大なところがあります。
 續いてめかけのお仙、これは二十五六の美しい中年増でわざと地味な樣子をして居りますが、昔の身の上を匂はせるやうな何處となく艶やかなところのある女、これは不思議に取り亂して、まだ朝のたしなみの化粧もしては居りません。
 子供と言ふのは、妾のお仙よりも年上で、これは日本橋に店を持つて、手廣く生藥きぐすりさばいて居る總領の初太郎が一人つ切り、嫁や孫達多勢と一緒に、店の方に寢泊りをして、滅多に巣鴨へは來ませんから、まだ此處へは顏を出して居りません。
 あとは番頭の藤三郎を始め、雇人ばかり、男女取交ぜてざつと十五六人、いづれも慾は深さうですが、土藏へ穴を開けて、千兩箱三つも盜み出すやうな人相のは一人もなかつたのです。
「これで皆んなでせうな」
「へエ――」
 平次の間に、藤三郎が答へる下から、
「お梅坊が居ねえよ」
 と少しかしこくなささうな權助の聲が突拔けます。
「何! お梅――、それは何だ」
 平次は早くも聞とがめました。藤三郎が餘計な事を言ふなというやうに、目くばせをするのを見て取つたのです。
「何、何でもありやしません。土藏の側に寢て居るくせに、何にも知らないつて言ふ口振が變ですから、少し痛い目を見せて居るだけの事で御座います。強情な娘で容易の事では口を利きませんが、念の爲、此處へ伴れて參りませう」
 照れ隱しともなく、さう言つて土藏の方へ行く藤三郎の後をから、
「いや、私が行つて見ませう」
 平次はついて行きました。


「あツ、これは」
 さすがに平次も驚きました。土藏のツイそば、ガラクタを入れた物置のはりに、兩腕を縛つた上、猿轡さるぐつわまで噛まされた十五六の娘が、高々と吊されて居るのです。
 此邊は一應見た筈の平次ですが、さすがに薄暗い梁の上までは氣が付かなかつたのでせう。
 引卸させて見ると、汚い風こそして居りますが、さすがに娘になる年配で、ほこりあかとにまみれ乍らも、不思議に美しさが輝やきます。
「これは一體どうなすつたんだ?」
「何でもありやしません、不斷から手癖の惡い娘で、家中で持て餘されて居りますが、この物置に寢泊りして居るんですから、昨夜だつて、泥棒の入つたのを知らない筈はありません。何うかしたら、この娘が手引をして引入れたんぢやあるまいかと言ふ者があつて、一應縛り上げて窮命きうめいさして居たんで――、旦那の言ひ附けで御座いますよ」
 言ふことはシドロ、モドロです。
「これは奉公人かい」
「へエ、奉公人みたいなもので」
 娘の繩目を解いて、外へ出すと、其處まで覗いて來た權助は、
「奉公人ぢやねえよ親分、それはお前、お梅坊と言つて、今の旦那にはめひに當る方だ。この娘の兄さんは身持放埒はうらつで行方知れずさ。可哀さうにお梅坊は、奉公人よりヒドい目に逢つて居なさるんだ。罰の當つた話だよ」
 と、遠慮もなく張り上げます。
「默つておいで、權助、お前なんかの出る幕ぢやない」
「まア、さう言つたものさ、ね番頭さん」
 それでも權助は、強ひてあらがふ樣子もなく、一度に溜飮りういんを下げるとニヤリと人の好いも笑ひを殘して、元の座へ立ち去りました。平次はその後から娘を助けて跟いて行き乍ら、
「ね、番頭さん、あの庭男の言ふ通りなら、この娘さんは、何にも知つちや居なさらないよ」
「と仰しやると」
「私が見たところでは、この娘の顏には、そんな惡氣が微塵みぢんもない――」
「へエ――、錢形の親分は人相を見なさるんですかい」
 毒を含んだ言葉、平次は少しムツとしたらしい樣子です。
「つかない事を聞くが、お前さんは今朝土藏へ入る時、御主人と一緒に戸前を開けて入んなさつたんだね」
「それが何うしました」
 藤三郎は少し突つかゝり氣味です。
「それぢや、びん漆喰しつくひの付いてゐるのは何ういふわけだらう」
「エツ」
「鬢ばかりじやねえ、襟にも帶にも、よく見るとほんの少しだが乾いた漆喰しつくひがこぼれて居る。土藏の穴から這ひ出したらもう少し綺麗に拂つて置くものだよ、番頭さん」
「何だと、私の身體に漆喰が付いて居る? 厭な事を言ふぢやないか、十手捕繩を預かるなら、もう少し詮索せんさくをしてから口をきくものだ。土藏に穴が開いて居りや、覗いて見る位のことは支配人の勤めぢやないか」
 藤三郎は怫然として突つかゝりました。元は武家の出ださうで、今は斯んな事をして居りますが、妙に骨つぽいところのある男です。
「正に一言もねえ――と言ひたいが、番頭さん、お前さんの着物の脇に、重い物を持つて破れた跡があつたり、金具のさびが付いて居るのは何うしてくれるんだ」
「えツ」
「お聞きの通りだ、旦那。奉公人達の部屋を探しても御異存はないでせうな」
 此時はもう庭先へ來て居た平次は藤三郎を差し措いて、主人孫右衞門に話しかけました。
「三千兩の金が出さへすれば、何處を探したつて構やしません。どうか、存分になすつて下さい」
「さア、お許しが出たぞ、八。お前は、此番頭を見張つて居ろ、俺は中へ入つて此奴の部屋を洗つて來る」
 と言ひ乍ら平次、暫らく立ちよどみました。藤三郎の顏はあまりに平靜で、斯う言はれ乍らも、何の取亂したところもなかつたのです。
 平次はその邊の樣子を一と渡り見定めると、孫右衞門をうながして奧へ入りました。
 暫らく緊張し切つた、不安な空氣が庭先をこめましたが、ガラツ八が手一杯に睨みを利かせて居るので、さすがに口をきく者もありません。
 ものゝ四半刻も經つた項、平次は小脇に千兩箱を抱へて勝誇つたやうに縁側に現はれました。それを見ると、
「あツ」
 と逃げ腰になる藤三郎、ガラツ八は、
「野郎、逃がすものか」
 後ろからむずと組み付きましたが、一つ身體をひねられると、他愛もなく一間ばかり跳ね飛ばされて了ひます。元は武家だつた藤三郎、一通り武術の心得もあるらしく、ガラツ八如きの相手ではありません。
「八、俺が代つてやる。お前はその女を押へるんだ」
 あごで妾のお仙を指すと、平次の身體は宙を飛んで、逃げかゝつた藤三郎の肩を、ピシリと十手が叩きました。
「神妙にせい」


「親分、ありや一體どうしたわけですえ、何時ものやうに、繪解きをしておくんなさい。私には皆暮かいくれ解らねえ」
 とガラツ八、道々平次に斯うチヨツカイを出して居ります。
 その日の晝下がり、後から驅け付けた子分に、藤三郎とお仙を引渡して、二人は悠々と、巣鴨を引揚げる途中だつたのです。
「何でもないよ。あの番頭の藤三郎と、妾のお仙がれ合つて、金藏へ風穴をあけたまでの話さ。一應は外から泥棒が入つたやうに仕組んだが、めひのお梅が、日頃から虐待ぎやくたいされて物置に寢泊りして居ることに氣が付いて、若しや氣取けどられたんぢやあるまいかと、はりに吊つて俺の眼から隱さうとしたんだ。つまらない細工さ」
「千兩箱は何處にありました」
「藤三郎の部屋を探すと言つた時、本人は一向平氣で居たらう。これは可怪いと思つたから、矢鱈やたらに藤三郎と眼で合圖をして居る、妾のお仙の部屋を探したんだ。千兩箱は箪笥たんすの奧にあつたよ」
「へエー、そんなものですかねえ。ところで、あと二つはどうなつたでせう、千兩箱は三つ盜られたんでせう」
「何處からか出て來るよ。いづれ藤三郎が隱したに決つて居るんだ」
「と言つたつて親分、ほんのちよいとの間に重い千兩箱を三つ隱すのは容易のことぢやありませんぜ」
「――フム、お前は妙な事を言ふな――待て/\、これは俺の手落だつたかも知れないよ――と、斯うすると」
 平次は往來の眞ん中に立つて、すつかり考へ込んで了ひました。
「親分、人が見て笑つてますぜ、歸りませう」
「待て/\、俺の考へやうが少し淺薄あさはかだつたかも知れないよ。これだけの大仕事に、一と月も前から騷いだ人肌地藏が一と役買つて居ないと言ふことはないな、――フム」
「弱つたなア、往來た突つ立つて眼を白黒さして居ると、人樣は正氣の沙汰とは思ひませんよ、親分」
「ガラツ八。もう一度やり直しだ、一緒に來い」
「えツ」
「藤三郎やお仙は雜魚ざこだ、この裏にはもつと凄いのが居る」
 平次は言ひ捨てゝ、もう一度巣鴨へサツと引返しました。
 黒木長者の屋敷へ歸り着いたのは、未刻やつそこ/\。驚き呆れる人達に構はず、平次はもう一度念入りに見て廻りました。屋敷の内外、特に人肌地藏のあたりを何遍も/\ぎ廻して、やゝたそがれる頃、漸く豁然くわつぜんとした顏になつて、矢鱈やたら欠伸あくびばかりして居るガラツ八を顧みました。
「八、解つたよ」
「へエ――、あと二つの千兩箱の行方ですか」
「いや、まだ其處まではつき留めないが、俺はもう少しで、大變な手違ひをするところだつた」
「と言ふと」
「後學の爲だ、その竿さをを見るがいゝ。俺は石の地藏樣にばかり氣を取られて、此竿に氣が付かなかつたのだよ」
 平次は塀の外の畑の中から、穀物こくもつを乾した時使つたらしい一本の棒、――三間ほどあるたくましい竿を持つて來ました。
「この竿のはしに千兩箱を二つ縛つて、一方の端を塀の向うへ越し、向うへ廻つて、外から竿の先へ付けた繩を引き、地藏樣を釣り上げたのだ、石の地藏樣の方がいくらか重いから、千兩箱は竿ごと引寄せられて、塀の上へ來る理窟だらう」
「へエ――考へたね」
「其處を塀の上へ登つて。此方こつちへ千兩箱を越さしたんだ、大きな音を立てずに、二つの千兩箱は、スルスルと畑の中へ滑り落ちたんだね」
「成る――」
「畑の中には、參詣人の踏み荒した足跡あしあとに交つて、重い物を置いた、四角な跡や、繩の跡などがあるだらう」
「へエ――」
「土塀の上もあの通り少し壞れて居る」
「すると、泥棒は外から入つたんですね」
「さうだよ」
「藤三郎とお仙は?」
「それが俺をすつかり迷はせたんだ。泥棒は千兩箱二つ盜つて逃げた後へ、逢引か何かの都合で、藤三郎とお仙が來たんだね。月明りで見ると、土藏に穴が明いて居る。中には千兩箱が杉なりに積んである。泥棒に罪をなすり付けて一と箱せしめるには、こんな都合の好いことは滅多にない。藤三郎は武家出だと言ふから、そんな仕事にかけてはたんもすわつて居るだらう」
「見て居たやうだね、親分」
「まア、さうでも考へなきア、テニヲハが合はねえ。藤三郎とお仙は、泥棒のおあまりを頂戴して、いづれは此處から飛出す時の用意にしたんだらうよ」
「すると、外から入つて、二千兩盜つた泥棒は誰でせう」
「待ちなよ八、それも追つて解る」
 平次は顏を擧げて、その邊の地勢から、巣鴨すがもの通りのさゝやかな家並に眼を移しました。


「此邊に湯屋があるだらうな」
「ありますよ、その畑の中の道を拔けて、廣い道に出ようと言ふ角が、村の湯屋になつてますよ」
「一緒に來て見るか」
「へエ――」
 妙な緊張が、ガラツ八の背筋を走ります。
「御免よ」
 湯屋の裏口からヌツと入つた平次、その時はもう薄暗くなつて、腰高障子に釜前かままへの火がほのかに射して居りました。
「誰だえ」
 中からは圖太い聲。
「番頭さんは居るかい」
「何の用事だ」
 と言ふ聲を確かめると、ガラツ八に眼くばせして障子を引開けさせた平次。
「御用ツ」
 眞向から飛込みました。
「あツ何をしあがる」
 三助は丁度湯加減ゆかげんを見て居た小桶の熱湯、其儘平次へ浴びせようとするのを、身をかはして右手を擧げると、一枚の青錢流星の如く飛んで三助のこぶしを打ちます。
「あツ」
 と熱湯の小桶を取落すところへ、踏込んだ平次、有無を言はせず犇々ひし/\と縛り上げて了ひました。
 これが本當に咄嗟とつさの間で、表の方の客は氣がつかなかつた位。
「どうしたんだ、騷々しいぢやないか」
 奧から物音を聞いて顏を出した亭主は、十手の光にへたばつてしまひました。
「御亭主、すまないが此男の身體を借りて行くよ。暫らくの間お前さんが番頭の代りを勤めて、この事を誰にも氣取られないやうにして貰ひたいが、何うだらう」
「へエ/\」
「それ、番臺から流しの合圖だ、頼んだよ」
「へエ――」
 亭主は泣き出しさうな顏をして着物を脱ぐと、それでも昔取つた杵柄きねづか、すつかり三助になり濟して店の方へ出て行きました。
「野郎ツ、言つて了へ、何も彼もバレて了つたぞ」
「恐れ入りました親分、決して惡氣ぢや御座いません、昔恩になつた方への義理――」
 三助は獰猛どうまう面構つらがまに似氣なく、一つ脅かされると、ペラペラとしやべつてしまひさうな樣子です。――腹からの惡黨ではないな――と平次が見て取つたのも無理はありません。
「お前に頼んだ相手は何處に居る」
「それは申上げられません、骨が舍利しやりになつても」
「よし/\、いゝ心掛だ。人間はさうなくちやならねえ」
「へエ――」
 褒められてるんだか、責められてるんだか、三助にも見當は付きません。
「ところで、そのお前の恩人とか言ふ方は、もう遠方へズラかつたらうな」
「へエ――」
「お前だけを殘して、飛んで了つたらうと言ふことだよ、二千兩も持つて居るんだから、お前なんぞに附纒つきまとはれちや厄介だらう」
「と、飛んでもない。そんな薄情な方ぢや御座いません。それに、あの邸にはまだ用事がある筈」
「本當かい、それは?」
「なアに、多分用事もあるだらうと言ふ話さ、何と言つたつて――」
 三助は急に口をつぐみました。自分から少し言ひ過ぎたことに氣が付いたのでせう。


 その晩、子刻こゝのつ過ぎ、黒木長者の嚴めしい土塀、丁度人肌地藏の上のあたりへ、星空を背景にして、屋敷の内側から浮き上がるやうにぢ登つた者があります。
 續いてもう一人。
 最初のは大人おとなで、後のは少し小柄なところを見ると、多分女か子供でせう。
 二人は塀の上で、暫らく息を入れましたが、やがて、先に登つた大きい方が、後から登つた小さい方の腰へ、綱かなんかを付けて居る樣子で、塀の上へ踏みまたがつたまゝ、そろ/\と繰り下ろし始めました。
 これは、思ひの外六づかしい作業でしたが、何うやら彼うやら無事に濟むと、今度は、大きい方が、一丈もあらうと思ふ塀の上から、猫の子のやうに輕々と飛降ります。
 二人は手を取つて、畑道を眞つ直ぐに、通りの方へ出ようとすると、
「待て/\」
 立ちふさがつたのは、言ふ迄もなく錢形の平次です。
「――」
 二人は物をも言はず、その右と左を大廻りに、サツと飛び拔けようとしたがいけません。平次は小さい方を追ふと見せて、實は大きい方の影へ無手むずと組み付きました。
「神妙にせえ」
「あツ」
 必死に爭ふのを、巧みにあしらつて、組み伏せると、何んな合圖があつたものか、御用の提灯を振りかざして、宙を飛んで來たガラツ八。
「親分首尾は」
「ガラツ八、丁度好い鹽梅だ。灯を貸せ」
「此處にも一人居ますぜ」
「そんな子供は放つて置け」
 ガラツ八の差出す提灯に照して見ると、平次の膝に組敷かれたのは、藍微塵あゐみぢんを狹く着て、罌粟玉絞けしだましぼりの手拭に顏を包んだイナセな兄イ、引き剥ぐやうにそれをとると、高い鼻、切の長い眼、淺黒い顏、何となく凄味にさへ見える好い男です。
「おツ、手前は五位の秀ぢやないか」
「あツ、錢形の親分、面目次第もない」
「これは一體どうしたわけだ」
 平次は曲者を引起すと、その身體の泥などを拂つてやつて居ります。五位鷺ゐさぎの秀吉といふやくざ者、賭博打ばくちうち[#「賭博打」は底本では「賭搏打」]の兇状持ですが、大した惡い事をする人間とは思はれません。
「手前は手弄てなぐさみばかりかと思つたら、何時の間に娘師むすめし強盜たゝきの眞似をするやうになつたんだ」
「親分、さう思ふのも無理はねえが、これには少し譯があるんだ」
「言つて見な」
 四人は何時の間にやら木立の中に入つて、枯草の上に、赤い提灯を圍んでしやがんで居りました。
「錢形の親分に捕まつたのは、せめてもの仕合せだ。何を隱しませう。あつしは、黒木長者のをひの秀吉と言ふもの――」
「何だと? 手前は身分の者の子だとは聞いたが、まさか黒木長者の甥とは知らなかつた。それがどうした」
 平次の好奇心はさすがに燃え立ちます。
 ――五位鷺の秀の話といふのは、世にありふれた筋で、大した變つた事ではありません。父親がくなると、すつかり羽を延ばしてしまつた秀吉は、やくざ者の仲間に入つて久離きうりられ、母と妹のお梅は、かなりの財産と一緒に、叔父に當る黒木長者の孫右衞門に引取られましたが、母親が續いて亡くなつた後は、持つて行つた數千兩の財産を、すつかり取り込んで了つて、妹のお梅を、出て行けがしに虐待ぎやくたいして居る淺ましい孫右衞門だつたのです。
 秀吉は、何べんか財産と妹の取戻しを掛合ひましたが、兩親は勘當を許さずに死んだと言ふのを口實に、何としても引渡してはくれません。
 そのうちに、妹のお梅が命にもかゝはるやうな目に遭つてゐると聽いて、矢もたてもたまらず、近所の湯屋に奉公して居る、昔の召使の男を仲間にして、飛んでもない一と芝居を書き、前の晩には、土藏を破つて千兩箱を二つ盜み出し、その時は在所ありかの判らなかつた妹の身を案じて、今晩は、それを救ひ出しに入つたのでした。
「こんなわけですよ親分、叔父の孫右衞門が取込んだ私の親の金は、三千兩や四千兩ぢやありませんが、大負けに負けて二千兩で我慢しませう。この金と妹のお梅を、目黒に住んで居る親切な乳母のところへ送り屆けた上で、私は恐れ乍らと名乘つて出る積りでしたよ、親分お目こぼしを願ひます」
「――」
「二千兩は叔父の金ぢやなく、それも賭博ばくちの元手なんぞにする氣は毛頭ありやしません。親分、妹のこの樣子を見てやつて下さい。この乞食の子よりもおとつた樣子をして居るのが、黒木長者の姪で、取つて十五の、耻づかし盛りの娘ぢや御座いませんか」
 五位鷺の秀は、ガツクリ首を垂れて、はふり落つる涙を拂ひました。妹のお梅は、提灯の灯から遠く、ぼろをつくねたやうにしやがんだまゝ泣き濡れて居ります。
「秀、よく解つたよ。手前てめえがこれをキツカケに眞人間に返れば、俺は何にも知らないことにしてやらう。千兩箱は多分、湯釜の中でゆだつて居る筈だ、急いで行きな」
 と平次。
「それも御存じで」
「何も彼も解つたよ」
「親分、有難う御座います、この御恩は」
「まア、宜いやな」
 平次はガラツ八を促して、それつ切り後ろも見ずに、江戸へ引揚げました。
        ×      ×      ×
「親分、どうも腑に落ちねえことが一つあるが」
「何だ、ガラツ八」
「いきなり湯屋へ飛込んで三助を縛つたのは、どう言ふわけです」
「相變らずお前は氣樂だなア、――地藏樣が毎朝暖められて居たんだ。焚火でなきア、湯掻ゆがいたに極つて居るぢやないか」
「へエ――」
「あの地藏樣を嗅いで見ると全く湯屋の湯槽ゆぶねにほひがしたよ」
「なるほどね、何だつて又手數のかゝる事をしたんでせう」
「畑の中の土塀へ寄り付きやうがないから、地藏樣を暖めて村の人に一と騷ぎさせ、ドサクサまぎれにあの屋敷の樣子を窺つたんだよ、全く思ひ付きだ」
「へエ――」
「青錢や鐚錢びたせんを小粒に變へたのも、皆んな秀の野郎の細工さ。秀はあの屋敷の中の樣子が知りたかつたんだ」
 平次は斯う言つて、わだかまりもなくガラツ八を顧みました。





底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1931(昭和6)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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