錢形平次捕物控

兵粮丸祕聞

野村胡堂





 錢形平次もこんな突拍子もない事件に出つくはしたことはありません。相手は十萬石の大名、一つ間違ふと天下の騷ぎにならうも知れない形勢だつたのです。
 江戸の街はまだ屠蘇とそ機嫌で、妙にソハソハした正月の四日、平次は回禮も一段落になつた安らかな心持を、其陽溜ひだまりに持つて來て、ガラツ八の八五郎を相手に無駄話をして居ると、お靜に取り次がせて、若い男の追つ立てられるやうな上ずつた聲が表の方から聞えて來ます。
「八、こいつは飛んだ御用始めになりさうだぜ、手前てめえは裏からそつと廻つて、あの客人に氣を付けるんだ」
「へエ――」
 八五郎はに落ちない顏を擧げました。少し造作ざうさくの間伸びはしてますが、そのうちにも何となく仕込みの良い獵犬のやうな好戰的なところがあります。
「見なきや判らないが、多分あの客人の後をけて居る者があるだらう」
「へエ――」
 八五郎は呑込み兼ねた樣子乍ら、平次の日頃のやり口を知つて居るだけに、問ひ返しもせず、お勝手口の方へ姿を消しました。
 入れ違ひに案内されて來たのは、十七八の武家とも町人とも見える、不思議な若い男。襲はれるやうに後ろを振り返り乍ら、
「平次親分で御座いますか、――た、大變な事になりました。どうぞお助けを願ひます」
 おろ/\した調子ですが、それでも、折目正しく坐つて斯う言ふのでした。
 武家風な前髮立、小倉のはかまを着けて、短かいのを一本紙入止めに差して居りますが、言葉の調子はすつかり町人です。
「何うなすつたのです、くはしく仰しやつて下さい。次第によつては平次、及ばず乍ら御力になりませう」
 平次はさう言はなければなりませんでした。物におびえた美少年の人柄や樣子を見ると、その惱みを取り去つてやりたい心持で一パイになる平次だつたのです。
「私は――牛込御納戸おなんど町の一しき道庵だうあんの伜綾之助あやのすけと申します」
「えツ、それでは若しや、父上道庵樣が?」
「ハイ、三人目の行方知れずになつた本道ほんだう(内科醫)で御座います」
「それは大變」
 これは平次の方が驚きました。一色道庵といふのは、町醫者でこそあれ、その頃日本中にも聞えた本草家ほんざうか(今の博物學者)で、和漢藥に通じて居ることでは、當代並ぶ者無しと言はれた名家だつたのです。
 それは兎も角、平次を驚かしたのは、此三人目の行方不明と言ふことでした。昨年の秋あたりから、江戸の本草學者が神隱しに逢つたやうに、相踵いで行方不明になつて居ります。最初の一人は赤坂表町の流行醫者で本田蓼白れうはく先生、これは二十日目に辨慶橋べんけいばしの下へ死體になつて浮上がりました。二番目に行方不明になつたのは馬道の名醫、伊東參龍さんりう先生。これは、醫者といふよりは、本草家の方で有名でしたが、行方不明になつてから一ヶ月目、向柳原の土手の上で、袈裟掛けさがけに斬られて死んで居りました。醫者が續け樣にやられるので、見立違ひで死んだ病人の遺族が、うらみむくいるのではあるまいかと思はれましたが、赤坂と馬道ではあまりへだたり過ぎて、共通の病人を扱つた心當りもないので、間もなく其疑ひは晴れました。
 併し、何の爲に、醫者が二人迄續け樣に殺されたか、御府内の岡つ引が血眼になつて搜しましたが、下手人はおろか、殺した趣意も解りません。向柳原は繩張内で、平次も暮へかけて一と働きしましたが、こればかりは、雲をつかむやうで、全く手の付けやうがなかつたのでした。
 押し詰つてその噂も漸く忘れられ、氣に掛り乍ら正月を迎へた平次、四日の御用始めに三人目の犧牲者ぎせいしやの伜に飛込まれたのですから、これには全く驚きました。世間並の正月氣分になつて居た自分の怠慢たいまんを指摘されたやうで、こんなに恥入つたことはありません。
「御父上――道庵樣が行方知れずになつたのは、何時いつの事でせう」
「昨夜、正亥刻しやうよつ頃――」
「それなら大丈夫、蓼白れうはく樣は行方知れずになつてから二十日目、參龍樣は一と月目で殺されました。曲者が御府内の名醫や本草家をさらつて行くのには、何か思ひも及ばぬ深い仔細がありませう。兎に角三日や五日のうちに間違がある氣遣ひはありません」
「本當でせうか」
「それはもうお請合いたします。今度こそはどんな事をしても曲者を嗅ぎ出して、萬に一つも、父上樣に間違のあるやうな事はさせません」
「親分、お願ひ申します」
 綾之助は俯向うつむきました。半分は氣休めと知つても、當時岡つ引の名人と言はれた錢形平次にさう言はれると、ツイ涙が先走つて、これ以上口も利けなかつたのです。


「親分ツ」
「あツ、八か、何うしたんだ。何處のどぶから這ひ上がつて來たんだ」
 木戸を押し倒すやうに、いきなり庭先へ入つて來た八五郎の風態は、全く溝から這ひ上がつて來た鼠のやうでした。
「親分、口惜しいよ、女と思つて油斷をすると、いきなり突き飛ばしやがるんだ」
「女に突き飛ばされたのを吹聽ふいちやうしたつて手柄になるかい。井戸端へ行つて水でもかぶつて來な、馬鹿野郎」
「へエ――」
 八五郎は返す言葉もなく井戸端へ廻りました。間もなく寒垢離かんごりを取るやうな水の音、晝下がりの陽射しはポカポカするやうでも正月四日の寒さに、水のお音を聽いただけでゾツと身顫みぶるひが出ます。
「何うしたのです、親分」
 綾之助は眉をひそめました。
「子分のガラツ八といふあわて者ですよ、お前さんが入つて來なすつた時、蔭で聲を聽いただけで、誰かに追ひかけられるか、後をけられて居る樣子だつたから、念の爲に表を見にやつたまでの事ですが、根が悧巧りかうぢやないから、餘計な事をして溝へ投り込まれたんでせう」
「さう言へば、市ヶ谷から此處まで、始終誰かにつけて居られるやうで、何とも言へない厭な心持でしたよ」
 綾之助は舌を卷きました。
 入口に訪づれた人の聲を聽いただけで、その後をけて居る者があると察したのは恐ろしい慧眼けいがんです。
「そんな事は何でもありやしません。八の野郎がつまらない事をしなきア、飛んだ手柄になつたものを――」
「親分、つまらない事は可哀想だぜ、これでも精一杯の仕事をして來た積りだが――」
 八五郎はろくに拭きもしない身體に、新しいあはせを引つかけて出て來ました。
「精一杯の仕事? 一體どんな物を見て來たんだ」
「親分に言ひ付けられて、直ぐ裏から廻ると、向うの荒物屋の角に立つて、そつと此方を見張つてゐる女があるぢやありませんか」
「外には誰も居なかつたのか」
「犬つころ一匹居ねえ、御町内はまことに太平さ」
「無駄を言ふな」
「側へよつて首實檢くびじつけんをしようと思つたが、何うしてもつらを見せねえ、後ろから覗くやうにすると、いきなり筋違すぢかひ見附の方へスタスタ驅け出すぢやありませんか」
「――」
「五六町追つ驅けたが、女のくせに恐ろしく足がはええ、――それに御守殿ごしゆでんくづしの襟脚が滅法綺麗だ」
「何? 御守殿崩し?」
「まさか椎茸髱しいたけたぼぢやねえが、間違ひもなく武家の内儀だ。年は二十五六、――もう少し若いかな」
「それが何うした」
「段々人足は多くなるし、見附を越して駕籠にでも乘られるとうるせえ、後ろから追ひついて、いきなり姐さんちよいと待つて貰はうか――と袖を引くと振り向きもせずにあつしの手を拂つた」
「フーム」
しやくにさはるから、御用ツと首筋へ武者振り付くと身をかはしてデンと來あがつた。それで顏も見せねえんだから凄い腕前だ」
「馬鹿野郎、女に溝へ投り込まれて感心する奴があるかい」
「天下の八五郎を溝へ投り込む女は、江戸廣しといへどもたんとあるわけはねえ」
「呆れた野郎だ――それで手掛りもフイだらう。默つて正直に後をつけて行きや宜いものを」
 平次の言ふのは尤もでした。相手にさとられずに跟ける氣になつたら、思ひの外早く曲者の身元が解つたかも知れないのです。
「親分、勘辨しておくんなさい。女にめられたのはへその緒切つて以來だ」
「嘘をけ、女には舐められ通しぢやないか」
「へツへツへツ、素つ破拔いちやいけねえ」
 ガラツ八は苦笑ひをし乍らピヨコリと頭を下げました。これが精一杯の陳謝の心持でせう。膝つ小僧がハミ出して、道化たうちにも、妙に打ちしをれた姿が物の哀れを覺えさせます。


 錢形平次はガラツ八を伴れて、時を移さず御納戸町の一色家に乘込みました。一子綾之助が曲者に跟けられたとすると、隱れてコソコソ探索する必要は無かつたのです。
 道庵は御典醫ごてんいではありませんが、上樣の御聲掛りで、萬一の場合は城中にも御呼出しがあつて、簾外れんぐわいから糸脈を引くことなどがあり、町醫乍ら苗字帶刀を許され、御納戸町に門戸を張つて、江戸三名醫の一人と言はれるほどの人物でした。
 早く妻に死別れて、家族は一子綾之助と、その姉のお絹の三人きり、お絹は父の仕込みで、女乍ら本草學に詳しい上、世にすぐれて美しく生ひ立ちましたが、父道庵の註文が六つかしいので定まる縁もなく、二十歳の春まで、白齒の美しさを山の手一圓にうたはれて居ります。
 乘込んで行つた平次も、何から手を付けて宜いか見當も付きません。昨夜亥刻よつ時分に、麹町三丁目の雜穀屋で、山の手切つての分限ぶげんと言はれた伊勢屋總兵衞から、急病人があるからと、駕籠を釣らせて迎へに來たので、道庵は取るものも取り敢へず、その駕籠に乘つて出掛けましたが、後から藥箱を持つて待つた下男は、狐につまゝれたやうな顏をして戻つて來ました。
 伊勢屋には病人も何にもなく、道庵を呼んだ覺えは勿論、風邪藥かぜぐすりを買つた者もないのに、松の内から藥箱を持込まれて以ての外の機嫌だつたのです。
 さては――と氣の付いたのはもう眞夜中過ぎでした。父道庵が不思議な醫者殺しの三人目の犧牲者に選ばれたと判ると、お絹、綾之助の姉弟は居ても立つても居られません。
 姉弟打合せた上、弟の綾之助が錢形の平次を訪ねたのはその翌る日の晝頃、平次は柳原で殺された伊東參龍の始末も付いて居ないので、おめんの安の繩張なはばりを承知の上、二つ返事で飛んで來たのでした。
「駕籠は町駕籠でしたか」
 と平次、お絹に引逢はせてくれると、挨拶も拔きにこんな事を訊きます。
「町駕籠のやうに仕立てゝ來ましたが、後で氣がつくと、道具も人足も思ひのほか立派だつたやうで御座います」
 お絹は取亂した中にも、才女らしくハキハキ答へました。二十歳といふにしては、少しふけた方ですが、充分美しいうちにも何となく理智的なところのある娘でした。絹の縞物しまものは少し平常着に贅澤ですが、時めく流行はやり醫者の娘としては、騷ぎの中にもよいたしなみです。
「提灯の紋は?」
「それも見ませんでした。尤も昨夜はあの風で、手拭で提灯を包んでも不思議はなかつたので御座います」
「フーム」
 平次はうなるばかりです。
「親分、お願ひで御座います、一日も早く探し出して下さい」
 氣象者のお絹も、平次の手を取らぬばかりに斯う言ふのでした。
 門弟達、出入の者、一と通り調べましたが、何んの手掛りもありません。往來で駕籠を見かけた人をさがすことなどは、時も時、正月三日の江戸の街でも、思ひも寄らぬことです。そのうちに松が取れて、世間は次第に靜かになりましたが、道庵の行方は見當も付かず、平次もすつかり腐つて了ひました。
「平次、醫者殺しの下手人はまだ判らぬか。一色道庵の行方知れずになつた事は、殿中の御噂にまで上つたさうだよ」
 與力の笹野新三郎は、平次を激勵するともなく、こんな事を言ふやうになりました。
「恐れ入りますが、もう三日ばかり御待ち下さいまし」
 一時逃れと解つても、平次はさう言ふより外には言葉もなかつたのです。
 悄然せうぜんとして八丁堀から歸つて來ると、これも眞劍に心配して居るには相違ありませんが、物に遠慮のないガラツ八が、
「親分しつかりしておくんなさい、世間ぢやさう言つてますぜ――錢形のもタガがゆるみはしないかつてね。江戸中の醫者が種切れになつた日にや全く、風邪も引けねえことになりますぜ」
「馬鹿野郎」
 平次はムズムズする程腹を立てましたが、さすがにガラツ八をなぐりもなりません。


「親分、一色道庵が歸つて來ましたぜ」
「何?」
「先刻御納戸町を通つたから、ちよいと覗いて見ると、一色の家はぼんと正月が一緒に來たやうな騷ぎだ」
「それア不思議だ。兎に角行つて見よう」
 平次は直ぐ飛出しました。もう戌刻いつゝ過ぎ、夕方から吹き始めた名物の空つ風に、頬も鼻も、千切れて飛びさうな寒さですが、平次の探求心は反つて火の如く燃えさかります。
「親分、はええ足だなア、そんなに急がなくたつて大丈夫だよ。一色道庵は、向うから駕籠で送り屆けられたんだから、當分消えて無くなるわけはねえ」
「無駄を言はずに歩くんだ」
「だつて、考へて見るとあつしはまだ晩飯にもあり付かねえ、無駄も言ひたくなるぢやありませんか」
「――」
「第一、助かつて歸つたにしては、あの醫者の浮かねえ顏がせねえ」
「何だと」
「一色道庵は家へ歸つてもろくに物も言はず、土壇場どたんばに据ゑられたやうな陰氣な顏をして居るのはどんな譯でせう、ね親分」
「フーム、それは不思議だ。何か深い仔細しさいがあるんだらう、急がうぜ八」
「だがネ親分、あのお絹さんとか言ふ、お孃さんは大した容貌きりやうだね」
「――」
「それにしつかり者で、學問があつて」
「解つてるよ」
 そんな事を言ひ乍ら、二人は鐵砲だまのやうに一色道庵の門を潜りました。
 中はガラツ八が言つたやうに、盆と正月が一緒に來たやうな騷ぎ、平次はガラツ八を門弟達の部屋に殘して、取り敢へず一色道庵に逢つて見ましたが、困つたことに誰にさらはれて、十日の間何處に隱されて居たか、その事に關する限りは、一言ももらしません。
「平次親分、留守中は大層御世話になつたさうで、お蔭の申上げやうもありません。お蔭で無事に歸つて來ましたが、――いや訊いて下さるな。何處に何をして居たか、そればかりは言へません」
 一度話が急所に觸れると、分別臭い五十男の坊主頭を、深々と八丈の襟を埋めて、田螺たにしのやうに押し默つて了ふのです。
 平次はいろ/\手を盡して問ひ試みました、娘のお絹も見るに見兼ねて口を添へますが、一色道庵の顏は困惑に硬張るだけで何の役にも立ちません。
「それは料簡違ひぢやありませんか。惡いことをした覺がないから、言ふも言はぬも勝手とは思ひなさるだらうが、世の中はそれぢや通りません。――おかみの方には、本草學者を三人も誘拐かどはかしたのは、いづれ毒でも盛らせる積りだらう。大きなお家騷動でも始まるか、でもなきや、謀叛むほんたくらんで居る奴があるに違げえねえ――と斯んな噂もあります。萬一謀叛人に荷擔かたんして、見聞きした事も漏らさずに、大事が起つた時は何うなると思ひます」
「――」
「その時、一人や二人腹を切つたところで申譯が立ちませうか。九族根絶やしになつてからでは、悔んでも追付きやしません」
 平次の言葉は急所を突きました。『謀叛』と聞くと、一色道庵はサツと顏色を變へて、靜かに四方を見廻し乍ら、
「申しませう、――此方へ」
 言葉少なに平次を別室にみちびき入れ、改めて四方に氣を配ると、自分の胸に手を置いて、ホツと溜息を吐きました。


「平次親分、私は世にも不思議な目に遇ひました。お蔭で本田蓼白れうはく、伊東參龍兩先生が殺された事情もよく解り、私も無い命と覺悟をしましたが、不思議なことで命を助かり、何うやら彼うやら此處へ送り返されました。併し、何時また伴れて行かれるか、此儘蟲のやうに打ち殺されるか、それさへ解らない心細い身の上です」
 一色道庵の話は怪奇を極めました。
 斯うです。
 正月三日の晩、伊勢屋總兵衞からの迎ひと言つて來た駕籠は、道庵を乘せると、嚴重にたれを下ろして、滅茶々々に驅け出しました。お納戸町から麹町三丁目までと言ふと、ほんの一と息で驅け付ける筈ですが、ものゝ半刻あまりもグルグル廻つて、
「これはをかしい」
 と思つた時は、まるつ切り見當も付かぬ家の前――深い木立の中の一軒屋、それは丁度大名の下屋敷の離屋はなれと言つた、小さいが數寄すきこらした家の庭先へ擔ぎ入れられて居たのです。
 驚く一色道庵は、聲を立てる暇もなく、その縁の上へ引上げられました。四方は深い木立、右も左も大きい屋敷續きで、少し位聲を出したところで、誰も救ひになどは來てくれさうもない場所だつたのです。
 やがて氣が付くと、眼の前の障子は左右に押し開かれました。正面には唐銅からかねの大火鉢へ、銀の網の上から手をかざして、五十年輩の立派な人物が坐り、脇息にもたれたまゝ、寛達な微笑をさへ浮べて此方を眺めて居るのでした。
 ハツと聲を立てようとすると、左右の手を取つて引据ゑられました。何時の間にやら、鬼をもひしぎさうな武家が二人右と左から挾んで、道庵を護つて居たのです。
「一色道庵よく參つた、苦しうない、即答を許すぞ。それからしとねを取らせえ」
 主人は鷹揚に言つて、人に反抗させぬ微笑、持つて生れた壓倒的な微笑を送るのでした。
 やがて、主人は手文庫の中から、疊紙たゝうに包んだにしきの袋を出し、その中を探つて、薄黒い梅干ほどの丸藥を取出しました。
「道庵、此處まで來て貰つたのはこれの爲ぢや。何日なんにちと日限は切らぬが、出來るだけ早く、この丸藥と同じものを作り、その處方を書いて貰ひ度いのぢや、褒美は望み次第取らせる、――が萬一失策しくじると其儘歸さぬぞ」
 道庵はヒヤリとしました。本田蓼白や伊東參龍は、この丸藥と同じ物を作り兼ねて、――其儘殺されて了つたのでせう。
「よいか道庵」
 宜いも惡いもありません。道庵はその不思議な丸藥を取り上げて、思はず胴顫どうぶるひをしました。
 丸藥は作つてから何十年經つたか解らないほど古いもので、眼で見、鼻で嗅いだ位では、とてもその處方がわかりません。
「その丸藥は手元に七つある。一つだけは噛んでも碎いても構はぬが、その代り同じものを作らなければならぬぞ、よいか」
 主人はさう言つて、何んのわだかまりもなくニヤリとしました。
 一色道庵はそのまゝ其處に止め置かれて、丸藥の分析ぶんせきに沒頭しました。が、七日經つても、十日經つても、蓼白、參龍が解いたより、たつた二つの違つた原料を發見しただけで、相變らず殘る二つ三つは、年數の爲に變質して、何としても解きやうがなかつたのでした。
 林の中のいほりは大きな屋敷と垣一つへだてただけで、日頃二三人の武家と、凄いほど美しい女と、下女が二人居るだけ。主人はそれつきり姿を見せませんでしたが、待遇は實に至れり盡せりで、一色道庵に何の不自由もさせません。
 十日經ちました。久し振りで庵を訪ねた主人の前へ、一色道庵の示した丸藥の成分と言ふのは、人參、松樹甘皮まつのあまかは胡麻ごま※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁よくいにん甘草かんさうの五味だけ。
「人參と※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁よくいにんの解つたのは手柄であつた。が、その丸藥は七味を併せて作つたものぢや。殘りの二味は何であらう」
 主人は大機嫌で斯う言ひます。
「恐れ乍ら、この丸藥を一粒拜借して、御納戸町の自宅にお歸し下されば、心永く研究を重ね、殘る二味を相違なく見付けて參りますが――」
 道庵は恐る/\斯う言ふのでした。
「フ――ム」
「此處では何分道具藥品などが揃ひません。如何で御座いませう」
「それでは一應納戸町へ歸すと致さうか。その代り此事を一言ももらしてはならぬぞ。その丸藥の祕密向う一ヶ月の間に解き、解き了つたら合圖をいたせ、早速迎ひの者を遣はすであらう、よいか」
 堅い約束。道庵はめで度く自宅へ歸る嬉しさに、何も彼も承服して送り還されて來たのでした。


「親分、斯うしたわけ、――私には何の事やら少しも解りません。丸藥は幾度もめ試みましたが、毒藥が入つて居たにしても、人を殺すほどでないのは確かで、殘る二味も、私には大方見當は付きます。これでも謀叛むほんや惡企みと關り合ひになるでせうか」
 一色道庵は全く不思議でたまりません。
「その林の中のいほりといふのは、何の邊に當るでせう」
 と平次。
「それが少しも解らないのです。道順の樣子では麻布か赤坂と思ひますが――」
「家具類、――例へば火鉢とか膳とか、長押なげしとかに定紋のやうなものは無かつたでせうか」
「それも氣を付けましたが、長押の金具は剥ぎ、襖の引手は外し、手洗鉢も膳椀も、その邊の店にあり合せの品を集めたもので、一つも紋のあるのは出しません。尤も主人の殿が用ひた火鉢だけは一度毎に隱しました。が、何やら蒔繪まきゑの紋があつたやうで、要心深くきれを卷いて隱してありましたが、何かのはずみで見えたのは、抱き茗荷めうがのやうな、うろこのやうな、二つ菊のやうな、――遠目でよくは判りませんが、何でも變つた紋所でしたよ」
「言葉のなまりは?」
「女共は間違ひもなく京言葉でしたが、武家と主人の殿には、奧州訛りがあつたやうに思ひます」
「有難う御座いました。それだけで大方見當が付きませう」
「どうぞ、私から聽いた事は内々にして置いて下さい。又何んな仇をされるかも解りませんから」
「それは大丈夫で御座います」
 平次はそこ/\に暇乞をすると、夜駕籠を飛ばして、眞つ直ぐに八丁堀へ。
「御免下さい。天下の大事、旦那樣に御目にかゝつて申上げたい事が御座います。神田の平次が參つたと仰しやつて下さい」
 眞夜中の笹野新三郎の門を叩きました。
「何だ平次、夜の明けるのを待ち兼ねるほどの大事があるのか」
 吟味ぎんみ與力筆頭、若くて俊敏な笹野新三郎は、この自慢の岡つ引に叩き起されて、大した不平らしい顏もせずに起きて來ました。
「旦那、何うも謀叛むほんの匂ひがします」
「何?」
「これを召上つて御鑑定なすつて下さいまし。一色道庵はこの丸藥と同じ物を作れと言はれ、林の中の大名の下屋敷の離屋に十日も留められたさうで御座います」
「フ――ム」
「本田蓼白と伊東參龍の見分けた成分は、松の甘皮と胡麻と甘草で、一色道庵はその上人參と※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁よくいにんを見つけた。さうですが、もう二味ある筈だと言ひます。道庵は、多分田螺たにしを干して粉末こなにしたのと、毒草どくさう鳥兜とりかぶと烏頭うづだらうと申しますが、それを打ち明けると殺されるから、家へ歸つて研究すると言つて、首尾よく送り還されたさうで御座います」
 平次の話は、事毎に新三郎を驚かしました。
「平次、それが本當なら、大變な事になるぞ」
「へエ――」
「お前は知るまいが、これは陣中の兵粮丸ひやうらうぐわん、一に避穀丸ひかこくぐわんとも兵利丸ひやうりぐわんとも言ふ祕藥だ」
「へエ――」
「兵家、仁術家は皆知つて居る筈だ。遠きは義經の兵粮丸、楠氏の兵粮丸、竹中半兵衞の兵粮丸など言ふものがある。兵書には蝮蛇まむし茯苓ふくりやう、南天の實、白蝋はくらふ、虎の肉などを用ひ、一丸よく數日のうゑを救ふと言はれて居る」
「へエ――」
 平次は開いた口が塞がりません。全く大變な事になつて了ひました。
「東照權現樣御一統の後は、各藩兵家本草家に兵粮丸を作らせ、いざ鎌倉と言ふ時に備へて居るが、これは祕中の極祕で、家老用人といへどもその製法を知らないのが常だ。天下知名の兵粮丸と言ふのは、
江州の彦根、越後の高田、南部の盛岡、岩代いはしろの二本松、伊豫の西條、羽後の秋田、上總かづさの大多喜、長州の山口、越前の福井、紀州の和歌山、常陸ひたちの水戸、四國の高松、
 などがある。牛肉を用ふるもの、勝栗を用ふるもの、白梅を用ふるもの、いろ/\あるが、いづれも藩の運命を賭けても祕密を守り、藩外には處法は申すまでもなく、兵粮丸一片も出さぬやうに心掛けて居る」
 笹野新三郎の説明は、すつかり平次を仰天させました。
「すると、矢張り謀叛ものですね。麻布赤坂あたりに下屋敷を持つて居る大名が、兵粮丸を手に入れるか何うかして、本草家を誘拐いうかいしてそれを作る積りでせう。これは一日も油斷がなりません」
「ところで平次、何處の藩がそんな事をたくらんで居るか、見當でも付いたのか」
 と新三郎。
「奧州なまりのある大名と家來で、女中に京女を使つて居るところと言ふと、直ぐ判りさうぢや御座いませんか、旦那」
「フ――ム」
「紋所は、抱き茗荷めうがのやうな、うろこのやうな、二つ菊のやうな――下屋敷が麻布か赤坂――あゝ判つた」
「何が判つたんだ、平次」
「間違ひつこはありません。南部で御座いますよ」
「南部」
「御領地は盛岡で十萬石、南部大膳大夫樣はむかづるの紋ぢや御座いませんか、その上お下屋敷は麻布南部坂で、召使女中には御自慢で京女を御使ひになる。一色道庵の逢つたのは、南部大膳大夫重信樣に間違ひは御座いません」
「フ――ム」
 笹野新三郎もこんなに驚いたことがありません。本草家を三人誘拐して二人まで殺したのは、容易ならぬ陰謀いんぼうとは思ひましたが、それが兵粮丸の祕密を解くからくりで、南部大膳大夫に疑ひが向いて行くとは思ひもよらなかつたのです。
「早速たつくちの評定所へいらつしやいませ、御老中に此旨を申上げて、夜の明けぬ間に討手を差向けられるやう――」
「これ/\平次、もう少し後先を考へて物を言へ、南部家には立派な兵粮丸が傳はつて居る筈だ。數ある兵粮丸のうちでも、南部と水戸の兵粮丸は有名で、大小名方の羨望せんばうの的になつて居るのに、何を苦しんで古めかしい兵粮丸の分析をさせるのだ」
「へエ」
「その邊の事が判然はつきり相わからぬうちは、滅多なことは相成らぬぞ。わけても南部大膳大夫樣は忠誠の志深く、御上の御覺も目出度い方だ。隣藩佐竹樣への抑へとして、格別の御聲掛りがある筈、謀叛などは思ひも寄らぬ」
 笹野新三郎の言ふことは理路整然として居りました。錢形の平次、捕物にかけては天下の名人ですが、大名方の消息は、與力の笹野新三郎ほど讀んでは居なかつたのです。


 兵粮丸や避穀法ひこくはふと言ふものは、荒唐無稽なものゝやうに思ふのは大間違ひで、昔は軍陣、忍術者の食糧として必要だつたばかりでなく、避穀法として、凶作飢饉に備へる爲に、各藩こぞつて學者に研究させたものでした。
 中には随分馬鹿々々しいのもありますが、十中八九は理詰めで、梅干大の兵粮丸が三つか五つで、少きは半日一日、多きは三日七日のうゑしのいだと傳へて居ります。
 兵粮丸には、麻痺藥まひやくを用ひて、一時胃を欺瞞ぎまんするのと、カロリーの多い食糧のエキスを取つて、少量の食用で大きいエネルギーを出させるやうに出來たのとあります。之等の研究は、今では專門の學者の仕事で、此處で書き盡すにしてもあまりに重大な問題です。唯決して出鱈目なものではなく、昔の人は斯う言ふことに就て、實によく研究して居たと言ふことが解つて頂けば充分です。
 くだつて天保年間には、兵粮丸に就て面白い騷ぎがありますが、それは又筆を改めて書く機會もあるでせう。
 兎に角、兵粮丸の祕密を守る爲には、随分一藩の運命を賭けたこともある位ですから、封建時代に、人間を二三人殺すことを、何とも思はない野心家があつたことも不思議はないのです。
 餘事はさて措き、錢形平次は笹野新三郎に止められて、辛くも老中を動かすことだけは思ひ止りましたが、江戸の名醫を二人迄、蟲のやうに殺した相手を、其儘差置くのが、何としても心外でたまりません。
 翌る朝、御納戸町へ行つて、もう少し詳しく聽く積りで居ると、例のガラツ八が、旋風つむじのやうに飛込んで來ました。
「親分、今度はお孃さんがさらはれた」
「何? お孃さんが――」
「お絹さんが昨夜のうちに行方知れずだ。あんな綺麗な娘の死體が辨慶橋なんかに浮いた日にや、天道てんたう樣も無駄光りだ、大急ぎで出かけませう」
「よしツ、來い八五郎」
 二人は宙を飛んで一色邸に駈付けましたが、打萎うちしをれた道庵を慰めるすべもなく、何うする事も出來ない有樣だつたのです。
 お絹は昨夜丑刻やつ頃から曉方までの間に家を拔け出しましたが、外から誘はれたのなら、誰か氣が付かずに居る筈はありませんから、多分、自分から進んで出掛けたところをさらはれたのでせう。
「親分、昨夜お前さんに打明けたのが惡かつたのだ。娘に萬一の事があつちや、私は生きて行く空もない」
 一色道庵が、平次をつかまへて、怨みがましく言ふのも無理のない事でした。
「ところで、玄關の上にブラ下げた瓢箪へうたんはありア何んの禁呪まじなひです」
 平次は妙なところへ氣が付きました。
「――」
「お孃さんがさらはれたので、丸藥の祕密が解けたと言ふ合圖をなすつたのぢや御座いませんか」
「――」
「ね、それが惡いとは言ひませんが、相手はどんな事をする氣か、見當もつきません。大きい聲では言へませんが、萬一これが謀叛を企らんで居るとしたら――」
「いえ、親分、そんな事はありません。あんな丸藥で謀叛も騷動も起せるわけはないし、それに、私にしては娘の命が何より大事で御座います。默つて私をやつて下さい、玄關へ瓢箪を出せば、その日のうちに迎への駕籠が來ることになつて居ります」
「行つて丸藥の祕密を奪られた上、萬一の事があつたら?」
「そんな事はありやしません。丸藥の七味を解いてやれば、恩こそあれうらみを受ける覺はない筈です。私は行つて娘を救ひ出きなきやなりません」
 お絹が父親の命に代る爲に、自分から進んで虎狼こらうあぎとへ飛込んだと解ると、一色道庵は危險に對してすつかり盲目になつて了つたのです。
「それぢや、たつた二つ私の願ひを聽いて下さい、――一つは、その林の中のいほりの繪圖面を引いて見せること、一つは――」
 平次の聲は次第に少さく[#「少さく」はママ]、やがて一色道庵の耳に何やら囁いて居ります。


「恐れ入りますが、御用人樣へ御取次を願ひます。あつしは八五郎と言ふケチな野郎で御座いますが、御家の大事を御知らせ申したさに、神田からわざ/\參りました――と」
「何ぢや、御用人樣に逢はしてくれ、お前は一體何だい」
 繼穗つぎほもなくヌツと出たのは、南部坂下屋敷の裏門を預かる老爺、今まで手内職をして居たらしい埃を拂つて、凡そ胡散臭うさんくささうにガラツ八の間伸まのびのした顏を眺めやるのでした。
「へエ――、正にあつしで」
「正につて面ぢやないよ、――用事は何だい、滅多な物貰ひを取次ぐと、俺が叱られるでな」
「物貰ひぢやないぜとつさん、お家の大事つてえものを教へに來たんだ」
「さうかい、お家の大事とあつては放つても置けまい、どりや」
 腰を伸ばすと、丁度向うから中年の立派な武家が一人、何の所在もなくフラリと此方へやつて來るのを見かけました。
「あツ、櫻庭樣、丁度いゝところで御座いました。この人が、お家の大事とやらを持つて來なすつたさうで、裏門に立ちはだかつて、滅茶々々に小鼻を脹らませてゐますが」
「何? お家の大事? 聽き捨てならぬ事ぢや。拙者は櫻庭兵介、當南部藩の家老職を勤め居る者――」
 ズイと出ました。思慮も分別も腕も申分のない武家に壓倒されて、ガラツ八の八五郎はツイ二三歩引下がりました。
「へエ、手前は八五郎と申しまして、ケチな野郎で御座いますが、南部兵粮丸の七味はよく存じて居ります。人參、甘草、※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁よくいにん、それに胡麻と松の甘皮、――其處までは誰でも解るが、殘りの二味がむづかしい」
「何を言はれるのぢや、飛んでもない。南部兵粮丸は、一藩の祕密で處法は御國許寶藏に什襲じふしふしてある。拙者如きの知るところではない」
 櫻庭兵介もすつかり煙に卷かれた形です。
「御家老のお前さんも御存じがない。へエ――、すると、殘る二味を申上げても一向面白くはないわけで」
「左樣」
「少しをかしな事になつたぜ、――ね、御家老樣、今殿樣は此方の御下屋敷にゐらつしやるんですかい」
「それは申上げ兼ねるが、見らるゝ通り裏表に門番一人づつ、拙者が時々見廻りに來る位だから、大方お察しもつかう」
「成程、此處にはいらつしやらない、と仰しやるんですか、――へエ――、ところで、一色道庵の娘、お絹と申すのが此お屋敷に居りませう」
「いや、そのやうな者は居らぬぞ」
「をかしいなア、それぢや本田蓼白りうはくや、伊東參龍を殺したのも御邸の者ぢやないと仰しやるんですね」
 八五郎は遠慮を知りませんでした。穩當な櫻庭兵介の調子に油斷をするともなく、ツイ斯んな事までツケツケと言つて了つたのです。
「無禮者ツ、何を申すツ」
「へエ――」
「先程から默つて聞いて居ると、放圖はうづも無い男だ。殿を初め一藩の名に拘はる事を申すと、其儘には差許さんぞ」
「――」
「成敗して取らせる、それへ直れツ」
 櫻庭兵介が鯉口こひぐちをプツと切ると、八五郎横ツ飛びに五六歩、早くも門の外へ飛出して居りました。
「冗談でせう。こんな事で首をチヨン斬られてたまるもんぢやない、あばよと來た」
 尻を端折ると後をも見ずに、サツと一文字に逃出します。
「爺や、あれは何ぢや」
「氣違ひで御座いませうよ、別段飮んでる樣子もなかつたやうですから」
 門番と家老は顏を見合せて笑ひました。まことに天下泰平な圖柄です。


 ガラツ八の報告を聽くと、平次の頭腦あたまはいろ/\に働きます。此事に南部家は關係して居ないやうにも思はれますが、若し關係があるものとすれば、櫻庭兵介は日本一の喰はせ者です。
 それに、一色道庵の書いた林中のいほりの見取圖と、ガラツ八が覺束ない手で引いた、南部家下屋敷の横手にある離れの圖を比べると、林の配置、外觀、構造、實によく似て居りますが、不思議なことに二つの圖面の外觀が、鏡へ映した實體と映像のやうに正反對になつて居るのです。道庵の見取圖は入口が右なのに、ガラツ八のは左、袖垣も、障子も、縁側も、そつくり其儘と言つて宜い位正反對になつて居るのは、一體何を意味するのでせう。
 此上は最後の手段として、一色道庵が、迎ひの駕籠に搖られて行く道々、平次の智慧で殘して行つたしをりを探すより外はありません。道庵の駕籠を跟ければもつと簡單に曲者のさくが解る筈ですが、駕籠に付添つて來た一人の武士は、下手へたに駕籠を跟ける者があれば、一刀の下に道庵を刺す積りらしく、鯉口を切つて、まだ薄明りの街を行つたので、平次と雖ども、今日ばかりは何うすることも出來なかつたのです。
 一色道庵は、膝の上に載せた藥箱から、一と掴みのぬかを出して、付添の眼を忍ぶやうに、道々。往來へ撒いて行きました。駕籠の垂を下ろして居るので、何處を通るのか見當は付きませんが、扉の下の方に商賣用の水牛のさじを挾んで、糠をこぼして行く位のことは出來たのです。平次は其後を追ひました。駕籠を見失ふと、往來にこぼした糠をたよりに、それでも、何うやら斯うやら六本木まで辿り着きました。
 駕籠はもう何處へ行つたか解りません。提灯で照し乍ら地べたをめるやうに、僅かに殘る糠をたよりに來ると、
「野郎ツ」
 不意に棍棒が耳をかすめます。提灯を叩き落されたのでした。
「あツ」
 顏を擧げると、何時の間に集つたか、三方から五六人の人數、棍棒と匕首あひくちを、中には二條の白刄さへ交へて、
「え――ツ」
 なますになれと斬かゝります。平次はいたちの樣に飛退きました。
「何をしあがるツ」
「斬れつ」
 キナ臭くなるやうな襲撃。平次はもう一度白刄をかはすと、身をひるがへして五六歩。
「逃げるか平次」
「何をツ、これでも喰へツ」
 懷を探ると、取出したのは青錢が五六枚。一枚々々に口でめて、ピユーツ、ピユーツと得意の投げ錢が夜風をります。
「あツ」
「やられたツ」
 二三人は額を割られた樣子、たじろぐ隙に平次は、身をかはして街の宵闇に隱れて了ひました。
 併し平次の方も大手ぬかりでした。折角智慧を紋つたぬかしをりも、夜道ではあまり役に立たず、そのうちに空ツ風が吹いて、明日をも待たずに吹き飛ばされて了つたのです。
 翌る朝、一色道庵の死體は、南部家下屋敷の門前に捨てゝありました。
 左肩口からたつた一と太刀、大袈裟おほげさに斬つたのは凄いほどの手際で、平次が飛んで行つた時はまだ檢屍も濟まず、門の側に寄せて、むしろを掛けたまゝ、役人と門番の老爺が見張つて居ます。
 一應死體を見せて貰つた平次は、丁度下屋敷に居合せた家老の櫻庭兵介に逢つて見ようと思ひました。一方は十萬石の大名の二番家老、此方は町方の御用聞風情、あまりに身分が違ひ過ぎますが、門前に變死人があつては、留守居の重役、知らん顏も出來ません。
「平次とやら、困つた事が起つたものぢや。當家の迷惑は一と通りではない、何とか早く取片附けて貰ひ度いが――」
 櫻庭兵介思ひの外手輕に平次を呼入れて、縁に腰を掛けたまゝ、斯うこぼして居ります。ガラツ八を脅かした樣子では、かなり荒つぽい人かと思ひましたが、會つてみると思ひの外練れた人間で、岡つ引風情に、何のへだたりもなく斯う話しかけます。
「恐れ入ります。もう直ぐ取片付けませう。御迷惑は萬々御察し申しますが、あの死體があつたばかしに、御當家に掛る重大な疑ひが晴れました」
「それは一體、何の事ぢや」
「三人の本草家をさらつて殺した曲者は、御當家へ疑ひのかゝるやうに仕向けて居ります。昨夜も一色道庵をわざ/\此處まで伴れ出した上、後ろから一刀に斬り捨てたのは、その爲で御座いました」
「フーム」
「あの手際は見事で御座います」
「餘程の腕利きであらうな、八丈の重ね着を一枚の雁皮がんぴのやうに斬つてある」
「ところが、それほどの腕利きも、お當家裏門前で斬つたのは手ぬかりで御座いました。門の扉に飛沫しぶいた血潮で見ますと、門を閉めたまゝで外で斬つたものに相違御座いません。御當家から送り出したものなら、あれだけ門の近くで斬る爲には、扉を開けて居る筈で御座います」
「フーム」
 櫻庭兵介は唸りました。南部家に對する疑ひが晴れた喜びよりも、此岡つ引の智惠のたくましさに驚いたのです。


「ところで、つかぬ事を伺ひますが、御當家の兵粮丸處法が紛失したことは御座いますまいか」
 平次はいきなり話頭を轉じました。
「いつぞやも、其樣な事を訊ねて來た男があつた――が、南部兵粮丸は天下知名の祕藥ぢや。臣下といへどもみだりに知ることは相成らぬ。殊に、泰平の今日、兵粮丸などはまづ世に出ぬ方が宜いとしたものであらう」
「恐れ入ります」
「御領地盛岡の不來方こずかた城寶藏に什襲してあるが、それが何とか致したか」
「いえ、――ところでその兵粮丸を用ひられたのは、何時の事で御座いませう。一番近いところで――」
「左樣、近頃はトンと聞かぬが、天正十八年に一族九戸政實がそむいた時、南部の福岡城で用ひたといふことが傳はつて居る」
「何方が用ひましたので」
「攻め手は南部藩に、仙臺會津の援兵二萬人といふ大軍だが、兵糧も充分あり、兵粮丸の世話にはならなかつた。敵は謀叛人の九戸政實一族五千人、福岡城を死守したから、その時城中に貯へてあつた南部の兵粮丸を用ひたことゝ思ふ。尤も兵粮丸の法書きは不來方こずかた城から一度も出した事がない」
「九戸政實の一族は何うなりました」
「皆死んだよ。城中の男女數百人をやぐらに置いてみづから火をかけ、黨類三十餘人はちうせられて首を京師に送つた――とある」
「その九戸の一族で今日まで生き殘る者は御座いませんか」
「何分昔の事だ。今生きて居ると皆百歳以上だらう、尤も、その子孫はないとは申されぬが」
 櫻庭兵介は問はるゝまゝに藩の歴史を語ります。
「外に、南部藩を怨む者は御座いませんか」
「ない、いや心當りがないよと言つた方が宜からう」
「大膳大夫樣とお仲の惡いのは?」
「大きなこゑでは申されぬが、津輕つがる越中守樣ぢや」
 後に相馬大作の騷ぎを起した南部と津輕は、その頃からなんとなく犬猿の心持で睨み合つて來たのです。
「恐れ乍ら、御下屋敷の中、わけても御庭を拜見いたしたう御座いますが」
 平次は妙な事を言ひ出しました。
「ならぬところだが、當家の迷惑を取除いてくれた其方の爲に、案内して取らせる、斯う參れ」
 櫻庭丘介は氣さくに立ち上がり、平次を伴れて、霜枯しもがれの深い庭を彼方、此方と案内してくれました。
        ×      ×      ×
 その日の晝頃、精鋭をすぐつた大捕物陣が、犇々と南部坂に取詰めました。采配さいはいを揮つたのは與力の笹野新三郎、夜は曲者を逃がすおそれがあるので、わざと林の中の捕物に眞晝を選んだのは、錢形の平次の智惠だつたのです。
 取圍んだのは、南部樣下屋敷左隣に、僅かに垣を隔てゝ建つた林中のいほりで、これが不思議なことに、下屋敷の中にある離屋と一對になつた、恰好と言ひ、場所の關係に、誰でも一度は南部樣下屋敷の中の建物と間違へるやうに出來て居たのでした。
 捕物は相當以上に骨が折れました。手負を五六人も拵へて、兎に角一人殘らず召捕つたのは一刻ばかりの後。
 主人の殿に紛したのは九戸政實まさざねの曾孫で九戸秀實。ガラツ八を溝へ叩込んだ女はその妻綱手つなで、これは大變な女丈夫で、素姓を包んで南部家の奧に仕へ、兵粮丸の機密を知つて、幸ひ夫秀實の手に殘つて居る福岡城以來の南部兵粮丸を種に、乾坤けんこんてきの大芝居を打つたのでした。手を貸したのは諸方に浮浪して居た一族の誰彼、南部家下屋敷の隣、昔數寄者が建てゝ其儘になつて居た庵を手に入れて、此處まで仕事を運んだのを平次に見破られたのです。
「親分、本當にあの連中は謀叛むほんをする氣だつたのかい」
「いや、古い兵粮丸が手にあるのを幸ひ、その通りの物を作つて、處法をさる大名に賣り込む積りだつたのさ。話は大方極つて、今晩取引といふところを縛られたのは惜かつたらう。何しろ、南部の兵粮丸と言へば少し山氣のある大名なら何處でも飛つくよ、三千兩でも安いよ。南部坂に巣を構へて南部家に疑ひを向けるやうにしたのは、萬一露見した時の用意、昔の九戸政實のうらみを報いる積りさ」
「へエ、三千兩かい、あの薄黒い丸藥の法書が?」
「それにしても不愍ふびんな人間だ。名ある本草家の三人まで殺すと言ふやうなひどい事をしなきア、助けてやるんだが――」
「さうとも、お絹さんの敵だ」
「手前、お絹さんと言ふと夢中だが、あれだけは諦めろよ、高根の花だ」
「――」
 二人は御納戸町の方へ歩いて居りました。危ふい命を助かつて、弟綾之助あやのすけの許に引取られて行つたお絹の樣子を見に行くつもりだつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第九卷 幻の民五郎」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月20日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1934(昭和9)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年3月16日作成
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