錢形平次捕物控

お此お糸

野村胡堂





「さあ大變だ、親分」
 ガラツ八の八五郎は、髷先まげさきで春風をきわけるやうにすつ飛んで來ました。よく晴れた二月のある朝、何處からともなく聞える小鳥のさへづりや、ほんのりとたゞよふ梅の花の匂ひをなつかしむともなく、江戸開府以來と言はれた捕物の名人錢形の平次は、縁側に立つて斯うぼんやり眺めてゐたのです。
「相變らず騷々しい奴ぢやないか、何が一體大變なんだ」
「大變も大變、今日のは別誂べつあつらへの大變だ、驚いちやいけませんよ、親分」
「誰が驚くものか、お前の大變は食ひつけてゐるよ。犬が喧嘩しても大變、金澤町のおこの坊に男が出來ても大變――」
「そのお此坊の男が殺されたとしたらどんなもので、親分」
「何んだと、あの池月いけづきの與三郎が殺されたといふのか」
「ね、驚くでせう親分。あの打ち殺しても死にさうも無い、ノラリクラリとしたうなぎ野郎の與三郎が、腦天なうてんを石で割られてお茶の水の崖下がけしたに投り出されてゐるんだ」
「行つて見よう」
 錢形平次は氣輕に尻を上げました。お茶の水といへば直ぐ眼と鼻の間で、錢形平次の繩張内でもあつたのです。
 八五郎に案内されて、聖堂裏せいだううらから其頃は茶店などのあつたお茶の水のがけの上へ行つて見ると、其邊はもう一パイの彌次馬、町役人や元町の文七と言ふ中年者の御用聞などが、聲をらしてそれを追つ拂つて居ります。
「え、寄るな/\、見世物ぢやねえ、まご/\すると掛り合ひだぞ」
 露拂つゆはらひのガラツ八が持前の鹽辛しほからい地聲でワメキ立てながら、人波をかきわけて中へくゞると、
「お、錢形の兄哥、丁度宜い鹽梅だ」
 元町の文七はホツとした顏になりました。自分より十歳も若い平次と張合つて、手柄爭ひに血を沸かせたのも昔で、今では平次の頭腦と腕と、それよりも功名にも利害にもこだはらない恬淡てんたんな人柄に推服すゐふくして、何時の間にやら若い兄貴に立ててゐる文七だつたのです。
「元町の兄哥、遲れて濟まなかつた――お、これや大變だ」
 崖の下から引揚げたばかりで、まだこももかけない與三郎の死骸が、折からのうらゝかな春の朝陽に照らされて、見るも無慘むざんな姿を横たへて居るではありませんか。
「斯うなつちや先陣爭ひの池月いけづき野郎もカラだらしがねえ」
 ついガラツ八の八五郎は、日頃の反感がこみ上げたものか、遠慮の無いことを言つて、ペツペツとつばを吐くのでした。
 小博奕こばくちと押借の外にはのうの無い男ですが、恰好がちよいと意氣なのと、顏がノツペリして居るのを資本に、神田から本郷へかけて、浮氣な娘といふ娘をあさり廻り、宇治川の先陣爭ひにたとへて、池月の與三郎と自分から名乘つたほどの厄介な男ですから、八五郎のやうな女とは縁の遠い正直者から嫌はれさげすまれたのも無理のないことです。
「馬鹿野郎、何んといふ口のきゝやうだ」
 平次はきつとたしなめながら、自分は死骸の側にしやがんで片手拜みに眼をつぶりました。
 與三郎の死骸といふのは、全く眼も當てられない有樣で、身だしなみの良いのを自慢にして居る小意氣なあはせが、肩から深紅の網を被つたやうに、血汐を浴びて居るのです。
「突き落されるはずみに、その邊の石で頭を打つたのぢやないかな」
 元町の文七はそんな事を考へてゐるのでせう、石で打ち割つたとすれば、あまりに猛烈です。
「いや、崖にはそんな石は無い、――それに自分の身體に網のやうに血を被つて居るところを見ると、逆樣に落ちて石で頭を打つたのぢや無くて、立つて居るところを、重い物で腦天をやられたんだ、それも得物は石ぢやないやうだ、傷痕きずあと几帳面きちやうめんな丸味があるぜ」
 平次の言ふのはもつともでした。
「ひどい返り血だらうな」
 文七は平次の意見に承服し乍ら素直すなほに言ふのです。
「それも一つの證據になる」
「ところで、與三郎が殺されたとなれば、物盜りや喧嘩ぢやあるまい」
 と平次。
「空つ尻ののらくら野郎だ、泥棒と喧嘩には縁がありませんよ」
 八五郎は又くちばしをだしました。
「佛樣の惡口は止せよ」
「へエ――」
「いづれ女出入りだらうが、いろ事で此男をうらんでゐる者は、五人や十人ぢや無いぜ」
 文七は三つ七つと指を折つて居ります。
「古いのはいくらか餘燼よじんもさめるだらう、新しい出入り事は?」
「新しいのは越後屋のおこので、與三郎の野郎、此間から自慢らしく吹聽ふいちやうして歩いて居ましたよ」
 と、八五郎。
「すると、與三郎を殺したのはお此の事で怨んで居る者だといふのか」
「お此の許嫁いふなづけは越後屋の養子の金次郎ぢやありませんか」
 事件の外貌ぐわいばうが次第にはつきりして來ました。
「これだけのことをするのは、餘つ程きもすわつた、力のある男でなきや――」
 平次は首をひねります。
「越後屋の金次郎は男振りも器量も町内の褒めものですぜ。その上明神下の先生のところへ通つて、ヤツトウの稽古けいこもしたことがあるといふ話だ」
 八五郎は念入りな註を入れました。


「親分、――變な噂がありますぜ」
「何んだ八」
「金澤町の越後屋から、養子の金次郎をげて行つた野郎がある相ですよ」
「誰だそいつは?」
 平次もさすがに驚きました。お茶の水で小半日係りの同心の出役を迎へて、檢死の濟むのを待つてるうちに、金澤町へ拔け驅けして、第一番の疑ひのかゝつた金次郎を擧げて行くとは氣が早過ぎます。
「お神樂の清吉の野郎ですよ。先刻さつきチラリと顏を見たと思つたら、親分の話を聽いて、あわてて金澤町へ飛んだのでせう、太てえ野郎ぢやありませんか」
「放つて置け放つて置け、戸も障子も無い野天でいろんな事を話して居るんだもの、話だつて聽くだらう。其處まで氣が付きながら、ぼんやり小半日過した此方こつちが間拔けさ」
「でも親分」
 八五郎は躍起やくきとなりますが、平次は更に驚く樣子もありません。
「それより、お前一と走り越後屋へ行つて、昨夜金次郎が外へ出たか出なかつたか、それをいてくれ。それから手ぬかりもあるまいが、お此の顏色も見るんだ」
「親分は?」
「俺は殺された與三郎の方を洗つて見る、それが順當だらうと思ふ」
 呑込んで飛んで行く八五郎の後ろ姿を見送つて、錢形の平次と元町の文七はツイ湯島五丁目に住んでゐる與三郎の巣を見廻りました。其處は荒物屋の裏二階で、何となく小綺麗こぎれいに住んで居りますが、家主の荒物屋でくと、與三郎の評判はまことに滅茶々々めちや/\です。輕薄でうそつきで、男のくせにお洒落しやれで、圖々しくてよくが深くて、――う聽かされると取柄はありません。
「與三郎をうらんで居る者に心當りはないか」
「怨んで居る者ばかりですよ、間違つても褒める者なんかありやしません、第一にこの私だつて、幾月も/\部屋代を拂はれなきや喜んでばかりも居られません」
 荒物屋の老爺おやぢは斯う言つた調子でした。
昨夜ゆうべ何刻いつ頃出たんだ」
「宵のうちでしたよ、誰か手紙を持つて來たやうで、裏口で自分で受取つて直ぐ出かけました」
「使の者は男か、女か、それとも子供か」
「私はよく見ませんが、達者な男のやうでした。もつとも何時ものことですが、昨夜はことに念入りにめかし込んで出かけたやうで」
 それつ切り、あとは何んにもわかりません。念のため與三郎の部屋を見せてもらひましたが、長火鉢があつて、鏡臺きやうだいや化粧道具がそろつて居て、まるで若い女の部屋のやうですが、昨夜受取つた手紙は言ふ迄もなく、手掛りになりさうなものは一つも無かつたのです。
 いざ引揚げようといふ時、荒物屋の老爺は近頃の與三郎は越後屋のおこのに夢中で、母親さへ承知してくれれば、近い内に自分は越後屋へ聟入むこいりするかも知れない、何しろ金澤町でも一二といはれた身上しんしやうで、外神田一番の味噌屋だから、越後屋の聟になれば人に後ろ指は差させない――などと良い心持さうに脂下やにさがつて居たと苦々しく話してくれるのでした。
 うなると、いよ/\怪しいのは越後屋の養子の金次郎ですが、お神樂の清吉に先鞭せんべんをつけられては、今更何うすることも出來ません。
 一應平次の家へ引揚げ、辭退する文七を引留めて一本つけさして居ると、すつかり暗くなつてから、ガラツ八の八五郎が鬼の首でも取つたやうに路地の外から聲を掛けて歸つて來ました。
「親分、大手柄だ、喜んで下さいよ、親分」
「馬鹿だなア、大きな聲で、人聞きの惡い」
「だつて、路地の花道はやけに長いぜ、これほどの大手柄おほてがらを默つて舞臺にかゝつちや勿體もつたいない」
あきれた野郎だ、何處の猫の子が鼠を捕つたか知らねえが、大手柄が聞いて呆れるぜ」
「さういつたものでもありませんよ、この八五郎の智惠と辯舌で、金次郎の繩を解いたんですぜ、親分」
「フーム」
「そいつは面白さうだ、八五郎兄哥の手柄話を聽いてやらうぢやないか」
 元町の文七は口をれます。
「かういふわけだ、聽いておくんなさい、文七親分、――金澤町の越後屋へ行つて、店中の口を開かせると、娘のおこのが近頃與三郎に熱くなつてゐるので、許嫁いひなづけの金次郎が面白くないのは評判の通りだが、金次郎は根がしつかり者で、人などを殺すやうな男ぢやない。それに昨夜ゆうべは、越後屋のめひでお糸といふのが急病で、下男の寅藏とらざうは在所へ歸つて留守だし、小僧や下女では夜のことで役に立たず、親切者の金次郎が、自分で御徒士町おかちまちまでお糸の合藥を買ひに行つてゐますよ。御徒士町の藥屋も訊いたが、それに間違ひは無く、また宵の内に半刻はんときそこ/\で歸つて居るから、お茶の水へ行つて、與三郎を殺すひまなんかありやしません」
「それから何うした」
めひのお糸は今日はもう氣分が良くなつて床の上へ起上がつて居ましたが、私のために金次郎さんが縛られちや申譯が無いこれ/\斯うだから、どうか助けてやつて下さいと、私を拜むぢやありませんか。親分方の前だが、娘のおこのも良い女だが、めひのお糸といふのは、跛者びつこで病身だといふけれど、そりや美い女ですよ」
「そんな事はどうでもいゝ、それからどうした?」
「番屋へ驅け付けて、お調べ中のお係り同心武藏健吾むさしけんご樣に申あげ、お神樂の清吉の見てゐる前で金次郎の繩を解いてやりましたよ。その時の清吉の顏といふものは――」
「それは大手柄だ」
 元町の文七は本當に嬉しさうでした。此邊まで乘出して來たお神樂の清吉の鼻をあかしたことは、平次自身よりも文七の喜びだつたのです。


 事件はこれだけでは納まらず、むしろこれが序幕じよまくで、この後の發展が凄まじく恐ろしいものでした。
 それから三日目の夕刻、今度は金澤町の越後屋の娘おこのが自分の家の庭先で、かつて與三郎がやられたと同じやうに腦天を打ち割られて死んでゐたのです。
 お隣の師匠のところへ行つて、お仕事の稽古けいこを口實に、毎日のやうに遊びはうけて、幾度も幾度も晩の御飯のお使を受けて歸るお此は、その日も下女に二三度無駄足をさして、とつぷり暗くなつてから、それでも遲い町家の夕食に驅けつけるやうに、裏木戸を入つて庭へ廻つたところを、何者とも知れぬ手に、重い兇器きようきで腦天をやられ、たつた一と打ちで、聲も立てずに死んでしまつた樣子でした。
 小僧の常吉が見付けて大騷ぎになり、八五郎の注進で平次が驅け付けた時は、死骸を家の中に取り入れて、母親のお淺を始め、めひのお糸、許嫁の金次郎などが、轉倒した中にも悲歎にくれてゐる眞つ最中でした。
 その中へ飛込んだ錢形の平次と八五郎は、先づ型通りお此の死骸から見せてもらひます。嗚咽をえつの中にこんな仕事をするのは、れた事ながら、あまり好い心持のものではありません。
 何彼なにかの世話を燒いてくれるのは、養子でもあり支配人格でもあり、殺されたお此の許嫁でもあるあの金次郎でした。お店者たなものといふにしては少し愛想ツけのない、三十前後の立派な男で、浮氣つぽいお此に氣に入られなかつたかも知れませんが、二三年前に亡くなつた先代の主人新之助の、鑑識めきゝたしかさを思はせる人柄です。
 お此の死骸は凄慘せいさんを極めました。少し肥つた、丸ぽちやの愛嬌者で、十九にしてはませて居りましたが、蓮葉はすつぱで口上手で、誰にも世辭が良いので、町内の男達の評判は大したもので、現に八五郎なども、その崇拜者すうはいしやの一人だつたかも知れません。
 傷は與三郎同録、重い鈍器どんきで力任せになぐつたもので、恐ろしい力を思はせるもの、血汐は顏から肩へ、胸へ、網の目に流れて居ります。
「親分さん」
 五十年輩の母親のお淺は、恐ろしい悲歎に打ちひしがれて、平次に呼びかけても、其先を續ける言葉もありません。それを引取つて、
「お此さんを殺した惡者を縛つて下さい――ね、伯母さん」
 と側から優しく取次ぐのは、めひのお糸です。これは二十一二のこの時代の通念からは年増とも言つて宜い娘ですが、細つそりとした青白くて、物靜かな品の良い、――その癖申分なく美しい女でした。跛者びつこで病身なために、あまり外へ出る機會もなく、從つて嫁の口も滅多にありませんが、じゆくし切つて虫の附いた果物のやうな、何んともいへない不思議な魅力の持主でした。
「騷ぎのあつた時、皆んな何處に居たのだ」
 平次は靜かに調べを始めます。
「私と伯母をば樣は此處に居りました。下女のお稻はお勝手で御膳を揃へてゐたやうでございます」
 お糸はつゝましくこたへました。この三人の女は全く嫌疑の外に置かなければなりません。
「金次郎は?」
「私は藏の中に居りました」
「暗くなつてから?」
「少しばかり片付けが殘つて居りました。それを濟して、締りをするつもりで外へ出るとあの騷ぎで――直ぐ庭先へ驅けつけましたが」
「外に誰と誰が居るのだ」
「手代の兼松は通ひで、――その頃は小僧の常吉と店にゐたやうで御座います」
「それから」
「あとは下男の寅藏といふのが居りますが、これは六七日前から練馬ねりまの實家へ親が病氣で歸つて居ります」
 さう聽くと、お此を殺す時を持つた人間は、誰も見ないところに一人で仕事をして居た金次郎たつた一人になります。それとも下手人げしゆにんは外から入つたものでせうか。
「庭の現場を見せて貰はう」
 平次は外へ出ました。案内に立つたのは提灯ちやうちんを持つた金次郎、その背を見て、平次は何やらガラツ八に眼配せしました。
 庭と言つたところで僅かばかりの木があつて、形ばかりの石を配置した殺風景極まるものですが、商賣用らしい雜物の間を縫つて行くと右手には木戸があつて隣の家の路地に通じ、左手には金次郎が居たといふ土藏へ通ずる生濕なまじめりの道があります。
 おこのが入つた儘か、それとも曲者が逃げ去つたか、木戸は輪鍵わかぎを外して夜風にあおられてゐるのでした。
 庭はこぼれた血汐をめぐつて、前後左右滅茶々々に踏み荒され、足跡からは何んの發見も望まれません。
 其處から引返して店へ行くと手代の兼松と小僧の常吉は、物におびえたやうに、帳場格子の前にマジマジと坐つて居ります。兼松は四十七八の臆病おくびやうさうな中年者、常吉は十三四の生意氣盛り、どちらも若い女などをあやめる人間とは縁が遠く、兼松は小金をめるに餘念がなく、常吉は惡戯いたづらと買ひ喰ひの外には何んの望の無い姿です。それに二人が店に一緒にゐたといふのに嘘は無いらしく、二人が互にかばひ合ふ程仲のよくないことは、平次が一と眼見たばかりでもよくわかります。


「あツ、待つた」
「――」
 ガラツ八は物置からをどり出すと、何やら一と抱への着物を持つて、風呂場に驅け込む女の後を追ひました。
「待たないか、野郎ツ」
 こんな事もあらうかと、平次の眼配せを讀んで、家中の者の樣子をうかゞつてゐた八五郎です。女の動作は八五郎が思ひも及ばないほど敏捷びんせふなものでした。暗い風呂場へポンと飛込むと、八五郎のひたひを叩くやうに、ピシリと板戸を閉めました。何やらザーツと洗ふ音、引開けようとしたが、中からさんをおろしたものか、ビクともしません。
「えツ、開けろツ」
 戸を叩いたが應へもありません。八五郎は板戸と角力すまふを取つて暫くは手間取りましたが、フト氣が付いて敷居から外すと、棧はわけもなくケシ飛んで、嚴重らしい戸がガタリと外れました。
 めたツと飛込むと、お勝手の灯が射したほの明るい中に洗濯物を水に投り込んだまゝ、中には人の影もありません。氣が付いて見ると、突き當りにもう一つくゞがあつて、女は其處から外へ飛出したらしいのです。
 八五郎が遠慮もなく我鳴がなり立てると、平次は店の方から飛んで來ました。
「何んだ八、騷々しいぢやないか」
あかり、灯り」
「灯りが何うした」
 お勝手から手燭てしよくを持つて風呂場へ平次も入ります。
「この着物を風呂場へ持込んで、洗ひかけた女がありますよ」
「男物のあはせぢやないか――おや、血が附いてゐるぜ、それもひどい血だ」
「宜い鹽梅に半分はれずにをりますね、洗ひ流すひまはあつた筈だが、面喰らつたんだね」
 八五郎はひとかどの事をいひます。
 お勝手に居る下女のお稻を連れて來て訊くと、袷はたつた一と眼で養子の金次郎のと解りました。
「この袷を何日まで着て居たんだ」
「へエー」
「昨日金次郎はこれを着てゐたのか」
「着てゐたやうで御座います」
「今日は?」
「今日はそれを着てゐなかつたやうで」
「それは本當か」
「へエー」
 お此が殺された今日、肝心の金次郎が此袷を着てゐなかつたといふのは重大なことですが、愚鈍ぐどんらしい下女の言葉を、何處まで信じて宜いかわかりません。
「これを風呂場へ持込んだ女といふのは誰だつた。顏を見なかつたのか」
 と平次。
「お勝手の灯りも店の灯りも遠いから顏までは見えませんでしたよ。でも私にとがめられて逃げ出すとき、足取が變だつたと思ひますが――」
「足取が變?」
「醉拂ひでなきやびつこですよ、親分」
 八五郎の答へは豫想したことですが、平次を強く打つた樣子です。
 そんな騷ぎの中へ、元町の文七が下つ引をつれて驅けつけてくれました。
 多勢手が揃つたところでいろ/\手分けをしてさがすと、第一番に縁の下に役り込んであつた血だらけの玄翁げんのうを文七が見付けてくれます。
「與三郎を殺したのもこの玄翁ですね」
 八五郎は囁きます。
「その通りだ。おこのを殺してから、小僧の常吉が死骸を見付ける迄には、ほんの一寸隙があつた筈だが、神田川が近いんだから、其處へ持つて行つて投り込めなかつたのかな。こんな物を縁の下へ入れて置けば、おそくとも明日の朝になれば、わけもなく見付かるぢやないか」
「面喰らつたんですね」
 平次の深い疑ひも、ガラツ八に逢つては何んの變哲もありません。
「これだけ證據が揃つたんだから、お役人の見える前に、金次郎を擧げようぢやないか」
 元町の文七は懷中の捕繩などを探つて居ります。
「まだ早いやうに思ふが――」
「又お神樂かぐらの清吉などに横合から飛出されちやしやくだ、今度はあつしの手柄にさしてくれまいか、錢形の――」
 文七にさうまでいはれると、これだけ證據が揃つた上は平次もひて止めるわけに行きません。
 越後屋の養子金次郎は、與三郎殺しとお此殺しの嫌疑で、其場から文七に引つ立てられました。金次郎をかばひ損ねたお糸は、今にも取つて押へられさうな疑惧ぎぐをのゝながらも、悲しみ深い眼で、縛られて行く金次郎の後ろ姿を見送つて居ります。お淺は娘の死骸の前に泣崩れて、まだ正體もありません。
 翌る日下男の寅藏が越後屋に歸つて來ました。練馬の父親がすつかり元氣になつたので、手土産の菜つ葉か何んかを持つて、七日目に主家に戻つたのです。
 折から越後屋に來てゐた平次は、早速此男に逢つて見ましたが、背の高い恰幅の良い三十男で、何よりその一國者らしいところが特色です。お淺に訊くと、骨身ををしまずよく働く上、少し偏屈へんくつですが正直者で、皆んなに重寶がられてゐるといふことです。
「病人はどうだい、お前の留守に此處では大變なことが起つたんだが――」
「さうだ相ですね、飛んでもねえことで、――私の親仁の病氣は持病のせんきで、大したことは御座いませんよ」
「すると七日も休んだのは、父親の介抱のためでは無かつたのか」
「へエー、さうでも言はなきや、おひまを下さいませんよ。まア時々は骨休めもし度くなりますから――」
 んな事を言つて、寅藏とらざうはニヤリと笑ふのです。平次は寅藏の姿が見えなくなると、八五郎を呼んで、
「八、大急ぎで練馬へ行つてくれ。あの寅藏とか言ふ男が、本當に自分の家へ歸つたかどうか」
「へエー、それやわけもありませんが、正直に父親の病氣は大したことも無いが、骨休みをし度くて歸つたといつてるんだから、疑つて見るほどのことは無いぢやありませんか」
「それに相違あるまいが、念のためといふことがあるよ――練馬まではざつと五里、きだけで日が暮れるだらう、明日の晝までに歸りや宜い」
「へエ――」
 平次にさうまでいはれると、ツベコベ言ふ八五郎ではありません。ろくな旅の仕度もせず、其場から直ぐ往復十里の練馬へ出かけました。
 八五郎が歸つたのは、其晩の夜中、
「泊つて歸らうと思つたが、調べも何んにも無いところで、便々と宿を取るのも馬鹿々々しいと思つて夜道をかけ戻つて來ましたよ、――寅藏の家は直ぐ解りました。村でも中所の百姓で、親仁の寅右衞門のせんきうそではなく、伜の寅藏は七日の暇をもらつたといつて歸つて、神妙に野良仕事や繩なひやの手傳ひをして行つた相です」
 報告はこれだけ、これでは平次でも疑ひやうはありません。
 その間に元町の文七が擧げた、金次郎の調べは續きました。與三郎を殺した時は御徒士町おかちまちまで藥取りに行つたに相違ないにしても、無理に都合をして、首尾よく與三郎をおびき出せば、お茶の水まで廻る隙が無いとは言へず、――平次はこの微妙な時間を利用して、平常ふだんから睨み合ひの與三郎をおびき出すのはむづかしいと見て居りますが、無理に辻褄つじつまを合せれば、隨分此假定は成り立たないことも無かつたのです。
 おこの殺しの方は時間も證據も充分で、事情は金次郎を不利にするばかり、文七は念のためにお糸も調べて見ましたが、これは泣くばかりで一向らちがあきません。
「血の着いた金次郎の袷を風呂場へ持ち込んだのはどういふわけだ。眞つ直ぐにいはないと、氣の毒だがお前にも繩を打たなきやならない」
 かうおどかされると――
「汚れものの始末をしてやるのは、いつものことですから、――暗い中でさらつて來た袷に血が着いて居たか何うかわかりません」
 と言ふのです。
「洗濯物を風呂場へ持込むのに、戸にさんをおろすのはどういふわけだ。宜い加減なことをいふと承知しないよ」
「誰かに追つかけられてこはかつたんです」
 ういつてお糸の聰明な美しい眼が、文七にうつたへるのでした。
 お糸の態度は明かに金次郎をかばつてゐるに違ひありませんが、かうたくみにいひのがれられると、まさか若い娘を縛り上げるわけには行きません。
 文七の確信は益々加はるばかり、此上は金次郎に石を抱かせてもと意氣込むのを、
「まア、待つてくれ、俺はどうも下手人げしゆにんが他にあるやうな氣がしてならないんだ。與三郎とお此を殺したのは同じ人間だとすると、與三郎をおびき出したのは、どうも金次郎らしくない。それに金次郎はあの血の着いたあはせを、お此が殺された日は着てゐなかつたといふし、自分の袷にわざわざ血を附けて、血染の玄翁げんのうを縁の下に投り込んで置いたのもをかしい。お糸が金次郎を庇つたのは、金次郎いとしと思ふ娘心の勘違ひぢやないか」
 平次は斯う一應は止めました。
「俺は矢張り金次郎の外に下手人があるわけは無いと思ふよ。あの袷は押入の中に投り込んであつたといふから、下手人が外から入つて庭先でお此を殺したものなら、わざ/\押入から金次郎の袷を引出して、血なんか着けて置く筈はあるまい――兄哥の前だが、こればかりは俺の手柄にさしてくれ」
 元町の文七はぐわんとして聽入れません。
 平次は方面を變へて手代の兼松と小僧の常吉に疑ひを向けて見ましたが、これは念入りに調べるまでもなく全く無關係で第一重い玄翁を振り廻して人を二人迄殺せる人間ではなく、他に働き者の下女のお稻が一人、これも全く、疑ひの外に置かるべきです。


 幾日も/\越後屋にめて、どんな小さい手掛りでもと搜した平次は、おこのの初七日の濟んだ日、到頭投げる外は無いと思ひ定めました。
 女主人でお此の母のお淺は、氣性者らしく仕事を運んで居りますが、たつた一人の娘を失つた深刻な悲しみに打ちひしがれて、時々はぼんやり立止つて、物を見詰めて居たり、人の姿の見えぬ時は一人でさめ/″\と泣いたりして居ります。
 めひのお糸は弱い身體にむちうつやうに、痛々しい足を引いて、甲斐々々しく働き續け、こればかりは、暗い越後屋の中にも美しさと、明るさと、魅力みりよくとをき散らして居ります。
「八、あれを見たか」
「へエー?」
 平次は庭を片付けて居る下男寅藏の姿を、それと物影から指しました。
「あの眼は唯事たゞごとぢやない、――寅藏の眼はお糸の姿ばかり追つかけて居るのに氣が付かないのかえ、――一國者の寅藏が生命いのちまでもと打込んだ眼だ」
「へエー、そんなものですかねエ」
「氣の毒だが八、もう一度練馬ねりまへ行つてくれないか」
「練馬へ?」
「嫌か」
「飛んでもない、行きますよ、行つて來ますよ」
「今度は泊るんだ、腰をゑて、寅藏の親仁の話と、村中のうはさを集めてくれ。あの與三郎の殺された晩、――あの晩は良い月だつた、寅藏は確かに練馬の自分の家に寢てゐたか。どうか――それから、おこのの殺された日、あれはたしか初午はつうまの日だ。田舍の初午は賑やかだから、寅藏が家に居たか、晝頃から江戸へ出て夜歸つたか、親仁は隱してゐても、村の人にいたらわかるだらう」
「へエー」
「宜いか、しかと頼んだよ」
 平次の言葉は嚴重な行屆ゆきとゞいたものでした。
 忠實な助手の八五郎が、其場から直ぐ練馬へ飛んで行つたことはいふ迄もありません。先の失敗にりて、今度は念には念を入れて調べたものか、八五郎が練馬から歸つたのは、翌る日の夕方、それもすつかり暗くなつてからでした。
「親分、まさに一言も無い、親分の見通しに間違ひはねえ」
「何うした、八」
「寅藏といふ奴は恐ろしい食はせ者ですよ。與三郎の殺された晩は、そつと家を拔出して曉方あけがた歸つてゐるし、お此の殺された日は、晝頃から人目に隱れて、田圃たんぼ傳ひに江戸の方へ行つたと村の者がいつてましたよ。親仁の寅右衞門をめると外聞が惡いからせがれの言ふ通りに家へ泊つたことにしてあるが、あの晩は大方板橋のをんなのところへでも遊びに行つたんだらう。かたいやうでも寅藏も三十といふ男盛りだから――といふんで」
「矢張りさうだ」
「寅藏ならあの玄翁げんのうも振り廻せるし、おこのが隣で油を賣つて、暗くなつてから歸つて來ることも知つて居る。――踏込ふみこんで擧げませうか」
「フーム、だが、あの袷は? 金次郎の袷に血を着けて、押入に投り込むのは少し念入り過ぎるな」
 平次はフト迷ひましたが、それでも八五郎のきほひ立つのにさそはれて、金澤町の鶴後屋に乘込みました。
 が、その時丁度、越後屋は煮えくり返るやうな騷ぎの眞つ最中です。
「大變ツ、親分。寅藏が」
 あをくなつて迎へた兼松に案内されて行くと、納屋の後ろの下男郎屋で、寅藏は遺書ゐしよまで殘して死んで居るのでした。
 平次はたつた一と眼で、それは石見銀山いはみぎんざん鼠捕りか何んか、猛毒まうどくを飮んで死んだとわかりましたが、死骸の側にはその猛毒を入れたと思はれる椀も茶碗も、紙つ切一つなく、半枚づつの半紙を眞ん中でいで一枚にひろげたのに、手習草紙てならひざうしのやうな大きい假名文字で、
 おれはげ
 しゆじんだ
 と書いてあるではありませんか。
「變な書置だね『俺が下手人だ』と書くならわかつて居るがかの代りにも變だし、下手人の人に濁りを打つてしゆじんと書いたのはどういふわけだ」
 八五郎はんな事を言つて居ります。
「これは寅藏の書いたものに間違ひあるまいな」
 大きな下手へたな字を指して平次は誰にともなく訊きました。
「店中でそんな下手つくそな字を書く者はありやしません。寅藏は此間から、無筆ぢや幅がきかないからつて、一生懸命手習をして居ましたよ」
 後ろからう言ふのは小僧の常吉でした。
「手習の師匠は誰だ」
 と平次。
 と間髮をれずに、
「お糸さんさ、あの人は寅藏がひいきだし、筆跡も良いから」
 さう言はれてハツと後ろを振り向いた平次の眼は、多勢の人間の後ろから、つと此方を見詰めて居る、美しいが鋭い二つのひとみと、刄金と刄金のやうに切結んだのです。
 平次の胸には映し繪のやうに、鮮明せんめいな下手人の姿が浮びました。
 ハツと驚いて逃げる相手の眸、
「御用ツ」
 平次は一足飛びに、その相手を押へました、それは跛者びつこで病身で――此上もなく美しいお糸のおびえ切つた姿ではありませんか。
        ×      ×      ×
「驚いたね親分、どうしてあの跛者びつこの娘のお糸が惡者とわかつたんで?」
 お糸を送つてホツとすると相變らず八五郎は、平次に繪解をせがみました。
「俺も始めは解らなかつたが、三人殺しの發頭人はあの痛々しい娘のお糸さ」
「へエー」
もつとも與三郎とおこの玄翁げんのうで殺したのは寅藏だが、さうするやうに仕向けたのはお糸だ。くはしく言ふと、お糸は恐ろしく智慧ちゑのまはる女で、お此と金次郎を亡きものにするために、先づ一國者で考への足りない寅藏を迷はせた。寅藏はお糸にあやつられて、思ふ存分に動いたのだらう――最初の時寅藏は、練馬から飛んで來て、かねてお糸のこしらえて置いたおこのの僞手紙で與三郎をおびき出し、お茶の水で殺してその晩のうちに練馬へ歸り、その次には矢張り練馬からやつて來て、越後屋の庭で待ち伏せしてお此を殺し、お糸は内で細工さいくをしてその疑ひを金次郎に向け、金次郎を御處刑にするつもりだつたのさ。お此だけを殺すと、お糸にも疑ひが向けられるが、與三郎とお此を殺すのは、金次郎の外には無いと――誰でも思ふだらう」
「何んだつてそんな事をしたのでせう」
「最初はおこのねたましかつたんだらう、ところが、金次郎といふ男は正直者で堅造かたざうでお糸には眼もくれなかつた、そこでお糸は慾に轉んだ。――あの二人が死ぬと、越後屋の跡取りは默つて居てもお糸に廻つて來る」
「成程ね」
 それはあの弱々しい美しいお糸が考へさうも無い惡魔あくま的なくはだてですが、平次の推理には素より一點の疑ひをはさみやうもありません。
「お糸が變に金次郎をかばひ立てしながら、洗へば洗ふひまのあるあはせを血の着いたまゝ風呂場に置いて、わざとお前に見せたのも可怪をかしいし、疑へば、お前が物蔭で樣子を見てゐることを知つて、あんな芝居をやつたかも知れないぢやないか。それに、金次郎の袷に血をつけて押入に投り込んだのだつて、寅藏では一寸出來ないからお糸の細工と見るのが順當だ」
「その寅藏は毒を呑んだぢやありませんか」
「あれもお糸の細工さ、――お糸はあの前の日、俺とお前の話を盜み聽きしたんだらう。寅藏が練馬を拔出したとわかると、いづれ寅藏を縛つてどんな調べをされるかもわからず、寅藏がベラベラしやべつてしまへば、寅藏をだまし込んで二人迄殺させた自分の首に繩がかゝると見て、かねて用意した石見銀山の鼠捕りを饅頭まんぢゆうか何んかに入れ、親切めかしく寅藏にやり、寅藏がそれを食つて死んだのを見屆けてから、いろ/\の始末をして遺書ゐしよまでこさへたのさ」
「へエー、落付いたものですね」
「寅藏の死んだのが自害じがいなら、側に毒を入れた椀なり紙なりある筈だ。それに、遺書が半枚の半紙を眞ん中でいで『おれはげしゆじんだ』と讀ませたらう。あれは寅藏に手習を教へる時『おれはげなんのとらぞうおいとはしゆじんだ』と言つたやうな文句をふざけ乍らならはせ、その二枚を半分づつ繼いで『おれはげしゆじんだ』と讀ませたのだらう。俺はあの遺書ゐしよを見た時、こいつは寅藏に手習を教へた奴の仕業だと氣が付いたよ」
「成程ね」
「恐ろしい女だ、うつかりすると俺までだまされるところよ。あんまり細工が過ぎて、かへつて尻尾を出したが――」
 かう説明されると何も彼も明らかになります。
 あの淋しく弱々しい女がこれだけの兇惡な事をたくらんだと思ふと、何んとなく薄寒くなるやうな心持ですが、それを見破つて咄嗟にお糸を押へた平次の明智は物の見事です。
「なあ――る」
 もう一度さういつて、ガラツ八はこの世にも優れた親分を見上げました。
 その後お糸は牢死らうしし、金次郎は越後屋の跡を立てたと聽きましたが、お糸の痛々しい惱ましさ、いひやうもない魅力が、長く八五郎の記憶にこびり附いて居りました。





底本:「錢形平次捕物全集第十七卷 權八の罪」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年10月10日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年1月12日作成
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