錢形平次捕物控

詭計の豆

野村胡堂





「親分、四谷おし町の小松屋といふのを御存じですか」
「聞いたことがあるやうだな――山の手では分限ぶげんのうちに數へられてゐる地主か何んかだらう」
 錢形平次が狹い庭に下りて、道樂の植木の世話を燒いて居ると、低い木戸の上にあごをのつけるやうに、ガラツ八の八五郎が聲を掛けるのでした。
「その小松屋の若旦那の重三郎さんを案内して來ましたよ。親分にお目にかゝつて、お願ひ申上げたいことがあるんですつて」
 さう言へばガラツ八の後ろに、大町人の若旦那と言つた若い男が、ひどくおびえた樣子で、ヒヨイヒヨイとお辭儀をして居るのです。
「お客なら大玄關から――と言ひ度いが、相變らずお靜が日向ひなたを追つかけて歩くから、あそこは張板でふさがつて居るだらう。此方へ通すが宜い」
「へツ、そこは端近、いざま――ずつと來たね。若旦那、遠慮することはない。ズイと通つて下さいよ」
 八五郎の剽輕へうきんな調子にさそはれるやうに、身扮みなりつた、色の淺黒い、キリリとした若いのが、少し卑屈ひくつな態度で、恐る/\入つて來ました。精々二十歳そこ/\でせうか、まだ世馴れない樣子のうちに、妙に野趣やしゆを帶びた、荒々しさのある人柄です。
あつしは平次だが――小松屋の若旦那が、どんな用事で、こんなところへ來なすつたんだ」
 縁側へ席をまうけさして、平次は煙草入を拔きます。調子は間違ひもなく客を迎へ乍ら眼はまだ庭に並べてある、情けない植木鉢に吸ひ付いて、その若い芽や、ふくらんで行くつぼみを享樂して居るのでした。
「思案に餘つて參りました――私の身に大變なことが起つたのでございます」
「大變なことにもいろ/\あるが」
 平次の瞳はやうやくこの若い客に戻りました。持物も、身扮みなりも、申分なく大商人の若旦那ですが、物言ひや表情や身のこなしに、一脈の野趣と言はうか、洗練せんれんを經ない粗雜さの殘るのはどうしたことでせう。
「――私は、殺されかけてゐるので御座います。親分さん」
「それは容易ぢやないな、くはしく話して見るが宜い――が、その前に、お前さんの身の上を聽いて置き度いな。お前さんは小松屋の若旦那で、素直に育つて來た人ぢやあるまい。昨今田舍から出て來たのか、それとも――」
 錢形平次の首はむづかしくかたむきます。
「恐れ入りました。親分さん、私の身上には、人樣が聞いても本當にはしないだらうと思ふやうな大變なことがございます」
「その大變なことから話して貰はうぢやないか」
「――」
 若旦那は、少しばかりモジモジして居ります。それは容易ならぬ重大事らしく、言つたものか、言はずに濟ましたものか、ひどく迷つてゐる樣子です。
「言つて惡いことなら別に聽かうとは思はないが――」
「いえ、良いも惡いもございません。皆んな申上げてしまひます。親分さん」
「それが上分別といふものだらう」
「何を隱しませう、私は――」
「――」
「この私は、ツイ二年前までは、兩國の橋の下を宿にして、使ひ走りから、日手間取り、たまにはあぶれて、人樣の袖にすがつた、なさけない宿なしだつたので御座います」
 若旦那は思ひ切つた調子で斯う打ち明けると、懷から手拭を出して、額口ひたひぐちの汗などを拭いて居ります。
「それは又變り過ぎて居るぢやないか」
 平次もツイ居住ひを直しました。木戸のところにぼんやり立つて居る八五郎も、四方あたりに氣を配り乍ら、聽耳を立てて居る樣子です。


「私は何處で生れて親が何んと言ふものかそれも存じませんでした。最初は輕業かるわざの南左衞門といふ親方のところで、玉乘りやブランコの稽古けいこをさせられて居りました。何うやら一通りの藝を仕込まれると――四つ五つから、十四五まで、關東から甲州、信州へかけて、旅から旅と興行を續けて居りましたが、今から五年前、親方の南左衞門が江戸へ出て兩國に小屋を掛けて興行をした時、贋金にせがね使ひに掛り合つて、親方の南左衞門は死罪、一座の者は遠島、追放、所構ところがまへとバラバラになつてしまひした。私はまだ前髮立ちで、親方の惡事などは夢にも知らず、お蔭で罪はまぬかれましたが、その代り江戸の眞ん中へ、頼る人もなく投り出されてしまつたので御座います」
 小松屋の若旦那重三郎の話は、世にも怪奇を極めます。
「江戸に知り合ひが一人もなく、見世物や輕業かるわざは、構はれたも同樣で、今更外の一座に割込むわけにも行かず、よしんばまた私を使つてくれるところがあつたにしても、あの仲間に戻るのは、私の方で眞つ平御免だと思ひました。お猿や犬の太夫と同じやうに、食物とむちとで馴され、命がけの危ない藝當をさせられるくらゐなら、私は餓死がしした方が餘つぽどしだと思つたので御座います。
 ――私は何んの分別もなく兩國の橋の下に潜り込んでしまひました。晝は彼方此方の小屋へ行つて掃除さうぢを手傳つたり、使ひ走りに飛んで歩いたり、夜は橋の下に歸つて、同じ宿なしの仲間と、むしろを引つ張り合つて寢ましたが、一年三百六十五日、貰ひがあつて、三度のものにありつけるとは限りません。どうかすると二日も三日も空腹を抱へて、往來の人の袖や袂にもすがらなければならなかつたのでございます。
 ――こんな事を申上げるのは、本當に耻かしい事で、身を切られるやうに辛いことには違ひありませんが、近頃の私の身に起つた、不思議なことをわかつて頂くためには、矢張り皆んなお話した上で、親分の智惠を拜借する外はございません。
 ――今から二年前、私が十八の年の春でございました。大店おほだなの番頭さんらしい人が、兩國の橋の下に居る文吉と名差しで訪ねて來て――申し忘れましたが、私の元の名は文吉でございました――その番頭さんは、私を人の居ないところへ連れて行つて、いきなり――お前は元南左衞門の輕業小屋に居た文吉に相違ないだらうな――と申します。私がその通りだ、怪しいと思ふなら、誰にでも訊いてくれ――と申しますと、それで宜かつた、實はお前の本當の身の上がわかつたのだ。誠の親にも引合せ、大家の若旦那の身分に直してやる。一緒に來い――と斯う夢のやうなことを申すので御座います。
 ――あまりの事にびつくりして、そんな馬鹿な事があるものか――と申しますと、いや馬鹿か馬鹿でないか、乘込んで見ればわかることだ。何處へ突出されたつて、今より惡くなりつこはあるまいから、默つて一緒に來るが宜い、とも申しました。
 ――後でいろ/\訊いて見ると、私は四谷忍町の小松屋の一人息子で、重三郎といふのださうですが、小さい時惡者に誘拐かどはかされて輕業小屋に賣られたものらしく、今まで行方がわからなかつたが、フトした事から、南左衞門の一座に居た文吉といふのが、その重三郎に違ひないと、わかつたといふことでございます。もつとも小松屋はその後をひの吉太郎といふのを養つて、跡取といふことにして居りましたが、此吉太郎が道樂を覺え、散々放埒はうらつの限りを盡した揚句、勘當されて相州厚木あつぎへやられて居るとも申しました。
 ――それは兎も角として、番頭さんは私をつれて、直ぐ四谷忍町の小松屋へ乘込むのかと思ひましたが、さうではなくて、いきなり草鞋わらぢいて、小田原へ參りました。其處には、豫て番頭の知合の家があつて、小さい旅籠屋をして居たので御座います。
 ――私はその旅籠屋に預けられて、一年の間若旦那らしくなるやうに修業させられました。第一が言葉から、立居振舞、讀み書き、着物の着やう――何より大事なことは、二三年の野天暮しで私の身體や顏が、すつかり陽焦ひやけがして、乞食臭くなつて居るので、それを世間並の人間らしく戻すには、どうしても一年はかゝつたのでございます。
 ――これで何うやら斯うやら、若旦那らしく見えると折紙を付けられて、今から丁度一年前、私は小松屋へ乘込んで參りました。その時はもう小松屋の主人――私の父親の市太郎が亡くなつて、叔父の安兵衞が店を支配し、手代小僧を使つてやつて居りました。
 ――私を兩國橋の下から拾ひあげて、小松屋へ連れて行つたのは、小松屋の番頭の忠五郎と申す者でございます」


 小松屋の若旦那重三郎の話は、尚ほ續きます。
「番頭忠五郎は名前の通り大の忠義者でございます。をひの吉太郎が放埒はうらつのために勘當になると、私の昔の乳母だつた、お安といふ女を葛西かさいから搜し出して來て、いろ/\訊ねた末その頃私をさらつた者の人相から、小松屋を怨む筋の者を手繰たぐつて、到頭私が四つの年に輕業師の南左衞門に賣られたといふことを突きとめ、それから、左二の腕に、火のやうな赤いあざのあることを聽出して、それを證據に私を搜し出しましたが、橋の下から拾つて行つたのでは、親類方も世間も承知しないだらうと、小田原へ一年預けて、どうやら斯うやら昔のあかを洗ひ落し、小松屋へ乘込めるやうにしたのでございます。
 ――其處までは無事で御座いましたが、主人――私の父の市太郎が亡くなつてしまへば誰に遠慮することもない筈だ、勘當と言つても、一時のこらしめだから、甥の吉太郎を厚木から呼寄せるのが順當だと申して、私には義理の叔父で、小松屋の支配人をして居る安兵衞と申すのが、獨りで頑張ぐわんばつて、到頭甥の吉太郎を、店に呼び寄せたのでございます。
 ――これは私と同じ年の二十歳でございますが、長い事小松屋の店に坐つて居りましたので、算盤そろばんにも帳面にも明るく、その上男がよくて如才がなくて、叔父の安兵衞が贔屓ひいきにするのも無理のない男でございます。假令たとへ一度は勘當になつても、私に取つても從兄弟いとこではあり、何んとか身の立つやうにしてやらうと、私も精一杯心掛けては居りますが、困つたことに、その從兄弟の吉太郎が歸つて來てから、いろ/\の面白くないことが起るので御座います。
 ――第一番に先づ、お濱――これは遠縁の娘で、今年十八になるのでございますが、えゝ、まアさう言つたやうなわけで、最初は吉太郎に娶合めあはせるつもりで、亡くなつた父の市太郎が、親類から貰つて育てて居りましたさうで、父親が亡くなつて、吉太郎が勘當された後は、自然――へエ、その私の許婚いひなづけのやうな恰好になつて居りました。申すまでもなく當人もそのつもりで、へエ、綺麗な娘で御座いました。細面の、少し華奢きやしやな、何んとか小町と言はれたきりやうで、へエ。
 ――そのお濱が、可哀想に何んといふことなく氣分が勝れなくなり、一と月ばかりの間に、大した病氣といふでもなく、水の切れた生花いけばなのやうに、しを/\と弱つて死んでしまひました。可哀想に、あんなに綺麗で優しかつた、お濱が――醫者は癆症らうしやうだと申しますが、せき一つしない癆症といふものがあるでせうか、癆症は癆咳らうがいと申しまして、咳のひどい病氣だと聽いて居りますのに。
 ――そればかりでは御座いません。それから引續いてお安といふ女――これは私の小さい時の乳母うばで、私の左二の腕に、赤いあざがあると言つてくれた、私のためには大事な見知人で、此世で一番大事な恩人でございますが、そのお安といふ五十過ぎの乳母が、番頭の忠五郎に葛西かさいの在に居るのを搜し出され、小松屋へ來て二度目の奉公をして居るうちに、私の許嫁のお濱と同じやうな病氣にかゝり、しを/\と弱つて行つて、七日ばかり前に亡くなつたので御座います。
 ――それだけですと、物事の廻り合せと思ひあきらめて居りますが、今度は、肝心要の番頭の忠五郎が、同じ容體になつて、もう枕も上がらない有樣でございます。申す迄もなく忠五郎は、兩國の橋の下から、私を拾つてくれた大恩人で、此世にかけ替のない人間でございます。その上、小松屋に取つても大黒柱で、忠五郎が居なくなつては、支配人と言つても叔父の安兵衞では店は持ち切れません。私の力で出來ることなら、何んとしてもこの番頭の命を取止めようと、いろ/\骨を折りましたが、今となつてはどうにもなりません。
 ――私が小松屋へ歸つてから、段々聽いて見ると、私の父親が亡くなつたのも、同じ容態だつたといふことでございます。その上、これは大事なことですが、近頃では、此私も何んとなく身體がダルく時々嘔氣はきけがしたり、目暈めまひがしたり、どうも尋常ではございません。萬一此私が寢込むやうな事があれば、小松屋の身上はどうなることでせう。叔父の安兵衞も道樂強いうへ、甥の吉太郎と來ては一度勘當されたほどの遊び好きでございます。
 ――錢形の親分さん、重々無理なお願ひだとは思ひますが、私を助けると思つて、一度四谷おし町までお出でを願へませんでせうか。錢形の親分さんのお顏を見たら、どんな太い量見の惡者でも、そんな無法なことは止すかもわかりません。私は何んとしても、番頭の忠五郎の命を助け、此私と小松屋の上に降りかゝる恐ろしい災難を取拂ひ度いと存じます」


 若旦那重三郎の話は、隨分變つたものでしたが、平次は急所々々に極く短かい問ひを挾み乍ら、尚ほもその話を續けさせたのです。
「同じ容態で、幾人も/\死んで行くのが素人の私にも不思議でなりません。そこで町内の本道(内科醫)の玄庵げんあんさんに訊いて見ますと、そのお醫者の申すには、私もそれは不思議に思つて居るが、確かな證據がないことを、差出がましく申出でて、世間を騷がせるわけには行かない。が、三人の容態を見たところでは、最初に一應強い毒藥を呑ませて足腰の立たないやうにして置き、それから毎日の食事なり飮物なりに弱い毒を仕込んで、ヂリヂリと殺して行くのであらう。その毒がどんなものか、それも良くは判つて居ない、と申すので御座いました。
 ――それでは可哀想にお濱もお安も、一寸試し、五分試しに殺されたやうなもので御座います。どんな仕掛けで、そんなむごたらしいことが出來るか――私も一生懸命でございました。お醫者の胸倉を掴むやうにして訊きますと、今のところはつきりした事は言はれないが、夜中に誰も氣が付かないやうにそつと起き出して、病人の部屋に忍んで行き、その病人の湯呑なり、水差しなり、又は朝起きて直ぐ呑む煎藥せんやくなりに、毒藥を投り込む者があるに相違ない。日中なら直ぐ人に見とがめられるし、病人も氣が付くから、これは、夜中人の寢鎭ねしづまつた時の仕業に相違ない、と斯う申すので御座います。
 ――私は暫らくの間、夜の目も寢ずに、忠五郎の部屋の外に見張つて居りましたが、私が見張つて居たのでは、惡者に用心させるだけで、何んの役にも立ちません。そこで、いろ/\考へた末、これは人樣から聽いた話で御座いますが、ほんの少しばかりの仕掛けをして、夜中誰が起出すか、それを見付けようと思ひ立つたので御座います。
 ――その仕掛と申すのは、家中の者が別々の部屋に休んで居りますので、その部屋の出入口の敷居に、豆を一と粒づつ置いたので御座います。御存じの通り豆はよく動きますが放つて置いたのでは、獨りでは、轉がりません。出入口の敷居に、戸の側にピタリと付けて、一と粒の豆を置けば、戸を開けるとその豆は必ず動きます。
 ――この仕掛はまことに手輕で、その上、夜中部屋の外へ出た者を、一ぺんに見露みあらはしてくれます。それに、誰の部屋も一樣の造りで敷居は外にあつて、豆は外から置けますので私は誰にも知れないやうに、皆んな寢た後で家中の者の部屋の敷居に、一粒づつの豆を置きました。すると、どうでせう翌る朝早く見廻ると、豆の動いて居るのは、をひの吉太郎の部屋と、死にかけて居る番頭の忠五郎の部屋だけだつたのでございます。
 ――甥の吉太郎どんの事を、彼れこれ申しては、私としては、誠に相濟まぬことでございますが、忠五郎と私の命には替へられません。――夜中に小用に起きたかも知れないと仰しるのですか、飛んでもない、十九や二十歳の若い者が、寒い時分ではなし、夜中に小用などに起きて宜いものでせうか。
 ――それから、私の部屋には豆を置かなかつたかと仰しやるのですか。え、え、それは置きました。私も近頃は、ジリジリ毒害どくがいされて居るに違ひありませんので、念のために私の部屋の敷居にも置いて見ましたが、矢張り私の部屋の敷居の豆も動いて居たので御座います。――夜中に私の部屋へも入つて來る者のあることは間違ひも御座いません。私は又若い者の癖に夜中に水を欲しがる癖がありますので、枕元には水差しを置いて寢るのでございます。
 ――それから私は、念のために、私の枕元に置いてあつた水差しを、そつと封印ふういんして、町田の本道=玄庵さんに持つて行つて見て貰ひました。すると何んと恐ろしいぢやございませんか、石見いはみ銀山鼠捕りが、ほんの少し、うつかり水を呑んだくらゐでは氣が付かない程入つて居たので御座います。玄庵さんは申しました。毒藥は極く僅かだが、あれを毎晩まされて居ては、とてもたまらない。と、恐ろしいことで御座います。
 ――錢形の親分さん、何んとかしてこの恐ろしい下手人を縛つて、忠五郎を助ける手段は御座いませんでせうか。忠五郎ばかりでは御座いません。此儘にして置くと、いづれは私も殺されるに決つて居ります。現に私の部屋の敷居の豆は毎朝動いて居りますし、私の氣分は一日々々と惡くなつて參ります。そのうちに私もどつと寢込むやうになれば、誰が忠五郎を助けてやることが出來るでせう。
 ――それだけでは、確かな證據がないと仰しやるのですか、――私の左二の腕をお目にかけませう。このあざ――小さいが火のやうな赤い痣があつたばかりに、それを見知つて居た、乳母のお安は殺されてしまひました。可哀想に氣の良い女で御座いました。近いうちに親類方がお顏を合せることになつて居りますが、お安にそれを言ひ立てられると、小松屋の跡取りは間違ひもなくこの私といふことになりますので、私を蹴落けおとす前に、先づ生き證人のお安を殺したので御座いませう。
 ――お濱はまた少し綺麗過ぎました。くなつた父親が、なまじ吉太郎に娶合せようとしたのが仇で、吉太郎が勘當された後、私といふものが乘込んで來て、お濱と天下晴れて許婚になると、吉太郎が厚木から歸つて來て納まらなかつたのも無理はないことで御座います。吉太郎にすれば、お濱を此私に取られるより、一と思ひに殺した方が、どんなに晴々するかわかりません。
 ――親分さん、お願ひでございます、お濱とお安と二人を殺し、今度は忠五郎を殺さうとして居る極惡人ごくあくにんを、これから直ぐ四谷忍町まで行つて、縛つて下さい、お願ひで御座います」
 若旦那の重三郎は、縁側の上に手を突いてポロポロと涙を流し乍ら、錢形平次を伏し拜むのでした。


「親分、若旦那があんなに言ふんだ。一とつ走り四谷へ行つて、その下手人を擧げて來ようぢやありませんか」
 ガラツ八の八五郎は、すつかり感激して、平次の前に突つ立つて居りました。少々むくつけき感じですが、この若旦那は全く見掛けに寄らぬ雄辯です。
「よからう、二人殺して、ヌケヌケと三人目を殺しにかゝつて居る奴は、放つちや置けない」
「ぢや出かけませうか」
 八五郎はすつかりいきり立つて居ります。長い間の習慣しふくわんと、この男の正義感で、惡者が眼の前にヌケヌケとして居るのは我慢が出來なかつたのです。
「心配するな、曲者は四谷ぢやないよ」
「えツ」
「其處に居るぢやないか、それ」
 錢形平次の指は、ピタリと若旦那の重三郎を指して居るではありませんか。
「親分?」
 八五郎の勘の惡さ。
「其男が下手人だよ、威勢よく、御用ツとやるが宜い」
 平次の言葉のをはるを待たず、重三郎はサツと身をひるがへしました。が、早くもその氣勢を察して、退路を絶つた八五郎。
「野郎つ」
 無手むんずと組んで行くのを、恐ろしい剛力で、ハネ飛ばして、一氣に外へ。
「待て」
 が續く平次は、其前に立塞たちふさがつて居たのです。
「畜生つ」
 重三郎は兇暴きようばう極はまる曲者でした。長い間輕業小屋できたへた強靭きやうじんな身體と、恐ろしい氣轉とで、ともすれば平次と八五郎の手をまぬれて[#「まぬれて」はママ]逃出さうとしましたが、久し振りに錢形平次の掌から投げられた五六枚の錢に、その戰鬪力をすつかり封じられて、
「野郎、骨を折らせやがる」
 八五郎の手でどうやら縛り上げてしまひました。
 繩付を下つ引に預けて、平次と八五郎が四谷おし町に飛んで行くと、正に小松屋の内情は重三郎が言つた通りでした。
 迎へてくれた叔父の安兵衞は五十前後の着實な男、甥の吉太郎といふのは、如何にも一と癖ありさうで、正直者らしいうちにも、容易に重三郎の手には乘るまじき氣魄きはくが見えました。
 番頭の忠五郎は重態でしたが、毒を盛つたのが若旦那の重三郎と聽かされると、
「惡いことは出來ません、皆んな私のいたらぬことから起つたことで御座います」
 と、苦しい息の下から懺悔ざんげをします。その言葉によると、番頭の忠五郎は養子の吉太郎と折合が惡く、いづれは店を追出されさうになつたので、亡くなつた主人に、有ることないこと告げ口して吉太郎を勘當させ、その代りに乳母のお安を抱き込んで、お安の知合の伜、兩國の輕業小屋から流れ出した、文吉を若旦那に仕立てて、小田原で磨きをかけた上、主人の死んだ後へ乘込ませたのです。
 ところがこの重三郎の文吉は容易ならぬ惡者で、自分の言ふことを聽かぬお濱を最初に殺し、續いて自分の弱點を知り拔いて居るお安を殺し、それから自分の素姓を知つて居る番頭の忠五郎までも殺さうとたくらんだのでした。
 味方を先づ殺してかゝる恐ろしい陰謀いんぼうで惡賢こい忠五郎も其處までは氣が付かず、危ふく一命を棒に振るところだつたのです。
 叔父の安兵衞は正直者でぎよし易いが、甥の吉太郎は頭も腕つ節も出來て居るので、容易に手を下しやうがないため、三人殺しの罪を背負はせて、平次に處分させようとしたのが重三郎の重大な錯誤あやまりでした。錢形平次は重三郎の長物語の中から、幾つかの矛盾むじゆんを見出して、其場を去らせずこの曲者を縛つてしまつたのです。


 一件が落着してから、八五郎は訊ねました。
「どうして重三郎が惡者と判つたんです。親分」
「何んでもないよ――橋の下から大家の跡取をさがし出したといふのは、話が少しウマ過ぎたよ。あんなに手輕にわかるものなら、父親の市太郎は十五六年も放つて置く筈はないぢやないか。それに本當の跡取なら、少々陽にけて居ても、言葉遣ひや折屈をりかゞみが下手でも、すぐ小松屋へ伴れ込むのが本當ぢやないか。わざ/\小田原まで連れて行つて、行儀作法を習はせたと聽いて、お前は變だと思はなかつたか」
「へエ」
 ガラツ八は何方どつちつかずの返事をしました。
「それに、重三郎はそんな大した男ぢやないし、何んとか小町に好かれさうな人柄でもない。江戸の町娘は見識けんしきが高いから、親の氣に入らなくて勘當された許婚を、一年も經たないうちに忘れて、あんなほこりつ臭い荒つぽい男に惚れる筈はないよ」
「成程ね」
 ガラツ八もそれは簡單に承服しました。自分も埃つぽくない男のカテゴリーに編入されるつもりでせう。
「もう一つ、こいつは大事なことだ、敷居へ豆を置いて、亭主の浮氣を見破つた、嫉妬燒やきもちやきの女房の話はおれも聽いたことがある――あれは面白い仕掛けだと思つたが――重三郎に、お前の部屋にも仕掛けて置いたのかと訊くと、仕掛けて置いたと言つたらう」
「――」
「その上、念入りに朝になると自分の部屋の敷居の豆も動いて居たと言つた筈だ」
「――」
「自分の部屋の敷居の豆が、動いて居るか、動いて居ないか、自分にわかる筈はないぢやないか、――朝になつて、それを見ようと思つて、唐紙か障子を開けると、豆は必ず動くに違ひない――どの部屋も同じ造りで、敷居は外にあつて、豆は外から置けると言つたらう」
「あツ、なアーる程」
 八五郎が、すつかり恐れ入つてしまひました。
「おまけがもう一つあるよ」
「へエ」
「お前も見た筈だが、重三郎の左二の腕の赤いあざ――チラと見せたが、あれは痣ぢやない、朱の入墨だつたよ」
「――」
「重三郎は間違ひもなく僞者にせものだ――お安を殺して、忠五郎も亡きものにしようとしたのは、僞物と知つて居る者を殺して、ぬく/\と小松屋の跡取りになるつもりだつたのさ。お安と忠五郎が生きて居るうちは安心が出來ないし、その上弱い尻を押へて居る忠五郎にしぼられて、それがうるさかつたんだらう。叔父の安兵衞は確り店を預かつて、重三郎の儘にさせないから、自分の足場をしつかりと拵へた上で、今度は安兵衞を殺す氣になつたかも知れない」
「それほどの太てえ奴が、何んだつて親分のところへ來て、兩國の橋の下から拾はれたの、乞食までしたのと、餘計なことをペラペラしやべつたんでせう。默つて居りや知れずに濟むことぢやありませんか」
 八五郎には重三郎の打ち開けた態度が、藪蛇としか見えなかつたのです。
「さう思ふのも一應尤もだが、お前はあの重三郎を見て變だとは思はなかつたか」
「へエ?」
「あれを、四谷忍町の小松屋の若旦那と聞いて、變には思はなかつたかと訊いてゐるんだよ」
「變でしたよ、何處か荒つぽいところがあつて――身扮みなりも言葉遣も大店の息子らしくはして居ましたが、顏の色が妙に陽焦けがして居るし、聲が少し鹽辛しほからで、手足も妙に荒れて居ましたね」
 重三郎には全く大店の若旦那らしい線の柔らかさと言ふものがなかつたのです。
「其處だよ――重三郎も自分でよくそれを知つて居たのだよ、おれの眼は胡麻化せないと思つたから訊かれると直ぐ身の上を打ち開けて正直さうに持ちかけ、しんみりさせて自分を信用させるつもりだつたのさ。隱して居たところで、永い間にはいづれわかる事だし小田原へ人をやつて、それからそれと手繰たぐれば、兩國橋の下の古巣まで露見するよ」
「成程ね――そんな危ない橋まで渡つてなんだつて、親分のところへ來たんでせう。あんな具合に直ぐ縛られちや、割が合はないぢやありませんか」
「忠五郎の口から、いろ/\の事がバレさうになつて居たんだらう。忠五郎も惡い奴で、重三郎に毒害されて默つて死んで行くやうな生優なまやさしい人間ぢやない――それに」
「それに?」
「惡黨の自惚うぬぼれだよ、惡黨に自惚れがなきやア、こちとらの仕事は上がつたりだ。重三郎も多分平次の懷中に飛込んで、存分にをどらせてやらうと思つたんだらう。甘く見られたんだね」
 平次はさう言つて苦笑ひをするのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年11月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1947(昭和22)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年5月15日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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