錢形平次捕物控

尼が紅

野村胡堂





「親分、變なことがあるんだが――」
「お前に言はせると、世の中のことは皆んな變だよ。角の荒物屋のお清坊が、八五郎に渡りをつけずに嫁に行くのも變なら、松永町の尼寺あまでらの猫の子にさかりが付くのも變――」
「止して下さいよ、そんな事を、見つともない」
 錢形平次と子分の八五郎は、相變らずんなトボケた調子で話を運ぶのでした。平次の戀女房のお靜は、我慢がなり兼ねた樣子で、笑ひを噛み殺し乍ら、お勝手へ逃避たうひしてしまひました。
「何を言ふんだ、そいつは皆んなお前が持つて來たネタぢやないか。今度は何處の新造が八を口説くどいたんだ」
「そんな氣樂な話ぢやありませんよ。三河町の吉田屋彦七――親分も御存じでせう」
「うん、知つてゐるとも、大層な分限ぶげんだといふことだな。それがどうした」
「三河町の半分は持つてゐるだろうといふ大地主ですよ。其の吉田屋の總領の彦次郎といふ好い息子が勞症らうしやうで死んだのは去年の暮だ――もう半歳になりますね」
 障子の外の清々すが/\しい青葉を眺め乍ら、八五郎は不器用な指などを折ります。
「それがどうした、化けてでも出たか」
「そんな事なら驚きやしませんがね。町内の評判息子で、孔子かうし樣の申し子のやうな若旦那が死んだ後へ、言ひ交したといふ、若い女が乘込んで來たとしたら、どんなもんです。え? 親分」
「あ、乘出しやがつたな八、先づよだれでも拭きなよ。お前が死んだつて、乘り込んで行く女なんかありやしないよ。第一身上しんしやうが違ふ、三河町の吉田屋へ轉がり込めば、相手が佛樣になつて居ても、まさか唯ぢや投り出されない――先づ慾得づくだらうな」
「誰でも一應はさう思ふでせう。ところが大違ひなんで」
「何處が違ふんだ」
「女が泣き乍ら言ふんださうで――身上に眼がくらんだと思はれちや女の一分が立たないから、若旦那が死んだと聽いてから、泣きの涙で半歳我慢したが――」
「女にもその一分なんてものがあるのかえ」
「まア、聽いて下さいよ親分。その女が言ふには、若旦那の位牌ゐはいを拜まして頂いて、大ぴらに墓詣りが出來れば、その上の望みはない、私は一生尼姿で暮らしますから、お長屋の隅でも物置でも貸して下さい、身過ぎ世過ぎは托鉢たくはつをして人樣の門に立つても、御迷惑はおかけいたしません――と」
「泣くなよ、八」
「若旦那と言ひ交した證據はこれ/\と、持つて來た品々は、若旦那から貰つたといふ髮の物から身の廻りの品々、それに若旦那から送られた戀文が、何んと四十八本」
「恐ろしく書いたね」
「身體も心も弱かつた若旦那が、兩親に隱れて言ひ交した女だ。滅多に逢ふ瀬もなかつたことだらうし、何時親達の許しを受けて、家へ引取れることか、その當てもなかつた」
素人しろうとぢやないのか」
「去年の川開きの晩、友達にさそはれて、始めて逢つたといふ、水茶屋の女ですよ」
「それは又變つてゐるね」
 大家の若旦那の相手なら、入山形いりやまがたに二つ星の太夫でも不思議はないのに、水茶屋の茶くみ女は少し物好き過ぎました。
「世馴れない若旦那の初戀だ。相手をり好みするほどのゆとりはありやしません」
「話はそれつきりか」
 平次は先をうながしました。八五郎の話はサワリが多過ぎて、時々筋が通らなくなります。
「吉田屋の兩親も、最初から泣かされてしまひました。伜が生きて居たら、敷居をまたがせる女ではなかつたでせうが、伜が死んで氣がくじけて居るところへ、四十八本の色文を持込んで、眼の前で髮の毛を切られたのですから、一も二もありません」
「それで、吉田屋では引取ることになつたのか」
「昔吉田屋の隱居が使つたといふ、裏の離屋はなれに手入れをして、取あへず其處へ入れました。まさか母屋おもやへ入れるわけにも行きませんが、さうかと言つて死んだ伜の色文を四十八本も持つて居る、滅法綺麗な切髮の女を外へ投り出すわけにも行きません」
「それつきりか」
「それつきりには違ひありませんが、兩國の水茶屋で、辨天屋のお傳お半と並べてうたはれた一枚繪の主が、死んだ若旦那の色文を四十八本も温めて、青坊主にはならないまでも、美しい髮の毛を切り下げにして、念佛三昧に日を暮らすのは少し變ぢやありませんか。ね、親分」
 八五郎に言はせると、水商賣の女が四十八本の色文を使ひ紙にもせず紙衣もらず、足を洗つて行ひ濟してゐるのが、まことに不思議でたまらなかつたのです。
「辨天屋のお傳とお半といふのは噂に聽いた女だが、吉田屋に乘込んだのは何方どつちだ」
「お半の方ですよ。お傳はおとなしい娘でしたが、三月前に死んで、少し鐵火で綺麗なお半の方が紅白粉を洗ひ落して、吉田屋へ乘込んで來たんです」
「世の中は樣々だ。水商賣の女だから浮氣と限つたものぢやあるめえ」
 さう言ふ平次の女房のお靜も、もとは水茶屋の茶くみ女だつたことに思ひ當つたのでせう。
「でもね、親分。あの仇つぽいお半坊が、被布ひふの上へ輪袈裟わげさか何んか掛けて、※(「口+奄」、第3水準1-15-6)阿牟伽オンアボキヤやる圖なんてものは、ウフ」
「馬鹿野郎ツ」
 平次はこの至極封建的な一かつを浴せました。しかしこの事自體は、八五郎が面白がるほど變つたことではないにしても、此後に續いた事件の眞相に至つては、錢形平次の長い十手生活中にも、全く比類のない變つたものだつたのです。


 それから一と月ばかり、藤や牡丹ぼたん菖蒲しようぶが咲いて、世間はすつかり初夏になりきつた頃のことでした。
「親分、矢張り變なことになりましたよ」
「また變な事の押賣りか、何がどうしたんだ」
 フラリとやつて來た八五郎は、少しつまゝれたやうな顏をして居ります。
「三河町の吉田屋ですがね」
「お半が還俗げんぞくして、お前のところへでも轉げ込んだのかえ」
「お半に變りはありません。苅萱道心かるかやだうしん見たいに神妙にして居りますがね、昨日あの家のお内儀かみさんが死んだんです。死樣にも不思議はなく、持病のしんの病と醫者も見立てたんですが、困つたことに――吉田屋のお内儀の死んだのは變死に違ひない。無事にとむらひを引受けると、後日の難儀だらう――と檀那寺だんなでらに手紙を投り込んだ者があつて、葬式を出せなくなつてしまひ、檢屍をお願ひする騷ぎです。親分もちよいと立ち合つて下さいませんか。お係り同心の近藤常平樣のお傳言ことづてですが」
「よし、待つて居な」
 平次もこれは嫌應ありません。早速着換えをして、三河町まで八五郎と一緒に飛びました。
「お、平次、よく來てくれた」
 年輩の同心近藤常平は、ホツとした樣子で平次を迎へました。
「相濟みません、遲くなりました。御檢屍はもうお濟みで」
「濟んだばかりだよ。一應見て行つてくれ。町内の掛り付けの醫者も、毒死や縊死いしではなく、心の臟の持病で死んだに相違ないと言ふのだ。身體にはの毛で突いた程の傷もない。寺への投文は誰かの惡戯いたづらだらうよ。兎角金を持ち過ぎたりすると、町内の者に憎まれるから」
 近藤常平は心得たことを言ふのでした。
 店の番頭に案内されて、奧の部屋へ通ると、内儀の死體はまだ其儘、檢屍がすんでホツとした人々は、これから手分けをして葬ひ萬端の仕度をしようといふところです。
「あ、錢形の親分、飛んだお騷がせをして」
 主人の彦七はまだ四十二三、頑丈さうな身體と、弱さうな神經を持つた典型的な旦那衆で、檢屍が無事に濟んで、改めて配偶つれあひうしなつた悲歎にさいなまれて居る樣子です。
 死體の枕元にヂツと首を垂れて、恐ろしい悲しみを齒を喰ひしばつて我慢して居るのは、神經質らしい小柄な美少年で、年は十七八でせうが、ちよつと見は十四五にしか見えません。それは去年死んだ若旦那彦次郎の弟で、今は吉田屋の一粒種、文三郎といふのとわかりました。
 あとは手代の徳次二十五歳、番頭の喜代三の四十八歳など、いづれも神妙に差控さしひかへて居ります。
 内儀お安の死顏には、明かに苦惱の色を留めて居りますが、それは若くて死ぬ人にあり勝の病苦の跡で、佛作つた顏は四十そこ/\の、極めて無事な相好でした。
 口中にも、眼瞼にも、喉にも、胸にも、何んの變化もなく、尚ほ念入りに見た耳の穴にも、水月みづおちにも、變死らしい樣子は少しもありません。
「どうだ平次」
 近藤常平は後ろから差覗いて居りました。
「少しも」
 平次は首を振りました。
「それで良し、葬ひを出しても仔細しさいはあるまい」
 近藤常平に取つては、醫者の檢屍の上に、錢形平次の意見が必要だつたのでせう。それが濟むと平次は、八五郎の眼にさそはれて、裏の方に廻つて見ました。
「お半に逢つて見ませう。主人はあの通り弱氣で、自分の思つたことも言へない人ですが、息子や奉公人達がうるさくて、内儀の葬ひ騷ぎにも、あの女だけは母家へ足踏あしぶみもさせないのですよ」
 八五郎はさう囁やくのです。
 土藏の蔭へ廻ると、もと隱居いんきよ家に使つたといふ三間四方程の小さい離屋はなれがあつて、半分開けたまゝの障子の隙間から、中の樣子はよく見えます。
「――」
 八五郎は默つて指しました。それはさゝやかな佛壇の前に、キチンと坐つて、一心不亂に讀經どきやうしてゐる、輪袈裟わげさを掛けた切髮の女の後ろ姿ではありませんか。
 聲を掛けようとする八五郎を押へて平次は、暫らく待ちました。立ち停ると首筋へ初夏の陽がほの/″\と射して、青葉の風がさわやかに頬を撫でます。
 一とくさりの經が濟むと、後ろの物の氣配に誘はれたものか、女はなゝめに後ろ手を突いて、靜かに振り返りました。實に美しいポーズです。
「まア、八五郎親分」
 さう言つて頬を染めた樣子、振返る所作が切髮に波打たせて、額を撫でるつややかさは比類もありません。
 兩國で一としきり鳴らした茶くみ女のお半は、錢形平次も滿更知らない顏ではありませんが、紅白粉を拔きにして、白襟、黒つぽい袷、暗い紫の帶に、輪袈裟を掛けた清らかな姿は、全く豫想もしなかつた、神々しくも艶やかなものでした。世の浮氣女に一と眼此姿を見せたら、自分といふものの美しさを強調するために、十人の八九人まで、黒髮を切つて袈裟けさを掛ける氣になるかも知れません。


 又次の一ヶ月は過ぎました。端午たんごの幟が見えなくなつて、川開きの噂が江戸つ子の口に上るころ。
「わツ、大變ツ、親分」
 到頭八五郎の大變が飛込んで來たのです。
「今度は何が始まつたんだ。お前の大變が久しく來ないから、惡い風邪かぜでも流行はやらなきや宜いがと思つて居たが――」
「落着いてゐちやいけませんよ、親分。お膝元に大變なことがあつたんだ、しかも相手はピカピカするやうな綺麗首だ。勿體ないの何んのつて――」
「あわてるな八、一體誰がどうしたんだ」
 平次は八五郎の逆上のぼせあがつたのへ水をブツかけるやうに、落着き拂つて動かうともしません。
「驚いちやあいけませんよ、親分」
「驚かないよ、八五郎が大名になつたつて驚くものか」
「お半が自害したんですよ。あの吉田屋の離屋で、オンアボキアを唱つてゐた、切髮のお半が、可哀想に匕首あひくちで胸を刺して、裸體になつて死んでゐますよ」
 八五郎の報告の言葉から、平次はフト嫌なものを想像しました。それは離屋を急に改造した庵室の佛壇の前で、おこなひ濟した姿の若い美女が、あられもない姿になつて、紅に染んで死んでゐる、恐しく冒涜的ばうとくてきな情景です。
「行かう、八」
 平次は勃然ぼつぜんとして起き上りました。此間からの行がかりで、何んか變つた事が起らなければ宜いがと思つて居る矢先、お半の自害は聽きのがしにならなかつたのです。
 三河町の吉田屋は此間の内儀の死んだ時と違つて、靜まり返つて居りましたが、店から入るとそれを待ち構へたやうに、主人の彦七が飛んで出ました。
「錢形の親分、重ね/″\の事で、本當に恐れ入ります」
「とんだ災難だね」
 何んとなく落着きを矢つた主人に案内されて、平次と八五郎は土藏の裏の離屋に行きました。
 まだ檢屍前で、二枚ばかり開けた雨戸から夏の光は一パイに入り、庵室の中の凄まじい情景を、殘る隈なく照し出して居ります。
「あ」
 錢形平次も、思はず足をめたほど、それは冒涜的なものでした。
 死んだお半の足で蹴上けあげたらしく、滅茶々々に崩れた佛壇、燭臺しよくだい蝋燭らふそくは不思議に無事で、これは半分ほどを殘して消してありますが、その前に引つくり返つたお半は、此前見た時の神妙な姿と違つて、思ひきり紅白粉の薄化粧をした上、輪袈裟わげさどころか燃え立つやうな長襦袢ながじゆばん一枚になつて、胸もあしも淺間しいまでに取亂したまゝ、その左の乳のあたりへ、匕首を深々と刺してこと切れて居るのです。
「これはひどいな」
 平次が唸つたのも、それは無理のないことでした。胸から腕へ、はぎから股まで、思ひおくところなく取亂した姿は、八五郎が『裸で死んで居た』と報告したのも滿更嘘ではありません。匕首あひくちは血に染んだまゝ、死骸の手の上に乘つて居りました。固く握つたのではなくて、それは苦悶くもんゆがんだ指の上に乘つて居たと言つた方が宜いでせう。
「この死顏はどうです、親分」
 血の氣を失つて、蒼白く引緊ひきしまつた顏は、紅白紛のせゐもあつたでせう。それは八五郎の好奇心をそゝるほどの異樣な魅力です。
「馬鹿ツ、死ねば佛樣だ。念佛の一つもとなへて、その顏と裾のあたりを隱してやれ」
「へエ」
 平次に叱られて八五郎は、あわてて手洗の手拭を持つて來て顏へかけてやり、押入を開けて、黒つぽい袷を見付けてその身體を覆つてやりました。
「八、お前はこれをどう思ふ」
「へエ?」
「自害する女は、こんなに取亂すものかな。それに部屋の中には酒の用意もあるし」
「?」
 平次は死骸の側の長火鉢と、その銅壺に突つ込んだまゝ、水の如く冷たくなつた酒を嗅いだりして居ります。
「これだけ自分の胸に突つ込んだ匕首を拔くのは、容易ぢやあるまい、――拔いたとすれば、精一杯の仕事だから、匕首を固く握つて居なきやならない筈だ」
「?」
「まだあるよ、――暗闇の中で、長襦袢ながじゆばんを着て自害する者はあるまいが、――蝋燭らふそくの灯は一體誰が消したんだ」
「成程ね」
 う言はれて見ると、八五郎にもやうやくお半の死に樣の不合理な點がわかつて來るのでした。
「こいつは容易ならぬ事だよ。八、主人を呼んでくれ」
「へエ」
 八五郎は外へ出ました。さすがに遠慮して此調べには、主人も奉公人達も立ち會つては居なかつたのです。


「今朝、これを一番先に見付けたのは誰だえ」
 平次の問ひは穩かで定石通りでした。
「下女のお作でございます。離屋の三度の食事は母家おもやから運ぶことになつて居りますので、今朝卯刻半むつはん(七時)少し前にお作が朝食を持つて行くと、雨戸が締つてゐて開かなかつたさうで、暫らく叩いたり呼んだりして居ましたが、到頭手代の徳次が行つて、道具まで持出して雨戸を一枚コジ開けて入ると、この有樣でございました」
 主人の説明は用意されたやうに整然として居りますが、念のために呼出された下女のお作は、四十前後のおろかしい女で、主人彦七の話したこと以上には、一句も新しい事實はありません。
 もう一つ念のために、手代の徳次を呼んで、雨戸を全部閉めさせましたが、さゝやかな離室にしては、贅澤な大町人の好みらしく、建築が恐ろしく念入りで、引いても叩いても、雨戸の印籠いんろうばめは外れさうもありません。
「こいつをはづすのは骨が折れました。後で家の中へ入つて見ると、念入りにさんをおろした上、心張棒まで掛けてあつたんです」
 手代の徳次はさう言つて、のみ金槌かなづちで引つぱがすやうにして開けた、二枚目の雨戸と敷居の傷などを見せて居ります。
「八、その離屋を閉めきつて、中から脱け出す工夫はないか。考へて見ろ」
「へエ、やつて見ませう」
 八五郎は手代の徳次に雨戸を閉めさせて、中で何やらゴトゴトやつて居りましたが、暫らくすると縁側からバーと顏を出しました。
「駄目ですよ、親分、鼠だつて出られやしません」
「天井へ這ひ上つて見たか」
「天井も床下も、恐ろしく念入りだ」
「雨戸の上の欄間らんまはどうだ、その障子を外したら出られるだらう」
「とんでもない、子供か猿公でもなきや出られるわけはありません。あんなに狹いんだから」
 八五郎のでつかい指は欄間を指して居ります。
「念のためだ、お勝手から踏臺ふみだいを持つて來て、欄間をよく調べて見てくれ。其處は大抵ほこりの多いところだ、子供でも猿公でも、這ひ出せばあとが殘る筈だ」
 平次の注意は尤もでした。やがて臺所から踏臺を持出した八五郎は一間半の欄間を念入りに覗いて居りました。が、
「驚いたぜ、親分。此家にはどんな癇症かんしやうの人間が住んでゐるか知らないが、雨戸の上の欄間までめたやうに拭き込んであるぜ」
「どれ、俺に見せろ」
 平次は縁側に飛上ると、八五郎に代つて踏臺の上に立ちました。覗くと成程、欄間の上は綺麗に拭き込まれて、人間の這ひ出した跡などは、一間半の間に痕跡も殘つては居なかつたのです。
「八、歸らう」
「へエ、何處へ行くんで」
「明神下の俺の家へ歸つて、一日ゆつくり考へよう。俺アどうも判らない事ばかりだ」
「へエ」
「此處は誰かに任せて、お前も一緒に來い――それからお半のとむらひはなるべく早く出させるが宜い」
 平次は何を考へたかきびすを廻して、其儘歸らうとするのです。斯うなるとガラツ八の八五郎は、默つてその後に從つて行く外はありません。
「あ、お前は文三郎と言つたね」
 店先にしよんぼり立つてゐる少年に平次は注意を拂ひました。
「――」
 默つて擧げた顏は、恐怖とも羞耻しうちとも、言ひやうのない不思議な表情です。
「少し訊き度いことがあるが」
 平次が往來に出ると、少年文三郎は默つてその後に從ひました。
「お前はお半をどう思ふ」
 前後に人の居ないのを見ると、平次は斯う問ひかけるのです。
「あの人は惡い人でした、親分」
「でも、お前の母親は、確かに病氣で死んで居るよ――お寺へあんな手紙を出したのはお前だらう」
 文三郎はハツとした樣子で顏を擧げました。その眼はおびえきつて居りますが、平次の問ひを肯定かうていも否定もしようとはしません。
 少し病身らしいが、その代り神經の鋭どさうな少年は、歎願するやうに平次の顏を仰ぐのです。


「八、お前は兩國へ行つて見ろ。辨天屋べんてんやで訊いたら、お半と吉田屋の若旦那の仲が、まるつきりわからないことはあるまい。若い者の色戀は、當人同士が秘し隱しに隱して居るつもりでも、思ひの外他の者が感付いてゐるものだ」
「へエ」
「それからお半に言ひ寄つた男が他にもあるだらうと思ふ。念入りに訊き出してくれ」
「親分は?」
「家で晝寢でもして居るよ」
 平次と八五郎は、それつきり別れました。明神下の自分の家に歸つた平次は、本當に枕まで出させて、そのまゝ晝寢をしてしまつたのです。斯うして雜念にわずらはされずに、一筋に物を考へるのが平次のやり方の一つでもありました。
 晝を大分廻つてから、八五郎は歸つて來ました。
「面白いことがわかりましたよ、親分」
「お半と彦次郎が、戀仲でも何んでもなかつたといふ話だらう」
「あ、どうして、それを親分」
「お前が飛んで歩いてる間、俺はこんな夢を見てゐたのだよ、――まア、そんな事にかまはずに覗き込んだだけの事を話せ」
「辨天屋の女將おかみも、多勢の女共も、お半と彦次郎の逢引してゐるのを見たこともないといふんですよ」
「フーム」
「ところが、お半の仲好しで、三月前に死んだお傳といふのが――この女は親分も知つて居るでせう。お半よりも綺麗だと言はれた、品の良い娘でしたが、――そのお傳が吉田屋の若旦那と出來て、親の眼を盜んで來る若旦那と、時々逢つて居たといふことですよ」
「フーム」
「辨天屋の店へは手紙の來た樣子はないが、お傳の叔母さんが柳橋に居る筈だから、其處へ行つて訊いたら、何にかわかるかも知れないと言はれて、――あつしはそれから柳橋の絲屋の後家ごけを訪ねましたがネ」
「――」
「思つた通り、お傳は其處で吉田屋の若旦那の手紙を受取つたんです。その手紙は一々お傳に渡したから、あとはどうなつたか知らないが、二十本や三十本ぢやないといふことでしたが」
 八五郎の報告は思ひの外奇つ怪で、そして暗示あんじ的でした。
「お半の評判はどうだ」
 平次は改めて訊きました。
「あれは利口者ですね。水茶屋などに奉公して居る癖に、決して男をこさへなかつたといひますよ。ことに貧乏人は寄せ付けなかつたさうで」
「面白いな、八。貧乏人を相手にしない女は、こちとらには縁がないが」
 平次はさう言ひ乍ら、お靜を呼んで外出の支度を急がせるのでした。
「何處へ行くんです、親分」
「もう一度吉田屋へ行つて見ようよ。俺はもう何も彼もわかつたやうな氣がする」
「へエ?」
 平次と八五郎は、暮れかゝる陽を追つて、もう一度三河町へ行きました。
 吉田屋では、一應の調べが濟んで、お半のとむらひの支度にゴタゴタして居りました。もとより赤の他人には相違ありませんが、一と月でも半月でも、離屋に置いたお半を、此儘犬猫のやうにはうむるわけにも行きません。
「御主人、お半が持つて來たといふ、若旦那の手紙を見せて貰ひ度いが――」
「へエ、どうぞ此方へ」
 主人の彦七はひどく迷惑さうですが、斷るべき口實もないので、平次と八五郎をさそつて、店の隣の別室に入りました。
「これでございますが」
 用箪笥から取出して、平次の前に押しやつたのは、紐でたばねた四十八本の色文。
「この手紙を御主人は皆んな眼を通したのかな」
「いえ、とんでもない、――痛々しくて讀む氣になりません。――こんな事と知らずに居た親の私が責められるやうで――」
 彦七はおもてを伏せるのです。
「そんな事もあるだらうな、――いや、それが間違ひの元だつたよ。御主人、此通り四十八本の手紙は、出した方の――彦次郎といふ名前は書いてあるが、受取る方の名前は一つも書いてない、――これを見るが宜い。受取人の名前は、一々はさみで切り取つてある。鋏目がよくわかるだらう」
「すると、――?」
 主人の彦七はハツとした樣子で顏を擧げました。
「丁度宜い、此間から昨夜までのことを、この平次が話して見よう、うだ――」
「――」
 平次は話し出しました。薄暗い四疊半、八五郎の外には誰も聽いて居る者もなく、主人の彦七は神妙に首を垂れて、平次の論告を待つて居るのです。
「お半は惡い女だ、あの女には色も戀も、義理も人情もない、――朋輩ほうばいのお傳が、若旦那の彦次郎と言ひ交し、四十八本も手紙を貰つて居るが、世上の取沙汰や親の思惑をはかり兼ねて、互に秘し隱しに隱して居ることを知り、若旦那の彦次郎が死ぬと、お傳を殺してその手紙を手に入れたのだらう」
「――」
「お傳の死んだのは病死だつたかも知れないが、兎も角お傳を丸めてすつかり懇意こんいになり、お傳が死ぬと若旦那の手紙を手に入れて此家へ乘込んで來た。吉田屋の身上しんしやうを狙つたことは言ふまでもない」
「へエ、驚きましたな」
 主人の彦七もさすがに舌を卷きました。
「お半が若旦那の本當の戀人なら、若旦那が死んで半歳も愚圖々々して居る筈はない。――吉田屋へ乘込んだのは、殊勝らしく持ちかけて、あはよくば主人のお前さんを手の中に丸め込むつもりだつたに違ひないが、お前さんが思ひの外しつかりして居るので、死んだ若旦那の弟の文三郎を取込まうと考へた」
「――」
「その間にお内儀がなくなつた、――文三郎はそれを、お半の手に掛つて毒害されたものと早合點して、寺へ手紙などを出したが、お内儀の死んだのは全くの病氣だつた」
「お半はその喪中にもかゝはらず、間がな隙がな文三郎にからみ付いた。昨夜はそれがかうじて、あの通り薄化粧に長襦袢ながじゆばんの此上もないなまめかしい姿で、酒まで用意して文三郎を引入れた、――十八になつた文三郎が、年増女の恐しいさそひを振り切ることも出來ず、多分ウカウカとあの離室へ入つたことだらう。しかし、若い者は若い者の良いところがあり、例へば阿婆摺あばずれ女などの儘にならぬ清らかなところがある。一度はお半の誘ひの手を振り切り兼ねて、離室に誘はれた文三郎も、兄の事や母家のことを考へると、お半の色つぽさが、恐しいものにも、うとましいものにも見えた」
「――」
 平次の説明の微妙さに、主人の彦七は默りこくつてしまひましたが、聽いて居る八五郎は、呆氣あつけに取られて鼻の穴をふくらませて聽き入つて居ります。縁側にも物の氣配、――誰やらが立ち聽きをして居るのでせう。
「お半は到頭、獨り口説くぜつに實が入つて、匕首あひくちまで持出し、一緒に死んでくれとでも言つて文三郎に絡み付いた事だらう。十八になつたばかりの文三郎は、全身の血が火のやうに燃えて、クワツとなつたのも無理のないことだ。煩惱と憎しみと、口惜くやしさと醉ひ心地とが一緒になつて、女の手から匕首を取上げると、サツと突いた――それは運の惡いことにお半の心の臟だつたのだ」
「――」
 主人の彦七はガツクリとうな垂れました。
「文三郎は死んで行くお半の姿を見て、夢から覺めたやうに驚いたことだらう。一足飛びに母家へ飛び込んで、父親のお前さんに知らせた。暫らくは泣いて口説いて、二人は相談したことだらう。そして父子はもう一度この離屋へ取つて返し、お半の胸から匕首を拔いて、その右手に持たせる恰好にし蝋燭らふそくを吹き消して――こいつはやり過ぎだつたが、家持の町人はどんな場合でも火の用心は忘れない――」
「――」
「父親は先へ出た。文三郎は中から雨戸を念入りに締めきつた上、年にしては身體が小さいから、欄間らんまの障子を外して其處から除け出し、後で氣が附いて、一間半の欄間を皆んな拭いて置いた」
「――」
「どうだ御主人、これで間違ひはあるまい。違つたところがあるなら言つてくれ。幸ひ縁側には文三郎も聽いて居るやうだ」
 平次の説明は行屆き過ぎました。
「親分さん、私を縛つて下さい。父さんは何んにも知りません。皆んな私が」
 障子を開けて轉げ込んだのは、言ふ迄なく次男の文三郎の、激情に押し負かされた哀れな姿だつたのです。
「文三郎。お前は、お前は」
 それを抱き起すやうに、父親の彦七。
「宜いつてことよ。お半は馬鹿な芝居を打ちそこねて、それがバレさうになつて自害をしたんだ。それで萬事落着ぢやないか。なア、八、歸らうぜ、――誰も縛られる者はない筈だ――」
 平次は互に抱き寄る父子を尻眼に、そつと其座を滑り出るのでした。
 江戸の町はもう夜です。何處からともなく夏祭の稽古囃子けいこばやしが面白さうに聽えて來るのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年11月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1948(昭和23)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード