錢形平次捕物控

狐の嫁入

野村胡堂





「親分、面白い話があるんだが――」
 ガラツ八の八五郎は、木戸を開けて、長んがい顏をバアと出しました。
「あ、驚いた。俺は糸瓜へちまが物を言つたかと思つたよ。いきなり長い顏なんか出しやがつて」
 錢形平次は大尻端折の植木の世話を燒く恰好で、さして驚いた樣子もなく、こんな馬鹿なことを言ふのです。それが一の子分ガラツ八に對する、何よりの好意であり、最上等の歡迎のであることは、ガラツ八自身もよく心得て居りました。
「ジヨ、冗談でせう。糸瓜が物を言や、唐茄子とうなす淨瑠璃じやうるりを語る」
「面白い話てえのはそれかい、八」
「混ぜつ返しちやいけませんよ。親分が糸瓜に物を言はせるから、あつしは南瓜かぼちやに淨瑠璃を語らせたんで――」
「大層こんがらがりやがつたな、――ところでその面白い話てエのは何んだい」
 平次は縁側に腰をおろすと、煙管の雁首がんくびで煙草盆を引寄せました。
 あまり結構でない煙草の煙が、風のない庭にスーツと棚引くと、形ばかりの糸瓜の棚に、一の雲がゆら/\とかゝる風情でした。
「狐の嫁入なんですがね、親分」
「狐の嫁入?――娘のおチウを番頭の忠吉に嫁合めあはせるといふお伽話とぎばなしの筋なら知つて居る」
「そんな馬鹿々々しい話ぢやありませよ。何しろ町中の物持が大概たいがいやられたんだから、この筋書は容易ぢやありませんよ」
「獨りで呑み込まずに、さつさとブチまけて了ひな。狐の嫁入がどうしたんだ」
 平次も少し乘氣になりました。この話はどうやら筋になりさうです。
「ツイ十日ばかり前から、荒川づゝみで狐の嫁入がチヨイチヨイおこなはれるんですよ」
「おこなはれるは變だね」
「最初は丁度この月の始め、雨のシヨボシヨボ降る晩でした。戌刻いつゝ半頃小臺の方からつゝみの上に提灯が六つ出て、そいつが行儀よく千住の方へ土手を練つたんで、川向うの尾久をぐは祭のやうな騷ぎだつたさうですよ」
「川向うが騷いで、小臺の方ぢや騷がなかつたのかい」
 平次は早くもガラツ八の話の中から疑問をたぐりました。
「そこですよ親分。尾久の方からは、川向うの土手を、提灯が六つゆらり/\と練つて行くのが見えるが、土手下の小臺の方からは、たつた一つもそんなものが見えなかつたといふから不思議ぢやありませんか」
「フーム、器用なことをするおコンコン樣だね」
「王子が近いから、いづれ裝束しやうぞく稻荷の眷屬けんぞくが、千住あたりの同類へ嫁入するんだらうてえことでその晩は濟んだが、驚いたことにそれから三日目の晩、又雨のシヨボシヨボ降る日、今度は先のよりでつかい狐の嫁入があつたんです」
「どうしてでつかいと解つた」
「その時は提灯が倍の十二でさ。土手を十二の提灯が行儀よく練るのが川にうつつてそりや綺麗でしたよ」
「お前はそれを見てゐたのかい」
あつしが見たのは三度目ので」
「三度もあつたのかい」
「だからお話になりますよ。――それから五日目の昨夜、晝頃からあつらへたやうなシヨボシヨボ雨になつたでせう」
「フーム」
「尾久の友達が前から、打合せてあつたんで、大急ぎで出かけました。こんな晩は又狐の嫁入があるかも知れない、なかつたら向う川岸を眺め乍ら、夜つぴて飮まう――てえ寸法で」
あきれた野郎だな。その友達といふのは誰だい」
「尾久の喜八で、いゝ年をして居るくせにろくな捕物をしたことはないが、酒は滅法強い」
「何んて口をきくんだ。それから何うした」
 平次はこの狐の嫁入話が、すつかり氣に入つた樣子です。
「待つほどに醉ふほどに」
「氣取らずに筋を通しな」
「何しろ日が暮れる前からやつて居るでせう。亥刻よつ近くなつて、好いかげんトロリとしてゐると、川向うにチラと明るいものが出て來た――」
「――」
「喜八の家は坐つて居てつりの出來るのが自慢で、川向うの狐の嫁入見物には、これほど結構な棧敷さじきはない」
「それからどうした」
「シヨボシヨボ雨の向う川岸へ出た提灯の數は、何んと今度は三倍の十八ぢやありませんか。それが六つづつ三つになつて、行儀よく千住の方へるから見物みものでさ」
「お前はそれを默つて見てゐたのか」
「其邊に舟はなし、川へ飛込んだところで、親分が知つてなさる通り徳利でせう。仕方がないから指をくはへて、喜八と二人であれよ/\」
「間拔けだなアー、何んだつて宵のうちから向う川岸に廻つて、狐の嫁入を見極めなかつたんだ」
「向う川岸の小臺の方からは、提灯が一つも見えなかつたといふから不思議ぢやありませんか。――小臺の衆は、尾久の奴等は臆病おくびやうだから、そんな物を見るんだらうと言ふと、尾久の手合は口惜しがつて、何を小臺の寢呆ねぼけ野郎――といふ騷ぎで、こいつは何時まで噛み合せてもらちはあきませんよ。幸ひあつしがこの眼で見たんだから、狐の嫁入が本當に通ることには間違ひありません」
「話はちよいと面白いが、それつきりぢや仕樣がない。お狐にしちや手數がかゝるから、いづれは誰かの惡戯いたづらだらう。提灯屋が喜ぶだけの事さ」
 平次は輕く片付けて、もとの植木の方へ、注意が外れて了ひさうです。
「親分、話はこれからですよ」
 ガラツ八は乘出しました。低い鼻が少しばかりうごめきます。


「大層手數のかゝる話ぢやないか。早く筋をブチまけて了ひな」
 平次は不精無精の顏をネヂ向けました。
「狐の嫁入見物で、どの家も空つぽになつたところへ、空巣あきす狙ひが入つたんで」
「何んだ、そんな事か」
「物持と思はれる家は、大抵やられましたよ。尤も動けない老人や病人が仕樣事なしに留守番をしてゐる家は助かりましたがね」
「大層手數のかゝる空巣だが、餘つぽど盜られたのか」
「盜られた家は七八軒。金は田舍のことだから、五兩か十兩でせうが、品物は隨分やられましたよ」
「三代前から傳はつた紋附といつたやうな品だらう」
「それから生物――」
「牛かい、馬かい」
「人間なんで」
「人間?」
「清水和助といふ町一番の大地主で、苗字めうじまで名乘る家のかゝうど、お夏といふ十八になる娘が盜まれましたよ」
「フーム」
あつしが見たわけぢやありませんが、綺麗な娘だつたさうですよ」
「それから」
「それつきりで、尾久の喜八も、――こいつはこちとらの手にへないから、錢形の親分にお願ひするやうにつて」
「それで尾久から飛んで來たのか」
「へエ――」
「馬鹿だなア、そんな事は尾久で調べ上げれば、半日で解るのに」
「半日や一日ぢや解りませんよ」
「急所を外れるからいけないんだ。例へばあの邊から江戸へかけて質屋しちやを張らせるとか、提灯屋を當つて見るとか」
「喜八の子分が暗いうちに手を廻しましたよ」
「提灯を十八も揃へるには、一人で二つづつ持つても、九人の手が要るだらう。多勢組んでゐる惡者を搜し出せば、思ひの外早く埒があくぢやないか」
「九人組なんて大袈裟おほげさなのはありませんよ」
「他に手の付けやうがあるものか。――尾久の喜八兄哥あにいが宜いやうにするだらう。放つて置くが宜い」
 錢形の平次は餘り相手になり度くない樣子です。
「でも、親分。喜八は飮みつ振りも、氣前も良い男ですよ」
「呆れた野郎だ。いやに喜八兄哥の肩を持つてると思つたら、そんな事なのか」
「頼みますよ、親分。折角喜八があんなに言ふんだから」
「ぢや手前だけ行つて見るが宜い。どうしても手に了へなきや、その時俺が行つてやらう」
 尾久まで乘出すのは、さすがに氣がさしたか、平次は容易に御輿をあげようともしません。
 ガラツ八はつてとも言ひ兼ねた樣子で、そのまゝ引返しました。
 それから二日、まぎれるともなく御用にかまけて紛れてゐると、
「た、大變ツ、親分」
 ガラツ八の大變が髷節まげぶしを先に立てて舞ひ込んだのです。
「何をあわてるんだ。――尾久から大變の百萬遍をやつて來たんぢやあるまいな」
「親分、落ち着いてゐちやいけませんよ。大變な事が始まつたんだ。あつ喉がかわく、水を一杯――」
「お靜、八が水を欲しいとよ。そんな小さい茶碗で間に合ふものか、手桶てをけごと持つて來るが宜い。――さア、一體何が大變なんだ、話して見るが宜い」
「人間が二人やられて、その上清水の息子が行方不知しれずになりましたよ」
「成程そいつは大變だ。くはしく話して見ろ」
「詳しくにもざつにも、これつきりですよ。村のあぶれ者で、小博奕こばくち強請ゆすりを渡世のやうにしてゐる照吉と伊太郎といふのが、尾久の土手で斬られて、ひどい死樣で――」
「フーム」
「その晩、地主の清水和助の一人息子、清次郎といふ※(「米+參」、第3水準1-89-88)しんここさへたやうな息子が行方不知になつたんで」
「昨夜は狐の嫁入はなかつたのか」
「生憎雨が降らなかつたせゐか何んにもありません。もつとも狐の方でも三人娘を嫁にやつてあとは品切れになつたのかも知れませんがね」
「無駄を言ふな、兎に角行つて見ようか、少し遠いが」
「有難てえ、さう來なくちや――」
 ガラツ八の八五郎は、額を叩いて先に立ちました。神田から尾久まで二里に餘る道ですが、斯う調子づくと、八五郎は調法なことに殆んど疲れを知らぬ人間です。


 尾久の土手へ行つて見て、さすがに平次も驚きました。田舍のことで、檢屍の手が廻らないのか、二人の死骸はむしろを掛けたまゝ、土地の御用聞の喜八が頑張つて、一生懸命彌次馬を追つ拂つて居りますが、まだ八州の役人も顏を見せず、江戸の御用聞の平次が來ても、遠慮しなければならぬほどの人間は一人も居りません。
「お、錢形の」
 喜八の顏には、救はれた者の喜びがみなぎりました。
「尾久の兄哥あにき、久し振りだつたな。相變らず達者で良いね」
「達者なのは口と酒ばかりだ。見てくれ、この通り血の海だが、俺ぢや手の付けやうはねエ。八州の役人が來ないうちに目鼻を付けなきや、又うんと小言を言はれるだらう。それに他の御用聞に嗅ぎ出されて、馬鹿にされるのも業腹ごふはらだ。錢形の兄哥なら――」
 喜八がさう言ふのも無理はありません。千住の先は江戸の町奉行の管轄くわんかつでなく、言はば平次は繩張り違ひですが、この老御用聞を救つてくれるのは、功名に恬淡てんたんな平次の外にはありさうもなかつたのです。
 尾久の喜八は土地に根をやした良い顏には相違ありませんが、喧嘩の仲裁、もめ事の調停なら知らず、むづかしい捕物となると全くの苦手で、血を見るともう手も足も出ないやうな、御用聞離れのした男でした。八五郎を拜んで、平次を引出したのは、土地の仲間にこの功名をさらつて行かれ度くないばかりの苦策くさくだつたのです。
「それぢや、ちよいと覗かして貰はうか。成程こいつは?」
 平次はむしろを剥いで見て驚きました。照吉と伊太郎はどつちも三十五六、典型的な安やくざですが、實に眼も當てられぬ凄まじい死にやうをして居るのでした。
 わけても伊太郎は全身數十ヶ所の傷を受け、最後に左の胸を突かれたのが致命傷で、なますのやうになつてこと切れ、照吉はほんの二三ヶ所のかすり傷を受けただけ、その代り見事な袈裟掛けさがけに斬られて死んで居ります。
「錢形の兄哥、もうお役人の見える頃だ。此場の恰好だけでも付かないものだらうか」
 喜八は獨りで氣をんで居りました。
「待つてくれ、――此場の恰好だけなら、何んとか付くだらう。其代り後で樣子が違つても構はないだらうな」
「構はないとも」
「もう一つ、念のために二人の懷を洗つてくれ。金は持つて居ないだらうと思ふが――」
「不斷百も持つて居ない人間だが、この二三日馬鹿に景氣がよくて、伊太郎などは近在の賭場とばを門並み荒して歩いたさうだよ。――何んでも金のる木を植ゑたとか言つて」
「ところが、伊太郎は財布さいふも紙入も持つちやゐねエ」
「おや、變なことがあるものだね、錢形の」
「大方そんな事だらうと思つたよ」
「――」
 そんな事を話してゐるところへ、土地の御用聞に案内させて、檢屍の役人が乘込んで來ました。
「ひどい事をするな。――下手人の目星は付いたのか、喜八」
 役人も現場のむごたらしさに、ひどくタジタジとなつて居ります。
「へエー、大概見當は付いた心算つもりで御座います」
 喜八は平次に教へられた通り、ひどく簡單に答へました。
「どう付いたんだ」
「伊太郎と照吉は無二の仲でしたが、近頃伊太郎が何にかでまうけた樣子で、パツパして居りました。多分昨夜此處ではして、照吉が無心を吹つ掛け、それを聽かなかつたので喧嘩になつたので御座いませう」
「フーム」
 喜八の鑑定の要領のよさに、役人も、役人と一緒に來た御用聞達もり込まれて了ひました。
「二人は此處で、人交へもせずに斬り合つて居るうち、伊太郎の斬つた刀と、照吉の突いた刀とが一緒になり、相討ちになつて死んだもので御座いませう。その證據には、二人の長脇差はこの通り血だらけで、一間とは離れずに死んで居ります」
「フム」
「若し、誰か他の者が、この二人を斬つたとすれば、これだけの傷をつけたんですから、うんと返り血を浴びたことでせう。その邊にマゴマゴして居れば直ぐ知れて了ひます。土地者には、この二人のあぶれ者を一緒に相手にして、見事に斬り伏せるやうな、そんな腕の立つ人間はありません」
 喜八の説明は如何にもよく行屆きます。それを口移しに教へた平次は、八五郎と一緒に役人達に背を見せて、群がる彌次馬を追つ拂つて居ります。


「有難てえ。これで俺も坊主にならずに濟んだよ、錢形の」
 役人と、役人について來た二三人の御用聞の後ろ姿を見送つて、尾久の喜八はホツとしました。
「その代り、これからが大變だよ、喜八兄哥」
 平次は引返してもう一度二つの死骸をあらためて居ります。
「大變といふと?」
「下手人をさがすんだよ。――それから狐の嫁入を仕組んだ野郎と、泥棒と、人さらひと」
「二人は相討で死んだんぢやないのか」
 喜八の鼻はキナ臭く動きました。
「それは兄哥の顏をつぶさないやうに此場のがれの言ひ譯さ。相討なんかぢやない、立派な下手人があつたんだ」
「誰だい、そいつは」
「あわてちやいけない。俺は江戸の町方の御用聞だから、八州の役人が頑張ぐわんばつて居ちや、いくら兄哥の手傳ひでも仕事が出來ない。斯う追つ拂つて置いて、それから仕事をはじめるのさ」
「へエー」
 平次の話の意外さ、喜八はすつかりきもをつぶしてしまひました。
「第一、昨夜まで恐ろしく景氣のよかつたといふ、伊太郎が百も持つちや居ないだらう」
「フーム」
「小判はおろ鐚錢びたせん一枚入つた財布を持つちや居ない。照吉の方は財布は持つて居るが一文なしだ」
「――」
「二人が死んだ後で、誰か伊太郎の懷ろを拔いたに違げえねえ。が、こんなむごたらしい死骸から財布を拔くのは通りすがりの人間でない事は確かだ」
「成程」
「それに、伊太郎の傷は前から突いた傷だが、照吉は後ろから大袈裟おほげさに斬られてゐる。背の方が深く斬下げられて居るし、前は刄先が淺いから、こいつは間違ひはない。こんな具合に前から斬るためには、踏臺ふみだいでもしなきやなるまい」
「フーム」
「伊太郎は自分の胸を突かれ乍ら、踏臺をして照吉の肩先を斬り下げたか。――照吉が大地に坐つて肩先を大袈裟に斬られ乍ら、伊太郎の胸を突いたか」
「すると、どんな事になるんだ、錢形の」
 喜八はすつかり壓倒されて了ひました。
「照吉は伊太郎より、ぐんと腕が上だらう」
「その通りだ。二人が相討になつたと聞いて、照吉の野郎餘つ程運が惡かつたらうと思つたよ」
 と喜八。
「照吉はほんのかすり傷を受けただけだが、伊太郎は滅茶々々に斬られて居る。多分照吉は伊太郎の胸を一と突き、――首尾よく片付けて了つてほツとしたところを、誰かに後ろから袈裟掛けさがけに斬られたんだらう」
「成程その通りだ」
 平次の説明はかゆいところへ手の屆くやうでした。
「それだけは解つたが、照吉を殺して財布を拔いたのは誰か。それをこれから搜さなきやなるまい」
「?」
「養ひ娘を誘拐かどはかされた上、息子が行方不明になつたといふ、地主の清水のところへ行つて見ようか。――八、お前は喜八兄哥の身内の衆に案内して貰つて、土地の質屋と兩替屋を片つ端から調べてくれ。品物は隱して置くかも知れないが、空巣稼あきすかせぎで金を盜んだ奴は、三日とつかはずに居る氣遣ひはねエ」
「へエ――」
 八五郎は喜八の子分を二三人狩り出して、八方に散りました。二つの死骸はもう檢屍が濟んで、町役人に引渡したのです。


 清水和助といふのは、尾久の半分ほども持つて居ると言はれた大地主で、先代は苗字帶刀めうじたいたうを許されたほどの大百姓ですが、和助は養子で、早く女房に死に別れた上、何んの因果か子供運がなく、たつた一人の男の子で、二十三になる清次郎といふのを、杖とも柱とも頼む贅澤なうちにも淋しい生活でした。
 尤も親類から預つたお房といふ二十歳の娘があり、世間ではそれを清次郎に娶合めあはせることとばかり思ひ込んで居りましたが、どうしたことかそんな樣子もなく、半年ほど前から清水家に掛り人になつてゐる、お夏といふ十八になる娘と、この秋は祝言させるといふことに話が決つて居るのでした。
「江戸の町方のお方?――さうですか。私は和助、伜の行方を突き留めて下すつて、無事に戻りさへすれば、お禮はどんなにでもします。どうぞ、一骨折つて見て下さい」
 主人の和助は、喜八、平次の二人を迎へて斯んな事を言ふのです。五十前後のあぶらの乘つた中老人で、物慾の旺盛わうせいらしいのと、何事も金で始末の出來ないものはないと思ひ込んで居る樣子で、ひどく平次のかんにさはります。
「養ひ娘のお房さんといふのがあるのに、どうして、そのお夏さんといふのを嫁にすることになつたんです」
 平次の最初の問ひは斯う言つたものでした。
「お夏の父親は私の昔の友達で、恩がありますよ。それに、伜がお夏でなきやと言ふので――」
 和助の顏には苦澁くじふの色がアリアリときざみ付けられました。
「そのお房さんとやらに逢はせて下さい」
 平次はこの慾の深さうな主人と長く話して居るのが鬱陶うつたうしくなつた樣子です。
 お房といふのは二十歳といふにしては少しけた方で、決して綺麗ではありませんが、何んとなく智的な感じのする娘でした。
「お前さんはお房さんといふんだね」
「ハイ」
 お房は淋しく俯向うつむきました。
「此家とどんな係り合があるんだ」
「私は旦那樣のをひの娘で、遠い親類ですが小さい時兩親に別れて、此處に引取られました」
「主人はよくしてくれるだらうね」
「それはもう」
 辯解するやうな調子のうちに、何かしら悲しい語氣がひそみます。髮形ちも着て居るものも、至つて質素で、若いにしては智的に見えるのは、そのためだつたかも知れません。
「お前さんは此處の嫁になる筈ぢやなかつたのか」
 喜八は遠慮のない事を言ひました。
「いえ、飛んでもない」
「すると、お夏が嫁になつても、不服はないわけだね」
「――」
 お房はうなづきました。
 それから平次は主人の部屋、お夏の部屋、伜の部屋などを見せて貰ひ、物置と納戸と土藏まで念入りに調べさせて貰ひました。
「まさか土藏に隱れてゐるやうな事はあるまい」
 と喜八。
「人間は隱れちやゐないが、――俺は提灯の數を勘定したんだ」
 平次は變なことを言ひます。
「提灯がどうしたといふんだ」
「これ程の大家に提灯が二つしかないのを變だとは思はないか、兄哥あにき
「さう言へばその通りだが――」
「狐が持出したかも知れない。兎に角、提灯を掛ける釘が十三遊んで居るよ」
 二人は雇人達やとひにんに逢つて、お夏の身の上のことを訊きましたが、誰もくはしく知つてる者はありません。
「親分」
 清水の門を出ると、不意に聲を掛けた者があります。
「あ、與三松よさまつか」
 喜八は鷹揚に挨拶しました。相手は四十年輩の堅氣ともやくざ者ともつかぬ男。
「ちよいとお耳に入れ度いことがありますが」
「此處で言ふが宜い。――この人は俺の友達だよ。構はないとも」
 喜八は平次を友達にして了ひました。幸ひ江戸を離れると、神田の錢形平次もあまり顏を知られては居ません。
「外ぢや御座いませんが、――行方不知しれずになつた清水さんの掛り人のお夏といふ娘のことを、何うかしたら、浪人者の大井半之助さんが御存じぢやありませんか」
「それはどう言ふわけだ」
「親分は御存じぢやありませんか、――大井さんといふのは、あの娘の後を慕つて、此處へ來た人ですよ」
「――」
「お夏さんの父親は清水の旦那の若い時分の友達で、昔は江戸で一緒に仕事をしたが、清水の旦那はすつかり殘して尾久に引込んであの身上しんしやうを拵へ、お夏さんの父親は、商賣の縮尻しくじりから、二三年前首を釣つて死んだといふ話ですよ」
「フーム」
「その娘を清水の旦那が引取ると、浪人者の大井半之助さんが附いて來て、近所に家を借りて見張つて居るんです。大變な執心しふしんですよ」
「有難う。それだけ訊くと大變役に立つ、――一つその大井とか言ふ人に逢つて見ようか、兄哥」
 平次は早速新しい手掛りをたぐりました。
「無駄だらうと思ふよ。浪人者と言つても、生つ白い弱さうな武家で、朝から晩まで本を讀んだり歌を作つたり、女のするやうな事ばかりしてゐる男だ。若い娘を誘拐かどはかしたり、腕つ節の強いやくざを二人殺したりするやうな、そんなことの出來る柄ぢやない」
 喜八は頭から相手にしません。
「でも、武家は心得がありますよ。弱いやうでも、いざとなれば、こちとらの二人や三人はどうにでもなりまさア」
 與三松もなか/\主張がありさうです。
「ぢや行つて見るとしようか」
 平次はその弱い武家に興味を持ち始めた樣子です。


 二人は直ぐ近所にさゝやかな借屋住ひをしてゐる、浪人大井半之助を訪ねました。『弱い武家』で通つてゐるだけに、二十五六の良い男ですが、華奢きやしやで柔和で、どう見ても人間を誘拐かどはかしたり、やくざ者を斬つたりする柄とは思はれません。
「お聞きでせうが、清水屋敷のお夏さんが行方不知になりました。旦那は前からお夏さんを御存じのやうですが、お心當りはございませんか」
 喜八の言葉は丁寧ですが、拔差しならぬ言質をつかまうとする意氣込だけは猛烈です。
「知らない。――何んにも知らない。それで實は私も心配して居るのだが――」
 讀みさしの本も手に付かない樣子、腕をこまぬいて、青々した月代さかやきを見せます。
「お夏さんと、清水の旦那はどんな係り合ひになつて居りませう」
「その事ならよく知つて居る」
 大井半之助の説明は長いものでしたが、一と口に言ふと、今から二十五六年も前お夏の父石崎金次といふ浪人者と、今は清水の主人になつてゐる和助が、江戸で落合つて懇意こんいになり、木曾きそ御留山おとめやまり出して巨萬の暴富を積みました。
 その後和助は尾久に歸つて清水の養子になり、持參金で財産を整理して、今日の大地主になりましたが、石崎金次はその後も清水和助の資本でいろ/\の仕事を續け、二三年前舊惡が露見して、千住の宿で自殺して相果てました。
 石崎金次の死には、かなり疑はしいものがありましたが、日蔭者の悲しさは、それをあばき立てるわけにも行かず、娘のお夏は間もなく清水和助に引取られ、尾久の屋敷につれて來られて、和助の伜の清次郎が望むまゝに、嫁にすることになつた樣子です。
 大井半之助は石崎金次の惡事を憎み乍らも、その娘のお夏の美しさに引かされ、子供の時から親しくして居りましたが、お夏が尾久に引取られてからは、浪人者の氣樂さ、後を慕つて此處へ移り住み、蔭乍らお夏の安否を見護つて居たのです。
「こんなわけだ。――これ以上の事は何んにも知らない。お夏が逃げ出したものなら、自惚うぬぼれのやうだが、此私のところより外に行く場所はない。此處へ姿を見せないところを見ると、多分惡者にさらはれたのであらう」
 半之助はさう言つて暗然と眼を垂れるのです。
 平次と喜八は浪宅を出て二三十歩行きましたが、フト平次は立止つて、
「どうかすると、あの家にゐるかも知れない。行つて見ようか、兄哥」
「何んだい」
「まア、見付けてからの事だ。この八は當らないかも知れないから」
 二人はもとの大井半之助の家へ引返すと、一應斷つて、裏の物置を開けて貰ひました。
「この物置は滅多に使ふことはあるまいね」
 平次は案内の婆やさんに訊きます。
「もと百姓家で使つた物置だから、あんまり廣くて役に立たねえよ。近頃は三月も開けたことがねえだ」
「さうだらう」
 さう言ひ乍ら中へ入つた二人、
「あつ」
 喜八は思はず聲をあげました。廣い物置の隅に、各種各樣の提灯が十七八、蝋燭らふそくも拔かずに滅茶々々に積んであるではありませんか。
「こんな事だらうと思つたよ。狐の嫁入の道具が、矢張り川の此方にあつたんだ」
 平次はそれを豫期した樣子で一向驚く色もありません。
「縛つて了はうか」
 喜八はひしめきます。
「誰を?」
「知れたこと、あの弱い浪人者だよ」
「冗談ぢやない。自分が細工さいくした狐の嫁入道具なら、自分の物置へ隱して置くものか、あの浪人者を縛ると、飛んだ事になる」
「それぢや?」
「もう少しあちこち歩いて見よう」
 二人はまた川岸つぷちの方に取つて返すと、八五郎と下つ引二三人が勝誇かちほこつた樣子で飛んで來ました。
「親分」
兩替りやうがへした奴が判つたか」
「皆んな判りましたよ。それから蝋燭を買つた野郎も――」
 ガラツ八はすつかりはずみきつて居ります。
「成程、其處まで氣が付けば大したものだ。ところで、そいつは、伊太郎か照吉か」
「あツ、親分も訊いて歩いたんで?」
「歩きはしないが、見當だけは付いてゐるのさ」
「そんなによく解つてゐるなら、あつしが汗をくまでもないでせう」
「まア怨むな。足で取つた證據でなきや、眞實の證據にならない」
 平次は八五郎をなだめ乍ら、次第に川岸つぷちを遡上さかのぼつて行きます。
「何を搜すんだ、兄哥」
 と喜八。
「あれだよ」
「こいつは、清水屋敷の舟だが?」
 平次の指さしたのは此邊の川を渡すのに使ふ舟で、何の變哲もなく、岸の杭につないであるのでした。
「この舟で渡つて、川向うの土手で狐の嫁入をやつたのさ」
「この小さい舟に九人も乘つたかい」
 喜八はまだ狐の嫁入行列を九人以下ではないと信じて居る樣子です。
「いや、たつた三人さ。その舟の中に三間以上のさをが三本もあるのは不思議だと思はないか」
「?」
「川舟の棹は大抵二本に決つたものさ。一本では流した時困るが、三本は多過ぎるよ」
「その棹一本に提灯を六つづつブラ下げられるだらう。――最初の晩は一人でやつたから提灯が六つさ。二度目は二人でやつて、三度目は三人でやつた。三人の人間が銘々提灯を六つづつブラ下げた棒を持つて川向うの土手を歩いたから、此方こつちから見る人間は驚いたわけだ。――それも雨のシヨボシヨボ降る晩に限つた。川向うの人達に見付けられ度くないからだ」
 平次の繪解きは奇拔ですが、今はもう何んの疑ひもありません。
「さう言へば提灯は六つづつ三ツ別々に揃つて居た樣な氣がする」
 ガラツ八もその晩のことを思ひ出します。
「此方からだけ提灯が見えて、川向うの小臺の方からは何んにも見えなかつたのはどう言ふわけだらう」
 と喜八。
「俺には見當だけは付いてゐるが、これも證據がないからはつきりは言へない。――多分提灯一つに菅笠すげがさ一つづつ下げて、向う側へ灯の見えないやうにしたんではないかと思ふ。何處かに菅笠を十八積んであるよ」
 平次はそんな事まで考へて居るのです。


 此處まで突き留めて、これから先はハタと行詰りました。
 相變らずお夏と清次郎の行方は解らず、伊太郎と照吉の相棒の見當も付きません。
 日が暮れると、一應喜八の家へ引揚げて、平次と八五郎と三人、額をあつめましたが、斯うなると平次にもなか/\良い智慧が浮かばなかつたのです。
「たつた一つがあるんだが――」
 平次は言ひ度くないことを言ふ樣子でした。
「何んでもやつて見ようぢやないか、錢形の。考へがあるなら言つてくれ」
 喜八は膝を乘出します。
「變なことを訊くやうだが、この邊で俺の名前を知つてる者はあるだらうか」
 平次は恐る/\こんな事を言ふのです。
「神田の錢形平次兄哥を知らない者があるものか。顏を知らなくとも、名前だけは子供でも知つて居るよ。身に覺えのある野郎は、錢形と聽いただけでも身顫みぶるひする」
 氣の良い喜八は立て續けにこんな事を言ふのです。
「そんなにおだてちやいけない。ぢや――喜八兄哥の言ふのを半分に聞いて、いよ/\たつた一つの術に取かゝつて見よう。――此處に居るだけの人數で、尾久一杯にれ廻して貰ひ度いんだ」
「何を觸れるんだ」
「――神田の平次が來て、下手人の目星が付いたさうだから、明日は伊太郎照吉殺しも、お夏と清次郎の誘拐かどはかし野郎も縛られるに違ひないと斯う言ふんだ」
「本當かい、そいつは」
「まア、本當にして置いてくれ。――髮結床、居酒屋、出來ることなら村中の者皆んなに聽かせ度い」
「そんな事ならわけがあるもんか。サアもう一度皆んなで行つてくれ」
「合點だ」
 子分達はゾロゾロと出動して行きました。
あつしは? 親分」
 殘つたのは八五郎と喜八だけ。
「さて、一番怪しいと思ふのは誰だらう」
 平次は妙な事を言ひ出しました。
「浪人者の大井半之助かな」
 喜八は言下にこたへます。
「川向うで嫁入行列をやつたのは三人、その間に空巣狙ひをやつたのと、お夏を誘拐かどはかしたのが一人か二人ある筈だ。――そのうち伊太郎と照吉は死んで了つた」
 と平次。
「あと二人あるわけだね、親分」
「三人かも知れない。が、もう尾久には居ないだらう。一と晩五兩十兩の仕事になれば、江戸からかせぎに來るのはいくらでもある」
 と平次。
「ぢや皆んな逃げたかも知れないといふんで?」
 八五郎は少しがつかりしました。
「いや一人だけは殘つて居る。大事の仕事が殘つて居る筈だ。――そろ/\出かけて見ようか」
「何處へ――」
「ツイ其處だ」
 平次は八五郎と喜八をさそつて闇の中へブラリと出ました。
 五六丁行くと、清水屋敷の前へ出ます。
「八と喜八兄哥あにきは此處で待つてゐてくれ。入る奴を縛つちやいけない、出る奴を縛るんだ。誰でも構はない」
「親分は?」
「裏に居るよ。――手剛てごはいから、怪我をしないやうに氣をつけろ」
 三人は二た手に分れました。
 それから一ときあまり、
 闇の中から湧いたやうな男が一人、清水屋敷の表からそつと入つて行つて、四半刻ほど經つと、もとの表口から四方あたりを忍ぶ樣子でスルリと滑り出しました。
「御用ツ」
 前後から飛び付いた喜八と八五郎。
「何をツ」
 曲者は身をひるがへすと、匕首あひくちを拔いて、猛然と反撃はんげきして來ました。
 平次の注意がなかつたら、二人のうち一人は間違ひなくやられたことでせう。
「神妙にせいツ」
 危ふくかはして、二人は呼吸を揃へて打つてかゝりました。
 みに揉んで、やうやく縛り上げた時、平次は家の中から、
「どうだ、無事に捕つたか」
 暢氣のんきさうに顏を出したのです。
「親分は」
「俺も一人縛つたよ、見るが宜い」
 雨戸を一枚繰ると、部屋の中に、主人の和助を縛つて引据ひきすゑてゐるではありませんか。
「そいつは、親分」
「曲者の一人さ。――お前達の縛つたのは和助の子分の與三松だ。高飛の路用を強請ゆすつつた[#「強請ゆすつつた」はママ]筈だから、懷ろには二百や三百の金を持つて居るだらうよ」
「へエ――」
 八五郎も喜八も開いた口がふさがりません。
 與三松を責めて、お夏は川向うの百姓家に隱して居ることが判り、清次郎は千住の與三松の仲間のところに隱してあることが判りました。
 直ぐ樣川向うの百姓家へ行つて、やつれ果て乍らも、とほるやうに美しいお夏を救ひ出した時、念のために物置を見ると、何處から盜み溜めたか、菅笠すげがさが十八。
「あ、こいつだ」
 ガラツ八は平次の慧眼にお辭儀をして了ひました。
 その晩のうちにお夏を浪人大井半之助に手渡してその保護にゆだね、千住から和助の伜清次郎を救ひ出して、留守を預かるお房に引渡し、平次とガラツ八は尾久を去ることになつたのです。
        ×      ×      ×
「親分あの浪人者は喜んで居ましたぜ」
 歸る路々、ガラツ八は又繪解きの緒口いとぐちをつくるのでした。
「お房も喜んで居るだらうよ」
 平次は別の事を考へて居る樣子です。
「清水和助は、何んだつて與三松なんかに強請ゆすられたんでせう」
 ガラツ八にはまだ何んにも解つては居なかつたのです。
「お夏を與三松に誘拐かどはかさせたのさ」
「へエ――」
うだよ、くはしく話さう。和助はお夏の父親の石崎金次と一緒によからぬ事をして金を溜めたが、惡事が露見しさうになつて、今から三年前、與三松の手を借りて石崎金次を殺し、自殺と見せかけてお上の目を誤魔化ごまかした――それはいづれお白洲しらすで解ることだが。その後、自分の殺した石崎金次の娘お夏を引取つて、罪ほろぼしの心算つもりで養つてゐると、あの通りの縹緻だから、伜の清次郎が夢中になつた。これは我儘一杯に育つた馬鹿息子で、何んとしても親の言ふことを聽かない」
「へエ――」
「和助は惡黨のくせに氣が弱いから、伜の言ひなり放題に、お夏を嫁にすることを承知したが、自分の殺した石崎金次の娘を、伜の嫁にするのは何んとしても氣が進まない。が、伜の清次郎はお夏の側にへばり付いて半刻も眼を離さないから、どうすることも出來なかつたのだ」
「――」
「丁度の時、狐の嫁入騷ぎが始まつた。惡黨同士の推量すゐりやうで、あれは與三松の惡戯に相違ないと睨んだ和助は、與三松に提灯を貸してやつて、狐の嫁入をうんと大きなものにし、空巣狙ひと一緒に、お夏をさらはせることを思ひ付いた。あれだけの狐の嫁入が始まると、清次郎もヂツと女の番人はして居られない」
「成程ね」
「清次郎が狐の嫁入を見物に出た後、お夏を首尾よくさらつた與三松は、今度は、お夏の隱れ家を教へてやるからと、和助の伜の清次郎をおびき出し、千住の仲間のところに隱して、和助を強請ゆすつたのさ。金を出さなきや清次郎を殺すとでも言つたんだらう」
「――」
「俺の名をエラさうに觸れるのはイヤだが、うつかりするとどんな事になるかも知れないと思つたからあんなを使つて與三松を和助のところへやつたのさ。大方見當は付いて居ても、證據のないのを縛るわけには行かないし、めさいなむのはイヤだからなア」
 平次は何時でもそんな事を考へて居るのでした。
「伊太郎と照吉が殺されたのは?」
「與三松の細工さ。――お夏を誘拐かどはかした禮に清水和助から貰つた金が五十や三十あつた筈だ。それを與三松は腕つ節が弱いくせに慾の深い伊太郎にやつた。照吉は伊太郎から取上げようとし、伊太郎はやるまいとして斬あひになり、照吉は伊太郎を突き殺したところを、與三松は後ろから照吉を斬つて、懷ろの金を拔いた」
「いやアな事だね。――ところで清水の身上しんしやうはどうなるでせう」
 とガラツ八。
「いづれはお上で沒收ぼつしうさ。だが、あのお房といふ娘は思ひの外しつかり者だから、結構清次郎を立てゝ行くだらうよ」
「お夏はあの弱い浪人と一緒ですかえ」
ねたむな/\、お前にはまだ良いのがあるよ」
 平次はカラカラと笑ひました。
 江戸の街へ入るとすつかり夜が明けて、すが/\しい夏の朝風が頬を撫でます。





底本:「錢形平次捕物全集第二十卷 狐の嫁入」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年11月15日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1940(昭和15)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年7月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード