錢形平次捕物控

呪ひの銀簪

野村胡堂





「永い間斯んな稼業かげふをして居るが、變死人を見るのはつく/″\厭だな」
 捕物の名人錢形の平次は、口癖くちぐせのやうにかう言つて居りました。血みどろの死體をいぢり廻すのを商賣冥利と考へる爲には、平次の神經は少し繊細に過ぎたのです。
 それが一番凄慘な死體と逃れやうもなく顏を合せることになつたのですから、全くやりきれません。
「ガラツ八、手前は大變なところへ、俺を引張つて來あがつたな」
「繩張り違ひは承知の上ですが、布袋屋ほていやの旦那が、石原の親分ぢや心もとないから、錢形のに見て貰つてくれつて言ひますぜ」
「つまらねえお節介だ」
 したうちを一つ、それでも振りもぎつて歸ることもならず、柳橋の側につないだ屋形船のすだれを分けました。中は血の海。
 子分のガラツ八が差出した提灯の覺束ない明りにすかして見ると、若い藝妓が一人、銀簪ぎんかんざしを深々と右の眼に突つ立てられて、仰向け樣に死んで居たのです。
「あツ」
 死體嫌ひの平次は思はず顏を反けました。若くも美しくもある樣子ですが、半面血潮に染んで、その物凄さといふものはありません。
「これはひどい」
 そのうちに平次は職業意識を回復して、一歩女の死體に近づきました。
 紅のもすそを蹴返して踏みはだけた足を直してやると、一番先に目についたのは手。
「何か持つてゐますぜ」
 ガラツ八が注意するまでもありません。平次は早くも近寄つて見ると、苦惱にゆがんだ女の左手に握つたのは男物の羽織のひも、その頃流行つた太く短い絹眞田きぬさなだで、爭ふはずみに引き千切つたらしく、紐の耳には※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり取つたばかりの乳が付いて居ります。
「これは良い手掛りだ」
 其紐を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り取つた絽の男羽織が、脱ぎ捨てた儘に放り出してあるのを、ガラツ八は少し得意らしく拾ひ上げました。
 女の前髮は掴んで※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ひきむしられたやうで目茶滅茶に崩れて居りますが、外に傷らしいものは一つもありません。
 眼に突つ立てた銀簪ぎんかんざしは、鷹の羽を淺く彫つた平打の丈夫な品で、若い藝妓の頭を飾るにしては少し野暮やぼです。
 それを松の葉になつた足の方三寸ほども、人間の眼の中へ突き立てたのですから、鐵槌かなづちで叩いたのでなければ、恐ろしい強力です、――何うして刺したらう――平次はフトそんな事を考へて居りました。
「親分、布袋屋ほていやの旦那が、ちよいとお話申し上げたい事があるさうで――」
 岸から小腰を屈めて、恐る/\船の中を覗込んだのは、すゞみの一行に立交つて居た幇間ほうかんの金兵衞です。
「此處で宜しければお目にかゝりませう――、と言つて貰はうか」
「へエ」
 平次は小首を傾げて、むごたらしい殺されやうをした女の頭を見詰めて居ります。其處には、不思議に落ち散りもせず玳瑁たいまいくしと、珊瑚さんごの五分玉に細い金足をすげたかんざしがもう一本あつたのです。


 駒形の材木問屋で、當時江戸長者番附の前頭から二三枚目に据ゑられた布袋ほてい屋萬三郎、馴染の藝妓奴げいしややつこと、町内の踊の師匠お才をつれて、その晩駒形から凉み舟を出しました。
 乘合は外に幇間たいこ末社を加へて六人、船頭の直助に出來るだけ緩々ゆる/\と漕がせて、柳橋へ着いたのは戌刻いつゝ少し前、――船の中に持ち込んだ物では、どうも酒が飮めない、丁度腹も空き加減だから、河岸つぷちの鶴吉つるよしで飮み直さうといふことになつて、一同ぞろ/\と棧橋さんばしを渡つて鶴吉の裏口から離屋へ入り込みました。
 藝妓の奴は、若くて美しくて、吉原なかではいま流行兒はやりつこですが、無理強ひに飮まされて少し醉つてゐるのと、土地に馴染がないから、氣が詰つていけないと言ひ出して、到頭船の中に殘ることになり、これも只の酒をしたゝかにあふつてを押す手も覺束なくなつた船頭の直助と二人、もやつた船のへさきともに別れて、水を渡つて來る凉しい風に醉を吹かれて居たのです。
 それから半刻ばかり經つて、直助は襲はれるやうに眼を覺しました。客が居なくなると急に醉が發して、にもたれたまゝすつかり睡りこけて居たのです。
 ツイすだれ一枚へだてて、勿體ないが觀音樣の次と言はれて居る人氣者の奴――近頃は萬三郎の持物のやうに思はれて居る美しい藝妓――が居ると思ふと、年が若いだけに、少しは極り惡くなります。
 よだれを拭いて、直助は何の事もなくへさきの方をすかして見ました。兩方の軒につるした提灯は、何時の間にやら蝋燭らふそくが盡きて、半分ほどは消えて了ひましたが、それでも、簾の中を見る程度には差支へありません。
 血の海。
 眼球に突つ立つた銀簪ぎんかんざし、亂るゝもすそくれなゐ――。
 たつた一目で、直助は仰天しました。
「わツ、た、た、大變ツ」
 睡氣も醉も覺めてしまつて、鶴吉の離屋へ鐵砲玉のやうに飛込んだものです。
 騷ぎは颶風ぐふうの如く捲き起りましたが、何を何うすれば宜いのか、まるで見當が付きません。町役人のところへ人を飛ばせたのは、餘程經つてからの事。
 好い鹽梅に、捕物の名人錢形の平次が、寄合の歸り子分のガラツ八と二人で、鶴吉の表で飮んで居ることが解つたので、取り敢へず引張り出して、――繩張り違ひだから――と再三斷るのを無理に、兎も角檢屍の役人の來る前に一通り現場を見て貰ふことになつたのです。
「親分、かう言ふわけだ。何分宜しく頼みます」
 大家の主人が、かうなつては目明しや岡つ引の機嫌も取らなければなりません。
 布袋屋ほていやの主人萬三郎は、小判を五六枚鼻紙にひねると、平次の袖へそつと滑らせました。
「あツ、何をなさるんです。そんなことをしちや、反つて旦那の不爲ふためだ」
 平次は小聲でたしなめて、小判の包みを、萬三郎の手に返しました。小判五六枚といふと、今の相場にして五六萬圓にも匹敵するでせうから、ケチな岡ツ引を買收する袖の下としては不足はありませんが、萬三郎は平次の心持をはかり兼ねて――もう少し多くしなければならなかつたか知ら――と言つた疑ひに惱まされて居りました。
 平次は委細ゐさい構はず、座敷ざしきの上に不安な顏を押し並べた同勢を見渡しました。布袋屋萬三郎は三十七、八、少しのつぺりして居りますが、仲々の好い男、その頃の大商人らしく、少しく派手ではあるが寛濶な樣子合から見ても、銀簪をふるつて、女を殺すやうな人體とは思はれません。
 その後ろに從ふのは、幇間たいこもちが二人、燗番かんばん一人、盜食ぬすみぐひや夜逃げはするかも知れませんが、人間一匹殺せる人相のはをりません。
 萬三郎の袖の蔭から、恐怖に引釣つた蒼白い顏を覗かせて居るのは、踊の師匠のお才、二十七八の中年増ですが、商賣柄身のこなしのあざやかな水際立つて美しい女です。併しこれとても人間の眼の中へ、銀簪を三寸も叩き込める柄ではありません。
 最後にまだ船の中に殘つてゐる船頭の直助があります。三十前後の獨り者で、人は好いが酒癖さけぐせの惡い男、疑へば先づこれが一番疑はれる地位にあります。
 平次は腕をこまぬいてつと考へ込みました。
 川をわたる夜の風が、六月と言つても少し冷々として、初更過ぎの江戸の靜かさは、何とはなしに身に沁みます。
 その時、
「錢形の兄哥あにき、御苦勞だつたね。おいらが來た上は、もう引取つても構はないよ」
 棘々とげ/\した言葉、白い眼。
 顏を擧げると、平次と張合つて手柄を爭ふ石原の利助が、四十男の押の強さうな顏を、皆んなの後ろから覗かせて居るのでした。


「平次」
「へエ」
「わざ/\來て貰つて氣の毒だつたな」
「どう致しまして、――御用は何で御座いませう」
 若い與力笹野新三郎の屋敷に呼出された平次は、敷居の外から額越ひたひごしにかう見上げました。與力と岡つ引では、身分に大變なへだたりがありますから、許されなければ、敷居の内へ入ることなどは思ひもよりません。
「ずつと、中へ入るがいゝ、――少し聞きたい事がある」
「へエ――」
「外ではない、柳橋の藝妓殺し、石原の利助が呑込んで、布袋屋萬三郎を擧げたんだが、どうも下手人らしくない」
「えツ、それは無法、――いえなに、石原の兄哥の鑑識めがね違ひと言つちや惡いが、萬三郎が、あの女を殺すわけが御座いません」
 餘りの事と言はぬばかりに、――平次の口調はひどく彈みます。
「ホウ――、それは何う言ふわけだ。餘程確かな事を握つて居なければ、そんな事を言へるわけはない、話して見るがいゝ」
「へエ」
 さう言はれると平次も當惑しました。確かな證據と言つては一つもありませんが、何となく平次の第六感は、さう言つた響きがあると言ふだけの事だつたのです。
「萬三郎は、あの晩お前の袖に小判を落して、ひどくお前に怒られたといふではないか」
 何處から聞いたか、新三郎はつまらぬ事まで見透みとほしです。
「へエ」
「平次の氣風を知らなかつたのは、萬三郎の手落ちだ。そんな厭なことをするところを見ると、萬三郎の心持に、やましいところがあると思ふが、何うだ」
「それは旦那樣、お考へ違ひで御座いませう」
「どうして」
「人殺しの下手人が本當に萬兩分限ぶげんの萬三郎なら、五兩や三兩で岡つ引の口をふさがうとはしません。少くとも五十兩とか百兩とか、吃驚するやうな大金を出すに決つて居ります」
「成程」
「萬三郎が五兩や三兩の包みを、平次に掴ませようとしたのは、あまりの事に顛倒てんだうして、取り敢へず岡つ引の觸りを良くして置かうと言つたまでの話し。あれは大それた惡黨のする事ではなくて、臆病おくびやうな商人だからやつた事で御座います」
「フーム、利助とは大變な違ひだが、さう考へられない事もないな」
 笹野新三郎は豁然とした樣子ですが、流石さすがにそれは口に表はしません。
「外に萬三郎に疑ひを掛けるやうな事がありましたら、念の爲に仰しやつて下さいまし。口幅つたいやうで恐れ入りますが、私の見た事も少し申し上げたう御座います」
「では聞くが、殺された女の手に、萬三郎の羽織から※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり放つた紐を握つて居たのは、どうしたわけだ。利助はそれを何よりの證據のやうに言ふが――」
 笹野新三郎は――今度は辯解の仕樣があるまいと言つた口吻です。
「それが可怪をかしう御座います。女の前髮が※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)られて滅茶々々にこはされて居るところを見ると、曲者は後ろから女の前髮を押へて、右手に持つたかんざしを女の右の眼へ突つ立てたに相違ありませんが、そんな恰好になつて居て、死物狂ひの女が、自分の後ろに居る曲者の羽織の紐を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り取れるものでせうか」
「フーム」
 これは、仕方ばなしをするまでもなく、新三郎にもはつきり判りました。
「それに、紐を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り取られた羽織を、其處へわざ/\脱ぎ捨てて行くのも可怪しう御座います」
「――」
「もう一つ、後で鶴吉つるよしの奉公人共に訊くと、最初船から上がつて、離屋はなれへ入つた時、萬三郎は羽織を着て居なかつたと申します。して見ると、離屋から拔け出して船へ歸つた萬三郎がわざ/\羽織を着て女を殺し、それから紐を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)られた羽織をもう一度脱いで船の中に置いて來たことになりますが――」
「判つた、平次、私も何うも腑に落ちない事があつたよ。利助は萬三郎に相違ないと言ふが、鶴吉の女中に聞くと、萬三郎は不淨ふじやうへ一度立つたが、その時女中が供をして行つたし、あとは決して中座しないと言ふのだ」
「それは私も聞きました」
「利助は、萬三郎は大金持だから、女中の三人や五人の口をふさぐのは何でもない――とかう言ふのだが」
「それは亂暴で御座います。生き證據が三人も、五人もあつて、口が揃ふのまで疑つては際限がありません」
 二人は顏見合せて銘々の考へに沈みました。萬三郎が下手人でないとすると、さて誰があんなむごたらしい事をしたでせう。
「平次、お蔭でよく解つたよ。明日は拷問がうもんに掛けても萬三郎の口を割つて見せると利助は言つて居るが、この分ではそんな事をさせるわけには行くまい。此上とも利助に遠慮をせずに骨を折つて見てくれ。私から頼む」
「へエ――」
 さう言はれると、さすがに厭だとは言はれません。平次は當惑して自分の膝小僧に眼を落しました。


 萬三郎が許された翌る日。
「親分、石原の利助は今度は船頭の直助を擧げました」
 あわて者のガラツ八が、長屋中へ響き渡るやうな聲で、かう言ひ乍ら飛込んで來ました。
「到頭やりあがつたか、さう來るだらうと思つたよ」
 平次は疊の上へ煙管きせるをポンと投り出して、高々と腕をこまぬきます。
「ね親分、本當に下手人は船頭でせうか」
「それは判らない」
「ぢや、冤罪むじつでせうか」
「それも判らない。いくら醉つ拂つて居たにしても、すだれ一重の隣りで、人一人殺されるのを知らなかつたといふのは可怪をかしい――」
「して見ると矢張り石原の見込み通り、下手人は船頭に相違ねえことになる」
「さア、船頭が藝妓を殺す氣なら、面倒臭くて不確かなかんざしなどを振り廻さずに、手つ取早く足でも掴んで川の中へ沈めにかゝりさうなものだ」
「な――る」
「でなきア、船の中には刃物もある筈だ」
「――」
「どんななただつて庖丁だつて、銀簪よりは役に立つぜ」
「そりやネ」
「それに、本當に船頭が殺したのなら、もう少し細工をするだらうぢやないか。醉拂つて寢て居て、何んにも知りませんでは智慧がなさ過ぎる」
「さう言つたものでせうね」
 平次にさう言はれると、少々おつむの良くないガラツ八には、何が何やらまるで見當が付かなくなります。
 二人はもう一度柳橋まで行つて見ました。わざ/\船を鶴吉の裏手に着け、先夜の一行がやつたやうに、柴折戸しをりどを開いて離屋へ通して貰ひましたが、船の中へは、河岸の石垣傳ひに、往來から直接でも行けるといふことを發見した以外には、何の得るところもありません。
 其足で界隈の小間物屋を一と通り廻つて、やつこの眼から引拔いたかんざしを見せて歩きましたが、
「どうも近頃賣つた覺えは御座いません。一體その簪は古い型で、二代も三代も持ち傳へた品のやうですから、江戸中の小間物屋を當つても無駄で御座いませう。その鷹の羽の紋や足がすつかりれて居るところを見ると、何うかしたら三十年も、五十年も昔に、お求めになつた品ぢや御座いませんか」
 小間物屋の言ひ草は大同小異で、此上當つて見ようと言ふ氣もくじけてしまひます。
 がつかりして戻つて來ると、
「お客樣ですよ、親分」
 雇ひ婆さんが、氣を揉んで外に立つて居ります。
「何んな人だ」
「女の人ですよ」
「女? をかしいなア」
「親分もお安くねえぜ、おごらなくちやいけませんよ」
「馬鹿な事を言へツ」


 女客と言ふのは、二十四、五の中年増、眉のあとも青々とした、凄いほどの美人ですが、小辨慶こべんけいの單衣はひどく潮垂しほたれて世帶くづしの繻子しゆすの帶にも少しばかり山が入つて居ります。
「錢形の親分でいらつしやいましたか、御免下さいまし。圖々しいやうですが、上がり込んで御持ち申して居りました」
 齒ぎれの良い調子、莞爾につこりすると、漆黒しつこくの齒がチラリと覗いて、啖呵たんかのきれさうな唇が、滅法めつぽふ阿娜あだめいて見えます。
「ちよいと留守にして、濟まなかつたが、お前さんは何方からお出でなすつた」
 平次は自分の家乍ら妙に迎へられるやうな心持で上がり込んで、上がりかまちの女の前へ煙草盆と座蒲團を持ち出します。
「外ぢや御座いません、――あの柳橋で殺された吉原藝妓のやつこ――あののことに付きまして、親分に伺ひたいことが御座います」
「――」
「あの下手人はもう擧がりましたでせうか。押付けがましいやうですが、少しわけがあつて、それを伺ひに參りました」
 言ひにくさうですが、それでも案外、スラスラとやつて退けて、平次の顏を下から艶めかしく見上げます。
「いや一向――私には見當も付かなくて困つて居る。石原の利助のところへ行つて聽いて見なさるがいゝ、石原のは、何か當りが付いたと言ふことだ」
「へエ――、石原の親分ぢや伺ふまでも御座いません」
 妙に奧齒に物の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさまつたやうな微笑を浮べて、腰を浮かします。
「あ、もう歸りなさるのか」
「いづれ又お訪ね申上げます。それでは親分、おやかましう御座いました」
「あツ、待つた。お前さんの名は何と言ひなさる、それから町處は――」
「いえ、それには及びません。用事があれば又私の方から參ります、それでは親分さん」
 丁寧に會釋をしたと思ふと、滑るやうに戸口を出て、ツ、ツ、ツと路地の外へ。
「八」
「へエ――」
「頼んだぞ」
合點がつてん
 ガラツ八は女の後を追つて外へ飛出しましたが、暫くすると、つままれたやうな顏をして歸つて來ました。
「どうだ、八」
「親分、ありや人間ぢやありませんぜ。路地の外へ飛出すと、右へ行つたか左へ行つたか、皆暮かいくれわからねえ」
「何だと」
けむのやうに消えつちまひましたよ」
「乘物は居なかつたか」
「それに油斷があるものですか、乘物と名の付くものはたつた一つ、飛んでもねえ立派な駕籠が、ずつと右手から左へ通り過ぎましたよ」
「それだツ」
「えツ」
「あの女は、右手の方にズツと離れて待たして置いた駕籠へ乘つて、左手へ通り拔けたんだ。馬鹿野郎、それくらゐの事に氣が付かねえか」
「あツ」
 と言つたが追つ付きません。
 その上、女の歸つた跡を見ると、留守中に探したものと見えて、用箪笥の抽斗ひきだしに入れて置いた、平次の覺え書が紛失ふんしつして居ります。その覺え書の中には奴殺しの一件から平次の見込みまで事細ことこまかに書いて居たのですから、これには全く驚いてしまひました。今更家をあけた雇婆さんを叱つたところで、オロオロするだけで何の足しにもなりません。


 平次の直感から言つても、船頭が下手人でないことは解つて居りますが、意地になつてたてをつく、石原の利助を仰え付けるほどの反證がありません。
 船頭直助の母親は、涙乍らに平次のところへ飛込んで來たのは、その翌る日。――何とかして伜を助けてくれ、伜は酒癖が少し惡いだけで、根が神樣のやうな正直者、決して人などを殺す男ではない――と言ふのです。母親の言ひ分ですから、もとより掛値も自惚うぬぼれもあるでせうが、船頭の無實は平次も知り過ぎるほど知つて居ります。
 併し、今の内に動きの取れない證據を進めて、石原の利助を取つて仰へない以上は、直助の命を救ふ道は先づ絶望と思はなければなりません。
 母親は泣き乍ら歸つて行きました。平次を訪ねてなぐさめられるどころか、反つて、大きい失望を背負しよはされたやうなものです。
 併しこの悲みも永くは續きませんでした。藝妓殺しの下手人は、船頭直助でないと言ふ、消極的ではあるが、動きの取れぬ證據を提供してくれる事件が起つたのです。
 それは斯うでした。
 今は跡形もありませんが、其頃流行つたかはら町の焙烙はうろく地藏樣の門前、お百度石の側で、同じ町内の糸屋の娘お駒が、銀簪ぎんかんざしに右の眼玉を突かれて、藝妓奴と同じやうに、無慙むざんな死に樣をして居たのです。
 お駒は淺草から兩國までの間に、並ぶ者がないと言はれた美しさで、まだ十七になつたばかり、唄にも繪にもされた小町娘でした。それが何んの心願があつての夜詣りか知りませんが、焙烙地藏のお百度石の下に、眼を突かれた無慙な死體になつて發見されたのですから、江戸中の騷ぎは大變です。
 利助や平次は言ふに及ばず、町方與力の笹野新三郎まで現場に驅け付けましたが、柳橋の藝妓殺しと、手口が全く同じだといふ外には、毛程の手掛りも殘つては居ません。
 派手な縫模樣ぬひもやうの單衣を着たお駒が、可愛らしい後ろ帶を引摺つて、半面くれなゐに染んで死んで居た痛々しさは、馴れた眼にもツイ涙が浮かびます。
「利助、平次、これは容易ならぬぞ、手柄爭ひをする時ではない。二人心を併せて下手人を探し出してくれ、下々しも/″\の騷ぎは、何時かは必ずお上のお耳に入る」
 斯う沁々しみ/″\新三郎に言はれると、平次も利助もぢ入つて言葉もありません。
 船頭の直助は其日のうちに許されましたが、さてかうなると、さすがの利助も、もう縛りやうにも縛るあてがありません。
 そのうち、第三、第四の犧牲者が現はれました。第三人目は、お藏前の飮屋の看板娘おさん、これは錢湯の歸り、露地の入口で銀簪に眼を刺され、第四人目は駒形の小間物屋の若女房お國、所用で出かけた夫の歸りを待ち乍ら、店を早仕舞にして奧へ入つたばかりのところを、これも右の眼を銀簪で刺されて、長火鉢ながひばちの側に無慙な死體を横たへて居たのです。
 手口は四人とも判で押したやう、寸毫すんがうの違ひもありませんが、いづれも近々と傍へ寄つてやつたところを見ると、下手人は此界隈に住んで、犧牲者達の顏見知りの者でなければなりません。それからもう一つの特徴は、殺されたのは十七から二十五まで、年にも身分にも少しばかりの開きはありますが、いづれも評判の美人で、十人並と言つたのさへ、一人もありません。
 その頃若い女が、夜分一人で外へ出るのがこはいやうな事を言ふと、――ヘン、一かど美い女のつもりだから怖ろしいや――と言はれたくらゐ、何しろ江戸中※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えくり返るやうな騷ぎです。
 南町奉行朝倉石見守いはみのかみは、與力筆頭笹野新三郎を呼び付けて鞭撻べんたつすると、笹野新三郎は利助や平次をせき立てる有樣、かう事件が深刻になつては、手柄爭ひどころの沙汰さたではありません。


「親分、この四本のかんざしのうち、平打ひらうちの二本だけは眞物ほんものの銀だが、あとの二本は眞鍮臺しんちうだいに銀流しをかけた、飛んだ贋物いかものですぜ」
「何?」
 錢形の平次もこれには驚きました。四人の女を殺した四本の簪を役所から借り出して、顏見知りの錺屋かざりやに鑑定して貰ふと、この始末です。
 併し、銀流しと聞いて平次の心の中には、驚きの底にも一道の光明がサツと射し込みます。
 大事な證據の簪はガラツ八に持たせて役所に返し、自分は其足で兩國の盛り場へ。
 言ふ迄もなくその時分の東西の兩國の賑ひは、今の淺草の六區のやうなもの。見世物、輕業、歌舞伎芝居が軒を並べ、その間に水茶屋が建て込んで往來の客を呼ぶ外、少しの空地へもテキ屋が割り込んで、人寄せの獨樂こまやら、居合拔、三文手品、豆造、弘法樣の石芋いしのいも、安玩具などを聲をらして賣つて居ります。
 その中に立ち交つて、銀流しの露店が一つ、大道の上に茣蓙ごさを敷いて、その上に大小樣々の金物、――金盥かなだらひやら、鈴やら、火箸やら、藥罐やくわんやら、錢やら、鍵やら、ありとあらゆるものを並べ、薄茶色の粉で磨いて、それをこと/″\く銀色に光らせて口上を言つて居ります。
「さア、よく見なさい。これはオランダ人から傳はつた、南蠻祕法の銀流し、彼處にもある、此處にもあると言ふ物ではない。ちよいとつばを付けてみがくと、どんな物でも立ちどころに銀になる。鍋のかけら、銅の藥罐、鍋鐵、眞鍮の煙管、何でも同じこと、お望みなら山吹色の小判でも、貴方がたの鼻の先で、見事またゝきする間に銀にしてお目にかける。嘘だと思ふ方は煙管でも、かんざしでも、お待ち合せのものを出して御覽じ、さア遠慮することはない――」
 能辯にまくし立てる女を、ヒヨイと覗いて驚きました。
 いつぞや平次の留守宅へやつて來て、覺え書を盜んだ上に照れ隱しに銀簪の曲者の手掛りを聞いて行つた、あの凄いほど美しい中年増にまぎれもなかつたのです。
 併し平次は、人混みの中へ十手をひらめかして、眞晝まひるの盛り場を騷がせるやうな事はしません。
 手拭を出して、ちよいと頬冠りをしたまゝ、なほも人垣の間から、奇怪な女の一擧一動に、何物をも見盡さずには措かない眼を注ぎました。
 もう一つ驚いたことに、よく/\見ると、茣蓙ござの上に並べた大小樣々の金物は、悉くと言つてよいほどこの界隈かいわいで盜まれた品ばかり、それに銀流しをかけて、ズラリと諸人の前に並べたのは、底の知れない横着さです。
 この中には、青銅の香爐かうろもあり、蝋銀らふぎんの置物もあり、名作のつば目貫めぬきは言ふまでもなく、ひどいのになると、眞物ほんものの小判や小粒さへも交つて居る有樣。それへ一々銀流しをかけて鍋のかけやら、藥罐のふたと一緒に並べたのは、實に人を喰つたやり方です。
 平次は、すつかり興味をそゝられて、其邊から去りもやらず、殆んど半日銀流しの美人を見張りました。夕方、人通りが少しまばらになると、女はバタバタと店を仕舞つて、くだん贓品ざうひんやらガラクタやらを竹籠の中に投り込み、大風呂敷に包んで背負つた上、茣蓙ござを丸めて小脇に、馴れた樣子でスタスタと柳原の方へ引揚げて行きます。


 丁度たそがれ時、人通りが絶えて、町家も水の上も、一樣に雀色すゞめいろに見える頃でした。柳原の淋しい土手に掛ると、
「ちよいと、お神さん、暫らく待つてもらひたいね」
 平次はたまらず聲を掛けてしまひました。
「何だえ、氣味が惡い、用といふのは私にかい」
「さうだよ」
「氣障な事をすると承知しないよ。はゞかり乍ら銀流しの、お六だよ」
 相手の出やうを測り兼ねて、お六と名乘る女は夕闇をすかします。
「お六、御用ツ、神妙にせえ」
 キラリと十手。
「あツ、お前は平次」
 飛退くと何うして肩から解いたか、重い荷物は草の上に落ちて、お六は柳を小楯こだてに屹となります。
「お六、逃がれぬところだ、觀念してお繩を頂けツ」
「何をツ、銀流しのお六姐さんは、安岡ツ引の手に了へるやうな代物しろものぢやねえ。下手にあがくととげを刺すよ」
「默れツ」
 平次は飛込んで女の肩をハタと打ちました。
「あツ」
 逃げようとする手首にからんだのは、何時の間に掛けたか一條の捕繩。
「神妙にせえ」
 これはお六が弱いのではなく、平次の手練があまりにあざやかな爲でした。宵の人足が、三人と立ち止らないうちに、銀流しの美女は錢形平次の手でキリキリと縛り上げられてしまつたのです。
 近所の自身番まで、繩付の女と大風呂敷包みを持ち込んで、ピシヤリと障子を締めきると、平次は早速、ほこりを叩いて見ました。
「女、もう叶はぬところだ、皆んな申上げて了へ」
「平次、増長しちやいけないよ。調べはお役人のすることだ、岡つ引のくせに、お六姐さんの口を取らうなんて、生意氣だよ」
 と、大變な鼻息、嬌聲けうせいを發して、繩目の身をもがく年増の美しさは一通りではありません。一筋繩で行きさうもないと見て、平次は早速攻手を變へて見ました。
「默れツ、若い女四人も殺して、命が幾つあつても足りないお前だが、素直にして居れば、まだお上にはお慈悲もあると言ふものだ」
「何だつて? もう一度、言つて御覺よ。私が四人の若い女を殺した? 冗談も休み/\言つておくれ。盜みはしないと言はないが、人殺しなどは身に覺えのないことだ。銀流しのお六は、蟲を殺すのさへ嫌ひな佛性だよ。つまらない事を言つておくれでない」
 さすがにお六も驚いたやうです。
「隱したつて駄目だよ、證據は銀流しのかんざしだ。柳橋で藝妓のやつこを殺したのを手始めに、四人まで手にかけた、お前は鬼のやうな女だ」
「何だ、その事か、それなら早くさう言へばいゝのに、――錢形の平次親分もたがゆるんだね」
「何?」
「柳橋で殺された藝妓のやつこは、私の爲には親身の妹さ。私は放埒はうらつな上にやくざな亭主を持つて、夜盜の仲間にまで身を落したから、身内の迷惑を考へて餘所々々よそ/\しくしてゐるうちに、可哀想に妹の奴が殺されてしまつたのだよ」
「――」
「何とかしてかたきを討ちたいと思ふばかりに、捕物の名人とか何とか言はれるお前さんのところへ行つて、樣子を探つたまでの事さ。覺え書を取つたのは惡かつたが、さうでもしなきア下手人の心當りを話してくれるお前ぢやあるまい」
 平次の打撃は見るも氣の毒でした。お六は惡い女には相違ありませんが、眼に涙を浮べての述懷に嘘があらうとは思はれません。
「よし、俺が惡かつた。繩も解いてやらう。默つて見逃してもやらう。空巣狙ひやコソ泥を縛つて手柄顏をするやうな平次ぢやねえ」
「――」
 平次は女の繩を解き乍ら、續けました。
「其代り、これだけは隱さずに話してくれ、――近頃お前のところへ行つて、眞鍮しんちうの簪二本に銀流しを掛けさした女があるだらう」
「ある、ある。その上不思議な事に金脚きんあしの簪にまで、念入りに銀流しをかけさせて、小錢がないから今晩戌刻いつゝの鐘が鳴つたら、筋違見附すぢかいみつけの側まで、簪を持つて金を受取りに來てくれと言つた―」
「何、何?」


 それから一ときばかり後。
 銀流しのお六は、筋違見附外の、薄暗い塀の蔭に立つて居りました。
「銀流し屋さんかい」
 何處からともなく現れた一人の女、薄暗がりの中で、顏は見えませんが、洗練された聲が、妙に人なつかしく響きます。
「へエ――、御新造樣。お簪は確に持つて參りました」
「有難う、それでは引替へにお代を上げますよ。それからこれはお駄賃だちん
「まア、こんなに澤山、どうも有難う存じます」
 小腰を屈めたお六の後ろへ、ヒラリと廻ると、女の左手は後ろから前髮に掛りました。
「あツ」
 實に非凡な強力がうりき
 惡黨がつて居るお六も、あがらふ力もなく首を延ばし上げられて、左の小脇にかい込まれると思ふ間もなく、薄月に閃めく銀簪、あはやお六の右の眼へ――。
「えツ」
 何處からともなく飛んで來た錢が一枚、怪しい女の振り上げたひぢをハタと打ちました。
「あつ」
 簪は下に落ちて、砂利の上にチヤリンと鳴ると、怪しの女はお六を突き飛ばしてサツと五六歩、闇の中へ。
「待て、御用ツ」
 追ひすがつた十手は、發矢はつしと女の肩を打ちました。
×      ×      ×
 平次の手に捕へられた怪しの女は、踊りの師匠のおさいだつたのです。
 この女は武家に育つて相當に武術も心得、ことに女には珍らしい強力でしたが、年頃になつてから身を持ち崩し、踊りの師匠になつて、世を忍んで居たのでした。
 娘盛りの頃、強盜に手籠てごめにされさうになつて、銀簪ぎんかんざしで眼を突いて危ふいところをまぬがれたことがありました。それ以來、妙に銀簪で人の眼を突きたい衝動に惱まされ、どうしても思ひ止まることが出來なかつた――と、後で本人は白状して居ります。今日の言葉で言へば、ヒステリー性の偏執狂へんしつきやうとでも言ふべきでせう。
 一度は布袋屋ほていやの主人萬三郎と人知れずちぎりましたが、間もなく吉原藝妓のやつこに見替へられたのを怨んで、あの晩、鶴吉つるよしの離屋を拔け出し、凉舟に歸つて、亂醉した船頭の睡りこけて居る隙に、やつこの眼を突いて一と思ひに殺し、その上怨みある萬三郎の羽織の紐を千切つて死體の手に握らせるやうな小細工までしたのでした。
 それだけで止せば、恐らく誰も氣の付くものはなかつたでせうが、一度銀簪の誘惑いうわくに負けて血を見ると、一度常軌じやうきを逸したお才の頭は果てしもなく狂つて、自分より若くて美しい女さへ見れば、銀の簪で眼を突きたいといふ、恐ろしい誘惑に惱まされ始めたのです。
 二人まで眞物の銀簪で殺しましたが、三人目から銀簪もなくなり、新しく求める力もなかつたので、眞鍮簪に銀流しを掛け、銀のつもりにして狂つた心をなぐさめました。
 五人目にはそれも盡きました。たつた一本殘つた母の形見かたみの金簪を持出して、それにまで銀流しをかけて、お六を最後の犧牲にしようとしたのです。
 錢形の平次は、首尾よく銀簪の殺人鬼を捕へましたが、銀流しのお六はそれつきり行方ゆくへがわかりません。與力笹野新三郎はさぞ苦い顏をして、
「平次、又お前は縮尻しくじつたなう」
 と言つた事でせう。





底本:「錢形平次捕物全集第二十二卷 美少年國」同光社
   1954(昭和29)年3月25日発行
初出:「オール讀物」
   文藝春秋社、1931(昭和6)年7月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード