錢形平次捕物控

梅吉殺し

野村胡堂





「親分、お願ひだ。ちよいとお御輿みこしを上げて下さい」
 八五郎のガラツ八は額際に平掌ひらてを泳がせ乍ら入つて來ました。
「何を拜んでゐるんだ。お御輿は明神樣のお祭りが來なきや上らねえよ」
 錢形の平次は驚く色もありません。裏長屋の狹い庭越しに、梅から櫻へ移り行く春の風物を眺めて、たゞうぼんやりと日を暮してゐる、この頃の平次だつたのです。
「三河町の殺しの現場へ行つて見ましたがね、何しろ若い女が四人も五人も居て、銘々勝手なことを言ふから、何時までせゝつて居たつて、眼鼻は明きませんよ」
 ガラツ八は頸筋くびすぢを掻いたり、顏中をブルブルンと撫で廻したり、仕方澤山に探索の容易ならぬことを呑込ませようとするのです。
「八は男つ振りが良過ぎるからだよ。岡つ引は醜男ぶをとこに限るつてね」
「さうでもありませんがね。何しろ右から左から、胸倉まで掴んであつしを物蔭へ引張つて行つて自分の都合の宜いことばかり言ふんでせう」
「宜い加減にしないかよ、馬鹿だなア」
「へエ――」
惚氣のろけなんか聽いてるんぢやない。サア、案内しな」
「へエ――」
「折角お前の手柄にさせようと思つてやつたのに、仕樣のない奴ぢやないか」
 平次は小言をいひ乍らも、手早く身仕度をして、ガラツ八と一緒に外へ出ました。
 まだ三十前と言つても、平次とあまり年の違はない八五郎に、一とかど筋の立つた手柄をさせて、八丁堀の旦那方に顏をよくした上、手頃な女房も持たせて、一本立ちの岡つ引にしてやらうと言ふ平次の望みが、何時も斯う言つたにもつかぬ支障でフイになつて了ふのです。
 平次は途々八五郎の説明を聽きました。
「三河町の奈良屋三郎兵衞つていふと、親分も知つて居る通り、公儀の御用を勤める大層な材木屋だが――金に不自由がなくなると、人間はどうしても放埒はうらつになるんだね。お蔭樣でこちとらは――」
「無駄を言ふな、奈良屋三郎兵衞の放埒がどうしたといふのだ」
「放埒は伜の幾太郎の方ですよ。二十六にもなるが、遊び好きで可愛らしい許嫁いひなづけがあるのに祝言もせずにまだ獨り者だ。あんまり羽目を外して、親父の大事なものまで持出し、到頭座敷牢のやうにこさえた嚴重な圍ひの中に打ち込まれてゐたが、昨夜その圍ひの中で脇差で突つ殺された者があるんで」
「フーム、變つた殺しだな」
「ところが、變つてゐるのはその先なんで、圍ひの中で殺されてゐたのは、伜の幾太郎と思ひきや」
「思ひきやと來たね、お前何時からそんな學者になつたんだ」
「へツ、學者はあつしの地ですよ」
「無筆は鍍金めつきだつたのか、そいつは知らなかつた」
「からかつちやいけません。兎に角、今朝圍ひの中で、人間が殺されてゐるのを見付けたのは下女のお仲、二十五六のこいつは良い年増ですよ」
「無駄が多いね、早く筋を通しな」
「下女のきりやうも筋のうちですよ。兎も角、大騷動になつて、血だらけな死骸を引起して見るとそれが、伜の幾太郎と思ひきや――てんで」
「又思ひきやか。お前の學はよく解つたよ、先を申上げな」
「手代分で店の方をやつてゐる從兄いとこの梅吉といふ男が圍ひの中で殺されて、伜の幾太郎は影も形もない」
「フーム」
「驚くでせう、こいつは。あつしのところへ知らせて來たのは、まだ夜が明けたばかりの時だ。親分へ傳言ことづてをやつて、叔母さんに朝のおさいを頼んで飛んで行つて見ると――」
「合の手が多過ぎるよ、叔母さんなんか引つ込めて話を運びな」
 平次も少しジレ込みました。ガラツ八の話術で展開する筋は、なか/\面白さうです。
「若い女が多勢居て、銘々めい/\自分だけ良い子にならうと辯じ立てるから、手の付けやうがねえ。親分の前だが、女は苦手だね」
「何をつまらねエ、向ふでもさう言つて居るよ、岡つ引は苦手だ――とね」
「へツ、違えねえ」
「ところで、伜の行方はそれつきり知れずか」
 平次は少し眞面目になりました。
「皆目解らねえ」
「圍ひの戸は開いて居たのか」
「大一番の海老錠ゑびぢやうがおりて居たさうですよ」
「鍵は?」
「旦那の三郎兵衞が持つてゐた筈だが、それは表向きで、こらしめのための窮命きうめいだから、鍵はツイ廊下の柱にブラ下げてあるさうですよ」
「その鍵はあるだらうな」
「ないから不思議で」
「成程そいつは面白さうだ」
「だから親分をさそひ出しに來たんですよ」
「恩に着せる氣なら俺は歸えるぜ」
「あつ、あやまつた。親分、切角此處まで來たんだから、先づチヨイト覗いてやつて下さい。若い女が五六人居て銘々良い子になる氣だから、そりや賑やかな殺しですよ」
「賑やかな殺し――てえ奴があるかい」
 そんな事を言ひ乍ら、平次は八五郎のみちびくまゝに、奈良屋三郎兵衞の豪勢な店先に立つて居りました。


 奈良屋三郎兵衞は五十五六、江戸の大町人で、苗字めうじ帶刀たいたうを許されて居るといふにしては、好々爺かう/\やといふ感じのする仁體でした。
「錢形の親分か、御苦勞樣」
 鷹揚おうやうにうなづくと、頬のあたりによどんだ持前の愛嬌が、戸迷ひをしたやうにスーツと消えます。
「飛んだことでしたね。――ところで、殺された甥御をひごの梅吉さんとかが、何んだつて圍ひの中へ入つて居たんでせう」
 平次は早速事務的な調子になります。
「さア、そいつはこの私にも解らない」
「若旦那の幾太郎さんは、何處へ行きなすつたんでせう」
「氣の毒だが、そいつも私には解らない。そんな事は奉公人達が思ひの外知つてゐるものだが――親分の前でそんな指圖がましい事を言ふのも變だね」
 今度は三郎兵衞の頬に、本當の微笑が浮びました。大町人らしい柔かい風格です。
「それぢや圍ひの中を見せて貰ひませうか」
 平次はガラツ八に眼で合圖して、番頭の佐助に案内されて奧の方に通りました。番頭の佐助は六十を四つ五つ越したらしい、頽然たいぜんたる老人で、腰の曲つた、皺だらけな、――一生を帳場格子の中で暮して、算盤そろばん以外の事は、あまり興味を持つてゐないと言つた人柄でした。
「此處でございますよ、親分」
 佐助が指したのは、店から奧へ通ふ廊下の中程から、少しばかり右へ入つた土藏の庇合ひさしあひで、其處へ急造したらしい、縁側付の六疊ほどの部屋が、初夏の明るい陽に、まざ/\と照らされて居ります。
 さすがに牢格子らうがうしはめませんが、出入口は人見を付けた嚴重なかしの一枚戸で、平常ふだん大海老錠おほゑびぢやうとざしてあるらしく、戸の上の欄間らんまの荒い格子から入る明りが、眞新しい疊の上に落ちて、血潮の中に男が一人俯向きに倒れてゐるのが、淺ましくも見通しになるのでした。
「何だつて若旦那をそんなところへ入れることになつたんだ」
 平次はそれがくはしく訊き度い樣子でした。
「よくあることですが、許嫁のおもゝさんといふのがあるのに、お艶とか言ふ恐ろしい女に引つ掛りましてね」
 佐助は言つて宜いか惡いか解らないらしく、恐ろしくおど/\した調子で斯う言ふのでした。
「そんな事で、座敷牢は少し亂暴ぢやないかね」
「へエ、でも、店の大事な品を持出したり、小言を言ふ親旦那に喰つてかゝつたりしますので、こらしめのために、こんなところに入つて頂くことになりました。親類方御相談の上でなすつたことで私風情ではどうにもなりません」
 佐助は臆病おくびやうらしく揉手をし乍ら、考へ/\三郎兵衞のために辯ずるのです。
「そのお艶といふのは何處に居るんだ」
「それがよく解りません」
「八、直ぐ行つて見てくれ。幾太郎はその女のところに居るに違ひあるまい」
 平次はガラツ八の方を振り返つて無造作にう言ふのです。
「へエ――」
「變な顏をするなよ。――お艶の家が判らないつて言ふんだらう。馬鹿だなア、――先刻旦那がさう言つたぢやないか、そんなことは奉公人が知つてゐるものだ――とね」
「なア――る」
「間違ひがあつちやならねえ。飛んで行くんだぜ」
「合點ツ――だがね、一つだけ言つて置き度えことがあるんだが」
「何だい、早く申上げて了ひな」
「今朝この圍ひの中で、女物のくしを拾ひましたよ」
「何處にあるんだ」
「これですよ、あつしが拾つたんで」
 八五郎は懷紙に包んだ黄楊つげぐしを一つ、平次の手にせました。
「何だ、早くさう言や宜いのに。こんなものを温めて置く奴があるもんか」
「それからもう一つ」
「文句の多い野郎だな」
あつしが親分を迎ひ行つてゐる間に、お神樂かぐらの清吉が來て、散々かき廻して行つたさうですよ」
「そんな事はどうだつて宜いぢやないか」
「へエ――」
 ガラツ八が飛び出すと、平次は圍ひの中へ入つて行きました。
 六疊の半分をひたす血の海の中に俯向きになつて居る梅吉の死骸を引起して見ると、二十七八の小肥りの男で、脇差で横から首筋を縫はれ、そのまゝ前へのめつたらしく、急所の深傷ふかでに、聲も立てずに死んだ樣子です。脇差は拔きもせずに取つてあるところを見ると、下手人が臆病で物馴れない樣子もよく判ります。
「見付けたのは?」
「下女のお仲と申す者で」
「呼んで貰はうか」
「お仲、――其處に居るなら出て來るが宜い。呼ばれてから、あわてて引つ込むやつがあるものか」
「へエ――」
 佐助に叱られて、恐る/\出て來たのは、二十四五の、一寸良い年増でした。
「今朝死骸を見付けた時の樣子を、くはしく話して見るが宜い」
 平次はをだやかな調子で引出しにかかりました。
「雨戸を開けて、ヒヨイと覗くと――中は一パイの血で、梅吉どんが殺されてゐるんです」
「最初から梅吉と判つたのか」
「いえ、初めは若旦那だと思ひました。大きな聲を出すと、皆んな飛んで來て、鍵が見えないのでコジ開けて入つて、死骸を引起して初めて梅吉どんと判りました」
 お仲の話はなか/\確りして居ります。
「このくしは誰のだか知つてるかい」
「――」
 お仲は一文字に口を結んでしまひました。
「言ひ度くないと見えるね。まさかお前のぢやあるまいな」
「飛んでもない、親分さん」
 お仲はあわてて打ち消しました。


 奉公人達の説明で夜中人に知られずに、此圍ひの前へ來られるのは、主人の三郎兵衞と、女房のおしのと、老番頭の佐助と、殺された梅吉と、幾太郎の妹のお榮と、幾太郎の許嫁のお桃と、下女のお仲だけと判りました。
 あとは五六人の若い奉公人だけ。それは嚴重に仕切られた別棟べつむねの方に寢るので、奉公人仲間に知られずに、此處へ來る工夫はなかつたのです。次に平次が逢つたのは、幾太郎の妹で、主人三郎兵衞の娘のお榮でした。精々十七八、まだ小娘と言つて宜いほどのがらですが、それがまた恐ろしいおしやべりで、さすがの平次も受太刀になる有樣、ガラツ八が逃げ出したのも無理はないやうな氣がします。
「親分、何んでも訊いて下さい。私の知つて居ることは、皆んな言つてしまひますよ、――兄さんの事ですつて? 兄さんが圍ひなんかに入れられた事でせう。え、判りますわ。少しばかり物を持出したり、お父さんに一寸たてをついたくらゐのことで、座敷牢のやうなところに入れられたと聞いたら、世間樣はそりや不思議に思ひますよ。それも、これも、皆んなワケのあることなのですよ。え、私の口からは言はれないけれど――」
 と言つた調子、こんなのに引つ掛つてゐると、要領を得ないうちに、うけ合ひ日が暮れてしまひます。きりやうも滿更でないのが、何だつて馬鹿/\しく強靭きやうじんな舌を持つて生れたことだらうと、平次は氣の毒にさへなるのでした。
 次に逢つたのは、三郎兵衞の後添ひのお條、これが奈良屋の内儀かしらと最初は平次も驚いたほどです。三郎兵衞は五十七八とすれば、どうしても二十五六も年齡としが違ふでせう。精々三十一二、どうかしたら、もう二三つ上かも知れませんが、非凡の美しさは年齡を超越して、ひよつと見ると、二十五六としか見えません。
「御苦勞樣でございます」
 お條は慇懃いんぎんに挨拶しました。お茶や禮式のたしなみがありさうで、何となく御守殿ごしゆでん風が匂ひます。
「御新造さんは、お屋敷奉公をしたことがあるんでせうな」
 平次の問ひは少し無作法で唐突でした。
「え」
 お條は心持鼻白みます。
「それぢや、ヤツトウの方の心得もあるんでせうね」
「いえ、――ほんの少し長刀なぎなたを仕込まれましたけれど」
 お篠は本當に消え入り度い姿でした。青々とした眉の跡、頬の美しい曲線、襟元の凉しさ――平次もこんな女は、舞臺でしか見たことのないやうな心持がするのでした。
「このくしは誰のでせう」
 平次の掌の上には、半分紙に包んだ黄楊つげの櫛がありました。
「私のですが――」
 何といふ穩やな調子でせう。
「この櫛が、死骸の側にあつたのですよ、御新造」
「まア」
「圍ひの中へ入らなかつたんでせうな」
 平次もツイ、この當惑した美女のために、助け舟を出してやる氣になりました。
「入れる筈もございません。幾太郎さんは大變私をにくんで居りました」
「すると此中へ入るのは?」
「お仲と、お榮だけでございます」
「この櫛はふだん何處に置いてあるんです」
「ツイ隣の納戸なんどの鏡臺の上に置いてあります」
「持つて歩くやうな事はないでせうな」
き櫛ですもの」
 大きな黄楊つげの梳き櫛を、大家の内儀が髮に差して歩く筈もありません。
「此家の中に御新造さんを怨んでゐる者はありませんか」
「飛んでもない」
 お篠はおびえたやうに頭を振るばかりです。
 最後に平次が逢つたのは、若旦那幾太郎の許嫁で、遠縁に當るといふ、お桃でした。三郎兵衞には恩人筋の娘とかで、三四年前に田舍から引取られ、厭應言はさず幾太郎の許嫁と披露して、行儀見習旁々かた/″\、十九のやくの明けるのを待つてゐる娘でした。大柄でそんなにみにくくはありませんが、何となくひなびて、若旦那の幾太郎が氣に染まないといふのも、決して無理ではないやうな氣がします。
「お前の在所はどこだい」
「川越です」
「此家の住心地はどうだ」
「皆んな親切な良い方ばかりですから」
「若旦那の幾太郎も親切か」
 お桃の顏はサツと暗くなりました。
「若旦那を怨んでゐる者は誰だ」
「――」
「お前は、どう思ふ」
「――」
 お桃は何とも言ひませんが、襟に埋めた頬は、したゝか涙に洗はれて居ります。
「お前の外に、若旦那を怨んでゐる者はないのか」
「ございません」
「御新造を怨んでゐる者はあるだらう。あの通り若くて綺麗で、氣性者きしやうものらしいから」
 お桃は默つて頭を振りました。
「お仲は御新造にひどく叱られた事があるだらう」
「え」
「何か粗相そさうでもしたのか」
「いえ」
 お桃は又口をつぐみました。が、平次はそれを開けさせる必要もありません。番頭の佐助から訊くと、お仲は古川柳にある通り『若旦那樣』と金釘流で書いた一通を落して、御守殿風のおしのにひどく叱られたことが解つたのでした。お篠に取つては『不義はお家のきびしい法度』だつたのです


「親分」
 ガラツ八は少し息をきつて囁やくのでした。
「何だ、幾太郎は矢張り女のところに居るんだらう」
「居ましたよ。そこを、お神樂の清吉の野郎が、バツサリ縛つて行つたんだから、腹が立つぢやありませんか」
「お前の手落ちだよ。腰をえて手繰らずに、面喰つて俺のところなんかへ飛んで來るからいけなかつたんだ」
「だつて親分」
「まア宜いやな、――縛るには縛るわけがあつたんだらう」
 平次は調子を變へて、腹が立つてたまらないと言つたガラツ八の不平のハケ口をこしらえてやりました。
「あの野郎はあつしの鼻を明かせるつもりですよ。何もわざ/\肥桶臭こえたごくさえ村から、神田三河町まで踏込ふみこんで來なくたつて宜いぢやありませんか」
「岡つ引に繩張りなんかあるもんか、縛るのは向うの働きだ。――が、こいつは働き過ぎたかも知れないよ。腹ばかり立てずに、清吉が縛つたワケを言ひな」
「幾太郎はこの圍ひの鍵を持つて居たんですよ。――梅吉を引入れて刺し殺し、錠をおろして逃げ出したと讀んだ清吉は、しやくにさはるが圖星を射貫きましたよ」
「ま、待つてくれ。――わざ/\錠前をおろしたのは、死骸が逃げ出すとでも思つたのかい」
 平次の問ひはさすがに皮肉でした。
「そんな事は解るものですか」
「で、お艶とかに逢つたのかい」
「逢ひましたよ。芳町の藝者だつたさうで、凄い女ですよ。此家のお内儀も綺麗だが、お艶と來たらポトポト水が滴れさうで」
「八五郎と來た日にや、よだれが垂れるぢやないか」
「へツ、冗談でせう。全く良い女ですぜ、親分。半歳ばかり前に、幾太郎が根引いて、圍つたまままだ金蔓かねづるも手も切れてゐないんださうで、一生懸命幾太郎をかばつてゐましたよ」
「で、昨夜幾太郎は何刻に行つたんだ」
「宵のうちに來て、曉方は歸つたがまた戻つて來たといふから變ぢやありませんか」
「フーム」
「その上、お艶に驅落をすゝめたさうですよ」
「お艶は幾太郎をかばひ乍らそんな事をペラペラ饒舌しやべるのか」
「へエ――」
「薄情な女だな。それに比べると、物を言はないお桃の方が餘つぽどじつがあるぜ」
「――」
「打ち殺してもやり度いほど幾太郎に未練があるんだ」
「すると?」
 ガラツ八はゴクリと固唾かたづを呑みました。
「あわてるな、お桃が下手人だとは言はないぜ」
「親分」
「俺の見當ぢや、圍ひの中の玉が入れ變つてゐるとも知らずに、幾太郎を殺すつもりで、梅吉を殺したに違えねえと思ふんだ」
「ぢや、矢張り、幾太郎が下手人ぢやないと言ふんでせう」
「幾太郎が下手人だつた日にや、自分が自分を殺した下手人だつて事になるよ」
「本當ですか、親分」
「幾太郎は梅吉に身代りを頼んで、夜中手洗てうづに行く親父の眼を誤魔化ごまかし、そつと拔け出してお艶に逢ひに行つたんだらうよ。今までもちよく/\そんな事をやつて居たに違えねえ」
「へエ――」
「曉方歸つて來て、梅吉と代らうとして、氣が付くと、錠がおりてゐる。柱から鍵を外してあけて入つて、梅吉の殺されて居ることに氣が付いたんだらう。あんまり吃驚して、あわてて錠をおろして逃げ出し、もう一度お艶のところへ行つた――?」
 平次の空想は飛躍します。
「幾太郎が梅吉を殺す氣なら、何も圍ひの中なんかで殺さなくたつて宜いわけだ。自由に圍ひから出られるんだからな。――それに鍵を持つて居るのは、面喰つた證據にはなるが、梅吉を殺した證據にはならねえ」
「有難てえ、それで溜飮りういんが下るといふものだ」
「待てよ。圍ひの戸へ鍵をおろしたのは、幾太郎ぢやないかも知れないな。海老錠ゑびぢやうは鍵がなくつたつておろせるんだ」
 平次は深々と考へ込みました。恐ろしく簡單に見えてゐて、この殺しはなか/\奧がありさうです。


「八、此方にもいろ/\面白いことがあつたんだ。第一にこの黄楊つげくしだ」
「それが何うかしましたかえ」
「この櫛はお内儀のおしのさんのだが、どんな間拔な下手人だつて、き櫛を持つて殺し場へ行く女はあるまい」
「――」
「それをわざ/\捨てて來るのは、大間拔けでなきや、恐ろしい智慧者だ」
「――」
 ガラツ八は默つて眼を見張りました。親分平次の推理の發展を、斯う見詰めて居るのは、ガラツ八に取つては、たまらない嬉しさだつたのです。
「だから、お内儀のお篠が、自分とあまり年の違はない繼子まゝこの幾太郎を殺すつもりで、間違つて梅吉を殺したとしたら、わざ/\櫛なんか置いて來る筈はあるまい」
「――」
「昨夜は良い月だつたな。八」
「結構な十五夜でしたよ。あつしはそとで『口説くどき』の文句を稽古けいこしたくらゐだから」
「つまらねえ物の稽古をしたものだね。あいつは色氣がなさ過ぎるよ。――ところで下女のお仲をちよいと呼んでくれ。此處なら人に聽かれる樣な事はあるまいから、内緒に一とめ責めて見度い」
「あの女は思ひの外口剛くちごはですよ、親分」
 ガラツ八は飛んで行くと、少し反抗的なお仲のひぢを取つて、グイグイ土藏の裏へつれ込んで來ました。
「お仲、手數をかけるぢやないか。馬鹿な細工を皆んな言つてしまつちや何うだ」
「――」
 高飛車に出る平次を、白い眼で見て、一寸良い年増のお仲はツンとするのでした。
「皆んな解つてゐるよ。今朝、隣の納戸の鏡臺から、お内儀の櫛を持出して、圍ひの中へ投り込んだのもお前さ。圍ひ戸へ錠をおろしたのもお前だらう。幾太郎が鍵を持つて行つた事に氣が付いて人殺しの罪を其方へせるつもりだつたんだ。可愛さ餘つて憎さが百倍といふやつだ」
「――」
「驚くなお仲、梅吉を殺したのもお前だ。最初幾太郎と間違へたんだらう」
「違ふ、違ひますよ。人殺しなんか、この私がするものか」
 お仲は敢然かんぜんとして喰つてかゝりました。
「主殺しは磔刑はりつけだ。もう少しでお前は磔刑になるところさ。幸ひ殺されたのが梅吉だから、打首か獄門ごくもんくらゐで濟むんだらうよ」
「親分、私ぢやない、私は何にも知らない。た、助けて下さい」
 お仲は自分の位置の恐ろしさを判然はつきり覺つたものか、急に泣き出し乍ら、ヘタヘタと大地に崩折れました。
「八、縛つてしまひな」
「へエ――、本當に縛つて構ひませんか。やい女、神妙しんめうにせいツ」
「あツ助けて、私ぢやない。私は何んにも知らない――」
 お仲は必死と爭ひ續けます。
「ぢや皆んな言ふか」
「言ふ、言ひますよ。あの女が若旦那を殺したに違ひないと思つたから、口惜しくて口惜しくて、くしを投り込んでやつた――それだけですよ、親分」
「あの女――といふのは御新造のことだらう。お前にはおしゆぢやないか」
「でも繼子くらゐは殺し兼ねませんよ。お屋敷れがしてる上に、ヤツトウだつて知つて居るし」
あきれた女だ。――御新造のことぢやない。お前の太いのに呆れてゐるんだよ」
 お仲はさめ/″\と泣きだしました。
「ところで、八」
「へエ――」
「幾太郎が曉方歸つて來たと言つたね」
「え、お艶に言はせると、夜が明けてからだつたさうですよ」
「お前が此處へ來たのは?」
卯刻半むつはん(七時)そこ/\で」
「血はかたまつて居たかい」
にかはのやうに乾きかけて居ましたよ」
「殺したのは宵だな。――幾太郎が本當に曉方來たのなら、下手人ぢやない。自分が宵に梅吉を殺して出かけたなら、曉方にもう一度歸つて、面喰つて鍵を持つて行く筈はない」
「それは大丈夫で、あの薄情なお艶がペラペラ喋舌しやべつた事ですから」
「薄情な女が一番結構な證人になるわけだな」
「お蔭でお神樂の清吉は馬鹿を見ますよ」
 ガラツ八は妙なところへ力瘤ちからこぶを入れます。
「つまらねえところで溜飮を下げたつて、お前の男があがるわけぢやあるめえ。それより下手人を擧げる工夫をするが宜い」
「まるつきり見當が付きませんよ、親分」
「幾太郎でもなく内儀のお篠でないとすると、あとはお仲と三郎兵衞と、佐助とお榮とお桃だけぢやないか」
「私ぢやありませんよ、親分」
 お仲は顏を擧げました。
「よし/\餘つ程命が惜しいと見えるな。その心持で、人樣なんかを無實の罪に落しちやならねえ。くしが俺の手へ入つたから宜いやうなものの、でもなきや」
 平次は苦笑ひしました。これがお神樂の清吉の手にでも入つて居たら、今頃お篠はどうなつて居たか判りません。
「親分、今度は何をやらかしや宜いんで――?」
「夜になるのを待つんだ。――幾太郎が縛られたことは――まだ默つて居るが宜い。檢屍が濟んだ上で又考へやうがあるだらうよ」
 平次はまだ高い陽を仰いで、斯う言ふのでした。


「親分、お茶が入りました」
 檢屍が濟んで、妙に長い日を持て餘したやうに、平次と八五郎がウロウロして居ると、轉婆娘のお榮が奧の方から燃え上るやうな派手な聲を掛けるのでした。
「有難う。――八、一服やらうか」
 平次は八五郎をかへりみて、氣樂な親類の家へ來て居るやうに、奧の一と間に入つて行きました。
「親分、何にもないが、先づ一服やつて下さい」
 主人の三郎兵衞は、娘のお榮と、伜の許嫁のお桃にお茶を入れさせたり、結構な菓子を出させたり、ひどく打ち解けた樣子で迎へてくれます。
「有難う御座います。それぢや遠慮なく頂きますよ」
 平次は澁い茶を呑んで、菓子をつまみ乍ら、相手の出やうを待つて居りました。
「親分、伜が見付かつたさうぢやありませんか」
「え、その上、お神樂の清吉が縛つたさうで。あの男はなか/\容捨しませんよ」
 平次の調子は妙に人を焦立いらだたせます。
「その事に就て、親分に聽いて貰ひ度いことがあるんだが――」
「――」
「實は伜が梅吉に身代りを頼んで圍ひを拔け出すのは昨夜ゆふべに限つたことぢやないさうで、今までもちよい/\やつて居るさうですよ」
「誰がそんな事に氣が付いて居ました」
 平次は靜かに問ひ返しました。
「これですよ。默つて居るから、何にも知らずに居ると思ふと、女は矢張り氣が廻るんだね――」
 半分は獨り言のやうにつぶやき乍ら、三郎兵衞の指は、輕くうな垂れたお桃を指すのです。
「お桃さんが知つて居たんですね」
「昨夜も伜が梅吉と相談して居るのを、これが、風呂場で聽いたさうですよ。――だから梅吉を殺したのは、伜ぢやないといふことになりやしませんか。伜がわざ/\身替りに頼んだ人間を、自分が入つて居る筈の圍ひの中で殺す筈はない――」
 三郎兵衞はそれが言ひ度かつたのです。多分、幾太郎が縛られたと聽いて、驚いて身代りの祕密を打明けたお桃の言葉を聽くと、矢もたてもたまらず、平次を呼んだのでせう。
 平次は默つて顏をあげました。まだ言ひ足りない、聽き足りないもののあるやうな氣がしたのでした。
「親類一統に相談した上とは言ひ乍ら、座敷牢の中へ入れられて、逃げ出せば出られるのに、默つて二た月も我慢して居た伜の心持も、少しは考へてやる氣になりましたよ。伜は道樂者で、始末の惡い人間には違ひないが、その伜の背後うしろで、絲を引いてゐた人間のあることに、私は氣が付かなかつたのです」
 三郎兵衞の述懷は、次第に父親らしい愚痴ぐちになります。
「で、その絲を引いてるのは誰で?」
「殺された梅吉ですよ。伜をけしかけて私の手文庫から、東叡山とうゑいざん御造營の大事な見積り書を盜み出させ、私と張り合つて居る深川の材木屋に賣らせたのも、今から考へるとどうも梅吉の細工らしい。それから、お艶とかいふ女に夢中にさせたのも、私へ食つてかゝらせたのも――」
「それは何うして解つたのです」
「みんなお桃が探つたり聽いたりして、胸一つに疊んでいたのを、伜が縛られたと聽いてみんな私に話しましたよ。番頭の佐助もその邊のことを薄々は知つて居たやうで――」
「お桃さんがね」
 平次は妙に裏切られたやうな心持でした。大して聰明さうにも見えない、平凡そのものの娘が、捕物の名人錢形平次の先を潜つて、裏の裏まで物を見窮みきわめて居たのです。
 だがしかし、このお桃の聰明さの判つたことが、どんな恐ろしい結果になるか、三郎兵衞も、當人のお桃も氣が付かなかつたでせう。平次は緊張した心持で、暮れかゝる外を見やりました。
 それからほんの半刻、平次も八五郎も、不思議な焦燥せうさうに、つとして居られないやうな心持でした。
 店の小僧達――よく朋輩はうばいの事を知つて居るのに聽くと、梅吉は奈良屋ならやの身代を乘つ取るために、伜の幾太郎を勘當させて、娘のお榮を手に入れることに熱中して居た證據が、次から次へと擧つて來ます。
 坊つちやん育ちで人の好い幾太郎は、完全に梅吉の傀儡かいらいになつて、父の激怒に觸れたり、座敷牢に入れられたり、其處を脱出して女に逢つたり、それを此上もなくロマンテイツクな遊戯いうぎと思ひ込んで居たのでせう。昨夜ゆふべ圍ひの中に居るのが、幾太郎ではなくて、替玉の梅吉だつたと信じて殺したなら、下手人は?――其處まで考へると、平次も八五郎も、何んとなくイヤーな心持になります。替玉の祕密を知つて居るのは、家中でもお桃の外にはないのです。
 十六夜の月は少し遲く、四方あたりがすつかり夜の風情になつたのは、亥刻よつ近くなつてからでした。縁側の戸を全部閉めさせて、欄間らんまから入る月の光を頼りに、圍ひの中で平次と八五郎は顏を見合せました。眉毛の數まで讀めさうです。
「親分」
「八」
「こんな事では、人相まで判りますね」
「その上昨夜は十五夜で宵のうちは晝のやうに明るい月夜だつた」
「それでも親分」
 フエミニストの八五郎は、お桃を助けることの方が、下手人を縛るより重要な仕事になつて居るのでした。
「これ位の明りなら、家の者が梅吉と幾太郎を間違へる筈はない――梅吉と知つて殺したのだ」
「親分、そんな意地の惡いことを言つちやいけませんよ」
「意地が惡いわけぢやない。幾太郎もお仲も、内儀も、三郎兵衞も、お榮も下手人でないと決ると、こいつは厄介なことになるぜ、八」
 平次の聲には妙にきびしいところがあります。


「脇差は一體誰のだい」
 平次は今頃そんな事を聽くほど、得物を問題にはして居なかつたのです。
「納戸の箪笥たんすのですよ。其處に入つて居ることは、誰だつて知つて居まさア」
「脇差を刺した時、少しは返り血が飛んだらうと思ふが。奉公人の着物を見たかい」
「見ましたよ。血の附いたものなんかありやしません」
「お桃は力がありさうだね」
「田舍で育つて居るから力もあるでせうよ」
 二人は圍ひの中から出て、まだ斯んな事を言ひ合つて居ります。幾つかの證據は、眞つ直ぐお桃の方を指して居りますが、あの純情らしい娘――許嫁の夫を救ふために、人一人殺したのではないかと思はれる、聰明な娘を縛る勇氣がなかつたのです。
「も一度考へて見ようよ、八」
「何を考へるんで」
「先づ第一に三郎兵衞は伜を殺す筈はないな。――内儀のおしのさんはどうだ」
「年寄の側に居るんですもの、そつと人殺しに起き出すことなんか出來るものですか」
 とガラツ八。
「えらいツ、八。其處まで氣が付けば大したものだ」
めちやいけません」
「ところで、お榮は?」
「あのお轉婆娘は、眼で殺す方で、へツ、へツ」
「お前も殺されかけたらう。――その次はお仲だ。あの女は少しタチが惡いぞ」
「タチは惡くたつて人なんか殺せやしません。御新造が憎くて、くしを投り込むのが精一杯の惡事ですよ」
「大層肩を持つやうだが、大丈夫かい、八」
「先刻親分にうんとおどかされたら、口惜し涙を流し乍らお勝手へ行つてつまみ食ひをして居ましたよ。あんな女は人を殺すものですか」
「えらいツ、愈々以つて八五郎親分は大した眼力だぞ」
「親分、冗談ぢやありませんよ」
「それで臭いのが總仕舞か、――あとはお桃一人だ。氣の毒だが、當つて見なきやなるまいな。あの取り立ての桃のやうな、うぶな娘を見ると、俺は十手をチラ付かせるのが淺ましくなるが、どうだい八」
「御免かうむりますよ、親分。一向綺麗ぢやないが、あの娘は妙に氣をませますね」
「役目は役目だ。一應引立てて見なきやなるまいな」
 二人は立上りました。奧の一と間には、三郎兵衞と四人の女が一團になつて、平次の來るのを待つて居る筈です。今となつては其處へ踏込んで、お桃を縛る外に、恰好の付けやうがなくなつたのです。
 晝のうち檢屍に來た係り同心には、幾太郎の無實を細々と説明した上、『眞實ほんたうの下手人は、今晩中に擧げてお目にかけます』と、八五郎はツイ大きな事を言つてしまつたのでした。
「待ちなよ」
「へ――」
「お桃を縛る前に、もう一人調べるのがあつた筈だが」
 平次は唐紙へかけたガラツ八の手を止めました。フト探索たんさく盲點まうてんのあつたことに氣が付いたのです。
「もう一人?」
「ウン」
「誰で――」
「忘れて居るんだよ。あんまり人殺しと縁のないやうな人間だから。それ、まだ番頭の佐助といふものがあるだらう」
「いけませんよ、親分。ありや算盤そろばんの化物で」
「でも人間には相違あるまい」
「人間の干物ひものですよ、六十三ださうで。――あつしも、もう三十何年經つと、あんなになるかと思ふとこの世が情けなくなりますよ」
「いや、あの番頭なら、梅吉の惡事を知つて居るし、若旦那の幾太郎を手鹽にかけて育てて居る。――それに、お桃が聽いたといふ、昨夜の身代りの相談だつて、何處かで聽いて居たかも知れない」
「でも」
「間違ひはないよ、八。お桃は一應下手人のやうだが、幾太郎の事をあんなに思ひ詰めて、一生懸命幾太郎をかばはうとして居る娘だ、――あの通り賢過かしこすぎる娘が、幾太郎の居る圍ひの中で梅吉を殺す筈はない」
 平次の推理は次第に不思議な方へ發展して行きます。
「佐助だつて同じことでせう。若旦那に疑ひのかゝる場所で殺す筈はないぢやありませんか」
 ガラツ八の反辯も尤もでした。
「待て、佐助が店から出て、裏の方へ行くぢやないか」
「あツ、逃げ出すんぢやありませんか、縛つてしまひませう」
 飛出さうとするガラツ八、平次はそのひぢを押へました。
「待て、あんな恰好で逃げ出す人間があるものか、トボトボと地獄へでも行く人の姿ぢやないか。あツ上草履うはざうり穿いたきりだ。八」
「親分」
「後の始末をした上で、死ぬ氣だつたんだ」
「引とめませうか、親分」
 佐助の姿は眞にトボトボと裏口の闇の中に消えて行くのです。
「――いや、放つて置いちや惡い。あれを獄門臺にせるのは慈悲ぢやねえ、八」
「へエ――」
 八五郎は飛んで行きました。
 平次は自分の胸の前にひしと兩掌を組んで、耳をすまして居ります。サツと吹いて來る夜風が、生温かく初夏の匂ひを運んで、どうにもならないな心持にさいなまれます。
「番頭さん」
「番頭さん」
 二人ばかり小僧がおびえた樣に呼び立て乍ら店から出て來ました。
「番頭さんは裏へ出て行つたよ」
 平次は闇の中を指します。
「提灯を持つて來るが宜い」
「へエ――」
 何にか狩り立てられるやうな心持で裏へ出ると、月の光の中に、眞つ黒に立つたのは、大きな物置です。八五郎はそれに氣が付かずに、おほりの方へ行つた樣子です。
 默りこくつて、その開いた戸の中へ提灯を入れた平次。
「あツ、矢張り」
 何も彼も手遲れでした。平次の探索が身近く來て、不意にお桃の方へ外れると知るや、忠義な番頭の佐助は其處で首をくゝつて、罪のつぐなひをして了つたのです。
 帳場すゞりの上に置いた、哀れ深い遺書を見ると、『近頃になつて梅吉の惡事を知り、店の支配人としての責任を取るため、わざと圍ひの中に居る梅吉を殺した。幾太郎をもてあそんで居た惡事を知らせる爲だつた』と書いてあります。算盤そろばんの事しか知らない佐吉は、お艶のところに居る筈の幾太郎に疑ひがかゝるとは氣が付かず、もとよりお桃など引合に出るとは思ひも寄りません。
 多分何も彼も濟んで、いさぎよく自首して出るつもりのが、機會をうしなつてこんな事になつたのでせう。
大縮尻おほしくじりだよ。でも、これでよかつたのだ」
 さう言ひ乍ら錢形平次は、忠義な老番頭の死骸の前に兩掌を合せました。
        ×      ×      ×
 それから幾日か經ちました。
「親分、幾太郎はやうやく目が覺めて、お艶と手をきつて、お桃と一緒になつたさうですよ」
 早耳の八五郎が、嬉しいニユースを持つて來てくれました。
「それで目出度し目出度しさ」
「危いところでしたね、親分」
「お桃を縛つた日にや、十手捕繩返上しても追付かなかつたよ」
「のべつに縮尻しくじつて居る萬七親分や清吉は平氣でやつて居るぢやありませんか。親分は氣が弱いんだね」
 ガラツ八は妙なところで、平次をけしかけます。
「それで宜いのさ、岡ツ引が氣が強かつた日にや、どんな罪を作るか解らない。――出來ることなら俺は、佐助も助けたかつたよ」
 平次はつく/″\さう言ふのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社
   1954(昭和29)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1940(昭和15)年3月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「おしの」と「おしの」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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