錢形平次捕物控

活き佛

野村胡堂





「親分、面白くてたまらないといふ話を聞かせませうか」
 ガラツ八の八五郎は、膝つ小僧を氣にし乍ら、眞四角に坐りました。こんな調子で始める時は、お小遣こづかひをせびるか、平次の智慧の小出しを引出さうとする下心があるに決つて居ります。
「金儲けの話はいけないが、その外の事なら、大概たいがい我慢をして聽いてやるよ、惚氣のろけなんざ一番宜いね――誰が一體お前の女房になりたいつて言ひ出したんだ」
 錢形平次――江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形平次は、いつもこんな調子でガラツ八の話を受けるのでした。
「そんな氣障きざな話ぢやありませんよ。ね、親分」
「少し果し眼になりやがつたな」
「音羽の女殺しの話は聽いたでせう」
「聽いたよ。お小夜とか言ふ、良い年増が殺されたんだつてね、――商賣人あがりで、殺されても不足のねえほど罪を作つてゐるといふぢやないか」
 二三日前の話でせう、平次はもうそれを聽いて居たのです。
「商賣人上りには違えねえが、雜司ざふし名物の鐵心道人の弟子で袈裟けさを掛けて歩くすごい年増だ。殺されたとたんに紫の雲がおりて來て、通し駕籠で極樂へ行かうといふ代物しろものだから驚くでせう」
「成程、話は面白さうだな。もう少し筋を通して見な」
 平次もかなり好奇心を動かした樣子です。
「鐵心道人のことは、親分も聽いて居るでせう」
「大層あらたかな道者だつて言ふぢやないか。矢つ張り法螺ほらの貝を吹いたり、護魔ごまいたりするのかい」
「そんな事はしねえが、説教はする。八宗兼學の大した修業者だが、この世の慾を絶つて、小さい庵室あんしつに籠り、若い弟子の鐵童と一緒に、朝夕おきやうばかり讀んでゐる」
「で?」
「それで暮しになるから不思議ぢやありませんか。ね、親分」
「――」
 平次は默つてその先をうながしました。合槌あひづちを打つと何處まで脱線するかわかりません。
もつとも信心の衆は、加持祈祷をして貰つたと言つちや金を持つて行く。が、鐵心道人はどうしても受取らねえ。ばちの當つた話で――」
「さう言ふ手前の方が餘つぽど罰當りだ」
「米や味噌や、季節の青物は取るさうだから先づ命には別條ない――」
「それから何うした」
 八五郎の話のテムポの遲さにじれて、平次はやけに吐月峰はいふきを叩きました。
「だから、音羽から雜司ヶ谷目白へかけての信心は大變なものですよ。あの邊へ行つてうつかり鐵心道人の惡口でも言はうものなら、請合うけあひ袋叩きにされる」
「で――」
「お小夜の殺された話は、鐵心道人の事から話さなくちや筋が通りませんよ。何しろ、明日といふ日は鐵心道人の庵室へ乘り込んで、朝夕の世話をすることになつて居た女ですからねエ」
梵妻だいこくになるつもりだつたのかい」
「飛んでもない。鐵心道人の教へでは、女犯によはんは何よりの禁物で、雌猫めすねこも側へは寄せない」
「お小夜は雄猫と[#「雄猫と」はママ]間違へられた」
「冗談ぢやない、――多勢の弟子の中から運ばれて[#「運ばれて」はママ]、道人の側近くつかながら、朝夕教へを聽くことになつたんだから大したものでせう」
「それから」
「明日はいよ/\音羽から雜司ヶ谷中の信者總出で、お小夜を庵室に送り込まうといふ矢先き、肝腎かんじんのお小夜が脇差でなぶり殺しにされたんだから騷ぎでせう」
なぶり殺し?」
「十二三ヶ所も傷があつたさうだから、なぶり殺しに違ひないぢやありませんか。餘程深い怨みがあつたんでせう」
「急所を知らないんで、無闇矢鱈やたらにきつたかも知れないな」
「でも、下手人は武家らしいといふ話ですぜ」
「武家?」
「お小夜が勤めをして居る頃の深間ふかまで、淺川團七郎といふ弱い敵役見たいな名前の浪人者があつたんですつて」
「フム」
「その浪人者が、近頃チヨイチヨイお小夜のところへ來たんださうで、――米屋の越後屋ゑちごや兼松が、お小夜の家で三度も逢つてゐますよ」
「それで」
「お小夜が殺されてから姿を見せないところを見ると、その野郎が一番怪しくなります」
「お小夜は綺麗な女だつたのかい」
 平次は話題を轉じました。
「綺麗といふよりは凄い女でしたよ。あつしの逢つたのはもう三年も前だが――」
 ガラツ八は話し續けました。
 お小夜は三年前まで三浦屋でおしよくを張つてゐたのを、上野の役僧某に請出うけだされて入谷に圍はれ、半年經たないうちに飛び出して、根岸の大親分の持物になりましたが、其處もたくみに後足で砂を蹴つて、千石取の旗本某のめかけになり、三轉四轉して、有名な立女形たておやま中村某の家に押掛女房になつたりして居ました。
 そんな事も、長く續いて精々半年くらゐ、あざやかに轉身して、音羽に世帶を持つたのはこの春あたり。暫くは、下女一人猫の子一匹の神妙な暮しを續けて居るうち、何時からともなく鐵心道人のところに通ひ始め、紅も白粉も洗ひ落して、半歳餘りの精進を續けた後、鐵心道人にその堅固な信心を見込まれ、薪水まきみづの世話をするために、別棟べつむね乍ら、道人の起居する庵室に入ることになつたのです。
「ね、親分。勿體ないぢやありませんか」
 八五郎は斯う言つて、額を叩くのでした。
「勿體ないつて奴があるかい」
「とに角、三浦屋のお職まで張つた女が、袈裟けさを掛けて數珠じゆず爪繰つまぐり乍ら歩くんだから、ぞうの上に乘つけると、そのまゝ普賢菩薩ふげんぼさつだ」
「宜い加減にしないかよ、馬鹿々々しい」
「色白で愛嬌があつて、斯う下つぷくれで眼の切れが長くて、唇が眞つ紅で――好い女でしたよ、親分。その熟れきつた良い年増が、庵室に入つていよ/\尼さんの玉子にならうといふ前の晩、滅茶滅茶に斬られて死んだんですぜ。こいつは近頃の面白い話ぢやありませんか、御用聞冥利みやうり、ちよいと覗いて見ませんか、親分」
 ガラツ八の八五郎は生得の順風耳じゆんぷうじを働かせて、江戸中から斯んな怪奇なニユースを嗅ぎ出して來ては、親分の平次の出馬をせがむのでした。


(『玉の輿ののろひ』参照)以來、平次の腕に心から推服してゐる三つ股の源吉、このお小夜殺しをすつかり持て餘してしまつて、五日目には平次のところへ助け舟を求めに來たのでした。
「錢形の親分、俺にはどうも見當が付かねえ。十手捕繩を預つて、そんな事を言つちや、お上に對しても濟まねえわけだが、繩張りのうちに殺しがあるといふのに、五日も經つて下手人の匂ひのあるのさへ擧げ兼ねたとあつちや、俺の顏が立たねえ。濟まねえが智慧をかしてくれないか」
 他の御用聞と異つて、錢形平次なら、無暗な功名爭ひをする筈もなく、三つ股の源吉の顏を潰れないやうに、一件を始末してくれるだらうと思つたのです。
「宜いとも、俺で役に立つ事なら」
 錢形平次は何んのわだかまりもなく御輿みこしをあげました。
 源吉に案内させて、八五郎と一緒に音羽へ行つて見ると、何も彼も濟んだ後で、錢形平次でも手の付けやうはありません。
 お小夜の家はもとのまゝですが、たつた一人の下女のお米は調べが濟むまで里へ歸すこともならず三毛猫みけねこと一緒に淋しく暮して居ります。
「お前の家は何處だえ」
厚木在あつぎざいだよ」
 平次の問ひに對して、妙に怒つて居るやうな調子です。年頃は十八九、番茶なら少し出過ぎたくらゐですが、むくつけき樣子を見ると、江戸へ來て、まだ三月とは經つてゐないでせう。
「あの晩どうして居たんだ」
「風呂へ入つて來て、御新造さんへ聲を掛けて寢ただ。翌る朝お隣りの皆次さんに、雨戸が開いて居るぞと聲を掛けられて、びつくりして飛び起きて見ると、御新造さんは殺されて居たでねえか」
 むくつけき娘ですが、相模さがみ言葉乍ら、思ひの外達辯にまくし立てます。
「風呂から歸つて聲を掛けたとき、返事がなかつたのか」
「よく眠つて居るべえと思つただよ」
「その時雨戸は閉つて居たのかい」
「私はお勝手から入つたから、御新造さんの雨戸は知らねえよ」
 それでは何んにもなりません。
日常ふだん、此處へ出入りするのはどんな人達だ」
「お隣の皆次さんと――これは紙屋さんだよ。地主の寅吉さんと、庵室の鐵童さん、それから米屋の兼松旦那、もつとも米屋の旦那は滅多に來ねえだよ」
「それつきりか」
「もう一人、御浪人の淺川團七郎とか言ふ人が時々來るが、おらは後姿しか知らねえだよ」
「よし/\、そんな事で澤山だらう」
 平次はそれ以上を聽かうともしません。
「一番繁々しげ/\通ふのは誰だい」
 ガラツ八は後ろから口を出しました。
「地主の寅吉とか言ふ男だ。かなくたつて解つて居るよ」
 平次は一番先に寅吉を擧げた下女の言葉の調子から、そのくらゐのことは判斷して居る樣子です。
「お小夜が殺された晩、誰も來なかつたかい」
 とガラツ八
「地主の寅吉旦那が來ただよ、話がこんがらかつた樣子で、御新造さんと何にか言ひ合つて居ただが――おらは御新造さんにせき立てられて、表の湯屋へ行つてしまつたから、どう納まつたか後は知らねえ」
 平次はそれを聽くと後ろを振り向きました。三つ股の源吉はその寅吉を縛らずに居る筈はないと思つたのです。
「寅吉は一應引立てて見たが、どうしても小夜を殺したとは言はねえ、――盜られた物はなし、寅吉より外に、下手人の匂ひのするのもないが」
 源吉はすつかり投げて居ります。
「淺川團七郎といふ浪人者は」
「そいつはまるで雲をつかむやうな話だ。お小夜のところへ來る時は、大抵頭巾づきんを冠つて居たさうだし、お小夜はおくびにも出さなかつたから、何處に住んでゐるか、まるつきり見當が付かねえ。越後屋の主人が確かに顏を見たと言つて居るが、色白で四十前後で、ベツトリと濃い青髯あをひげの跡のある、とだけぢや――そんな浪人者は江戸に何百人居るか解らない」
 三つ股の源吉の言ふのは尤もでした。
「八、こいつは思つたよりむづかしいぜ。當分神田へ歸らねえことにして、音羽へ泊り込むとしようか」
 錢形平次がそんな事を言ふのですから、よく/\の難事件と見込んだのでせう。


 下女のお米をめたところで、大した證據も上らなかつたので、平次はその足をして、雜司ヶ谷の鬼子母神きしもじん裏にある鐵心道人の庵室を訪ねました。
 多寡たくわが厄病神のやうな流行物はやりもの――と鼻であしらつて來た平次も、庵室へ行つて見て、まるつきり豫想と違つて居るので驚きました。竹の柱にかやの屋根といふ小唄の文句の通りの見る影もない庵室の奧に、修業者鐵心道人はさゝやかな佛壇を前にして讀經中で、その後ろに居流れた善男善女は、一本氣の信心にり固まつた、朴訥ぼくとつそのものの姿を見るやうな人達ばかりでした。
 鐵心道人は四十前後のまだ壯年の修業者で、細面の眼の大きい、強烈な精神力の持主らしい樣子までが、平次に好感を持たせます。
 ――こ奴は唯の山師ではないぞ、――
 平次はそんな事を考へ乍ら、開けつ放した庵室の中を見て居りましたが、讀經の聲凛々りんりんと響き渡ると、それに合せて念佛を稱へる善男善女の聲が、一種の情熱的なリズムになつて、平次のもたらした世俗の『御用』などは通りさうもありません。
 平次はそつと裏口の方へ廻りました。
 二十歳ばかりの目鼻立の柔和な若い弟子が、腰衣こしごろもを着けたまゝ井戸端で水を汲んで居たのです。
「お前さんは鐵童さんと言ふんだね」
「ハイ」
 折目の正しい返事に、平次も少し面喰ひました。
「お小夜が殺された話は知つてるだらうね」
 平次の問ひの氣のきかなさ。
「それはもう、よく存じて居りますよ」
 鐵童は莞爾につこりとして手桶を置きました。
「お前さんはどう思ひなさる」
「――」
「誰が殺したか、見當くらゐは付くだらう」
「その見當が付けば――」
 鐵童は皮肉な微笑を浮べて、平次の腰のあたりを見るのです。『還俗げんぞくして御用聞になる』とでも言ひ度いところだつたでせう。
「お小夜が殺されて喜んで居るものがあるだらう」
 平次は我にもあらず愚問ぐもんを連發しました。
「私も喜んで居りますよ」
 鐵童の答への意外さ。
「?」
「あれは法難でございました。――心を入れへたと言つても、お小夜殿はあの通り美しい。お師匠樣のお側には置き度くない方でしたよ」
「?」
「上野の役僧が一人、お小夜殿のために寺を追はれました。入谷の親分が一人、子分に見放され、千五百石の旗本がつぶれ、名題役者が一人首をくゝりました。――外面如菩薩によぼさつ、内心如夜叉によやしや、――恐ろしいことで御座いましたよ」
 鐵童はさう言つて、目の前で數珠じゆずを振るのです。
「あの晩、お前さんは何處に居なすつた」
 平次の問ひは唐突で亂暴でした。
「庵室に居りましたよ、――間違つちやいけません。私には羅刹女らせつじよを解脱させる法力はありません」
 謎のやうな言葉を殘したまゝ、鐵童は手桶を提げて庵室へ入つて行きました。
 もう一度表へ廻ると、信心の男女は大方散つて、庵主の鐵心道人が、若い男と何やら事務的なことを打合せて居ります。
「越後屋の兼松だよ」
 三つまたの源吉はそつと囁やきました。雜司ヶ谷から音羽へかけての物持で、手廣く米屋をやつて居る兼松は、鐵心道人の第一番の大檀那だんなで、庵室を建ててやつたのも、諸經費の不足を出してやるのも、皆んなこの男の篤志とくしだといふことです。
「越後屋さん、錢形の親分が、道人に少し訊き度いことがあるさうだよ」
 源吉は兼松をさし招いてさゝやきました。
「それは困りました」
 越後屋兼松は澁い顏をしました。この盲信者に取つては、岡つ引と鐵心道人とは、全く世界の違つた人間のやうに思つて居る樣子です。
「お上の御用を勤める方に不自由をさせてはいけない。私が逢ひませうよ、越後屋さん」
 後ろから靜かに聲をかけたのは、鐵心道人でした。歳の割には若々しい聲で、何んでもないことがひどく人の心持にみ入ります。八宗兼學の大智識といふにしては、少し人間味があり過ぎますが、柔かい次低音バリトンには一かたでない魅力のあることは事實です。
「お小夜が殺されたことは聽いたでせうな」
「いかにも聽きましたよ」
 平次の突つ込んだ調子を、鐵心道人はやはらかに押し包みました。
「下手人の心當りはありませんか」
「いや少しも、――氣の毒なお小夜殿。なぶり殺しに逢ふほどの罪はなかつた筈だが――」
 鐵心道人はまゆを垂れて、何やら暫らくは念じて居ります。
「鐵童さんはその晩、確かに外へ出なかつたでせうな」
「出るわけはありませんよ、庵室は此通りたつた二た間、鐵童が臥返ねがへりを打つたのも解ります」
 鐵心道人の言葉には何んの疑ひを挾みやうもありません。平次は自分乍らこの掛け合ひの不手際さにじれ込んで居ります。
 斯うなると平次は、丁寧に挨拶をして引揚げる外にがありません。もう一度井戸端に廻ると、弟子の鐵童はたらひの前にキチンと坐つて一生懸命洗濯をして居りました。
「この水は良いだらうな」
「江戸一番の良い水ですよ、この邊は高臺だから」
 平次の問ひに、無造作な調子で鐵童は答へます。
「一杯呑み度いが、柄杓ひしやくか茶碗を借り度いな」
「ハイ」
 鐵童は寺住居の者らしい氣輕さで、長刀草履なぎなたざうり穿いたまゝお勝手に戻り、中へ入つて茶碗を一つ持つて來てくれました。
 一とつるべくみ上げて、一杯キユーツと呑んだ平次、
「甘露々々、成程これは良い水だ」
 十一月の水の味は格別だつたのでせう、平次は舌を鳴らしてもう一杯かたむけます。
「親分、止しませうよ、そいつは何杯呑んだつてひはしませんぜ」
 ガラツ八はそんな事を言つて眺めて居るのです。


「錢形の親分さん」
 目白坂まで來ると、後から追ひすがり加減に聲をかける者があります。
「越後屋さんぢやないか」
 平次は足をよどませました。
 先刻庵室で挨拶した米屋の兼松が、何にか言ひ度い事がある樣子で後から來たのでした。
「下手人のお見込みが付きましたか、親分さん」
 兼松は少し息をきらして居ります。
 二十八九、精々三十くらゐ、若いにしては分別者らしい男で、淺黒い引緊ひきしまつた顏にも、キリリと結んだ口にも、やり手らしい氣魄きはくがありまます。
「少しも判らない、困つたことに日が經ち過ぎたよ」
 妖艶なお小夜も知らず、その殺された後の慘澹さんたんたる有樣も見なかつた平次は、後から證據をたぐるじれつ度さに閉口して居る樣子です。
「御尤もですが、地主の寅吉さんだけは下手人ぢやございませんよ、親分」
「それはどう言ふわけだ」
 平次はツイ開き直りました。それほど兼松の調子が斷乎としてゐたのです。
「寅吉さんを縛つた三つ股の親分さんにはお氣の毒ですが――」
「――」
 兼松の眼は、チラリと源吉を見やりました。この御用聞が以ての外の機嫌なことは、そのそつぽを向いた頬のあたりの痙攣けいれんでも判ります。
「御存じかも知れませんが、同じ音羽に住んで、お互に何んとか人に立てられるだけに、私と寅吉さんは仲が惡う御座います。それにつけても、寅吉さんが人殺しの罪をて、お處刑しおきに上るのを見ちや居られません」
「?」
 兼松の一生懸命さが、妙に平次を引入れました。
「あの晩寅吉さんが、お小夜の家を出て來るのを、私は確かに此眼で見屆けました。先刻まで近所へ聞えるほど言ひ爭つて居たのが、どう仲直りしたものか、鼻唄でも歌ひ出し度い樣子で、ニヤニヤし乍ら出て來たくらゐですから、人なんか殺したんでない事はよく判ります。それに路地へ射して來るあかりでよく見ましたが、寅吉さんは脇差も出刄包丁でばばうちやうも持つちや居ませんでした。後ろから灯を差出して、寅吉さんの足許を見せてやつて居たのは、お小夜だつたかも判りません。その頃下女のお米は風呂へ行つて居たさうですから」
「お前さんは何用があつて、そんなところに居たんだ」
 平次の問ひは峻烈しゆんれつでした。
「私はいろ/\道人樣のお世話をして居りますから、明日庵室へ入るといふお小夜の樣子を見に來ましたが、寅吉さんが出て來たのを見ると、出過ぎたことをするんでもないと思つて、そのゝ引返しました」
 兼松の答へははつきりして居ります。
「お前さんと寅吉とは餘つ程仲が惡かつたんだね」
「へエ――、世間では何んとか申します。行違ひは去年のお祭のめ事からで――」
 兼松と寅吉と仲の惡いのは、同じ音羽の物持で、兩雄並び立たぬ爲だつたでせう。
「お前さんはお小夜をどう思つて居たんだ」
「道人樣が側近く召されるのを、かれこれ言つては惡いと思つて差控へて居ましたが、正直のところあまり好きぢやございませんでした」
 と兼松。
「寅吉は?」
「寅吉さんはお小夜のところへ繁々しげ/\通つて居たやうで、これは町内で知らない者はありません。尤もお小夜は何んと言つて居たか、そこまでは判りませんが」
「寅吉も庵室へ出入りするのか」
「飛んでもない」
 兼松の樣子では、寅吉は縁なき衆生しゆじやうのやうです。
「外にお小夜を怨んで居る者は?」
かぞへきれないほどあります。ことに近頃ちよい/\姿を見せる淺川團七郎――」
 兼松はさう言つて、おびやかされたやうに、ゴククと固唾かたづを呑みました。
「淺川といふ浪人者は始終此處へ姿を見せるのかな」
「お小夜が殺された晩も、頭巾づきんで顏を隱して、路地の外をうろ/\して居た樣子でした」
「その浪人者の住居は?」
「そこまでは存じません。時々後ろ姿を見て、お小夜に訊いて淺川團七郎といふ名前を知つただけです。來る日は前以つて下女のお米をお使ひか、風呂か、遊びに出す樣子でした。お小夜はかしこい女でしたから、變な浪人者の訪ねて來るのを、誰にも知られ度くなかつたのでせう」
 越後屋兼松の説明は、此方で望む以上に行屆きます。
「お前さんは、淺川とか言ふ浪人者に逢つたことがあるさうぢやないか」
 と平次。
「たつた一度ありました。一と月ばかり前、蒸し暑い日で、さすがに頭巾を冠つては居られなかつたのでせう。お小夜の家の格子戸の中で、覆面頭巾をヒヨイといだのを見てしまつたのです」
「人相は?」
「四十前後の良い男でございました。何より色白の顏と、青岱せいたいを塗つたやうな、兩頬の青髯の跡が目立ちました」
「外には誰も淺川團七郎の顏を見た者はないだらうな」
「さア」
「親分、――外にも淺川團七郎の顏を見た者がありますよ」
 ガラツ八は横合から口を出しました。
「誰だい」
「そいつは滅多に言はれませんよ、半襟一と掛けおごる約束で聞込んだネタで」
「大層はづみやがつたな」
「それ程でもねえが――」
「ハツハツハツ」
 平次は何んとはなしに空を仰いで笑ひました。初冬の空は申分なく澄みきつて、夕陽はもう目白の林に落ちかかつて居ります。


 寅吉の女房にも逢つて見ましたが、これは嫉妬しつとと心配で半病人のやうになつて居るだけで、何んの役にも立ちません。
 最後にもう一度お小夜の家へ平次と八五郎と、三つ股の源吉と、越後屋の兼松と立ち寄りました。
 お米の言葉と、源吉の調べとあはせて、もう一度平次の頭で整理して見ましたが、下手人はお小夜の知己ちきで、木戸を開けて狹い庭から通して貰つて、一氣にお小夜を殺して歸つたといふ外には何んの手掛りもありません。
 十二三ヶ所の傷だつたと言ひますが、ツイ近所の人も、宵のうちの人殺し騷ぎを知らなかつたところを見ると、多分最初の一げきで致命的な傷を與へ、聲を出す力も騷ぐ力もなくなつたものでせう。さう考へると矢張り、下手人は明日の庵室入りをくひ止めようとする、必死の怨みかねたみを持つたものといふ事になります。
「八、お米を呼んで來てくれ」
「へエ――」
 八五郎は隣の部屋で神妙に縫物をして居る下女のお米を呼んで來ました。
「俺は半襟一と掛なんてケチな事は言はねえ、帶でもあはせでも買つてやるから、淺川團七郎といふ浪人者の素姓を知つてるなら話してくれ」
 平次はいきなり高飛車に出ました。
「そいつは違やしませんか、親分」
 以ての外の顏をしたのは八五郎です。
「默つて居ろ、明日まで引延して居て、どんな事になるかも判らない――なア、お米、知つてる事は皆んな申上げた方が宜いよ」
 平次は何時ものたしなみに似ず、懷から十手を覗かせたりするのでした。
「何んにも知らねえだよ、御浪人の後ろ姿を二度ばかり見ただけだよ」
 お米は何におびえたか、頑固に頭を振ります。
「お前は何にか知つて居るに違ひない。言はなきや縛つて行くが、どうだ」
「知らねえだよ、おらは、何んにも知らねえだよ」
 お米は部屋の隅にピタリと引つ込んで、おびえきつた猫のやうな眼を光らせます。その無智な頑固さを見て取ると、力攻めで急に口を開けさせるわけには行かないと見たか。
「八、氣の毒だがこれから直ぐ三浦屋へ行つてくれ。お小夜が勤めをして居る時分の深間を一人殘らず手繰たぐり出すんだ。それから下つ引を五六人狩り出して、この三年間お小夜に係り合つた人間を調べ上げて見るが宜い。その中に淺川團七郎といふ浪人者が居ると判つたら、下手なちよつかひを出さずに、居所だけを突き留め、遠卷に見張つて、直ぐ俺のところへ言つて來い、――明日の朝までだぞ――宜いか」
「合點だ」
 ガラツ八はもう、尻を七三に端折つて居りました。親分の樣子で、事件がやうやく峠を越したことが判つたのでせう。
 八五郎の後ろ姿を見送つて、平次は直ぐお小夜の家の隣――と言つても、これは音羽の通りに面した紙屋の皆次の店へ入りました。
「あ、親分さん方」
 皆次は二つ三つ續け樣にお辭儀をしました。二十五六のまだ若い男で、ひたひの狭い、鼻の低い、少し出ツ齒で、小柄で、平凡そのもののやうな男です。
「淺川團七郎といふ浪人者が、時々お小夜のところへ來たさうだが、お前は氣が付かなかつたかい」
 平次の問ひは誰も豫期しないやうな種類のものでした。
「いえ、一向見たこともありません。――お小夜さんのところへ出入りする人間で私が氣が付かない筈はないんですが――」
「その通りですよ、この人は間がなすきがなお小夜さんの家ばかり覗いて居たんですから」
 店の奧から我慢のならぬちうを入れたのは、年上らしい女房のお秋でした。これは頑強で、眞つ黒で、牝牛めうしのやうな感じの女です。
「お前は默つて引つ込んで居ろ、――親分方の前ぢやないか、馬鹿ツ」
 皆次は精一杯亭主の威嚴ゐげんを示すのでした。
「その浪人者があの晩も顏を隱して、この路地へ入つて來たさうだが――」
「少しも氣が付きませんよ、親分さん」
「それぢや、あの晩、この路地を誰と誰が通つたんだ」
 と平次。
「地主の寅吉さんは通りました。それから下女のお米さんが表の湯へ行つて歸つて、――其處にいらつしやる兼松さんも、一寸覗いてそのまゝ歸つた樣子でしたが」
 それだけ見張つて居れば、女房のお秋が嫉妬やきもちを燒くのも無理のないことです。
「人一人殺されるといふのに、物音も何んにも聞かなかつたのか」
「お米さんが湯へ行くと間もなく、私の方も店を閉めてしまひました。目白のかね亥刻よつ(十時)を打つと、何時でもさうするのですが――」
「それぢやその後で下手人が來たのかも知れないな」
「そんな事かもわかりません」
「お前さんは外へ出なかつたかい」
「出やしません。女房や小僧にも訊いて下さい、――お小夜さんはあの通り綺麗だつたから、いろいろ罪を持つて居る樣子でしたが、私などには振り向いてもくれません」
 皆次は先を潜つて辯解をして居るのです。


 翌る朝、三つ股の源吉のところへ泊つて居る平次のところへ、一番先に駈け付けたのは、越後屋の兼松でした。
「錢形の親分さん、困つたことが起りました」
 米屋の主人の聰明な顏が、ひどく困惑こんわくして居ります。
「何んだえ、越後屋さん」
「庵室の鐵童さんが見えなくなりました」
「さうか」
 平次はひどく落着いて居ります。
「そいつが下手人で、危なくなつて風をくらつたんぢやあるまいね」
 三つ股の源吉は半分顏を洗つて飛出します。
「大丈夫だ、庵室から一と晩出なかつたといふのは本當だらう、鐵童は下手人ぢやない。第一そんなむごたらしい殺しやうをしたなら、返り血の始末だけでも大變だ。着のみ着のまゝの鐵童にはそんな暇はなかつた筈だ。それに――」
 平次は何にか外の事を考へて居る樣子です。
「ぢや、何處へ行つたんでせう」
 兼松はひどく氣をんでゐる樣子です。
「こいつは言はない方が宜いだらうと思つたが、――そんなに心配をするなら話してやらう。あの鐵童といふ人間は、自分の素姓が解りさうになつて逃げ出したんだ」
「素姓?」
「どうかしたら、庵主の鐵心道人が逃がしたかも知れない」
「それはどう言ふわけでせう、親分さん」
 兼松は縁側へにじり上つて居りました。平次の言葉には何にかしら容易ならぬものがあります。
「驚いちやいけないよ、――あの鐵童といふのは男ぢやない」
「えツ」
「世間體をはゞかつて男にして置いたんだらう。話の調子も、身體の樣子も、間違ひもなく男だが、昨日庵室の裏の井戸端で洗濯をして居るのを見ると、たらひの前にキチンと坐つて居る。男なら盥をまたいでやるところだ。不思議でたまらないから柄杓ひしやくか茶碗を貸してくれといふと、チヨコチヨコと刻み足に駈け出して、草履ざうりを内輪に脱いだ」
「――」
「聲も男にしては細いし、よく氣をつけて見ると、喉佛のどぼとけが見えない」
 平次の言葉は爭ふ餘地もありません。
「そんな事が――そんな馬鹿な事が――」
 兼松はゴクリと固唾かたづを呑みました。恐ろしい幻滅に直面して、暫くは分別をまとめ兼ねた樣子です。
「お前さんの信心にお節介をするわけぢやないが、斯んな事を隱して置く方が罪が深いだらう。あつしは唯の岡つ引だから、相手に遠慮はして居られない。まして、寺社の御係り外の、言はば潜りのお宗旨は、氣の毒だが一々庇つちや居られないよ」
「――」
「鐵心道人といふのは、なか/\の偉物えらものらしいが、女を男に仕立てて、庵室へ寢泊りさせるやうぢや、大した生佛樣でもあるまい。鐵童が逃げ出したのは、大方この平次に女と覺られたと感づいたためだらう」
 平次の言葉には、判官の烈しさと、人間らしい思ひやりとがありました。
「それぢや愈々以つて、あの鐵童が怪しいぢやないか。自分が女なら、お小夜のやうな凄い女が入つて解るのを、默つて見て居る氣にはなるまい」
 三つ股の源吉は、新しい論理を組み立てました。
「その通りだ。俺も鐵童が女と判つた時、餘つ程引つ立てようかと思つたが、お小夜を殺したのはどうも鐵童らしくない。宵のうちの人目をけて、坊主頭があの路地へもぐり込めさうもないからだ」
「頭巾を冠つて、淺川團七郎に化けるとしたら?」
 源吉の想像は素晴らしい飛躍ひやくを遂げました。
「俺もそれを考へて居る。庵室から出ないといふのは、鐵心道人の言葉だけだから、信用は出來ない。――兎に角、八五郎が歸つて來て、淺川團七郎の素姓と居所が判りさへすれば、目鼻が付くと思ふ」
 平次はそればかりを頼みにして居る樣子です。が、八五郎が歸つて來たのは、その日も暮れて、平次がもう諦めて神田へ引揚げようと言ふ時でした。


「親分、お小夜はありや人間ぢやねえ」
 ガラツ八は息を繼ぐいとまもなく、驚きをブチまけるのでした。
「何を聽き出したんだ、八」
「話しになりませんよ、親分。あの女は幾つ身上しんしやうをフイにして、幾人の人間を殺してゐるか判りやしません、――一番堅さうな男に喰ひ付いて、自分の思ふ通りになるまで、手をかへ品をへ搖すぶるんだ。身上も、生命も吸ひ取ると、蜘蛛くもの巣に引つ掛つたあぶのやうにされて、何んの未練もなく振り捨てられるんだ。恐ろしい女があつたものさ――鐵心道人だつてその餌の一人さ。あの女がもう二月三月生きて居ると、清水寺の清玄のやうにされて、首でもくゝるか、身でも投げるか、地獄へ眞つ逆樣に落ちるより外に道はなかつたんだ」
 佛説の羅刹鬼女らせつきじよ――そんなものをガラツ八は考へて居たのでした。
「そんな事は解つて居るよ。鐵心道人はもう半分地獄にちて居る。それより淺川團七郎の方は何うしたんだ」
「それですよ、親分」
「何がそれだ」
「下つ引五人に手傳はせて、一日一と晩江戸中を搜し、お小夜の行つた先々を當つて見たが、そんなケダモノは何處にも居ねえ」
「何んだと?」
「淺川にも、深川にもお小夜は見識けんしきが高いから、素浪人や貧乏者を相手にする女ぢやありません。三浦屋に勤めて居る頃から、音羽へ引つ込むまでの間に、お小夜と係り合つた男も少くないが、皆んな身分の者ばかりで、浪人者などは寄せつけもしませんよ」
「フーム」
「お小夜の氣ぢや大名のお部屋樣にでもなる心算つもりで居たんでせう」
「本當に淺川團七郎といふ浪人の事を聞かないのか」
「聞きませんよ」
「フーム」
「あんまり馬鹿々々しいから、歸りにちよいと音羽の家へ寄つて、あのお米とか言ふ下女に當つて見たが――」
「あれは田螺たにし見たいな女だ。どうしても口を開かねえ」
 平次もお米の剛情には驚いて居る樣子です。
「ところが、あつしには皆んな言つてしまひましたよ。半襟一と掛けにも及ばねえ、――淺川なんて浪人は來たこともないと言ふんで。へツ、驚くでせう、こいつは」
「何んだと」
「淺川といふ浪人の後ろ姿を見たことがあると言へ――とおどかされたんださうですよ」
「本當か」
「本當にも本當でないも、――今聽いて來たばかりの煙の出るところ、お米坊はあれでなか/\良い娘ですよ。親分、ことによつたら」
「馬鹿ツ、それどころぢやないぞ。もう一度行つて見よう。來いツ、八」
 平次は三つ股から音羽まで飛びました。續くガラツ八、源吉、四方はもうすつかり暮れて、彼方、此方には灯も入つて居ります。
 お小夜の家へ來て、一番先に飛込んだ平次。
「居ないツ」
 ひどく息がはずみます。
「井戸端かも知れませんよ、親分」
「うん」
 家の中を突き拔けて裏口へ出ると、井戸端に何やらうづくまるもの。
「あつ」
 飛んで行つた平次の手に抱き起されたのは、もう息の絶えたお米でした。細紐で後ろから締められて、聲も立てずに死んだのでせう。
 觸つて見ると體温が殘つて居りますが、もう呼びけても、さすつても、息を吹返す見込みはありません。
「親分、こいつは誰でせう」
「淺川團七郎だ」
「へエ――」
「少し氣が變になつたかも知れない、――何をやり出すか解らない。直ぐ行つて見よう」
「何處へ?」
 平次はもうそれに返事もしませんでした。夕闇の中へ飛出すと、眞つ直ぐに雜司ざふし庵室あんしつへ。
 ガラツ八と源吉が何が何やら解らぬなりにそれについて駈け出します。
 庵室の中は貧しい灯が入つて、鐵心道人は看經かんきんを了つたところでした。
「さア、道人、鐵童を何處へやつた、――言つて貰はうか」
「――」
 詰め寄る平次をジロリと見たつきり、道人は靜かに佛壇の前を離れました。恐ろしく尊大な態度です。
「あの女は何處へ行つた――まだ判らないか、鐵童と言ふ女を何處へ隱した」
「?」
「氣取つて居るひまはないぞ、お小夜を殺した下手人は、下女のお米を殺して、今度はあの鐵童を狙つて來た筈だ。半分氣の違つた人間だ、何をやり出すか判らない。さア言つて貰はう、鐵童を何處へやつた」
「――」
「――」
「えツ、言はないかツ、人の命は大事だ。山師坊主に氣取られて、俺はひまを潰して居られないぞ。三つ股の兄哥、この道人を引つくゝつてくれ。寺社のお係りへ渡して、いわしくはへさして四つん這ひに這はしてやる」
 平次は相手がしぶいと見たか、何時にない十手を取出して振り冠つたのです。
「――」
 鐵心道人はもう一度ジロリと見上げると、さすがに力及ばなかつたものか、無精らしく立ち上つて裏の雨戸を引開けました。
「あツ」
 驚いたことに、眉を燒くやうなほのほ
「た、大變ツ」
 庵室の後ろの納屋なやの入口から、車輪のやうな煙がふき出して、その間からクワツと焔が舌を出して居るのです。
「八、後ろへ廻つて窓をブチこはせ。中に人間が二人居るぞツ、危いから氣をつけろ」
「よしツ」
「三つ股の親分は、その道人を頼むツ」
 平次は言ひ捨てて、お勝手から手桶の水を一杯、半分は有合せのむしろにかけて引つかぶり、半分は納屋の中にブチまけて、パツと飛込みました。
        ×      ×      ×
 納屋の中に居たのは、越後屋の兼松と弟子の鐵童。鐵童は首を絞められて、息も絶え/″\でしたが、手當が早かつたので助かり、兼松はガラツ八の糞力くそぢからで窓からかつぎ掛されると、燒け落ちる納屋を眺めてゲラゲラと笑つて居ります。
 可哀想に氣が違つてしまつたのでした。
 火事が濟んで氣が付くと、鐵心道人は三つ股の源吉の手から逃れてそれつきり姿を隱しました。
 庵室と納屋の燒跡を見ると、物慾に恬淡てんたんだと思はせた鐵心道人が、何百兩といふ黄金を溜込んで居たことが發見されたのです。
 何も彼も濟んでから、
あつしには少しも解らねえ。あれは一體どうした事でせう、親分」
 ガラツ八は例ものやうな繪解きをせがみます。
「氣の毒なことに兼松は鐵心道人を活き佛のやうに思つて居たのさ。かなりの身上しんしやうも入れあげ、出來るだけの事をしたが、お小夜が弟子になつて庵室へ入り込むと聽いて氣が氣ぢやなかつた」
「――」
「兼松はお小夜の前身をよく知つて居たんだらう。上野の役僧を一人臺なしにした事も、大旗本をつぶした事も、役者が首をくゝつたことも、――お小夜が道人の傍へ來ると、いかに道徳竪固の道人でも、萬一の事がないとは言へない。道人はあの通り若くて、一寸良い男だ、――兼松にしては、こんなに身も心も打込んで、身上まで入れ揚げた活き佛が、唯の人間になつてしまつてはやりきれなかつたらう。危ないものは遠くへやるに限る、道人を活き佛のまゝにして、心のまゝに信心するには羅刹女らせつじよのやうな女を側へやつちやいけない――多分う思ひ詰めて、お小夜を殺す氣になつたのだらう。變な信心にり固まつて、少し氣が變になりかけた兼松は、それが惡事とは思はなかつた。それどころか佛敵をほろぼすのは、功徳の一つだと思ひ込んだに違ひない」
 平次の繪解きは少しの無理もなく發展しました。
「――へエ――」
「ところで、兼松ほど夢中になつた人間でも、お小夜のやうな阿婆摺あばずれ女の命と、自分の命と取り換へちや叶はないとおもつたんだらう。佛敵は亡ぼし度いが、自分が縛られ度くない。そこで思ひ付いたのは、この世にない下手人をこさへることだ。淺川團七郎などといふ浪人は、最初からこの世にない人間さ。兼松はそれを拵へて、疑ひを皆んな淺川團七郎に向けてしまつた。うまい細工だが、自分だけが淺川團七郎を知つて居ると言つちやまづいから、田舍からポツと出のお米をだまして、矢張り淺川團七郎を見たと言はせた、――それが拙かつた」
「それを、お米がベラベラと喋舌しやべつてしまひさうになつたんで驚いたといふわけだね」
「その通りだよ。お前がお米を口説くどき落したと聽いたときは、兼松はまだお米を殺す氣にならなかつたかも知れないが、鐵童が女で、鐵心道人は飛んだ食はせ者だと聞くと、フラフラと變な心持になつた」
「成程ね」
「兼松は自棄やけになつた、――その上あんまり落膽らくたんして、氣が少し變になつたんだらう。お米を殺すと鐵童もそのまゝにしては置けない心持になつたに違ひない。到頭あんな騷ぎになつてしまつたのだよ、納屋へ火をつけたのも兼松だ」
「可哀想だね、親分」
「イヤな捕物さ。でも、一番無慾な顏をする奴は一番大慾で、一番取濟ました奴が一番臭いことだけは確かだよ」
「お小夜は」
外面如菩薩げめんによぼさつだ。金持、親分、旗本と手玉に取つて、自分の縹緻きりやうと才智で、活き佛さまを地獄に引きり込まうとした女だ。あんな女は石の地藏さままでモノにする氣になるだらうよ」
 二人はそんな事を言ひ乍ら、江戸川べりを歩いて居りました。
 木枯こがらしの吹く寒い日の夕方です。





底本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社
   1954(昭和29)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1939(昭和14)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「(『玉の輿ののろひ』参照)」は、「(『玉の輿ののろひ』第十二卷参照)」となっています。「第十二卷」は底本のシリーズによるため削除しました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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