錢形平次捕物控

巨盜還る

野村胡堂





「親分の前だが、此頃のやうに暇ぢややりきれないね、ア、ア、ア、ア」
 ガラツ八の八五郎は思はず大きな欠伸あくびをしましたが、親分の平次が睨んでゐるのを見ると、あわてて欠伸あくびの尻尾に節をつけたものです。
「馬鹿野郎、欠伸に節をつけたつて、三味線には乘らないよ」
「三味線には乘らないが、その代り法螺ほらの貝に乘る」
あきれた野郎だ、山伏の祈祷きたうめりやすと間違えてやがる」
 平次は大きな舌打をしましたが、小言ほど顏が苦りきつては居りません。
「全く退屈ぢやありませんか、ね親分。こんな古渡こわたりの退屈を喰つちや、御用聞は腕がにぶるばかりだ。なんか斯う胸へドキンと來るやうな事はないものでせうか」
「御用聞が暇で困るのは、世の中が無事な證據さ。それほど退屈なら、跣足はだしで庭へ降りて、水でも汲むが宜い、土が冷えて居て飛んだ佳い心持だぜ」
 錢形平次は相變らず、世話甲斐のない、植木の世話に餘念もなかつたのです。――秋の陽は向うの屋根に落ちかけて、赤蜻蛉あかとんぼが僅ばかり見える空を、スイスイと飛び交はす時分、女房のお靜はもう晩飯の仕度に取りかかつた樣子で、姐さん冠りにした白い手拭が、お勝手から井戸端の間を、心せわしく往復してゐる樣子です。
「折角のお言葉だが、あつしが世話をすると、植木が皆んな枯れつちまひますよ」
 ガラツ八は良心にはぢる樣子もなく、續け樣にお先煙草をくゆらして、貧乞搖ぎをする風もありません。
「宜い心掛けだ。――その氣だから段々縁遠くなる」
「へツ、――縁遠くなる――と來たね。驚いたね、どうも」
 八五郎はニヤリニヤリとあごを撫でて居ります。
先刻さつきから、退屈を賣物にしてゐるやうだが、一體何にか言ひ度い事でもあるのかい。物に遠慮のある性質たちでもあるめえ。用事があるなら、さつさと言つてしまつたらどうだ」
「えらいツ、流石は錢形の親分。天地見通しだ」
「馬鹿だなア」
「ね、親分、聞いたでせう。麹町六丁目の娘殺し」
「聽いたよ。櫻屋の評判娘が昨夜ゆふべ人手に掛つて死んだつてね。――今朝八丁堀の組屋敷へ行くとその噂で持ちきりだ」
むごたらしい殺しでしたよ。どんな怨みがあるか知らないが、十九になつたばかりの小町娘――上新粉じやうしんこで拵へて色を差したやうな娘を、なたまさかりで殺して宜いものか惡いものか――」
「待ちなよ八。口惜しがるのはお前の勝手だが、煙管の雁首がんくび萬年青おもとの鉢を引つ叩かれちや、萬年青も煙管も臺なしだ」
「だつて口惜しいぢやありませんか、親分。若くて綺麗な娘は、天からの授かりものだ。それを腐つた西瓜すゐかのやうに叩き割られちや――」
「解つたよ八。殺した野郎が重々惡いに異存はないが、俺を引つ張り出さうたつて、そいつはいけねえよ。あの邊は十三丁目の重三の繩張りだ、勝手に飛び込んで掻き廻しちや惡い」
 平次は大きく手を振りました。さうでなくてさへ、この二三年江戸の捕物は錢形平次一人手柄で、宜い加減御用聞仲間の嫉視そねみを買ひ、面と向つてイヤな事を言ふ者さへあつたのです。
「そんな事を言つたつて親分。十三丁目の重三親分ぢや、コネ廻してゐるだけで、何時まで經つても目鼻がつきませんよ」
「默らないか八。さう言ふ手前だつて、あんまり目鼻のついたためしはあるめえ」
「へエ――」
「若い娘が殺されると、眼の色を變へて飛び出しやがる。少しはたしなむが宜い」
 平次はツイ小言になりました。が、幾つも年の違はない八五郎に、意見めかしい事を言ふのは、自分乍ら可笑おかしくてたまらなかつたのでせう。
「まア、さう言つたものさ。ハツハツハツ」
 腰を伸してカラカラと笑ふのです。
 その時、
「お前さん、お手紙が來ましたよ」
 お靜は姐さんかぶりの手拭をつて、濡れた手を拭き/\一本の手紙を持つて來ました。
 默つて受取つて、ザツと目を通した平次、
「持つて來た人は?」
 調子がひどく緊張きんちやうして居ります。
「お返事は要らないさうです――つて歸つてしまひました」
「どんな樣子をして居た」
「子供ですよ、十二三の」
「八」
 平次が聲を掛ける迄もありません。八五郎はもうハネ飛ばされたやうに路地へ飛び出して居りました。
 それからほんの煙草二三服。
「あ、驚いた」
 八五郎はがつかりした樣子で歸つて來たのです。
「首尾よく取逃したらう」
 と平次。
「逃しやしませんが、手紙の作者は小僧ぢやありませんぜ」
「當り前だ、手紙を書いたのはお狩場かりばの四郎といふ、日本一と言はれた大泥棒だ」
「えツ、さうと知つてゐたら、もう少し責めやうがあつたのに、――そのお狩場の四郎が、親分へどんな事を言つて來たんで?」
 ガラツ八の八五郎は少しあわてました。二三年前江戸で鳴らしたお狩場の四郎。それは、一度錢形平次に擧げられて、處刑しおきにあがるばかりになつたのを、繩拔けをして、それつきり行方不知になつてゐる、名代の惡者だつたのです。
「お前の話を聽いてゐるんぢやないか。それから小僧はどうした」
「路地の外でマゴマゴして居るのを捕まへて、二つ三つ小突き廻すと、わけもなく白状しましたよ――何處かの知らない小父さんに、四文錢を三枚貰つて、錢形の親分のところへ手紙を屆けたが、あとは何んにも知らねえ、ワ――」
「何んだいそのワ――てえのは?」
「いきなり泣き出した聲色こわいろで」
「合の手が多過ぎるよ。それから何うした」
「手紙を頼んだ野郎の人相身扮みなりを訊いたが、まるつきり見當が付かねえ――年は二十から六十の間、確かに眼が二つあつて、口が一つあつて、着物を着て居たに違えねえ――といふだけの事だ」
「仕樣がねえなア、それつきり小僧を逃してやつたのか」
「大丈夫、其邊に拔け目のある八五郎ぢやねえ。ちやんと糸目をつけて飛ばしてありますよ。小僧は町内の鑄掛屋いかけやの伜巳之松みのまつ、取つて十三だが、智慧の方は六つか七つだ」
「さう解つたら、何んだつてつれて來なかつたんだ」
 平次はしかしそれ以上追及する樣子もなく、小僧が持つて來た手紙にもう一度見入つて居ります。


「どんな事が書いてあるんで? 親分」
 ガラツ八はうさんな鼻を覗かせました。
「讀んで見るが宜い」
「四角な字は苦手だ、ちよいと讀んでおくんなさい」
 ガラツ八は大きな手を振ります。
うだよ。
――三年前、少しばかりの油斷から、其方そのはうの繩に掛つたが、鈴ヶ森の處刑場しおきばに引出されるといふ間際になつて、仲間のものの助勢で、首尾よく繩拔けをし、上方かみがたへ行つて暫らく時節を待つた。しかし天下の大盜と言はれたお狩場の四郎は此儘老朽おいくちる氣は毛頭ない。生きてゐるうちに、恩は恩、あだは讐で返し、惡事の帳尻を合せて置かなければ閻魔ゑんまの廳へ行つて申譯が相立たない。恩といふのは、この四郎を助けてくれた仲間だけだが、讐の方は三人や五人ではない。そのうちでも忘れ難いのは、先づ第一番に、この四郎の隱れ家を訴人して縛らせた上、女房のお冬を役人の手に渡し、自分は贓品買ぞうひんかひの大罪を許して貰つて、ぬく/\と榮耀えいえうを續けてゐる、麹町六丁目の櫻屋六兵衞一家。第二番目には、このお狩場の四郎を追つた、其方錢形平次だ。その他にも怨んでゐるのは三人や五人はあるが、それもいづれ追つて思ひ知らせてやる。ところで昨夜は手始めに六丁目の櫻屋六兵衞に押入り、六兵衞が掌中しやうちうの珠と可愛がつてゐる一人娘のお美代を殺害して來た。錢形平次の賣り込んだ名前にうそがなかつたら、もう一度このお狩場の四郎を縛つて見るが宜い。愚圖々々するに於ては、怨み重なる平次をこのお狩場の四郎がぎやくに縛るかも知れない、何んと驚いたか。
――斯う書いてあるよ」
「そいつは親分」
 ガラツ八はゴクリと固唾かたづを呑みました。
「どうだ、お狩場の四郎の言ひ草ぢやねえが、何んと驚いたか――と言ひえくらゐのものだ」
 平次は少し面白さうです。
「あの野郎はまだ生きてゐたんですね。――擧げる時は、隨分骨を折らせたが」
 三年前の大捕物で、ガラツ八は少しばかり怪我をしたことを思ひ出したのでした。
「繩拔けをして、何處かへ飛んだきり、死んだといふ噂を聽かないから、まだ生きて居たんだらう。あれくらゐの惡黨になると、頭をつぶしても死にきらないよ――いや、死んでもたゝるかも知れない」
まむしと間違へちやいけません」
※(「虫+蜀」、第4水準2-87-92)いもむしのやうな惡黨だつたよ。生きてゐたら四十五六かな、まだ大した年ぢやない筈だが、手紙の書きつ振りは巫山戯ふざけてゐるくせに愚痴ぐちつぽいところがある。――それにしても、柔か味のある良い筆蹟だな。泥棒などをするより、手習師匠にでもなると宜いのに」
「泥棒の手紙を見て感心してゐちやいけません。櫻屋の娘を殺したのが、お狩場の四郎と解つたら親分もぢつとしちや居ないでせうね」
「よし、出かけよう。この手紙を見せたら、十三丁目の重三もいやな顏はしないだらう」
「さう來なくちや面白くねえ」
 八五郎は武者顫ひのやうなものを感じました。強敵きやうてきお狩場の四郎に又逢へる期待が、何にかしらかう五體のしゝむらをうづかせるのです。
 神田から麹町六丁目へ、決して近い道ではありませんが、物をも言はずに駈け付けたのは、その日ももう暮れかける頃、薄寒い夕風が街々を吹き拔いて、晩秋の大きな月が、かわらの上から、淋しい人通りを覗いてゐる時分でした。
「あ、錢形の」
 大きな兩替屋の暖簾のれんを分けて、ヌツと街に出た、十三丁目の重三の顏が、退つ引ならず、アタフタと駈け付けた、錢形平次のそれとピタリと會つたのです。
「十三丁目の親分、――大變なことになつたよ。これを見てくれ」
 平次の出した手紙、重三は受取つてお月樣と夕映ゆふばへと半々にすかして、ざつと目を通しました。
「――」
「心當りはあるかい、十三丁目の」
「さア判らねえ、お狩場の四郎が江戸へ入つて來たとすると、こいつは最初はなつからやり直しだ」
「すると、目星が付いてゐるんだね」
「證據があり過ぎるよ。下つ引に見張らせてゐるが、繩を打つばかりになつて居る」
「誰だい、下手人ほしは?」
「番頭の兼松さ。殺された娘のお美代と内々約束があつたらしいが、近頃谷五郎といふ親類の若い男が入つて來て、それが聟になる話が進んでゐるんだ。よくある筋さ」
 重三は本當に忌々いま/\しさうでした。したゝかな四十男で押にも力にも不足のないのが、斯うと見込んで下手人を擧げそびれてゐたばかりに、錢形の平次が飛んでもないでんぐり返しの種を持込んで來たのです。
「俺まで引合に出されちや放つても置けない。一と通り見て置き度いが――」
「宜いともお狩場の四郎が身をやつして入り込んでゐるかも判らないよ。念入りに搜してくれ」
 重三は少しばかり厭がらせをまじへて、平次に場所を讓りました。


 櫻屋の店の中は、不安と疑惧ぎぐと、慟哭どうこくと懊惱とが渦を卷いて居りました。山の手指折の物持で、新店乍ら、質兩替を手廣くやつて居りますが、たつた一人娘の、何んとか小町と言はれた、十八になるお美代が殺されては、氣丈な主人六兵衞も半病人同樣です。
 母親に早く別れたお美代は、少しばかり我儘で蓮葉はすつぱで、そして嘘つきでもありましたが、綺麗に生れついたのが何も彼もつぐなつて、町中の若い男の人氣を背負つて居たのです。
「朝起きると、縁側の戸が一枚外れて、娘は床の中で死んで居りました。死骸の側には物置から持出したなたが投り出してあつて、疊の上は泥だらけ――」
 主人六兵衞はさう言つて、言葉を呑みます。喉佛をヒクヒクと鳴らして、深刻しんこく嗚咽をえつがこみ上げて來たのでした。
「娘を怨んでゐる者でもあつたのかい」
「あつたかも知れません。親の口から申上げるのも變ですが、人並優れたきりやうに生れ付いた娘ですから、――若い娘は、誰の眼にも美しく見せようと心掛け、誰にも一と通りの愛嬌は振り撒きます。それが命取りの種にならうとは思つても見なかつたでせう」
「――」
「錢形の親分さん、この敵を討つて下さい。私にはたつた一人の娘、あれに死なれては、これから先一日も生きて行くせいもございません」
 六兵衞は聲もなく泣くのです。六十そこ/\でせう。したゝか過ぎるほど強かな感じのする商人ですが、一人娘を喪つた悲歎は、しやうも他愛もなく身に沁みるのでせう。
「お前さんは、お狩場の四郎といふ惡黨のことを知つてるだらうな」
「へエ――」
 平次の唐突たうとつな問ひはかなり六兵衞を驚かした樣子です。
「そのお狩場の四郎が、どうして居るか聽いたことがあるかい」
「三年前、御處刑になるばかりのところを繩拔けをして行方不知しれずになつたとは聽いて居りますが」
「それから」
「その先は何んにも知りません」
「そのお狩場の四郎が、お前さん一家をうんと怨んでゐるやうな事はないだらうか」
 平次は大事な質問までぎつけました。
「そんな事があるかも知れませんが、それは飛んだ筋違ひでございます。散々惡いことをした者が上役人に縛られて、處刑に上るは當り前のことで、隱れ家を知つて居た私が、お役人に責められて包み兼ねて申上げたのは、言はば御奉公の一つでございます。お狩場の四郎などに怨まれる筋合はございません。もしお狩場の四郎がそんな事を根に持つて、娘を殺すやうな事があつたら――」
 六兵衞は何處ともなく睨み据ゑるのです。娘を殺したのがお狩場の四郎だつたら、飛びかかつて、噛み殺しもし兼ねまじき、動物的な本能の怒りが、この老人を一しゆん此上もない猛々たけ/″\しいものに見せるのです。
 平次は六兵衞の當てのない忿怒を見捨て、ガラツ八と一緒に奧へ通りました。番頭手代、奉公人達が彼方此方の隅から不安な眼を光らせますが、平次の身分を知つてゐるのか知らないのか、進んで案内をしようと言ふものもありません。
 娘の死骸は、檢屍が濟んで、くわんの中に納めてありますが、一度覗いて、平次もゾツと身體を顫はせました。鈍器どんきで頭を打ち割られた美女の死體は、此上もなく、平次の感じ易い心持を暗くしたのです。
「女や子供ぢやあるまいな、八」
「達者で横着で、腹の底からねぢ曲つた野郎の仕業ですよ」
 八五郎と平次は顏を見合せました。
 兇器のなたは重三の子分が保管してありましたが、物置から持出したといふ以外には何んの特徴もありません。少し新しい刄こぼれのあるのも凄まじく、柄にひどく血の付いて居るところを見ると、下手人はさぞ猛烈な返り血を浴びたらうと思ふだけのことです。
 疊の上に泥のあつたのや、雨戸を一枚外してあつたのは、外から曲者が入つた證據のやうでもあり、内に曲者が居て、わざとそんな細工をしたやうでもあります。
「下手人は矢張り外から入つたのでせうか」
 その邊の微妙びめうな關係は、八五郎には解りさうもありません。
「外から入つた者なら、こんな乾いた庭を歩いて來るんだもの、わざ/\泥なんか疊に塗るにも及ぶまいよ」
「へエ――」
「それに、他の家の物置からなたを搜し出すなんてことは、眞つ暗な中ぢや容易に出來ることぢやないよ。そんな事をするよりもつと手輕な道具があるだらう」
「すると?」
「早合點しちやいけない。だから曲者は家の中に居ると言ふわけぢやないよ。裏には裏があるだらう」


 丁度一と通り見てしまつたところへ、主人の六兵衞が來ました。
「親分さん、矢張り下手人は兼松かねまつの野郎でせうか」
 さうと極つたら、繩を打たれるのを待つ迄もなく、掴みかかりも兼ねなかつたでせう。
「待つた、さう早合點をしちやいけない。あつしが順序を立てて、一つ/\訊いて見るが、それに正直な返事をしてくれまいか、下手人はきつと縛つてやるが」
「それはもう親分さん」
 六兵衞の赤銅色の顏は、憎惡と歡喜にパツと明るくなります。
「まづ、一人娘が死んで、この櫻屋の身上しんしやうが誰のものになるだらう」
 平次の問ひは常識的で平凡でした。
「誰にもやることぢやございません。娘が生きて居れば、聟にする筈だつた谷五郎が、この身上しんしやうを相續することになつたでせうが、娘が死んでしまへば遠い身寄と言つたところで、他人のやうな谷五郎です。それに身上を繼がせる氣なんかございません」
「すると?」
「皆んな私が費つてしまひます。酒や女にバラくにしては、私は年を取過ぎました。お寺方へ寄附をするとか、西國巡禮に出るとか、費ひみちはいくらでもあります」
 六兵衞の捨鉢な氣持のうちには、妙に平次を憂鬱いううつにさせる調子があります。
「ところで、娘を殺したのは、――親のお前さんの心持では、誰だと思ひなさるんだ」
「――」
 六兵衞は深々とうな垂れました。
「親には、きつと、それくらゐのことが判ると思ふ。とりわけ、天にも地にもへられないたつた一人の娘を殺した相手だもの」
「親分さん。――血だらけなあはせを井戸端で洗つて、ざつと血を流した心算つもりたらひに漬けて置いた兼松を憎んだものでせうか、――二三日前なたを物置へしまつたのも兼松ですが」
「そいつを誰が見て居たんだ」
「小僧達は皆んな知つて居ますよ」
「それから」
「娘の手箱の中には、谷五郎と祝言するなと書いた兼松の手紙が十三本も入つて居ました」
「――」
「まだあります。泥だらけな兼松の雪駄せつたは、娘の部屋の縁の下に突つ込んでありました。雪駄をいて出て、物置からなたを取出し、わざと曲者が外から入つたやうに、縁側の雨戸を一枚こじあけて入り、雪駄を縁の下に突つ込んで娘を殺した上、其儘自分の部屋へ歸つて寢たのでせう」
「――」
「娘の部屋から奉公人達の部屋の方へ行く途中の暖簾のれんに、少しばかり血がついて居りました」
「返り血を浴びた袷は、それからまた外へ出直して洗つたといふのだね」
「十三丁目の親分さんはさう言ひました。だが――」
 六兵衞の本能には、何んとなく兼松を疑ひきれないものがあります。先刻平次から聽かされた、お狩場の四郎の執念しふねんが大きくクローズアツプされて、のしかかつて來るやうな氣がするせゐでせう。
「兼松は奉公に來てから何年になるんだ」
「子飼ひでございます。先代の櫻屋の暖簾のれんを買つて、私がこの商賣を始めてからもう十二年になりますが、その頃から店に居ります」
「人柄は?」
「怒りつぽいところがありますが、正直者で」
「谷五郎は?」
「私の遠縁になります。兼松より三つ年上で、去年の春田舍から呼寄せました。氣風は、素直な、まことに良い男です」
 谷五郎を娘の聟に選んだ六兵衞の氣持はよく解ります。
「他にはどんな奉公人が居るんだ」
「小僧が二人、どつちも十四で、これは勘定になりません。文太郎に定吉と申します」
「それから?」
「下女が二人、一人は房州の者でお照、十九になります。一人は相模者さがみものでお北、これは三十で、皆んな親元の判つたものばかりでございます」
 奉公人はそれつきり、この中に四十男のお狩場かりばの四郎が姿を變へて潜んで居やうとは思はれません。
 でも平次は一人/\逢つて見ました。兼松は一寸良い男ですが、かんの強さうな、カツとしたら隨分無法なことをし兼ねない人間に見えますが、昨夜ゆふべは夢も見ずに寢てしまつて何んにも知らない――の一點張りです。
「お孃さんと私と固い約束がありました。谷五郎さんが聟になる話はあつても、お孃さんが頭を振り通せば、どうにもならないぢやありませんか」
 少し血走つた眼を擧げて、そんな事をくり返しくり返し主張するのです。
「井戸端のたらひの中に、血の附いた袷が入つて居るが、あれはどうしたわけだ」
「それが不思議なんです。――ひどく汚れたから、暇なときお北さんにでも洗つて貰ふつもりで、部屋の隅に押しつくねて置いた袷が、今朝見ると盥の中に入つてゐたんです」
 兼松は惡びれた色もありません。これが下手人でなかつたら、珍らしい正直者でせう。平次は何やら深々と考へて居ります。


「親分、氣が付きましたか」
「何んだい、八」
「あの娘」
「若くて綺麗な娘には、恐しく眼が早いんだね、――あれはお照とか言ふのだらう。呼んで見な」
 ガラツ八は飛んで待つて、お勝手から若い娘を一人つれて來ました。精々十八九、身扮みなりはひどく粗末ですが、とほるやうな感じのする美しさです。
「お前は、お照とか言ふんだね」
「え」
 お照は平次の前へ崩折くづをれました、華奢で品の良い娘ですが、前掛を外して濡れた手を拭くと――その手だけが、顏にも身輕にも似ず、痛々しく水仕事に荒れて、妙に八五郎の感傷をそゝります。
「房州とか言つたな」
「え」
「親は房州に居るのか」
「いえ、江戸に出て居ります」
「何處だ。――何んと言ふ」
「向柳原の彦兵衞だなで、背負商せおひあきなひの小間物屋をして見る宇太八うたはちといふのが私の父親で」
 答へのハツキリして居るのが、八五郎の好感を倍にしました。第一その聲の美しさ。
「何時から奉公して居るんだ」
「この春から」
「死んだお孃さんはどんな人だつた」
「良い方でした」
 調子の冷たさ、恐らく蓮葉はすつぱで罪のない嘘くらゐは平氣でついた美しい主人に對して、死者に對する好意以上のものは持つて居なかつたでせう。
先刻さつきから見て居ると、よく主人の世話をして居るやうだが」
 蔭になり日向になり、深い悲しみに打ちひしがれる主人六兵衞の世話を燒いてゐるのは、店中でこの娘たつた一人だつたことは、平次が早くも見て居たのです。
「でも、お氣の毒で――」
「昨夜何にか氣の付いた事はなかつたかい」
曉方あけがた近く、物音を聽いたやうに思ひます。でも、すぐ眠つてしまひました」
 若くて健康な娘達は、それが本當なのでせう。
 お照をお勝手に歸すと、その次に谷五郎を搜し出しました。
「親分さん、御苦勞樣で」
 二十七八の、如何にもをだやかな感じの男です。
「困つたことだね、主人は身上しんしやうを誰に讓る樂しみもないから、お寺方へでも寄附して了ふと言つてるぜ」
 平次はズバリと言つて退けました。素晴しいテストです。
「今朝から私も五六邊それをきかされました。なまじつか、お美代さんと祝言の話があつただけにそんな事をきかされると變な心持になります。櫻屋の身上しんしやうに未練のない證據を見せたら、主人も氣が落着くでせうから、私は今晩中に八王子在の田舍へ歸ることにしました。――この通り」
 谷五郎は淋しく笑つて、荷造りした小さい荷物などを見せるのでした。
「それは困る。下手人の擧るまでは此處に居て貰はなきや困る」
 と平次。
「その下手人は、何んとか言ふ泥棒ださうぢやございませんか、親分さん」
「兼松ぢやないと言ふのか」
 平次は谷五郎の言葉の裏に探りを入れました。
「兼松どんは江戸一番の正直者です。人なんか殺せる男ぢやございません」
「すると、お狩場かりばの四郎が忍び込んで、兼松の着物を着てお美代を殺し、その着物を井戸端のたらひに漬けて行つたことになるが――」
「そんな事もあるでせう。血の附いた着物を着て、江戸の町は歩けません。お照さんの部屋で物音のしたのは、申刻なゝつ(四時)少し過ぎだつたさうですから、もう外は明るくなりかけて居た筈です」
「成程な」
 平次は何にかしら言ひまくられたやうな形です。この柔和さうに見える男が、何んといふ結構な智慧を持つてゐることでせう。
 それから下女のお北に逢つて見ました。在所は神奈川、年は三十、出戻りで不縹緻で、御飯をくより外には、あまり能はありません。
 主人が立會つて、奉公人達の荷物を調べ、店の帳面から、在金まで勘定すると、正直者と思はれた兼松が、十二三兩の費ひ込みがあり、金に困つて居さうな谷五郎には、何んの非曲ひきよくもなかつたのも不思議です。
「フーム」
 この事實は、主人の六兵衞をうならせました。谷五郎に櫻屋の身上を讓つても宜いやうな心持になつたのでせう。
 もう一つの不思議は、下女のお照が、思ひの外の大金を持つてゐることと、女子供には讀めさうもない、むづかしい物の本を持つてゐることでした。
「これを讀むのか」
「まア――そんなむづかしいものが、私に讀めるわけはありません。皆んなくなつた母親の形見です。母親は館山たてやまの殿樣の御殿に上つて、長い間御奉公したことがあるんですもの」
 お照は美しい顏を赤らめて辯解します。
 奉公人に一人々々字を書かせて見ましたが、商人だけに、兼松も谷五郎もかなりの能筆、お照も美しい假名文字を書きますが、お北は一文不通で、いろはのいの字も書けません。しかしこれだけの中にお狩場の四郎の名前で、平次へくれた不思議な手紙の筆蹟に似たのもありません。
「八、お前氣の毒だが、奉公人の身許を殘らず洗つてくれ。房州と神奈川へは、下つ引きを出すんだ。宜いか、大急ぎだぞ」
 平次は最後の手段を、奉公人達の身許にきかうとしたのです。
「それぢや親分」
 ガラツ八は早速飛び出しました。が、それと一緒に、もう一人の人間が街の闇に飛び出したことに、平次は氣付かないわけはありません。それは反感と好奇心とで一杯になつた十三丁目の重三が、遠くの方から平次の調べをちく一見て取つた上、一と足先に奉公人達の身許調べに飛んで行つたのです。
 後に殘つた平次は、もう一度奉公人の動きを調べました。
 お美代が殺された前日、谷五郎は飯田町の得意先まで行つてかなり遲く歸つて居ります。お美代の死骸の見付けられた後では、――今日の午頃ひるごろ、お照が何んの用事ともなく二た刻ほど家をあけました。
 それつきりのことから、平次は何やら重大な暗示を受けた樣子です。
 その晩、番頭の兼松が擧げられて行きました。兼松の疑ひは大方平次が解いてやつた心算つもりですが、十三丁目の重三は、何にか外に重大な見込みが立つたので、こんなキメ手を打つたのかもわかりません。
 平次は、なにかしらたされない心持で歸つて行きました。


 それから五日目、
「親分、驚いたの驚かねえの」
 久しく姿を見せなかつたガラツ八が、旋風せんぷうを起して飛び込んで來ました。
「相變らず、そゝつかしいぜ、八。下駄をいて飛び込まないのが見付けものだ。猫と煙草盆を蹴飛ばして、柱へ鉢合せしてグルリと一と廻りしてバアなんざ結構な圖ぢやないぜ」
「小言は後にして、お土産みやげが大變なんだ、親分。先づ心を落着けて聽いて下さいよ」
「大層な觸れ込みぢやないか、下座げざの合方が欲しいくらゐのものだ」
「茶にしちやいけません。五日四晩、江戸から、房州、神奈川まで、下つ引と三人、夜の目も寢ずにさがした揚句――」
「櫻屋の下女のお照が、お狩場かりば四郎の娘と判つたらう」
 平次の素破拔すつぱぬきは、無造作で無技巧で、何んの氣取りもありませんが、それを聽いたガラツ八の驚きは大變でした。
「あツ、どうしてそれを、親分」
 ヘタヘタと坐り込んで、頸筋くびすぢの汗をやけに拭いて居ります。
「八だよ、八」
「じよ、冗談でせう。八卦や禁呪まじなひでそんな事が手輕に判るわけはねえ」
「ハツハツハツ、物を理詰めに考へただけの事さ。五日四晩お前が駈けり廻る間、俺はぢつとして自分のへそと相談をした」
「へエ――」
「宜いかい、八、――お狩場の四郎とも言はれる大泥棒が、人へ物を頼むのに、相手が鑄掛屋いかけやの小僧だにしても、四文錢三枚といふ法はあるまい。――外ならぬ錢形の平次へ果し状を附けるんだ、二分や一兩とはずまない迄も、二朱や一分はきつと出す」
「成程ね」
「それにあの手紙の文句は、少し巫山戯ふざけ過ぎて居たよ。人一人殺した人間の書いた文句ぢやねえ。その上妙に愚痴ぐちつぽいところがある。文句は年寄がこしれへて、書いたのは女だ」
「へエ――ツ」
「若くて字のうまい女が、手筋を變へて書いたのだ」
「――」
「櫻屋へ行つて、お照を見たとき、俺はハツと思つた。お前や六兵衞は氣が付かないかも知れないが、あの耳の形と目をつぶつて聽く聲の調子が、お狩場の四郎そつくりだ。顏が似てゐないから誰も氣が付かなかつたが、耳や齒並や、指の恰好、聲の調子などは、よく親に似るものだ」
「――」
「その上、下女に似合はぬ大金を持つて居るし、むづかしい書物を持つてゐる。母親の形見だと言つて誤魔化ごまかしたが、あの娘は決して唯の娘ぢやない。――俺はお狩場かりばの四郎の娘と睨んだが、こいつは萬に一つも間違ひはないだらう。親の四郎は、病氣で動けないか、死ぬかしたんだらう。そこで、親のうらみを晴らす氣で、櫻屋へ入り込んだに違ひあるまい。櫻屋が片付けば、その次はこの平次が狙はれる」
 平次の推理は寸分の隙もありません。
「恐れ入つた。正にその通り、少しの間違ひもない。あの娘はお狩場の四郎の一人娘、小さい時から房州へ里子にやられて、女一と通りの道を仕込まれた。宇太八といふのは、その里親で、四郎の昔の子分だ」
 ガラツ八は五日四晩の調べを語りました。
「そんな事だらう。――それから」
「お狩場の四郎が上方かみがたへ逃げたと言ひ觸らして、實は房州の山の中へ逃げ込み、それから間もなく病氣になつて、去年の秋死んでしまつた。死ぬ迄介抱した子分の宇太八と娘のお照が、三年越しお狩場の四郎のうらみを言ひ含められ、四郎が死ぬと、江戸へ出て來て、柳原の借家に入り、宇太八は世を忍ぶために小間物屋を始め、お照はその娘といふことにして、金づくで傳手をこさへ、この春櫻屋に住み込んだ」
「それで皆んな解つた」
あつしが五日四晩飛び廻つたのは、無駄だつた事になるね、親分」
「いや、さうぢやねえ。俺がくうに考へて居たんぢや、本當か嘘か見當が付かねえ。房州まで行つて本當のところを突き止めて歸つたから、安心して出向かれるんだ」
「それぢや親分」
「疲れて居るだらうが、六丁目まで一緒に行くか」
「京大阪でも行きますよ、親分」
 二人は五日目で麹町六丁目へ飛びました。


「五日の間、物を考へてばかり居たんですかえ、親分」
 そんなに物を考へられることが、ガラツ八には不思議でならなかつたのです。
「いや、少しは動いたよ。向柳原の宇太八も見張つたし、娘が殺された日、谷五郎の出た先も調べて見たし」
 途々二人は話し續けました。
「あの日谷五郎は何處へ行つたんでせう」
「飯田町の得意へも顏を出したが、――それから、友達の家と叔母の家へ行つたよ」
「へエ――」
「三四軒歩いて二十兩ばかり借り出して居る」
「變な野郎ですね」
「翌る日の晝頃、二たときばかり留守にしたお照は、宇太八に逢つて、あの手紙を書いた樣子だ。鑄掛屋いかけやの小僧に小遣こづかひをやつて訊いて見ると、手紙の頼み主は、どうも宇太八らしい。五十七八の、よく禿げた、大きな高荷を背負つた男だといふから」
「あの小僧あつしが訊いた時は、そんな事を一つも言ひませんよ」
「おどかし過ぎたんだよ。子供はおどかしちや口を開かねえ」
忌々いま/\しい小僧ぢやありませんか」
「まア、宜いやな」
 そんな事を言ふうちに、二人は六丁目の櫻屋に着いて居りました。
「おや?」
 中はザワザワと立ち騷ぐ人聲、物音。
 スツと入ると、
「太え阿魔あまだ、神妙にせいツ」
 十三丁目の重三が、張りきつた叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)の聲。その膝の下にキリキリと繩を打たれて引据ゑられたのは美しい下女のお照ではありませんか。
「お、十三丁目の親分、大變なことをするぢやないか」
 平次は思はず非難の聲を掛けました。
「錢形の、到頭捕まつたよ。この女はお狩場かりばの四郎の娘だ。あの手紙を書いたのはこの女さ。お美代殺しを、手紙で白状して居るんだから、文句はあるめえ」
 重三はキリキリと繩を絞つて、お照の襟髮えりがみを取ります。
 お照は何んにも言ひませんが、美しい顏は蒼くなつて、キツと結んだ唇は、金輪際開きさうもありません。
「重三親分、――その女は、お狩場の四郎の娘に違えねえが、わらのうちから房州で育つて、親の罪を少しも知らなかつたんだ。その上、櫻屋をうらんで入り込んだのは本當だが、お美代を殺したのはその女ぢやねえ」
 平次の言葉は豫想外でした。
「何んだと、錢形の」
「まア、落着いて聽いてくれ。――う言つたところで、十三丁目の親分の手柄にケチをつけるわけぢやねえ。下手人は今、此處で、親分に縛らせてやる」
「――」
 平次の隱やかな調子になだめられて、重三も暫く手をゆるめました。
「聽いてくれ、重三親分。そのお照といふ娘は、櫻屋に怨みを言ふ心算つもりで入り込んだかも知れないが、一人娘のお美代を殺すやうな非道なことをする人間ぢやねえ。此間も此處へ來て見ると、痛々しく取逆上のぼせた主人の六兵衞を、蔭になり日向ひなたになり、慰めたり、いたわつたりして居たのはその娘だ。その娘の眼には、何んの罪もよごれもなかつた」
「――」
「そればかりぢやねえ。あのなたを振り廻してあれだけのむごたらしい殺しやうをするのは、誰が何んと言つても男の力だ。――兼松は一度縛られたが、本當の下手人にしちや證據があり過ぎる。わざ/\外から廻つて自分の雪駄を縁の下に突つ込んだり、血の附いた袷を、ろくに洗はずにたらひへ投り込んだり、そんな馬鹿なことをする人間が何處にあるものか」
「――」
「その上、お美代の手箱から出て來た手紙を見ても判る通り、二人はまだきれてはゐない。お美代は蓮葉娘だが、谷五郎をひどく嫌つてゐたことは、親の六兵衞もよく知つて居る筈だ。それに、費ひ込みが十二三兩あるのを、そのまゝにして主人の娘を殺すのも少し氣が廻らなさ過ぎる」
「――」
 平次の言葉は、一句々々、兼松にかかる疑ひを解いてやりましたが、一轉して、
「其處へ行くと、谷五郎なんか、お美代が殺される前の日、八所借やどころがりをして、費ひ込みの二十何兩をまとめ、そつと錢箱に入れて帳尻を合せて居る」
 其處まで來ると、部屋からパツと飛び出した者があります。
「御用ツ」
 縁側で待機して居た八五郎は、無手むずとそれに組付きました。
「逃すな、八」
 と平次。
「何んの」
 重なり合つて土間へ轉がり落ちましたが、その時はもう、八五郎の膝の下に曲者を組み敷いて居たのです。
「あ、谷五郎、お前が――」
 主人の六兵衞は呆氣あつけに取られました。一人娘のお美代を殺したのは、一番忠實らしい顏をして居た優男やさをとこの谷五郎とは思ひも寄らなかつたのです。
「その野郎だよ、重三親分。――お美代に振り飛ばされて、櫻屋の身上しんしやうが手に入りさうもないので、娘を殺す氣になつたんだ。――本當は兼松を殺したかつたんだらう。だが、兼松を殺すと直ぐ解る。思ひ直して――可哀想にお美代を殺してしまつたのだ、惡い野郎だ。――罪は兼松に背負はせる心算つもりだつたが、途中からお狩場の四郎の話を小耳に挾んで、兼松を助けるやうな顏をしたんだらう」
「親分、どうしませう」
 八五郎は捕繩を口でさばいて居りました。
「十三丁目の親分に縛つて貰ふが宜い。手前や俺の出しや張る幕ぢやねえ」
 平次が言ふ迄もありませんでした。十三丁目の重三は、あわててお照の繩を解くと、庭へ飛び降りてキリキリと谷五郎を縛り上げます。


 重三が繩付の谷五郎を引いて行つた跡、
 妙に突き詰めた心持で、皆んなは暫く默つて居りました。
「親分、その娘は?」
 八五郎は、何にかしらきつかけをこさへなければやりきれない心持でした。
「お照さんは何んにも知らなかつたんだ。此處へ入り込んで、宇太八としめし合せて、父親の怨みを晴らす心算だつたに違ひないが、そんな事をするにしちや、お照さんは人間が立派過ぎた」
「――」
 平次は疊の上に兩手を突いて、顏を擧げられないほど泣き入るお照を見やり乍ら續けました。白い首筋、桃色の耳朶みゝたぶ、美しくも惱ましい歎きの姿です。
「宇太八には責められたが、お照さんは仕返しのやうな事は何んにも出來なかつた。そのうちに半歳經つた。――もうあきらめて引揚げようと思つて居るところへ思ひも寄らぬ主人の娘が殺された。誰が殺したか知らないが、せめてはこの人樣のした事で、父親が死ぬまで言ひ續けた怨みを形ばかりも晴らす氣になつた。――お照さんは養ひ親の宇太八うたはちを訪ね宇太八に文句を作らせて、あんな手紙を書いた。この平次に屆けたのは、三年前、父親のお狩場かりばの四郎を縛つた、この平次にも思ひ知らせるためだつたに違ひない。――その通りだらうな。お照さん」
「――」
 お照は涙にひたり乍ら、二つ三つうなづきました。
「お前は善人だ。父親の死際の怨みを引繼いだ心算でも、惡いことは出來なかつた。――意見をするわけぢやないが、お前の父親は惡事が重なつたばかりに、御上の御法の裁きを受けたのだ。人を怨む筋は一つもない。本來ならば、親の怨を返す代りに、親の罪を身に引受けて、そのつぐなひをするのが人の子の本當の道だ」
「親分さん、私が惡う御座いました」
 お照は袖を噛んでむせび入るのです。
「宇太八と一緒に房州の山の中へ歸るのが宜い。お狩場の四郎の娘と知れては、江戸では住みにくからう」
「ハイ」
「房州で暮しが立つて行くのか」
「――」
「可哀想に」
 平次もつい、この貧しい純情な處女の、山の中にはうむられるのがいぢらしかつたのです。
 ガラツ八は大きな拳骨げんこつで、鼻の頭を横なぐりに撫であげました。
「親分、――私も我慢の角が折れました。この娘の先々の事は、及ばず乍ら、私が引受けて世話をしませう」
 六兵衞は靜かに口をはさみました。
「いや、それはお照さんの本意ではあるまい。――櫻屋の後は、其處に居る兼松に繼がせるが宜い。亡くなつた娘さんも喜ぶだらう。――お照さんは、私の女房に世話をさせよう、どうだ――」
 靜かに振り返る平次の側に、お照はシクシクと赤ん坊のやうに泣いて居りました。他人たにんから――いや敵と思つた人間から、こんなに深切にされるとは想像もしたことはなかつたのです。
        ×      ×      ×
 八五郎を殿しんがりに、お照を中に挾んで、六丁目から神田へ引揚げるその日の平次は、晩秋の薄寒い夕映えの中に、本當に滿ち足りた心持でした。
 家には、女房のお靜が待つて居るのです。銅壺どうこの湯加減を氣にしい/\。





底本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社
   1954(昭和29)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1939(昭和14)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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