錢形平次捕物控

白紙の恐怖

野村胡堂





「親分ちよいと――」
 ガラツ八の八五郎は、膝つ小僧で歩くやうに、平次のとぐろを卷いてゐる六疊へ入つて來ました。
「なんだ八、また、お客樣をつれて來たんだらう。今度は何んだえ、若い人のやうだが――」
「どうしてそんなことが判るんで? 親分」
「お前の顏にさう書いてあるぢやないか」
「へエ――」
 ガラツ八は平手で長んがい顏をブルブルンと撫で廻すのです。
「平手で面を掻き廻したつて、人相が變るものか。馬鹿だなア」
「へエー、そんなもんですかねエ」
「庭へ長い影法師が射して、折角明神樣の森から來た、藪鶯やぶうぐひすき止んだぢやないか。若くてイキの良い人間が門口に立つてゐることが解らなくてどうするんだ」
「成程ね、さう聽くと一向他愛たわいもありませんね。おい、番頭さん、遠慮することはねえ、親分は見通しだ、ズツと入つて來なさるがいゝ」
 ガラツ八は表の方へ身體をねぢ曲げて、門に立つてゐる人を呼込むのでした。
「それぢや親分さんは逢つて下さるでせうか」
「逢ふも逢はねエもあるものか、俺が承知だ。眞つ直ぐに入つて來るがいゝ。ねえ親分、これが本銀ほんぎん町の淺田屋の番頭で、幸吉さんといふんだが、兎にも角にも、一つ話を聽いてやつて下さいよ」
 ガラツ八は平次の引込み思案にものを言はせないやうに、外に待たした客を呼込むと、萬事心得て平次の前へ押しやるのです。
 近頃江戸中に響いた平次の名を慕つて、流行易者はやりえきしやほど相談事が殺到するのを、お上の御用以外は、梃子てこでも動くまいとする平次は、その大部分は追つ拂ひましたが、中にはそれを心得て、女房のお靜や子分の八五郎の手を經て、こんな調子に持込むのも少くなかつたのです。
 紛失物を嗅ぎ廻したり、女出入りの仲裁までさせられるのは、平次にしても、有難くはありません。が、どうかするとそのにもつかぬ相談事の中に、飛んでもない事件がはらんでゐたりするので、活動家のガラツ八は、一々チヨツカイを出して、一つでも多くの事件を取込まうとするのです。
「八、何んだか知らねエが、ひどく心得てゐるぢやないか。それほど力瘤ちからこぶを入れるならお前がらちをあけてやつたらよからう」
 平次は少し苦りきります。
「それが、あつしぢやどうしても解らないんで、――一と月も前から首をひねつたり、腕を組んだり、ありつたけの智慧を絞り出して見ましたがね」
 八五郎の話は相變らず空つとぼけたやうな、そのくせ精一杯の眞劍味がありました。
「親分さん、お願ひでございます。私はもう心配で/\、一日もヂツとしてはゐられません。お願ひでございます」
 八五郎のつれて來た、本銀町淺田屋の番頭幸吉といふ二十三四の若い男は、疊の上に兩手を突くのでした。
 小柄で、色が淺黒くて、あまり良い男振りではありませんが、突き詰めた樣子や、一生懸命な眼の色に、何にか妥協の出來ない正直さを見ると、素氣そつけなく追ひ返しもなりません。
「お前さんは、餘つ程思ひ詰めてゐるやうだが、一體どんなことがあつたんだ。ことと次第ぢや、隨分相談相手位になつてあげよう」
 平次もツイ膝をすゝめました。
「外ぢやございません。去年の春あたりから、不思議な手紙が主人のところへ參るのでございます」
「不思議な手紙といふと?」
「何んにも書いてない、白紙の手紙でございます」
「?」
「最初の手紙が來たときは、主人も大笑ひに笑つて、――こいつは日本一のあわて者だらう――と申して私共店のものにも見せましたが、二本目は默つて私に渡し、三本目は誰にも見せないやうに御自分の部屋へ持つて入り、四本目は――」
「一體その白紙の手紙といふのは、何本來たんだ」
「丁度一年前から、毎月一本づつ、十一本も參りました」
「――」
 平次は默つてしまひました。
「十二本目は多分今日――遲くも晩までには來ることでせう。――白紙の手紙なんか何が怖いと仰しやるかも知れませんが、文句を書いた手紙なら、こんなに心配はいたしません。強請ゆすりおどかしにしたところで、金を出せとか、命をくれとか、どんな恐しいことを書いてあつても、書いた人間とそののぞみの見當が付きます。それが白紙の手紙となると――」
 幸吉はゴクリと固唾かたづを呑むのです。
「その手紙の來る日は決つてゐるんだね」
 平次はさすがに大事なところに氣が付きました。
「月の十七日、二年前、先代徳兵衞樣の[#「先代徳兵衞樣の」はママ]亡くなつた日で御座います」
「誰が持つて來るんだ」
「最初は使ひ屋でございました。吉原なかから華魁衆おいらんしうの手紙を束にして持つて來る使ひ屋の男が、小僧を呼出して、旦那へそつと渡すやうにと言つて置いて行つたさうで――」
なかの使ひ屋は、筋の良い手紙は滅多に持つて歩かないから、それくらゐのことはどこへ行つても言ふよ。――その使ひ屋をつかまへて訊くと、頼んだ人が判るわけだが――」
 と平次。
「ところが、此方でさう氣の付いた時は、もう使ひ屋は來ません。何時、誰の仕業しわざとも判らず、店先へ抛り込んで行きます」
「フム」
「白紙の手紙が一本づつ多くなると、店中は次第に暗くなります。何時いつどんなことがあるか、私達奉公人でも氣になるくらゐですから、主人の身になると、せるほど苦勞なさるのも無理はございません」
「主人がどうかしたのか」
「二た月ばかり前から病人同樣で、この四五日はお氣の毒なくらゐしをれ返つてをります。これで十二本目の手紙を受取つたら、どんなことになるか、あんまり心配なので、ツイ八五郎さんにお願ひして、親分におすがり申し上げたやうなわけで御座います。――主人は? 飛んでもない、私がこゝへ參つたことも存じません。へエ」
 若い番頭の幸吉は、言ひ了つてそつとひたひの汗を拭くのです。それほど一生懸命になる番頭の樣子はツイ平次を乘出させるほどしをらしいものでした。


「その手紙は中は白紙でも、上書うはがきがあるだらう。筆跡に心覺えはないのか」
 平次はツイそんな細かいことまで訊く氣になつてをりました。
「一向に覺えは御座いません。なか/\の達筆で、一本々々判で押したやうに、同じ文字で御座いますが」
「男文字だらうな」
「へエ」
「紙や封筒は?」
「世間並の半切はんぎれと細い封筒で、これもどこでも賣つてゐるやうな品でございます」
「一つ見本があるといゝが」
「一本だけ私がしまつて置いたのを、念のために持つて參りました。これでございます」
 幸吉の差出したのを見ると、成程何んの變哲もない白い半切と白い封筒で、本銀町淺田屋徳次郎殿と書いた文字も一向特色のないお帳面文字です。
「ところで、淺田屋には、この二三年の間に、變つたことがなかつたのかな。――變な噂を聽いたやうにも思ふが――」
 平次の強靭きやうじんな記憶力は、日本橋本銀町の淺田屋――江戸長者番附の小結どころに坐る大店の騷動を忘れてゐる筈もなかつたのです。
「明けて一昨年の春、妙なことが御座いましたが」
 淺田屋の身上しんしやうを三分の一にして了つた上、先の主人總兵衞と、番頭二人まで命を落したほどの大事件を平次にうながされて、幸吉は筋を通さなければなりませんでした。
 諸大名の御金御用達を勤めて、江戸で五本の指に折られる大分限の淺田屋にも、思ひも寄らぬ災難が見舞ひました。それは、日頃御出入りの大名、――飛騨高山の城主、三万八千石金森出雲守樣の御寶物、御祖先が太閤樣から拜領して、千利休の掛物まで添へてある、曙井戸あけぼのゐどの茶碗に、近頃小さい乍ら傷が見えたので、お茶人の淺田屋總兵衞がお預りして懇意な竈元かまもと修繕なほしに廻す筈だつたのが、淺田屋の土藏の中で、何時の間にやら紛失して了つたのです。
 それは今から丁度二年前、銘を書いた桐の二重箱も、蜀江錦しよくかうにしきの袋も、千利休の掛け物も無事で、肝心の茶碗だけ紛失したのは不思議ですが、兎も角、名物の曙井戸の茶碗が紛失しては、預つた淺田屋の申譯は立ちません。
 曾て金三千枚で所望された、とか、城一つと引換へに懇望されたとも言はれる大名物の曙井戸。それが唯なくなつたでは、金森家が承知する筈もなく、主人總兵衞は二年前の二月十七日、町人ながら腹掻き切つて見事な最後を遂げ、茶碗を預つた一番番頭の利八郎は首をくゝつて相果て、幸吉の父なる二番番頭の幸三郎は、それつきり行方不知になつて了つたのです。
 後を繼いだのは今の主人すなはち總兵衞の義理の弟徳次郎で金森家へ用立てた二萬兩の大金を棒引にし、主人と番頭が命を投げ出してのわびに、どうやらかうやら事件を落着させましたが、二萬兩の棒引はさすがに淺田屋の身上にも響いて、當主の徳次郎がやるやうになつてから、兎角昔のやうな華やかなことはなく、番頭も三番番頭の文六といふ無能な中年者たつた一人。行方不知になつた二番番頭幸三郎の伜幸吉は、若いながら何も彼も一人で取仕切つて、辛くも淺田屋の暖簾のれんを掛けてゐる有樣だつたのです。
 その悲運の中へ、騷ぎがあつて一年ほど經つた去年の二月十七日――腹を切つた先代の主人總兵衞の一周忌に當る日から、白紙の脅迫けふはく状が、毎月一本づつ舞ひ込んで來るのでした。何んとか文句を書いてくれさへすれば、脅迫者の望に添ふこともでき、できなければできないなりに、斷る方法もあつたでせうが、一年間毎月一本づつ、決つた日に舞ひ込んで來る白紙の脅迫状の無氣味さには、さすが剛愎者の主人徳次郎も、すつかり閉口して了ひました。
「一字一句も書かない白紙の手紙――世の中にこんな恐しいものはございません。主人も近頃はき物がしたやうで、ろくに三度のものも召上がらず。蒲團をかぶつて寢たつきり、家の中は夜も晝も眞つ暗でございます」
 幸吉は語り了つてホツと息をつくのです。一年に亙つて附け廻した白紙の脅迫状には、若い幸吉まですつかり憑かれてゐる樣子でした。
「それだけのことぢや俺にもどうしていゝかわからない。斬つたとか張つたとか言ふなら、行つて見るもあるが――」
「親分、どうしたものでございませう」
「店の者はそれつきりかえ」
「鶴吉といふ小僧がをります。十三になつたばかりで」
「家の者は?」
「お孃さんの幾代さん、――これは先代の旦那樣のひと粒種で、十八でございます」
 何んとか小町と言はれた美しい娘。その名を言ふだけでも、幸吉の頬が熱するのです。
「奉公人は?」
「下女が二人、お山といふのは三十五六の房州者の飯炊きで、五六年奉公してをります。お道といふのは二十四五で、身體が少し惡くて嫁の口を諦めたとかで、三年ほど前から奉公してをります。亡くなつた一番番頭の口入れで」
「病氣でもあるのかい」
「いえ、少しびつこ
「それつきりか」
「へエー」
「外の者で、淺田屋を怨んでゐる者はないのか」
「先代の時なら兎も角、近頃商賣の方も至つて手狹ですし、御主人は氣が大きくて附合ひの良い方ですから、怨まれるわけも御座いません」
「それだけのことぢや手の付けやうはあるまいよ。まア/\氣を大きくして、もう少し樣子を見るんだな。十二本目の手紙が來たら、それを破つたり捨てたりしないやうに、できるなら主人に見せずにそつとこゝへ持つて來るがいゝ」
「へエ、それでは何分宜しくお願ひ申します」
 こんなことで、何んの要領も得ずに幸吉は歸つて了ひました。


「親分、大變なことになりましたよ」
 ガラツ八が飛び込んで來たのはその翌日の朝でした。
「なんだ、又大變かい。お前と附き合つてゐると、三日に一つくらゐづつ大變を食はなきやならねエ、全く壽命の毒だぜ」
 平次は相變らず日向ひなたにとぐろを卷いて、若いくせに榎木のつぼみをいつくしんでゐたのです。
「だつて、淺田屋の主人が殺されましたよ」
「何んだと」
「十二本目の白紙の手紙を受取つたのは昨夜店をめてから、それを持つて自分の部屋へ入つたきり出て來ないから、今朝小僧の鶴吉が起しに行くと、血の海の中に死んでゐた――」
「お前がそれを見て來たのか」
「下つ引が教へて來ましたよ」
「自害ぢやあるまいかな、――おどかされて氣を腐らしてゐたやうだから――」
「刄物が無いんださうで、死骸が刄物を始末するわけはないでせう」
「至極道理だね。行つて見ようか、八」
 かう引つ掛りになると、平次も知らん顏をしてゐるわけには行きませんでした。
 八五郎と一緒に、本銀町へ飛んで行くと、土地の御用聞が二三人ウロウロしてゐますが、まだ檢屍前で、幸ひ何んにも動かしてはありません。
「あ、親分さん方、――主人は到頭自害してしまひました。こんなことになりはしないかと心配しましたが」
 あをい顏をして迎へたのは、昨日錢形の家へ訪ねて來た手代の幸吉でした。
「自害? ――俺は殺されたと聽いたが」
 平次は何にかもう大きな行き違ひのあることに氣が付いたのです。
「刄物が見付かりました。――箪笥たんすの間から」
「さうか」
 強ひて追及もせずに、平次は宏大な構への中に入ります。
「錢形の親分さん、御苦勞樣で御座います」
 三十四五の色の白い立派な男、調子もひどく慇懃いんぎんです。
「お前さんは」
「番頭の文六でございます」
 三番番頭の文六、中年者と幸吉が言つたはこの男のことでせう。人柄は立派ですが、成程商賣の方は幸吉任せかも知れません。
「案内してくれ。主人の部屋だ」
「へエ――、どうぞ此方へ――」
 店から入つて廊下を奧へ、思つたよりも大きな構へです。中庭を左手に眺めて縁側の行止りが主人の部屋らしく、その手前の部屋から出て來た、目のさめるやうな美しい娘は小腰を屈めて二人をやり過しました。
「あれは――?」
「娘の幾代――評判ものですよ」
 ガラツ八は囁きます。
 突き當りの唐紙を開けると、中は八疊の部屋で、血潮の中に主人徳次郎は倒れてゐるのでした。床はまだ敷かなかつた樣子、座蒲團の上へ俯向あふむきになつた恰好で、傷は前から二箇所。いづれも咽喉のどを突いたものですが、血潮の凄まじさは、大動脈を切つたのが致命傷になつたためでせう。
 年の頃は五十四五、先代の主人總兵衞の義弟で、長い間放浪生活をしたとは聽いてをりましたが、恰幅かつぷくも見事、人相も福々として、大家の主人として恥かしくはありません。
「刄物は?」
「これで御座います」
 血の附いた脇差が、拔身ぬきみのまゝ、死骸の後ろの箪笥の上に載せてあります。
「少し變だな、――その箪笥の間へ入つてゐたのかい」
「へエ――、今朝見たときは何んにもなかつたやうに思ひましたが、あとで幸吉どんが、箪笥と壁の間から見付けました。――自害した主人が、刄物をあんなところへはふり込めるでせうか」
 文六の疑ひは、また平次の疑ひでもあつたのです。自分で咽喉の大動脈を切つた人が、俯向きに倒れながら、刄を後ろの方一間半も離れてゐる、箪笥と壁の間へ抛り込める筈はありません。
「八、箪笥の裏と壁とに血が付いてゐないか見てくれ」
「へエー」
 平次はその間に部屋の樣子を丁寧に見ました。隣は娘の幾代の部屋で、壁一重をへだててはをりますが、斷末魔のうめきくらゐは聽えさうです。それに、夜中この部屋に忍び込む者があつたとすれば、幾代が氣付かない筈もなく、これがもし殺したとすると、一番先に義理の娘の幾代に疑ひがかゝらずにはゐません。
「親分、壁にも箪笥の裏にも血は附いてますがね、傷はありませんよ。刀を抛り込んだんぢやなくてそつと入れたんですね」
 ガラツ八は大きな聲を出します。
「よし/\、――それからお前はみんなの書いたものを集めてくれ。小僧のも、下女のも、一つ殘らずだよ」
「へエー」
 ガラツ八が店の方へ行くと、平次は血染の脇差を取上げて死骸の傷口と睨み合せながら、しきりに首を傾げてをります。
「この脇差は誰のだえ、番頭さん。恐ろしいなまくらのやうだが」
「主人ので御座います。いつもその箪笥の上の抽斗ひきだしに入れて置きました。恐しいなまくらで、犬脅かしでございます」
「その上ひどいさびだね。これで切られちやなぶり殺しだ」
「へエ――」
 さう言ひながら平次は箪笥の上の抽斗をあけて見ました。と、そこにはこの脇差のものらしい、こればかりはピカピカする蝋塗ろふぬりさやが一つ、無造作に入れてあつたのです。
「おや/\、中身だけ持出して咽喉を突いたのか」
 たしなみのよくない自害――平次はさう言つた心持で、もう一度死骸を改めました。
「戸締りには何んの變りもなかつたのだね」
「へエ、みんな内から締つてゐたさうで。これは朝、雨戸を開けたお山が、よく知つてをります」
 と文六。
「おや、――盆栽ぼんさいがあるね」
 平次は障子を開けると、庭の盆栽棚を眺めてをります。こんな緊張した空氣の中でも、暫くは好きな道を思ひ出して、フト目の保養をする氣になつたのでせう。
「お好きなのは先代の總兵衞旦那樣で御座いました。二年前先代樣が亡くなられてからは誰も世話をいたしませんので、あの通り荒れ放題でございます」
「成程な、楓林ふうりんが雜草畑になつて、眞柏しんばくは伸び放題、――まるではうきだ。おや/\惜しい松を枯してゐるね、二三百年も經つた樹だらうが」
 平次は自分のことのやうに眉をひそめました。が、フト思ひ出したやうに、
「白紙の手紙が十二本も來たさうだが、どこかに二本でも三本でもないだらうか」
 こんなことを訊くのでした。
「御主人の手箱に十本くらゐありますが、ひどく汚れてをりますよ」
「どれ、見せて貰はうか」
「へエ、これで御座います」
 文六の持つて來たのを見ると、同じ封筒、同じ文字の手紙が十本。比べて見ると、下手ながら恐しいほどよく似た字で、十本が十本、判こでしたやうに、一點一劃の違ひもなく、點の距離、棒の長さまで、全く同一です。
「ひどく下手へたな字だが、形と崩し方だけは本當だね」
 中から白紙を引出して見ると、これは又何んといふ汚れやうでせう。或物は皺だらけになり、或物は燒け焦げて半分以上も千切れ、見る蔭もない慘憺たる有樣です。
「恐しく汚くなつたものですね、親分」
 ガラツ八は何時の間にやら歸つて來て、後ろから覗いてをりました。
あぶつて見たり、水にぬらして見たり、藥を塗つて見たり、いろ/\工夫をしたんだらう。白紙に明礬みやうばんとか南瓜かぼちやの汁とかニガリとか、灰汁あくとかいふもので、何にか書いてあるんぢやないかと思つたんだらうよ。が、矢張り唯の白紙だ、隱し文字も何んにもなかつたらしい」
「――」
 主人がどんなにこの白紙の脅迫状に惱まされたか、ガラツ八も文六も、ツイ暗い心持になります。
 それから八五郎の集めて來た家中の者の筆跡を調べましたが、白紙脅迫状の封書に似たのは一つもありません。番頭の文六は唐樣の達筆、手代の幸吉は職業的な器用な字で封筒の稚拙味ちせつみは眞似てもできさうもなく、娘の幾代の假名文字の美しさも、下女のお道の金釘流かなくぎりうも、小僧の鶴吉のたど/\しい筆跡も、凡そ白紙脅迫状の封筒の文字とはかけ離れたものだつたのです。そのうちで飯炊きのお山だけは一文不通で、いろはのの字も書けないとわかつて、これは全く疑ひから除外されました。


 それからざつと家の内外を調べました。白紙の手紙を抛り込んであつたといふ店の格子は、お勝手から廻つて家の者でも抛り込めるでせうし、店の中からそつと置いて外から抛り込んだと見せられないこともありません。
 土地の御用聞達は、主人徳次郎は、先代の義弟と言つても何んの血統ちすぢ關係はなく、先代の娘の幾代を差置いて、淺田屋の身上を繼いだ形になるのですから、幾代には充分徳次郎を怨む理由があつたわけで、幾代の部屋の前を通らずには、主人の寢間へは行けないことなど考へ合せて、下手人はどうしても幾代の外にはないといふ意見に一致し、平次が手を下す前に、縛つて了へとひしめきましたが、手代の幸吉は一生懸命幾代を庇つて、いよ/\といふ場合には、自分が名乘つて出ようとする樣子さへ見せるのでした。
 その緊張した空氣の中に、平次の調べは着々と進行しました。今度は娘も雇人も、銘々の部屋へ入れて、一人々々下つ引を監視につけたまゝ先づ、娘の幾代から始めました。
「お前は、大層惡い立場になつて居るが、承知だらうな」
「え」
 美しい娘は何んのこだはりもなくうなづきます。
「昨夜何にか物音か人聲が聞えた筈だが――」
「私はよく寢る方で、夜半には滅多に眼を覺しません。でも昨夜はまだ宵のうちに、隣の部屋で、何にか唸るやうな聲がしたやうにも思ひます」
 さう言ふのは、幾代には精一杯でした。
「ところで、主人の徳次郎を、お前さんはあんまりよくは思つてゐなかつたらうな」
 平次の問ひはかなり突つ込んだものでしたが、幾代はそれを肯定も否定もせず、默つて豊なあごを襟に埋めました。
「八、小僧の鶴吉を呼んで來てくれ。誰もゐないところで訊きたいことがある」
「へエー」
 八五郎が歸つて來るまで、平次はもう一度念入りに庭のあたりから戸締りの樣子を見ました。外から主人の部屋の戸をこじ開けた樣子は絶對にありません。
「何んです、親分」
 鶴吉はこまちやくれた顏を擧げて、平次の側に立つてをります。
「お前が今朝主人の死骸を見付けた時、刄物はものを見なかつたか?」
「びつくりして逃げ出したんで、何んにも見ませんが、――何しろひどい血でせう」
「いや、そのびつくりして逃げ出す前に、何にか見た筈だ。キラリと眼に映つたものがあつた筈だと思ふ」
 小僧はさう言はれると、暫く首を傾けてをりましたが、
「さう言へば、右手のあたりに何にか光るものがあつたやうに思ひますよ」
 おぼろげな記憶が、平次の問ひに誘導されて復活して來るのでした。
「もう一つ、この家に兩刄のよく切れる刄物があつた筈だが――」
 平次の問ひは豫想外です。
「ありましたよ。旦那が大事にしてゐた、刄先五寸位な槍の穗が」
「どこにあつたか知つてゐるかい」
「その用箪笥の中ですよ。一番下の抽斗ひきだしの奧で」
「これか」
 死骸の横にあつた、古いが細工の良い用箪笥を開けて見ましたが、上にも下にもそんなものはありません。
「變だなア。――昨日まで確かにあつたんだが」
「お前は開けて見たのか」
「用事があつてこゝへ入つて來ると、旦那はあわててその抽斗ひきだしの中に隱しましたよ」
「この布に包んであつただらう」
「――」
 鶴吉は默つてうなづきました。平次は何時どこから持つて來たか、二尺ばかりの鬱金うこんの布を疊んだのを出して見せました。おびたゞしく血が附いてをります。
「死骸の側に落ちてゐたのさ。手品を使つて取出したわけぢやない」
 ガラツ八の不思議さうな顏を見ると、平次は一向無技巧にたねを明かしてくれます。
 次に番頭の文六、これは別に訊ねることもありません。淺田屋の世帶しよたいが決して樂でなかつたことと、外からは決して怨みを受ける筈のないことなどを確めただけで、四人目に手代の幸吉のところへ行つて見ました。
「親分、お孃さんは何んにも御存じぢやありません。お願ひですから、お孃さんを縛るなんて、むごたらしいことを言はないで下さい。さうでなくてさへお孃さんは――」
 激情にかられて幸吉は、見境もなく平次に喰つてかゝるのでした。
「よし/\お前の言ふことはよく解つてゐる。それほどお孃さんを大事に思ふなら、何んだつて箪笥から切れさうもない、脇差なんか出して、血をつけて箪笥の裏へ抛り込むやうなことをしたんだ」
「えツ」
 この素破拔すつぱぬきには、聽いてゐるガラツ八の方が驚きました。
さやをそのまゝ抽斗に殘して置いて、中身だけを出して自害をする人間があるものか。自害してから刀を抛るのも可笑しいし、それにこいつは一番大事なことだが、主人の咽喉の傷は、兩刄の刄物で突いたんだぜ。あんな錆脇差なんかで、人間一人滅多に死ねるものぢやねえ。自害をするにしても、殺すにしても、同じ手近にあるなら、よく切れる刄物を選ぶのが人情だよ。どうだ、幸吉」
「相濟みません。私が惡う御座いました。主人の死骸の側に刄物が無いと、殺されたに決められて了ひます。あの部屋に入つて主人を殺すのを、隣の部屋のお孃さんが知らない筈はないと、土地の親分衆が仰しやるのを聽いて、誰もゐないところを見極めて、私が細工をいたしました。どうぞ、御勘辨を願ひます。決して惡氣でしたことでは御座いません」
 幸吉は板敷の上に額を埋めて、泣かぬばかりに詫び入るのです。
「そんな餘計な事をするから、反つて事柄が面倒になるぢやないか――ことによれば二年前に死んだもとの主人やお前の父親の仇も討てるかも知れない。――物事を隱さずに素直に言ふがいゝ」
「ハイ」
 まさに一言もない幸吉です。
「一年前、曙井戸あけぼのゐどの茶碗がなくなつて、一番儲かつたのは誰だ」
 平次は妙なことを訊くのでした。
「儲かつた人なんかありません。損をした人ばかりでございます。先代の總兵衞旦那樣と番頭の利八郎は自害をいたしましたし、私の父親は行方不知になりました。それから淺田屋はこの通り左前になつて、奉公人達も昔のやうなことはございません」
「いや、その中で儲かつた人間は一人や二人はあつた筈だ。よく考へて見るがいゝ。――昨夜死んだ主人の徳次郎などは一番儲かつた人間ぢやないか、左前でも何んでも淺田屋の身上が轉げ込んで來たんだ。――その主人――徳次郎を怨んでゐた者は誰だ」
「誰も――」
「いや、きつとある筈だ。たとへばお前だ」
「えツ」
「死んだ一番番頭の利八郎の身寄の者も、幾代も怨んでゐないとは言へまい」
「いえ、お孃さんは人を怨むやうな方ぢや御座いません。それに利八郎さんは天にも地にも一人者で、身寄も何んにもなかつた筈です」
「もう一つ訊くが、曙井戸の茶碗が出て來たら、今でも金森樣から二万兩の金は返して貰へるのだな」
「それはもう、親分」
 幸吉はけゞんな顏を擧げました。


 次に下女のお山とお道、――長四疊にかしこまつてゐる二人のところへ、平次とガラツ八は入つて行きました。
「お道、お前の荷物を見せて貰ふよ」
「へエツ」
 お道は仰天した樣子です。二十四にしてはひどくけてをりますが、足が少し惡いといふ外には、何んの非の打ちどころもない女で、容貌きりやうも滿更でなく、働きも充分、家中の褒めものになつてゐるお道でした。
「これか」
 八五郎が押入をあけてズルズルと葛籠つゞらを引出すと、
「あ、それは私のだよ」
 お山は飛び付くやうに引つたくります。
「それぢやこれか」
 竹行李たけがうりを引出して、ポンと蓋を拂ふと、中には思ひの外の贅澤な着物。下女や端女はしための持物らしくないのが、幾枚も出て來るのです。
「これは皆んなお前のか」
「お道さんは着物持ちだよ」
 お山は横から口を出して、ガラツ八にグイと睨まれました。
「親分、これですか」
「さうだ。その紙と筆とすゞりと、封筒と、あ、もう一つ、字を書いた古封筒があつた筈だ、――本銀町淺田屋徳次郎殿――と」
「ありましたよ、親分」
「それだよ。その封筒をき寫して、十二枚も封筒を書いたんだ。恐しく下手なくせに、字配りと崩し方が本當だと思つたのはそのためさ」
 と平次。
「十二枚の封筒が一分一厘の違ひもなく同じ字だつたのは透き寫したせゐですね」
 ガラツ八も開いた口が塞がりません。
「さア、お道、この上言ひ分はあるまい。何んの怨みでお前は白紙の手紙を十二本も主人に出したんだ」
 お道は默つて俯きます。金輪際こんりんざい物を言ふまいとしてゐる樣子――女が一番反抗的になつた態度です。
「言はなきやいゝ。その代りお前には主殺しの疑ひがかゝるよ」
「飛んでもない親分」
 お道は顏を擧げました。サツと恐怖がその眼を横ぎります。
「言ふか」
「言ひますよ、私は親の敵を討ちたかつたんです」
「親の敵?」
「私の親は、二年前に自害した、番頭の利八郎ですもの」
「何?」
 平次も驚きました、こればかりは豫想しなかつたのです。
 泣きながらのお道の話を聽くと、番頭の利八郎は若い時放埒はうらつで、隣町の師匠に隱し子を拵へ、大分金を注ぎ込みましたが、嚴格な主人を憚つてツイそれを打明け兼ねてゐるうち、師匠は死んで娘のお道は孤兒こじになり、千葉の知合へやつて二十歳までは育てましたが、親一人子一人の間柄で、年と共に離して置くのが心配になり、江戸へ呼寄せて主人の家に下女に住込ませ、それとはなしに朝夕顏を見合つて暮してゐたといふのです。
「どうして主人に打明けなかつたんだ」
 そんな生活は平次の常識にはない方法でした。
「でも、そのうちに折を見て打ちあける心算つもりでゐたんです」
 娘も親も、そんな罪のない祕密を樂しんで、主人に打ちあけて驚ろかせる日を待つてゐるうちに、曙井戸あけぼのゐどの茶碗の紛失から、主人と番頭が、一夜のうちに自害するやうなことになつたのでせう。
「死んだ番頭の娘が、主人の徳次郎を親のかたきと狙つたのはどういふわけだ」
 平次は漸く問題の核心に觸れました。
「何んとかの茶碗を隱したのは、あの人達だつたんです」
「何?」
「先の總兵衞旦那樣や、私の父さんが死んだ後で、旦那(徳次郎)と番頭の文六さんが、――茶碗を何時取出したものだらう、つて話してゐるのを私は聽きました」
「それは本當か」
「嘘で、こんな苦勞をするものですか。刄物を持つて向つて行つたつて返り討にされるに決つてゐるし、怨みの文句を書いても始まらないし、訴へて出たつて誰も相手にはしてくれないだらうと思つて、私は帳場から旦那へ來た古い手紙を一枚持つて來て、それをき寫しにして封筒を書き、中へ白紙を入れて、父さんと旦那樣の命日に店へ抛り込みました。初めは使ひ屋に頼んだけれど、さうすると、反つて足が付きさうだから二度目から自分で格子かうしから抛り込んだんです。その白紙の手紙に責められて、氣狂ひのやうになつて死んだのは、自分の心にやましいことがあるためぢやありませんか。親分、私は敵を討つて、こんなに嬉しいことはありませんよ」
 お道の方法は、尤もであり、當然であり、同情すべきことに違ひありませんが、白紙の手紙の思ひ付きの異常さに、平次は何にか褒めてやりたくないやうな氣もするのです。
「親分ツ、た、大變ツ」
 遙かの方からガラツ八の聲が高鳴ります。
 飛んで行つて見ると、番頭の文六と組んづほぐれつの大格鬪中、ともすれば逃げられさうになつてたすけを呼んだのです。
「野郎ツ、神妙にせい」
 平次は飛び込んで文六を押へました。元は武家の出か何にかでせう、恐しい腕つ節です。


「俺が何をしたといふのだ、縛られる覺えはないぞ」
 八五郎に繩尻を取られながら、文六は縁側の上の平次に惡罵の限りを浴びせるのでした。
曙井戸あけぼのゐどの茶碗を隱して主人と一番番頭に自害をさせても何んにもしないと言ふ心算つもりか」
 と平次。
「それつきりか」
 文六は惡黨らしく肩をそびやかします。
「二度目の主人の徳次郎を殺したとは言はない。あれは前から槍ので突いた傷が二つ、――その間默つてゐる筈はないし、咽喉のどを突く時槍の穗を包んだ鬱金うこんの巾が出て來たから、自害に相違あるまい。白紙の手紙に心を痛めて、フラフラと死ぬ氣になつたのだらう。が、翌る日、小僧の鶴吉の次にあの部屋へ行つたお前は、槍の穗を隱して、幾代に疑ひを向けようとした。幾代はお前と一緒になるのを嫌つてゐたし、それに幾代が下手人になれば、――まことは親の敵討でも、名目は親殺しになるから、重いお處刑はまぬかれない。するとお前に淺田屋の身上が自由になる」
「嘘だ」
「いや、槍の穗がもう井戸から上がつて來る筈だ。騷ぎの後でお前が井戸のところにうろ/\してゐたのを、二人も三人もの眼で見てゐる」
 平次の論告の確實性は、間もなく井戸からあげて來た槍の穗で裏付けられました。
「勝手にしやがれ、俺はどうせ惡黨だ。が、槍の穗を隱したくらゐぢや命に係はるほどの罪ぢやねエ。幾代と幸吉が好きなやうになつたつて淺田屋は暖簾のれんだけだ。今年の盆までにはきつと身代限りをするぜ、ざまア見やがれ」
 文六は幾代を幸吉に取られる口惜しさに取逆上とりのぼせて、齒をいて二人を呪ふのです。
曙井戸あけぼのゐどの茶碗が出て來さへすれば、二萬兩の金が入るのだよ。淺田屋は貧乏搖ぎもしないだらうよ」
 と平次。
「曙井戸が出て來てたまるものか、あれはもう、二年も前に土にかへつたぜ」
「きつとか」
「念にや及ぶだ」
「俺が無事な曙井戸を搜し出したらどうする」
「もう一つ、大きなことを白状してやるよ。そこにゐる幸吉の父親、幸三郎の行方――」
「よし、見てゐるがいゝ」
 平次は庭へ飛び降りると、いきなり枯れた松の盆栽ぼんさいに手をかけました。
「こんなに澤山ある盆栽の中で、松だけ枯れるのは變ぢやないか。松は水をやらなくても保つものだ。こんなに枯れたのは、水ばけが惡くなつて、根を痛めてるために違ひない」
 鉢から松の枯木を引つこ拔くと、根の下にピタリとはめ込んだのは、美しい曙色の井戸の茶碗。さして汚れもせずに、平次の手の上に靜かに載つたのです。
「あツ」
 驚く人々の間から、僅かの隙を見て逃げ出さうとする文六、
「文六、卑怯だぞ、――約束通り、幸吉の父親を殺した經緯いきさつを白状せい」
 平次はその襟首を押へて引戻すと、グイと膝の下に敷いたのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
   1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1941(昭和16)年3月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年7月30日作成
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