錢形平次捕物控

井戸の茶碗

野村胡堂





「フーム」
 要屋かなめやの隱居山右衞門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突つ立つたきり、暫くはうなつてをりました。
 胸が大海の如く立ち騷いで、ボーツと眼がかすみますが、幾度眼をこすつて見直しても、正面の汚い臺の上に載せた茶碗が、運の惡い人は一生に一度見る機會きくわいさへないと言はれた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくやうな見事さ。總體薄枇杷色うすびわいろで、春のあけぼのを思はせるうはぐすりの流れ、わけても轆轤目ろくろめの雄麗さに、要屋山右衞門、我を忘れて眺め入つたのも無理はありません。
「それは賣物か」
 山右衞門は恐る/\訊いて見ました。どう間違つても、これは大道の夜店などにさらし物になる品ではなかつたのです。
「へエー」
 古道具屋の親爺はボケ茄子なすのやうな顏を擧げました。
「ちよいと見せて貰へまいか」
 要屋山右衞門はたうとう古道具屋のむしろの前にしやがみ込んでしまひました。薄濕うすじめりの夜の大地の冷えが膝に傳はりますが、無造作に出された茶碗を手にすると、心身に一脈清凉の氣が走つて、改まつた茶席に列つたやうな心持になります。
 手に取つて見ると十善具足の名器で、茶に凝つて居る要屋山右衞門などは、一と身上しんしやう投げ出しても惜しくない氣になる品物です。
「頼まれた品でございますよ、旦那」
 客の筋が尋常ならずと見て、古道具屋の親爺も少し乘出しました。
「箱や袋はないのかな」
「それが揃つてゐれば、大道へ出る品ぢやございません、へエー」
 親爺もさすがに心得てをります。それに内箱外箱、御袋など一と通り揃つてゐると、これは大變なことになります。
「いくらに賣る氣だ」
 山右衞門は氣を引いて見るやうな調子で恐る/\訊きました。
「少しお高うございますよ。頼んだ方は五十兩に賣つてくれと申しますが」
 古道具屋の親爺もそこまでは眼が屆かない樣子です。
「えツ、五十兩?」
「だから私は、そんな無法なことを言ふのは嫌だと斷つたんで、夜店の品で五十兩は少しけたが外れますが――」
「いや、高い安いを言つてゐるのではない、五十兩なら私は買はう。が、縁日を冷かすのに、そんな大金を持つてゐるわけはない。すぐ家へ取りに行つて來るから、誰にも賣らないやうにして貰ひたい」
「へエへエそれはもう」
「これはほんの少しだが、今晩一と晩だけの手付けのつもりで預けて置く。いゝかえ」
 山右衞門は懷ろから財布を出して小判で三兩ほど置くと、大急ぎで引返しました。
 茶道に遊ぶものの冥利みやうり、一度は手に入れたいと思つた井戸の茶碗が、こんな機縁で、たつた五十兩で手に入るといふのは、全く夢のやうです。あの茶碗に附屬物一式揃つてゐたら、五百兩とか千兩とかいふ相場が付いて、大名の藏か三井鴻池こうのいけといつた大町人のところに納まるものでせう。
 それがたつた五十兩で手に入るとは、何といふ幸運でせう。この秋はあの茶碗の披露で一席もよほし、知つてゐる誰れ彼れを驚かしてやらう。
 そんなことを考へながら、濱松町の路地を入つて、ハタと當惑しました。三年前から養子の山之助に店を讓つて、こゝの奧の隱宅に引つ込んだ山右衞門は、無用心さを考へて手許に十兩とまとまつた金を置かなかつたのです。
「弓、お弓はゐるか」
「ハ、ハイ」
 少しあわてて飛んで出たのは、お弓と言つて十九の娘。要屋の遠縁の者で、行儀見習ひに來てゐるのを、隱居が氣に入つて、この隱宅の方に引取つて、下女のお仲と共に朝夕の世話をさせてゐるのでした。
「誰か來てゐるのか」
「いえ、あの」
 お弓はどもりました。本宅の手代で久吉といふのが、これも遠縁で要屋に引取られてゐるうち、不仕合せ同士のお弓と心易くなつて、ツイ人目を忍ぶ仲になつたのを割かれ、間がな隙がな、隱宅を覗いてゐるうち、隱居が神明樣の夜店へ行つた留守、ちよいと滑り込んで、お弓と話し込んでゐたのです。
「夜店で飛んだ掘り出しものを見付けてなう。――大名物と言つてもいゝくらゐな井戸の茶碗が、たつた五十兩だとさ。――あんな品に逢ふのは、人間一生に一度の福運だ。店へ行つて金を持つて來て買はうと思ふ――留守を頼むよ」
 隱居山右衞門は金持らしく人の思惑おもわくなどを考へずに、自分の言ひたいだけのことを言つて、そのまゝ路地の闇に引返しました。
 そこから表通りの要屋――海道筋の老舖しにせで、代々質兩替をやつてゐる店までは、ほんの一と走りだつたのです。
「チエツ、馬鹿にしてゐるぜ」
 その後姿を、障子の隙間から見送つて、手代の久吉は大舌鼓おほしたつづみを打ちました。
「まア、お前」
 その冒涜的な調子をとがめるやうにお弓。これは隱居が戸口から引返したために、引入れた久吉が見付からなくてホツとした姿です。
 尤もお勝手には二人の仲を百も承知の下女のお仲が、ガタピシと晩のお仕舞をしてゐるのですから、隱居が歸つて來たところで、言ひのがれの口實はいくらでもあつたことでせう。
「茶碗一つが五十兩だとさ。――それが安いつて大喜びだ」
 久吉の機嫌はもつての外です。
 尤も、五十兩といふのは當時にしては一と身上とも言ふべき大金で、白雲頭の頃から奉公して、遠縁だけにろくな給金も貰はず、折角狙つた要屋かなめやの家督は、赤の他人の、養子山之助に取られてしまつた久吉としては、何時暖簾のれんを分けて貰ふ當てもないこのせつ、隱居が五十兩で茶碗を掘り出した夢中な姿が、ツイ小癪こしやくにさはつたものでせう。久吉は取つて二十八の、多血質で赤い顏をし、物事に容赦のならぬ男でした。
「そんなことを言はないで下さいよ。ね、久吉さん、御隱居さんは他にお樂しみがないんだから」
 心根の優しいお弓は、ツイ辯解する氣になるのも、無理はなかつたでせう。山右衞門はそれほどこの娘に眼をかけて、久吉のやうに氣性のはげしい男と一緒にするのさへ承知しなかつたのです。
「お弓さんが側にゐるんだ。この上樂しみがあつちやもつたいないぜ」
「あれ、お前」
「世間ぢや變なことを言つてるぜ。氣を付けるがいゝ」
 久吉はプイと立ちました。フト隱居の山右衞門が、若くして美しいお弓を側へ置くのが、唯ごとでないやうに言ふ店中の噂を思ひ出したのです。
「そんなことを、久吉さん」
「俺は歸るぜ。精々御隱居さんに可愛がつて貰ふがいゝ」
「あれ、久吉さん」
 追ひすがるお弓を拂ひのけて、久吉は外へ飛び出しました。生温かい青葉の風が頬を撫でて、何んとはなしに興奮をさそふ晩です。


 それから暫く下女のお仲は、泣き入るお弓の相手ですごしてしまひました。三十を越した出戻りのお仲は、お弓の素直さが氣に入つて、主人の留守には姉妹のやうに慰め合つてゐたのです。
「久吉さんはあんたにポンポン言ふれど、明日になれば後悔するに決つてゐるよ。あの通り正直者だから、考へたことを口に出さずにはゐられないんだね。――それがまた御隱居樣の氣に入らないのさ」
 そんなことを言ふお仲の聲と、シクシク泣くお弓の聲が暫くは格子の外までれてをりました。
「御隱居樣が、少し遲いやうね」
 お仲はフトそんなことに氣が付いたのは、久吉が歸つてから四半刻はんとき(三十分)も經つてからのことです。
「さうね」
 お弓はようやく乾いた顏をあげました。
「ちよいと、神明前まで行つて見ようかしら」
 氣の早いお仲はもう立ち上がつて支度をしてをります。
 濱松町の路地を出て、要屋の店の前を、神明の方へ行つたお仲は、近道をして路地へ入ると、そこに大變なものを見掛けたのです。
「人が死んでるとよ」
「何?」
「路地の中で、人が殺されてゐるとさ」
 どつと流れる人波、押されるともなく行つて見ると、月の隈もない路地の中程、隱居の山右衞門は脇腹わきばらをゑぐられて血潮の中に息が絶えてゐるではありませんか。
 それよりもお仲を驚かしたのは、寄つて來た彌次馬の中に、チラと手代久吉の顏を見たことです。
「あ」
 聲を掛けようと思ふと、久吉はもうどこかへ行つて姿を隱してしまひました。
 その間に町役人、土地の御用聞、神明樣の縁日で丁度出役してゐた同心などが集り、見知り人を濱松町の要屋に走らせて、月の路地の中ながら、取調べが始ります。
 要屋の養子山之助は驚いて飛んで來ました。年の頃、二十七八、分別者らしいうちに愛嬌があつて、大店おほだなの主人の貫祿は充分です。
「お前は?」
「要屋の主人山之助でございます」
「殺されたのは、お前の養父に相違あるまいな」
 同心浦邊吉十郎は一擧に事件を片付けるつもりか、テキパキとことを運びます。
「ハイ」
 山之助は死骸の上に痛々しく眼を落しました。
うらみを買ふやうなことはないのか。――日頃隱居をよく思はないと言つたやうな」
「飛んでもない。――父親のことをさう申しては何んですが、佛のやうな心掛の人でございました。店の者、御近所の衆にお訊き下さつても解ります」
「他に思ひ當ることはないのか」
「たつた一つございます」
「何んだ」
「何にか結構な掘出し物があるからと申しましてツイ先刻店から小判で五十兩ほど持つて參りました」
 さう言ひ終る山之助の言葉も待たず、御用聞の金杉の竹松は、死骸へ飛び付くやうに調べましたが、小判はおろか財布の中に小粒も殘つてはゐません。
「ありませんよ、旦那」
「よし/\。それも一つの手掛りにはならう」
「それからちよいとお耳に入れたいことがありますが」
 竹松、浦邊吉十郎に囁きました。
「何んだ」
「手代の久吉が、隱居を怨んでゐたと店の者が申しますが」
「それをつれて來るがいゝ」
「どこへ行つたか見えません」
「フーム」
「死骸を見付けて大騷ぎになつた時、確かに人ごみの中にゐたといふ者が二三人ありますが」
「その野郎だ。ぬかるな、竹松」
「へエ」
 金杉の竹松は、獲物を嗅ぎ出した獵犬のやうに飛びました。


 お弓が傳手から傳手を求めて、錢形平次を訪ねて來たのは、それから三日目でした。
「親分さん、こんなわけで、到頭久吉どんは縛られてしまひました。――平常ふだんから遠慮のない人で、ツイ言はなくても濟むことを言つて、主殺しの大罪人にされては可哀想でございます。どうぞ助けてやつて下さい。お願ひでございます」
 涙ながらに拜むお弓を見ると、尻の重い平次もツイ、この事件に飛び込んで見る氣になるのでした。
「親分、こいつは底もふたもありさうですぜ、行つて見ませう。金杉の竹松親分には惡いが、放つて置いちや可哀想だ」
 ガラツ八の八五郎までがこんなことを言ふのです。
「その晩久吉がお前のところにゐたことは、お仲が知つてゐるだけなんだね」
「え」
「そいつは誰にも言はなかつたのか」
「言へば久吉どんが、益々疑はれるばかりですもの」
「それが素人料簡といふものだよ。――物事を隱して一つも良いことがあるわけはない」
「でも」
「隱居のあとからすぐ外へ出たから、辯解いひわけが立たないといふのか」
「――」
「お前と別れてから、路地の死骸の側へ行くまで、ざつと四半刻(三十分)の間どこで何をしてゐたか。それさへ判れば久吉の疑ひは晴れるわけだ」
「それを言はないさうでございます」
「よし/\何にかわけがあるだらう。若い者は飛んだところで依怙地えこぢになるものだ」
 平次はたうとう御輿をあげました。ガラツ八と一緒に、何より先に殺された現場へ行つて見ましたが、兩側はへいになつてゐて、四方あたりの家が思ひの外遠く、何にか言ひ爭ひがあつたにしても、雨戸を閉めてゐたら、うつかり知らずに過したかも知れません。
 念のために訊いて廻るうち、いきなり悲鳴に驚いて飛び出して見ると、月下の路地の中に、脇腹を短刀に刺されて、要屋かなめやの隱居は倒れてゐたといふのです。
 尤も最初に驅け付けた近所の衆の話では、その時はまだ息があつて「茶碗」「茶碗」と言つたといふのですが、金杉の竹松はその意味を追及しようともせず、いきなり久吉に眼をつけて縛つたといふのでした。
 久吉の身持は、お弓といふものがあつたせゐか、店中でも堅い方で、貯蓄らしいものもほんの二三兩はあります。尤も、要屋で聽くと、決してかんばしい方ではなく、他家から入つて家督に直つた主人の山之助などは、口を極めてといふ程でなくとも、こと毎に久吉の陰險さをほのめかします。
 最後の手段は、まだ八丁堀に留められてゐる久吉に逢つて、隱宅を飛び出してから、路地の死骸の側へ來るまでの四半刻(三十分)をどこで過したか聽く外はありません。
 これもしかし平次の失敗でした。久吉は平次のことをわけての理解にも耳を塞いで、頑強にそれをこばみ續けるのです。
「久吉が他に言ひ交した女でもないのか。お弓の手前、言ひそびれてゐるんぢやあるまいか」
 平次はそんなことまで考へましたが、ガラツ八に洗はせた結果は、お弓に熱中した久吉は、他の女などを振り向いても見なかつたといふ證據が、際限もなくあがつて來るだけ。これも見事に當てが外れました。
「この上はたつた一つ。――お前の口から訊いてくれ。默り續けてゐると、俺にしても言譯がないものと思ひ込んで了ふ。こんなことで傳馬町へ送られると、取返しが付かなくなる」
 平次が心配するのはそれでした。久吉は氣性の激しい男ですが、主人を殺すやうな惡黨とは見えません。が、これだけ證據が揃つた上、下調べが濟んで奉行所のお白洲しらすに引出されると、あとから反證をあげるのに骨が折れます。
「參りませう、親分さん」
 お弓は久吉に逢へる喜びで一杯でした。
 八丁堀の組屋敷へ行つて、係りの與力に事情を話し、その許しを受けて、兎にも角にもお弓を久吉に會はせる手順だけはつきました。
「俺は立ち會はない方がよからう。――ぬかりもあるまいがこいつは久吉の命にかゝはることだ。隱宅を飛び出してから四半刻(三十分)の間、どこにゐたか、そいつを訊くんだぜ」
 平次に念を押されながら、お弓はいそ/\と番屋の中へ案内されて行きます。その後からそつといて行く八五郎、これは平次の目顏の指圖を受けて、二人の話を聽くためです。
 やゝ暫くすると、
「あゝ、やりきれないぜ。親分」
 汗を拭き乍らガラツ八が歸つて來ました。
「どうした八」
「どうにもかうにも、泣いたり笑つたり、口説くどき立てたり、すねたり」
「そんなことはどうでもいゝ。――あの四半刻(三十分)はどうしたんだ」
「へツ、それがね、親分。へツ」
「何をニヤニヤしてゐるんだ」
「極りが惡くて言へなかつたわけですよ。――久吉の野郎はお弓に會ひたさに、ひまさへあればフラフラ隱宅へやつて行くが、隱居が大目玉を光らせてゐるから、大つぴらに顏を見るわけに行かねエ」
「そんなことはどうでもいゝよ。肝腎かんじんの――」
「へエツ、錢形の親分もこの道ばかりは御存じがないから可笑しい」
「何を言ふんだ。馬鹿野郎ツ」
「馬鹿野郎の株は久吉ですよ。隱宅の隣の空家に忍んで、蔭ながらお弓の樣子を見てゐるんですつて。こいつは驚くでせう。親分」
「フーム」
「あの晩も腹立ちまぎれに隱宅を飛び出したが、お弓の泣いてゐるのが氣になつて、隣の空家に入つて、そつと樣子を見てゐたといふから甘えもんでせう」
「それはたしかか」
「久吉は、あの晩自分が飛び出してからのお弓とお仲のやり取りを一言半句殘らず知つてゐますよ。いやはや、その馬鹿々々しいといふことは」
「もういゝ、八」
「どうしました親分」
「それが本當なら俺は振り出しからやり直しだ。大變なことになつたぞ、八。お前も考へてくれ」
 平次は深々と腕をこまぬくのでした。


「親分、するとどういふことになるでせう」
 ガラツ八は鼻の穴を大きくするだけのことで、大した思案が浮びさうもありません。
「茶碗の方から當つて見る外はあるまい。神明樣の夜店の地割はどこでするか、訊いて來てくれ。それから、その井戸とかお濠とかの茶碗を持つてゐた道具屋を突きとめるんだ」
「そんなことならわけはありません」
 ガラツ八は飛び出さうとするのです。
「待つてくれ、お前を待つてゐるのも氣がきかない。俺も一緒に行かう」
 お弓の始末を人に頼んで、平次とガラツ八は芝に向ひました。
 手順をふんで、古道具屋を探し當てたのはその日の夕方。新網の裏長屋に、長兵衞といふ名前だけは強さうなボケ茄子なすのやうな親爺を訪ねると、
「あ、あの茶碗ですか。あれはもう返して了ひましたよ。夜店へ出して五十兩ぢや、賣れる道理はありません。あんなのを年に二つ三つは手掛けますが、みんな僞物ですよ。へツへツ」
 そんなことを言つて、慾が深さうにヘラヘラと笑ふのです。
「返したといふと、どこへ返したんだ」
「あれは私が買ひ取つたのぢやありません。また私風情が三十兩五十兩といふ品を買へるわけもございません。五六日前店を並べてゐるところへ、いきなり若い娘さんが來て――」
「若い娘?」
「へエ、目のさめるやうな娘でしたよ。――身裝みなりは惡かつたが、あんな綺麗なのは、神明にも狸穴まみあなにもありません」
「それがどうした」
「大事の品だが、どうしてもお金に代へなきやならない。箱や袋が揃つてゐれば、三百兩にも五百兩にもなる。茶碗だけでも見る人が見たら、百兩にも二百兩にもなるだらうが、大道でそんなことを言つても通用しないだらうから、せめて五十兩に賣つてくれ。賣れたら十兩までお禮を出すといふ話で、へエ」
「それから」
「大して店塞みせふさぎになる品でもございません。賣れて十兩の口錢なら惡い商賣ぢやないと思つて、七日ばかり並べて置きました」
「客が付いたのか」
「毎晩二人三人はきつと目をつけますが、値段を言ふとそれつきりになります。その中で、手付を置いたのが二人」
「どんな樣子の人間だ」
「一人は六十五六の立派な御隱居で、すぐ引返してくると言つてそれつきりになり、その次は三十七八の古道具屋の手代と言つた樣子の男でしたが、これも一兩の手金を置いて行つたきり、二日經つても品を取りに來ません」
「フーム」
「そのうちに茶碗を預けた娘さんが來て、どうやら金の都合がつくやうになつたから、茶碗を返してくれ――と。今度は立派な箱を持つて來て――それへ入れて持つて歸りましたよ。十兩の口錢は取り損ねましたが、手金が二度に四兩も入りましたから、まア/\良い商賣で――」
「立派な箱を持つて取りに來たのだな」
「へエ。内箱は桐の白木で、外箱はぬりがありました。袋は緞子どんす――」
「箱や袋が揃へば、五百兩もすると言つたな」
「へエ。――私ぢや眼は屆きませんが、その娘さんが確かにそんなことを言ひました」
「來いツ、親爺」
「へエ」
 平次の言葉の激しさに、長兵衞は、ハツと立ちすくみました。
「素性人別も判らない者から、そんな大事な品を預つて濟むと思ふか。叩けばほこりの出る野郎だ、來いツ」
 平次に手首をグイと掴まれて、親爺は一ぺんに悲鳴をあげたのです。
「あツ、親分。そいつは殺生だ。私は何んにも知りません。お許しを願ひます」
「知らないで濟むと思ふか。縛られるのが嫌だつたら、その娘の家を搜し出せツ」
「親分」
「八、構ふことはない。存分に縛り上げろ、そいつは贓品けいづ買ひだ」
「野郎ツ」
 八五郎が飛び付き樣、滅茶々々に縛り上げたことは言ふまでもありません。
「謝まつた、親分。言ひますよ、皆んな申上げますよ」
 ボケ茄子の長兵衞は、他愛もなくかぶとを脱いでしまひました。
 その白状によると、娘が井戸の茶碗を持つて來たことも事實、素性も家も教へなかつたことも事實ですが、見掛けよりも賢こさうな長兵衞は、最後に茶碗を受取つて歸る娘の跡をつけて、その家を突き留め、その入口に坐り込んで五兩といふ口留料をせしめて來たといふのです。
「太い奴だが、次第によつては許してやる。案内しろ」
「へエ――」
 いやも應もありません。平次とガラツ八は長兵衞を引立てて源助町まで飛びました。今度こそは一擧に事件の謎が解けさうです。


 平次の意氣込みを裏切つて、そこに待つてゐたのは失望だつたのです。
 訪ねて行つたのは源助町の裏長屋で、見る影もない貧しい調度の中に二十一二の――娘といふにしては少したうが立ちましたが、この上もなく上品な女がたつた一人、淋しく暮してゐるのでした。
 平次とガラツ八は飛び込みざま茶碗のことを訊くと、
「矢張り知れましたか、――それでは何も彼も申上げます。お聽き下さいまし」
 娘の話は長いものでしたが、かいつまんで言ふと、この娘はお袖と言つて、兄の彦太郎と二人は、大阪の名ある大町人の子に生れ、かつては人にもうらやまれる榮華も見ましたが父親が骨董こつとうに凝り始め、巨萬の身上を費ひ果し、死んだ後に殘つたのは、おびたゞしい僞物の骨董とそれから身に餘る借金だけといふみじめな有樣でした。
 二人の遺兒は、僞物の骨董を全部叩き賣り、たつた一つ殘つた――こればかりは眞物の、井戸の茶碗を抱いて江戸に下り、それを賣つて身を立てるしろにするつもりでしたが、骨董屋は兄妹の頼る者もない薄倖につけ込み、その足許を見て恐ろしく踏み倒し、仲間が連絡して兄妹を屈伏させにかゝつたのです。しかし兄の彦太郎はきかん氣の男で、骨董屋に最後通牒を叩き付けて談判を打切り、無理に妹を説いて、それを夜店の古道具屋に預け、裸の茶碗を眼のきく人に五十兩くらゐに賣り付け、その後で箱や袋などの附屬品を持込んで、せめて二百兩なり三百兩なりのまとまつた金にしようといふ、不思議な詭計きけいを思ひ付いたのです。
 が、二度共手金流れになつて、茶碗は幾日經つても賣れさうもありません。強氣の彦太郎もいよ/\江戸には縁がないものと諦めて、古道具屋から茶碗を取り上げ、それを持つて、もう一度故郷の大阪へ行つたといふのです。
 お袖は取つて二十一、留守の兄彦太郎は二十八、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)らふたく美しく育つて貧しさにしひたげられながらも、人などを殺せさうな人柄でないことは平次にもよく判ります。
「では一つ訊きたいが、四日前の――あの神明樣の縁日の晩、兄とお前はどうしてゐたんだ」
 平次は最後の問ひを投げました。
「あの日は兄と一緒に板橋の親類へ身の振方の相談に參り、遲くなつて泊つてしまひました」
「――」
 平次は默つて引下りました。その日のうちに板橋へ下つ引を走らせると、彦太郎とお袖兄妹はあの晩板橋で過したことは疑ふ餘地もありません。
「さあ困つた」
 平次は何時にない迷宮に入り込んでしまつたのです。
「親分、手代の久吉は許されましたよ」
 ガラツ八がこの報告を持つて來たのは翌る日でした。
「どうして無實と解つたんだ」
「お弓と話したのを聽いたのは、あつしばかりぢやなかつたんで」
「成程な。壁に耳といふことを忘れてゐたよ。ところで、久吉は店へ歸つたのか」
「一度は店へ歸つたが、いや氣がさしたものか、暇を取つて在所の調布てうふへ歸つたやうですよ」
「フーム、御苦勞だが、八」
「何んです、親分」
 八五郎に御苦勞などはありません。
「調布へ行つて、久吉がどんな樣子で歸つたか調べてくれ。五十兩とまとまつた金を持つてゐるやうなら、構はず縛つて來い」
「大丈夫ですか、親分」
「俺は少し考へたことがある」
 八五郎を調布へやると、平次は、もう一度芝へ行きました。濱松町から神明一帶を訊いて廻つて、久吉が日頃手なづけて居るといふ、少し人間のお目出度い樽拾たるひろひの三次といふ少年を搜し當てると、
「さア、みんな言つて了へ。お前は要屋かなめやの手代に何を貰つた」
 こんな調子でトントンと白状させてしまひました。それによると、久吉は三次に小錢をやつて手なづけ、隱宅の隣の空家から見張らせて、隱居の山右衞門の留守を狙つて出入りしたばかりでなく、山右衞門の殺された神明の縁日の晩は、自分が飛び出した後、三次をつれて來て空家から隱宅を見張らせ、一から十まで報告させて、たくみに現場不在證明アリバイを拵へあげたと判つたのです。
        ×      ×      ×
 ガラツ八が手代久吉を調布から縛つて來たのはその翌る日でした。在所へ歸つてすつかり氣を許した久吉は、百兩あまりの金を見せびらかして、土地の人に大盡風を吹かせてゐたところへ、江戸の御用聞の八五郎が踏込んだのです。その金の中に、要屋があの晩隱居に渡した五十兩が、包も解かずにあつては、申譯が立ちません。
「どうしてあんなことが解りました、親分」
 何事も濟んだ後で、ガラツ八は例の繪解きをせがむと、
「空家に久吉がゐたといふから、話がわからなくなつたのさ。空家に代りを入れて、自分は外で細工さいくをする手のあることを忘れてゐたんだ」
 平次は面目次第もない顏をするのです。
「お弓は可哀想ですね」
「可哀相だが仕方があるまい、女は惡い男にかゝり合ひをつけると一生の災難だ。久吉は一寸正直さうな顏をしてゐるが、あんな惡い奴はないよ。自分のことしか考へない人間ほど恐ろしいものはない。一寸見は正直さうだが、腹の中は鬼だ」
「お袖兄妹はどうなつたでせう」
「俺はあの彦太郎も怪しいと思ふよ。あんな細工をしたのは、茶碗を買ひに行く人間の跡をつけて、途中で金を盜るつもりだつたのかも知れない。五百兩もする品を五十兩で賣るといふのは變ぢやないか」
「でも」
「あの妹のお袖は善人さ。女も美しい氣立ても申分はないやうだ。が、兄のことまではわかるものか。現に丁度あの頃、狸穴まみあなの骨董屋の手代で、五十兩剽盜に取られたといふ訴へが出てゐる」
「へエ――」
「でも、俺はそこまで詮索せんさくする氣がなかつたよ。土地の御用聞に任せて置くことだ。――あの兄妹はよく/\骨董こつとうに凝る人間が憎いやうだから」
 平次は、さう言つて八五郎のうさんな顏を見やるのでした。骨董が憎いなどといふ心持は、八五郎の心理學にはないことです。それどころか、この時八五郎の心を一パイ埋めてゐるのは、お弓の泣き濡れた姿と、それをどう慰めたものかと思ふことだけだつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第二十五卷 火の呪ひ」同光社
   1954(昭和29)年5月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1942(昭和17)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード