錢形平次捕物控

月の隈

野村胡堂





 師走しはすに入ると、寒くてよく晴れた天氣が續きました。ろくでもない江戸名物の火事と、物盜り騷ぎが次第に繁くなつて、一日々々心せはしく押し詰つた暮の二十一日の眞夜中。
「おや?」
 神田鍋町の呉服屋、翁屋おきなやの支配人孫六は、何にか物におびやかされるやうに眼を覺しました。土藏の方から、異樣な物音が聽えて來たのです。
 土藏の中には、商賣物の呉服太物ふとものと、暮の間に問屋筋への拂ひに當てるために、ひと工面して諸方から掻き集めた金が、ざつと千兩も入つてをります。萬一それを盜られでもした日には、老舖翁屋の暖簾のれんを掛けたまゝ正月は迎へられないことになるでせう。
「?」
 もう一度異樣の物音。それは夜の怪鳥けてうの聲でなければ、土藏の戸前のきしむ音でなければなりません。
 孫六は飛び起きて帶を締め直し、一歩踏み出さうとしましたが、思ひ直して引返すと、箪笥たんすの上に置いてあつた用心の脇差を提げて、隣の部屋に寢てゐるせがれの孫三郎に聲を掛けました。
「變な音がするから、ちよいと裏の方を覗いて來るよ。あとを氣をつけてくれ」
「――」
 よく目の覺めきらない孫三郎のムニヤムニヤ言ふのをそびらに聞いた、老支配人の孫六は裏口からそつと外へ出た樣子です。
 それからものの煙草を二三服吸ふほど經つて、土藏の方から、何やら聞えたやうにも思ひますが、孫三郎もそこまでは判然はつきりわかりません。
 やがて、ワツと押し潰されたやうな恐ろしい聲を聽くと、孫三郎は事態の容易ならぬを直覺して、彈き上げられたやうに飛び起きました。
 開け放したまゝの裏口から跣足はだしで飛び出した孫三郎は、漸く屋根の波を離れた遲い月の光の中に、
「あツ、父さん」
 紅に染んで土藏の前に倒れてゐる、父親の孫六を抱き起してゐたのです。それは實に一瞬の間に起つた大動亂でした。
「父さん、どうしたんです。誰がこんなことを――」
 伜孫三郎の腕の中に、辛くも擧げた孫六の顏は、月の光の中ながらあゐいたやう、自分の脇差に胸を貫かれて、最早頼み少ない姿です。
「父さん、確りして下さい。誰がこんなことしたんです。誰が、どこの誰が、父さん」
 さう言ふ孫三郎の顏を、死に行く父親の眼は凝つと見詰めました。
「逃げたよ、――よその人だ、――あの男だ」
「どこへ逃げたんです」
 孫三郎は逃げた曲者を追はうとしましたが、自分の腕の中に、死んで行く父親の姿を見ると、それもならずに立ちすくみます。
「無駄だ、――それより、金を」
 父親の眼を追つて行くと、土藏の入口には錢箱が一つ、中から落散つた小判が、夜目にもあざやかに輝きます。
「金は大丈夫ですよ、盜られやしません。それより氣を確かに持つて下さい。今誰かを呼んで來ますから」
「待つてくれ。俺はもう」
「あ、父さん」
「――」
「確りして下さい。父さん」
 孫三郎は父親の命を取止めようと骨を折りましたが、その時はもう力が盡きたものか、生命の最後の痙攣けいれんが走ると、伜の腕の中にがつくりと崩折れてしまつたのです。
「どうした、孫三郎どん」
「何が始まつたんだ」
 裏口から手代の徳松と、下女のお福と、それに續いて主人の妹お梅とが一團になつて飛び出しました。少し遲れて大勢の奉公人達、最後に若主人の半次郎、これはひどく取亂して、寢卷の帶を結んだり解いたり、死骸の側へも寄れないほどのおびえやうです。


 八五郎のガラツ八が、鍋町の現場から驅け戻つたのは、翌る朝でした。
「親分、落着いてゐちやいけませんよ。あつしが行くと、三河島のおびんづる野郎が來て、町内の萬屋茂兵衞を縛つて行くぢやありませんか」
「おびんづる野郎てエ奴があるか、金太親分と言へ」
「へツ、そのおびんづる金太親分の言ひぐさしやくぢやありませんか――世間ぢや江戸の岡つ引は錢形の親分たつた一人のやうに言ふが、お膝下の鍋町に殺しがあるのに、戀女房の傍から離れられないかも知れないが、今頃子分の八五郎兄哥が顏を出すやうぢや、錢形の親分も燒が廻つたね。お氣の毒だが下手人は一と足先にこの金太がさらつて行くよ。左樣なら――だつてやがる」
「まさにその通りさ。なア、お靜」
 平次はお勝手にゐる女房の方を振り返つてかう言ふのでした。
「まア」
 戀女房のお靜は消えも入りたい心持でせう。お仕舞の手を休めて、ゑんずるのです。
「だから親分、ちよつと行つて見て下さい。金太親分は見當違ひをしてゐるに違ひありませんよ」
「それだけ判つてゐるなら、お前がやるがよからう。俺はまだ女房の傍が離れたくないよ」
「ま、お前さん」
 お靜はたまり兼ねて、障子越しにたしなめました。
おびんづる親分は、孫六が死に際に言つた――よその人だ、あの男だ――といふのをたてに、平常ふだん孫六と仲の惡い萬屋茂兵衞を縛つたが、下手人が外から入つた跡がないんだから面白いぢやありませんか、ね親分」
「外から入つた跡がない?」
「逃げた樣子がないと言つた方がいゝかも知れませんね」
「フーム、面白さうだな。もつとくはしく話せ」
 平次も膝を乘出しました。最初から通り一ぺんの押込と思ひ込み、ガラツ八の手柄にさせるつもりで、御輿みこしをあげなかつた平次ですが、かうなつて來ると矢つ張り、岡つ引本能がヂツとしてはゐません。
「一方は土藏で、一方は隣の家だ。店へ拔ける口は一つで、そこから孫三郎が飛び出したんだから、曲者は裏木戸から逃げる外に道はない。ところが、木戸は内から念入りに締つてゐたといふし、塀には恐ろしくヤハな忍び返しが打つてあるから、うつかりさはつてもはづれるに決つてゐる。萬屋茂兵衞は一體どこから逃出したのでせう、親分」
 ガラツ八は唾を飛ばしながら辯じました。
「俺に訊いたつて判るものか、番所へ行つて萬屋茂兵衞に聽くがいゝ」
「茂兵衞だつて、鳥や土龍もぐらもちぢやありませんよ。あの箱の中のやうな庭からどこをどう逃げ出したといふんで? え、親分」
「俺が叱られてゐるやうだな。ところで、騷ぎになつた時、その人數の中に翁屋の店の者でない顏がゐなかつたのかな、――孫六を殺して、土藏の庇合ひあはひとか、井戸の後ろとか、戸袋の蔭とかに隱れて、大勢人が出たところへ、そつとまぎれ込む手はあるぜ」
 平次はさすがに細かいところに氣がつきます。
おびんづる親分もそんなことを言つてゐました。萬屋茂兵衞は、どこかに隱れてゐたに違ひないつて」
「で?」
「いゝ鹽梅あんばいに、誰も萬屋茂兵衞なんか見た者はありませんよ。金太親分が十手を振り冠つて萬屋に乘込んで行くと、温かい味噌汁で、朝飯を三杯半食つてゐた――」
 ガラツ八の話は次第に面白くなります。
「土藏の裏とか戸袋の蔭には、足跡ぐらゐあるだらう」
「そいつが一つでもあつたらお笑ひぐさだ。この月になつてから、雨も雪も一度も降らない上に、あの邊は家が建て込んでゐるから、ろくな霜柱も立たねエ」
「成程、むづかしいな、――丁度良い修業ぢやないか、もう一度行つて念入りに見て來るがいい。家の者一人々々に逢つて、孫六をうんと怨んでゐる者はないか、のどから手の出るほど金のほしい奴はないか、よく訊いて見るがいゝ」
「親分は?」
 ガラツ八は少し心細さうです。
「俺は外の噂をかき集めて見よう。若主人の半次郎は先代の主人が達者でゐる頃は、道樂が強くて潮來いたこへ追ひやられてゐた筈だ。近頃はさすがに一家の主人だから、馬鹿なこともしないだらうが、それでも一應は當つて見るがいゝ」
「へエ――」
「それから、孫三郎の聲に驚いて飛び出したのは誰が先で、誰が後か。身扮みなりから、あわてやう、着物に血のついてゐた奴はなかつたか、後の始末は誰がどんなことをしたか、できるだけ詳しく聽きたい」
「――」
「孫三郎が――よその者だ、あの男だ――と言つたのはわけのあることだらう。拔かるな八、思ひのほか底が深いぞ」


 ガラツ八の八五郎がもう一度引返した時は、翁屋おきなやはすつかり片付いて、町内の衆や親類方が引つきりなしに出入りしてをりました。下手人が擧つてしまへば、あとはともらひの仕度が殘されてゐるだけです。
「あ、親分」
 八五郎の顏を見ると、手代徳松はちよつとイヤな表情をしましたが、物馴れた商人あきんどらしく一瞬の間に取繕つて、
「御苦勞でございます」
 さり氣なく挨拶するのでした。二十七八の典型的なお店者たなもので、考へやうでは一筋繩ではゆけさうもありません。
「ちよいと聽きたいが」
「へエ――」
「若主人の半次郎は、勘當されてゐたさうだな」
「それは昔のことでございますよ」
「何時から家へ戻つたんだ」
「先の旦那樣が亡くなつた時、支配人の孫六さんが潮來いたこからお呼寄せになつて、御親類方にもちやんと御挨拶をして家督に直りました。へエ」
「それはいつのことだ」
「半歳ほど前でございます」
「あまり昔でもないやうだな、――ところで、近頃は身持が良いのか」
「へエ――」
「變な返事だな、まだ堅くはなりきれまい。お前も一緒に泳ぎ廻るんぢやないのか」
「飛んでもない、親分」
 徳松は面喰ひましたが、八五郎にさう鑑定されても文句のないやうな小意氣な肌合ひの男でした。
「今朝孫三郎の聲を聽いて、お前が眞つ先に飛び出したさうぢやないか」
「へエ、――番頭さんが起きた時から眼を覺ましてゐましたから」
「お前の次は誰だ」
「お福でした。それからお孃さんで、あとはわかりません。大勢一緒に飛び出しましたから」
「主人の半次郎は?」
「一番後でした」
「確かに主人は裏口から出て來たのかい、戸袋の蔭ぢやあるまいな」
「主人が見えないんで、迎へに行かうとしてゐるところへ、裏口へお顏を出しましたから、間違ひはありません」
 徳松には八五郎の言葉の意味がよくは判らなかつた樣子です。
 ガラツ八は徳松に孫三郎を呼出させる間、裏口から土藏のあたり、井戸の傍、ひさしの下、戸袋の蔭を念入りに調べましたが、土藏は敷地一パイに建てた上、嚴重なさくをめぐらされて、横へも裏へも廻る方法はなく、井戸はお勝手に喰ひ込んで、後ろに人間の隱れる隙間もありません。
 平次に注意された戸袋の蔭は、身を隱せないこともありませんが、昨夜の騷ぎは月が登つてからだとすると、眞向きから照し出されて、土藏の前に集まる人から眉毛までも讀まれさうです。たつた一つ殘る縁の下は、野良犬除けに嚴重にふさいであり、どんなに機轉のきく下手人でも、孫六を殺してどこかに姿を潜め、大勢土藏の前へ集まつた時出て來て、何喰はぬ顏をするといふことは、絶對に不可能です。
「親分、御苦勞樣で」
 思案に暮れたガラツ八の後ろへ、打ちしをれた孫三郎が立つてをりました。
「孫三郎さんか、お氣の毒だね。力を落さない方がいゝぜ、親の敵は俺が討つてやるから」
「有難うございます」
 八五郎はドンと胸でも打つて見せたいやうな、英雄的な氣持になるのでした。
「ところでちよつと聽きたいが、土藏の鍵はどこにあるんだ」
「親父の休んでゐる部屋の柱に掛けてありますが、取らうと思へば誰でも取れます」
「宵のうちに鍵を持つて行かれても、氣がつかずにゐることはあるわけだね」
「へエ」
「それから、昨夜裏口から土藏の前のあたりは、よつ程明るかつたのか」
「月は屋根を離れて高くなりかけてゐましたから、暗い家の中から飛び出すと、四方あたりはよく見えました」
「物の蔭があつたらう。庇の下とか、建物の袖とか、――人間が隱れてゐられるくらゐはあつた筈だと思ふが」
「いえ、御覽の通りで、人一人隱れるやうな場所はありません。井戸の中へでも入つてブラ下がつてゐれば別ですが、――車井戸ですから、そんなことをするとすぐ判ります」
「――」
「土藏の入口は霧除きりよけの下で一寸薄暗かつただけ、あとは何んの蔭もない場所です。親父が――逃げた――と言つた時、四方を見廻しましたが、木戸は締つてゐましたし、この邊には誰もゐなかつたことは確かです。すると間もなく裏口から徳松どんが飛び出して來ました」
「それから」
「つゞいてお福が出たやうです。あとは五六人一緒でしたから、誰が誰やらわかりません」
 かう言はれると、家の中に下手人があると思ひ込んだ、平次の鑑定も怪しくなります。
「ところでもう一つ訊きたいが、翁屋おきなやの商賣の方はどうだつたんだ。あまり良くない噂を聽いたやうに思ふが、――」
「こゝだけの話でせうか、親分」
 孫三郎は不安らしく八五郎を見上げました。三十を少し越したばかりの苦み走つたといふよりは、少し粗野な感じのする男ですが、何んとなく血の氣の多い純情家らしくもあります。
「この場限りだよ、誰にも言ふわけぢやない」
「それなら申しますが、――實はあまり良くない方で――」
「若主人の費ひ方がひどかつたやうだな」
「そればかりぢやございません。商賣も手違ひがありました。この暮は大難場で、問屋筋の拂ひだけでも二千兩は要る筈ですが、――親父は一生懸命に工夫をして千兩ばかり拵へ、それを土藏の中に置いたのです」
「金は盜られなかつたのだな」
「へエ――、曲者が錢箱を持出したところを親父に見付けられ、錢箱を投り出して、親父の持つてゐた脇差を奪つて突いたのでせう、さやは死骸の傍に落ちてゐました」
「ひどい血だつたが、家の者で着物に血のついてゐたものはなかつたのか」
「氣がつきませんでした。もつともあとで死骸の片付けに手を貸した徳松どんとお才さんは、ひどく血で汚れましたが――」
「若主人はお前の父親を怨んでゐるやうなことはなかつたのか」
「飛んでもない、親分」
「煙たがつてはゐたんだらう」
「そんなことがあつたかも知れません。主人と番頭でも、年も違ひますし、親父は忠義者でしたが、この上もない一克者でしたから」
 老番頭と道樂者の若主人との關係が、孫三郎の口吻くちぶりでいくらか判ります。
「お才さんとかいふのは、若主人の許嫁だといふが、本當か」
「へエ――、遠い從兄妹いとこ同士ですが、來年の春は祝言することになつてをります」
「そのお才の實家は?」
「商賣の手違ひで沒落した上、お才さんの父親は三年前にそれを苦にやんで自害し、お才さんは大伯父に當るこの店の先代に引取られて、今の若主人と許嫁の披露をしました」
「若主人はお才を嫌つてゐるんではないのか」
「そんなことはございません。お才さんは賢い人ですから若主人もすつかり感心してをります」
「浮氣と許嫁とは別なわけか」
「――」
 八五郎は何にかつばでも吐きたいやうな氣になりました。


 次に八五郎の逢つたのは若主人の妹、お梅といふ十八の娘でした。
「昨夜お孃さんが出た時は、死骸の傍に誰と誰とがゐました」
「さア――、孫三郎と、徳松と、お福と、あとは判りません」
 丸々と肥つた可愛らしい娘ですが、兄の半次郎と違つて性根はなか/\確りしてゐさうです。
「兄さんは?」
「一番後から出て來たやうです」
 裏口へ帶ひろ解けで出た半次郎の取亂した姿は、月明りの下で皆んなに見られたのでせう。
「兄さんの道樂は相變らずひどいやうだね」
「――」
 八五郎の無遠慮な問ひに、お梅は眉を垂れました。この上何にか言つたら、ワツと泣き出してしまひさうです。
「お才さんとお孃さんは? 仲が惡いやうなことはないでせうな」
「お才さんは、よくできた人ですもの」
 お梅は顏を擧げてきつぱり言ふのでした。
 十八の娘からこれ以上何んにも引出せさうもないと判ると、八五郎は今度はお才に逢つて見る氣になりました。
 わざと人目をけたお才の部屋で、至つて質素な調度の中に、二十三になるといふ娘は、愼み深く目を伏せます。
「若主人の道樂はひどいやうだが、それでもお前さんは一緒になる氣に變りがないのだね」
「――」
 お才は默つて顏を擧げました。確と肯定した眼差です。少し痩立やせだちの淋しい姿ですが、目鼻立ちも端麗に、如何にも聰明さうで、道樂者の半次郎には、幾らか煙たがれると言つた樣子があります。
「お前さんが土藏の前へ行つたのは、何時頃だらう。お福の後だらうと思ふが――」
「え、小僧さん達と一緒でした。私の部屋はこの通り裏口へは一番遠くなつてをりますから」
「殺された孫六を怨んでゐる者はあるまいな。この家の者で」
「あんな良い方ですもの、怨んでなんかゐるものはありません。少し固過ぎましたが、忠義一てつで、よく奉公人達にも眼をかけてやりました」
「お前さんは?」
「私はわけても番頭さんの恩を受けてをります。私の父親が商賣で縮尻しくじつたとき、孫六さんがこの家の先代を説いてお金を出させ、どんなに骨を折つて下すつたかわかりません。尤もそれが反つて手違ひになつたので、番頭さんはいつでも私に、濟まない濟まないと言つてゐましたが」
 二十三になる聰明な娘から、ガラツ八の引出せるのはたつたこれだけでした。
 次に逢つたのは若主人の半次郎。これは二十五といふ無分別者で、番頭の孫六が頭を押へてゐなかつたら、どんな脱線をするかわからない道樂者です。
 ちよつとノツペリした丹次郎型で、言ふことは賢さうですが、鹽つ氣の足りない、何にか恐ろしく頼りないところがあります。
「昨夜のことを一通り話して貰ひたいが――」
 と、物々しく押つ冠せる八五郎にも、
「いや、もう、何んにも知らずに寢てしまひましたよ。尤も少し腹の立つことがあつて、寢る前に冷で二三杯引つかけたが――」
 と言つた調子です。
「腹の立つことと云ふと――?」
「何アにほんの些細ささい内證事ないしよごとで、へツ、へツ」
「死骸を見ると、ひどくあわててゐたといふぢやありませんか」
「親分の前だが、誰だつて驚きますよ。不意に脇差を突立てた死骸を見せられちや、――あれを見て驚かないのは、身に覺えのある奴ばかりで――」
 こんな問答を重ねても無意味なので、八五郎はいゝ加減にして切り上げました。
 もうやがて日暮れでせう。念のため下女のお福に逢つて見ると、これは三十過ぎの出戻りで、此方で訊きたいことの三倍も物を言ふ肌合ひの女です。
「――お孃さんと旦那樣と何にか言ひ合つてゐなすつて、――え、夜半近くまでですよ。お蔭でお孃さんの隣の部屋に寢てゐる私は、すつかり寢そびれてしまひましたよ。間もなくトロトロとしたと思つたら、あの騷ぎでせう。驚いたの、驚かないの――」
 と言つた調子です。
「お梅さんと若主人は、何で喧嘩をしたんだ」
「喧嘩ぢやございませんよ。ほんの言ひ合ひで、――何んでも、かぎがどうとか、千兩がどうとか、三百兩でいゝとか――」
 八五郎は雀躍こをどりしました。秘密の緒口いとぐちはこゝからほぐれて來さうです。
 早速お梅を呼んで、昨夜兄と爭つたことを訊きましたが、十八娘はサメザメと泣くばかりで何んにも言ひません。
「何んでもございません。――お才さんが可哀さうだから身持に氣をつけるやうにと言つただけです」
「千兩とか、三百兩と言つたさうだが――」
「それはお福の夢でせう。よく飛んでもない夢を見るんですから、ホ――」
 お梅は泣き顏をほころばせて笑ふのです。
 若主人の半次郎に會つて同じことを訊きましたが、これもたくみに鋭鋒を避けて、少しも要領を得させません。


「親分、こんなことだ。口惜くやしいが少しも判りませんよ」
 ガラツ八が歸つたのはもう雀色時、平次はそれを待ちくたびれて、煙草ばかり吸つてゐるところでした。
「お前にしちや上出來だ。段々目鼻がついて行くぢやないか」
 平次は報告を聽くと、自分の手持ちの材料と照し合せて何にか獨り呑込んでゐるのです。
「どんな目鼻で、親分」
「證據は直つ直ぐに、若主人の半次郎を指してゐるよ」
「へエ――」
「半次郎の道樂は止まない、――近頃は吉原の何んとか言ふ女に入れ揚げて、身請みうけの相談になつてゐるさうだ。下つ引をやつて調べさせると、年内に三百兩の金を積んで根引をする約束だとさ」
「へエ――、三百兩」
「それを持出さうとして、妹のお梅に意見されたんだらう。昨夜の言ひ合ひといふのは多分それだ」
「――」
「半次郎は妹の意見を聽かずに、たうとう土藏から金箱を持出した。そこを番頭の孫六に見付かつて、こは意見をされたんだらう――いや煙草二三服といふから、意見をする暇がなかつたかも知れない。兎も角、翁屋が立つか潰れるかといふ千兩の金だ。それを持出されちやかなはないから、一生懸命止めたに違ひあるまい。番頭の忠義も、道樂息子には通じなかつた。いきなり孫六の持つてゐた脇差を奪つて胸を突いたが、孫三郎が出て來たので驚いて姿を隱した」
「どこへ隱れたのでせう、親分」
「そいつが判れば、半次郎を縛るよ」
 平次もハタと當惑した樣子です。
「孫六が伜に介抱されながら、下手人のことを訊かれて――逃げた、よその人だ、あの男だ――と言つたのはどういふわけでせう」
「若主人をかばつたのだよ。忠義な番頭は、自分は殺されながらも主人を助けようと思つた。――氣の毒ぢやないか」
 それはありさうなことです。曲者は絶對に外から入らないとすると、孫六は誰かを庇つてゐたに違ひありません。
「兎も角、翁屋へ行つて見ませうか」
「さうしよう。こゝで考へるより、皆んなの顏でも見たら又良い智惠が浮ぶかも知れない」
 平次とガラツ八は、つれ立つてもう一度翁屋へ――。
 そこは丁度お通夜で、家中が抹香まつかう臭くなつてをりました。一とわたり家の中の空氣を見ると、平次は若主人の半次郎と、妹のお梅を別室に呼び入れ、かなへになつて靜かな話を始めました。
「ね、御主人、隱さずに言つて下さい。番頭の孫六が日頃庇つてゐたのは、誰と誰です」
 平次の問ひは變なものでした。
「私は叱られ通しで、――孫六は妹のお梅と、從妹いとこのお才を可愛がつてゐましたよ」
「お梅さんを可愛がるのに不思議はないが、お才さんを可愛がるといふのは?」
「あれの父親が身上しんしやうを仕舞つて、身投げまでするやうになつたのは、孫六が餘計な世話をして、反つて商賣をいけなくしたからだと思ひ詰めてゐた樣子です。お才をこの家へ引取つたのも、孫六の差金でしたよ」
 さう聽くとありさうなことですが、それが事件の鍵にならうとも思はれません。
「ところで、昨夜御主人は土藏から金を持出さうとした筈ですね」
「――」
 半次郎とお梅は顏を見合せました。
「隱さずに言つて貰ひたい。三百兩持出して、女の身請みうけをしようとした。それを妹さんが意見した、――聞かずに夜中に行つて金箱の千兩を持出したが、孫六に見とがめられて――」
「それは違ふ。親分、かうなれば皆んな言つてしまひますが、三百兩持出さうとしたのは本當です」
「あれ、兄さん」
 お梅は驚いて、兄のたもとを引きました。
「お前は默つてゐろ――皆んな言つてしまつた方がいゝよ。親分、聽いて下さい。私が三百兩持出さうとすると、妹は土藏の鍵を隱してしまつたんです。夜半よなかまでそれで喧嘩しましたが、あの騷ぎがあつた後で氣がつくと、妹の隱した鍵を誰か持出して土藏を開け、金箱を持出して、孫六に見とがめられ、逃げ場がなくなつて殺したんでせう。私は仕樣のない道樂者ですが、孫六を殺すやうな非道なことはしません」
 半次郎は一生懸命でした。その辯解は暗いところだけですが、兎も角も筋だけは通ります。
「鍵はどこへ隱しなすつたんだ」
 平次はお梅をかへりみました。
「お勝手の戸棚へ入れて置きました」
 お梅はさう言ふのが精一杯です。
「親分」
 ガラツ八は後ろから平次を突きます。
「えつ、默つてゐろ、――まだお前などに判るものか」
 通夜の坊主の眠さうな經が聽えて、夜は次第に更けて行きます。


 昨夜孫六が殺された時刻――それよりほんの少し遲く、平次は關係者一同を、昨夜と同じ順序で土藏の前へ驅け附けるやうに命じました。
 土藏の戸前は開けたまゝ、平次はどこかに身を隱して、その霧除きりよけの下に八五郎が倒れて合圖をする上、一番先に孫三郎が飛んで來ました。續いて徳松、お福、お梅、その後からお才や小僧達が一國になつて駈け集ると、
「おや、親分」
 どこかに身を隱してゐた筈の錢形平次は、何時、どこから現はれるともなく、大勢の中に交つて、ニヤニヤ笑つてゐるではありませんか。
「下手人の隱れてゐた場所に、俺も一寸隱れて見たのさ」
「どこです、親分」
 屋根を離れて中天に昇つた明るい月光の下、人間一人姿を隱せる場所などはあらうとも思はれません。
「――主人が一番怪しかつた。一番後で裏口から出たのを、皆んなで見てゐなければ、俺はきつと主人を縛つたに違ひない、――しかし大勢の人が順々に飛び出して來る裏口へ、番頭を刺してぎやくに飛び込む隙はない筈だ」
「――」
 平次は顧みて他を言ひます。翁屋の店中の者は月の光の中にひと塊りになつて、平次の論理の發展に固唾かたづを呑みます。
「本當の下手人は、裏口から出た姿を誰にも見られなかつた人間だ。主人でも徳松でも、お梅さんでも、お福でもない。勿論孫三郎でもない、――」
「――」
曲者くせものは孫六と土藏の前で顏を合せると、重い金箱を投げ捨てて脇差を孫六の手からり、あつと言ふ間にその胸を突き、裏口から孫三郎が飛び出すのを見ると、あわててもとの土藏の中へ入つた――あんまり近いので、曲者が隱れたのが土藏とは誰も氣がつかなかつたのだよ」
「あつ、成程」
「孫六は脇差で突かれながらも、曲者をかばつた。孫六が息を引取つて、大勢の人が土藏の前へ集ると、曲者はそつと土藏から滑り出してその中に紛れ込んだ、――それに相違あるまい。な、お才さん」
「――」
 半次郎の許嫁のお才は、平次に指さゝれると、そのまゝヘタヘタと大地に崩折れたのです。
        ×      ×      ×
 お才は擧げられましたが、お調べ中頓死。半次郎はすつかり改心して眞人間に返り、その心持を實行に移すために死んだ孫六の伜孫三郎に、妹のお梅を娶合めあはせて、翁屋の家督をゆづり、自分は蔭ながら翁屋の家業回復につとめました。
 一件落着の後、
「親分、お才は何んだつて土藏から金を盜み出す氣になつたんでせう」
 八五郎は相變らず平次に説明をせがみます。
「あの女は利口過ぎたが、生れつき嫉妬しつとがひどかつた。半次郎とお梅の言ひ爭ひを聽いて、つくづく半次郎を夢中にさせる相手の女が憎くなつた。せめて金を隱したら、半次郎が三百兩持出して身請みうけするといつたやうな馬鹿なことを諦めるかも知れないと思つたんだらう」
「孫六まで殺すのは、ひどいぢやありませんか」
「孫六はお才を庇つたが、お才は決して孫六をよくは思はなかつた。自分の家を潰したり、父親に自殺をさせたのは孫六のせゐだと思つたのかも知れない」
「へエ」
「怖い女だな。だが、矢つ張りもとは半次郎が惡い。番頭が骨を折つてかき集めた金を持出して、女を身請するといふのは、よく/\の罰當りだ。借金だらけな翁屋の身上しんしやうを棄てたくらゐぢや罪亡ぼしになるまい」
「――」
「思ひ詰める女より、思ひ詰めさせる男の方が罪が深い。八、お前なんかもつまらない罪を作るんぢやないぜ」
「へつ」
 八五郎は一向罪を作りさうもない、長んがいあごを撫でました。





底本:「錢形平次捕物全集第二十五卷 火の呪ひ」同光社
   1954(昭和29)年5月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1941(昭和16)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


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