錢形平次捕物控

狼の牙

野村胡堂





 順風耳の八五郎は、相變らず毎日一つくらゐづつは、江戸中から新聞ニユース種を掻き集めて來るのでした。
 その中には隨分にもつかぬものがあり、十中八九は聞流しにしてしまひますが、中には無精者の錢形平次を驅り立てて、恐ろしい事件の渦中に飛び込ませることも少くはなかつたのです。
「聽いたでせうね、親分。あの話を」
 格子を足で開けると、彌造を二つ拵へたまゝ火鉢の向うに坐つて、こんな突飛なことを言ふ八五郎でした。
「聽いたとも、お前が横町の荒物屋のお光坊を口説くどいたつて話なら、町内で知らない者はないぜ」
 錢形平次は相變らずの調子です。
「へツ、わらはかしちやいけませんよ、口説いたのはお光坊の方で」
「宜い氣なものだ」
あつしの方から御免をかうむりましたよ。あんな綺麗な女を女房に持つちや、亭主が氣が揉めて仕樣がないだらうと――」
「お前は長生するよ」
「それにお光坊は少し浮氣つぽくて、附き合ひ切れませんよ」
「へエ、あのがねエ」
「この間まで佐久間町の丸屋の若主人と何んとか言はれて居ましたが、近頃は柳原の轟の三次と人目につかないところばかし選つて會ひ度がつて居るやうで」
「大層探索が屆くんだね、それが今日持つて來た話の種か」
「そんな下らない話ぢやありませんよ。親分が妙なところへ誘ひ込むから、ツイ話がこんがらかるんで」
「そいつは大層惡かつたね、――ところでお前が持込んで來たのは、何處の新造を口説いた話なんだ」
「又新造ですかえ、――今日は、そんな氣樂な話ぢやありません。江戸の眞ん中におほかみが出て、若い娘を追ひ廻すつて話をお聽きですか」
「江戸の眞ん中に狼? うそだらう」
「嘘や拵へごとぢやありません。げんに――」
「――尤も町内の豐駒姐さんのところへ行つて、變な遠吠の稽古をして居る狼連なら、八五郎を始め五人や七人はあるだらうが」
「そんな氣樂な話ぢやありません。現にその豐駒師匠が聖堂裏の暗がりで、凄い山犬に追はれて、命辛々から/″\逃げ出して居る外に、この三、四日、湯の歸りなどをおどかされた若い女が二、三人はあるんですが」
「若い女の一人歩きを、三峰みつみね樣か何にかがたしなめて居るんだよ。豐駒師匠だつて選りに選つて聖堂裏なんかへ夜中に潜り込むのは良い料簡ぢやないぜ」
 錢形平次はこのニユースをまるつきり相手にしません。恐らく何處かの野良犬が、この界隈で餌をあさつて居るか、街の不良よたもの共が、狼の聲色こわいろでも使つて、女子供を脅かして居るんだらうと思つたのです。
「豐駒の師匠なんか現に狼の姿を見たと言つて居ますよ」
「そいつは何時のことだ」
「一昨日の晩の亥刻よつ(十時)過ぎ――」
「月はなかつた筈だな、四月の二十三日だ。その上あの邊には常夜燈も自身番の行燈もない、――狼はおろか、ざうと鉢合せしたつてわからない筈だよ」
 平次はそんな愚にもつかぬ些事にも、一應は理詰に考へてやりました。
「でも、狼に吠え付かれたとしたら?」
「狼だか犬だかわかつたものぢやない、――日頃狼連を惱まして居るから、多分そのたゝりだらうよ」
「そんなもんですかね」
 八五郎は正に言ひ負かされて了ひました。
「當り前だ。狼といふものは、猛獸ではあるが、恐ろしく臆病で、滅多に人里に出るけだものぢやないといふよ。それが江戸の眞ん中へ、ノコノコ流れ出てたまるものか」
 平次はもう一つこの流言蜚語ひごに留めを刺したのです。


 だが、このおほかみ事件は、そんな簡單なものではなかつたのです。それから三日ばかり經つた、ある日の朝。
「さア大變だ、親分」
 八五郎は刷毛先はけさきで格子を叩くやうに、明神下の平次の家へ飛び込んで來ました。
「相變らず騷々しい野郎ぢやないか。この間の狼が新造にでも化けたといふのか」
 泰然たる平次、狼汁をして喰ひさうな顏をして居るのへ、
「その狼が新造を喰ひ殺したんですよ。それも錢形のお膝元だ」
 八五郎は大新聞種ビツク・ニユースを正面から叩き付けるのです。
「何んだと」
 平次も思はず立ち上がりました。
「親分も御存じの鍛冶町の酒屋で、ます屋金兵衞の娘お絹。綺麗で可愛らしく滅法仇つぽいのが、昨夜ゆうべ町内の丁子湯へ行つたきり歸つて來ねえ。一と晩大騷動した揚句、今朝になつて、その死骸が土手で、往來の者に見付かりましたよ」
「狼が鍛冶町の丁子湯から柳原土手まで、娘を誘ひ出したのか」
「そんな事までわかりやしませんよ。兎も角、見付けた時のお絹坊の死骸といふのは大變だ。喉笛のどぶえを噛み切つて柘榴ざくろのやうに口を開いてゐる上、顏から胸へかけて、蘇芳すはうを浴びたやうな血だ」
「そいつは見なきやわかるまい」
 平次は大急ぎで支度をすると、八五郎を案内に、柳原土手に飛びました。その頃は辻斬と夜鷹よたかとが名物だつた柳原土手、夜分は物騷で、女子供の一人歩きの出來る場所ではありませんが、晝はさすがに兩國への交通の要衝で、柳の下に茣蓙ござを敷いて、古道具屋、駄菓子屋、甘酒屋、ところてん屋からうらなひ者、齒磨賣りの居合拔まで出て居ります。
 その中へ八方から集まる彌次馬の大群。
「え、寄るな/\、見世物ぢやねえ」
 それを掻き分けて、とある柳の下に近づくと、土地の下つ引が二、三人、町役人と共に、お絹の死骸を見護り、丁度その時驅け付けたらしい、升屋の金兵衞は、娘の死骸のあまりにも凄まじい變貌に驚いて、氣拔けがしたやうに、たゞ茫然ばうぜんと眺めて居ります。
「ウン、これはひどい」
 たつた一と眼で錢形平次も立ちすくみました。
 それは實に凄慘そのものだつたのです。少しき遲れの二十歳はたち娘、選り好みが激しいので評判になつただけに、お絹の美しさは全く拔群でした。骨細の豐かな肉付き、可愛らしさとなまめかしさは、素人娘には珍らしいほどで、神田中の若い男の血を湧かせたと言はれたのも、決して誇張された形容ではありません。
 その半面が碧血へきけつを浴びて、喉笛にはまぎれもない喰ひ破つた猛獸の齒型。柘榴ざくろを叩き潰したやうにゑみ割れて、丸い胸のあたりまで蘇芳すはうにひたした凄まじさは、何にたとへやうもありません。そればかりでなく、衣紋が滅茶々々に崩れて、紅の裾も踏みしだいたまゝ、白脛しらはぎが苦惱に揉れて、淺ましい取亂しやうは、猛獸の惡戯にしても念が入り過ぎます。
「八、この狼は牙が四本もあるぢやないか」
 娘の喉笛に突つ立てて、無殘にも掻き裂いたきばあとを平次は念入りに調べて居ります。
「上下に二本づつなら四本ぢやありませんか」
 八五郎の算盤そろばんは簡單で明瞭です。
「それにしちや行儀が良過ぎるぜ、――まア宜いや、どうせ江戸の眞ん中へ出て來る獸だもの、素直な出來ぢやゐめえ」
 平次はさり氣なく言つたものの、何にか割りきれない心持で調べを續けて居ります。
「ところで、その狼は何處へ潜り込んだんでせう」
「狼狩は追つてのことにして、お絹がどんな都合で鍛冶かぢ町の丁子湯から此處までやつて來たか、俺はそれが知り度いよ。狼の後をつけてノコノコやつて來たわけぢやあるめえ」
「狼に追ひ込まれたとしたら?」
「若くてハチ切れさうな娘が、默つて宵の町中を狼に追ひ込まれるだらうか。キヤツとも言はずに」
「へエ?」
「お前は念のためにお絹の身持を洗つてくれ。飛んでもねえ狼が正體を現はさないものでもあるめえ」
「さうでせうか」
 八五郎は不承々々に活動を開始しました。いや、活動を開始する迄もなく、お絹の身持は土地者の八五郎にはよく分つて居たのです。
 お絹の親の金兵衞が、堅いのと働きのあるのを見込んで、御臺所町の下總屋喜太郎のところへ嫁入させることに、ほゞ話をきめましたが、喜太郎は下總しもふさから出て來て一代に身上を築き上げ、表通りへ手頃の荒物屋の店を持つたほどの働き者で、片輪でも變人でもなく、男振りも滿更ではないのですが、商賣と蓄財ちくざいの外には興味がなく、その上立派な荒物屋の主人であり乍ら、わらを仕入れて夜なべに草鞋わらぢを作り、店先にブラ下げて、旅人や雲助を相手に、細かい利潤まで見て居ると言つた後の世の鹽原太助のやうな、一種圖拔けた勤儉貯蓄家だつたのです。
 綺麗で愛嬌があつて、少し浮氣つぽくさへあつた、神田で評判の色娘お絹が、この三十歳の地味な男を、默つて自分の配偶つれあひに持つ氣のなかつたことは、それはあまりにも明らかなことで、早くも柳原のやくざ者で、とゞろきの三次と仲がよくなり、町内の噂の種子たねになつたことは已むを得ない成行でした。


「親分、調べては見ましたが、轟の三次はあの晩、町内の衆と一緒に成田へお詣りに行つて、殊勝らしくお籠りなんかして居ますよ」
 八五郎はその日の夕刻、平次の家へ第一回の報告を持つて來ました。
下總しもふさ屋の喜太郎は?」
「下總屋は主人の喜太郎の外に、從妹いとこのお光と、小僧一人の世帶ですが、小僧は店の次の間で寢て居るし、喜太郎は久し振りで草鞋わらぢの夜なべを休んで、奧で遲くまで、お光と話なんかして居たさうですよ――これはお光が言つたことですから嘘ぢやありません」
「若い娘の言ふことは何んでも信用するのが八五郎の癖だ」
「それからこれは狼の話とは別ですがね、お絹は近頃轟の三次に愛想を盡かして、けるやうにして居たと言ひますが、突つ込んで調べて見ると去年の暮あたりから、佐久間町の小間物やで丸屋の伜勇三といふ、飛んだ業平なりひら男とねんごろになり、間がなすさがな逢引などをして居たさうですよ」
 八五郎の報告には、思ひも寄らぬ新しい面があります。
「その勇三は、昨夜どうした?」
「それがよくわからないから不思議ぢやありませんか、當人は生暖かくて氣持が良いから、兩國のあたりをブラブラ歩いて居たと言ひますがね」
「そいつをもう一度念入りに調べてくれ」
「へエ」
 八五郎はもう一度飛び出しましたが、一と晩奔走して、それ以上に大した手掛りを掴んだわけではありません。
 その間に顏の良い御用聞で、入舟町の佐太郎といふのが、丸屋の勇三を擧げてしまひました。あの晩お絹をおびき出して、柳原の上手まで伴れ出し、其處で殺したに相違ないと言ふのですが、困つたことには勇三にはお絹を殺すほどの動機がなく、その上お絹の喉笛を噛み切つたのは、匕首あひくちでも脇差でも出刄庖丁でもなく、おほかみきばでないとすれば、その武器は佐太郎には想像も出來なかつた種類のものらしいのです。
 事件は斯うして冒頭はなから迷宮に入りました。が、それから二日目、八五郎は思ひも寄らぬ大きな手掛りを掴んで來ました。
「さア大變」
「止さないか八。お前が大變を持込む度に、俺の壽命は三年くらゐづつちゞむやうな氣がするよ」
 平次は大して驚く樣子もなくニヤニヤし乍ら、心細い植木の世話を燒いて居りました。
「すると、一と月に九十年も壽命が縮むわけですね。親分は恐ろしく長生きで――」
「ふざけちやいけない、何が一體大變なんだ」
「お絹を噛み殺した、狼の正體がわかりましたよ」
「誰だい、そいつは?」
「餘つ程親分にさう言はずに、擧げてしまはうかと思ひましたが、困つたことに縛つたところで送り込む場所がない」
「天狗か幽靈と言つたやうなものか」
「犬ですよ、親分」
「犬?」
「狼より凄い奴だ、牛ほどでつかい、――犬は犬でも、火焔くわえんを吐きさうな犬だ」
 八五郎の形容は途方もないものでした。
「そんな犬が江戸に居るのか」
「冬から江戸中に熊のを賣つて歩く、變な山男が居たでせう?」
「熊の皮の胴服かなんかを着て、大きな犬をつれた」
「あの男ですよ。加賀の白山から出て來た伍助といふ男で、熊のだか鼻糞はなくそだか、變なものを賣り歩いて、四つ目の八軒長屋の奧に住んで居りますが、近所から文句が出ても、ニヤリニヤリ笑つててこでも動かねえ。妙に怒らせでもして、あの犬をけしかけられちやかなはないから、近所の衆は見て見ない振りをして居ますがね。丁度お絹が殺された日の夕方、あの野郎が腹の減つたやうな大犬をつれて、柳原のあたりを、賣れさうもない熊のを賣つて歩いて居たさうですよ」
 八五郎の報告は委曲詳細ゐきよくしやうさいをきはめます。
「そいつは耳寄りだが、お絹の死骸は喉笛を喰ひ破られただけで、犬に喰ひ殺された樣子はなかつたぜ」
「犬は血を吸つたんですよ、親分。あんな魔物は何をやるかわかりやしません。犬畜生だつて、若くて綺麗な娘の血を吸ひ度くなるだらうぢやありませんか」
 八五郎の論理はしどろもどろですが、兎にも角にも、そんな事も考へられないではありません。


 四つ目に住んで居た熊の膽賣りの伍助は、その日の夕刻、商賣から歸つたところを、八五郎の十手で召捕られました。この捕物に對して平次はひどく氣の進まない樣子でしたが、八五郎の確信に強引に引摺られたのか、それとも外に思ふことがあつたのか、ひては反對もしなかつたのです。
 繩を打たれた伍助は、見るも奇怪な囚人しうじんでした。幾月剃刀かみそりを當てないのか月代さかやきは石川五右衞門ほど伸びて、顏の三分の二を埋める凄まじいひげ、大きな眼、でつかい鼻、夜具の袖のやうな唇、それに手織の麻の筒袖、熊の皮の胴服を着て、木の皮で編んだ半穿はんばき、素足に草鞋わらぢといふ風態ですが、何にかのはずみで笑つたりすると、眼尻が下がつて飛んだ可愛らしい顏になります。
 番所では口を割らず、八丁堀に引いて行つて、精一杯責めて見ましたが、あの晩は早歸りをして、家で一杯やつたといふ外には、何んの手掛りも與へません。八軒長屋の合長屋の衆に訊いて見ると、宵から居たやうでもあり、居ないやうでもありといふ不揃ひな證言で、一向に取留めもなく、半生を白山の山の中に暮らして、日頃灯といふものを點けない伍助の生活では、近所の衆も確としたことも言へなかつたのです。
 あかりさへ必要としない人間――これにはお係の役人も悉く手を燒いてしまひました。責めても問ひ詰めても、ニヤリニヤリとして、此方の壺には一向にはまつて來ません。
 その上困つたことに、伍助の同居して居る犬――赤と呼ばれる猛犬が伍助が縛られた時綱を斷つて逃げ出し、それつきり行方不明になつた事です。これも伍助に問ひたゞしましたが、
「畜生のことだ、何處へ行つたか、おらにわかるものか」
 と一向に手に了へないのです。
 こんな日が幾日か續いた後で五月になつてからある日の朝、八五郎の三度目の大變が春の突風の樣に平次の住居を襲つたのです。
「た、大變」
「八、頼むから止してくれよ。今度は赤犬あかが自首でもして出たといふのか」
「そんな氣のきいた話ぢやありません。昨夜御臺所町の下總屋のお光が行方不知になり、從兄いとこの喜太郎始め、町内の衆が血眼になつて搜して居ましたが、今朝になつて聖堂前のお茶の水のがけの中途に、お絹と同じやうに、喉首を噛み破られた死骸になつて引つ掛つて居ましたよ」
「行かう、八」
 錢形平次も、斯んなに眞劍になつたことはありません。江戸の眞ん中で、若い娘が續け樣に二人まで、猛犬に喉笛を噛み破られて死ぬといふことは、まさに前代未聞の大きい椿事ちんじです。
 お茶の水の崖の上は、此方も向う側も一パイの人出でした。それを人垣で隱すやうに、お光の從兄いとこの喜太郎を始め近所の衆、湯島五丁目の町役人、下つ引などが、檢屍の役人や平次の來るのを待つて、生唾なまつばばかり呑んで居ります。危ない崖を降りて、娘の死骸の前に立つた平次は、
「これは又ひどい」
 さすがに息を呑みました。十八といふにしては、すつかり女に成りきつたお光の肉體は明るい朝の陽を浴びて淺ましいほどまざ/\とさらされて居ります。
 お絹よりはほつそりして居ますが、蒼味を帶びた眞珠色の皮膚、凝脂が銀のやうに光つて、その上を血潮の網の目でおほつた痛々しさは何にたとへるものもありません。あどけない顏は恐怖に引釣つて居りますが、處女の美しさを破壞する程ではなく、頤から下は血潮を浴びて、喉笛はお絹と同じやうに、恐しい四つの牙で、見るも無殘に引裂ひきさかれて居ります。
 もう一つお絹と同じやうに、下半身は淺ましくも引裂ひきさかれ、この死骸に對して、下手人の恐ろしい惡意を思はせます。もしこれが、萬一これが伍助の飼つて居る赤犬の仕業であつたとしたら、世にも不思議なことと言はなければなりません。
「御苦勞樣で、親分」
 その驚きの前へ、丁寧に小腰を屈めたのは三十そこ/\の青黒い顏をした一寸良い男。勤儉力行で評判になつた、下總屋の喜太郎であることは、錢形平次もよく知つて居ります。
「飛んだことだつたね、――昨夜お光は何處へ行つたんだ」
「町内の櫻湯へ參りました、――へエ、たつた一人で、お隣のお神さんでもさそつて行くが宜いと申しましたが、お隣のお神さんは折惡しく風邪氣味だとかで、お光は一人で出かけました。日頃の氣性で、夜分に外へ出ることなんか何んとも思つちやゐません。それにまだ酉刻半むつはん(七時)そこ/\で、物騷なことなんかある筈もなかつたんです」
 喜太郎の説明は行屆きます。この男の堅實さと、拔目のない生活樣式を、平次は片言隻句せきくの間に感じたやうな氣がしました。
「お光に縁談でもあつたのか」
「へエ、ないことも御座いませんが」
「相手は」
「最初から申さなければわかりませんが、お光が二年前に下總しもふさの在所から兩親に死に別れて江戸へ出て來た時は――打ち明けて申上げると、私と一緒になるやうにと、親類達の指圖だつたさうで御座います。本人も私も、下總の親類達も、それはこと/″\く承知して居りますが、一年二年と一緒に住んで、十六の田舍娘が十八の江戸娘になると、私もお光も次第に考へが變つて參りました」
「?」
「お光は派手好きで、私のやうなかせぐ一方の人間とは、どうも性の合はないことを、お互に呑込んだので御座います。夜なべに草鞋わらぢを作るやうな私と、芝居や物見遊山が好きで、日髮日湯に暮し度いお光とは、どう考へても一緒になれやう道理はございません――」
 喜太郎の話は、靜かで整然として、極めて事務的ですが、その話氣の底に、一脈の哀愁の流れて居ることはいなむ由もなかつたのです。
「――で、去年の暮あたりから、私の方から打明けて、お互に一緒になるといふ話は、一應打切ることにいたしました。お光はお光で氣に入つたところに嫁入し、私は私で、似合ひの働き者を探して、配偶つれあひにすれば、八方無事に納まると氣付いたのでございます」
「で、その後お光の氣に入つた男でも見付かつたのか」
「私にはよくわかりません、――その事だけはお光も私に打明けてくれませんが、何んでも佐久間町の丸屋の勇三さんとねんごろにして居るとか、柳原の三次親分が、お光を追ひ廻して居るとか、世間ではいろ/\取沙汰をして居りますが」
 喜太郎の話は次第に具體的になつて行きます。
「もう一つ訊いて置き度いが、昨夜お光が湯へ行つた後、お前は何處で何をして居た」
「物置で草鞋わらぢを作つて居りました」
「お前は一と身上しんしやう拵へたといふ噂だが、そんなに働かなきやならないのか」
 平次のやうな貧乏摺びんばふずれのした江戸つ兒に取つては、それは解くことの出來ない謎だつたのです。
冥利みやうりといふものがございます。それに私の作つた草鞋は丈夫ださうで、山の手からわざ/\此處まで買ひに來るお客樣もございます」
「それはどんな人達だ」
「飛脚、人足、駕籠屋――などで、毎日江戸中を歩いて居る商人などもよく參ります」
「熊の賣りの伍助なども來たことだらう」
「へエ、あの怖い犬をつれて、よく參りました。お光はまた若い女の癖に犬が好きで、よくあの犬とふざけて居りましたが――」
 平次には次第に解決の窓が開けて行く樣子です。


 下總屋の喜太郎の話は續きました。その荒筋といふのは、――櫻湯へ行つたお光の歸りが遲いので、小僧に留守を頼んで迎へに行つたが、櫻湯で訊くと、お光さんは四半刻(三十分)も前に歸つたといふので、それから急に不安になり、近所の衆の助勢を求めて、大がかりな搜査を始め――中にはお絹の例を考へて、柳原土手まで行つたのもあつたが、その晩は到頭わからず、翌る日の朝になつて、お茶の水の崖下がけしたに死骸が引つ掛つて居るのを通行人に見付けられ、それから大騷動になつたといふことでした。念のため下總屋に立寄つて小僧の直吉に訊くと、
「お光さんの歸りが遲いといつて、主人は大層な心配でしたよ。一寸探して來るからと、店を出て行つたのは、半刻とも經たない時分だつた思ひます。それからまた四半刻ばかりすると飛んで歸つて、お光さんが見えないから間違ひがあつたかも知れないと、着換へなんかして近所の衆を頼んで多勢で出かけましたが――」
「着換へ?」
「仕事着のまゝで行つたので、あんまりひどいからと、それを脱いで新しい袢纒はんてんを引つかけて行つたやうです」
 それはありさうなことでした。念のため裏の流し元へ行つて見ると、――二枚の着物――繼だらけの仕事着と小綺麗な袢纒はんてんが、大だらひの中に入れて、水に漬けてありますが、それは今朝お光の死骸を見付けた時、それを崖の上へ抱き上げようとして、血が着いたのだと――直吉が説明してくれます。尤もお光の死骸は檢屍前だつたので町役人に注意され、もとのまゝにして置いたことは言ふ迄もありません。
 櫻湯へ行つて訊いて見ると、此處でも喜太郎の言つたことに間違ひはなく、お光は一刻ほどで湯から上がつて歸ると、それから四半刻ほど經つてから喜太郎が男湯の方から覗いて、番臺の女房にお光の事をたづね、あたふたと歸つて行つたといふだけのことです。
「この上は親分」
 八五郎は事件が重大な形相ぎやうさうを示して來ると、すつかり緊張してしまつて、大した結構な智慧もまとまりません。
「熊の膽賣りの伍助はどうして居るんだ」
 平次は妙なところへ立ちかへりました。
「四つ目の八軒長屋に居ますよ、一度擧げては見たが、お絹やお光を殺したことには、何んの掛り合ひもないとわかつたので」
「だから、無暗に人を縛るんぢやないよ」
 平次は小言をいひ乍らも、この山の男に一度逢つて見る氣になりました。
 本所の四つ目まで、わざ/\行つて見ると、幸ひに熊の膽賣りの伍助は、汚ない長屋の奧に、自分のへそと談合するやうな恰好で籠つて居りました。不思議なことに一度何處かへ逃げてしまつた手飼の赤犬が、土間にうたゝ寢をして、さり氣ない顏で平次を迎へたことです。
「あ、錢形の親分さん。親分のお言葉があつたさうでお蔭で無事に戻りましただよ。大概たいがいのことはは[#「ことはは」はママ]驚かねえが、人殺しや泥棒にされちや叶ひません」
 伍助はたつた一と間の恐ろしく汚い家の中に、平次と八五郎を迎へました。五月の生温かい日和ひよりに、相變らずの熊の胴服、無精髯の中に愛想笑ひがよどんで、恐ろしくグロテスクな人相です。
「お前に訊き度いのは、この赤犬あかが人の喉笛などに喰ひつくかどうかといふことだよ」
 平次の問ひは唐突で飛躍的でした。
「飛んでもない。お役所でもくり返し申しましたが、赤犬は恐ろしく行儀の良い犬で三度々々の食物だつて、私が聲を掛けなきや決して喰ひませんよ」
「本當かい」
「御覽下さい、丁度晝分だ。この子がどんなに腹が減つても、お行儀だけはきちんと守るところをお目にかけませう」
 伍助はさう言ひ乍ら、赤犬の食事を用意して、土間の赤犬の前に運び、散々ぢらした上で、手嚴しいお預けを喰はせましたが、よく訓練された犬は、ひどい空腹に惱んで居る癖に、鼻の先にゑられた御馳走には、見向きもしなかつたのです。
「ね親分、こんなお行儀の良い野郎は、人間にだつて滅多にありやしませんよ。こんな馴れた犬が、人の喉笛などに喰ひ付いても宜いものでせうか」
 さう言はれると、まさに一言もありません。


「驚きましたね親分。丸屋の勇三でなく、伍助の赤犬あかでないとすると、下手人はないことになりやしませんか」
 八五郎が相變らず途方もない事を言ふのでした。
「若い娘二人喉笛を噛み切られて死んで居るんだ。犬でなきや人間の仕業しわざにきまつて居るぢやないか」
 うなると平次の方が熱をあげて、この兇惡無殘な曲者を、何が何んでも擧げずには措かない氣組でした。
「娘の喉笛に噛みつくなんて、どんな野郎でせう」
「鐵のやうなきばの四本もある奴だ――待て/\轟の三次はどうして居る」
「昨夜お光が櫻湯へ行く前に、ちよいと下總屋を覗いたことまでわかつて居ますが、それから松永町の賭場とばへ行つて、一と勝負二た勝負眺めて居たさうです。本人に言はせると――妙に氣になることがあつて、もう一度下總屋へ行つて見ると、丁度お光が行方不知になつて大騷動して居るところだつたさうで」
「その本人は何處に居るんだ」
「入舟町の佐太郎親分が擧げて、昌平橋の辻番に預けてありますよ」
「行つて見よう」
 平次は四つ目から直ぐ昌平橋へ引返しました。其處には良い男のやくざ者とゞろき三次が、腰繩をうたれて、入舟町の佐太郎に見張られて居ります。轟の三次は二十五六の苦味走つた好い男でした。佐太郎に腰繩を打たれて、すつかり萎氣しよげて居りますが、それでもやくざらしい見得坊で、口先ではなか/\威勢の良いことを言つて居ります。
「三次、正直に言つてくれ。お光とお前は何にか約束でもして居たのか」
「へエ、親分にさう正面から訊かれると、返事も出來ませんが、まア手つ取り早く言へばそんな事にもなるでせうよ」
「それはどういふわけだ」
「最初あつしと、鍛冶町の升屋のお絹と良い仲で――のろけるわけぢやございませんが、當人も世間もさう思つて居りましたが、この間中からお絹の阿魔あまが心變りをして、丸屋の勇三と人眼を忍ぶやうになり、それまで勇三と言ひ交して居たお光が面白くないことになつたので、ツイあつしなぐさめ合つて居るうちに、振られ同士がツイ、その――へエ」
「下總屋の喜太郎はそれを何んとも思つては居なかつたのか」
あきらめて居たんでせうよ。下總から出て來て、江戸の眞ん中で草鞋わらぢを作るやうな男は、女の子に持てつこはありません――尤も當人もそのつもりで、お光が勇三に捨てられ時、むきになつて腹なんか立ててくれたさうですよ」
 轟の三次の話は思ひの外筋が通ります。
「お前は昨夜下總屋を覗いたさうぢやないか」
「宵のうちにちよいと覗きましたが、喜太郎が面白くない顏をして居るので、プイと飛び出し、松永町の賭場とばに潜り込みました。酉刻半むつはん(七時)から戌刻半いつゝはん(九時)頃まで人の勝負を見て居たことは證人が五、六人もあります」
「それで、又下總屋へ引返したのはどういふわけだ」
「どうも氣になつてならなかつたんで――お光はこの間から勝れない顏をして、どうかしたら、私は殺されるかも知れない、升屋のお絹さんのやうに――なんて言つて居ましたよ」
「それつきりか」
「へエ、それつきりで」
 このお光を襲つた漠然ばくぜんとした不安は、どんなものであつたか。
「お光はもう少し何にか言つた筈だと思ふが――」
 平次はもう一歩突つ込んで見ましたが、
「お光は二、三日前から妙に沈んで居ました。押して訊くと――私は飛んでもない事をしてしまつた――本當に取り返しのつかない事を、――私もそのばちでお絹さんのやうに、みじめな殺されやうをするかも知れない――と、そんな事を言つて居たやうです。その時はあつしも大した氣に掛けなかつたのですが、今になつて見ると、お光はお絹を殺した相手を知つて居たかも知れませんね」
 轟の三次の言葉はなか/\重大です。


「八、おほかみは飛んだ近いとこに居るよ」
「何處です。親分」
 八五郎は千疋狼の退治にでも向うつもりらしく、手拭などを出して、キリキリとよりを掛けて居ります。
「下總屋だ、――裏から入るのだ」
 平次は下つ引を二三人狩り出すと、それを下總屋の表口に張らせ、自分と八五郎は裏木戸から――物置へ喜太郎が藁細工わらざいくをして居る一坪半ほどの小屋へ入つて行きました。
「あ、錢形の親分」
 喜太郎は何うするでもなく物置の中でウロウロして居た樣子です。
「少し物を搜すよ。八、お前は外で見張つて居てくれ」
 平次は喜太郎を押し退けるやうに、物置の中へ入ると、其處に積んだ藁の山の中を調べ始めたのです。
 が、其處には何んにもありません。眼をかへすと喜太郎が草鞋を作つて居たむしろの座と、その前に据ゑた藁打臺と藁打槌わらうちづちと、小さいなたが一梃と、それから藁のふくを取るのに使ふ、鐵の小さい熊手、――人間の指より少し細い曲つた鐵の四本齒に、七八寸の本の柄のついた品との外には、何一つ眼につく物はありません。
 平次はがつかりして顏を擧げました。と、その眼と喜太郎の眼が、ハタと宙に逢つたのです。何といふ凄まじい眼でせう、憎惡と疑惑と恐怖に滿ちた眼――この人間惡のエツセンスのやうな眼を、平次は今までも何べんか見て居ります。
 ハツとしてその視線を追つて行くと藁束の上に無造作に置かれた、その藁細工の熊手に落ちて居るではありませんか。取上げて見ると、四本の鐵の齒は、長い間藁をしごいて、ツルツルに磨かれて居る筈のが、不思議に粗雜な鑢目やすりめがあり、丸くなつて居る筈の尖端が、思ひきやきりのやうに尖つて居るのです。
 その上、熊手のが濡れて居るのも變ですが、從妹いとこのお光が殺された日、母家おもやにはその死骸を運び入れて、とむらひの支度の眞つ最中に、主人の喜太郎が、藁細工の物置に入つて居たのも不思議でなければなりません。
「八、氣をつけろ」
 平次の激しい聲にハツとして氣付いた時は、喜太郎は手慣れたなたを取り上げて、八五郎に一撃を喰はせるところでした。
「野郎、御用だぞツ」
 二人の爭ひは短いが、激しいものでした。平次の助力で、どうにかかうにか、喜太郎を縛つた時、喜太郎の唇からはクラクラと血潮の絲、この兇惡無殘な殺人鬼は、觀念して自分の舌を噛み切つてしまつたのです。
        ×      ×      ×
 事件落着の後平次の繪解きは簡單でした。
「喜太郎は恐しく執念深い男だ。お光を諦らめたといつたのは嘘、どうかしてお光の機嫌を取らうと、お光の戀敵のお絹を殺す氣になつたのだよ――藁細工の熊手を使ふことを思ひついたのは、熊の膽賣りの伍助の赤犬あかから思ひついたのだらう。その犬を見ての狼騷ぎはつまらない女共の臆病から起つたことだが、喜太郎はそれをしをに熊手の齒をやすりで磨いで、狼か犬に噛みつかれたやうに見せかけて、お絹を殺したのだ。丁度湯の前で待つて居てお絹を柳原土手に誘つたのは、お光の傳言ことづけがあるとか何んとか、いくらでもがある筈だ」
「成程ね」
 八五郎も其處までは呑込めます。
「お絹を殺した時は、お光は喜太郎をかばつて、あの晩二人は一緒に奧で話して居たと言つたが、考へて見ると、喜太郎のする事は恐ろしくてならなかつた。その事から、益々喜太郎を嫌ふやうになり、到頭自分が殺される破目になつてしまつたのだ。喜太郎は一寸良い男で、あの通りの辛抱人だが、腹黒くて陰氣で、性根が怖いから若い娘などに好かれるたちではない。近頃になつて、お光のところへとゞろきの三次が逢ひに來るのを知つて、たうとうたまり兼ねて殺してしまつたのだらう。あの晩お光に逢ひに來た轟三次の顏を見ると、ムラムラとお光が憎くなり、手馴れた熊手を持つて出かけて行き丁度湯から出て來たお光を誘つて、聖堂前で殺したのだらう。小僧へはお光の湯の歸りが遲いから迎へに行くと行つたさうだが、若い娘が半刻湯に入つて居たところで遲いとは言へないだらう。それに櫻湯へ喜太郎が行つたのはお光が湯から歸つて四半刻も經つてからで、その間にお光を殺すひまはあつた筈だ」
「恐ろしい野郎ですね」
「この時刻の喰ひ違ひと――もう一つ、前の晩に仕事着で出かけた喜太郎が、二度目に袢纒はんてんと着換へたのも變だが、その仕事着と、翌る朝お光の死骸を抱き上げて血の着いた袢纒とを、一緒にたらひに入れて置いたのも變ぢやないか。昨夜まで着て居た仕事着を、血の附いたものと一緒に盥に投り込む奴があるものか――あの仕事着にはお光を殺した時の血が附いて居たので、それを誤魔化ごまかすために、そんな細工をしたのだよ」
 錢形平次の明智だから、こんなに手輕に狼のきばの眞相が解つたのでせう。





底本:「錢形平次捕物全集第二十六卷 お長屋碁會」同光社
   1954(昭和29)年6月1日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1949(昭和24)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月12日作成
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