錢形平次捕物控

妹の扱帶

野村胡堂





「親分、凄いのが來ましたぜ。へツ」
「何が來たんだ。大家か借金取か、それともモモンガアか」
 庭木戸をはじき飛ばすやうに飛び込んで來たガラツ八の八五郎は、相變らず縁側にとぐろを卷いて、寛々くわん/\と朝の日向ひなたを樂しんでゐる錢形平次の前に突つ立つたのです。
「そんなイヤな代物しろものぢやありませんよ。その邊中ピカピカするやうな良い新造」
「馬鹿だなア、よだれでも拭きなよ、見つともない、――お客樣なら大玄關から通すんだ。いきなり木戸を開けて、バアと長んがい顎を突き出されると、きもをつぶすぢやないか」
 口小言をいひ乍らも平次は、煙草盆をブラ下げて、部屋の中へ入りました。平次の所謂いはゆる大玄關へは女房のお靜が出て、物柔かに女客を招じ入れた樣子です。
 やがて通されたのは、十七八の可愛らしい娘で、八五郎の前觸れほどのきりやうではありませんが、身形みなりもよく物腰しも上品で、何んとなく好感を持たせるところがあります。
「錢形の親分さん? でせうね」
 娘は高名な錢形平次が、思ひの外若いので、暫らくはきり出し兼ねた樣子です。
「俺は平次だが、なにか變つたことでもあるのかえ。大層遠方から驅けて來なすつたやうだが」
 娘の息づかひや、二月の朝といふのに、白い額が心持汗ばんでゐるのを見て、早くもそんなことを訊いて見るのでした。
巣鴨すがもから參りました。姉が殺されてゐたんです。そして私は縛られさうだつたんです」
 娘心に、この危急を救ふ者は、錢形平次の外にはないと思ひ込んだのでせう。明神樣の近所とうろ覺えを辿たどつて、往來で道を訊いた何人目かが、向柳原からフラリとやつて來たガラツ八だつたのは、何んといふ運のよさでせう。
「それは大變だ。くはしく話して見るが宜い」
 平次の調子は柔かで深切でした。
「私はあの、巣鴨の梅の屋の者ですが――」
「梅田林右衞門樣のお孃さんでしたか、道理で――」
 平次がさう言つたのも無理のないことでした。巣鴨仲町の梅の屋といふのは、梅田林右衞門といふ御家人上がりで、兩刀を腰にブラ下げて歩く、不徹底な生活に見きりをつけ、故郷の駿府からいろ/\の土産を江戸に運んで賣り擴め、多分の利潤りじゆんをあげて、一代に何萬といふ身上しんしやうを築いた男だつたのです。
「父は去年の春亡くなりました。跡取りの姉は、この春には父親の年忌を濟ませて、祝言をすることになつて居りましたが、それが昨夜、人手にかゝつて死にました」
 娘は姉の末期まつごの痛々しい姿を思ひ浮べたものか、我慢のせきを切つたやうにどつと涙が顏を洗ふのです。
「それから?」
「それつきりでございます。庚申塚かうしんづかの寅松親分が來て、ざつと調べたと思ふと、いきなり私を呼びつけるぢやございませんか――私は何んの氣もなく行かうとすると、源三郎さんが留めて、寅松親分は、お前を縛る氣でゐるから、奧へ行かない方が宜い。この儘そつと裏口から飛び出して、神田明神下の錢形親分さんのところへ行つて、お願ひして見るが宜い。錢形の親分は江戸開府以來と言はれる捕物の名人だから、きつと眞實ほんたうの下手人を搜して下さるに違ひない――と斯う言つてくれました」
 一生懸命に、――娘は涙を納めて斯う説明するのでした。
「源三郎といふのは? 誰だえ」
「萩源三郎樣、――矢張り御浪人でございます。二本差がいやになつたからと、二年ばかり前から店を手傳つて居りますが、父の遠縁の者でございます」
「それつきりか」
「姉の許嫁いひなづけのやうに思はれて居りました」
「本當の許嫁ではなかつたといふのか」
「いえ、矢張り許嫁で。この春、姉と祝言することになつて居たのは、その源三郎さんでございます」
「よし/\、あとは現場を見なきやわかるまい、――八、一緒に行くか」
「先刻から待ちくたびれて居ますよ」
 八五郎はあはせの裾を七三に端折つて、スタートに並んだ選手見たいに鼻の穴をふくらませて居るのでした。


 平次が巣鴨仲町の梅の屋へ行つた時は、檢屍も濟んでおとむらひの支度に忙しく、その中に土地の御用聞の庚申塚の寅松がたつた一人、妹娘のお君に逃げられた腹立ちまぎれに、誰れ彼れの見境なく當り散らして居る眞つ最中でした。
「あ、錢形の親分。その娘をつかまへて來てくれたのか」
 寅松は遠方から平次を見付けて、救はれたやうな心持で飛んで來ました。この一見何んの變哲もない梅の屋の惣領娘殺しの事件は、第一番の容疑者の妹娘が逃げ出すと、あとは混亂が殘るばかりで、五十男の押しと強氣でやり通して居る寅松では、全く手のつけやうもなかつたのです。
「庚申塚の親分、この娘は逃げも隱れもしたわけぢやないよ。神田まで俺を迎へに來たんだ」
 平次は言ひにくいことではあるが、妹娘お君のためにう辯解してやる外はありませんでした。
「そいつは御信心なことだ――尤も此處に居れば、俺は縛る氣になつたかも知れないよ」
 年配の寅松は、平次の腕の聰明さに敬服して、斯んな調子に物を考へる氣の良い男だつたのです。
「ところで、中へ入つていろ/\の事を見聞きする前に、庚申塚の親分の考へを一と通り聞かして貰ひ度いが――」
 平次は妙なことを言ふのです。現場の實際を自分の眼で見て、自分の觀點に立ち、自分で焦點を合せるのが、平次の日頃の行き方ですが、庚申塚かうしんづかの寅松の氣の良さに打ち負かされて、此處では一番寅松を立てて、蔭の仕事をしてやらうと、平次らしく思ひ定めたのでせう。
「それぢや兎も角俺の見ただけのことを話さう。土地の者だけに妙なことに氣が付くかも知れない」
 寅松はそんな事を言ひ乍ら、巣鴨仲町の一角をむる梅の屋の大きな店構へを指し乍ら語り續けるのでした。
「――梅の屋が、梅田林右衞門といふ浪人者の仕上げた身上だといふことは、錢形の親分も知つて居るだらう。――その林右衞門が死んで、後には何萬兩といふ身上が殘つたが、番頭の七兵衞といふのがしたゝか者で、世間から惡七兵衞とか何んとか言はれながら、貧乏ゆるぎもさせずに商賣を續けてゐる――」
「その惡七兵衞といふ番頭は腹の黒い人間ででもあるのか」
 平次はツイ口を挾みました。
「腹の底まではわからねえが、梅の屋の白鼠には違ひあるまいよ。尤も先代林右衞門が二本差だつた頃からの用人で、女房のお元はこれも亡くなつた林右衞門の内儀おかみとは乳姉妹の間柄だつたといふが」
「それから」
 平次は先をうながしました。
「林右衞門の忘れ形見の娘が二人。姉はお袖といつて二十歳、少し病身ではあつたが、これは大したきりやうだよ。妹はお君と言つて十七、錢形の親分を迎へに行つた娘で――可愛らしくはあるが姉ほどのきりやうぢやない」
「その妹娘のお君を縛る氣になつたのはどういふわけだ」
 平次はいきなり事件の核心かくしんに話を持つてゆきました。
「殺されたお袖の首に、妹の扱帶しごきが卷き付いて居るんだ」
「あの娘が、物もあらうにわざ/\自分の扱帶で姉を殺したといふのか」
「いや、それだけなら俺も妹娘を縛る氣にならなかつたが、お袖が死んだのは、その扱帶のせゐぢやないんだ。身體の弱いお袖が、寢る時煎藥せんやくを飮むことになつて居るんだが、その藥の中に、毒が入つてゐたのだよ。毒は何んだかわからないが、檢屍に立ち會つた本道(内科醫)も、毒害に違ひないと言つて居るとしたらどうだ」
「――」
「その煎藥は妹のお君が拵へて、人手にかけずに、自分で持つて行つて姉に呑ませたのだよ」
「成程、話はこんがらかつて、俺にもよくわからない――一應現場を見るとしようか」


 店へ入ると、帳場格子の中で、この騷ぎも知らぬ顏に算盤そろばんを彈いてゐた四十七八の眞四角な顏をした男が、平次と八五郎の顏を見て、遠くの方から丁寧に默禮しました。
「あれが惡七兵衞だよ」
 寅松の囁くのが聽えない筈はないのですが、當の七兵衞はんがりともしません。
 店から奧へ、それは小大名の下屋敷ほどの構へでした。
 その奧まつた一と間に、姉娘お袖の死體が、ようやく檢屍が濟んだばかりで、まだ入棺もせずに寢かしてありました。床の左右に居るのは、妹娘のお君――平次を迎へて一と足先に此處へ來たのと、もう一人は若いたくましい男。
「源三郎さんだよ」
 と寅松に名を呼ばれて、靜かに顏を擧げました。鳳眼隆準ほうがんりうじゆんといふ形容詞をそのまゝ擬人化したやうな、色白の立派な男です。
「――」
 源三郎は平次を迎へると、それも卑下ひげしない程度に目禮して、死體の側を離れました。武藝も相當にはいけるらしく、背は低い方ですが、四肢の發達は見事で、人の顏を迎へた時、自然に眼尻に愛嬌のこぼれるのは、場所柄少しばかり不似合に感じさせます。
 平次は膝行ゐざり寄つて、死顏に近々と首を垂れると、靜かにそれをおほつた白いきれを取りました。
 ハツと息を呑んだほどの凄愴な美しさです。細面ほそおもてに藍色の隈、紫色になつた唇、すべて毒死によくある痛々しい苦悶を刻んで、二た眼とは見られない凄まじさですが、それにしても、本來の美を奪ふに由なく、その破壞された表情の底から、言ふに言はれぬ不思議な美しさが覗いてゐるのです。
「可哀想に――」
 平次は死骸の顏に、もとの通り白い巾をかけてやつて、寅松を振り返りました。馴れた者の眼にも、こんな痛々しい死骸は滅多に見ることはありません。
「ところで、これが首に卷きつけてあつたんだが」
 寅松は平次に注意するやうに、床の側に置いてあつた、紅い鹿の子絞りの扱帶しごきを取上げました。
 眞紅の蛇のやうにひとうねりして、寅松の武骨な手から、だらりと下がつた扱帶を見せつけられると、背後に居たお君がハツとした樣子で顏を反けたのも無理のないことでした。
「錢形の親分」
 源三郎は思ひきつた樣子で平次に聲をかけました。
「――」
 默つて顏を擧げた平次に、かぶせるやうに、
「親分は氣がついてゐるだらうが、お袖さんはその扱帶で殺されたわけぢやありませんよ。御覽の通りお袖さんの首には何んの跡も付いてはゐない。死んでからその扱帶を卷いた證據だ」
 源三郎は氣ぜはしく言ふのです。武家育ちの二十七八の青年は、町人風にはなりきつてゐても感情が激して來ると、ついもとの武家氣質が出て來る樣子です。
「死んだ者の首に扱帶を卷いたのは、どういふわけか――あつしはそれが不思議でたまらない」
 平次は獨り言ともなく言ひます。
「下手人の疑ひを、その扱帶の持主にかけるためだ、――現に庚申塚かうしんづかの親分は、お君さんを縛らうとしたやうだが」
 源三郎は昂然として言ふのです。
「昨夜、お袖さんに煎藥せんやくを呑ませたのは、妹のお君さんだと聽いたからだ。俺はその始末が知り度かつたのだ」
 寅松は振りきるやうに抗議します。
「まア宜い。お上の御用をうけたまはる者には、それだけの用意があるものだ、――庚申塚の親分でなくたつて、一應お君さんの言ひわけは聞かなきやなるまい。今朝誰が一番先に騷ぎ出したか、――昨夜誰と誰がどんな事をしたか、先づそれから順序立てて聽かうぢやないか」
 平次は寅松の面目を立ててやり乍ら、調べの軌道に話を載せて行きます。


「姉さんが殺されてゐるのを見付けたのはお元でした。大きな聲を出したので、びつくりして、私と源三郎さんが、鉢合せをしさうに飛んで來たのです」
「お元?」
 妹娘お君の説明にフト平次は腰を折りました。
「番頭の七兵衞の配偶つれあひだ、それから」
 寅松は註を入れて先をうながします。
「それつきりで――」
 お君の大きい眼が、おびえきつて何やら訴へて居ります。
「昨夜この家に居たのは?」
「皆んな居りました。七兵衞も、お元も、手代の喜八も、下女のお百も、小僧の佐吉も、それから私も――」
「私だけは折あしく春日町の親類へ參り、話に更けて、今朝起きぬけに歸りました。フト用事を思ひ出して、昨夜暗くなつてから行つたので」
 さう言ふ萩源三郎は如何にも口惜しさうでした。自分の留守のために、大事な許嫁が人手に掛つて死んだと思ひ詰めて居る樣子です。
「その御親類といふのは?」
「丸山要人かなめ、小身乍ら直參で、私の叔父に當ります」
「時刻は?」
「春日町へ着いたのは、戌刻いつゝ(八時)少し過ぎと思ひますが――」
 平次が後ろを振り返ると、縁側に待機して居た八五郎は、サツと飛び出した樣子です。春日町まで行つて、源三郎の不在證明アリバイを確めて來るつもりでせう。
「ところで、姉さんは平常ふだんから身體が弱かつたのか」
 平次はお君の方を見て話題を改めるのでした。
「寒いうちは、ブラブラする日が多く、春になると元氣になりました」
「藥は何處から取つたのだ」
「町内の見庵けんあん樣が、癆症らうしやうになるといけないから、毎日身體に精をつける藥を呑むやうにつて、煎じ藥を下さいました」
「その藥はまだ殘つてゐるだらうな」
「え、お勝手の棚にある筈です。持つて參りませうか」
「いや、――濟まないが寅松親分に頼まう。殘つた煎藥と、それから昨夜呑んだ煎じかすと鍋と、湯呑と――」
「鍋も湯呑も洗つてしまつたさうだよ。煎じ滓までは氣が付かなかつたが、何處かに棄てたにしても、無くなる筈はない」
 寅松はさう言つて氣輕に立つて行きます。
「その藥は毎日誰が用意するのだ」
「お元か、下女のお百がせんじてくれますが、姉さんの部屋へ持つて行くのは私の仕事になつて居ります。――姉さんが藥を呑んで温たまつて、床に入るのを見屆けて、私は自分の部屋に引取ります」
昨夜ゆうべもその通りの手順を運んだに違ひあるまいな」
「――」
 お君は默つてうなづきました。
 丁度その時でした。お勝手の方に唯ならぬ騷ぎが始まつたらしく、押しつぶされた人の聲と、驅け廻る足音が入り亂れて、その騷ぎの中から外れ玉のやうに、少し取亂した寅松が飛んで來たのです。
「大變」
「どうしたのだ、庚申塚の親分」
「下女のお百がやられた。少しの油斷だつたよ。醫者を迎へにやつたが、――兎も角も見てくれ、息を吹き返しさうもない」
 言ひ捨てて引返す寅松の後から、錢形平次も焦立いらだたしい心持でいて行く外はなかつたのです。
 下女のお百の部屋といふのは、お勝手の直ぐ隣りの四疊半で、其處にはもう二三人の男女が、ウロウロ立ち騷いで居りますが、虚空こくうを掴んで窓寄りに倒れてゐるお首の死體には、掛り合ひを恐れたか、その不氣味さに脅えたか、一人も近づく者はありません。
「これだよ、錢形の」
「うん、あのと同じことだ。毒を呑まされて、それから前掛のひもで首を締められて居る、――惜しいことに四半刻(三十分)の手遲れだ」
 淺ましく踏みはだけた手足は、時候のせゐか少し冷えて、最早呼び生けるすべもありません。
 お百といふ下女は、二十五六の丈夫さうな女ですが、猛毒に抗し續けた生命の惱ましさを刻んで、顏はみにくい上にも無氣味にゆがんで居ります。
「今度は首に紐の跡があるぜ」
 寅松はさすがに氣が付きます。この死骸とお袖の死骸とは、おびたゞしい相似の點を持つて居る癖に、お袖の首には、扱帶しごきで締められた跡が少しも殘つて居ないのに、下女の首の廻りには、明かに細紐で締めた跡の印されて居るのはどうしたことでせう。
「この前掛は誰のだ」
 平次は死骸の首から解いた前掛を後ろに立ち塞がつて居る多勢の者に見せました。ありふれたつむぎの前掛ですが、紐はその頃は野暮になつた茶色の眞田で、誰の眼にも特色がよくわかります。
 廊下に溢れる人達は、一しゆんシーンとなりました。と、その後ろの方から、
「一寸見せて下さい。私の前掛によく似て居ますが」
 聲を掛けて進み出たのは、お袖の許婚の萩源三郎でした。多勢の顏は機械人形の集團のやうに源三郎の方に振り向きましたが、當の源三郎は大して氣にする樣子もなく、平次の手から前掛を受取つて、
「――これは矢張り私の前掛だ」
 よくも見ずに言ひきるのでした。
「今度はお袖の首に卷き付いた扱帶しごきと違つて、その前掛の紐でお百は殺されて居るんだぜ」
 直ぐ寅松は付け入ります。
「そんな馬鹿なことが――」
 源三郎はさう言ひ乍ら、窓際に寄つてお百の凄まじい死骸――わけてもその首のあたりを見て居ります。
「どうだ、首には深く紐の跡が着いてるだらう、文句はあるめえ。お袖と逢つて、お百は丈夫だから毒を呑まされても、ジタバタもがき廻つたんだらう。人に知られると面倒だから、下手人は自分の前掛で喉を絞めて、一と思ひに息の根を斷つたに違ひあるめえ、――なア、錢形の」
 寅松はさすがに自分の判斷に自信が持てなかつたものか、後ろに默つて考へて居る平次をかへりみました。
「その前掛を見せてくれ――自分の前掛で殺した曲者が、證據の品を放つて行つたのは變ぢやないか。隱さうと思へば隱せた筈だ。丈夫さうな女を一人絞め殺すほどきもの据つた奴だ――」
「うつかりして居たんだよ。それが手ぬかりといふものだ、天罰だ」
 寅松はもう、源三郎の袖をしかと掴んで居ります。相手は武家上がりだらうが、何んだらうがこれほど確かな證據を見せつけられて引つ込んでゐる寅松ではありません。
「待つて下さい、庚申塚かうしんづかの親分、――私は人に聽いたことだが、締め殺して暫らく放つて置くと締めた紐の跡が浮き出るといふことだ。お百の首の跡は本當にこの眞田紐だらうか」
「何を?」
「それ、この通り、お百の首に附いて居る跡は、太い細引の跡だ、――手のんだ眞田紐の跡ぢやない。小指ほどの細引、そんなものが此處にないでせうか、親分」
 源三郎の抗議は、如何にも整然として行屆いて居ります。平次はそれを聞くと、後ろの押入をサツと開けました。直ぐ眼についた行李かうりの上の麻の細引、それを取つて寅松と源三郎の前に投つたのです。


「お前は?」
「私のつれあひでございます」
 四十前後の狐のやうな感じの女を廊下から呼び入れると、その後から支配人の七兵衞がむづかしい顏から絞り出したやうな、怪しい世辭笑ひを浮べて入つて來ました。
「お百の殺されて居るのを、誰が見付けたのだ」
「私でございます。檢屍のお役人方が歸つて、半刻も經つて居るのに、お百が姿を見せないので、もう晝の支度をしなきやなるまいと思つて、この部屋を覗くと――」
 お元はごくりと固唾かたづを呑んで絶句するのです。
「朝のうちは、變りがなかつたのか」
「あの騷ぎで、驚いたやうでしたが、でも、いつもと少しも變りませんでした」
「食物は皆んなと同じものだらうな」
「え、お孃さん方と源三郎さんは一緒で、私共はあと皆んな御一緒に頂きます」
「それではお百の食物にだけ、毒の入る隙がないはずだと思ふが、どうだ」
「はい」
 お元はこれ以上は想像もつかぬ樣子です。
「この半刻の間、お前は何處に居たのだ」
「店とお勝手と奧と驅け廻つて居りました。御近所の方も見えますし、おとむらひの支度もしなきやなりません」
「その忙しい中で、お前さんは帳場に坐つて居たやうだが、商賣の方が、そんなに忙しいのか」
 平次の問ひは、思ひも寄らぬ飛躍をげて、女房の後ろに不安さうに突つ立つて居る支配人の七兵衞に向ひました。
「そんな譯ぢやございませんが、――跡取りのお孃さんが亡くなると、一應帳面の締括しめくゝりもつけて置かなければならず、それに葬ひ萬端の費用のことも考へなきやなりません」
「大層手廻しなことだ――」
 平次は皮肉のやうに言つて、スツと廊下に溢れる顏を見渡しました。ほかに事件に關係のありさうなのは、若い男が一人、二人。
「お前は?」
「佐吉と申します。奉公人で――ツイ今しがたまで、お寺へ行つて居りました」
 二十七八の滑らかな感じの男です。
「お前は?」
「喜八と申します。矢張り奉公人で、御親類方を二三軒廻つて參りました、へエ」
 これは二十三四の眞黒な小男、いづれも下女のお百の死とは關係のなささうな事を言つて居ります。
「奉公人はこれで皆んなか」
「へエ、あとは駿府の出店の方へ參つて居ります」
 支配人の七兵衞でした。女房がきびしい訊問から解放されて、ようやくホツとした樣子です。
 その時、外から鳴り込んで來たのは、
「親分、又殺しがあつたんだつてね。太てえ奴ぢやありませんか、下手人の見當は? 親分」
 言ふ迄もなく、ガラツ八の八五郎。
「うるさいな、春日かすが町の方はどうした」
「行つて來ましたよ。源三郎は丸山要人かなめのところへ、昨夜亥刻よつ(十時)少し前に行つて、無駄話をして、二階へ寢たことは確かで――尤も大した用事はなかつたさうですよ」
 八五郎の報告からは何を掴み出せるでせう。


「親分、あの娘がまたいぢめられて居ますぜ。可哀想ぢやありませんか」
 八五郎は平次の袖を引くのです。
「娘がどうしたといふのだ」
「庚申塚の寅松親分は、餘つ程あの娘にたゝり度いんですね。紅い扱帶しごきが證據でないとわかると、今度は宵にあの娘の姿を見た者がないから、妹の部屋で何んか細工をして居たに違ひないといふんで」
「フーム、そんな事もあつたのか。兎も角、覗いて見ようか」
 錢形平次は下女のお百の變死體を、丁度駈け付けて來た土地の下つ引に任せて、奧の方、妹娘の部屋へ行つて見ました。
「なア、お君、こいつは誰が聽いたつて變ぢやないか。姉に藥をやつたのは、戌刻いつゝ(八時)過ぎだつたといふが、それから亥刻よつ(十時)前までざつと一刻の間、お前の姿を見た者は、家中に一人も居ないのだぜ。その間お元は二度迄もお前の部屋を覗いてゐるといふから、間違ひはあるめえ」
 寅松はかさにかゝつて、お君を責めて居るのです。錢形平次の出現で、自分の見込みを根底から引つくり返されたのごふをにやして、この邊から新しい攻め手でお君を取つて押へ、自分の面目を立てようといふのでせう。
「――」
 お君は唇をかんだまゝ、ポロポロと涙をこぼして居ります。大したきりやうではないにしても、十八の可愛らしい盛りで、赤い襟に埋めた圓いあごも、水晶の玉を綴つた長い睫毛まつげも、たまらなく魅力的でした。
「それだけの暇がありや、お前には何んだつて出來た筈だ。毒藥を調合して姉に呑ませた上、姉の死ぬのだつて手傳へるわけぢやないか、――何んとか言つちやどうだ。戌刻いつゝ(八時)過ぎから亥刻よつ(十時)前まで、お前は何處に居たんだ」
「それは、どうしても言へないんです、親分さん」
 娘は顏を擧げました。滿面を涙に洗はれて、顏は美しく上氣のぼせて居りますが、うるんだ眼は精一杯に見開かれて、したゝかな中年男の寅松に、言葉では言ひ解くことの出來ない自分の無實を許へるのです。
 八五郎はそれを見ると、一生懸命平次の袖を引くのですが、平次は何を考へたか、隣りの部屋の敷居際に突つ立つたまゝ、默つて寅松の調べの進行を見て居るのでした。
「先刻は源三郎と錢形平次の助け船で、一應お前の疑ひは晴れたやうだが、俺にはどうもに落ちないことばかりだ」
「――」
「姉さへ死ねば、お前は此家こゝの跡取りになつた上、源三郎と一緒になれるのだらう。――隱すな、梅の屋の何萬兩の身代がある上に、源三郎はあの通りの業平なりひら男だ。へツ/\、圖星だらう」
「私は、そんな事を、そんな事を、考へたこともありません」
 お君は泣き顏を振りあげて、必死とあらがひますが、寅松はセセラ笑つてその丸い肩を小突き乍ら、袂の捕繩を左手で爪搜まさぐるのです。
「それぢや、昨夜ゆうべ戌刻いつゝ(八時)過ぎから亥刻よつ(十時)少し前まで、お前は何處に何をして居た、自分の部屋でなきや姉の部屋だらう。その頃お前の姉は、丁度殺されて居たのだぜ」
「私は、私は、そんな事」
 お君の抗議は、涙に濡れて絶句しました。
「親分、――それは私から言ひませう。お君さんの口からは言ひにくからう」
 不意に、さう言ひながら飛び込んで來たのは、養子――死んだお袖の許婚――の萩源三郎でした。
「お前さんは、引つ込んで居て貰ひませうか。大事の調べの腰を折られちやかなはない」
 寅松はムツとした樣子ですが、浪人者への遠慮で、さすがに強いことも言へません。
「さう言はれると困るが、親分、先づ私の言ふことを聽いて下さい」
「――」
「昨夜戌刻いつゝ(八時)過ぎから亥刻よつ(十時)前まで、お君さんは庭の植込みの蔭で、この私と話をして居たのですよ」
 萩源三郎の言葉は、隣りの部屋で聽く錢形平次にも豫想外でした。
「そいつは本當か、――何を話して居たんだ。え、おい」
 寅松はすつかり面喰つて居ります。
「それは聽かないで下さい。お君さんも私も、まだ若いんだから」
「――」
「私はそれで春日町の叔父のところへ行くのが遲れました。家を出たのが戌刻いつゝ(八時)少し過ぎで、春日町へ着いたのは、亥刻よつ(十時)少し前だつたんです。その間私とお君さんは、丁度その邊の庭石に腰を掛けて、いろ/\話して居りました。若いお君さんが、それを打ち明け兼ねたのも、無理のないことぢやありませんか」
 源三郎はさすがに極りが惡かつたものか、少し顏を赧らめ乍ら――でも、大して惡びれた色もなくお君との逢引を打ちあけたのでした。
 これでお君が宵に自分の部屋に居なかつた理由も、源三郎が春日町へ遲く着いた理由も、簡單に説明されてしまつたわけです。


「驚きましたね、親分。あんな可愛らしい顏をして居る癖に、姉の許婚と逢引なんかしやがつて」
 もとの下女の部屋へ、そつと引揚げて來た平次に、ガラツ八はさゝやくのでした。
「逢引したかも知れないが、二人が好い仲とは思はれないよ。お君はあんまりねんねだし、あの樣子に變なところがある」
「そんなものですか」
 八五郎は尚ほも鼻の穴をふくらませて居ります。
「ところで。これは何んだえ、八」
 平次は下女の部屋の隅から、妙なものを見付けました。
漆喰しつくひか何んかぢやありませんか」
 それは漆喰か胡粉ごふんのやうな白い粉末ですが、指先でつまみ上げると、觸覺がねつとりして、漆喰やうどん粉のそれとは全く違ひます。
めて見ませうよ」
「あ、待ちなよ、八。そいつが下女のお百を殺した毒かも知れない」
「へエ?」
 つまみ上げて甞めようとした八五郎の手を押へた癖に、平次は自分の指の先に附いた白い粉を、舌の先でちよいと甞めて見ました。
「砂糖だ」
「砂糖――がそんなに白いんで」
 八五郎はまだ、砂糖といふのは、眞つ黒なものと信じて居る人種だつたのです。
「白砂糖だよ――近頃は大名高家金持などがこの白砂糖を使つて居るさうだ。町家には珍らしい品だが、大金を出せば手に入らぬこともあるまい、――が待てよ、その砂糖に毒が入つて居るかも知れない。甞めるのは止すが宜い」
 さう言ひ乍ら平次は縁側へ出てつばなどを吐いて居るのでした。
 其處へ庭先を通りかゝつたのは、手代の佐吉でした。先刻、寺から歸つて來たと言つた、二十七八の滑らかの感じの男です。
「お前、佐吉と言つたな」
「へエ、何にか御用で」
 佐吉は少しおびえたやうに、その癖何處か横着らしい、人を喰つた頭を擧げて、縁側の上の平次を見上げるのでした。
「此處で、白い砂糖を持つて居る者はあるかえ」
「へエ、ないことも御座いませんが」
「そんな贅澤なものを誰が持つて居るんだ」
「番頭さんが喘息ぜんそく持で、長崎の知合から送り屆けて貰つたやうで、白い砂糖を時々めて居りますが」
「その砂糖を、誰かけて貰つた者はないか」
「飛んでもない。高い品で、私共の手や口に入る品物ではございません」
「すると、この家中には、番頭の外に白砂糖の味を知つて居る者はないわけだな」
「左樣でございます、――尤も、下女のお百は、時々そつとくすねて甞めてゐたやうで、――白砂糖はそりやうまいよ――などと面白さうに言つて居りました」
「有難う、それでいろ/\の事がわかつたよ」
 平次は禮を言つて佐吉を向うへやると、改めて八五郎を部屋の中へ呼び込みました。
「八、面白くなつて來たぜ。お前にもう一度春日町へ行つて貰ひ度いが――」
「へエ、何處へでも行きますよ」
「丸山要人かなめとか言つたな。源三郎の叔父さんのところへ行つて、昨夜源三郎が泊つた部屋を見せて貰ふのだ。相手は二本差だから、容易にはウンとは言ふまいが、お前のトボケた調子で頼んだら何んとかなるだらう」
「へエ」
 八五郎はそのトボケた調子の――大事な武器になる、長んがい頤を撫でて居るのです。
「そして、その部屋から、夜中そつと拔け出せるかどうか見て來てくれ」
「そんな事ならわけはありません」
「それから町内の本道の見庵けんあん先生に逢つて、この砂糖に毒が入つて居るかどうか鑑定して貰ふのだ――途中でめちやいけないよ。八五郎が巣鴨の往來で行倒れになつちや大變だ」
「大丈夫ですよ、親分」
 八五郎は、平次が懷紙に集めた少しばかりの砂糖を持つて、相變らず氣輕な調子で飛んで行きます。


「錢形の親分、妙なことを聽き込んだが――」
 庚申塚かうしんづかの寅松は、物々しい顏を平次のところへ持つて來るのでした。
「何んだえ、庚申塚の親分」
「番頭の七兵衞が、うんと溜め込んでゐるといふ話だ。家も二三軒持つてゐるし、自分の名義で諸方に融通ゆうづうして居る金も二三千兩はあるだらうといふことだ」
 寅松はこれだけの事を聽き込み乍らも、お君で縮尻しくじつてりたか、今度は積極的に動き出す前に、平次に相談して見る氣になつた樣子です。
「そいつは耳寄りな話だが、――誰が親分にそんな事を教へたんだ」
「手代の喜八だよ――あの熊の子のやうな男」
「そいつは本當かも知れないが、一應喜八の口から聞いて見たいな」
「喜八なら、其處に居るよ」
 寅松はさう言つて庭へ降りましたが、やがて平次の前へ所謂いはゆる熊の子のやうな眞つ黒な男をつれて來ました。
「お前は妙なことを言つたさうだな」
「へエ」
 見上げる三白眼のけはしいのは、妙にこの男の印象を惡くします。
「番頭の七兵衞が、大分溜め込んでゐると言つたさうぢやないか。どうしてそんな事が判つたんだ」
「私が調べたわけではございません。源三郎さんが――番頭の七兵衞さんは隨分取り込んでゐるが、あれが知れたらうるさい事になるだらうと、う申しました」
「それをお前は、俺達の耳へわざと入れたといふのか」
「そんなわけぢやございませんが」
 喜八の三白眼はいよ/\白くなるばかりです。平次はしかしそれ以上追及する氣がないらしく、スゴスゴと立去る喜八を見送り乍ら、店の方へ入つて行きました。
「番頭さん、相變らず金の勘定が忙しさうだね」
 帳場格子の中で、この騷ぎの中にも算盤そろばんを彈いて居る番頭の七兵衞の態度は、世間並の眼からは全く變でないことはありません。
「へエ、何んと申しても、總領のお孃さんが亡くなつた事ですから、帳面尻も宜い加減にして置くわけには參りません」
「ところで、折入つて聞きたいが――」
「へエ」
 七兵衞は、その澁い顏を擧げました。惡七兵衞と綽名あだなされた、苦虫を噛みつぶした人相です。
「この家の身代といふのは、どのくらゐあるんだ」
「さア、一と口には申されませんが、地所家作の外に貸金が二萬兩くらゐ、現金が三千兩ばかり」
「ところで、番頭のお前さんも、大層持つて居るといふことだが」
「亡くなつた御主人がよくわかつた方で、俺もまうけるが、お前も儲けろと仰しやつて、大層なお手當を下さいました。それが積り積つた上、私共には子供はなし、夫婦の口までこのお店に任せてありますので、有難いことに増える一方でございます」
「お前さんのはどのくらゐあるんだ」
「貸家が三軒、小さな長屋でございますが、――それに貸金が千二三百兩ございませうか。奉公人としてはこの上ない仕合せでございます」
 この惡七兵衞は、自分のおびたゞしい身上しんしやうを何んの隱すところもなくさらけ出すのです。
「これは話の外の話だが、手代の佐吉と喜八を、お前さんは信用して居るのか」
「どちらも惡い人間ではございませんが、喜八はあんな熊の子のやうな醜男ぶをとこの癖に、飛んだ道樂者で、二三日前にも隨分強意見こはいけんをいたしました、――その道樂を止さなきや、出て貰はうとまで申した程で」
「源三郎はどうだ」
「あれは武家上がりに似氣なく利口者でございます」
「總領娘のお袖さんが死ねば、源三郎は、どうなるのだ」
「さア、まだ其處までは考へて居りません。いづれ親類方とも御相談して、何んとか後の事を取決めなければなりませんが」
 七兵衞の話には何んの他意があらうとも思はれません。
 其處へ入つて來たのは、七兵衞の女房お元でした。
「あの、お百の親元へ、使ひを出しましたが――」
 言ひかけるのを、
「あ、お内儀さん。一寸聞きたいことがあるが」
 平次はそれを横合から呼びかけました。
「何んです、親分さん」
「手代の喜八は、大層番頭さんをうらんで居たやうだね」
「さうなんでございますよ。自分の道樂を棚に上げて」
「ところで、これは外のことだが、――今朝お孃さんの殺されて居るのを見付けたのは、お前さんだと言つたね」
「え、あんなびつくりしたことはありません。お百が雨戸を開けてから半刻も經つて居るのに、お孃さんが起きていらつしやる樣子がないので、何うかなすつたんぢやあるまいかと覗いて見ると、あんなに樣子が變つて居るぢやありませんか。あわてて部屋から飛び出して、大きな聲で怒鳴どなり乍ら店の方へ行くと、――」
「その時一番先に駈け付けたのは?」
「源三郎さんとお君さんでした。二人は鉢合せしさうになつて、――いえ、いえ、待つて下さい。源三郎さんが少し先で、いつたんお孃さんの部屋へ入つた樣でしたが、間もなくびつくりして飛び出したところへ妹のお君さんが駈けつけて、縁側で鉢合せしさうになつて、今度は二人で部屋の中へ入つたやうです」
「それから」
「私は店へ飛んで行つて、主人や手代達に知らせました。皆んな一緒に駈けつけたやうですが、あんまりびつくりして胸が痛くなつて、私は暫らく店火鉢の前につんのめつた樣になつて居りました」
「ところで、――もう一つ訊きたいが」
「――」
「お前が最初に見た時と、後で見直した時と、死體に變つたところがなかつたかな」
「さう言へば――」
 お元は考へ込みました。
「それが大事なことだが、思ひ出してくれると有難い」
「さう言へば、最初に、お孃さんの死んで居るのを見付けた時、首に、紅い扱帶しごきなんか卷いてゐなかつたやうですが」
「それは確かか」
「待つて下さいよ――斯う――と、確かですよ親分。少し床から拔け出して白い首筋がむき出しになつて、始めはなんにも卷いて居なかつた筈です。二度目に多勢の後ろから怖々覗いた時は、あの、紅い扱帶が首に卷いてあつたんで、あんなに眼立つ品だから間違ひなんかありません」


 春日町へ行つた八五郎は、汗みどろになつて歸つて來ました。
 春の陽は西にかたむいて、二つの死をめぐる梅の屋の空氣は恐ろしい不安をはらんだまゝ、次第に物の影が濃くなつて行きます。
「あ、驚いたの驚かねえの」
「相變らず物驚きをする子ぢやないか、道で借金取りにでも逢つたのか」
「借金取りには驚かねえが、――武士の家を家搜しする氣か――と、丸山要人が腰の物をひねくり廻したには膽を冷しましたよ」
「で、それつきり逃げて來たのか」
「飛んでもない、それぢやあつしの顏が立たねえ。精一杯とぼけて、お勝手口から滑り込んで、下女を口説くどいて、昨夜源三郎の泊つた部屋を見せて貰ひましたよ」
「夜中拔け出せさうか」
「いえ、あれぢや猫の子だつて拔け出せやしません。まるで城廓じやうくわくだね。嚴重な格子があつて、梯子はしご段の下には用人が寢て居るし、塀には忍び返しだ」
「よし/\、それで宜からう。ところで砂糖の方はどうだ」
「町内の見庵先生は、あの砂糖を火にくべたり、銀のさじでこね廻したり、硫黄いわうを交ぜたり、めて見たりしましたが、砂糖には毒は交つちやゐないといふことでした。――お望みならそのまゝ餅に附けて喰べても構ひませんよ、親分」
「御苦勞、御苦勞、それでよからう。大概たいがい下手人の見當はついたやうだ」
「誰です、その下手人は。あんな綺麗な娘を、虫のやうに殺した奴は?」
「待ちなよ、まだ一と仕上げしなきやなるまい。妹娘のお君を此處へ連れて來てくれ」
「此處は耳が多過ぎやしませんか、向うの娘の部屋へ行つちやどうです」
「いや、耳の多い方がいゝんだ、――お前と寅松親分は、下つ引を一人づつ連れて、表裏の入口を見張つてくれ。誰でも構はない、逃げ出す奴があつたら縛るのだ」
「合點!」
 八五郎は勢ひよく飛んで行きました。それと入れ違ひに、縁側へ出て來たのは、少し眼を泣きらして居る妹娘のお君です。夕陽を正面から受けて、少しまぶしさうですが、いかにも開けツ放しな可愛らしい表情が、妙に錢形平次の心を動かします。
「お孃さん、今度は隱さずに、皆んな打ちあけて下さいよ。姉さんを殺した下手人を、縛るか逃がすかといふ大事な瀬戸際だから――」
 平次はこのいぢらしい娘を迎へて、しんみりときり出しました。
「え」
 お君は思ひ定めた樣子で顏を擧げます。
「昨夜戌刻いつゝ(八時)過ぎから亥刻よつ(十時)前まで、ざつと半刻の間、お孃さんは本當に庭で源三郎と話して居たのですね」
「――」
 平次の靜かな――が、この上もなく熱心な調子に引入れられるやうに、お君は言葉もなくうなづきました。
「その時、どんな話をしました――色戀の逢引ではなかつたと思ふが」
「でも、源三郎さんは、變な事ばかり言つて困りました」
「どんな?」
「私と一緒になつてくれと――」
「で、お孃さんの返事は?」
「姉さんに惡いから、そんな事は言はないで下さい。さう言はれると、私はこの家に居られなくなると言ひました」
 お君の話は思ひも寄らぬことでしたが、平次は豫期したことらしく、大して驚いた樣子もなく問ひ續けます。
「源三郎は、あの許嫁の姉さんをどうするつもりで」
 あの美しい姉娘のお袖を捨てて、可愛らしくはあるにしても、大して綺麗ではないこの妹娘のお君を口説くどく源三郎の心持が、平次には呑込み兼ねたのです。
「姉さんは、源三郎さんを嫌つて居りました。好い男かは知らないけど、あの人は浮氣で薄情で、氣が知れないから――と言つて。でも親類方や番頭の七兵衞どんは、亡くなつたお父さんの遺言だからと、姉さんの言ふことなんか聞かうともしませんでした。でも姉さんは、どんな事があつても、あの人と一緒になるのは嫌だと言つて居りました」
「ところで、もう一つ訊くが、今朝姉さんの死んでゐるのを見た時、首に紅い扱帶しごきを卷いてあつたか、無かつたか」
「え、卷いてありました。一と眼で私の扱帶と解つてびつくりしましたが、源三郎さんが死骸へ手を着けては惡いと止めるので、そのまゝにして置きました」
「有難う、それでわかつた。姉さんを殺した下手人は――あツ」
 平次は立ち上がりました。裏口では、何やら打合ふ物音、それに交つて八五郎の聲が、
「御用ツ、神妙にしやがれ」
 と筒拔けるのです。
 飛んで行くと、八五郎ともう一人の下つ引が、脇差を拔いて手一杯に荒れ廻る源三郎を相手に、薪雜まきざつぽを持つて必死と打ち合つて居りました。多分腰の十手を拔く隙もなかつたのでせう。
 久し振りに平次の投げ錢が飛んで、源三郎の武力を封じ、八五郎のクソ力でそれを組伏せたことは言ふ迄もありません。
        ×      ×      ×
 一件落着の後、平次は八五郎のために、斯う繪解きをしてやらなければならなかつたのです。
「源三郎は姉娘のお袖に嫌ひ拔かれてゐることを知つて、姉娘を殺して妹のお君に乘換へ、梅の屋の大身代を手に入れるつもりだつたのさ。紅い扱帶を死骸の首に卷いたのは、お君を一度疑はせて置いてそれを助けて恩を賣る計略けいりやく。お百の首に自分の前掛の紐を卷きつけたのは、わざと自分を疑はせるやうに仕向けて、實は潔白を見せるためだ。お百の首に細引の跡の殘るのを承知の上の細工だ」
「恐ろしい野郎ですね」
「毒藥は宵のうちに煎藥せんやくに交ぜてお袖に呑ませ、その毒が利いて死ぬまで、お君を姉の部屋へやらないやうに、庭に誘ひ出したのだらう。お百に毒をやつたのは、喰ひ意地の張つてゐるお百に、砂糖をやつてめさせたに違ひあるまい。その砂糖は番頭の祕藏のものを盜み出したので、その中に毒を仕込んだが、お百は丈夫で容易に死にさうもないから、細引で絞め殺したのだらう」
「下女の部屋に砂糖のこぼれてゐたのは?」
「あれは餘計な細工だつた。番頭の七兵衞を疑はせるつもりで、砂糖をこぼして置いたのだらう。だがお百のやうな喰ひしん坊が、手に入れ難い砂糖を疊の上へあんなにこぼして置く筈もないし、その上こぼした砂糖に毒が入つてゐないと判ると、あれはお百が甞めるときにこぼしたのでなく、あとで下手人がわざとこぼしたのだとわかつたよ」
「へエ、成程ね」
「番頭が大分溜め込んでゐると喜八に吹き込んだのも源三郎だ。喜八は番頭を怨んでゐるから、さう聞くと默つて居ないだらうと見込んだのだ」
「惡い奴ですね」
「ところが、それだけのたくらみにも手落ちがあつた。朝お元が一番先に死骸を見付けた時、死骸の首に紅い扱帶しごきが卷いてなかつたのに、お君と源三郎が見た時は、扱帶が卷いてあつた。お元が死骸を見付けて、源三郎とお君が來る迄にあの部屋に一寸入つたのは源三郎だけだ、――源三郎が一寸の隙にあんな細工をしたに違ひあるまい」
「へエ」
「源三郎は惡賢い奴だが、惡智慧のある奴は、その智慧のために縮尻しくじるのだよ。それにしても、お君は良い娘だつたね、八」
 平次はつく/″\言ふのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十六卷 お長屋碁會」同光社
   1954(昭和29)年6月1日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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