錢形平次捕物控

青錢と鍵

野村胡堂





「親分、良い天氣ですぜ。チラホラ梅は咲いてゐるし、お小遣はフンダンにあるし――」
「嘘をつきやがれ。梅の咲いたのは俺だつて知つてゐるが、八五郎の財布さいふにお小遣がフンダンにあるわけはないぢやないか」
 錢形平次と子分の八五郎は相變らずの調子で始めました。
「なアに、お小遣のフンダンにあるのは親分の財布で――」
「あれ、人の財布の中まで讀みやがつて、氣味の惡い野郎だな」
「そこで、ちよいと御輿みこしをあげてくれませんか。すぐ其處なんだが」
 平次の出不精を知り盡してゐる八五郎は、ツイ餘計な細工までするのでした。
「いやに落着いてゐるやうだが、お前はもう今朝三里も歩いてゐるだらう――額口ひたひぐちに汗を掻いて足からすそほこりだらけぢやないか。良い若い者が、長刀なぎなたになつた草履なんかいて行くのは、止しちやどうだ」
かなはねえなア、親分に逢つちや、――でも埃は草履のせゐで、道はそんなに遠くはありませんよ」
「何處だ?」
「小石川表町、傳通院の前。山の手一番と言はれた呉服屋、鳴海なるみ屋の娘が殺されたらしいんで、富坂の周吉親分からの使ひで、朝のうちに一と走り行つて見て來ましたよ」
「それで?」
「死んだのは鳴海屋の娘でお町といふ十八の可愛いゝ盛り。井戸へ落ちて死んだといふ屆出だが、死骸を見ると、に落ちないことばかりだ。ちよつと親分行つて見て下さい。周吉親分が持て餘して、井戸ばかり覗いてゐますよ」
「仕樣がねえなア」
「十八や十九の滅法めつぽふ可愛らしいのが、寢卷で井戸へ飛び込むのも色氣がなさ過ぎるし、あやまちにしても、水垢離みづごりを取りやしめえし、若い娘が、夜中に井戸端へ行くのも變ぢやありませんか」
「大層氣が付くぢやないか。其處まで解るなら、俺を呼出す迄もあるめえ」
 平次の尻の重いのは、出來ることなら八五郎に手柄を立てさせようといふ、子分思ひの不精さでもありました。
「自慢ぢやねえが、その先は少しもわからねえ。周吉親分もさう言ひましたよ、八五郎兄哥にさう言つてやつたら、錢形の親分をつれて來てくれるだらうと思つたのに、獨りで來るのは人の氣も知らない、――てね」
「厄介だなア、――二月の寒空に、良い新造が井戸へ飛び込むか、飛び込まないか、理屈を拔きにしたつてわかるぢやないか」
 さう言ひながらも平次は、手早く支度をして、八五郎を案内に、表町の鳴海屋に乘込みました。
 無量山壽經寺が徳川幕府時代所謂いはゆる傳通院殿のお靈屋たまやと澤藏司稻荷で有名になり、大奧の尊崇を集めて、江戸の一角に儼然たる威容を持したことは、改めて言ふまでもないことですが、百餘宇の學寮を持ち、數千の所化しよげを養つて、この邊一帶の町家のうるほひになつたことなどは、今の人には想像も及びません。
 その所化寮の前、表町に角店を張つた鳴海屋の繁昌は、下町にも珍らしい特色的なものでした。前の主人彌左衞門は三年前に他界して、今は若い後家お富が、男まさりの氣性と、珍らしい聰明さと、そしてそれよりも年齡を超越したきりやうで、店中の者を手足の如く使ひ、亡き夫彌左衞門在世の頃に優るともおとらぬ繁昌振りを續けて居るのも、山の手衆の噂の一つになつて居りました。
 その日はさすがに店を閉ぢ、大戸をおろしてひつそりとして居りますが、足一たび潜戸くゞりどの中に入ると、不安と焦躁と、押し潰された恐怖が入り混つて、何んとも言へぬ緊迫した空氣を感じさせるのもむを得ないことでせう。


「お、錢形の親分。飛んだ無理を言つて濟まねえ」
 富坂の周吉は入口に金壺眼を光らせて居りました。五十近い、練達な御用聞ですが、聞き込みと力押しで通して來た男で、少しむづかしい事件になると、手も足も出なくなる癖があります。
「八五郎がうるさく言やがつて、到頭、引張り出されたよ――ところで、娘の死骸は?」
「庭から廻つた方が早い、――裏の部屋だ」
 平次は周吉の案内でそのまゝぐるりとお勝手口へ廻りました。數寄すきを凝した庭をめぐらして、木戸もへいも恐ろしく嚴重な上に、住居の木戸も頑丈で、鼠一匹もぐり込めさうもない構へは、さすがに山の手屈指の分限者ぶげんしやだけのことはあります。
「死骸は下女が水を汲みに來た時見付けたので、引揚げた時はもう手當も醫者も及ばなかつた。――あんまり痛々しいから乾いた物と着換へさせて、其處にそつと寢かしてあるが」
 年配の周吉が、んなしをらしい事を言ひながら指したのは、井戸の側の濡縁付の六疊で、多分、奉公人達の部屋にでもなつて居るのでせう。
 庭から直ぐ入つて、平次は死骸の枕許に膝行ゐざり寄りました。至つて粗末な布團の上に着換へさせたとは名ばかりの古袷ふるあはせ、手習机の上に線香と水だけ供へてあるのも哀れです。
 平次は片手拜みに死骸の顏をおほつてある巾を取りました。豐かな感じはあるにしても、濡れたらふのやうな青白い顏、唇を噛んだ白い齒が少し見えて、苦痛といふよりは、全體の表情が妻まじい恐怖にゆがんで見えるのは何んとしたことでせう。
 若くて美しい娘の斯うした死顏が、犇々ひし/\と平次の心を打ちます。
「水は呑んぢやゐないネ、周吉親分」
 平次は早くも水を呑んで居ない水死人の特色に氣が付きました。
「この邊の井戸は深いから、飛び込んで水際まで落ちる前に、何處かにひどく頭でも打つて、目を廻したんぢやあるまいか。よくあることだが」
 周吉はもう一度娘の死骸を覗き乍ら、はなはだ自信のないことを言ふのです。平次はそれに應へず、謹み深い態度で處女をとめの丸い胸から、水などは少しも呑んで居ないらしいほのかな窪みをもつた鳩尾みづおちのあたり――後ろへ廻つて背中をざつと見て、
「水を呑んで居ないが、傷もない」
 自分で確かめるやうに言ふのです。
「頭の中には?」
 周吉はまだ自分の考へに溺れて居ります。
「髮を解いて見るが宜い――でも、それにも及ぶまいよ。濡れてはゐるが、傷はありさうもない」
「すると親分、締められた上、井戸に投り込まれたんでせうか、それとも、毒――」
 口を容れたのは八五郎でした。
「首筋にも何んの變りはないし、くちびるを噛んで居るから、蒸し殺されたのでもあるまい。毒殺でないことは身體の樣子でもわかるが、それにしてもこの顏は容易ぢやないな」
 娘の死骸は、美しくもまた凄まじいものです。クワツと見開いた眼には、一體何が映つてゐるのでせう。
「死に際のこの眼には、多分下手人の顏が映つたことだらう。可哀想に」
 平次はさう言つて、愛撫するやうに娘の頭を持上げて、靜かにその眼を閉ぢさせてやるのでした。
「絞めたのでも、毒殺でもなく、水を呑んでも居ないといふと、頓死とんしぢやないか。若い娘が夜中に戸外へ出て、卒中で死んで井戸に落ちるなどは話の種だぜ」
 周吉の調子にはいくらか冷笑の氣味がありましたが、仕事に熱中した平次には、それは聞えないのか、空耳に聽き流して、娘の首筋から耳、眼、髮の中などを見て居りましたが、
「これだよ、周吉親分」
「えツ、何にか變つたことでもあるのか」
 平次は娘の死骸を兩手で抱き上げるやうに、外から入る光線を、その可愛らしい耳朶みゝたぶの中に射し込ませるのでした。
「短かい疊針だよ、――鐵槌かなづちで一氣に打ち込んだのだらう、――耳の中に、そら、鐵の疊針の頭が少し見えるだらう――鬼のやうな奴の仕業しわざだ」
 平次の語氣には、下手人の殘忍さを憎んで、いつになく激しい調子があります。
「ひどい事をしやがる、こいつ勘辨ならねえ畜生だ」
 八五郎は櫻貝のやうな――が、血色を失つた小さい耳朶の中に、僅かに光る鐵色の針の頭を見て、身顫ひがするほど腹を立てて居りました。
「誰だらう、斯んな事をしやがつたのは?」
 年配の周吉もさすがに我慢のなり兼ねた樣子です。
「一人々々、家中の者に會つて見よう。最初はなつから下手人を決めてかゝつちやいけない――岡つ引が腹を立てるのは禁物だ、――八、手近のところから、一人づつ呼んで來てくれ。死骸の前で會つてやらう。娘の耳へ疊針を叩き込んだ奴も、死骸に睨まれたら、あまり宜い心持はしめえ」
 平次はもう一度娘の死骸に默禮すると、腰の十手を拔いて、疊の上にピタリと置きました。若々しい義憤を封じて精一杯職業的な冷靜さに歸らうとするのでせう。


 八五郎が最初につれて來たのは、下女のお三でした。三十前後の平凡な女ですが、んなのが案外しつかりもので、家の事情や、人と/\の關係を説明させるのに、一番便利なのかもわかりません。
「今朝、井戸の中の死骸を見付けたのはお前だといふことだな」
「え、釣瓶つるべが一つハネ上がつて居るから不思議に思つて井戸を覗くと、水肌に赤い襦袢じゆばんが見えるぢやありませんか。驚いて大きな聲を出すと、皆んな飛んで來て、大騷ぎになりましたが、いざとなると井戸の中へ降りて行くものがないんです。仕方がないから鳶頭かしらを呼んで來て、ようやく引揚げましたが」
 話はなか/\良い要領です。
「一番先に驅け付けたのは誰だ」
「番頭の藤六どんで」
「死骸が井戸の中にあるうちから、娘のお町とわかつたのか」
「長襦袢のがらで、――家中の者なら一と眼でわかりますよ」
「この家のお内儀さんは後添で、――死んだ娘とはまゝしい仲だつたな」
 周吉は土地の者らしく、突つ込んだ事まで知つて居ります。
「義理のある仲ですが、お孃さん達へは良くなさいますよ」
「外にも娘があるのか」
 と平次。
「お信さんといつて十歳とをになる方があります」
「それから? 外にも兄弟があるだらう」
「若旦那の彌太郎樣は、少し取逆上のぼせて、お氣の毒なことに――」
「それはどうして居る」
かこひの中に居ります――圍ひと言つても座敷牢で――」
 お三は言はでもの事を言つたのを、ひどく後悔する樣子でしたが、それでもこれを言はずには居られなかつたのでせう。
「お前はこの家に何年奉公して居るんだ」
「五年になります。お暇を頂かうと思ひ乍ら、一年、一年と長くなつて――」
 お三はこれくらゐにして、次に呼んで來たのは鳴海なるみ屋の後家、今はこの大店おほだなの女主人と言つても宜いお富でした。
「飛んだ御苦勞樣でございます。世間樣をお騷がせして、本當に申譯ございません」
 さう言ひ乍ら繼娘の死骸に線香を上げて、丁寧に拜んでさて、平次と周吉に、ほどよく相對しました。三十七、八といふところでせうが、着物の着こなしの上手な、お白粉氣のない青白い顏、それは病的といふよりは、寧ろ精力的に見えて、大きく張つた眼、青々とり落した眉、唇の異常に赤いのも、年増らしい強烈な魅力でした。
「娘は殺されたのだよ、――過ちでも、身投げでもない」
「えツ」
 平次の突如とした言葉に内儀のお富はハツと驚きました。取澄した冷たさが一ぺんに崩れると、思はずのけりましたが、間もなく平次と周吉の熱心な視線が自分に注いでゐることに氣が付くと、からくも冷靜を取戻した樣子で、
「一體どうしたのでせう。この娘は人樣に憎まれたり、怨まれたりする人ぢやありません――何うして、誰が殺したのでせう」
 斯う言ふのが精一杯でした。
「そいつはまだわからない、――が、お町には親しい男でもなかつたのか」
「飛んでもない。――まだ本當の子供で」
「嫁の口は?」
「それも二つや三つはございましたが、せめてこの秋にでもなつたらと、本人も氣が進まないので、ひかへて居りました」
「殺された娘の兄彌太郎とやらは、座敷牢に入れられてゐるといふではないか」
「去年の秋から、親類の方々とも相談申し上げて、圍ひの中に入れて置きました。お醫者は風狂とやら申しますが、妙なことを口走つて、時々暴れたりしますので」
「その彌太郎に會はせてくれ」
「これへ連れて參りませうか」
 お富はひどく難色があります。座敷牢から出して、時々ひどい眼に逢つて居るのでせう。
「いや、此方から行かう」
 お富をうながして、平次と周吉はその後ろに從ひました。薄暗い廊下を二度ほど曲つて家の一番奧、とある部屋の内に立つて、内儀は唐紙を開けてくれます。
 其處は疊敷の長四疊で、その奧は、以前納戸なんどか何んかだつたでせう。牢屋のやうな恐ろしく嚴重な格子戸に、大一番の海老錠えびぢやうをおろして、薄暗い六疊ほどの部屋の中には、何やら黒いものがうごめきます。
 突き當りの正面に、小さい窓はありますが、其處にも凄まじい格子がはめ込んで、圍ひはまことに鐵の檻の如く嚴重です。
 人の足音に氣が付いたのか、格子の中の黒いものは、フト顏を擧げました。まだ二十三四の若い男ですが、月代さかやきは延び放題、頬は少しこけて、無精ひげの中から眼ばかりキラキラ光らせますが、思ひの外穩やかで、繼母の顏を見ながらニヤニヤと笑つて居るのです。恐らく妹のお町が死んだことは、まだ誰も教へてはくれなかつたでせう。
「彌太郎や、――何んか要るものはないかえ――近頃の食物は何う」
 お富はたくましい格子に手を掛けて、優しく訊ねました。
「何んにも不足はありませんよ、――食物も申分なしさ。この上の欲しいものは書物だ。何んでも構はないから讀むものを持つて來て下さいよ、――もう一といき學問すると私は御茶の水の聖堂の先生になれるんだ――四書、五經、太平記、何んでも宜いな」
 話は大眞面目ですが、長く聽いてゐると次第に調子が外れて來るのです。


「彌太郎の世話は誰がして居るのだ」
 座敷牢を離れて、もとの部屋に歸ると、平次は尚ほもお富に問ひを續けます。
「私と、下女のお三と、爺やの嘉助と――そんなもので御座います。他の者が顏を見せると氣が立つていけません」
「妹があつた筈だが――」
「お信はまだ十歳とをですから彌太郎の側へはやらないやうにして居ります」
「あの圍ひの鍵は」
「私が預かつて、部屋の手箱に入れて居りますが――」
 平次はお町殺しの常規を逸した殘酷さから、フトこれを氣違ひのせゐではあるまいかと思つた樣子で、鍵のことまでも訊ねましたが、内儀に斯う言はれると、狂人の仕業といふ疑ひは解消してしまひます。
「その鍵を置いてある内儀の部屋といふのは?」
「向うの離屋はなれの二階でございます。夜分は私とお信が休んで居りますが」
 内儀の指さしたのは、母家から三四間離れた新建の二階家で、その二階から丁度、彌太郎の座敷牢の窓が見おろされるやうに出來て居ります。
 内儀の次ぎに呼んで來たのは、番頭の藤六といふ四十二三の男、呉服屋の番頭らしい物柔らかな感じの大男でした。
「飛んだことで御座います。お孃樣はあの通り可愛らしい方で、それを怨んだり憎んだりする者がある筈もございません。へエ」
 と言つた調子です。尚ほも突つ込んで訊くと、殺されたお町の部屋といふのは、この死骸を置いてある長屋の隣りで、店からも母屋おもやのどの部屋からも自由に出入りが出來、その意味から言へば、店中の者は一人も不在證明アリバイを持つて居ないことになります。
 鳴海屋の身上は大變なもので、現金だけでも一萬兩は動かないらしく、外に商賣物、地所、家作、店の株まで勘定すると大變な額になりさうです。
 番頭の次ぎに呼んだのは、手代の與三松、これは二十七八の小意氣な男で、さい走つたところが妙に人を警戒させます。
「お孃さんを殺すなんて――そんな人間があるわけはないぢやありませんか。飛んでもない」
 お町が人手にかゝつて殺されたといふことを何うしても承服しないので、平次はこの男にだけは、死骸の耳の中にある、疊針の頭を見せてやりました。
「あツ、――誰で、誰でせう。こんなひどい事を」
 與三松はお町の死骸の前に、ヘタヘタと坐り込んでしまひました。若い手代に取つて、この主人の娘が辨天樣のやうに尊く見えてゐたことでせう。
 爺やの嘉助は六十前後の老人で、
「私に何がわかるものでせう。一日中庭で暮して、夜になれば自分の寢床へもぐり込むより外に、能も智慧もない者ですもの」
 何を訊いても、これでは齒が立ちません。
 末娘のお信は、無口ないぢらしい娘で、その可愛らしさも淋しさにむしばまれて、年齡よりはふけて見える小娘でした。何を訊いてもハキハキとは物を言はず、赤いたもとをいぢつて、上眼遣ひに平次の顏色をうかゞつて居ります。
「ところで親分、下手人の目星は?」
 八五郎は我慢のなり兼ねた樣子でした。美しい娘の無殘な死に樣が、この女性崇拜者フエミニストをすつかり焦立たせて居ります。
「まるつきり見當もつかないよ、疑へば皆んなだ。此處でなまじつか言ひ譯の立つ者――例へば昨夜この家の屋根の下に居なかつたとか、誰かと一緒に夜つぴて眼を覺して居たといふ奴があれば、それが一番怪しいといふことになるよ。誰も彼も、こんな明けつ放しに疑はれるやうな殺しに、俺はまだ出つ喰したこともないよ――その癖外からは鼠一匹入つた樣子もないし、入つたにしても寢卷姿の娘を井戸端にさそひ出して殺せるわけはない」
 平次がさう言ふのも無理のないことでした。疑へば繼母のお富も、物慾の旺盛らしい番頭の藤六も、お町に氣があつたかも知れない手代の與三松も怪しいのです。そしてその三人共、自分の身を護るほどの不在證明アリバイらしいものを一つも持つて居ないのです。


 それから三日、平次と周吉と八五郎は、及ぶ限りの手を盡しましたが、お町を殺したらしい者が多過ぎる癖に、的確な證據が一つも擧らず、平次は黒星を頂いたまゝ、四日目を迎へました。
 それは二月十日のことです。
「親分、又やりましたぜ」
 ガラツ八の八五郎が、路地の口から怒鳴り乍ら、ドブ板をハネ返して平次の家に飛び込みました。
「何をやつたんだ、相變らずそゝつかしいぜ。人の家へ入るのに、番毎ばんごと格子戸に鉢合せをして、二三度キリキリ舞ひをして飛び込む奴があるかよ、――まだしも履物を脱ぐだけは見付けものだが――おや/\汚ない足だぜ。草履をはいて飛び込んだ方が、まだしも無事なくらゐだ」
 平次は煙管を横ぐはへに、口小言ほどは困らないらしく、ニヤリニヤリとこれを迎へました。
「だつて、これが落付いて居られますか、てんだ。鳴海なるみ屋の番頭の藤六が、今朝あのお勝手口で、虫のやうに打ち殺されてゐるんですぜ」
「何? それは本當か」
「本當かは情けないな、親分、――娘のお町を殺した曲者が、同じ手で番頭をやつたに違ひありませんよ」
「それはどうして同じ手とわかる」
「今度も耳の中に疊針が打ち込んでありますよ。尤もあの番頭はイキが良かつたから、疊針だけでは心細いと思つたか、頭を石臼いしうすで打つて、猿蟹合戰のお猿みたいにお鉢を割られて居ますがね」
「行つてみよう、――俺はすつかり感違ひして居たかも知れない」
 平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に飛び出しました。
 鳴海屋では、重なる不祥事に店を開ける氣にもなれないらしく、大戸をおろしたまゝ、相變らずヒツソりと[#「ヒツソりと」はママ]して居ります。
 番頭藤六の死骸は、二度目の不祥事でもあり、まだ檢屍前でもあり、そのまゝお勝手に置いてありました。お世辭の良い色白の大男、四十を越しても充分若くも好い男でもあつた藤六の死骸は、平次が想像した以上に怪奇なもので、頭を打ち碎いた徑一尺以上の大石臼は、碧血へきけつに染んだまゝ土間に轉がつて居り、その側に折重なるやうに倒れた藤六の死骸には、僅かに茣蓙ござがかけられて、多勢の眼から隱してあります。
 茣蓙を剥いで一と眼、平次もこの男の死に顏の、思ひの外凄まじいのに驚きました。八五郎が見せてくれた左の耳には、半分ほど打ち込んだ大疊針の頭が光り、側には念入りに鐵槌かなづちまで投り出してあるではありませんか。
「ひどい事をする奴ですね、こんな臼で頭を叩き割つた上に――」
「八、お前その石臼を持ち上げて、誰かの頭を叩く眞似をしてみないか。首尾よく行つたら、歸りに一杯おごるが――」
「有難いね、そんな藝當なら、幾度でもやりますよ」
 八五郎はさう言ひながら石臼を抱き上げましたが、眼の上へ持ち上げるのが精一杯で、これで人の頭を叩き割ることなどは思ひも寄りません。
「こりや驚いた。この石臼で藤六を毆り殺す奴があつたら、そいつは天狗ですよ、親分」
「天狗には及ばないよ、その長押なげしの上へ石臼を載せさへすれば宜いのだ。その石臼はお勝手の戸を開けてヌツと入つて來た奴の頭に――間違ひなく落ちて來るのだよ、――長押は狹いし、戸の建て付けが固いから、ガタピシやつて居ると、請合ひ上から石臼が落ちて來る。ちよいとやつてみないか、八」
「そいつは御免かうむりませう。ガン首の燒繼ぎはむづかしさうだ」
「この工夫は面白からう、八。まるで猿蟹合戰だ。藤六は頭を割られて一ぺんに死んだことだらう。其處へ曲者が出て來て、疊針を藤六の耳に打ち込んだのだらう」
「誰です、それは、――親分の指が動きさへすれば飛んで行つて雁字がんじがらめにして來ますよ」
「まア待つてくれ。相手は容易ならぬ曲者だ、――が、死んでしまつた藤六の耳へ、何だつて疊針を打ち込まなきやならないんだ――それもお町の時と違つて、針が半分しか打ち込まれて居ない」
 さう言ひ乍ら平次は、お勝手の水下駄を突つかけて、家の外側を一と廻りしました。
 惣領の彌太郎の入れられて居る座敷牢の外へ來ると、嚴重な格子の中の雨戸が締つて、窓の外、霜解けの軒の下にはおびたゞしい足跡です。
「大變な足跡ですね」
 八五郎が後からいて來て、地面を嗅ぐやうにして居ります。
「子供の下駄の跡ぢやないか、――小さい妹、あのお信とか言ふのが、此處へ來て座敷牢の中の兄と話でもして居るのだらうよ」
 窓の下に立つて振り仰ぐと、丁度繼母のお富と、妹のお信の住んで居るといふ離屋の二階は、三四間をへだてたひさしの上で、四十五度くらゐの角度で見上げられます。
「妙に可哀相な兄妹ですね」
「いろ/\混み入つたことがありさうだよ。彌太郎に會つて見ようか」
 平次はもう一度母屋へ入つて、眞つ直ぐに座敷牢の前へ行きました。
 唐紙を開けると、格子になつた開き扉は、大一番の海老錠をブラ下げて、地獄の門のやうに嚴重に閉つて居ります。近づいて見ると、薄暗い圍ひの中には、相變らず蠢めく者。
「彌太郎、彌太郎」
 平次は格子の外から聲を掛けました。
「何んだ、邪魔をしないでくれ。俺は今孝經の講義をして居るのだ、――聽き手はこの通り多勢居るよ」
 彌太郎は薄暗い圍ひの中で、黄表紙の本を一册持つて、何やらブツブツ言つて居りますが、思ひなしかその眼瞼まぶたは少し張れて、顏にも躯にも、痛々しい陰翳があります。誰か店の者の一人が、妹のお町の不意の死を教へでもした者があるのでせう。
「親分」
 圍ひを離れると、八五郎はそつと平次に囁きました。
「何んだ、八」
「あの男のすそに血が附いて居ましたね」
「お前も氣が付いたか」
「どうしたんでせう」
「いづれわかるよ」
 平次はその儘お勝手へ行つて、物蔭にそつと下女のお三を呼びました。
「これは大事なことだ、お内儀さんは酒が好きか」
 平次の問ひは途方もないもので、お三は暫らく眼を丸くして默り込んでしまひましたが、思ひ定めた樣子で、
「え、一年ばかり前から、寢付かれないからと仰しやつて――もと/\お嫌ひぢやなかつたやうです。水商賣をなすつた方ですから」
「強いか」
「二合くらゐづつ、毎晩お床へ入る前に召上がります」
「さうか、有難う」
 平次はそのまゝ離屋へ向ひます。


 二階へ登ると、其處は彌太郎お町の妹のお信の部屋で、十歳の小娘の好みらしく、小巾こぎれや人形や繪艸紙ゑざうしが、かなり贅澤に散らばつて居ります。
 お信はドヤドヤと入つて來た三人大男――平次と八五郎と周吉の姿を見ると、鷹の前の小雀のやうに、すつかりおびえきつて、部屋の隅に小さくなつてしまひました。
「お前のところに、たこの絲が有るだらう」
 平次はお信の前に立つと、思ひも寄らぬ事を訊くのです。それは靜かな優しくさへある聲でしたが、妙に妥協を許さない調子がありました。
 お信は暫らく脅えきつた眼を擧げて、平次の顏を眺めて居りましたが、あらがひ兼ねたものか、手箱の中から丈夫な凧絲の、クルクルと卷いたのを出して、平次に手渡したのです。
「八、お前外へ出て、この絲の先を座敷牢の格子に縛り付けてくれ」
「――」
 八五郎は默つて外へ出ました。そして、平次が二階の窓から下げた凧絲の一端を、四間ばかり離れた母家の座敷牢の格子に縛つたのです。
「宜いか、八」
 二階の窓で、他の一端を持つた平次は、懷ろから穴のあいた青錢――寛永通寶を一枚取り出すとその穴に凧絲を通して、窓の外に送つてやるのです。
 二階の窓から座敷牢の格子まで、四十五度の角度を持たせた凧絲の上を、青錢は滑らかにすべつて、何んの支障もなく、座敷牢の窓の格子にチリンと鳴りました。
「八、その絲を格子から解いて、錢を絲の先に結へてくれ」
「へエ」
 格子から解いた凧絲の先に青錢を縛ると、二階の格子の中に居る平次は、それをスルスルと手繰り寄せました。青錢は手品師の種のやうに、もとの平次の手許にかへるのです。
「これが青錢でなくて、座敷牢の鍵だつたら何うだ、――鍵はこの隣りの部屋にあるのだよ、――鍵さへ手に入れば、座敷牢の中からでも、あの錠をあけるのは何んでもない」
 二階へ戻つて來た八五郎を迎へて、平次は面白さうに言ふのです。
「それぢや、あの娘殺しの下手人もあの氣違ひですか、親分」
 八五郎と周吉はもう立上がつて居ります。平次の返事一つでは、座敷牢に飛び込んで、彌太郎を縛る氣でせう。
「いやそんな手輕なものぢやない。この騷ぎには底の底、奧の奧があるのだ」
「すると?」
「鳴海屋の後々のことも考へてやらなきやなるまい。周吉親分と八五郎は、暫らく母家へ行つて居てくれ」
「親分は?」
「俺は此處に用事がある。この儘宜い加減な事をして置くと、まだ/\幾人も怪我をしなきやなるまい」
 平次は二人をなだめて、母家へ歸すと、
「心配しなくても宜いよ、お前には別に罪はないのだから」
 おびえきつてゐるお信を慰めて、さて次の部屋へ入つて行くのでした。其處には内儀のお富が、あまりの事にすつかり氣分を惡くして、朝から此處に籠つて居たのです。
「あ、錢形の親分さん」
 床の上に起き上がつたお富、――青白い顏、大きい眼、恐怖と疑惑とになやまされて、たとへやうもなく病的なそして美しい眼です。
        ×      ×      ×
 鳴海屋の事件は全くうやむやはうむられてしまひました。娘お町を殺した下手人も、番頭の藤六を殺した下手人も、永久に擧らなかつたのです。
 が、平次が内儀お富に何を話したかもわかりませんが、間もなくお富は若い有髮うはつあまとして隱居し、座敷牢から出された彌太郎は、何んの不都合もなく鳴海屋の主人としてやつて行くことになりました。手代の與三松、爺やの嘉助、下女のお三、外から通ひの手代達にも何んの變りもありません。
「こいつはさつぱりわからねえ。一體鳴海屋の娘と番頭を殺したのは誰でせう」
 一件が落着してから、八五郎は相變らず事件の眞相を訊ねました。
「娘のお町を殺したのは、番頭の藤六だよ」
「へエ」
 それはまことに豫想以上の言葉です。
「俺も最初はじめはわからなかつたが、後でわかつたよ。あの番頭は後家のお富とねんごろになつて、鳴海屋の乘つ取りを目論んだのさ。お富は後家を立てるにしては若くて綺麗過ぎたが、鳴海屋の身上に引かれて他所よそへ再縁する氣もなかつた」
「へエ」
「で、藤六と仲がよくなつたが、藤六といふ男は恐ろしい惡黨だ。邪魔になる跡取りの彌太郎が少し道樂過ぎたのと、學問に疑つて、商人あきんどにしては言ふ事が突拍子もなかつたので、親類を丸めて氣違ひといふことにして座敷牢に入れた。彌太郎も藤六の惡黨ぶりや、繼母の不始末を知つて居るから、うつかり正氣みたいな顏をすると、命が危ないと思つて、わざと氣違ひの眞似をして居たのだらう。最初はじめつた時から俺は、あの眼は氣違ひの眼ぢやないし、言ふことも拵へ事のやうな氣がしたよ」
「へエ、あつしなどは本當のキ印とばかり思ひ込んで居ましたが」
「それが彌太郎の利口なところだらう、――ところで、後に殘つたお信はまだ子供だ、お町は賢こい娘で、藤六の邪魔になつて仕樣がない。到頭あんなむごたらしい殺しやうをし、井戸へ落ちて死んだと見せたが、萬一耳の中の疊針を見付けられても、藤六といふ奴は恐ろしく惡賢こいから、自分に疑ひのかゝらないやうに小細工は一つもしない。あの時は俺も下手人を藤六とはどうしても思へなかつた」
「――」
「ところが四日目にその藤六が殺された、――離屋のお富のところへ忍んで行つた歸り、上から石臼いしうすが落ちるやうにして置いたのは誰だらう。あの石臼を長押なげしの上に載せるのは、女や子供ではない。その上死んだ藤六の耳へ、麗々と疊針を打ち込んで置いたのは、お町を殺された怨みを返したものと見る外はない」
「成程ね」
「一番怪しいのは彌太郎だ。座敷牢へ行つて見ると、彌太郎は眼を泣き脹らして、着物の裾に血が附いて居る、――背後うしろの方だから、本人も氣が付かなかつたらしい」
「――」
「彌太郎が座敷牢から拔け出して藤六を殺したとすれば、あの大一番の海老錠をどうしてはづしたか、それがわからなかつた。鍵はお富が離屋の部屋に置いてある筈だし、彌太郎の妹のお信は、その隣りの部屋に居る、――お町の殺された事は、いづれお信の口から聽いたことだらうから。――彌太郎はお信に教へて、凧絲たこいとの用意をして、繼母のお富が寢酒を呑んでよく眠つた隙に、そつと鍵を取り出して、二階から座敷牢の窓に滑らせるのは何んでもない、――凧絲は暗くなる前に窓へ張つて置くのだ――現に彌太郎とお信が、時々會つて居た證據は、あの座敷牢の窓格子の外に、子供の足跡がうんと付いてゐるのでもわかる」
「へエ、驚いたね、どうも。それでどうして彌太郎を縛らなかつたんです」
「彌太郎は座敷牢に入れられて居るよ。その間に妹を殺されたぢやないか、座敷牢から拔け出してお勝手の長押に石臼を載せたのがそんなに惡いことかな――尤も死骸の耳に疊針を刺したのは惡いが――俺はあれだけの事で人を縛る氣がしないよ」
「へエ」
「繼母のお富は、お町を殺したのが藤六の仕業しわざと知つて居た筈で、『お町は人に殺されたのだ』と俺が言つた時、あの繼母の驚きやうは、あんまり大袈裟おほげさで芝居になつて居たらう。――が、彌太郎はあの繼母にまで仇をする氣はなかつたのだらう。だから俺が口をきいて、あの繼母に身を退かせたのだよ。彌太郎を縛るより、その方が溜飮が下がるぢやないか」
 そんな事を言つて、相變らず人を縛ることが嫌ひな平次だつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
   1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「寳石」
   1949(昭和24)年
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月24日作成
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