錢形平次捕物控

權三は泣く

野村胡堂





「考へて見ると不思議なものぢやありませんか。ね、親分」
 八五郎はいきなり妙なことを言ひ出すのでした。明神下の錢形平次の家の晝下がり、煎餅せんべいのお盆をからつぽにして、豆板を三四枚平らげて、出殼でがらしの茶を二た土瓶どびんあけて、さてと言つた調子で話を始めるのです。
「全く不思議だよ。晝飯が濟んだばかりの腹へ、よくもさう雜物ざふもつが入つたものだと思ふと、俺は不思議でたまらねえ」
 平次は八五郎の話をはぐらかして、感に堪へた顏をするのでした。
「そんな話ぢやありませんよ。あつしの不思議がつて居るのは、江戸中の人間が腹の中で、いろんな事を考へて居るのが、若しこの眼で見えるものなら、さぞ面白からうと言つたやうなことで――」
「あのが何を考へて居るか、それが知り度いといふ話だらう」
「まア、そんなことで」
 八五郎はあごを撫でたり額を叩いたりするのです。
「安心しなよ、お前のことなんか考へちや居ないから」
「有難い仕合せで、へツ」
「誰が何を考へてゐるか、一向わからないところが面白いのさ。こいつが皆んな眼に見えたひにや、大變なことになるぜ、――第一こちとらの稼業は上がつたりさ」
「大の男の腹の中が、哀れな戀心で一パイで、可愛らしい娘が喰ひ氣で張りきつて、立派な御武家の腹の中が金慾でピカピカして居るなんざ、面白いでせうね」
「言ふことが馬鹿々々しいな。さう言ふお前の腹の中には、一體何があるんだ」
「戸棚の中の大福餅ですよ、――先刻さつきチラリと見たんだが、まだ四つ五つは殘つて居るに違げえねえ。あれを一體何時誰が喰ふだらうと――」
「呆れた野郎だ、――お靜、大福餅を出してやつてしまひな。そいつは見込まれたものだ、他の者が喰ふと、八五郎のおもひで中毒する」
「へツ、へツ、さすがに錢形の親分は天眼通で」
 八五郎は底が拔けたやうに笑つて居ります。
 これはしかし、平次の生活のほんのささやかな遊びに過ぎなかつたのですが、その日のうちに錢形平次、怪奇な事件の眞つ唯中に飛び込んで、人の心の動きの不思議さに手を燒くことになつて居りました。
「親分、大變ツ」
 其處へ飛び込んで來たのは、平次の子分の八五郎の又子分の下つ引の又六といふ、陽當りの良くない三十男でした。ノツポの八五郎と鶴龜燭臺つるかめしよくだいになりさうな小男、器用で忠實まめで貧乏で、平次と八五郎に對しては、眼の寄るところに寄つた玉の一人だつたのです。
「何んだ、又六ぢやないか、何が大變なんだ」
 八五郎はそれでも一かど親分顏をして、縁側へ長んがい顎を持出します。
「御數寄屋橋から息もかず飛んで來ましたよ」
「恐ろしく長い息だな」
「無駄を言はずに、話を聽け、八」
「へエ」
 平次に叱られて八五郎は間伸びな鋒鋩ほうばうを納めました。
「御數奇屋橋の御呉服所主人あるじ三島屋祐玄いうげん樣が殺されましたよ。公儀御用の家柄だ、下手人がわからないぢや濟むまいから、直ぐ平次を呼んで來るやうにと、八丁堀の笹野樣から、格別のお聲掛りで――」
「さうか、御苦勞々々々、笹野樣のお言葉ぢや行かなきやなるまい」
 平次に取つては年來の知己でもあり、恩人でもある、吟味與力の笹野新三郎が、事件がむづかしいと見て、又六を神田まで走らせたのでせう。
 平次と八五郎と又六は直ぐ樣數寄屋橋までくつわを並べるやうに驅けました。三人の吐く息が、白々と見えるやうな、薄寒い冬の日です。
 三島屋祐玄といふのは、一石橋を架けたといふ後藤縫殿助を筆頭に、七軒の公儀御用を勤むる御呉服所のうちの一軒で、言ふ迄もなく士分の扱ひを受け、公儀御手當の外に、莫大な利分をあげて、豪勢な暮しをして居る家柄だつたのです。


「おや、錢形の親分。親分が來て下されば安心で」
 その豪勢な店口に迎へてくれたのは、番頭の幸七でした。五十年輩の氣むづかさうな男ですが、その代り三島屋に三十七八年も奉公し、この店から自分の葬ひを出して貰ふつもりで居る、支配人です。
 幸七の後ろには、好い男の手代良助、惡戯いたづら盛りらしい小僧の庄吉などが、不安と焦躁に固唾かたづを呑んで控へました。
 番頭に案内されて、先づ主人祐玄の殺された部屋に通つて見ると、これは母屋おもや續きには違ひありませんが、土藏と土藏の間、大きな青桐の下へ、高々と張り出した二階で、此處から丸の内の景色が一と眼に見られるのを自慢に、主人の居間にも、寢間にもなつて居るのでした。
 亡くなつた主人の祐玄は、女房に死に別れた淋しさを忘れるために、一日の半分は此處へ引込んで、お茶を立てたり、物の本を讀んだり、まことに閑寂かんじやくな、おこなひすました暮し方をして居るのでした。
 梯子段は母屋の方から續く廊下を經てたつた一つ、その階下したには物置とも納戸ともつかぬ、商賣物を入れて置く部屋が二つあり、梯子段の側には三疊の薄暗い部屋があつて、番頭の幸七が寢泊りをして居るのだと、幸七自身が説明してくれました。
「此處に私が頑張つて居りますので、夜中に二階の主人の部屋へ變な者が行ける筈はないのですが――」
 幸七が以ての外の顏をするのも無理のないことです。二階の取つ付きは長四疊で、その次が主人の部屋の六疊になります。中は一應取片付けてありますが、檢屍が濟んだばかりで、新しい蒲團の上へ、主人の死體はそのまゝ横たへられ、形ばかりの香花を供へて、若い伜の祐之助と、娘のお菊がしめめつぽくおもりをしてをります。
 部屋の木口や調度は、御數寄屋好みで華奢きやしやには出來て居りますが、さすがに三島屋祐玄で、かなりにぜいを盡し、泥棒除けには不都合でも、日常生活はさぞ快適だつたことと思はせるのでした。
 伜祐之助と娘お菊は、默禮して後ろへ引下がると、入れ換つて平次は死體の側に進みました。
 六十年配の洗練された老人の顏は、苦惱にゆがんで少しはれつぽく、首に深々と眞田紐さなだひもで絞めた跡が殘つて居りました。
「紐はあつた筈だが――」
「これでございます――今朝見付けた時は、主人の身體はもう冷たくなつて居りましたが、兎も角一應の介抱をいたしました。その時首からその紐を解かうといたしましたが、盲結めくらむすびになつて居て、容易に解けません。仕方がないのではさみで切つてしまひました」
 番頭の幸七はさう言つて、結び目のところで切つた眞田紐を見せました。
「これは誰の紐か、わかるだらうか」
「へエ、手代の良助が、前掛の紐にするつもりで、取つて置いたのでさうで――」
 幸七はいかにも言ひにくさうです。紐はくすんだ萠黄色もえぎいろで幅五分くらゐ、如何にも丈夫さうなものですが、鋏で結び目を切つたために、どんな結びやうであつたか、番頭の言葉を信用する外はありません。
 先刻さつき店でチラリと見たとき、手代の良助の顏に、異常な恐怖の色のあつたのは、主人の死體の首に、自分の眞田紐が卷きついて居たためでせう。
「外に變つたことは?」
「これも申上げにくいことですが――」
 幸七は言ひよどみます。
「言はずに濟むことではあるまい。主人の下手人を逃がしたらどうする」
 平次は容赦のならぬ調子になります。
かゝうどの多賀小三郎樣の煙草入が、梯子段の下に落ちて居りました」
「その多賀といふ方の部屋は?」
「店の裏の四疊半で、此處からは大分離れて居ります」
「主人と昨夜逢つてでも居るのか」
「飛んでもない。用心棒代りの掛り人には違ひありませんが、お身持が宜しくないので、近頃は主人とも面白くないことになり、いづれはお引取り頂くやうな話になつて居りました」
 番頭の幸七は言ひ難いと言ひながら、進んでんな事まで打ちあけるのは、日頃用心棒多賀某の横暴な態度に、反感を持つて居るらしいと平次は見て取りました。
「外には主人を怨むものは?」
 平次の問ひは定石的です。
「そんなものは有る筈もございません。公儀御用は勤めて居りますが、まことに物のわかつた主人で、町内でも評判でございました」
「それほどの人でも、掛り人の多賀とかいふ人と仲たがひをしたではないか」
「それはもう、怨む者の勝手で、――例へば下男の權三などは、遠縁の血のつながりを言ひ立てて、どうかすると主人に突つかゝつて居ります」
「それはどういふ男だ」
「主人の從弟いとこの子ださうで、放埒はうらつで勘當になり、親が亡くなつた時、殘つた身上と一緒に、大叔父に當る主人に預けられ、暫らく辛棒の具合を見るといふことで、下男同樣に使はれて居りますが、根がきかん氣の男で、時々主人にたてを突いて、持て餘して居ります」
「その男は此處に居るだらうな」
「庭の隅の物置――と申しても先々代の主人が隱居所に使つたところで、其處を一と間だけ片付けて住んで居ります。今は丁度お寺へ使ひに參つて居りますが――」
 幸七は齒に衣着せない男でした。奉公れのした中老人のしたゝかさのせゐでせう。
「ところで、昨夜のことをくはしく聽き度いが――」
 平次は話題を變へました。幸七の無遠慮な言葉に少し當てられた樣子です。
「主人はいつものやうに宵のうち早目に二階へ引取り、お松さんの世話で寢酒を一合――それは毎晩のことでございます。主人はお酒は好きですが弱い方で、一合くらゐやるとぐつすり眠られると申して居りました」
「お松さんといふのは?」
「主人のめひでございます。多勢の女の雇人を使つて居りますので、それを見て居りますが」
「そのお松さんが二階から降りたのは」
亥刻よつ(十時)前だつたと思ひます。お床のお世話をして、晩酌の膳を引いて、二階から降りた後で、主人は梯子段の上から、私へ明日の用事を申付けましたから、お松さんには何んの疑ひもある筈はございません」
 この姪が人氣者らしく、番頭の幸七までが妙に力瘤ちからこぶを入れます。
 平次は立上がつて部屋の内外を調べました。床も天井も異状がなく、押入には少しばかりの道具と蒲團があるだけ、戸締りは案外呑氣ですが、此處から曲者の入つた樣子はありません。といふのは、洒落れた板庇いたびさしち果てて、蒼然とこけが蒸して居るので、人間が踏めば一とたまりもなく崩れ落ちるに違ひなく、第一その上を踏めば足跡が着かないわけはないのです。
 四枚の雨戸は今朝、死體を發見した姪のお松が開けた時、何んの異状もなかつたといふと、殘るは北側の腰高窓だけですが、此處へ登るには、梯子はしごか何んかで朽ち果てたひさしに登り、其處を足場に、戸をこじ開ける外は、部屋の中に入る工夫はありません。
「窓の外には大きな青桐あをぎりがありますね。あの枝にブラ下がつて、北窓へ取付く工夫はないものでせうか」
 八五郎はうさんな鼻を窓から出して見ました。
「庇がくさつて、苔だらけだ。人間が踏めば直ぐわかるよ、――だが、念のために、窓の下と、桐の根許を見てくれ。人間の足跡か、梯子を掛けた跡があればしめたものだ」
「へエ」
 八五郎は外へ飛び出しましたが、間もなくつまゝれたやうな顏をして戻つて來ました。
「どうだ八、でつかい足跡でもあるか」
「北側はしめり土で、猫の子が歩いても足跡のつくところですが、何んにもありませんよ。窓の外も桐の下も、めたやうに綺麗だ」
「こりや飛んだむづかしいことになりさうだよ。兎も角皆んなに合つて見よう」
 平次もそなへを立て直す氣になりました。事件は容易ならぬ形相を持つて居ります。


「ちよいと」
 梯子段の下の、薄暗い物蔭から、そつと平次に聲を掛けた者がありました。八五郎と又六は庭へ飛び出し、番頭の幸七は二階へ殘つて、平次たつた一人になつた折を狙つた相手でせう。
「――」
 默つて振り返ると、白い顏が滑るやうに平次の側へ、
「お願ひですから、番頭さんの言ふことを本當になさらないで下さい。權三さんは叔父さんを怨んでなんか居ませんし、一本調子なところはあつても根が氣の良い人です。番頭さんは、自分が時々突つ掛かられるので、あんな事を言ひますが――お願ひですから、どうぞ――」
 少しおど/\して居りますが、二十五六のそれは良い年増でした。かすむ眉の曲線や、健康さうな白齒を見るまでもなく、物腰に初々うひ/\しさがあつて、それは間違ひもなく娘の肌ざはりです。
「お前は、お松さんとか言つたネ」
「え、お願ひですから」
 お松はさう言つて、次の問ひも待たずに、ヒラリと逃げてしまひました。地味なあはせ、襟足の美しさ、香料とは縁の遠い、ほのかな若い體臭――そんなものを平次は感じたやうです。
 梯子段の下は番頭の部屋で、たつた三疊の入口が階子段の方に向いて、まるで關所のやうに見えるのが注意をきました。縁側へ出て外を見ると、庭で植木の冬圍ふゆがこひを直して居た、三十前後の男が、平次の顏を見ると、あわてて引込みさうにするのを、
「ちよいと待つた。若い衆、お前は、權三とかいふんだね」
「へエ、よく御存じで」
 尻切袢纒ばんてん淺黄あさぎ股引もゝひき、見得も色氣もない男で、案外こんなのが飛んだ色男かもわかりません。
「ちよいと聽き度いが、お前は身代と身柄を、此處の主人――亡くなつた大叔父さんに預けられて居るさうだね」
「へエ、あの番頭が、そんな事を申したのでせう。身代と言へば大袈裟おほげさですが、私が道樂で費ひ殘した身上で、いくらもありやしません」
「でも、いくらか見當はつくだらう」
「地所と家作が少々、それに金が――世帶を仕舞つた時の殘りが、五六百兩あると聞いて居りますが、本當のがくを教へると、又私の昔の道樂が始まると思つたか、叔父も番頭も教へちやくれませんでした。どつちにしたところで、三島屋の身上に比べると、岩壁のこけら見たいなもので」
「何時からそれを預けてあるんだ」
「五年前、親父が死んだ時の遺言でございました。――今ぢやもう私はあんなものを當てにはして居りません」
「主人――と言つてもお前には大叔父だが、その主人はお前によくしてくれたのか」
「善いも惡いもありやしません。五年といふ長い間、このなりで下男同樣に働かされました」
「お松さんとか言つたが、ありやお前と何にか掛り合ひでもあるのか」
「へツ、許嫁いひなづけとか何んとか言はれたこともありますが、五年もお預けを食つて居ちや、大概の戀もめますよ。今ぢや私などを振り向いても見ません、――傍には手代の良助といふ、若くて好い男が居るんですもの。その良助は近いうち暖簾のれんを分けて貰ふことになつて居るさうですから」
 こんなのろひの言葉が、この男の口から出るのを平次は異樣な心持で聽いて居りました。その呪はれて居るお松が、眞劍な態度で、權三のために辯じたのは、つい今しがただつたのです。
昨夜ゆうべは何處に居たんだ」
 平次の最後の問ひは露骨でした。
「あの物置の中の自分の寢床にもぐつて居りました。たつた一人で、誰もそれを見て居たわけぢやありませんが」
 權三は苦笑ひするのです。


 伜の祐之助は十八、まだ親の慈悲の蔭に、平凡な良い息子として育つて居るだけ、その妹のお菊は十五の小娘で、父親の命をる原因を作るほどの柄でもありません。
 手代の良助は二十八。これは典型的なお店者たなもので、少々輕薄らしくはあるが、色白で顏の道具が華奢で、なか/\の好い男でした。
「主人はことのほか眼を掛けて下さいました。來年はお禮奉公も濟みますので、――いよ/\暖簾のれんをわけて、預けてある給金にいくらかの金をつけてやり、小さくとも店を持たせてやらうと、御機嫌の良いときは、時々仰しやつて下さいました」
「店を持つなら、配偶つれあひの當てでもあるのか」
 平次は唐突な問ひをはさみます。
「へエ、それが、その」
「お松さんに、うるさく附き纒つて居るといふではないか」
「飛んでもない、親分さん。あれは飛んだ固い女で」
 さてはこの色男奴、覺えがあるのだな――と言つた顏をする八五郎を押へるやうに、平次。
「お前はかゝうどの多賀さんを呼んで來てくれ」
「へエ、へエ」
 八五郎は不服らしく立去ります。
「ところで、主人の首には、お前の眞田紐が卷きつけてあつたが、それは知つて居るだらうな」
「へエ、その事でございます。私も一時はびつくりいたしましたが、繩にも紐にも不自由があるわけはございません。本當に人でも殺さうと言ふものが、自分の持物と知れ渡つて居る、眞田紐などを持出すでせうか」
 良助は躍起やつきとなつてはね返すのです。此處まで頭を働かせるのは、よく/\追ひ詰められて必死の智慧を絞つたのでせう。
「俺も一度はさう思つたが、――一方ではさう思はせるやうに、わざと自分の持物で、大それた事をするもあるぜ」
「親分、じよ、冗談で。私は氣が小さいのですから、どうぞおどかさないで下さい」
 良助はまさに追ひ詰められた鼠です。
「その男が氣が小さいか小さくないか、お松に訊いて見るが宜い。あのか弱いのを納戸なんどにつれ込んで、手籠にしようとして居るのを、拙者が二度までも助けて居るぜ」
 ヌツと顏を出したのは、浪人多賀小三郎。
 その頃の大町人が掛り人といふ名義で養ひ、強請ゆすり物貰ひ、かたりや押賣などに備へた用心棒の一人でした。
「多賀さんでせうね」
「その通りだ。多賀小三郎、昔の身分を言つても仕樣があるまい。今は三島屋の奉公人同樣、變な野郎が來ると長いのをひねくり廻し乍ら、店へ顏を出すだけの仕事だ」
 三十五六の青髯、存分に虚無的で、人をめきつた二本差です。
「主人との仲が惡かつたやうに聽きましたが、近頃はどうでした」
「いや、少しばかり勝負事に手を出したのが、頑固な主人の氣に入らなかつたのだ。しかし、そんな事は今始まつたわけではない。顏と顏が合へば、お互に笑つて濟むことさ」
「昨夜はどうなさいました」
「お濠端の居酒屋で、一パイきめて歸つたのが亥刻よつ(十時)少し過ぎかな。小僧の庄吉に戸を開けて貰つて、自分の部屋へ入つたきり、あとは今朝まで何んにも知らない」
「煙草入が梯子の下に落ちて居ましたが、ありや多賀さんのださうで――」
「嫌な事を言ふなよ。なア、平次親分。人でも殺さうといふ曲者は、どんな細工さいくだつてするだらうぢやないか。誰が人を殺して現場の近くへ、自分の煙草入を捨てて來る奴があるものか」
 妙な論理ですが、考へて見るとそれは、手代の良助の論理を一歩進めただけのことです。
「多賀さんの考へで、主人を殺しさうなのは誰でせう。家中の者には違ひないのですが――第一、外から入つた樣子は少しもないのは御承知の通りで」
 平次はこの虚無的な浪人者の口から遠慮のないことが聽き度かつたのです。
「番頭の幸七かな」
「え?」
「ありやたぬきだよ。白雲頭の時分から三十七年とか奉公して居るさうだが、途中で一度世帶を持つて、女房に死に別れて又三島屋へ舞ひ戻つて居る。考へて見ると、少しばかりの資本もとでで、裏店の小商賣を始めたところで、三島屋の店に頑張つて、月々帳尻を誤魔化すほどの收入はない。あの狸奴、うんと取込んで居るぞ」
 多賀小三郎も齒にきぬを着せません。番頭の幸七との仲の惡さが思ひやられます。
 小僧の庄吉は白雲頭の何んにもわからず、平次は最後に家中の人と人の關係、近所の噂、わけても番頭幸七の溜めつ振り、手代良助の身持、浪人多賀小三郎の懷ろ具合などを、八五郎と又六に調べさせて、自分は一と先づ歸る外はなかつたのです。


 それから三島屋祐玄いうげんの初七日まで、何んの變化もなく過ぎました。三島屋の主人を殺した下手人がわからないばかりでなく、紛失物もなく、怨みを受ける覺もないとなると、何んの目的で殺したのかさへ掴めません。
 八日目の朝でした。
「親分、變なことになりましたぜ」
 飛び込んで來たのはガラツ八の八五郎です。
「何が變なんだ」
「昨日は三島屋の初七日でせう。親類中が集まつて、位牌ゐはいの前で死んだ主人の遺言状を開いたと思つて下さい」
「思ふよ、――それがどうした」
「先づ三島屋の身上しんしやうが、伜の祐之助が間違ひなく相續すること」
「當り前だ。先を急いでくれ」
「娘のお菊は良縁があつて嫁入りする時、持參金が千兩――大したものですね、あのきりやうで一と箱の持參だ」
「少し若過ぎるよ。たつた十五ぢやお前の年の半分だ」
あつしが貰はうなんて言やしまん[#「しまん」はママ]、――それから、番頭の幸七は思ふ仔細しさいあつて、その儘暇をやる、――主人は素知らぬ顏をして居ても、番頭がうんと取込んで居ることを知つて居たんですね。手代の良助には給金の預り百五十兩の外に、百五十兩の手當を出す」
「それから?」
「それからが大變で――をひの權三は、身持放埒で、身上と身柄を私が預つたが、五年間よく辛抱した心掛けに愛でて、地所家作の外に五百兩の預りに五年間の利息を附けて返し、外に三千兩の現金を分けてやるやうに、――お松とは許嫁の間柄であつたが、權三の心掛けが直るまでお松に申含まうしふくめて精々つれなくさせて居た。私の亡き後は最早何んの遠慮もなく、お松と一緒になつて世帶を持つがよからう。今まで私の言ふ事を聽いて、苦勞をしたお松には、別に嫁入り仕度として五百兩分けてやるやうに――と、行屆き過ぎる程の遺言でしたよ」
「?」
「それを聽いて驚いたのは番頭の幸七でしたが、もつと驚いたのはあの下男の權三でした。尻切袢纒ばんてん淺黄あさぎの股引で、あれでも甥には違ひないのですから、縁側の隅つこに小さくなつて居ましたが、その遺言を讀み聽かせると、唯もう聲を揚げて男泣きに泣き出したのです。――濟まねえ、濟まねえ、そんな心持とは知らなかつた、叔父さん――と位牌の前へニジり寄つて、疊で額を叩いて口説いて居りました」
「そんな事もあるだらうな」
「それきりぢやまだお話になりません」
「まだ話があるのか」
「それからが大變で」
「早くぶちまけな、何があつたんだ」
「小舟町の佐吉親分が、前からねらつてゐた樣子で、昨夜宵のうちに、番頭の幸七を擧げて行きましたよ。手代の良助でなく、浪人の多賀小三郎でなきや、梯子の下に寢て居て、そんな細工の出來るのは幸七に違ひないといふんで」
「フーム」
「幸七は溜め込んでゐることは確かで、伊勢町に妾をつて置いて、其處を家搜しすると、押入から千兩近い金が出て來たんだから、言ひのがれやうはありません」
 八五郎の報告は重大でしたが、
「待て/\、それぢや幸七は下手人ぢやないぜ」
「へエ?」
 平次は妙なことを言ふのです。
「下手人が梯子の下に寢て居て、夜中に誰も二階へ行つた者はないなどと言ひ張るのも變だし、すぐ知れる筈の妾の家へ、千兩近い金を隱して置くのも呑氣過ぎやしないか」
「さう言へばさうですね」
「よし/\、もう一度俺が行つて見よう」
 平次はもう一度、徹底的に調べて見る氣になつたのです。
 三丁目の三島屋は主人の死んだ時にもして何んとなくザワザワして居りました。主人の遺書があまりにも豫想に外れて、その興奮がまだ納まらないせゐでせう。
「錢形の親分さん、――番頭さんは縛られて行きましたが、今度は私が狙はれさうで、氣味が惡くてなりません。どうぞお調べ下すつて本當の下手人を擧げて下さい」
 奧へ通る平次の後ろから、クドクド愚痴ぐちを言ひ乍ら跟いて來るのは、手代の良助でした。主人の部屋へ行く前、問題の梯子段の下に立つて、フト庭を見ると、相變らず甥の權三が、いつかの通り下男姿で、植木の世話を燒いて居りましたが、平次の顏を見ると丁寧に腰を屈めて、
「錢形の親分さん、番頭は可哀想ですよ。ありや、慾が深いだけで、人なんか殺せる人間ぢやありませんよ」
 んな事を言ふのです。
「お前は何にか思ひ當ることがある樣子だな」
「飛んでもない、私に何がわかるものですか。それよりこの間のお調べに見落しがなかつたか、もう一度二階の窓のあたりを調べ直して下さい。小舟町の佐吉親分ぢや、あぶなくて仕樣がない」
 權三はお仕舞を獨言にして、クルリと背を向けるとスタスタと庭から出て行つてしまひました。
 平次は何やら考へて居りましたが、思ひ直した樣子で二階へ登つて行きます。
「親分、イヤな野郎ですね。變ななぞなんか掛けやがつて」
 八五郎はその後に續きました。
「掛けられた謎は解かなきやなるまいよ」
 二階の二つの部屋は、よくき清めてありますが、最早七日前の慘劇の跡もなく、開けた南窓から、暖かい小春の日射しが這ひ寄つて、不思議な落着きと安らかさを取戻して居ります。
 北窓――三尺四方ほどの小窓は閉したまゝですが、これは上のさんが馬鹿になつて居る上、下の棧もアヤフヤでのみが一梃あれば、素人でも樂に雨戸を外されます。板庇いたびさしに人の踏んだ跡があるか、この下の大地に樣子の跡がありさへすれば曲者は此處から忍び込んで、寢酒で熟睡して居る主人祐玄を絞めに行つたに違ひありません。
 平次は念のために、ガタピシさせ乍ら小さい二枚の雨戸を外して見ました。
「あツ」
 さすがの平次が、立ちすくんだのも無理はありません。
 朽ちかけた板庇の上、人が踏めば一とたまりもなく落ちるか、落ちない迄もこけを痛めさうな、この上もなくデリケートな板庇の上に、幅五寸、長さ三尺ほどの板を載せて、曲者はこれを踏んで、何んの痕跡こんせきも殘さずに、部屋の中に忍び込みましたと教へて居るのです。


 平次が驚いたのは、そればかりではありません。板庇の上、窓とスレスレのあたりに、頭の上へ伸びた青桐の大枝から、一本の丈夫さうな綱が、これを傳はつて降りましたと言はぬばかりに、フラフラと垂れて居るではありませんか。
「曲者は此處から入つて主人を殺したのですね」
「その通りだよ、俺はそれに氣が付かなかつたのだ。青桐の根のあたりに足跡がなかつたのでだまされたが、あんな板が一枚ありや、大概のしめり土の上でも、足跡を殘さずに歩けるよ」
 曲者はこの板一枚を利用して、土藏の軒下の乾いたところから、青桐の根まで近づき、青桐の上にその板と綱を持つてぢ登つて、二階の窓外に輕く降り立ち、何んの苦もなく部屋の中へ滑り込んだのでせう。
「流しの泥棒か何んかでせうか」
 八五郎も尤らしく頭をひねりました。
「いや、この家の中のことをよく心得たものだ。それに何んにも盜られたものがない、主人の部屋には、かなりの金が置いてあつた筈だ」
「すると」
「待て/\、さう先を急いぢやいけない。――そのひさしの上に落ちて居る手拭を取つて見ろ」
「へエ」
 八五郎は手をのばして庇の上に落ちて居た、薄汚い手拭を拾ひました。
「その手拭が誰のか、聽いて來るんだ」
 八五郎は手拭を持つて飛んで行きましたが、間もなく勝誇つた聲をあげて戻つて來ました。
「あの下男の權三の手拭ですよ。家中で知らない者はありません」
「――」
「この前見た時は、板も綱も、手拭もなかつたでせう。本當の下手人が、權三を罪に落す氣で、こんな細工をして見せたんぢやありませんか」
 八五郎は又先を潜ります。
「いや、曲者は權三を罪に落す氣なら、外にいくらでも手段てだてがある、――それにあの板を持つて青桐に這ひ上がり綱を傳はつて此處へ降りるのは、容易の力業ではない。そんな腕の力を持つて居るのは――」
「すると」
「主人の遺言を讀んで、權三はひどく泣いて居たと言つたな」
「へエ、大の男のあんなに泣くのを、あつしは見たこともありません」
「その權三がさつき、この仕掛を知つて居るやうな口振りだつたな」
「いやな謎を掛ける奴だと思ひましたよ」
「その權三が何處に居る、見付けて來い」
「へエ」
 八五郎と又六は飛びましたが、その時はもう權三の姿は何處にも見えなかつたのです。店中の者に訊くと、
「權三はつい今したがた、何處かへ行きましたよ。こはい顏をして居りました。すると間もなくお松さんが、氣違ひ染みた樣子で後を追つ驅けましたが――」
 こんな話で口が揃ひます。
「しまつた。八、手配を頼むぞ、――何にか持つて行つたか? 何、からつ手で行つた――金は? 十文も持出さない、――二人は死ぬ氣かも知れない。四宿に網を張る前に、大川に氣をつけろ」
 平次は夢中になつて號令して居ります。
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 果して權三とお松の死體は五日目に永代の土手に上がりました。五日の間二人は此世の歡樂を極め、五年越し祕めた戀を爆發的に味はひ盡して、その絶頂から死へと一足飛びにしたのでせう。
 一件落着の後、八五郎の問ふがまゝに平次は説明してやりました。
「權三は叔父の祐玄を怨んで居たのだ。五年越し辛棒に辛棒して居るのに、預けた家も地所も金も返さず、その上許嫁のお松まで取上げて、良助に娶合めあはせると思ひ込んだのだらう。お松が愼み深くて、權三の氣持を察することが出來ず、叔父の言ひ付けばかり後生大事に守つたのが間違ひのもとさ。若い女は少しは色氣があつた方が宜いな。――權三はたうとう我慢がなり兼ねて叔父を殺した。初七日でも過ぎたら、お松をつれて飛び出さうと思つて居たことだらう」
「――」
「ところが、初七日の遺言の披露で叔父の並々でない心持、自分のためを思つてしてくれた大恩がわかつて、根が正直者な男だけに、居ても立つても居られなくなつた。その上番頭の幸七が縛られたのを見て、自首して出る氣になつたが、まだ命に未練があるのと、一つは俺をからかひたくなつて、あんな細工をして見せたのだらう。あれでも自分が下手人と判らなければ、そのまゝ口をつぐんで居るつもりだつたかも知れない。誰だつて命が惜しいから、いよ/\覺悟をきめても、何にか十に一つの助かる道が欲しかつたのだらう」
 平次は斯う繪解きをしてくれるのでした。
「親分、人の心が不思議だと言つたのは嘘ぢやありませんね」
「お前が大福餅をねらつて居るのはわかつても、權三が下手人とは讀み兼ねたよ。一度叔父を殺し乍ら、自首する氣にもなれず、あんな細工をして見せて、運を天に任せた心持も考へると可哀想でもあるな」
「でも好きな同士で、三日でも五日でも、存分に暮したんだから、惡くありませんね」
「馬鹿だな。お前なんざ、無事で長生きする方ががらだよ」
「甘く見ちやいけません」
「――」
 ちよいとまげを直して、長んがいあごを撫でる八五郎です。あまり大した手柄もなかつたこの事件の底に潜む、割りきれないものを平次は考へて居る樣子です。





底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
   1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1949(昭和24)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月11日作成
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