錢形平次捕物控

一と目千兩

野村胡堂





「親分、東兩國に大層な小屋が建ちましたね。あツしは人にさそはれて二三度覗きましたが、いや、その綺麗さといふものは」
 八五郎は相變らず江戸中のニユースを掻き集めて、親分の錢形平次のところへ持つて來るのでした。
「御殿造りの小屋でも建つたのかえ」
「そんな間拔けなものぢやありませんよ。小屋は昔からチヤチなものですが、中味が大變なんで、たまらねえほど綺麗な娘太夫が二人」
「馬鹿だなア、まだ松も取れないうちから、兩國の見世物小屋へ日參して居るのか」
「日參といふ程ぢやありませんよ、五日の間にたつた三度」
 八五郎はでつかい指などを折つて勘定して居るのです。
あきれた野郎だ。どうせ十手を見せびらかして、唯で入るんだろう」
「飛んでもない、最初は正直に十六文の木戸を拂ひましたよ。それで『一と目千兩』と言はれる、お夢の顏を拜んで、達者なお鈴の藝を見るんだから、九百九十九兩三分三朱くらゐは儲かるやうなもので――」
「お前といふ人間は、よく/\長生きするやうに出來て居るよ」
「二度目にはあつしといふ者が、錢形親分の片腕の八五郎とわかつて――」
「お前は俺の片腕かい、大したことだな。お前が居なきや、俺は手棒てんぼうになるわけだ」
「まア、さう言ふことにして置いて下さいよ。兎も角二日目から木戸錢を取らないばかりでなく、妙にチヤホヤして、明日からはどうぞ毎日來て下さいと、一目千兩のお夢などは、泣かぬばかりに頼むぢやありませんか」
「嫌なことだな。何んだつて又、そんなに持てたんだ――急にあごなんか撫で廻したつて、その上男つ振りが好くはなるまいな」
「好い男のせゐもありますが、實は近頃チヨイチヨイ無氣味なことがあるんですつて」
「無氣味なこと?」
「取立てて話すほどのことでもないが、ことによつたら私は命をねらはれて居るかも知れない――と一と目千兩のお夢が言ふんですからね」
「何んだえ、その一と目千兩といふのは。眇目めつかちが千兩箱の夢でも見たと言ふのか」
「驚いたなア、錢形の親分があれを知らないんですか。近頃江戸中の評判ですが」
「さては、何時の間にやら、俺は江戸つ兒の人別を拔かれたかな」
「大した良い女ですよ。たつた一と目見ても、千兩の値打があるといふんだから驚くでせう」
「その女と半日一緒に居ると、大概たいがい身上しんしやうは潰れるわけだ」
「身上くらゐは潰し度くなりますよ。瓜實顏うりざねがほで眼が大きくて、鼻筋が通つて、口許が可愛らしくて、そりやもう――」
 八五郎は語彙ボキヤブラリーを總仕舞にして、肩をすくめたり、舌を出したりするのです。
「そんな化物は何處に居るんだ」
「小左衞門の小屋ですよ。小左衞門お仲夫婦の曲藝師で外に道化の金太といふ人氣者が居るんですが、去年までは一番の働き手はお鈴といふ娘で、それは唄も歌ひ、踊りも踊り、その上綱渡り足藝が達者で、滅法めつぱふ可愛らしい娘ですが、去年の暮からはやし方の六助の世話で一座に、『一と目千兩』のお夢といふ太夫が入つたんです」
「それがお前を買ひきらうといふのか」
「昔々江戸にあつたとか言ひますね。たつた一目見るのに千兩積ませるといふ三國一のい女が」
「そんな女に近付きはないよ」
「奧州の馬鹿息子が、お盆のはすの葉を賣つて儲けた金を千兩出すと、女は障子を開けてチラリと顏を見せたつきり、スーと引つ込んでしまつたので、馬鹿息子は呆氣あつけに取られて、もつとよく見るつもりで又千兩出したら、二度目もチラリと顏を見せただけ」
「――」
「馬鹿息子はすつかり意地になつて、殘りの千兩を投り出すと、女はその情愛にほだされ、今度は酒肴さけさかなを持つて來てうんと御馳走をした上、二世のちぎりをしたといふ話――」
「二世の契りは古風で宜いな、――その小屋衞門の小屋の女も、チラリと顏を見せたつきりで、千兩の木戸を取るのか」
「それは物のたとへですよ。一と目見ても千兩の値打のある女を、一日眺めても、十六文で濟むといふから大したものでせう」
「そんな安い話を、俺は生れて初めて聽いたよ。千兩の値打のあるものを十六文で見るんだから、成程八五郎は夢中になるわけだ――その上二度目からは唯と來ちや」
 平次は面白さうに笑ふのでした。
「尤もそのお夢といふのは、女が良いだけで、藝はありませんよ。スルスルと舞臺正面のみすが上がると、重ね座布團の上に坐つて、につこりする。拵へは時々變りますが、その綺麗なことと言つたら、餘つ程氣を引締めて居ないと、眼先がかすんでポーツとなりますよ。あれは後光が射すんですね」
「馬鹿だなア」
「小野の小町だつて照手姫だつて、あれほどの美い女ではあるまい――と、これは口上の金太のせりふですがね」
 八五郎の説明は存分にトボケて居りますが、んなのが東兩國の盛り場で、第一等の人氣を博するほど、世界は呑氣で馬鹿々々しくて、人間は甘かつたのです。
 尤もその頃の江戸には、今の裸レヴイユなどは足もとにも追ひ付かぬ猥雜わいざつな見世物があり、それが默許されて居たくらゐですから、『一と目千兩』の美女の見世物があつたところで、何んの不思議もありません。


 それから三日、松が取れて屠蘇とその醉ひもさめて、江戸の街も漸く日頃の落着きを取戻しましたが、御用の方は一向にひまで、平次も仕樣ことなしに煙草を輪に吹いたり、欠伸あくびに節をつけたりして居るところへ、ガラツ八の八五郎は旋風つむじの如く飛んで來たのでした。
「親分、大變なことになりましたぜ」
「何が大變なんだ、一と目千兩に口説かれたとでも言ふのか」
「そんな事なら、親分のところへ飛んで來るものですか――その一と目千兩のお夢が、危なく殺されるところだつたんで」
「殺されかけたといふのか」
「寢て居る顏の上へ、二階から大火鉢を投られたんです。その火鉢には煮えくり返つてゐる鐵瓶てつびんを掛けてあつたとしたらどんなものです」
「氣味が惡いな」
「――でせう、親分。一と目千兩と言はれた江戸一番の――いや日本一の綺麗な顏へ、たぎり返る鐵瓶と灰神樂はひかぐらと、眞つ赤になつた炭火の雨が降つたんですぜ」
「で、そのお夢がどうした」
 平次もさすがにきもをつぶした樣子です。話があまりにも桁外けたはづれです。
「神業ですね、お夢は風邪の氣味で蒲團を深く冠つて寢てゐたので、少しばかりの火傷やけど、髮をこがしただけで濟みましたが、あんな綺麗な顏を臺無しにしようなんてたくらむ奴は全く鬼ですね、親分」
 八五郎の意氣込みは大變です。この無類のフエミニストは、『一と目千兩』の美女のためには、どんなことでもする氣でゐるのかも知れません。
「行つて見ようか、八。そいつは面白さうだ」
「しめたツ」
 こんな事件のために、無精者の錢形平次を動かすことは八五郎にしても樂な作業ではありません。
 二人は東兩國まで、あまり無駄も言はずに急ぎました。薄陽の漏れる正月のある日、巳刻よつ(十時)前の街並は、妙に靜まり返つて薄寒くさへ感じさせます。
 まだ朝のうちで、小屋は開いて居ず、裏へ廻つて、
「又邪魔をするよ」
 八五郎は親分の平次を案内してズイと通ります。
「おや、親分方。飛んだ御苦勞樣で」
 座頭の小左衞門は、四十前後の練達な町人のやうな感じの男でした。こんなのが案外の精力家で、飛んだ仕事をするのかもわかりません。
 小左衞門の後ろに、人形と人形遣ひのやうにひかへたのは、女房のお仲でした。三十五六の食へさうもない大年増で、この一びん一笑が小左衞門に大きな影響を及ぼしさうです。
「お夢は元氣かえ」
 ガラツ八は自分の肉身ででもあるかのやうに、氣易く言ひます。
「お蔭樣で大した怪我もなくて濟みましたが、一座の賣物ですから、こんな事が二度あつちや叶ひません」
 小左衞門は揉み手をして居ります。
「ちよいと見せて貰はうか」
「へエ、へエ、どうぞ」
 小左衞門と女房のお仲は、二人を薄暗くて寒さうな、舞臺裏の樂屋がくやに案内しました。
 この邊の見世物輕業の小屋は、粗末なものではあるにしても、半永久的の建物で、裏に廻ると怪しげ乍ら住居になつて居り、餘程の良い藝人でなければ、別に家を持たずに樂屋裏のアパートに、ゴチヤゴチヤと合宿してだらしのない生活をして居るのでした。
 小左衞門の一座もそれで、座頭ざがしらの小左衞門は別に住居を持つて居りますが、一座の者は全部合宿で、その貧しい汚ない樂屋裏に、當のお夢は住んで居りました。
「どうだえ、お夢。お前がこがれて居る錢形の親分をつれて來たが――」
 八五郎はその枕許に坐り込んで、一と目千兩のお夢に話しかけます。
「あ、錢形の親分さん」
 お夢はあわてて飛び起きようとしました。さすがに良い身だしなみで、少しばかりびんのほつれはありますが、床の上の姿には何んの破綻はたんもありません。
「動いちやいけない。その儘で宜いよ」
「ハイ」
 一と目千兩と言はれ、その美しい顏を賣物にして居ただけに、お夢の綺麗さは全く拔群でした。豐麗で、こびを含んでゐて、その癖上品にさへ見えるのは、顏の道具のよく整つてゐるせゐでせう。
 人の子が斯うまで惠まれた美しさを身につけられるものかと、錢形平次も一度は呆氣に取られた程です。かすむ眉、黒い――やゝ蒼味を持つた眼、柔かい鼻筋、くちびるのカツトの見事さ、まことに線の魔術といふ外はありません。
 これ程の縹緻を持てば、その頃の道徳と通念では、歌舞の菩薩ぼさつと思はれた、遊女の群に入つたら、名ある太夫を蹴落して、一氣に全吉原の人氣をさらふことも出來るでせう。何を好んで兩國の見世物小屋に身を落し、何千何萬の人に顏をさらすのかと一應不思議に思ひましたが間もなくその疑ひは解けました。
 氣の毒なことにお夢は生れ乍らに足が惡く、踊ることも驅けることも出來ない女だつたのです。
「怪我はどうだ」
 平次は側へ寄りました。
「有難うございます、お蔭樣で――」
 お夢は燒けたびんなどをき上げて居ります。火傷やけどは額から首筋へほんの少々、膏藥かうやくでも濟みますが、火鉢で腰のあたりを打たれたさうで、身動きは出來さうもありません。
「その災難のあつた時のことをくはしく話して見るが宜い。二階から火鉢が獨りで落ちる氣遣ひはない」
 平次もツイ斯う乘出しました。お夢にその美しさの外に、妙に人の心をくいぢらしさがあつたのです。
「少し風邪の氣味で、いつもより早く休みました。酉刻むつ(六時)少し過ぎ、木戸を閉める前だつたと思ひます」
 正月と言つても松が過ぎると、薄寒い日などは客の追ひ出しが早く、藝人達はそれから湯へ入つたり、夕飯にしたりするのですが、お夢はゾクゾクするので、その落着かない空氣の中で、自分の床を敷いて寢てしまつたといふのです。
「不意に――本當に不意でした。うと/\とした私の上へドタリと重いものが落ちて來て、それと一緒に恐ろしく熱いもの――後でそれは灰と湯とわかりましたが、瀧のやうに頭へ振りかゝりました。私は幸ひ布團を冠つて寢て居ましたので、大した火傷やけどもありませんでしたが、それでもこの通り――」
 とお夢はひどくやられた髮の毛と、額から首筋へかけての火傷などを見せるのです。女が良いだけに、それは實に痛々しい姿です。
「一番先に驅けつけたのは誰だ」
「お鈴さんでした。二階から飛んで來てくれたんです」
「お鈴さんといふと?」
「綱渡りの名人ですよ。呼んで來ませう」
 八五郎が舞臺の方へ行くと、
「でも、お鈴さんを疑つたりしちやいけません。良いなんですもの。そして私を一番よく世話をしてくれます」
 お夢は眼を細くしてさう言ふのでした。
「これがお鈴で」
 八五郎が連れて來たのは、十七になつたばかりの娘太夫のお鈴でした。美しくも何んともありませんが、白粉氣のない顏は健康さうでよくびた四肢てあし、につこりすると邪念のない笑顏が、それは/\可愛らしい娘でした。
 このお鈴といふ娘は兩國では決して新しい顏ではありませんが、身體も心持も女になりきつてからは、藝にも人柄にも、顏にまでも魅力が出來て、その達者な踊と、歌と、素晴らしい綱渡りの曲藝で姉分のお夢の人氣を壓するほどの人氣者になりつゝある――といふことを、これも後で平次が知つたことです。
「お前は、昨夜ゆふべの騷ぎの時何處に居たんだ」
「二階に居ました」
 振り仰ぐと二階と言つても、揚幕一枚をブラ下げたむき出しのつり二階で、其處から火鉢を滑らせさへすれば、下に寢て居るお夢の頭の上に落ちるのは必然です。尤もお夢の顏を狙つて落すには、多少の手加減が必要だつたことでせう。
「二階で何をして居たんだ」
「いろ/\片付けものをして居ました。二階から舞臺は直ぐですから」
「この眞上に居たのか」
「いえ、向うの方で」
梯子はしご段は」
「舞臺の方へ出るのと、此處へ降りるのと二箇所にあります」
「二階に外に誰か居た筈だが」
「いえ、私一人で」
「すると、お前が火鉢を落したことになるが」
「そんな、そんな。そんな事」
 お鈴はサツと顏の色を變へました。
 今までそんな事さへ氣が付かずに居たといふのは、馬鹿でなければ恐るべき横着さです。


「お鈴ちやんが、そんな事をする筈はありません」
 躍起やつきとなつて抗議したのはお夢自身でした。平次はそれに取り合はずに、
「此處には誰と誰が泊つて居るんだ」
「お夢とお鈴の外には、囃し方のお傳と、六助、木戸番の與三郎、道化だうけ役の金太の六人でございますが」
「そのお傳、六助、與三郎、金太の四人は何處に居たんだ」
「お傳はお勝手のお仕舞、六助は小買物で外に居たさうで。金太は舞臺の掃除さうぢで、與三郎は木戸を閉めて居たさうでございます」
「お前達夫婦は?」
「少し離れて居りますが、家へ歸つて晩飯にして居りました」
 平次と八五郎は小左衞門の案内で、問題の二階へ行つて見ました。驚く粗末そまつな建築で、小屋に毛の生えたものに過ぎない上に、夥しいガラクタ道具が一杯に散亂して、本當に足の踏みばもありません。
 その一角、丁度お夢の寢て居たあたりの上には、疊二枚ほどの空所があり、其處には火鉢も置き茶道具もそなへて、舞臺から疲れて入つては、湯も茶も呑めるやうになつて居るのでした。
 尤も火鉢を轉がし落したあたりは、ろくな境もなく、幕一枚垂れただけですから、此處から簡單な手摺てすりの下を滑らせさへすれば、火鉢はまさに下に寢て居る者の上へ落ちるわけです。その落した大火鉢といふのは、唐銅からかねの恐ろしく重さうな獅噛み火鉢で、少し濡れた灰を戻して性懲しやうこりもなく、もとの場所に据ゑてありました。
「此處には何時も人は居ないのか」
「夜は滅多に參りませんが、昨夜はまだはねたばかりで、火鉢もそのまゝになつて居たことでせう」
 小左衞門は要領よく答へます。
「その火を毎晩片付けるのは誰の役目だ」
「與三郎か金太でございます」
「お鈴はその時何處に居たといふのだ」
「この隣りは衣裳部屋になつて居ります。其處で舞臺衣裳を片付けて居たさうで、あの娘はまことに物事に几帳面なたちで、へエ」
「舞臺の方へ行つて見ようか」
 書き割から道具類から、あらゆるガラクタを縫つて舞臺へ出ると、頭の上にはお鈴が得意の藝をする太い綱が客席の上へかけて、三間ほど上を走つて居り、舞臺も客席も空つぽで、晝近いのに人の影もありません。
「お夢とお鈴は仲が惡くないのか」
 平次はフトした調子で小左衞門に訊きました。
「若い女の心持は、私共男にはわかりませんが、見たところは、申分のない仲良しで、二人はいつでもかばひ合つて居ります」
「お夢には男があるだらうな」
 それは八五郎の遠慮のない問ひでした、先刻さつきからそれを訊き度くてウジウジして居た樣子です。
「もとのことはわかりませんが、六助の世話で此處へ來てからは、まことに身持の良い方で、浮いた話も聽きません」
「言ひ寄る男がないわけでもあるまい」
「それはもう、あの縹緻ですから、毎日大變な騷ぎで、裏口へ來てウロウロして居るのが、いつでも二三人はあります」
「一座の中には」
 それは平次の問ひでした。
「金太も與三郎も六助も、夢中になつた事は、あるやうですが、お夢は振り向いても見ません。尤も金太は勝負事が好きで、滅多に家には居りません。與三郎は外にも女があるさうですし、六助は四十八といふ年ですから、――でもお夢の事といふと、六助が一番夢中なやうで」
 舞臺にはその噂の金太が、道具を調べて居りました。
「御苦勞樣で」
 二十五六の、これが道化役かと思ふほど氣のきいた良い若い者です。
「お前は昨夜ゆうべあの騷ぎの時何處に居たんだ」
「此處に居りましたよ。道具を片付けて、舞臺の掃除をするのが私の役目で」
「與三郎は?」
「木戸を閉めて居たやうで、此處からはお互によく見えます」
「もう暗くなつて居る筈だが」
手燭てしよくがありましたから、馴れると仕事には不自由しません」
 平次はそれを宜い加減にして、土間を眞つ直ぐに木戸へ行つて見ました。
「これは親分方」
 木戸番の與三郎は、鹽辛聲ですが世辭の良い男でした。二十七八のしぶを塗つて陽へ干したやうな、そのくせ何處か小意氣なところのある若い衆です。
「昨夜、あの騷ぎの時、お前は何處に居たんだ」
「木戸を閉めて居りましたよ、――お夢さんの悲鳴に驚いて、舞臺に居た金さんと一緒に飛び込みましたが」
「木戸を閉めに來る前は?」
「皆んなと一緒に晩飯をやつて居ました、――腹をこさへなきや、一と働きする力も出ません。何しろ半日怒鳴つて居る商賣ですから」
「それまで木戸は開いて居たわけだな」
「へエ、いつものことで、――お夢さんの騷ぎがあつてから思ひ出して又木戸を閉めに此處へ來ましたが」
 平次と八五郎はそれつきりにして、もう一度住居すまひの方へ引揚げました。お勝手に居たのはお傳といふ四十五六の中婆さんで、
「驚きましたよ、いきなり悲鳴をあげるんですもの。濡手もかずに飛んで行くと、お鈴さんが灰神樂の中でお夢さんを介抱して居ましたが」
「金太と與三郎は」
「其處へ、私より少し遲れて、二人一緒に梯子段を降りて來ました」
「六助は?」
「それから暫らく經つて、煙草か何んか買つてぼんやり歸つて來たやうです」
 この女は恐ろしく達者さうですが、人は好い方らしく、唾舌しやべらせて置けば市が榮えさうです。もう一人の囃子はやし方の六助は、裏口を掃いて居りました。薄禿うすはげた四十八歳、どつちかと言へば肥つた方で、女のやうに優しい口をきく五尺そこ/\の小男です。
「お前は昨夜の騷ぎを知らなかつたのだな」
「へエ、煙草をきらしたことに氣が付いて、角の煙草屋へ行つて、看板娘のお清さんをからかつて、ブラリブラリと歸つて來ると、あの騷ぎだつたさうで、へエ」
「お夢に夢中な男があると思ふが、お前は氣が付かないのか」
「あのきりやうですが、お夢さんと來たら、全く金佛かなぼとけですね、――あつしは昔から知つて居りますが」
「この小屋に泊つて居るもので、誰が一番お夢と仲が良いんだ」
「お鈴さんでせうか、――それから私。私はもう年寄ですから、娘見たいな心持で附き會つて居りますが、お夢さんに死ぬほど惚れて居るのは金太さんかもわかりませんね」
 六助はツケツケと斯んな事を言ふのです。


 平次はそれ以上追及する興味を失つたらしく、八五郎を一人殘して、そのまゝ引揚げてしまひました。お夢の怪我が大したことでないとわかると、振られた男の惡戯いたづらを、詮索立てする馬鹿/\しさをさとつたのでせう。が、それから十日ばかり、東西兩國は、小正月でもう一度賑ひを取戻したある日の夕方でした。
「いよ/\大變ですよ、親分」
 ガラツ八の八五郎が、いつものあわてた聲で飛び込んで來たのです。
「又大變のき物か、物驚きをするのも病氣の一つだね」
 平次は相變らず落着き拂つて居ります。
「兩國ですよ、親分。小左衞門の小屋だ」
「火事か、喧嘩か、それとも一と目千兩が夜逃げでもしたのか」
「お夢ぢやありまゝせん。今度はお鈴ですよ。あの可愛らしい藝達者の娘が半死半生だ」
「又火鉢か」
「今度は綱渡りの綱を切つた奴があるんです。お鈴はお振袖を着たまゝお客の頭の上へ眞つ逆樣に落ちて、眼を廻す騷ぎだ。幸ひ息は吹返したが、足を折つたさうで不具かたはになるかも知れません」
「綱は確かに人が切つたのか」
匕首あひくちを綱の結び目にはさんであつたさうだから、わざとやつた事に違ひありません」
「囃し方の六助の持物ですよ。一應土地の下つ引に六助を見張らせてありますが、當人の六助は、何んにも知らないと大威張りで」
「よし/\、俺が行つて見よう」
 平次は事件の奧行が思ひの外に深いことを知ると、八五郎をうながして兩國へ飛びました。もう街は薄暗くなりかけて、あちこちに灯が入つて居ります。
 小屋は客を返して、不氣味に暗くなつて居りますが、騷ぎにおびえたやうに、一座の者は彼方此方に顏を寄せて、何やら不安らしく囁き交して居るのです。
「おや、錢形の親分さん。又飛んだことが起りまして」
 座頭の小左衞門もさすがにあわてて居りました。ふり仰ぐと、とぼしい灯の中に、斷たれた綱はダラリと下がつて大蛇をろちのやうに土間を這ひ、與三郎がそれを引摺つて片付けようとしてゐるのでした。
 近寄つて見ると、綱は麻糸と棕櫚しゆろをなひ交ぜたもので、太さも相當にあり容易なことできれる筈もありません。それが少し※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしれては居りますが、刄物で切つたやうに、一方の端で見事に切られて居るのです。
 小左衞門に案内させて行くと、綱の端は舞臺の上を通つて樂屋の二階のはりに結ばれたものですが、その梁のところの結び目に、拔刀ぬきみの匕首を挾んであつたさうで、綱の上に乘つて、いろ/\の藝をしたお鈴が、眞ん中のあたりで藝の最高頂に達し、千番に一番の兼ね合ひ、綱を波のやうに搖りながら、大波小波か何んかをやつた時、非常な力が綱に加はり、結び目に挾んだ匕首が働いて、さしもに丈夫な綱を切つてしまつたのでせう。
 お鈴はその時、一輪の花のやうに、横樣にお客席に落ちました。綱を搖ぶつたはずみで、足が宙に浮き、お鈴の至藝でも、どうすることも出來なかつた樣子です。高さは舞臺の上で三間半、土間の上で三間くらゐ、幸ひ客には大した怪我もなかつたのですが、お鈴はひどく頭を打つて氣をうしなつた上土間の渡り板に足を挾んで右足を折つたらしく、なほつたところで、綱渡りの曲藝などは、生涯出來ないかも知れないと、骨接ぎも外科も言つて居るのでした。
「可哀想なことをしました。あの通り藝が達者な上、人柄もよくいかにも可愛らしい娘で、大變な人氣でございました」
 座頭の小左衞門は獨り言のやうに言ふのです。
「お夢とお鈴は何方が人氣があるんだ」
「――一と目千兩のお夢が怪我をして、まだ寢て居りますがあの火鉢の落ちた騷ぎの時は、私はもうこの小屋も駄目だと思ひました。人氣者のお夢が舞臺へ出られなくては、客は半分も來ないことだらうと、あきらめて居たのでございます。ところがどうでせう、あの働き者のお鈴が私の心持を察してくれて、歌つて踊つて、綱渡りをやつて、手一杯に骨を折つたお蔭で、小屋の人氣は落ちるどころか、一と目千兩のお夢が元氣で舞臺へ出て居た頃よりは、この頃の方がぐつと客も多く、木戸の上がりも二三割は殖えて居ります。お夢の方はもう四五日もしたら舞臺へ出られることでせうが、お鈴が出られなくつては、とてもこの人氣はつなげません」
 小左衞門の愚痴ぐちは際限もなく續くのです。その間平次はそれを空耳に聽くやうな甚だ冷淡な恰好で、せつせと土間から舞臺へ、樂屋がくやへと調べ續けて居ります。
 綱の先は舞臺の上を通つて、樂屋の大梁おほはりに縛られてあるのですが、結び目に挾んでわざをしたといふ匕首は、八五郎が土地の下つ引の辰三といふのに預けてありました。
 匕首といふにしては少し大きく、喧嘩刀の小さいのからつばを取拂つたやうな業物ですが、これだけ特性を持つて居ると、持主の名前を書いて置くやうなもので、囃し方の六助が、夜店をひやかして一分で買ひ、ぎ直させて秘藏して居たことは、一座で知らないものもなく、六助がその切れ味を自慢すると『一分正宗』などと冷かして居た――と、これは小左衞門、金太、與三郎の三人の口が揃ひます。


 平次は兎も角一座の者を一人づつ調べる氣になりました。最初に匕首の持主なる囃子方の六助、樂屋の隅へ呼出されて、五尺そこ/\の小男の癖に、精一杯のひぢを張ります。
「こいつはお前の道具ださうだな」
 平次はその大ダンびらのやうな匕首を見せました。
「へエ、あつしの物で、小屋中で知らない者はありません」
「お鈴が落ちたとき、お前は何處に居たんだ」
「舞臺の奧に居りました。下座げざの囃子はお傳さんに任せて、ちよいと親方の後見こうけんをして居りました。親方の小左衞門が舞臺に出るときは、私が後見をすることになつて居りますので」
「その時舞臺には誰と誰が居たんだ」
「皆んな居りました。金太も親方もお内儀さんも、幕切れで賑やかな舞臺でしたから」
「與四郎は?[#「與四郎は?」はママ]
「あれは木戸を動きません」
「こんな小屋には、道具調べといふのがあるさうだな」
「金太の役目になつて居ります。朝のうちに調べた上、綱渡りなどは危ない藝當ですから、太夫が綱に掛る前に一應調べて置きます」
 六助の調べはざつとんなものでした。續いて呼出された金太は、
「確かに道具はあつしが調べました。朝一度調べた上、お鈴ちやんが綱にかゝる前、念入りに兩方の結び目を調べたに違ひありません。匕首が結び目に突つ込んであるのを見のがす筈はございません」
 金太の自信は強大です。
「綱を調べた後で――」
「舞臺で親方にからんで道化をやつて居りました――顏を直したばかりで、まだこんな恰好をして居りますが」
 成程さう言へば金太の姿は舞臺の道化です。續いて與三郎を調べましたが、これは半日木戸に頑張つて居て何んにも知らず、小左衞門の女房のお仲は亭主と一緒に舞臺、お傳は囃方で目の廻るほど忙しく、殘るのは一と目千兩のお夢ですが、これは樂屋裏のもとの部屋で、まだ腰も肩も痛むさうで、床に就いて居る有樣です。
「あの野郎ぢやありませんか」
 八五郎は平次に耳打ちしました。
「誰だえ、あの野郎といふのは?」
「道化の金太ですよ。道具調べの時、かねて盜んで置いた六助の匕首を綱の結び目に挾んだとしか思へませんよ」
「そんな事をしたら、直ぐ知れるぢやないか。金太はそれ程の馬鹿ぢやなささうだ、――第一それではお夢の頭へ火鉢を落したのがわからなくなる」
「あれも金太でせう。あの時舞臺に居たんですから、一番火鉢に近かつたわけで――」
「いや、木戸番の與三郎が見て居た筈だ。そんな隙はない――お夢の悲鳴を聽いて二人は一緒に驅け付けて居る」
「それでは、火鉢を落したのは、お鈴といふことになりますが」
「いや、あのではない、――あの火鉢は娘の手にへないほど重い、――それに自分が火鉢を落したものなら、火鉢の後から轉げるやうに、一番先に二階から降りてお夢を介抱する筈はない。自分にやましいところがあれば舞臺の方へ降りて、大廻りに廻つて來るだらう。それに自分も綱を切られて大怪我をして居る」
「すると、惡戯者は誰でせう」
「お前は角の煙草屋へ行つて看板娘のお清とか言ふのと會つてくれ。お夢が怪我をした晩、囃子はやし方の六助はどんな樣子だつたか。煙草は何を買つて、煙草入はどんなものを持つて居たか。いつもと違つたところがなかつたかくはしく訊くんだ」
「へエ」
 八五郎は飛んで行きます。平次はその間、樂屋裏のあたりを調べ、二階の火鉢のあるところで何やらやつて居りましたが、間もなく八五郎は不得要領な顏をして戻つて來ました。
「何うした八」
「別に變つたこともありませんよ。あの晩六助が煙草を買ひに行つたのは、暗くなりかけた時分で、夕方忙しいのに看板娘のお清をつかまへて、いつにもなく際限もなくふざけて居たさうですよ」
いつにもなく――だね」
「お清は言ふんです。六助さんは一と目千兩のお夢さんに夢中で、本當に命がけで惚れて居るから、私なんかにはろくに口もきかないのに、あの晩はどんな風の吹廻しか、忙しい私をつかまへて、暫らく無駄話をして居りました――と斯うで」
「それから煙草は」
「五匁玉を一つ買つて、大きな煙草入を出して詰めたさうですが、不思議なことに、その煙草入には、煙草は半分以上も入つて居たといふことで」
「それでわかつたよ、八」
「何がわかつたんです?」
「待て/\もう少しためして見度いことがある」
 平次は八五郎と一緒に、ソツと樂屋裏の二階に登りました。此處にはいつぞやお夢の頭の上に落された唐銅からかねの大火鉢が性懲しやうこりもなく据ゑられて、火もなく鐵瓶てつびんもありませんが、冷たい灰が火鉢の半分程も減らされて居るのでした。
「八、その火鉢を、手摺てすりくゞらせて、下へ落してくれ」
 平次はそつと囁くのです。
「そんな事を親分」
 八五郎はこんなにきもを潰したことはありません。
「大丈夫だ、お夢はあの時に懲りて、グツと床を向うの方に移して居る。それに火も鐵瓶もないから、精々灰を被るくらゐのものだ」
「ぢや、やりますよ」
 それは唐銅の大火鉢で、なか/\重いものでした。その上に鐵瓶が掛つて居たら、成程お鈴の細腕では、手摺の下を潜らせて階下したへ落す事などは出來さうもありません。
「アツ」
 火鉢は手摺と幕を潜つて、恐ろしい勢ひで階下へ突き落されました。濛々とあがる灰吹雪はひふぶきの中に、凄まじい悲鳴。
「それツ」
 平次と八五郎が梯子へ廻つて階下したを覗くと、身動きも出來ない筈の一と目千兩のお夢は、猫の子のやうに素早く飛び起きて、灰吹雪を掻きわけるやうに、雨戸を突き飛ばして裏の空地へ眞に飛鳥の如く飛び出して居たのです。
「お夢、お前はもう傷が癒つたのか」
 平次はその頭の上から冷たい聲を浴びせました。
「――」
 ハツと二階を振り仰いだお夢の顏は、實に想像も及ばぬ凄まじいものだつたのです。
「お夢、お前は間違つて居たぞ。お前の頭へ火鉢を落したのは、お鈴ではなくて、六助だつた。――六助はお前をうらんで居た。怨むにはわけのあることだらう。それは俺は知らない――兎も角お前の顏を滅茶々々に潰すつもりで、煮え湯の鐵瓶を掛けてある火鉢を頭から落し、驅け付けたお鈴と與三郎と金太を物蔭でやり過して木戸から拔け出して煙草屋へ行つたのだ」
 平次は續けました。
「――お前はそれをお鈴の仕業しわざと思ひ込んだ。お前の人氣ときりやうねたんで、お前の美しい顏を滅茶々々にする氣でお鈴が火鉢を落したに相違ないと思つたことだらう、――お前の身體の痛みは二三日で癒つたが、身動きが出來ないと言つて、寢たまゝ折を待つた――十日もさうしてゐるうち、お鈴の人氣は、お前よりぐつと上だといふことがわかり、いよ/\お鈴が憎くなつた――今日といふ今日、舞臺の事をよく知つてゐるお前は、少しのすきを狙つて床を拔け出し、樂屋裏の大梁おほはりに結んだ綱の結び目に、六助の荷物から盜み出した匕首あひくちを挾んで置いた」
「――」
「可哀想に何んにも知らないお鈴は、土間に落ちて目を廻した上、ひどく足をくじいたから、生れもつかぬ片輪になるかも知れない、――お前のやうな罪の深い女はないぞ。お前のためにひどい目に逢つたお鈴はうは言にまでお前のことを案じて居るとは知るまい」
 平次の論告は深刻ですが、情理を盡したものでした。薄暗い中に昂然とそれを振り仰いで居たお夢の頭は、次第々々に垂れて、そのまゝ路地の外へトボトボと出て行かうとするのです。
 八五郎は早くも二階を降りてその逃げ路をふさぎました。
「八、放つて置け」
 平次はこの美しい顏とみにくい心を持つた女の處置を、天のさばきにゆだねる氣で居るのでせう。
        ×      ×      ×
 囃子方の六助も、早くもこの樣子を察して逃げてしまひました。
「變つた捕物でしたね。血を流した者が一人もなく、縛られた者も、盜まれた者もないのは面白いぢやありませんか」
 八五郎は歸る途々平次に話しかけるのです。
「六助が匕首あひくちを盜まれたぢやないか」
「成程ね」
「でも、死んだ者も血を流した者もないのは、正月らしくて宜からう」
 平次はそんな氣で居るのでした。これは後の話ですが、お鈴は足を痛めて綱渡りは出來なくなりましたが、歌と踊に精進して、その可愛らしさと共に、東兩國の名物になりました。
 六助はそれつきり行方不知しれず。お夢は一と目千兩と言はれた美しさがくづれ果てて、見る影もない姿を橋の袂にさらし、右や左と物乞ひをして居たのは、それから又三年も後のことでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
   1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年1月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月11日作成
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