錢形平次捕物控

朱塗りの筐

野村胡堂





「親分、新造しんぞが是非逢はしてくれつて、來ましたぜ」
 とガラツ八の八五郎、薄寒い縁にしやがんで、がらにもなく、お月樣の出などを眺めてゐる錢形の平次に聲を掛けました。
 平次はこの時三十になつたばかり。江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて來るのは、少しくすぐつたく見えるやうな好い男でもあつたのです。
「何て顏をするんだ。――何方どなただか、名前を訊いたか」
「それが言はねえ」
「何?」
「親分にお目にかゝつて申上げますつて、――滅法めつぽふ美い女だぜ、親分」
「女がくつたつて、名前も仰しやらない方にお目にかゝるわけには參りません。と言つて斷つて來い」
 平次は少し中ツ腹だつたでせう。名前も言はない美い女と聞くと、妙に頑固かたくななことを言つて、ガラツ八を追つ拂はうとしました。
「惡者に追つ驅けられたとか言つて、蒼い顏をして居ますよ、親分――」
「馬鹿ツ、何だつて冒頭はなつからさう言はないんだ」
 平次はガラツ八を退けるやうに、入口へ飛出して見ました。格子戸の中、あかりから遠い土間に立つたのは、二十三――四の年増、ガラツ八が言ふほどの美い縹緻きりやうではありませんが、身形みなりも顏もよくとゝのつた、しつかり者らしい奉公人風の女です。
「お前さんか、あつしに逢ひたいといふのは?」
「あ、親分さん、私は惡者にけられてゐます。どうしませう」
「此處へ來さへすれば、心配することはない。後ろを締めて入んなさるがいゝ」
 たゞならぬ樣子を見て、平次は女をみちびき入れました。奧の一間――といつても狹い家、行燈あんどんを一つ點けると、家中の用が足りさうです。
「親分さん、聞いて居る者はありませんか」
「大丈夫、かう見えても、御用聞の家は、いろ/\細工さいくがしてある。小さい聲で話す分には、決して外へれる心配はない。――もつとも外に人間は二人居るが、お勝手で働いてゐるのは女房で、今取次に出たのは、子分の八五郎と言ふものだ。少し調子ツ外れだが、その代り内證ないしよの話を外へ漏らすやうな氣のきいた人間ぢやねえ」
 平次はくだけた調子でさう言つて、ひどく硬張こはばつて居る相手の女の表情をほぐしてやらうとするのでした。
「では申上げますが、實は親分さん、私は銀町しろがねちやうの石井三右衞門の奉公人、町と申す者で御座いますが」
「えツ」
 石井三右衞門といへば、諸大名方に出入りするお金御用達、何萬兩といふ大身代をようして、町人ながら苗字帶刀めうじたいたうを許されて居る大商人です。
「主人の用事で、身にも命にも替へ難い大事の品を預かり、仔細しさいあつて本郷妻戀坂つまごひざかに別居していらつしやる若旦那のところへ屆けるつもりで、其處まで參りますと、かねてこの品を狙つて居る者の姿を見かけました。――いえ、逢つたに仔細は御座いませんが、――私の後をけて來たところを見ると、どんなことをしてもこの品を奪ひ取るつもりに相違御座いません」
 お町は、かう言ひながら、抱へて來た風呂敷包を解きました。中から出て來たのは、少し古くなつた桐柾きりまさの箱で、そのふたを取ると、中に納めてあるのは、その頃明人みんじん飛來ひらいかんといふ者が作り始めて、大變な流行になつて來た一閑張かんばり手筐てばこ。もとより高價なものですが、取出したのを見ると、虞美人草ぐびじんさうのやうな見事な朱塗しゆぬり、紫の高紐たかひもを結んで、その上に、一々封印ふういんをした物々しい品です。
「フーム」
 錢形の平次も、妙な壓迫感にうなるばかりでした。石井三右衞門の使といふのが一通りでない上、朱塗の一閑張の手筐で、すつかり毒氣を拔かれて了つたのでせう。このお町とかいふ確り者らしい年増の顏を、次の言葉を待つともなく眺めやるのでした。
「丁度通り掛つたのは、おたくの前で御座います。捕物の名人と言はれながら、滅多に人を縛らないといふ義にいさむ親分にお願ひして、この急場をしのがうとしたので御座います。後先も見ずに飛び込んで、何とも申譯御座いません」
 お町は改めて、たしなみの良い辭儀を一つしました。
「で、何うしようと言ふのだえ、お町さんとやら」
「この樣子では、とてもこの手筐てばこ妻戀坂つまごひざかまでは持つて參れません。さうかと言つて、この儘引返すと、一晩經たないうちに、盜まれることは判り切つて居ります。御迷惑でも親分さん、ほんの暫く、これを預つて置いて下さいませんでせうか」
「それは困るな、お町さん。そんな大事なものを預つて萬一のことがあつては――」
 平次も驚きました。命がけで持つて來たらしいこの手筐を、そんなに輕々しく預つていゝものかどうか、全く見當も付かなかつたのです。
「親分のところへ預つて置いて危ないものなら、何處へ置いても安心な處は御座いません。どうぞ、お願ひで御座います」
 折入つての頼み、平次もこの上は沒義道もぎだうに突つ放されさうもありません。
「それは預らないものでもないが、少しわけを話して貰はうか。中に何が入つてるか見當も付かず、後でどんなことになるかもわからないやうなことでは、どんなに暢氣のんきな私でも心細い」
「それでは、何も彼も申上げませう。親分さん、聞いて下さい、かういふわけで御座います」


 石井三右衞門といふのは取つて六十八、配偶つれあひは五年前に亡くなりましたが、たつた一人の伜三之助は、年寄つ子の我儘育わがまゝそだちで、惡遊びから、到頭勝負事にまで手を出すやうになり、金看板きんかんばんのやくざ者になつて、三年前に久離きうりつて勘當され、二十五にもなるいゝ若い者が、妻戀坂の知合ひの二階にすこともなくゴロゴロ暮して居るのでした。
 銀町しろがねちやうの店には、やしなひ娘のおぬひといふ十九になる女と、手代ともなく引取られて居るをひの世之次郎とが、年寄の世話をやいて居りますが、何方も財産目當ての孝行らしくて、三右衞門の氣には入りません。
 大番頭は祿兵衞ろくべゑといつて、名前の通りむづかしい四十男、これは三右衞門に代つて店の支配をし、大勢の奉公人を取締つて居りますが、正直一途で、金儲かねまうけや商賣のことにかけては、鬼神のやうな男ですが、家の中の取締りはあまりよく行き屆きません。
 三右衞門の力と頼むのは、十三の年から足かけ十二年奉公したお町唯一人だけ。これは赤の他人ですが、それだけに、財産に目をくれるでもなく、昔の人達にはよくあつた本當の主人思ひで、半身不隨ふずゐで寢た切りの三右衞門を、自分の親のやうに世話をして居たのです。
 身代は少なく積つても十萬兩。支配人任せで寢て居る三右衞門は、力になる身寄がないだけに、その始末が苦になつてなりません。自分の生きて居るうちは、何うやらかうやらやつて行くが、明日をも知れぬ病身になつて見ると、折角きづき上げた大身代を、をひや養女や、赤の他人に、熊鷹くまたかゑさうばはれるやうに滅茶々々にされて了ふのが心外でたまらなかつたのです。
 さうかと言つて、今大急ぎで養子を迎へることもならず、生命いのちともしが次第に燃え盡きるのがわかると、勘當した伜が、つく/″\戀しくなつたのも無理のないことでした。
 しかし、一旦久離切つた伜の三之助を、死際に此方から呼び戻すといふのも、昔氣質の三右衞門には出來ず、番頭もをひも、出入の者も氣が付かないのか、氣が付いても、わざと知らん顏をするのか、口をつぐんで、そのことには觸れてくれませんから、病身の三右衞門には、何うすることも出來なかつたのでした。
 我慢が出來なくなつて、呼寄せたのはお町。
「俺が目をつぶれば、この身代は滅茶々々だ。他人に※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり取られて了ふ位なら、――これは内證ないしよの話だが――やくざでも血を分けたせがれに費はれた方が、どんなにいゝ心持だか知れはしない。俺に萬一のことがあつたら、用箪笥ようだんすの中の朱塗の手筐てばこを、中味ごとそつと妻戀坂つまこひざかの伜へ屆けてくれ。その中には諸大名を始め、江戸中の大商人に貸した金の證文が一杯入つて居る。どんなに下手へたに現金を掻き集めても、三萬兩や五萬兩にはなる筈だ。店の有金は、祿兵衞始め奉公人達にくれてやつて了ひ、土地と家作は、娘と甥に半分づつやるやうに。これは別に、遺言状ゆゐごんじやうを書いて置く」
 かう言ひふくめたのは、ツイ三日前、その翌る日は三右衞門、二度目の中風に當つて、正氣を失つたまゝ、昏々こん/\と睡つてばかり居るのです。
 かうなると、家の中にはもう、前々からはらんで[#「孕んで」は底本では「朶んで」]居た財産爭ひが具體的になつて、明日をも知れぬ重病人をはふつて置いて、現金や貸金の勘定に夢中になる有樣。朱塗りの手筐の證文しようもんも、何時誰に見付けられて、奪ひ去られて了ふものか、全く油斷もすきもありません。
 お町はかう言ひながら、もう一度手筐を平次の方へ押しやりました。
「そんなわけで、今晩といふ今晩、をひの世之次郎樣が、旦那樣の枕許の用箪笥へ手を掛けなすつたので、たまり兼ねて持ち出しました。旦那樣は二度目の中風ちうふうで御座いますから、おなほりになるものやら癒らぬものやらわかりませんが、道々考へ直して見ると、まだ亡くなつたわけでもないのに、あわててこの手筐てばこを持ち出したのは、少し早過ぎたのかもわかりません。――若旦那の三之助樣は、それは/\荒つぽい方で御座いますから、證文をどうかしてしまつた頃、旦那樣が正氣にかへつたりしては、私の申譯も立ちません。さうかと申して、外にお願ひするやうな身寄りもなし、此處へ飛込んだのを御縁に、どうぞ暫くこれをお預り下さいませんか」
 平次も暫くは言葉もありません。
 大抵のことには驚かないやうに訓練くんれんを積んでゐますが、夢にも見たことのない三萬兩五萬兩といふ大金の證文を、こんな淺間な家に預ることを考へると、さすがにおだやかな氣持では居られなかつたのです。
「驚いたな、お町さん。あつしもいろ/\の目に逢つたが、石井三右衞門ともいはれる大金持の身上を、まるごと預るやうなことにならうとは思はなかつたよ」
「それが、親分さんの信用で御座います。あまり遲くなると店の方が面倒になりますから、これでおいとまいたします。それではどうぞ」
「まア、何うも仕樣があるまいが、お前さんは何うするつもりなんだい」
「私はこのきりの空箱だけ持つて、妻戀坂つまごひざかへ參ります」
「危ないぢやないか、引返しなすつたら何うだい」
「いえ、若旦那の三之助樣に親御のお心持も傳へ、それに、中味は親分さんに預けてあることも申さなければなりません」
「成程」
「それから、私の後からけて來たのは、石井家の身上を狙ふ惡者に相違ありませんが、誰が本當の惡者なのか、私にもまだ見當は付いて居りません。この空箱ををとりにして、其奴の顏が見てやりたう御座います」
 恐ろしいきかん氣、平次もさすがに、この男まさりの女の顏を眺めやるばかりでした。
「そいつは危ない。いくら宵のうちでも、間違があつたら何うするんだ。ゴロゴロして居る野郎がゐるから、其處まで送らせよう」
「いえ、親分。そんなことをしたら、曲者は姿を隱して了ひます。私一人なら、馬鹿にしてこのはこを取る氣にもなりませう」
「さう言つたつて」
「こんなに見えても、私は思ひの外力が御座います。小男の世之次郎さんなどには負けることぢや御座いません。ホ、ホ、ホ」
「そいつは豪儀がうぎだが――」
 平次が心配するのも構はず、赤い手筐を置いたまゝ、お町はいそ/\と街の月の中へ飛出して了ひました。
「ガラツ八」
「へエ」
「聞いたか」
「聞きましたよ。驚いた女があるものですね」
「手筐を預つて見ると、俺が飛出すわけにも行くまい。手前てめえ直ぐあの女の後を跟けて、御苦勞だが妻戀坂まで見屆けてくれ。途中でへマをして、曲者にさとられるやうなことをするな」
「大丈夫ですよ、親分。このお月樣だ、相手の女が、五六町離れて行つたつてにほひでも解りまさあ」
「いやな野郎だな」
「へツ、へツ」
 ガラツ八は草履ざうりを突つかけると、それでもそゝくさとお町の後を追ひました。明神樣の方へ――。


「親分、た、大變」
「何が大變なんだ、騷々しい」
 飛んで來たガラツ八。格子戸へ一ぺん鉢合せをして、ハネ返されて、それから又開けて、パツと顏を出しました。
「落着いて居ちやいけねえ、直ぐ來て下さい」
「どうしたんだよ」
 朱塗の手筐てばこは、早くも仕舞ひ込んだ平次。十手を懷へネヂ込むと、すそをつまんで、サツと外へ出ます。まことに慣れた手順で、一分一厘のすきもありえせん。
「あの女が殺されたんで」
「何?」
「明神樣の裏の闇へ入ると、妙な物音がしたつ切り、一向出て來る樣子もねえ。駈け付けて見ると、喉笛のどぶえを切られて、血だらけになつてブツ倒れて居るぢやありませんか」
「箱は?」
「奪られて了つたらしいよ、親分」
「曲者は?」
「まるで見當が付かねえ。二三十間遲れて行つたあつしが、驅け付けると右の通りだ。逃げる間も何にもねえ筈だが、犬つころ一匹飛出さないから不思議なんで」
手前てめえ間拔まぬけなんだよ、急いで行けツ」
「息が切れてかなはねえ」
「死骸はその儘にして置いたのか」
 驅けながらも平次は、出來るだけガラツ八の口から要領を引出して、事情の外形アウトラインをはつきりさせようとする樣子です。
「通りかゝつた町内の人に頼んで來たんで」
「町内の人とは、何うして判つた」
懷手ふところでをして立つて見て居るんだもの、町内の人でせう」
「――」
 現場へ行つて見ると、もう五六人の人が立つて、騷いて[#「騷いて」はママ]居ります。木立こだちと建物の蔭で、月の光も此處までは屆きませんが、近所から持出したものと見えて、提灯ちやうちんが二つ。街の土に仰反のけぞつて、血の海の中にこと切れて居るお町の死體を、氣味惡さうに覗いて居ります。
「御町内の方、掛り合ひでお氣の毒だが、暫く動かずに居て下さい」
 平次はさう言ひながら、提灯を借りて、お町の死體を見入りました。後ろから喉笛のどぶえを切つた時、下手人げしゆにんの顏を見るつもりで少し顏を反らしたらしく、傷は少し左へれて居りますが、その爲に頸動脈けいどうみやくを切られて、一たまりもなく死んで了つた樣子です。
 仰向けに倒れて居るところを見ると、多分手筐てばこを奪ひ取る爲に引倒したのでせう。お町の手は、それでも見覺えの空風呂敷からぶろしきひしと掴んで居りますが、中の桐箱はその邊には見當りません。
 ――中を開けたら、曲者もさぞ驚いたらう――平次はツイそんな氣持になりましたが、その儘提灯を上げて、死體を取圍んだ五六人の顏を順々に照して行きました。
「八」
「へエ」
「この中に、お前が最初に、死骸の番を頼んだ人が居るか」
「親分、居ませんよ」
「本當か」
「本當ですとも、小作りで、――暗くて解らなかつたが猫背ねこぜの男でしたよ。何うも不思議だ」
「何が不思議なものか、それが下手人だつたのよ」
「えツ」
「馬鹿だな、相變らず、――お前は先刻さつき、二三十間駈け付けるまで此處から逃げ出した者はないと言つたらう」
「へエ――」
「外に隱れる場所はねえ。急場の思ひ付きだ。多分一度隱れたそのへいの間から、暢氣のんきさうに懷手をしてノソリと出て來たらう」
「さうですよ、親分。まるで見て居たやうだ」
「町内の人のやうな顏をして逃げたんだ。恐ろしく落着いた野郎だ。年恰好としかつかう、人相、着物などを見なかつたか」
「それが親分、下手人と解れば見ていたんだが――」
「仕樣のねえ野郎だな」
「でも、猫背ねこぜとわかつて居るんだから、これはわけもなく見付かるぜ」
「フーム」
「ね、親分。石井一家のうちから傴僂せむしを探しアわけはねえ、行つて當つて見ませうか」
 ガラツ八はすつかり得意になりました。本當に飛出しさうにするのを、
「いよ/\馬鹿だなア、女から奪つた箱は何處へやつたか、お前にも見當は付くだらう」
「その邊の藪へでも捨てはしませんか、どうせ、空つぽと解れば」
「空つぽだつて、箱に仕掛けがあるかも解らないだらう。人まであやめて奪つた物を、さう易々と捨てるものか」
「すると」
「お前が駈け付ける迄に、背中へ脊負しよつたんだよ」
「えツ」
「飛んだ傴僂せむしさ。行つて聞いて見るがいゝ、銀町しろがねちやうにはそんな者は一人もないに相違ないから、――町内の人はみんなスラリとして居るぜ」
「へエ――」
 平次の明察。たなごゝろを指すやうなのを聞いて、驚いたのは立合ひの衆でした。
「錢形の親分だぜ」
「さうだらう。さうでもなくちや――」
 と言つた囁きを聞くと、
「皆さん、どうか、お引取り下さい。飛んだ御迷惑でした。それから町役人にさう言つて、此處へ來るやう言傅をお願ひします」
 平次はもう彌次馬を追つ拂ひます。
「さア、こんな所に立つて居ると掛り合ひになるぞ。歸れ/\」
 ガラツ八は急に強くなります。
 暫く、提灯のあかりで、その邊を探して居た平次は、やがて道の上から剃刀かみそりを一梃拾ひ上げました。
「親分、好いものが手に入つたネ」
「フム、あまり好過ぎるよ」
 かなり使ひ込んだ剃刀。觀世縒くわんぜよりで卷いて、生澁きしぶを塗つてありますから、ひどく特色のあるものですが、不思議なことに、大して血が付いては居りません。
「親分、何を考へて居なさるんだ」
可怪をかしなことがあるよ。新しい齒こぼれのあるところを見ると、剃刀かみそりで切つたには相違ないが、一度血を拭いて、仕舞ひ込んで、又落したのはどう言ふわけだ。――餘程あわてたのかな」
「――」
「箱を背中へ入れて、お前をかついだ樣子ぢや、下手人は餘程きものすわつて居る男らしいが―」
 平次は何時までも剃刀を睨んでくびひねつて居りますが、さすがにこの謎は解けさうもありません。そのうちに、急を聞いて、町役人が、一隊の彌次馬と一緒にやつて來ました。


 石井三右衞門の邸は、大變な騷ぎになりましたが、まだ、正氣付いたばかりで、二人の醫者が詰め切りで樣子やうすを見て居る主人の三右衞門には聞かせるわけに行きません。
 その中に錢形の平次は、疾風迅雷しつぷうじんらいの如く、仕事を運びました。その晩、第一番に逢つたのは、支配人の祿兵衞ろくべゑ月代さかやき光澤つやの良い働き盛りの男で、背は高い方、少し氣むづかしさうですが、その代り堅いのと正直なのが看板かんばんで、家中の者が一目も二目も置いて居ります。
「錢形の親分、あの女が殺されては、差向き主人の世話をやく者がありません。幸ひ、少しづつ正氣付いて來るやうですが、お町は何うした、なんて聞かれたら、返事のしやうがないだらうと、心配して居ますよ」
 支配人らしい行屆いた心配です。
「番頭さん、この下手人はどうも家の中の者らしい。御主人があの樣子だから、多分、相續爭さうぞくあらそひにからんだことぢやありませんか」
「へエ、――そんなことが」
 祿兵衞も否定はしませんが、ひどく酢つぱい顏をして居ります。
「で、お町さんが殺されて、差向きお困りなら、何うでせう。あつしの手から一人女を入れたいんだが」
「と言ふと?――」
「さう言つちや濟まないが、番頭さんはお店が忙しくて奧へは目が屆かないだらうし、私も毎日來て居るわけにも行きません。幸ひ、本所の御用聞で、石原の利助親分の娘のお品さん、これは出戻りだが、縹緻きりやうも才智も人並すぐれて、こんなことには打つて付けの女です。お町さんの代りに、唯の奉公人といふ觸込みで七日でも十日でも、此處へ置いてやつちや下さいますまいか」
 平次の頼みはもつともでした。こんな大家たいけに起つた事件の解決を、外から、醫者がみやくを引くやうにして居たんでは、何時になつて解決するかわかりさうもなかつたのです。
「それは構ひませんとも、早速連れて來て下さい。家の中に親分方の息のかゝつた方が居なさると、私達もどんなに心丈夫だかわかりません。何分この節は、嫌なことばかりありますんでね――いや、これは私の口から申上げることではない」
 祿兵衞はフツと口をつぐみました。
「ところで番頭さん、この剃刀かみそりは、この家の品ぢやありませんか」
 平次は懷中から、キリキリと手拭てぬぐひに卷いた剃刀を取出し、祿兵衞の手へ渡してやりました。もよく拭き込んであるので、もう血のあとなどは容易に見付かりません。
「へエ、――これは、見覺えがありますネ。誰のだつけ。何しろ大勢のことですから、忘れて了ひますが、柄にこんな器用な細工をする者は、たんとは居りません。ちよいと待つて下さい」
 祿兵衞はさう言ひながら、通りすがりの下女を呼び入れて、剃刀を鑑定かんていさせました。
「お孃さんのだアよ、番頭さん。家中で一番よく切れる剃刀ぢやねえか」
 相模訛さがみなまりの下女は、何の遠慮もなくさう言つて、アタフタとお勝手へ行つて了ひます。
「お孃さんと言ふと?――」
「亡くなつたお内儀かみさんの遠縁の者で、此家こゝやしなひ娘ですよ」
「その娘さんに逢はせて頂きませうか」


 平次は間もなく、養ひ娘のおぬひの部屋に案内されました。
 十九と聞きましたが、境遇きやうぐうのせゐか、年よりはふけて、二十二三と言つても通るでせう。少し陰氣な感じですが、素晴しい美人で、何となく藪蔭やぶかげに咲きほこつて居る月見草つきみさうを思はせる娘でした。
「お孃さん、御免下さい」
「――」
 お縫は何と挨拶していゝか、見當も付かない樣子で默禮しました。
「この剃刀かみそりはお孃さんのでせうね」
「え」
「お町が殺された場所にあつたんですが」
「えツ」
 見る/\お縫の顏は眞蒼になりました。唇からサツと血の氣が失せると、眼を大きく見開いて、頬の肉が、いたましい痙攣けいれんを起します。
「暫くお預りしますよ、お孃さん」
「――」
「今晩、御飯が濟んでから、何處かへ出かけませんか」
 と改めて平次。
「え、何處へも」
「奉公人達は、暫くの間、お孃さんを見掛けなかつたと言ひますが、何處に居なすつたんです」
此處ここに居りました」
「此處に?」
「え、私は何うかすると、半日位、誰にも逢はずに此處に居ることがあります」
 もうこれ以上は訊くこともなかつたでせう。
「お邪魔でした。お孃さん、お寢みなさいまし」
 番頭の祿兵衞をかへりみて、今度は店の方へ。
「親分、あのお孃さんは、人などを殺せるやうな人間ぢやありません。剃刀はお孃さんのでも、これは私が請合うけあひますよ、誰かお孃さんの剃刀を持出した奴があるのでせう」
「さア」
 平次はそれには肯定こうていも否定も與へませんでした。
 間もなく、番頭の部屋を借りて、呼出して貰つたのは、主人のをひの世之次郎。
「へエ、今晩は、御苦勞樣で」
 店で働いて居るだけに、如才じよさいのないことはお縫と反對で、敷居際しきゐぎはに手を突いて、支配人と平次の顏を等分に見上げました。
 小作りで、年の頃二十五六、少し三白眼しろめですが、色の淺黒い、なか/\の男前。なんとなく輕捷けいせふで拔け目のなささうな人間です。
「世之次郎さんと言ひましたね」
「へエ」
「御主人に萬一のことがあると、總領が勘當されて居なさるさうだから、お前さんが跡取りといふわけかネ」
 平次は妙に立ち入つたことをツケツケ言ひます。
「飛んでもない、親分。さうでなくてさへ、世間の口がうるさくてかなひません。そんなことはどうぞ仰しやらないやうに願ひます」
「まア、いゝやな、お前さんは運が好いんだ。それはさうと晩飯の後で何處へも出なさりはしまいネ」
「今晩ですか?」
「お町が殺された刻限こくげんに、お前さんは何處に居なすつたか訊きたいんだ」
 平次の舌は、恐ろしく辛辣しんらつです。
「へエ、――お町は戌刻いつゝ(八時)少し前に殺されたつて話ですから、その時分私は町内の錢湯へ行つて居ましたよ」
「錢湯? 此家ここでは風呂は立ちませんか」
 と平次。
「ありますよ。雇人やとひにんが入るんで、毎晩立ちますが、私は疳性かんしやうで、流しの廣い、上り湯のフンダンにある錢湯でないと、入つたやうな氣がしません」
「成程」
「私が内風呂へ入らないのは、家中の者がみんな知つて居ります」
「それにしても、よひから錢湯は、遠慮がなさ過ぎはしませんか」
「へエ」
 主人のをひといふにしても、店の者としては少し我儘が過ぎるやうです。
何刻なんどき位入つて居ましたかい」
「一刻とも入りはしません」
「そんな長湯ですか、お前さんは?」
「へツ、少し稽古けいこ事をして居るもんで」
「成程」
 小唄の師匠ししやうへ行つて、一刻も變な聲を出してうなつて、歸りには手拭をらして、錢湯へ行つたやうな顏をするといふのは、その頃の大商人の奉公人にはよくあることでした。
 これは錢湯と、町内の稽古所を調べさへすれば判ると思つたのでせう。平次はそれつ切りにして、あとは店中の奉公人、一人々々に逢つて見ました。が、さて、何の手掛りもありません。


 平次と一時張合はりあつて、近頃はすつかり折れて了つた本所の御用聞、石原の利助の娘、お品――平次の女房お靜とは仲好しの美しいお品――は翌る日、支配人祿兵衞ろくべゑの手で、石井家へ入り込みました。
 表向は殺されたお町の代り、病人の世話をするといふ名儀ですが、實は、おぬひや世之次郎をはじめ、雇人やとひにん全部を見張る爲、お品の骨折も一通りではありません。
 主人三右衞門は、幸ひ翌る日あたりから、少しづつ意識いしきを恢復して、お品が行つてから三日目には、お町の居ないのを不思議さうに物問ひたげな顏をすることもありました。
 朱塗りのはこは、騷ぎが一段落濟むまで平次が預り、親の三右衞門がお町に大事をたくした心持をくんで、勘當されたせがれの三之助を石井家へ入れてやらうとしましたが、これは番頭の祿兵衞が強硬きやうかうに反對して、沙汰止さたやみになりました。
 三之助は無法者で、飮む買ふ打つの三道樂の外に、親の金を持出して、やくざ仲間にやるのを樂しみにした位の人間ですから、――親旦那の思召はさることながら、この家に入れたら、どんなことをするかもわからない、と祿兵衞は言ふのです。それに、相續爭ひが、深刻になつて居るから、お縫や世之次郎と血で血を洗ふやうなどもゑみにくい爭ひが始まるに相違ない。旁々かた/″\三之助を呼び戻すのは、もう少し待つて貰ひたいと言ふ言葉にも理窟りくつがあります。
 平次も、暫くその意見に任せて、成行なりゆきを見ました。が、お町を殺した下手人はどうしても判らず、桐の空箱の行方もそれつ切りわかりません。
 三日目に、番頭の祿兵衞は、店で紙入れを紛失ふんしつしました。縫ひつぶしの見事なものでしたが、中には幾らも入つて居ないから、騷ぐまでもあるまいと、自分の胸に疊んで置くつもりらしい樣子でしたが、そんなことは知れやすいもので、半日經たないうちに、店中で知らないものはない有樣でした。
 五日目に、お品は家へ歸りました。平次へ一通り報告した上、父親の利助が、兎角身體がすぐれないので、それを一晩見てやる爲でもあつたのです。
 全く三右衞門はこの二三日ことの外こゝろよく、時々は廻らぬ舌で物さへ言ふやうになつたので、この樣子で三廻りもすれば、もとの身體にはならなくとも、時々帳屁位ちやうじりぐらゐは見られるやうになるだらうと言ふほどになりました。
 その晩、主人の部屋に泊つたのは、相模女さがみおんなのお村。始めのうちは、大きい眼を開いて、看護みとるつもりでしたが、次第に猛烈に睡氣ねむけおそはれると、我にもあらず、健康ないびきをかいて寢込んで了ひました。
 眼の覺めたのは翌る朝。窓を開けて、朝の光と空氣を入れて見ると、主人の三右衞門、くびに赤い細紐を卷かれたまゝ、少し乘り出し加減に、眼をいて死んで居たのです。
「ワツ、た、助けてくんろツ」
 お村はよつん這ひになつて飛出しました。
 恐ろしい不安をはらんだ[#「孕んだ」は底本では「朶んだ」]、ハチ切れるやうな騷ぎが、猛火の上の鍋をたぎらせるやうに、家の中を煮えくり返らせました。
「誰も此處へ入るんぢやないぞ。お前は錢形の親分を呼んで來い。お前は醫者だツ」
 支配人の祿兵衞が、たつた一人でてんてこ舞をして居ると間もなく、錢形の平次、子分のガラツ八をつれて飛んで來ました。
 續いて、お品、町内の醫者、町役人、家の中はたゞもうごつた返します。
「錢形の親分、申譯がありません。たつた一晩の油斷で」
 お品が面目なげに言ふと、
「なアに、私はかうなることを見通して居たんだ。お品さんが一年泊つて居りア、三百六十六日目にこの家の旦那がやられるよ」
「えツ」
「お品さんは證據固しようこがための時役に立つんだ。安心して居なさるがいゝ」
 平次はお品をなぐさめて置いて、變事のあつた部屋へ行きました。


「あツ、親分待つて居ました」
 入口に頑張ぐわんばつて居たのは支配人の祿兵衞。
「番頭さん、大變なことになりましたね」
「何うしていゝか、私には見當も付きませんが、兎に角、此處へは、親分が見えるまで、誰も入れないつもりで頑張つて居ましたよ」
「それは有難い、早速見せて貰ひませうか」
 平次は部屋の中へ入つて行きました。中風ちうふうに當つた半病人ですが、末期まつごの苦しみはさすがに物凄く、物馴れた平次も思はず顏をそむけます。死人のくびに卷いたのは、皮肉なことに、同じ部屋に居眠して居たお村の赤い細紐ほそひもで、蒲團のすその方には、立派なぬひつぶしの紙入れが一つ落ちて居ります。
 拾ひ上げて見ると、中には小粒が少々と、鼻紙だけ。
「この紙入れは誰のでせう」
 平次がそれを持つて部屋から出ると、
「あツ」
 一目、番頭の祿兵衞が飛上がりました。雇人達やとひにんは顏を見合せるばかり、口を利くものもありません。
「番頭さんが二三日前にくしなすつた紙入れといふのは、それぢや御座いませんか」
 とお品。
「え、そ、さうですよ。何うして一昨日をとゝひなくなつた私の紙入れが、そんな所に落ちて居たんでせう」
 祿兵衞は齒の根も合ひません。
「番頭さん、中を改めて下さい。中味に變りはありませんか」
 と平次。
「――」
 祿兵衞は默つて紙入れを取上げましたが、一通り中をあらためて、
「紙一枚、小粒一つ無くなつては居ません」
 まじ/\と頸をひねつて居ります。
「番頭さん、心配には及びません。これはお前さんを罪に落さうとするですよ。幸ひこの紙入れが三日前になくなつたことは、大勢の人が知つて居るやうだし、それに――」
 平次は部屋に入ると、主人の死體の頸に卷付いた赤い紐を解いて持つて來ました。
「この紐で殺したやうには見せかけて居るが、それも細工で、こんな細い紐で、人間一人殺せるわけはありません。――この通り」
 平次は兩手へ紐をからんで引くと、小布こぎれを縫つてこしらへた赤い紐は何の苦もなく、燈芯とうしんのやうにフツと切れます。
「あツ」
 驚き騷ぐ人々を尻目に、平次はもう一度主人の死體のところへ歸つて行きました。
「御覽の通り、頸には、絞め殺した時のひもあとが付いて居るが、それで見ると、刀のか前掛の紐か、――兎に角、恐ろしく丈夫な一風み方の變つた眞田紐さなだひもだ」
「――」
 皆んなはもう一度顏を見合せました。
「番頭さん、濟みませんが、この部屋の隣は納戸になつて居るやうだが、戸の隙間から變なものが見えますよ、拾つて來て下さい」
 番頭の祿兵衞は默つて隣の納戸へ入りましたが、不氣味さうに手へブラ下げて氣たのは、焦茶色こげちやいろの丈夫な眞田紐。いや丈夫な眞田紐の付いた手代の使ふ前掛です。
「あツ、世之次郎さんのだ」
 誰かがたうとう口を滑らせました。
「八」
 平次が一つ目くばせすると、ガラツ八は飛鳥ひてうの如く、世之次郎の背後うしろへ廻りました。
「野郎ツ、騷ぐな」
 手頸にからむのは、蛇のやうな捕繩とりなは
「あツ、俺は、俺は何にも知らない」
 世之次郎は、あまりのことに、驚くことも忘れたやうに、口を開いて茫然ぼうぜんと立ち盡しました。
「紙入れや赤い紐の細工は器用だが、さすがに叔父を殺した自分の前掛を持つて行くほどきもが太くなかつたんだな。罰當ばちあたりな奴だ」
 妙な破目になつた祿兵衞は、主人筋の世之次郎へ、つかみかゝりさうな樣子を見せます。あまりのことに腹を据ゑ兼ねたのでせう。

 それから十日目。石井一家の騷ぎに關係した者は全部八丁堀の吟味與力ぎんみよりき、笹野新三郎の役宅に呼出されました。
 本當の調べは、町奉行でやることにはなつて居りますが、大岡越前守とか、遠山左衞門のじようとかいふ、後世までも聞えた名奉行は兎も角。大抵のお白洲しらすでは、筋書通りそれを繰り返して口書くちがき拇印ぼいんを取り、最後の言ひ渡しをするだけであつたのです。
 幕末の奉行などは自分で罪人を調べたものはほとんどなく、與力も調べの出來るのは餘程の傑物えらもので、大抵は岡つ引きが引つ叩き乍ら調べ、お白洲は型だけのものであつたとさへ言はれて居ります。
 この日、笹野新三郎の前に呼出されたのは、石井の支配人祿兵衞、三右衞門のをひ世之次郎、これは傅馬町の假牢かりらうから伴れて來た繩付きのまゝ、それに養ひ娘のお縫、勘當されて居た伜の三之助、下女のお村、それに錢形の平次と、八五郎のガラツ八と、利助の娘のお品がくははりました。
「平次、お前の望み通り、此處へ皆な集めたが、一體何を訊かうと言ふのだ」
 笹野新三郎、何か期待するやうな調子で、微笑を浮べながら一同を見廻しました。
「へエ、この石井三右衞門一家の騷動は、ひどく手古摺てこずらせましたが、やうやく目鼻が付きました。順序を立てて申上げると明神裏でお町を殺したのは、あれは世之次郎では御座いません」
「何?」
 新三郎も少し豫想外の樣子です。
「あの時世之次郎は、錢湯へ行つたやうな顏をして、町内の小唄の師匠のところへ行つて、黄色い聲を張り上げて居たことは、大勢の證人があつてたしかで御座います」
「フーム」
「それに、死骸のそばに落ちて居た剃刀かみそりは、一度血を拭いて、改めて思ひ付いて捨てたもので、あれは、餘程惡賢わるがしこい奴のやつたことで御座います」
「――」
「お縫でないことは、わざ/\自分の剃刀を捨てて來たのでも解ります。第一お縫は、お町と仲が惡かつたさうで、背後うしろから肩へ手を掛けて、馴々なれ/\しく剃刀をのどへ廻されるまで默つて居る筈もなく、それに、下手人が女でないことは、八五郎が見て知つて居ります。背の高い低いなどは、ほんの一寸の間なら何うにでも誤魔化ごまかせます」
「成程」
「それから、主人の三右衞門を殺したのも、世之次郎では御座いません」
「えツ」
 平次の話の途方もなさに、新三郎始め、庭先に列んだ一同思はず聲を出しました。
「三日も前から、番頭の紙入かみいれを盜んで、それを證據にしたと言ふのは、少し細工が過ぎます。紙入れを盜めば騷がれるに決つて居りますから、そんなものは證據になりません」
「――」
「それほど細工の上手な世之次郎なら、何もわざ/\自分の前掛まへかけで、叔父を絞め殺すやうなことをする迄もない筈です。紐や繩は何處にでもあります。――その眞田紐さなだひもを、覗けば見えるやうな隣の部屋へはふり込んで、燈芯のやうに弱い赤い紐なんかを卷いて置くのも細工が過ぎて本當らしくありません」
「成程、理窟だな」
 新三郎もすつかり引入れられました。
「私がお品さんをあの家へ入れて置いたのは、下手人がお品さんに見せようと思つて、何んな細工をするか、それが知りたかつたのです」
「それだけ解つて居るなら、どうしてむじつの世之次郎を縛つて、眞實ほんたう下手人げしゆにんを逃して置いたのだ」
 笹野新三郎は、改めて平次に訊ねました。
「それは旦那、下手人に油斷させて、尻尾を出させたかつたからで御座います。さうでもしなければ、私の腹の中で見當を付けて居るだけで一つも證據といふものがありません。世之次郎には氣の毒ですが、叔父の敵討の爲に苦勞したと思つて、あきらめて貰ふより外に仕方がありません」
「その證據は何だ、下手人は誰だ」
「もう申上げる迄もないやうです。あの顏を御覽下さい」
 ハツと思ふと、平次に指された支配人の祿兵衞ろくべゑは、立ち上がつて庭口へ逃げようとして居るのでした。
「逃げるのか、野郎ツ」
 飛付いたガラツ八、力だけは二人前もあります。あツといふ間に祿兵衞を叩き伏せ、犇々ひし/\と縛り上げて了ひました。
「あの野郎です。店から現金げんきんで一萬兩も持出して、妾を二人もかこつて居りました。三右衞門が丈夫になつて、帳尻ちやうじりを見たら一たまりもありません。それに、三右衞門が死んで、世之次郎を罪に落せば、總領の三之助は人別を拔かれて居りますから、あとはお縫一人、あの大身代が支配人の自由になります。朱い手筐てばこの證文を、三之助へやるまいとしたのも、つまりは行々ゆく/\自分のものにするつもりだつたので御座います」
 平次の説明は疑ひをはさむ餘地もありません。
「さうか、太い奴があるものだな。直ぐ口書くちがきを取つて、奉行所へ引いて行け。皆の者、御苦勞であつた。別して世之次郎は氣の毒だ。三之助が跡目あとめ相續濟んだ上は、よく世話をしてやるがいゝ」
 笹野新三郎はかう言つて立上がりました。平次には別に褒め言葉もありませんが、平次に取つて、その優しい眼が、雄辯に手柄を讃美さんびして居るので充分だつたでせう。





底本:「錢形平次捕物全集第十三卷 焔の舞」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年9月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1932(昭和7)年11月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年5月25日作成
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