錢形平次捕物控

鉄砲汁

野村胡堂





「親分、近頃金の要るやうなことはありませんか」
 押詰つたある日、錢形平次のところへノツソリとやつて來たガラツ八の八五郎が、いきなり長いあごでながら、こんなことを言ふのです。
「何だと? 八」
 平次は自分の耳を疑ふやうな調子で、長火鉢ながひばちに埋めた顏をあげました。
「へツ/\、へツ/\、さう改まつて訊かれると極りが惡いが、實はね、親分。思ひも寄らぬ大金が轉がり込んだんで」
「大きな事を言やがる。お上の御用をうけたまはる者が、手弄てなぐさみなどしちやならねえと、あれほどやかましく言つて居るぢやないか」
博奕ばくちなんかで儲けた金ぢやありませんよ、飛んでもない」
 ガラツ八はくちとがらせて、大きく手を振りました。
「それぢや、富籤とみくじか、無盡か、――まさか拾つたんぢやあるまいな」
「そんな氣のきかない金ぢやありませんよ、全く商法でまうけたんで」
「何? 商法? 手前てめえがかい」
「馬鹿にしちやいけません、かう見えても算盤そろばんの方は大したもので。ね、親分、安い地所でもありませんか、少し買つて置いてもいゝが――」
「馬鹿野郎、二朱や一分で江戸の地所が買へると思つてゐるのか」
「二朱や一分なら、わざ/\親分の耳には入れませんよ。大晦日おほみそかが近いから、少しは親分も喜ばしてやりてえ――と」
「何だと?」
「怒つちやいけませんよ、ね、親分。錢形の親分はまじりつけのねえ江戸つ子だ。不斷は滅法威勢がいゝが、宵越よひごしの錢を待ちつけねえ氣前きめえだから、暮が近くなると、カラだらしがねえ。さぞ今頃は青息吐息あをいきといきで――」
「止さねえか、八。言ひ當てられて向つ腹を立てるわけぢやねえが、人のつらをマジマジと見乍ら、何てエ言ひ草だ」
 平次も呆氣あつけに取られて、腹を立てる張合ひもありません。それほど、ガラツ八の調子は、ヌケヌケとして居りました。
「箱根ぢや穴のあいたのを用立てたが、今日のはピカリと來ますぜ。親分、此通り」
 さう言ひ乍らガラツ八は、内懷から拔いた野暮やぼ財布さいふぎやくにしごくと、中からゾロリと出たのは、小判が七八枚に、小粒、青錢取交ぜてつかみほど。
「野郎、何處からこれを持つて來やがつた」
 平次は矢庭に中腰になると、長火鉢越しに、ガラツ八の胸倉むなぐらをギユーツと押へたのです。
「あ、親分、苦しい。手荒なことをしちやいけねえ」
「何をツ、此野郎ツ。何處で盜んで來やがつた、眞つ直ぐ白状しやがれツ」
 平次のこぶしには、半分冗談にしても、グイグイと力が入ります。
「盜んだは情けねえ、親分、こいつは間違ひもなく商法で儲けた金ですよ」
 ガラツ八は大袈裟おほげさに後手を突いて、斯う辯解を續けました。
「岡つ引に商法があつてたまるものか。盜んだんでなきや、何處から持つて來た。さア言へツ」
「言ふよ、言ひますよ、――言はなくてうするものですか、――おう痛てえ、喉佛のどぼとけがピリピリするぢやありませんか」
「喉佛の二つや三つローズにしたつて構ふことはねえ。さア言へ」
「驚いたなア、持ちつけねえ金を持つと、喉佛のどぼとけたゝるとは知らなかつたよ」
「無駄はもう澤山だ。金を何處から出した、それを早くブチまけてしまへ」
 平次が躍起やくきとなるのも無理のないことでした。正直と馬鹿力を取得のガラツ八が、萬々一、その頃の岡つ引の習慣しふくわんに引摺り込まれて、うつかり役得でもかせぐ氣になつたら、貧乏と片意地を賣物にして來た、平次の顏は一ぺんにつぶれることでせう。
「親分、心配するのも無理はねえが、これは筋の惡い金ぢやありません。實は親分も知つて居なさるあつしの赤鰯あかいわしを、望み手があつて賣つたんで」
「何? 手前てめえの脇差を賣つた?」
「へエ――去年の暮、柳原の古道具屋を冷かしそこねて買つた、あの脇差が、十兩になるとは思はなかつたでせう」
 ガラツ八の鼻はうごめせます。
「手前が二分で買つて、ひどくくさつて居たあの脇差が、十兩になつたといふのか」
「その通りですよ、親分。あの脇差を見た人があつて、恐ろしくびて居る上に無銘むめいだが、彦四郎貞宗さだむねに間違ひはない、若し間違ひだつたら、俺のそんといふことにして、現金十兩で買ふがどうだ、といふ話でさ」
「フーム」
「本當に貞宗だつた日にや、十兩で賣つちや大變にそんだから、一日待つて貰つて、知り合ひの刀屋を二三軒當つて見ると、――飛んでもない、そいつは備前物びぜんもので、彦四郎でも藤四郎でもある筈はねえ。その上日本一の大なまくらだから、なべの尻を引つ掻くより外に役に立たない代物しろものだ。望み手があるなら、こしらへごと一兩で賣つても大儲おほまうけだ――と言ふんで、思ひ切つて手離しましたよ、親分」
あきれ返つた野郎だ。手前はその刀屋の鑑定めきゝを、相手に言はなかつたのか」
「言ひましたよ。念入りに輪をかけて言つてやつたが、相手は少しも驚かねえ――彦四郎貞宗でなきや、師匠の五郎入道正宗だらう。折角見込んだ品だから十兩が二十兩でも買つて置きてえとうだ」
「――」
「ね、親分。こんな正直な商法はないでせう」
「――」
「生れて初めて入つた十兩の金だ。一人でつかつちや冥利みやうりが惡いから、取あへず親分に見て貰ふつもりで持つて來ましたよ。ね、何んかう役に立てるやうな口はありませんか、親分、差當り拂ふ當がなかつたら、地所を買ふとか、家を建てるとか――」
 ガラツ八はこと/″\くいゝ心持でした。七八枚の小判を疊の上へ並べたり、重ねたり、チヤリンと叩いて見たりするのです。
「止してくれ、俺はその音を聞くと蟲が起きるよ」
「へツ、負惜まけをしみが強いね、親分」
「馬鹿な野郎だ。八兩や十兩で、江戸の眞ん中に家が建つ氣で居やがる」
「家なんか建たなくたつて構やしませんよ。これ丈けありや大福餅だいふくもちを買つても、隨分出がありますぜ」
「呆れて物が言へねえ、――だがな、八。見す/\大ナマクラと知つて、手前の脇差を十兩で買ふのは少し變ぢやないか」
「變ぢやありませんよ。氣に入りや、跛馬びつこうまだつて買ひますよ」
「待つてくれ、――こいつは少し臭いぞ」
 錢形平次はもう一度長火鉢に顏を埋めました。暮のやりくりと違つて、こいつは何うやら思案の仕甲斐がありさうです。それを眞似するともなく、八五郎も高々と腕をこまぬきました。
 疊の上に並べた七八枚の小判も、何となく引込みのつかない姿です。


「八、近頃何か變なことがありやしなかつたか」
 平次は改めてかう訊きました。
「變な事?」
たとへば、手前が嗅ぎ出した犯人ほしとか、に落ちないと思つた事とか――」
「ありませんよ」
「何かの證據を握るとか――」
「なんにも握りやしませんよ」
 ガラツ八はあまりにも屈託くつたくのない顏です。
「そんな筈はないが、――待てよ、その、手前から脇差を買つたのは誰だい」
「濱町の吉三郎、――遊び人で」
「吉三郎なら知つてゐる。賭事かけごともしない樣子だが、妙に金廻りのいゝ野郎だ、――その吉三郎と何處で知合になつた」
髮結床かみゆひどこで、――あつしと丁度互先たがひせんといふですよ」
「手前、濱町まで顏をあたりに行くのかい」
「いえ、吉三郎の野郎が町内の錨床いかりどこまで來るんで、――あすこの親方の剃刀かみそりがたまらねえつて」
「錨床の親方は、まげはうまいが、剃刀は下手へたぢやないか」
「あつしもさう思ふんですがね」
「ところで、吉三郎は、何か手前に頼みはしなかつたか」
「いゝえ」
「少し變だな、八。脇差わきざしを賣つた時、何か言つた筈だと思ふが――」
 平次の問ひは次第に核心かくしんに觸れて行きます。
「言ひましたよ、あつしの煙草入れの根附ねつけを見て、そいつは氣に入つたから、脇差と一緒にゆづつてくれ――一つて」
「あの牙彫けぼりの――」
「どうせ濱町河岸で拾つた品だから、脇差へおまけにつけましたよ」
「濱町で拾つた?」
「へエ――」
 ガラツ八の話は少し變つて居ります。――『一と月ばかり前、夜釣よづりに行つた歸り、白々明けの濱町河岸に船を着けたことがありました。その時自分の船より一と足先に岸へぎ寄せた傳馬が、炭俵と米俵を二十五六べうをかへ揚げて、サツサと大川を漕ぎ戻つたのを見てゐると、足元の石垣の上に、牙彫けぼりの圓いものが一つ、危ふく水に落ちさうに引つ掛つて居た』――といふのです。
 拾つて見ると、丁度手頃な根附で、眞中に穴まであいて居りますが、彫刻てうこくは怪奇を極めて、唐草模樣からくさもやうと鬼のやうなちゞれの人間の首と、それから得體の知れない髯文字ひげもじがベタ一面につてあつたのを、暢氣のんきなガラツ八は、自分の煙草入れに附けて、そのまゝ腰にはさんで歩いて居たのでした。
「何だ、拾つたものをそのまゝ腰へブラ下げて居たのかい」
 平次も少しあきれましたが、今に始めぬガラツ八の暢氣のんきさが、腹を立てるにしても、少し馬鹿馬鹿しかつたのです。
「どうせ馬の骨か牛の骨に細工をしたものですよ。吉三郎は三拜九拜して持つて行つたが、あんなものが何かになりますか、親分」
「呆れた野郎だ」
 平次は誰へともなくう言ひました。
「こんな事が商法になるなら、江戸中の古道具屋をあさつて、安物の脇差をうんと買ひ集めようかと思ふが、どんなもので」
「いゝ加減にしないか、八。吉三郎の狙つたのは、赤鰯あかいわしぢやなくて牙彫けぼりの根附だつたかも知れないな――兎に角、十兩の金を持つて行つて、脇差と根附けを買ひ戻して來るがいゝ」
「三日も前のことですよ、親分」
「三日前だつて、三年前だつていゝぢやないか」
「十兩の金が、三日もあつしの手に無事で居るわけはないぢやありませんか」
「仕樣のねえ野郎だ、いくらつかつたんだ」
店賃たなちんと米屋酒屋の拂ひと、煙草を一つと大福餅を十六文買つて、一兩二分と六十八文」
「いやにきざみやがつたな、――お靜、一兩二分と六十八文、お前のところにないか」
 平次はお勝手の方へ聲を掛けます。
「お前さん、――そんな事を言つたつて」
 お靜の聲は口の中に消えました。差迫さしせま大晦日おほみそかひかへて此處も大世話場の眞最中だつたのです。
「氣のきかねえ事を言ふな、何のために質屋しちや暖簾のれんを掛けて置くんだ。俺の着替きがへをそつくり持つて行きや――」
「でも、あと三日で年始廻ねんしまはりぢやありませんか」
「この正月は風邪かぜを引くことにするよ」
「――」
 お靜は默つて出て行つた樣子でした。
「濟まねえ、親分」
 ガラツ八はしをれ返つて、平手で額を叩いて居ります。
「こいつはわなだつたのさ、八。これからも氣をつけることだ、――なアに、お靜のことなんか心配することがあるものか、こちとらの女房は、貧乏や十手には馴れつこだよ」
 平次はさう言つてカラカラと笑ふのでした。


「た、大變だ、親分」
「又大變の大安賣が來やがつた、――何だい、八」
 十兩にまとめた金を握つて、濱町の吉三郎のところへ驅けて行つた筈の八五郎が、半刻はんときも經たないうちに、面喰つた旋風つむじかぜのやうに舞ひ戻つて來たのでした。
「こいつは驚くぜ、親分。吉三郎が昨夜ゆうべ死んだんで」
「何?」
 平次もさすがに立ち上がりました。
「下手人は鐵砲汁てつぱうじるさ」
河豚ふぐの毒にやられたのか」
 大きな失望が、平次の顏をサツとかげらせます。
「友達が三人で河豚鍋を突つきながら、一杯やらかしてゐるまではよかつたが、その晩吉三郎が毒に中つて、七轉八倒の苦しみ、夜明け前に息を引取つたといふことですよ」
「あとの二人は何うした」
「無事だつたさうで」
「誰と誰だ」
「そいつは聞かなかつた」
「行つてみよう、八。どうも俺にはに落ちない事だらけだ」
 平時は帶を締め直して、草履ざうりを突つかけました。
「河豚で死んだと解つても――ですかい、親分」
「河豚だつていろ/\あるよ。後學のためだ、一緒に來るがいゝ」
 二人はそのまゝ、濱町の吉三郎の家へ飛んだことは言ふ迄もありません。
 吉三郎の派手な生活くらしに似ず、家は至つて地味で、贅澤ではあるが、何となく粹好いきごのみでした。附合ひがあまりなかつたものか、集まつて居るのは、ほんの近所の人達が二三人。それも平次とガラツ八の姿を見ると、妙に掛り合ひをおそれるやうに、コソコソと姿を隱してしまひます。
「飛んだことだつたな、お神さん」
「ま、錢形の親分さん。飛んだことになつてしまひました」
 女房のお由。二十五六の良い年増が、顏を擧げることさへ出來ない樣子で、さか屏風びやうぶの中に泣きくづれて居るのでした。
「昨夜の客は誰と誰だい」
 平次は形ばかりの線香をあげてから、かう靜かに訊きました。
「それが、よく、わかりません」
「はて?」
「ちよい/\見かけるお顏ですが――」
「年の頃は」
「二十七八と五十二三」
河豚ふぐは何處から買つたんだ」
「年を取つた方のお客が持つて來ました。竹の皮包みにして、――今日つたばかりのを、知合からわけて貰つて來たが、よく洗つてあるから大丈夫だ――と言つて」
「確かに三人で食つたのだね」
「それはもう間違ひもありません、大層おいしいから、私にも是非とすゝめましたが、私は河豚ふぐ雲丹うには我慢にもいけません」
「二人の客が歸つてから、毒がき始めたのか」
「え」
「河豚の殘りがあるだらう、なまでもたのでも構はねえ、チヨイと見せて貰はうか」
 平次は妙に執拗しつあうに突つ込みます。
「それが、その殘つたのを、皆んな竹の皮に包んで持つて行つてしまひました」
「吉三郎は河豚をちよい/\やるのかい」
「いえ、生れて初めてださうで、ひどく嫌がつて居りましたが、二人に笑はれて我慢に食べたやうです。でも、一とはし二た箸食ひ始めると、――こりや飛んだうまいや、鮟鱇あんかうそつくりだ――そんな事を言つてました」
「鮟鱇そつくりと言つたのかい」
「それから酒の味がどうも變だ、舌のせゐかしらとも言つてゐました」
 女房のお由は進まない樣子乍ら、問はるゝまゝに説明しました。
「三人で一つなべを突ついたのだらうな」
「え、それなのに、あたつたのが一人は情けないぢやありませんか」
「二人が無事とどうしてわかつた」
「何處で噂を聞いたか、今朝お二人はあわてて飛んで來ました。御近所の衆も御存じですが、何か宿が預かつたものがあるとか言つて、佛樣の懷までかき廻して行きましたが。――」
「それが見付かつたのかい」
「そこまでは解りません」
 話が次第にこんがらかつて、そして微妙になつて行きます。
「おや? この脇差ですよ、親分」
 ガラツ八は死骸の枕元に置いてあつた、魔除まよけの脇差を取上げました。言ふまでもなく三日前にガラツ八が吉三郎に賣つた、十兩の赤鰯丸あかいわしまるです。
「そいつには大した用事がなかつたんだよ。ところでお神さん、毒は何どきほど經つて利き始めたんだ」
「鍋が空になると、二人のお客はすぐ歸りました。それを送つて出ると、上りかまちで引ツくり返つた切り――」
「矢張り身體がしびれたんだね」
 お由の聲が涙に途切れるのを、平次は慰め顏に言ふのでした。
「いえ、痺れもどうもしません。急に腹の中へ火が付いたやうだと言つて、目も當てられない苦しみをしましたが、到頭黒血をいて夜明け前に息を引取りました」
「醫者は?」
「町内の玄道げんだうさんにてもらひましたが、何の役にも立ちません」
 お由はこれだけ言ふのが精一杯でした。平次の問ひが途切れると、吉三郎の死骸に獅噛しがみつくやうに、時々は聲を立てて泣いて居ります。


「親分、河豚汁ふぐじるぢや十手捕繩にも及ばないぢやありませんか」
 吉三郎の家を出ると、ガラツ八はもう天下泰平たいへいの顏になつてゐるのでした。
「手前はさう思ふのか」
「だつて親分」
「だから幾年經つても、大物はがらねえのさ」
 錢形平次は八五郎の鈍骨どんこつあはれむともなく、かう言ふのでした。
「へエ――、すると、何か變なことでもあるんで?」
「其邊に居る町内の人達に、今朝吉三郎の家へ來た、二人連れの人相を訊くがいゝ。その邊が手繰たぐりどころだ」
「へエ――」
 ガラツ八は吉三郎の家の裏口へ廻りましたが、やがて、狐につまゝれたやうな顏をして戻つて來ました。
「どうした、八?」
「變ですぜ、親分。今朝此處へやつて來て、佛樣の懷までかき廻して行つたのは、三十前後のすごい年増と、四十恰好の浪人者らしい男ださうですよ」
「それ見るがいゝ」
「吉三郎夫妻とは餘つ程眤懇ぢつこんの樣子で、時々此家へ來るさうですよ」
「所、名前は?」
「そいつは解らねえ、――お由を締め上げてみませうか」
「無駄だよ、止すがいゝ。それに亭主の死骸の側で手荒なことをしちや、いかに御用でも寢醒ねざめがよくねえ」
「親分は相變らず弱氣だ」
「それでいゝのさ、氣が強くて考へが淺かつた日にや、岡つ引は罪ばかり作るよ」
 平次はそんな事を言ひながら、町内の本道、町野玄道をたづねました。
 吉三郎毒死の顛末てんまつ細々こま/″\と訊くと、
「親分、あれはどうもに落ちないよ、河豚ふぐの毒ばかりではなかつたやうだ」
「すると、何か外の毒でも盛られた樣子で?」
「いや、さう言ふわけぢやない。第一あんな激しい毒藥は、江戸中の生藥屋きぐすりやを搜したつてない――南蠻物なんばんものなら知らないが――」
「南蠻物?」
「矢張り河豚にして置く外はあるまい。三人で食つて一人しかあたらないといふのは、河豚の外にはないことだ。なべの中に外の毒が入つてゐたなら、三人が三人ともやられる筈だ」
 玄道は大きな坊主頭を振るばかりです。
 平次とガラツ八はもう一度吉三郎の家へ戻りました。が、お由はもう白い眼を見せるだけで、二人の問ひにもろくに答へてはくれず、親類縁者も、友達もない樣子で、話を手ぐり出す工夫もありません。
「お神さん、もう一つ二つ訊きたいが、お前さんところの宗旨しうしは何だえ」
 平次はつかぬ事をきくのでした。
門徒もんとですよ、今お寺樣が來ますから、お宗旨の事ならそつちへ訊いて下さい」
 少し劍もほろゝです。
「江戸には親類もないんだね」
「あつたつて遠い身寄は音信不通で、附合つちやくれません。尤も長崎には亭主やどの弟が居ますが、お葬式とむらひに間に合ふわけはなし」
「そいつは氣の毒だ」
 そんな事を言ひ乍ら、家の中を念入りに見ましたが、ひどく裕福ゆうふくらしいといふ外には、何の變つたところもなかつたのです。
「吉三郎は遊び人で通つてゐたが、勝負事は好きぢやなかつたさうだ。立入つたことを訊くが、世過ぎは何でやつて居たんだ」
 平次の問ひはかなり突つ込みます。が、
「私にも解りませんよ。金の成る木でも持つて居たんでせう」
 お由は空嘯そらうそぶいて相手にしさうもありません。
「もう一つ、三日前に八五郎が、この脇差と牙彫けぼり根附ねつけを一つ、十兩で吉三郎に賣つたさうだ。少しわけがあつて、それを返して貰ひたいんだが」
 平次は十兩の金をお由の前に押しやつて、相手の出やうを待ちました。
「勝手にその脇差を持つて行つて下さい。もつとも牙彫の根附なんかは知りませんよ」
「確かに持つてゐた筈だが――」
「親分も、佛樣の懷が見たいんでせう。勝手にするがいゝ、馬鹿々々しい」
 お由は氣が立つて居るらしく、かう言つてプイと座を立ちました。
「見ませうか、親分」
 立ちかゝる八五郎。
「無駄だらう、今朝拔かれてしまつたよ、――赤鰯丸あかいわしまるなんか持つて行つても仕樣があるまい、――十兩の金さへ返しや氣が濟む。さア歸らうか、八」
 平次はもう何の未練氣みれんげもなく立ち上がるのでした。


 その日半日、平次は何處ともなく飛んで行つてしまひました。ガラツ八は吉三郎の家を宵まで見張りましたが、町内の百萬遍まんべんの講中が來たのと、お通夜つやの小坊主が、お義理だけのきやうをあげた外には、何の變りもありません。
 フラリと平次の家へ來たのは亥刻よる少し過ぎ、食はず飮まずで見張つてゐてひどくつかれて居ります。
「親分は?」
「まだ戻りませんよ。入つて待つてゐて下さいな、八さん」
 お靜のわだかまりない調子に、八五郎はいつものやうにヌツと入つて長火鉢の前に頬杖ほゝづゑを突きました。
「何處へ廻つたらうなア」
「お支度は、八さん」
 お靜はそれに構はず、腹の減つてゐるらしい八五郎の顏を、少し遠くから鑑定かんていして居ります。
「親分が歸つてから御馳走になりませう」
 ガラツ八にも矢張り遠慮はあつたのです。
「それぢや、せめて一本けませう」
「へエ、――變なことがあつたもので――」
「まア、八さん、たまにはお酒位はありますよ。――ツイ先刻、八丁堀の旦那から、心祝ひがあるからと、わざ/\一升屆けて下さいましたよ」
「そいつは豪儀だ、――さすがに笹野の旦那は氣が付くぜ、へツ、へツ」
 八五郎はすつかり相好をくづしてしまひます。
 お靜はその間に、銅壺どうこに突つ込んだ徳利を拭いて、八五郎の前にゑた膳の上へ、そつとせてやりました。元は水茶屋に奉公してゐたお靜ですが、さすがに夫の留守に、子分の酒のしやくまでしてやるのをはゞかつたのでせう。
「濟みません」
「なアに、此方が勝手なんで、有難てえな。ト、ト、ト、散ります散りますと來やがる。へツ、へツ、良い色をしてゐるぜ」
 グツとのどを鳴らし乍ら、猪口ちよくの手を胸のあたりまで持つて行つた八五郎。
「待ちな、八」
 ガラリと格子が開きました。錢形平次が歸つて來たのです。さかづきを膳へ置くかと思つた八五郎の手は、意地汚くそのまゝくちへ――
「あツ」
 八五郎の手をハタと打つたものがあります。盃は後ろに飛んで、パツと胸から膝へ飛散る酒。平次の煙草入たばこいれが飛んで來たのでした。
「親分」
 八五郎の聲にもいかりがあります。
「馬鹿ツ、そいつをむと命がねえぞ」
「えツ」
「今路地の外までけえつて來ると、變な野郎がウワウロして居るから、樣子を見てゐるうちに、お靜の話を聞いてしまつたよ、――八丁堀の旦那が、心祝ひに酒を下すつたなんて、そいつは大嘘おほうそだ。俺はつい先刻まで、八丁堀に居たんだから、お酒を下さるなら、そんなお話の出ないわけはねえ。心祝ひどころか、笹野の旦那は明日は先代樣の法要ほふえうで、牛込のお寺まで行かなきやならないと言つて居なすつたよ」
 さう言ひながら平次は、ほこりも叩かずに入り込んで、默つたまゝお靜の差出すたるを受取つて眺めました。
「親分、そ、そいつは本當ですかえ」
「嘘だつた日にや、俺は八に申譯がねえことになる。これを見るがいゝ、樽は町内の酒屋のだ。八丁堀から屆いたのではない證據は、この※(ます記号、1-2-23)ますさだしるしで判るだらう」
「――」
 八五郎もさう言はれると、口もきけません。
「危いところだ、八。そいつを猪口ちよく呑んだだけで、手前てめえは俺の身代りに、血へどをいて死ぬところよ」
「――」
「だが、しやくにさはる野郎ぢやないか。この平次をどぜうと間違へやがつて」
「誰がこんな事をしたんで、親分」
 八五郎はやうやく人心地がつきました。
「吉三郎を殺した奴だよ」
「ぢや河豚ふぐ?」
「馬鹿、河豚が酒を買つて、屆けるかよ」
「さア解らねえ」
「俺も解らねえが、こいつは大變な曲者だ。退治しなきや御府内の難儀、お上の御威光ごゐくわうにもかゝはる。來い、八。今晩のうちにらちをあけてやる」
「へエ――」
 八五郎は平次の劍幕に釣られて、モソモソ立上がりました。
「お靜、その酒は匂ひをいでもならねえよ。封印ふういんをして大事にしまつてけ」
「ハイ」
 言ひ捨てた平次。其足で驅け付けたのは、町内の酒屋升定ますさだでした。番頭に訊くと、
「いゝ年増でしたよ。一番良いのを一升はからせて、小僧に持たせてやりませうと言ふと、イヤ、それには及ばない、私が持つて行かなきや、親切が屆かないつて」
「その女は三十前後の――」
大店おほだなの御新造といつた風でした。頭巾をかぶつて居るので、髮形はわかりませんが」
「有難う、飛んだ手數だつた」
 平次は外へ出ると、眞つ暗な師走しはすの空を仰いで、大きく息をしました。見えざる敵のしたゝかさを改めて犇々ひし/\と感じた樣子です。


「お神さん、そいつは間違ひだぜ。吉三郎は河豚ふぐで死んだんぢやねえ、立派に毒害どくがいされたんだ」
 通夜の人數を追つ拂つて、八五郎に見張らせた平次は、吉三郎の死骸を中に、お由と膝詰め談判を始めたのでした。
「まさか、親分」
 お由は容易よういに信じさうもありません。
「證據はいくらでもある。第一、昨夜三人で食つたのは、河豚ふぐぢやない鮟鱇鍋あんかうなべだ、吉三郎が河豚を食つたことがないと言ふから、鮟鱇を持つて來て、河豚といふことにして食はせたんだ。鮟鱇鍋で死ぬ氣遣ひはないが、河豚なら隨分三人のうち一人死ぬといふことがないではない――、彼奴等は其處を狙つたんだ」
「――」
「殘つた魚を竹の皮包にして持つて歸つたのは、後で鮟鱇あんかうと判つては面白くないからだ。それから、河豚の毒なら身體がしびれる筈だが、そんな事がなくて、腹の中が燒けたゞれるやうで、血を吐いたのは南蠻渡なんばんわたりの毒藥に違ひない。玄道さんもさう言つて居る」
「――」
「毒は、吉三郎の盃の中に入つて居たんだ。多分、ちよいと立つた時か何か、投げ込まれたんだらう。――その證據は、昨夜は三人共、盃のやり取りはしなかつた筈だ」
「えツ、そ、その通りですよ。親分。いつも差したり差されたりするのが、昨夜は最初から御家人喜六の言ひ出しで、盃のやり取りなし、うんと食つて飮まうといふことにしたやうでした」
「それ見るがいゝ。お前の配偶つれあひは、その御家人喜六と、もう一人の年増に殺されたんだ。今夜は俺のところへまで毒酒を持込みやがつたよ。はふつて置くと何をやり出すか解らない」
「えツ」
「解つたか、お神さん。夫の敵を討つ氣はないのか」
「畜生ツ、さうとは知らずに、――私は亭主やどに口止めされたのを守つて、今まであの二人をかばつてばかり居ました、――敵を討つて下さい。親分さん」
 お由にも、やうやく事件の全貌ぜんばうが解つた樣子です。
「それにしても相手の素姓すじやうが解らなくちや、敵の討ちやうがない。あの女は何だい」
唐人たうじんお勇といふ大變な女ですよ」
「三人で何かやつて居た筈だが――」
「何か大仕事をしてゐるやうでしたが、私には言つてくれません」
 お由は全く何にも知らない樣子でした。
「仲間はたつた三人切りか」
「子分は二三十人ある筈です」
「ね、お神さん。佛樣のことを惡く言ふわけぢやないが、吉三郎はその御家人喜六と唐人お勇に荷擔かたんして大層なことをやつて居たんだ」
「――」
「俺の見當では、多分拔荷をあつかつて居たのだと思ふ、――拔荷といふと何でもないやうだが、こいつは大變な御法度で、露顯ろけんすると獄門にも磔刑はりつけにもなる」
「――」
「自分の榮華のために、紅毛人こうまうじんに御國のたからをやつて、厄體もない贅澤な品物を買入れ、それを三倍五倍の利潤まうけで、金持や物好きな人間に賣り付けるのだから、拔荷扱ひは商人の風上にも置けねえ、くづのやうな人間だ」
「――」
「お國の寶の大判小判おほばんこばん、あれを紅毛人は命がけで欲しがるさうだ。だから、命知らずの紅毛人は、羅紗らしやだの、ビードロだの、いろ/\の小間物だの、あまり生活の足しにならぬ物を持込んで、この國の大判小判とへて行くのだ。長崎ではお役人の目がやかましいから、九州の沖で日本の船に積換つみかへ、米や炭の荷に交ぜて、公方樣お膝元へ持つて來るに違ひない。江戸へは諸國の荷が集まるからかへつてわからない道理だ、――現にお前の夫の吉三郎を殺したのも、その拔荷ぬけにで入つた南蠻祕法なんばんひはふの毒藥だ」
 平次の舌ははのほのやうに燃えます。
「親分さん」
「私慾のためにおきてを破り、その上、人まで殺すやうな惡者は放つては置けない。お前の知つてることがあつたら皆な言つてくれ、許して置けない奴等だ」
「親分さん、皆んな申上げます」
「それは良い心掛だ。夫の罪亡ぼしにもなるだらう」
「私は何んにも知りません、――でも、船の入る時の合圖あひづだけは知つてゐます。――時々見張りをさせられましたから」
「有難い、それが解りや」
「――」
 お由は聲をひそめました。


 その晩神田の平次の家は燒けたのです。
 そればかりは、錢形平次も氣が付かなかつたのでせう。毒酒の計略けいりやくは見事に見破りましたが、それだけで油斷をしてゐると、その夜の丑刻やつ半頃、三方からあがつた火の手は、またゝく間に平次の長屋を燒き落し、近所の二三軒を半燒にして、やうやく納まつたのでした。
 風がないのと、暮の街で注意が行屆いたので、これ丈けで濟んだのは不幸中の幸ひでしたが、困つたことは、肝腎かんじんの錢形平次が、それつ切り行方不知になつてしまつたことです。
 ――錢形の親分が燒け死んだとよ――
 ――表裏の戸口は外から閉めてあつたさうだ、お靜さんが命から/\逃げ出したといふぜ――
 そんな噂が八方から飛びました。全く、燒跡やけあとにシヨンボリと立つてゐる、氣の拔けたやうなガラツ八の姿や、顏から腕へかけて、晒木綿さらしもめんで卷かれた、痛々しいお靜の樣子を見ると、錢形平次が死んだといふのも、滿更のうはさばかりではない樣子です。
 晝頃には八丁堀の與力笹野新三郎も來ました。江戸中の顏の良い御用聞も、五人十人と集まつて來て、夕方には、それが二三十人になり、打ちしめつた樣子で、ポツポとけむる灰を掻かせて居ります。
 日が暮れると、平次の遺骸を板圍いたがこひの中から運び出し戸板にせて、回向院ゑかうゐんに移しました。江戸中の名ある御用聞手先が二三十人、笹野新三郎と一緒に、それにしたがつたことは言ふ迄もありません。

 その晩の戌刻いつゝ半頃、この一行は回向院の寺内に入り、其處でお通夜が營まれたのです。
 同じ夜、子刻こゝのつ過ぎ、永代のあたりから漕ぎ上がつた傳馬が一さう、濱町河岸に來ると、船頭がともの灯を外して、十文字に二度、三度と振りました。
 師走二十九日、うるしのやうな闇の中に、その光が水を渡つて走ると、何處からともなく河岸に集まつた人數がざつと二十人ばかり。
「變な時船が入つたものだね、お首領かしら
「宵のうちに、永代から合圖があつてびつくりしたよ、――今頃入る船はない筈だが、春になつてから來るといふのが、何かの都合で早く入つたんだらう」
 さう言つた囁きが、彼方、此方にかはされます。
「それよ、板を渡してくれ」
「おい」
「酒の荷が先か米の荷が先か」
「明日は大晦日おほみそかだ、酒の荷を先にしてくれ。三河屋も、長崎屋も來て居るぞ」
 何時の間にやら、屋號を入れた提灯が二つ三つ用意されました。屈強くつきやうな若者達が、船から運び出す荷を、をかに待つて居る人足が、言葉少なに受取つて、何處ともなく姿を消します。
 船の中の荷物はザツと二十七八。その全部を運び終ると、後に殘つたのは、頭巾づきんを目深にかぶつた男と女の二人でした。
「これでよし、歸らうか」
「歸りませう」
 歩みをうつす二人の前へ――、
「御用ツ」
 ヌツと突つ立つたのは八五郎のガラツ八です。
「何?」
「御家人喜六、唐人お勇、神妙にせい」
 パツと組付いて行くガラツ八、お勇は身をかはして、トンと肩のあたりを突きました。
「ワツ」
 二三歩泳いで立直るガラツ八。その後ろから、
「えいツ」
 後家人喜六の一刀が闇をつんざくのを、
「俺が相手だ、來いツ」
 横合から飛込んだ十手が、ガツキと受止めました。
「邪魔だツ」
拔荷ぬけにの惡事、吉三郎殺しの下手人げしゆにんまで露顯ろけんをしたぞ。觀念せいツ」
「何をツ」
 御家人喜六は、お勇を後にかばつて、一刀を闇に構へます。
「御用ツ、御用ツ」
 八方から、ヒタヒタと詰めよる捕方の人數。
「えツ、寄るな/\、一人殘らず切つて捨てるぞツ」
 御家人喜六の腕は拔群ばつぐんでした。
「傳馬は此方で仕立てた僞物にせものだ、仲間は一人殘らず生捕られたぞ。神妙にお繩を頂戴せい」
 先刻、船から揚げた荷物を、一つ/\かついで行つた子分は、回向院に通夜つやをすると見せかけた、江戸中の手先に、一人殘らず後をけられ、落着く先で縛られたとは、御家人喜六もまだ知らなかつたでせう。
「えツ、其方共にしばられる喜六ではない、退け/\」
 サツと身をかへすと、眼にも止まらぬ早業で、早くも二三人の捕方は淺傷あさでを負はされた樣子。
「油斷するなツ」
 後ろから激勵の聲を掛けたのは笹野新三郎です。
あかりだツ」
 誰やらの聲に應じて、何處に隱してあつたか、十幾つの御用の提灯が、一度にパツと二人の曲者を照します。
「あつしが行きませう。この野郎には家を燒かれたうらみがあります」
 パツと飛出した美丈夫。
「平次だ、平次だ」
 捕物陣は二つに割れて、その道を開きました。
「生きてゐたのか平次、命冥加いのちみやうがな奴だ」
 にんがりする御家人喜六、右手のやいばは、油斷なく灯にギラリとうねります。
「手前のすることは一々卑怯ひけふだ、我慢のならねえ野郎だ」
 さう言ふ口をふさぐやうに、喜六の刄はサツと伸びます。
「おつと危ねえ、――これでも食やがれ」
 平次の右手ががると、夜風をつて錢が一枚、御家人喜六のくちへ――。
「己れツ」
 僅かに刄の平で受けましたが、二枚目はしたゝかに頬骨へ、三枚目は額へ、――眼へ――。
「野郎ツ」
 ひるむ後ろから、無手むずとガラツ八が組付いて居たのです。
「危ねえ、八」
 錢形平次は驚いて飛込みました。喜六の後に居る唐人お勇は、匕首あひくちを拔いて、ガラツ八の脇腹へサツと突いて出たのです。
 平次は危ふくそれを突飛ばすと、お勇の匕首は飛龍ひりうの如く平次の胸へ飛んで來たのでした。それをかはして、
「女、いゝ加減にしろツ」
 飛付く平次。その手を拂つてお勇の身體は、大川の寒水へ、水音高く飛込んでしまひました。
        ×      ×      ×
「變な捕物だつたね、親分」
 その歸り路、柳原土手でガラツ八はさそひかけました。
「脇差を十兩に賣つたのが始まりさ。手前てめえが感のいゝ人間で、吉三郎の心持を讀むと、こいつは危ないことだつたよ」
 平次は面白さうです。
「へエ――」
「まだ判らねえのか、――手前に拔荷ぬけにを揚げる現場を見られたから、大なまくらを十兩で買つてな、手前てめえの御機嫌を取つたのさ、――見て見ぬ振りをしてくれといふ謎さ」
「なアーる」
「今頃感心する奴があるものか、十兩の元手を唯取られたやうなものだ」
「へエ――」
「あの牙彫けぼり根附ねつけは、多令拔荷を受取る手形のやうなものだらう。吉三郎は仲間では三下さんしただが、あの牙彫の手形を手前のところから見付けて持つて行くと、急に頭領かしらの株を狙つて、拔荷の大儲おほまうけを一人占めにしようといふ大望を起したのさ」
「――」
「それと氣の付いた御家人喜六と唐人お勇が、吉三郎如きに大事の手形を取られちやかなはないから、鮟鱇あんかう河豚ふぐと言つて食はせ、實は毒酒で殺して死骸から牙彫けばりの手形を拔いたのだよ」
「さう繪解きをして貰ふと、さうでなかつたら嘘見たいで、へエ――」
 ガラツ八はまだ長いあごを撫でて居ります。
「だが、自分達の利潤まうけのために、お上の御法を破る奴は憎いね。その上仲間を殺したり、――俺の家まで燒いたり」
「さう言へば、親分は何處へ行きなさるつもりで――」
「お靜は當分里のお袋に預けたよ。――俺はな、八。當分、八五郎の家に居候ゐさふらふときめたよ」
「そいつは有難てえ。親分を居候に置いたとあれば、あつしも肩身が廣い」
「ハツハツハツ、ハツハツ」
 柳原土手の夜は白みかけて居りました。大晦日おほみそかの江戸の街は、一瞬轉毎しゆんてんごとに、幾百人かづつ最後の足掻きの坩堝るつぼの中に、眼をさまさして行くのでせう。





底本:「錢形平次捕物全集第十三卷 焔の舞」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年9月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1938(昭和13)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年5月25日作成
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