錢形平次捕物控

お篠姉妹

野村胡堂





 話はガラツ八の八五郎から始まります。
「あら親分」
「――」
「八五郎親分」
 素晴らしい次高音メツオ・ソプラノを浴びせられて、八五郎は悠揚いうやうとして足を止めました。意氣な單衣ひとへを七三に端折つて、懷中ふところの十手は少しばかり突つ張りますが、夕風に胸毛むなげを吹かせた男前は、我ながら路地のドブ板を、橋がかりに見たてたい位のものです。
「俺かい」
 振り返るとパツと咲いたやうな美女が一人、嫣然えんぜんとして八五郎の鼻を迎へました。
「八五郎親分は、江戸にたつた一人ぢやありませんか」
「お前は誰だい」
「隨分ねエ」
 女はちよいと打つ眞似をしました。見てくれは二十二三ですが、もう少しヒネてゐるかもわかりません。自棄やけ櫛卷くしまきにした多い毛にも、わざと白粉おしろいを嫌つた眞珠色の素顏にも、野暮を賣物にした木綿の單衣ひとへにも、つゝみ切れない魅力みりよくが、夕映ゆふばえと一緒に街中に擴がるやうな女でした。
「見たやうな顏だが、どうも思ひ出せねえ。名乘つて見な」
「まア、大層なせりふねえ、――遠からん者は音にも聞け、と言ひたいけれど、實はそんな大袈裟おほげさなんぢやありませんよ、――兩國のしのをお忘れになつて、八五郎親分」
 女は少しばかりしなを作つて見せます。
「何だ、水茶屋のお篠か。白粉おしろいツ氣が無くなるから、お見それ申すぢやないか」
「まア、私、そんなに厚塗あつぬりだつたかしら?」
 お篠はそんな事を言ひ乍ら、自分の頬へ一寸觸つて見せたりするのです。笑ふと八重齒が少し見えて、滅法可愛らしくなるくせに、眞面目な顏をすると、きつとした凄味が拔身のやうに人に迫るたちの女でした。
赤前垂あかまへだれを取拂ふと、すつかり女が變るな。一年近く見えないが、身でも固めたのかい」
「飛んでもない、私なんかを拾つてくれ手があるものですか」
「さうぢやあるめえ、事と次第ぢや、俺も拾ひ手になりてえ位のものだ」
「まア、親分」
 お篠の手がまた大きく夕空にを描くのです。
「ところで何か用事があるのかい」
「大ありよ、親分」
「押かけ女房の口なら御免だが、他の事なら大概てえげえ相談に乘つてやるよ。ことに金のことなどと來た日にや――」
生憎あいにくねえ。親分、金は小判といふものをうんと持つてゐるけれど、亭主になり手がなくて困つて居るところなの」
「ふざけちやいけねえ」
「ね、八五郎親分。掛合噺かけあひばなしは又來年の春にでもゆつくり伺ふとして、本當に眞劍に聽いて下さらない?」
「大層またあらたまりやがつたな」
「私本當に困つたことがあるのよ、八五郎親分」
「あんまり困つたやうな顏ぢやないぜ、何がどうしたんだ」
 ガラツ八も引き込まれるともなく、少しばかり眞面目になりました。
「親分は私の妹を御存じねエ」
「知つてるとも、お秋とか言つたね。お前よりは二つ三つ若くて、お前よりも綺麗だつた――」
「まア、御挨拶ねエ」
「その妹がどうしたんだ」
「兩國の水茶屋を仕舞しまつた時の借りがあつたので、私と別々に奉公したんです。私は――今は止したけれど淺草の料理屋へ、妹は堅氣がいゝと言ふんで、湯島の山名屋五左衞門樣へ――」
「そいつは料簡が惡かつたな、山名屋五左衞門は、界隈かいわいに知らぬ者のないくせの惡い男だ」
「それも後で聞きました。驚いて妹を取戻しに行きましたが、どうしても返しちやくれません」
「給料の前借でもあるのか」
「そんなものはありやしません」
「證文を入れるとか、受人をたてるとか、何か形の殘るものが向うへ入つて居るんぢやないか」
「知つた同士で話をつけ、何一つ向うへは入つて居ません」
「それぢや戻せないことはあるまい」
 ガラツ八は一向手輕なことのやうに考へて居るのでした。
「女一人行つたところで、馬鹿にされて戻されるのが精々です。今までにもう、三度も追ひ歸されました」
「フーム」
「今つれて歸らなきや、妹のお秋にどんな間違ひがあるかも判りません。獨り者の山名屋はお秋をめかけにする氣で居るんです。あの娘には、まだ祝言こそしないが、決つた許婚いひなづけがあるのも承知の上で」
「そいつは氣の毒だが、本人が歸る氣が無きやどうすることも出來ない」
「本人は歸りたいに決つてゐます。あんな蛸入道たこにふだうおこりわづらつたやうな、五十男の手掛になつて、日蔭者で一生を送りたい筈はありません」
「――」
「この間も私が行くと、逢はない乍らも、二階の格子の中で泣いて居るぢやありませんか。私はもう可哀想で可哀想で」
「それで、俺に何をしろと言ふんだ」
 ガラツ八も大分呑込みがよくなりました。
「決して無理なことをお願ひするんぢやありません。山名屋の店先へ行つて、見えるやうに見えないやうに、その懷中ふところの十手をチラチラさして下さりやいゝんです。私が一人で乘込んで、主人を始め番頭手代と掛合ひ、きつと妹のお秋を救ひ出して來ます」
 お篠は一生懸命説きたてるのです。一時兩國の水茶屋で、鐵火者てつくわもので鳴らしたお篠が、妹のお秋を虎狼こらう※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとから救ひ出したさに、ガラツ八の十手のチラチラまで借りようと言ふのは、全く並々ならぬ危險を感じたからのことでせう。
 お秋のらふたき美しさをガラツ八は知り過ぎて居るだけに、この頼みを蹴飛ばしかねました。
「よし、それぢや行つてやらう」
「有難うございます、八五郎親分」
「その代り、俺は店の中へは入らないよ。外に居て、十手をチラチラさせるだけだよ」
 ガラツ八は馬鹿々々しくも念を押します。


 ガラツ八とおしのが、湯島の山名屋へ行つたのはその晩の戌刻いつゝ過ぎでした。途中で一パイ引つ掛けて、いゝ機嫌になつたガラツ八は、その晩の冒險に對して、何かう、芝居染みた興味をさへ感じてゐたのです。
 遲い商賣の酒屋の店も、大戸をおろさうといふとき、
「ちよいと待ちな、主人に用事があるんだ。俺ぢやねえ、あの女だがネ――」
 敷居際に立ちはだかつた八五郎は、片手彌造を懷へ落して、時々十手をチラリチラリと見せるのでした。
「へエー」
 相手が惡いと思つたか、手代の一人はあわてて奧へ飛込みましたが、やがて戻つて來ると、
「主人は離屋はなれに居ります、どうぞ木戸から庭へ廻つて下さい」
 木戸をあけて丁寧に案内するのです。
「お篠、行つて來るがいゝ。俺は此處で待つて居る」
「――」
 お篠はそれに感謝の眼でこたへて、手代と二人、木戸の中の闇にスーツと消えました。
 それから一刻ばかり。
 煙草たばこをのんだり欠伸あくびをしたり、鼻を掘つたり、ガラツ八がいゝ加減退屈した頃、
「待たせたわねエ、八五郎親分」
 庭木戸を開けて、そつとお篠が出て來ました。夜の闇を匂はせるやうな女ですが、この時は不思議にしんみりして居りました。
「お前一人かえ」
「え」
 二人は肩を並べるやうに、中坂を同朋町どうぼうちやうの方へ降りたのですが、妙に話の繼穗つぎほを失つて、暫らくは默りこくつて居たのでした。
「本當に有難うよ、親分」
「そりや構はねえが、肝腎かんじんのお秋はどうしたんだ」
「駄目よ、矢張り。證文を出さなくたつて、奉公人に變りはないんだもの。出代り時でもないのに、無理につれて來るわけに行かない」
「そんな馬鹿なことはないだらう」
「可哀相に、本人もその氣になつて」
 お篠のなぞのやうな言葉は、ガラツ八の神經にも何やら大きい疑問符ぎもんふを投げかけました。
「山名屋に踏み止まる氣になつたのか」
「え」
 二人はそれつ切り、又默りこくつてしまひました。
 おぼろの月。秋近いのに、春めく生温かさが、良い年増と歩くガラツ八を、少しばかり道行めかしい心持にします。
「八五郎親分、此處でお別れしませう」
 お篠はフト立止りました。
「お前は何處へ行くんだ」
「近頃は三味線堀に居ますよ、奉公は止して、母親と一緒に」
「それぢや氣を付けて行きねエ、一人で淋しくはないのか」
「江戸の眞ん中ですもの」
「江戸の眞ん中だからな」
「ホ、ホ」
 お篠は面白さうに笑ふのです。男が淋しがらないものを、女が淋しがつていゝものですか――と言つた氣でせう。
「あばよ、お篠」
「あ、ちよいと、八五郎親分」
「何だい」
「怒つちや嫌よ、親分、――これはほんの私のお禮心、取つて下さるわねエ」
 お篠は八五郎に寄り添ふやうに、手に包んだものを、そつとそのたもとに落し込むのです。
「何をするんだ」
 あわてて取出すと、紙が破れて、落ち散る小判が三枚――五枚。
「あれ、八五郎親分」
「冗談ぢやねエ」
 八五郎は手に殘る小判をきたないもののやうに叩き付けると、怫然ふつぜんとしてそびらを見せました。
「まア、親分」
 お篠は此世の奇蹟を見るやうな心持で、立ちつくしました。長い間水茶屋に奉公して、張も意氣地も心得たつもりのお篠ですが、安岡つ引が袖の下を取らないなんといふことは、想像しても見たことがなかつたのです。


 山名屋五左衞門はその晩殺されたのです。
 離屋はなれの一と間で、誰とも知れぬ者の手で、胸を一とゑぐり、聲も立てずに死んだのでせう。縁側に崩折くづをれたまゝ、血汐の中に息が絶えて居りました。
 何時、どうして殺されたか、母屋おもやに居る奉公人達は何にも知りません。翌る朝になつて、手代の清松が庭から聲を掛けると、雨戸は一枚だけ開け放つたまゝ、カンカンと朝陽の入る中に、五十男の主人五左衞門はあぶらぎつた死體を横たへてゐたと言ふのです。
 騷ぎは一しゆんのうちに、山名屋を煮えくり返らせました。
 錢形平次が飛んで行つたのはそれから一刻の後。一と通り現場を調べると、雨戸は確かに主人山名屋五左衞門が開けたもの、寢卷ねまき浴衣ゆかたを着たまゝ、人を迎へたか送つたか、兎も角、縁側に立つてうつかり月か何か眺めたところを、沓脱くつぬぎに居る曲者が、下から脇差で、一と思ひに左乳の下を突き上げたものです。
 中を調べると、番頭の元吉の言ひ分では、離屋の金箱に入れて置いた五百兩の小判が、綺麗になくなつて居ります。五左衞門を突いた脇差は、その邊に見當らず、奉公人達には別に怪しい者もありません。
 番頭の元吉は五十前後、三十年も奉公した白鼠しろねずみで、しつかりめてはゐる樣子ですが、溜める事に興味を持ち過ぎて、盜ることなどは考へてゐさうもありません。こんな肌合の人間は、百兩盜むよりも、五十兩胡麻化ごまかす方に情熱を感じるでせう。手代の清松は若くて少しばかり道樂者な上、死骸の發見者で、着物に血まで附いて居りますが、これは死骸を見付けたとき、あわてて抱き起したせゐだと言つて居ります。
 他に下女が二人、下男が一人、小僧が二人、これは疑ひの外に置かれます。下女二人と、小僧と下男が二つの部屋に寢てゐるので、夜中に便所に起きても人に知られずには濟みません。
 もう一人、鞍掛藏人くらかけくらんどといふ恐ろしくいかめしい名を持つた浪人者が居候をして居ります。四十年輩ねんぱいの遠縁のお國者で、名前のむづかしいに似ぬ、猫の子のやうな二本差でした。五左衞門は用心棒のつもりで置いた樣子ですが、小僧から下女にまで甘く見られて、劍術よりは小唄こうた淨瑠璃じやうるりの節廻しに苦勞する肌合の男です。
 もう一人、お篠の妹のお秋は、行く/\五左衞門の身の廻りの世話をする筈でしたが、まだ目見得中で母屋おもやに泊つて居り、これは十九の虞美人草ぐびじんさうのやうな娘でした。細面ほそおもてで、小麥色の皮膚と、茶色の眼を持ち、逢つて居ると、あまり口をきかないくせに、相手を陶醉にみちびかずには措かないと言つた、世にも得難い魅力の發散者です。
 死骸の發見者で、血の附いた着物を着て居る手代清松は、一番先に疑ひの矢面に立つたことは言ふ迄もありません。
「主人の死骸を見付けたのは何刻だ」
卯刻半むつはん過ぎでございました、――その頃になると、何時いつも起きて來る主人が、今朝に限つて起き出さないので、變だと思つて行つて見ると――」
「錢形の、その手代の野郎の荷物の中に、小判で三百兩隱してあつたぜ」
 眞砂町まさごちやうの喜三郎――若くて野心的で、平次の心醉者なる御用聞が、風呂敷に包んだまゝ、三百兩の小判を持つて來て見せたのです。
「そんな事もあるだらうよ。血だらけな足で、離屋はなれの中を歩いたのは、どうもこの野郎らしいと思つた」
 平次はさう言つて、清松の肩に手を置きました。
「あ、それは、それは」
「それは何うした。一半季はんきの奉公人が、三百兩の大金を溜めたなんて言つたつて、お白洲しらすぢや通用しねえよ。太てえ野郎だ」
「親分さん、――その金は盜つたに違ひありません。が、主人を殺したのは私ぢやありません。主人の死骸を見付けた時、部屋の隅に金箱のふたがあいて、中のお金が見えて居たんです。ツイ、私は――」
「金は盜つたが、主人を殺したおぼえは無いと言ふのか」
「その通りです、親分」
 と清松。
「錢形の、そんな甘口な辯解を信用しちやならねえ、――第一金箱には五百兩入つて居た筈だつて言ふぜ。あとの二百兩を何處へやつたんだ」
 喜三郎は少しれ氣味に清松を小突き廻します。
「それは、八五郎親分に訊いて下さい」
 清松は變な事を言ひ出しました。
「――?」
「昨夜八五郎親分が、お秋の姉のお篠と一緒に來て、離屋はなれで主人と一刻あまりも話をして歸りました。――それつきり、家中の者は誰も主人に逢ひません」
「それは本當か」
 平次は四方を見廻しました。が、番頭の顏にも、小僧の顏にも、清松の言葉に對する否定ひていの色は少しもありません。


「やい、八」
「へエ――」
 平次のこんなに腹を立てた顏を、八五郎はまだ見たこともありません。
手前てめえに言はせると、一と通りの理窟はあるやうだが、そんなところへ立ち廻らねえのが岡つ引のたしなみと言ふものだ。萬一人殺しの片棒などをかつがせられたら何うするつもりだ」
「へエ――」
「妹を救ひ出すとか何とか言つて、大金を持出したに違げえねえ。直ぐ飛んで行つて、お篠に泥を吐かせるなり、次第によつては、くゝつて來やがれ。着物へ血でも附いて居たら、辯解いひわけさせるんぢやねえぞ」
「そんなものは附いちや居ませんでしたよ、親分」
「白地の浴衣ゆかたでも着て居なきや、少し位血が飛沫しぶいたつて、夜目に判るものか、馬鹿野郎」
「へエ――」
 八五郎はまことに散々の體です。
「山名屋には主人を殺すやうなのは一人も居ねえ。流しの押込みでなきやうらみのある人間の仕業しわざだ。主人が雨戸を開けてやつたところを見ると、流しの押込みでないことも判り切つて居る。あの五左衞門は女癖は惡いが、金放れがいゝから、思ひの外町内では評判のいゝ男だ。お篠でなきや、お篠に掛り合ひの人間の仕業に違げえねえ。直ぐ行つて來い」
 平次の調子は火のやうに猛烈です。
「へエ――」
「萬一、手前の名前なんか出ると、十手捕繩の返上位ぢや濟まねえぞ」
「へエ――」
 八五郎は全く追つ立てられるやうに飛んで出ました。こんなにおどかされたことはありません。
 三味線堀へ行つて搜すと、お篠の隱れ家は直ぐ判りました。路地の奧の/\、置き忘れたやうなさゝやかな長屋。
「お篠は居るかい」
 八五郎が精一杯野太い聲をかけると、
「まア、八五郎親分」
 妙に物なつかしさうな聲と一緒に、嫣然えんぜんとしたお篠の笑顏が現はれます。
「來い、太てえあまだ」
 八五郎は飛付いて、お篠の手頸てくびをギユウと掴みました。
「あツ、何をするのさ、氣障きざだね」
 お篠はカツとなつて、きほひ立つた雌猫めねこのやうに逆毛さかげを立てました。
「ふざけるなお篠、――昨夜ゆうべ持つて來た金、ありや何處から出した」
「何處から出さうと勝手ぢやありませんか」
「山名屋の主人を殺したのが、お前でないといふ證據は一つも無いぞ」
「えツ」
「脇差を何處へ捨てた」
「何を言ふんだい、――私はそんな事を知るものか。金は妹を奉公させる代りに、二百兩受取つたに違ひないが、私が別れる時はピンピンして居たあの五左衞門が――」
 お篠の言葉は半分述懷になつて、何やら深々と考へ込んでしまひました。
「言ひ譯はお白洲しらすでするがいゝ、さア、來い、――俺までだしに使ひやがつて太てえあまだ」
 ガラツ八は尚もお篠の手をグイグイと引きます。
「そんなつもりぢやありませんよ。私が二百兩の金を取つて來たわけ、みんな言つてしまひませう、八五郎親分」
 お篠はガラリと調子を變へると、崩折くづをれるやうに其處に坐つてしまひました。
 幸ひ母親は觀音樣のお詣りで留守、誰に遠慮もなく、お篠は續けるのです。
 山名屋五左衞門は庶腹しよふの弟で家を繼ぎましたが、五左衞門の兄に當る先代五左衞門の子の宗兵衞といふのが、五十を越して伜宗次郎と一緒に、金澤町に細々と暮して居りました。これは當然山名屋をぐ可き筈でしたが、放埒はうらつで眼を潰した上、父親の生前勘當されてゐたことを言ひ立てゝ、叔父の五左衞門に追ひ出され、叔父の五左衞門自身が山名屋の後に坐り込んで、五左衞門の通り名を名乘つたのは、もう二十年も前のことです。
 眼の不自由な宗兵衞は、二十四になる伜の宗次郎と一緒に、骨にみるやうな貧苦と鬪ひ拔きましたが、近頃はその戰鬪力もうせ、餓死がしを待つばかりの果敢はかない身の上に落ち込んでゐました。
 お篠お秋姉妹は、父親の代から受けた恩にむくひるため、水茶屋奉公をしながら長い間宗兵衞親子にみつぎました。しかし、近頃は世の不景氣と共にそれさへ不如意ふによいになり、到頭五左衞門の望むまま、お秋を奉公に出して、少しばかりまとまつた金を貰ひ、それで、せめても宗次郎の身が立つやうにしてやるつもりでしたが、したゝか者の五左衞門は、美しいお秋を手元に留め置き乍ら、あゝのかうのと言ひ延ばして、容易のことでは、纒つた金などくれさうもなかつたのです。
昨夜ゆうべはいよ/\妹を返すか、三百か五百の纒つた金を出すか、命がけで掛け合ふつもりで、山名屋へ行きました。でも、私のやうなものが一人で行つたところで、眞面目に相手にしてくれる五左衞門ではありません。途中で親分に逢つたのを幸ひ、親分の侠氣けふきすがつて、一緒に行つてもらひました。親分が門口で十手を見せて下されば、奧へ入らなくても、山名屋のやうな惡い事ばかりしてゐる人間は、ギヨツとするに違ひないと思ひ付いたのです」
「――」
 八五郎はうなりました。かなり太い話ですが、さう聞けば、ムキになつて怒るわけにも行きません。
「山名屋は離屋はなれの縁側でたしかに私に二百兩の金を渡しました。たつた二百兩ばかりの金で、妹を人身御供ごくうに上げるかのと思ふと、私は涙が出て仕樣がなかつたけれど、それもこれも宗次郎さんの身を立てる爲と思つて、眼をつぶつて歸つて來ました」
「――」
「でも、二百兩でも取れたのは、みんな親分のお蔭です。さう思つてお禮を上げたけれど――」
「それから何うした」
 ガラツ八は押つ冠せて訊きました。
「金澤町へ持つて行つて、宗次郎さんに渡しました」
「宗次郎は默つて受取つたのか」
「――その代り妹のことはあきらめてくれ――つて、くれ/″\も言つてやりましたが」
「すると二人は?」
「え、二人は一緒になる筈だつたんです」
 お篠は淋しさうでした。


 八五郎はしよんぼり歸つて來ました。
「こんなわけだ、親分。お篠は脇差わきざしなんか持つちや居なかつたし、どんなに太い女だつて、岡つ引を番人にして人を殺すわけはねエ。五左衞門から金を貰つたといふだけぢや、縛れないぢやありませんか」
 さう言ふのが、せめてもの辯解いひわけです。
「成程、それぢやお篠は縛れまい。もう一度山名屋へ行つて見ようか」
 平次は恐れ入るガラツ八をつれて、もう一度湯島へ行つて見ました。
「錢形の、大變なものが手に入つたぜ」
 眞砂町の喜三郎は、泥だらけの脇差を振り廻して、すつかりえつに入つて居ります。
「何處にそんなものがあつたんだ」
 と平次。
「一町ばかり先の下水に突つ込んで、血だらけなつかだけ水の上に出て居るのを、子供が見付けて大騷ぎしてゐたんだ」
「柄だけ出て居たんだね?」
「柄が隱れるほど打ち込んで居ちや、見付からなかつたかも知れない」
「どれ/\」
 受取つて見ると、成程手頃な脇差で、溝泥どぶどろで滅茶々々になつて居りますが、つばから上は大して汚れず、紺糸こんいとを卷いた柄には、ベツトリ血がこびり附いて居ります。
「この脇差の持主が無いから不思議さ、それにさやも無い」
 喜三郎はまだその邊を掻廻し乍ら、う言ふのです。
 平次は、一應家の者に當りましたが、何の得るところもありません。浪人者の鞍掛藏人くらかけくらんどに言はせると、この脇差は犬威いぬおどしのやうなもので、町人のたしなみに持つたものだらうと言ふこと、武士の魂とは、少し縁の遠い代物しろものです。
「金澤町へ行つて見よう、此處は喜三郎兄哥に頼んで。來い、八」
「へエ」
「その脇差を借りて行くぜ、眞砂町の」
「あ、いゝとも」
 平次は油紙を一枚貰つて、泥と血にまみれたのをクルクルと捲くと、金澤町へ飛びました。何が何やら解らずについて行く八五郎。
 山名屋の隱居の宗兵衞の家は、平次もよく心得て居ります。
「御免よ」
 犬小屋よりもひどい裏長屋。
「あ、錢形の親分さん」
 盲目めくらの主人――宗兵衞と膝つき合せて、せがれの宗次郎とお篠は何やら話して居りました。
「この脇差はお前のだらうね」
 平次は油紙の包をクルクルとほぐすと、少し亂暴に、泥と血に塗れた脇差を宗次郎の膝の前にはふり出します。
「私のですよ、親分」
 宗次郎は惡びれた色もありません。
さやはどうしたんだ」
 と、平次、――後ろからは八五郎の眼が虎視眈々こしたん/\として居ります。
「面喰らつて脇差だけ置いて來たんでせう、鞘は此處にありますよ」
 宗次郎は靜かにつて、形ばかりの戸棚から、蝋塗らふぬり禿げた鞘を持つて來て、平次の前に押しやりました。
 二十四といふにしては、若く弱々しく見えますが、知識的な立派な若者で、貧しさを超越てうゑつした、品のよさがあります。
「この脇差で、山名屋の五左衞門が殺されたんだ。言ひ譯を聞かうか」
 平次は上がり框に腰を掛けて正面からピタリと三人を見やりました。
「みんな言つてしまひませう、聽いて下さい――」
 宗次郎は改まつた調子で始めました。
「――」
昨夜ゆうべ亥刻半よつはん過ぎにお篠さんが、二百兩の金を持つて來て、お秋の身の代金にこれだけ受取つて來たから、これで私に身を立てろと言ふんです。――そのこゝろざしは有難いが、お秋を人身御供ごくうに上げて、私は出世をする氣はありません。一應金を受取つた後で、お篠さんが歸るとすぐ、その二百兩を持つて湯島の山名屋へ行き、案内知つた木戸を開けて、いきなり離屋はなれの戸を叩きました」
「――」
 宗次郎の話の意外さ。お篠も全く思ひがけなかつたらしく、眼を見張つて聞入るばかりです。
「五左衞門に二百兩の金を返して、お秋をすぐにも返してくれと強談しました。私は泣いたり、うらんだり、おどかしたり、到頭持つて行つた脇差わきざしまで拔いて、疊に突き立ててめました。最初は五左衞門も鼻であしらつて居ましたが、私の劍幕があんまり凄かつたものか、到頭承知をして、三日のうちにきつとお秋を返すといふことまで誓言しました」
「それつきりか」
「それつきりです、親分。私はあまりの嬉しさに、疊へ突つ立てた、拔身の脇差をさやに納めるのも忘れ、そのまゝ此處まで飛んで歸つたのです。歸つて來てから、腰に脇差の鞘だけ殘つてゐることに氣が付いた位ですもの、五左衞門を殺す道理がありません」
 さう言ふ宗次郎の顏には、純情家らしい一生懸命さがあつて、駈引も嘘もあらうとは思はれません。
「それは何刻なんどきだつた」
「歸つたのは子刻こゝのつ少し過ぎでした。心配し乍ら子刻の鐘を聽いてゐると、間もなくせがれが歸つて來て、――あゝ清々した、金は五左衞門に返しましたよ――と言つて、そのまゝ床へもぐり込んだ樣子でした」
 父親の宗兵衞が口をれるのです。
「親分、――金箱から無くなつたのは五百兩、三百兩は今朝清松がくすねたとすると、昨夜のうちに[#「うちに」は底本では「うに」]二百兩無くなつたのはたしかだ。死んだ者は證人にならねえ。もう少し此處を搜して見ようぢやありませんか」
 八五郎はそつと後ろから平次の袖を引きます。
「默つて居ろ」
 平次はその袖を拂つて何やら考へ込んで居ります。


「親分」
「何だ、お篠」
 平次はお篠の思ひ詰めた顏を見詰めました。
「私を縛つて下さい」
「何?」
「五左衞門を殺したのは、この私です」
「何だと、お篠」
「宗次郎さんの後をつけて行つて、樣子を殘らず聽いてしまひました。――宗次郎さんがそんなに妹の事を思つてくれるのに、私はまア、何といふ情けないことをしてしまつたんでせう。五左衞門はあんな器用なことを云つたつて、それは思ひめた宗次郎さんがこはいから、當座のがれに言つたまでの事で、本當の心持は、お秋を返す氣はないに決つてゐます」
「――」
「私は、宗次郎さんが歸つた後で、あの脇差を取つて、一と思ひに五左衞門を殺しました。それに違ひありません。私を縛つて下さい、錢形の親分」
 お篠はさう言つて、自分の兩手を後ろに廻し、平次の方へ膝行ゐざり寄るのです。白粉氣の無い顏は青ざめ、まぶたあふれる涙が、豊かな頬を濡らして襟に落ちるのでした。
幾太刀いくたち斬つた」
 と平次。
「滅茶々々に斬りました」
「それから、二百兩の金はどうした」
「腹が立つから、どぶはふり込みました」
「よし/\」
「宗次郎さん、私は縛られて行きます。處刑おしおきに上がつたら、線香の一本も上げて下さい、――そして、お秋と仲よく暮して下さい」
「何を言ふんだ、お篠さん、お前は人を殺せるやうな人ぢやない」
 宗次郎は驚いて立ちかゝりましたが、お篠の一生懸命さに壓倒されてどうすることも出來ません。
「もういゝよ、お篠。お前は宗次郎を下手人げしゆにんと思ひ込んで、そんな事を言ふのだらう。が、宗次郎が下手人でないことは脇差を置いて來たのでも、鞘を隱さなかつたことでも解つて居る。お前が下手人でないことは――八五郎の顏を見ろ、あの通りニヤニヤ笑つて居るぜ。八の野郎は飛んだお篠さん贔屓びいきさ。第一、五左衞門は沓脱くつぬぎから一と突きにされて死んで居るんだ、女の手で滅茶滅茶めちやめちやに斬られて死んだわけぢやない」
「――」
 お篠はヘタヘタと崩折れました。
「八、もう一度やり直しだ。こんなに他愛たわいもない殺しで、こんなに骨を折るのは珍らしい。下手人になり手が多過ぎたよ」
 平次はそんな事を言ひ乍ら、金澤町を引揚げてしまつたのです。
 それから湯島へ引返す道々、
「八、二百兩の金を何處へ隱したと思ふ?」
 平次は變なことを訊きます。
「自分の行李かうりか何かぢやありませんか」
「いや、山名屋の奉公人の荷物はみんな見たが、そんなものを持つてゐたのは、清松だけだ」
「へエ」
「下手人は昨夜ゆうべ子刻こゝのつ過ぎ、宗次郎が歸つた後へ行つて、宗次郎の脇差で一と思ひにやつた後、二百兩の金を何處かに隱し、脇差をどぶにさし込み、わざと見つかるやうにつかだけ出して置いた、――あの脇差の血だらけな柄が見えるやうに溝の中に突つ立つてゐたと聞いた時から、俺は下手人は脇差の持主ではあるまいと思つたよ」
「へエ――」
「山名屋から一町も持出したところを見ると、下手人は十中八九山名屋のうちの者だ」
「清松ぢやありませんか」
「いや、清松は下手人ぢやない。下手人なら三百兩の金を盜つて、自分の行李かうりなどへ隱す筈はない」
「すると?」
「下手人は二百兩の金を飛んでもないところへ隱して置いたに違ひない、――どうしても知れないところで――後できつと自分の手に入るところだ――後できつと自分のものになるところ、――溝や下水ぢや誰が見付けるかも分らない」
「――」
「下手人は恐ろしくへない奴だ。毎晩主人の樣子をうかゞつて、殺す折をねらつて居たかも知れない。あの離屋はなれから誰の寢部屋へ一番よく道が付いてゐるか見物みものだ。庭はこけが一ぱいだが、五六遍も歩くと跡が付く」
「――」
「主人の五左衞門が死んで一番損をする奴は誰だ――一番まうかるのは、五左衞門には子が無いから、山名屋の跡をぐ宗次郎だらうが、その宗次郎に疑ひをかけるやうに仕向けたのは、一寸見たところ、五左衞門が死んで一番損をするやうな人間に違ひない」
「――」
 次第に疑問を疊み上げて、下手人の影法師に生命を附與ふよして行く親分の強大な想像力イマジネーシヨンに、ガラツ八は呆氣にとられて聽入るばかりでした。


「親分、庭のこけは、母屋の居候先生の部屋の窓の下まですつかりまれて居ますよ」
 八五郎は鬼の首でも取つた樣子です。
「よし/\、それから、主人が死んで一番損する奴は誰だか聞いて來い」
「へエ――」
 八五郎がもう一度母屋へ行くうち、平次は離屋の戸棚からいろ/\の書類を取出してザツと眼を通しました。
「有金は千三百四十八兩、貸金が三千五百兩、外に地所と家作――大變な身上しんしやうだな」
 平次は番頭の元吉を相手にのこされた身上を調べて居ります。
 土藏へ案内させて、有金を調べて見ると、帳面通り千三百四十八兩、ピタリと合つて、一文の狂ひもありません。
「番頭さん、さすがに恐れ入つたね。主人が死んだ後で、一文一錢の不審な金もないと言ふのは大したことだ」
「へエ、恐れ入ります」
「ところで、その紙に包んである分は何だい」
「これは奉公人達へわけてやるやうに、主人が達者なうちから、うして置きました」
「どれ/\」
「跡取りのない御主人のことで、無理もない用意でございます」
 手に取つて見ると、紙に包んで小僧二人の分は十兩づつ、下女と下男へ五兩づつ、手代へ五十兩、居候の鞍掛藏人くらかけくらんどへ二百兩。
「お前さんのは無いやうだね」
「へエ、殘りを私が頂戴することになつて居ります」
「大層なことだね」
「それから貸金の方は、山名屋の後をぐ方に引渡します」
「成程、――ところで、この包の上に書いた字は、主人の筆跡かい」
「左樣でございます」
「それにしちや墨色が新しいやうだが――」
「――」
 平次が指先に力を入れて、包んだ紙を揉みくだくと、
「あツ」
 中から出て來たのは、斑々はん/\と鮮血に染んだ、小判が二百枚。
「親分」
「あわてるな八、下手人はあの浪人者ぢやねえ。こんな手數のかゝつた細工さいくをした黒鼠くろねずみだ」
 平次が差した指は、眞つ直ぐに元吉の血の氣を失つたひたひしたのです。
「御用ツ」
 飛付く八五郎、全く一とたまりもありません。
×      ×      ×
「あの番頭が惡者とは驚いたね」
 ガラツ八は繪解きが聞きたさうな顏です。下手人の元吉を送つた歸り途。
「跡取りの無い山名屋だもの、主人が死ねば、番頭の一存で身上しんしやうはどうにでもなるものさ。最初俺は浪人者をあやしいと睨んだが、段々調べて行くうちに違つて來た――」
「お篠や宗次郎は?」
「あの二人は善人だよ、はなから、疑つて見る氣もしなかつた。もつとも、お篠は宗次郎に氣があつた。妹を人身御供に上げてまでも、宗次郎に出世させようとしたのは惡かつたが、宗次郎がすぐ金を突つ返して來たと聞いて、自分の惡かつた事に氣が付いたのさ。それに、脇差わきざしは宗次郎のだと聞いて、てつきり下手人を宗次郎と思ひ込み、妹と宗次郎への申譯に、自分で罪を背負しよつて行く氣になつたんだらう、――考へはあさはかだが、あんな女は憎くないね」
 平次はこんな事を言つて、一度はお篠の道具に使はれたガラツ八の顏をのぞくのです。
「番頭を下手人と解つたのは?」
「宗次郎が歸つたあとで主人に會ひ、疑はれもせずに易々やす/\と殺せるのは、元吉か藏人くらんどか清松の外にない。清松はそれほどの深いたくらみのある男でなし、藏人は二本差のくせに、猫の子のやうな男だ、それに」
「それに?」
「帳尻を合せて大金を胡麻化ごまかすのは、番頭の外にない。が、有金千三百四十八兩と書いてあるのに、清松の盜んだ三百兩を勘定することをうつかり忘れてゐたところなどは、落着いて居るやうでも矢張やつぱりあわてて居たんだね」
「成程ね」
「宗次郎の持つて來た二百兩の金を、何處かへ隱したに相違ない。何處へ隱したかいろ/\考へたが、――金々隱す場所は、金箱が一番いゝと氣が付いた。これなら人に見付けられることも、疑はれることもない」
「なアーる」
「だが、どんなに細工が上手でも、血の中からかき集めた二百枚の小判を、洗つてゐる暇はなかつた筈だ。封をして一々名前を書いたのは、考へ拔いたことには違ひないが、それがまた臭いことだつた。遺言ゆゐごんをして金をわけるなら、一枚書いたものがあれば澤山だ、一々包んで置くのはどうかしてゐる」
 平次の説明には、もう一點の疑問もありません。
「浪人者の窓の下に道をつけたのは」
「つまらない細工だよ、小器用こきような惡人はそんな事で人がだませると思つて居るだけのことさ」
「それでみんな解りましたよ、親分。ところで、宗次郎や、お篠姉妹はどうなるでせう?」
「宗次郎は山名屋の跡取になるだらうよ、お秋はその女房さ」
「お篠が可哀想ぢやありませんか、親分」
「惡くない女さ、――八の女房などにどうだい」
「御免かうむらう、強請ゆすりの片棒をかつがせられちやかなはない」
「さう言ふな、八。俺はあのお篠といふ女に見どころがあると思ふよ」
 二人はそんな事を言ひ乍ら、――もう平次の家へ近く差掛かつて居りました。





底本:「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年9月28日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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