錢形平次捕物控

毒矢

野村胡堂





「へツへツ、へツへツ、隨分間拔けな話ぢやありませんか」
 ガラツ八の八五郎が、たがが外れたやうに笑ひながら、明神下の平次の家に笑ひ込むのです。
 世間はまだ松がれたばかり、屠蘇とその香りがプンプンとして居やうといふ時ですから、笑ひながら來る分には、腹も立ちませんが、それにしても、かう不遠慮にやられては、御近所の衆がきもをつぶします。
「八の野郎がまた、ゲラゲラ笑ひながら舞ひ込んで來たやうだ。火鉢の中へ唐辛子たうがらしでもいぶして置け」
 平次は苦々しく舌打をしますが、實は久しく顏を見せなかつた八五郎を、心の中では待ちこがれてゐたのです。
「それには及びませんよ。――可笑しいの可笑しくねえの――つて、へツへツ」
あきれた野郎だ。挨拶もせずに、笑つてやがる」
「相濟みません。尤も、元日早々御年始には來た筈で」
「挨拶は年に一度で濟む氣で居やがる。――何がそんなに可笑しいんだ。俺はもう、腹が立つて、腹が立つてたまらねえが」
「まだ正月だといふのに、何をそんなに腹を立てるんです。あつしはもう、面白くて可笑しくて」
「俺はまたしやくにさはることばかりだよ。暮に拂へなかつた店賃たなちんを、三つまとめて大家のところへ持つて行くと、苦しいのはわかつてゐるから、そんな無理をするには及ばない、改めて盆にでも貰ふからと、そつくり返して來たぢやないか」
「へエ、それで腹が立つんですか、親分は」
「人を見くびるにも程があるよ。一人で腹を立てて居るところへ、八丁堀の笹野樣から、今年の正月は役向きの方が忙しくて、呼んで呑ませる折もなかつたから――と、屆けて下すつたのは、三升」
「へエ」
縮尻しくじつてばかり居る俺が、この酒が呑めるか呑めねえか考へて見ろ」
「そんなに癪にさはる酒なら、あつしが身代りに頂きますよ。三升もあると、ちよいと良いおしめりになりますね」
舌嘗したなめずりをして居やがる。――その上あれを聽かないか、九月十五日の神田祭を待ち兼ねて、金があつて、暇で/\仕樣のない旦那衆が、界隈かいわいの若いのをおだてて、妻戀稻荷つまこひいなりの後ろの大野屋を借り受け、初午はつうまの日に世直しの稻荷祭りの大騷ぎをやらかさうといふたくらみだ」
「惡くねえ話ぢやありませんか。その話なら、あつしも掛り合ひがあるが」
「半月も前からの稽古で、夜も寢つかれやしない。飛んだ世直しだよ」
 平次が腹を立てるのも無理のないことでした。江戸の有閑人達は、景氣が良いにつけ惡いにつけ、お祭り騷ぎをして、呑む機會を作らなければ、この世の中は張合ひがないやうな氣がするのでせう。
あつしが笑つたのは、そのお祭りに出る所作事しよさごとの話ですよ」
「そんな話なら、可笑しくも何んともないぢやないか」
「親分は――その日の所作に、坂屋のおたへが、新作の『江口』を踊るといふ話を聽いたでせう」
「坂屋のお妙といふのは、あの女か」
「へエ、あの女で」
 この邊では、たゞあの女で通る坂屋のお妙は、妻戀稻荷の横に住む、何んとか流の踊りの師匠ししやうですが、それは滿身にたぎる魅力を踊りにかこつけてき散らし、山の手一帶を桃色に興奮させるやうな大變な女でした。
「お妙が何を踊らうと、お前が可笑しがるわけはないだらう」
「それが大ありで、『江口の君』といふのは、昔々大昔の華魁おいらんだ。一きう樣と掛け合ひの歌を詠んで、普賢菩薩ふげんぼさつに化けた――」
「お前の話は少し頓珍漢とんちんかんだよ。普賢菩薩が、衆生濟度のために、江口の遊君いうくんに現じたといふ話だらう」
「そんなことはどうだつて構ひませんよ。兎も角も、坂屋のお妙はその江口の君とやらになつて、象に乘つて所作事をする」
「普賢菩薩なら、象に乘るのは當り前だが、今時江戸に象は居ないよ、――それを豚の子で間に合せるとでも言ふのか」
「ところが、象が居るんですよ。――親分も知つて居るでせう、金澤町の岡崎屋三十郎、昔は大した家柄だが、近頃は商賣の方がいけなくなつた上、五年越しお妙に入れあげて、近頃はその日にも困るといふ、大變な落ちぶれやうだ」
「その岡崎屋三十郎が象になるといふのか」
「貧乏はしてゐるが、二十三貫といふ、水ぶくれの三十郎だ。裸になればそつくりその儘白象びやくざうぢやありませんか。お妙がその上へ横乘りになつて、江口の遊女姿で、精一杯の色氣をき散らす趣向しゆかうと聽いて、あつしはもう、可笑しくて、可笑しくて、ウ、フ、フ、フ」
 八五郎は三十郎が素つ裸になつて、象の振り宜しく、お妙に御せらるゝ馬鹿々々しさを考へて、たまらず腹を抱へるのです。


 岡崎屋三十郎と、踊りの師匠のお妙との關係は、平次も一應は聽いて居りますが、八五郎の説明で、その馬鹿々々しさが強調されて行くのでした。
 お妙といふのは、五六年前何處からともなく流れて來た女で、素姓も人柄もわかりませんが、その藝は兎も角として、男好きのする非凡な魅力を持つて居たので、代る/″\パトロンがつき、二三年のうちに、大變な人氣を集めてしまひました。色白で背が高くて、バネの入つたやうな身體――それは、昆蟲こんちうの美しさと、毒々しさと、そして限りない魅力の表現でした。
 年は、何年か前から、二十五と言つて居りますが、本當のことは誰にもわかりません。皮膚はくすんだ眞珠色で、眼は赤ん坊のやうに、清純で碧々あを/\とさへして居りました。こんな眼はしかし、はかり知ることの出來ない、智慧と情慾とをかくして居ることでせう。
 この女の最初の印象が、童女のやうに清らかなのは、その碧ずんで見える眼と、唇の素晴らしい曲線カーブのせゐだつたでせう。肉色にせてゐるくせに、右左へ卷き上がるやうに食ひ込んだ曲線の美しさは、尊い佛の慈悲の相とも見られ、三千年のこびをたゝへた、ハガードの妖女の、邪惡な唇とも見られるでせう。
 この女のために、身上しんしやうをいけなくしてしまつた男は、何人あるかわからず、この女のために、命を失つた男も何人かはある筈です。かうした女は、男の怨みが燃えさかれば燃えさかるほど、その美しさをきたへ上げられ、男の血を流せば流すほど、その智慧がたくましくなることでせう。
「何しろ、大變な評判ですよ。あの女の命を狙つて居るのが、ちよいと勘定しただけでも、五人や三人はある中で、けつの毛まで拔かれたやうな、岡崎屋三十郎をこの寒空に裸にして、その背中の上で所作事しよさごとをやらかさうと言ふのだから、これが無事に行きましたら、お目にかゝりたいくらゐのもので、へツへツ」
 八五郎は下司な笑ひを笑ふのです。
「岡崎屋三十郎は、そんな馬鹿なことを承知したのか」
「大喜びですよ。――さうでもしてやつたら、お妙が喜ぶだらうと」
「――」
「男が馬鹿になると、手の付けやうがありませんね。――神田で何番と言はれた岡崎屋を、一とたまりもなく身代限りをさせた上、女房のお美乃は乞食同樣になり、自分も落ちるところまで落ちてしまつて、その日にも困る仕儀になつても、まだあの女の後を追つかけて、野良犬のやうに尻尾を振つてゐるとは、何んといふことでせう」
「――」
「その上二十三貫の親豚のやうに肥つた身體を、裸になつた上、生身に白粉を塗つて、赤い腹掛に涎掛よだれがけをし、立兵庫たてひやうごに髮を上げた、裲襠姿うちかけすがたのお妙を乘せて、振事をやるといふから、あつしは笑つて笑つて笑つてやりましたよ。あんまり笑つたんで涙がこぼれた程で」
 八五郎はさう言つて、惚れた者の哀れさを輕蔑けいべつするより、武士の情け見たいな悲痛な顏をして見せたりするのです。
「そこまで行くと氣の毒だな」
「他人の私でさへ可笑しくて、腹が立つて涙がこぼれますよ。乞食よりもひどい恰好で、取拂つたもとの店のあとに、犬小屋のやうな物置に住んでゐる、三十郎の女房。昔は岡崎屋の内儀のお美乃が、齒ぎしりして口惜しがるのも無理はありませんね」
「おたへには配偶つれあひはないのか」
「木之助といふ野幇間のだいこのやうな野郎が、昔の亭主だつたと言ひますが、これも一と身上をつぶした上、上方から追つかけて來て、今では、時々お妙の家を覗いて、お小遣にあり付いて居るやうだから、大した睨みも利きやしません。尤も余つ程痛いところを握つて居ると見えて、この男が貰ひに行くと、お妙も嫌とは言へないやうで」
「それつきりか、お妙には身寄りも何んにもないのか」
「妹が一人ありますよ。お菊と言つて十八の、良い娘ですが、これは又姉のお妙の妹とは思へぬ不縹緻で、眞つ黒で、横太りで、朝から晩まで、下女代りに働いて居まさア――姉のお妙は二十五と言つても、二つや三つはサバを讀んでゐるだらうが、妹のお菊は十八と言つても、うけ合ひ二十二三には見えますよ。――尤も本當の姉妹でないといふ話もあるが、そこまではわかりません」
「――」
「外には、安五郎といふ男が一人居ます。下男だか庭掃きだか、居候だか知らないが、二十二三のこれはのつぺりした野郎だ。尤も生れは、松前とか奧州とか、餘つ程北の方で、なまりがひどいから、話は半分しかわかりません。鼻の曲つたさけみたいな野郎だが、色が白くて背が高くて、飛んだ好い男ですよ」
「それつきりか」
 こんな馬鹿々々しい話を、平次は神妙に聽いて居りました。あやしく美しい踊り手お妙をめぐつて、何んとも説明の出來ない豫感があつたのです。


 二月四日の初午はつうま、妻戀坂の大野屋に、底拔けの遊びが始まりました。江戸の有閑人たちは、名目さへ立てば、時も處も構はずに、茶番狂言、お温習さらひ、手踊り、素人芝居――と、果てしもなく享樂を追ひ求めるのでした。
 それは、權力と因習に押し付けられてゐる、日頃の屈托くつたくに對する、僅かな息拔きでもあり、若い娘達を集めての、戀の狩人達の冒險でもありました。
 その日の番組の馬鹿々々しさと、賑やかさは、今更語るまでもないことでせう。番數も進んで、夜の亥刻よつ(十時)近くなつて、大切おほぎりに出したのは、坂屋のお妙の踊る『江口の君』新作の踊りで、一休襌師には、名ある歌舞伎役者が附合ひ、一流の出語り、贅澤過ぎるほどの舞臺裝置、大道具小道具にもぜいを盡して、大野屋の大廣間の幕が開いた時は、集まる客の數は百人を超し、思はず歡聲をあげたのも無理のないことです。
 金糸銀糸の刺繍ぬひとりをほどこした裲襠うちかけ、天地紅の玉章たまづさを、サツと流して、象の背に横樣に乘つた立兵庫たてひやうご、お妙の美しさは、人間離れのしたものでした。
 その普賢菩薩ふげんぼさつを乘せた白象といふのは、二十三貫の大男、全身に白粉を塗つて、赤いふんどしをした岡崎屋三十郎の、みにくくも淺ましい姿です。振事が眞面目であれば眞面目であるほど、人々の哄笑こうせうは、潮が去來するやうに、夜の空氣と、囃子方はやしかたの鳴物を壓して、どつ、どつと波打ちます。
 その間にも普賢菩薩のお妙が、人間象の背の上で、兎もすれば安定を失つて、見物がドツと笑ふのが、囃子方の鳴物や、地方ぢかたの唄を壓して、氣が遠くなるほど、夜の空氣を搖すぶります。
「たまらねえな、こいつは」
 見物に交つた八五郎は、兩手りやうてを揉み合せて、獨りえつに入るのを、並んで見て居る平次が何遍ひぢで突いたかわかりません。
 普賢菩薩のお妙が、象から滑り落ちさうになると、あわてて、その象の首に獅噛しがみつきます。普賢菩薩のお妙の神々しいばかりの美しさにくらべて、三十郎の象の顏が、何んとみにくく淺ましいことか。
「八、もう歸らうよ。こいつは見ちや居られないよ」
 平次もさすがに嫌になりました。惚れ拔いて、金も見識も、見榮も命も要らなくなつた男の、世にも淺ましい見本を見せられるやうな氣がして、吐氣はきけを催すやうな胸の惡さを覺えたのです。
 やがて振事が濟んで、最後の見得になりました。舞臺正面、描いた後光の前に立つて、江口の君なるお妙が、昇天の菩薩ぼさつの形になるのですが、鳴物につれてその座に直ると、
「あつ」
 お妙の普賢菩薩が、三十郎の白象の背から、ズルズルと滑り落ちたのです。舞臺の上に飛び散る血。
「どうした、師匠」
 お妙の身體を抱き起したのは、白象の三十郎でした。續いて、ドツと立ち騷ぐ人垣、鳴物も踊り手も後見も、不意の出來事に驚きながらも、この美しい犧牲いけにへを、八方からかつきあげた[#「かつきあげた」はママ]のです。
「どうしたどうした」
「目を廻したのか」
「いや、刺されたのだよ」
 大勢の手で抱き起されたおたへは、最早頼み少ない姿です。
 やゝ遠く距れて、踊りを見て居た平次と八五郎は、立ち騷ぐ人々を掻きわけて、一瞬のうちに、お妙のところへ飛び付いて居りました。
「退け/\、皆んな退いてくれ」
 平次がさう言ふのにつれて、
「まご/\しやがると掛り合ひだぞ。お妙を殺した下手人げしゆにんは、この中に居るに違ひない」
 八五郎は、彌次馬を追つ拂ふを心得て居ります。


 あとに殘つたのは、白象の三十郎と、お妙の後見をして居た、妹のお菊と、それから平次と八五郎の四人でした。
「醫者だ、醫者だ、早く、早く」
 八五郎が怒鳴どなると、大野屋の若い者が心得て飛んだ樣子です。
 三十郎の腕の中に、ガツクリとうな垂れたお妙は、もう最後の痙攣けいれんに、僅か生命の名殘りを止めるだけでした。不思議なことに、傷は二つ、白くて丸い右の喉笛に突つ立つたのは、ヒヨロヒヨロした楊弓やうきゆうの矢で、もう一つも同じやうな楊弓の矢、これは左の眼の下をかすめて、後ろ幕の裾に落ちて居るのでした。
 矢は二本共楊柳やなぎの枝で造つた本格のもの、どんな急所を射たところで、人の命などを奪れさうな代物ではありませんが。
 醫者が來る前に、お妙の命は絶えました。平次はそつと喉笛に突つ立つた、楊弓の矢を引拔いて見ると、これは何んと、唯の楊弓の矢と違つて、その根は一種のかぶらになり、毒蛇の首のやうに、不氣味なフクラミを持つて居るのです。
 醫者を待つてゐるうちにも、三十郎の悲嘆は目に餘りました。裸になつて、赤いふんどしをしめて、赤い腹掛をかけ、全身に白粉を塗つた三十男が、見榮も外聞もなく、女の死骸を掻き抱いて、ワアワア泣き騷ぐのです。
 それも、義理や誤魔化しで泣くのではなく、聲をあげて泣く姿は、たとへやうもなく醜怪しうくわいで、八五郎などは、
「確りしろ、大の男が何んといふザマだ」
 などと、間違つたやうな顏をして、二つ三つどやし付けた程でした。
 やがて驅けつけた醫者は、金澤町の奎庵けいあんといふ五十年輩の坊主頭でした。お妙が死んで居るのを見て、
「あ、たうとう」
 醫者に似氣ない、ふくみのあることを言ひます。
「奎庵先生、これはどうしたことでせう。楊弓の矢で、人間が頓死をする筈はなく、それに、眼の下も喉も急所は除けて居るし、この通り血がいくらも出ないところを見ると、命にかゝはる傷ぢやないと思ふが――」
 平次がさう聽くのも無理のないことでした。
「尤もだが、錢形の親分。よく見てくれ、この喉へ突つ立てた矢は、唯の矢ぢやないよ」
「?」
「矢尻が、煙管きせるの吸口のやうになつて居るだらう、――このかぶらの中になにか入つて居るに違ひあるまい」
「?」
「嗅いで見るが宜い、少しやに臭いやうだ。ね、その通り。そこで、その鏑の中へ、松前のアイヌが熊狩りに使ふといふ、毒をつめたとしたら、どういふものだらう。これくらゐの傷で、人一人殺すのは、毒矢の外にないが」
「どうして、そんなものを?」
 平次もあまりのことに、二の句が繼げません。
「毒は――南蠻物でなければ、アイヌが使ふといふ、鳥兜とりかぶとの根を煉つて、膏藥のやうにしたものだ。――それを誰がやつたか、其處まではわからない。では、あとのことは、錢形の親分に頼みましたよ」
 醫者の奎庵は、一人呑込んで立去つてしまひました。
「親分、お客樣をどうしたものでせう。これだけ多勢居るんだから、皆んな調べたひにや、夜が明けてしまひますよ」
 舞臺の不氣味さをけて、家中の隅々に、思ひ/\に集まつて、言葉少なに樣子を見てゐるのが、ざつと百二三十人もあつたでせう。八五郎がさう言ふのを聞いて、多勢の眼が平次の方に向ひました。
「皆んな歸してくれ、いつまでも引留めちや氣の毒だよ」
「大丈夫ですか、この中に下手人が交つて居るに違ひないんだが」
「大丈夫だとも、出來心でやつた人殺しぢやない。あとで手繰たぐつたところで、差支はあるまい」
「さうでせうか」
 八五郎は不安でしたが、それでも平次がさう言へば、一應歸す外はありません。


 多勢の客を歸したあとが、平次の舞臺でした。殺されたお妙と、深い關係のあるものだけ、五六人を殘して、平次の調べは其處から始められたのです。
 大野屋の大廣間、晝から外神田一圓を見おろして、なか/\の景色ですが、火鉢を一カ所に集めて、殘された人達は、寒々とした顏を集めて居ります。
 平次はその隣りのいつもは樂屋がくやに使ふ八疊を借りて、一人づつ呼出して見ました。
 第一に呼出されたのは、當夜の勸進元くわんじんもとで、このもよほしの金主で、お妙のパトロンになつて居る、神田鍛冶町の金貸、佐渡屋金兵衞。これは五十五六のいかにも迷惑さうな、そのくせやゝ高慢な感じのする禿頭はげあたまでした。
「いやもう迷惑なことで、――あの女は浮氣で剛情で、手のつけられない女でしたが、御存じの通り、千人に一人といふきりやうで、親分の前だが、大した女でしたよ」
 非凡な素質に惠まれた、稀代の妖婦お妙をうしなつて、佐渡屋金兵衞は惜しさうに舌嘗したなめずりをするのです。
 こんな野郎があるから、世の中が面白くないんだ。――さう言つた心持で、禿茶瓶はげちやびんを睨んで居る八五郎は、飛びかゝつて横つ面でも張り倒しさうな氣組でした。
「そのお妙を怨んでゐる者も少なくないやうだが」
 平次が穩かに訊くと、
「そりやもう、お妙を殺したいほど怨んでるのは、私の知つてるだけでも五人や六人ぢやありません。先の亭主の木之助などは、いつか一度は殺して見せると言つて居たさうで、その癖時々お小遣をせびりに來るのだから、内々はお妙大明神だつたかも知れませんよ」
 金兵衞の話は妙に行屆いて、氣になるほど機微を穿うがちます。
「それから?」
「象になつた岡崎屋三十郎さんはあの通り、お妙のために、大きな身上しんしやうを潰した上、女房にも別れ、恥も外聞もない身になりながら、いまだにお妙にヘバリついて、泣いたり口説いたり、この寒空に裸になつたり、――惚れた男といふものは、淺ましいものですね。尤もあれはお妙を殺す氣なんかありやしません。燒いて粉にして酒で飮む方で、へツ、へツ」
「――」
 金兵衞がヘラヘラ笑ふと、八五郎はでつかい拳骨げんこつを拵へて、夜の空氣の中に、うなりを生ずるほど振り廻して居ります。
「お妙を一番怨んで居るのは、三十郎さんのお神さん、もとの岡崎屋の内儀のお美乃さんでせうよ。あれだけの店まで賣つて、その跡に小屋をかけ、乞食のやうな暮しをして居るのですから」
「下男の安五郎と、妹のお菊は?」
「安五郎も、お妙に氣があるんでせうな。給金なしで、あんなに働いて居るくらゐだから。お菊の方は、ありや、妹といふのは嘘で――顏を見たつてわかるでせう。妹分といふことにして、下女の仕事をさせて置くのは、人を使ふ秘傳ださうで、これはお妙が自慢をして居りましたよ。――時々貰い物の菓子か、おかずのおすそわけでもやれば、給金がなくても、喜んで働いてくれるとね。――尤も、禿頭の私がその眞似をしたところで、私共の店では、奉公人は三日と居付いちやくれません、綺麗な女は得ですね。へツ、へツへツ」
 ヘラヘラ笑ひを殘して、金兵衞が去ると、八五郎は楊弓の矢を二本持つて來て、眼の色を變へて平次にさゝやくのです。
「ね、親分。この矢をの下でよく見ると、矢筈やはずの下のうるしの上に、金文字で『岡三』と書いてありますよ」
「何んだと」
「岡崎屋三十郎は、まだ暮しのよかつた頃楊弓につて、かなりの腕前だつたさうですよ。あの野郎ぢやありませんか」
 八五郎の鼻はうごめきます。
「いや、背中にお妙を乘せて居て、楊弓を射られるわけはない」
「さう見えば[#「見えば」はママ]さうですが」
「お前は岡崎屋三十郎の家を知つてるだらうな」
「知つてますとも」
「あの内儀をそつと連れて來てくれ。嫌がるかも知れないが」
「やつて見ませう。お妙が殺されたんだから、せめて、そのつらでも見てやれとか、何んとか言つて」
「餘計な細工さいくをするな。――どうしても嫌だと言つたら、亭主の三十郎が、お妙殺しの疑ひで、縛られるかも知れないと言へ」
 大呑込みで八五郎は飛んで行きます。
 續いて、お妙の前の亭主であつたといふ、木之助が呼出されました。
 これは七つ下がりのあはせを引摺るやうに着て、小紋の羽織を引つかけた、三十二三の青黒い男で、昔は隨分好い男でもあつたでせうが、病身と貧乏に押負かされて、ヒヨロヒヨロになつて居る癖に、色氣と慾だけは、存分に身について居ると言つた感じの男です。
「お妙があんなことになつて、良い氣味でしたよ。――さう言ふと私が下手人見たいですが、――飛んでもない。あの時私はお帳場で、大野屋の番頭さんと話して居たんですから、どんな口を利いても、疑はれる心配はありません。――あの女は、あんな最期を遂げるのも約束事ですね。浮氣で慾張りで、男をゴミほどにも思つて居ませんでした。現に、お菊や安五郎はうまい事を言はれて、三年越し唯で奉公してゐるし、あの女の爲に身代をいけなくした男は何人あるか、勘定しきれません。――私はあの女の弱い尻を知つてゐるので、大きい聲で言ひ觸らされるのがいやさに、蚊の涙ほどみついで居ましたが、水の手がきれさへすれば、私だつて殺す氣になつたかもわかりません」
 木之助の言ふことは、まことにヌケヌケして居りますが、その口幅つたい言ひ草から考へても、下手人らしくはありません。


 下男の安五郎は、見事な男でした。少しちゞれつで、背が高くて色白で、ひげの跡が青々として、なか/\の男前です。
 言葉はひどいなまりで、半分は聽き取り兼ねましたが、そのメラメラと燃えるやうな眼や、唇の赤さなど、男にしては珍らしい特徴です。
「お前は何處の生れだ」
松前まつまへで生れましただよ。――江戸へ來て二年になりますだ。給金は貰はねえが、時々お小遣は貰ひました。――師匠さんは、良い人だつたよ、誰にでも親切で――」
 ボツリボツリと噛んで吐き出すやうな言葉です。
「奉公人なら身許引受人はある筈だが」
「そんなものはゐねえだ。給料を貰わねえから、身許なんか、何んだつて宜かんべえ」
 なるほど、さう言つた理窟もあるでせう。
 その次に呼んだのはお妙の妹と言ふお菊でした。十八九、――どうかすると二十歳以上にも見える頑丈な娘で、横肥りの赤ら顏の、申分なくみにくいくせに、何處かに娘らしさがあり、その素朴そぼくさが、妙に人の好感を誘ひます。
「房州の生れですが、親はありません。奉公してから三年になりますが、お師匠さんはよくして下さいました。『私は一人ぽつちで親も姉妹もないから、妹分になつて、お互ひに助け合つて行かうぢやないか』とお師匠樣が言つて下すつて、それから三度の食べ物も、一緒に頂きました。そして私も、給金を頂かずに、働くことにいたしたのでございます」
 この話の中には、何やらに落ちないものがありますが、平次はそれはそれとして、
「お前は下男の安五郎をどう思ふ」
 突然こんなことを訊くのです。
「さア、別に」
「お前達の間に、何にか約束があつたのではないかな」
「いえ」
 お菊は眞つ赤になつて、平次の引留めるのも構はず、隣りの部屋に逃げ込んでしまひました。
 その隣りの部屋、皆んなが待機してゐる、曉近い大廣間には、此の時、一と騷ぎが始まつて居りました。
「嫌、嫌だといふのに、この人は何んといふ解らない人だらう。貧乏はして居ても、私はまだ三十前だよ。こんな身扮みなりをして、人の前へ出られるかどうか、考へて見ておくれ」
 さう言つて、入口の戸に獅噛しがみついたまゝ、必死の抵抗を續けるのは、二十五六の見すぼらしい女でした。みすぼらしいといふにも程度がありますが、二子ふたこの柄もしまもわからぬ腰卷の上に、ヨレヨレの印半纒しるしばんてんを引つかけて、猫の百ひろのやうな三尺帶、髮はほこりだらけで、蒼黒く痩せた顏は、この世の者とも思へぬ凄まじさです。
「何を言ふんだ。お前の亭主の三十郎は、お妙殺しの下手人で、縛られかけてゐるんだぜ」
「嫌だつたら、嫌さ。私はもうあの人の顏なんか、見たくもない。處刑臺に乘りや、宜い氣味ぢやないか、畜生ツ」
 女だてらにこんな口をきいて、入口の敷居の前に坐り込んだまゝ、必死と八五郎に反抗するのです。


 その時平次は、岡崎屋三十郎の調べを始めるつもりで、大廣間に入つて來ました。白象になつた三十郎は、さすがに肌寒かつたものか、小女が持つて來てくれた、自分の着物を肩に引つ掛け、お妙の死骸の側に、首うな垂れて居ります。
 大の男が痴呆ちはうと醜體の限りを盡して、たいして恥入る風もありませんが、それでも時が經つにつれて、曉方の風が身に沁みると、いくらかは本心を取戻した樣子です。
「錢形の親分、――聽いて下さい。皆んな申し上げますが」
 三十郎は平次の顏を見ると、急に正氣づいたやうに膝行ゐざり寄るのでした。
「どうしなすつた、岡崎屋さん」
 平次は少しわざとらしく丁寧に應へました。
「私を縛つて下さい、錢形の親分。お妙を殺したのは、この私でございます」
 三十郎は立ち上がつて、平次の袖にすがり付かうとしましたが、興奮して見當が外れたものか、空を泳いで、ペタリと尻餅をつくのです。
「何を言ふのだ、三十郎さん」
「私は、お妙の阿魔あまに、勝手にされ過ぎました。この上あの女を生かして置いちや、生きながら地獄の底までち込むに違ひないと思ひ、一と思ひに、手馴れた楊弓で射殺しました。お妙を殺したのは、この三十郎に間違ひもありません。その證據は楊弓の矢には金蒔繪きんまきゑで一々私の名が『岡三』と描いてあります。さア、この私を、――私を縛つて下さい」
 三十郎は一生懸命でした。藻掻もがくやうに平次に縋りついて、赤ん坊見たいにわめくのです。
「何を言ふのだ、楊弓の矢はお妙の眼の下をかすつただけだぜ」
「いえ、もう一本の矢が――」
「その矢は、かぶらになつた矢尻やじりが重いから、楊弓ぢや飛ばない」
「それを私は、手に持つて、お妙の阿魔あまの喉へ突つ立てました。私が」
「その矢を、踊りを踊る間、何處に隱してゐたんだ」
「私の、象の腹掛の下へ」
「嘘を言つちやいけない。腹掛の下に隱せば、矢尻の毒が腹掛へ附く筈だ。矢の根はやにのやうにベトベトねばつて居るぜ」
「でも」
「お妙を背中に乘つけて、楊弓を射られるわけはないし、毒矢を隱す場所がないとわかると、――」
「いえ、私が殺しました。あの阿魔は、踊りが濟めば掴み殺して、一緒に地獄へ落ち込む氣で居ました」
 三十郎は今度は本當に、身を顫はせて泣くのです。
 が、その時、もう一つの事件が發展しました。入口の敷居際で、八五郎と爭ひ續けて居た、三十郎の女房のお美乃は、遙かに三十郎の樣子を見ると、八五郎の手をかい潜つて、今度は、尻切半纒しりきればんてんのまゝ、自分から進んで大廣間に飛び上がるのです。
「お前さん、――私だよ、私だよ。家から楊弓を持出して、あの女を射たのは。私はあの女の眼を射潰いつぶして、片輪にしてやりたかつたのだよ。皆んな踊りに夢中になつて居る隙に、私は雨戸の隙間から、あの女の眼を狙つたのだよ。――眼には當らなかつたけれど、あの女は、たうとう死んでしまつたぢやないか、天罰だよ、天道樣は無駄には光つちや居ない。サア、あの女を殺したのは、亭主なんかの意氣地無しぢやない、この私だよ。錢形の親分、縛つておくれ。磔刑柱はりつけばしらを背負はされたつて、私はうらみには思はない」
「本當か、矢つ張りお前がやつたのか」
「さア、私はもう、――」
 お美乃はこの時始めて、側に居る亭主の三十郎を意識したやうに、すがり付いて、大泣きに泣くのです。
 暫くの間平次は、三十郎とその女房の、感情の激動を眺めて、何んにも言はずに居りました。五六人殘つた關係者は、大廣間の隅に引つ込んで、劇の一とこまを眺めるやうに、この不思議な夫婦の演出を見て居ります。
「もう宜い、――二人共歸つてくれ」
「?」
「お妙を殺したのは、二人のうちの、何方どつちでもないよ。二人は何處へも行かずに、あのもとの岡崎屋跡の小屋へ歸るのだ。一文あきなひでも始めるなら、お妙へ入れ揚げた講中へ、奉加帳を廻して少しくらゐの資本もとでは集めてやるぜ。――今までのことは夢とあきらめて、今日から新規しんき蒔直まきなほしに踏み出すんだ」
「――」
 三十郎とお美乃は、平次にさう言はれると、始めて自分に立ちかへつた樣子です。
「それぢや」
 二人はうなづき合ひました。そして、手を合せて平次の方を拜んで居る三十郎を、女房のお美乃が引立てるやうに、縁側から霜の降りた曉天の往來へ、いそ/\と姿を隱すのです。
「八、もう歸らうか」
「へエ?」
 それを見送つて平次も立ち上がりました。
「夜の明けきらねえうちに歸つて、熱い茶でも呑んで寢るとしようか」
「下手人はどうするんです? 親分」
「この裁きは、閻魔樣に任せるよ。どりや」
 平次は八五郎をうながして、人々のけゞんな顏に見送られるやうに、霜の道を踏み出すのでした。
        ×      ×      ×
 道々の八五郎の不服らしさ。
「大丈夫ですか、親分。お妙を誰が殺したんです。下手人は?」
「もう宜いよ八。下手人は手に手を取つて逃げ出してしまつたよ」
 平次はけろりとしてこんなことを言ふのでした。
「すると、あの、三十郎とお美乃の――」
「いや違ふ。三十郎は何んにも知らないし、お美乃はお妙の眼を射潰したかつただけさ。楊弓の矢は外れて、お妙は顏をやられただけだ。――素人しろうとの手ぎはぢや、少し遠過ぎたから、無理もないが」
「すると曲者は?」
「楊弓の矢尻をへて、毒を仕込んだ鏑矢かぶらやで、お妙の首筋を刺した人間が下手人さ」
「へエ?」
「あの鏑矢は重いから、楊弓では四五間もある庭先から飛ぶ筈はない。三十郎は裸に赤い腹掛一つで、あんな重くて長いものを隱し持つてる筈はないし、あとは、お妙の側に居たのは誰だと思ふ」
「さア?」
「氣がつくまい。――踊りの後見をして居た、お菊だよ」
「あの妹分の?」
「妹分といふことにして、三年も唯でコキ使はれた上、深く言ひかはした好い男の安五郎を横取りされると、十八や十九の娘でも、ツイ取逆上とりのぼせせる[#「取逆上とりのぼせせる」はママ]よ。松前から來た安五郎が、熊狩の毒を持つて居るのを知つて、それをそつと持ち出し、岡崎屋の三十郎が、いつかお妙のところへ持つて來て忘れて行つた、楊弓の矢の根を、鏑矢かぶらやの根と入れ換へて、その中に毒を仕込んだのだらう」
「それぢや、引つ返して、あの安五郎とお菊を縛りませう」
「止せ/\、二人はもう奧州街道へ踏み出したよ。松前へでも落ち延びて、熊の子と一緒に暮す氣だらう。――俺が三十郎夫婦を調べて居る頃、手に手を取つて逃げ出したやうだ」
「すると親分」
「お前は默つて居ろ。餘計なことを言ふと、俺がまた笹野の旦那に小言を言はれる」
あきれたものですね」
「俺も呆れて居るよ」
「もう一つ、わからねえことがあるんだが、――毒を仕込んだ、鏑矢かぶらやの根は、何處から持ち出したんでせう」
「お宮へ行けば、鏑矢の一本や二本は何處にでも奉納してあるよ。深川の三十三間堂へ行つて見ねえ、半堂や四半堂に使ふ、子供づかひの鏑矢までをさめてあるぜ。毒を射込むには、あんな良いものはありやしない」
「成る程ね」
「本矢は持つて歩けねえから、鏑矢の根だけ取つて、楊弓の矢にはめたのさ」
「器用なことをやつたもので」
「側に居る者を殺すんだから、それくらゐの工夫は要ることだらうよ」
 平次の家はすぐ其處、女房のお靜は寢もやらずに、二人の歸りを待つて居るのでせう。





底本:「錢形平次捕物全集第三十三卷 花吹雪」同光社
   1954(昭和29)年10月15日発行
初出:「キング」
   1954(昭和29)年1月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年12月22日作成
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