「親分、面白い話がありますよ」
お馴染のガラツ八こと八五郎、
「髷節を
平次は腰から下だけ椽側に出して、秋の生温かい陽を享樂しながら、腹ん這ひになつたまゝ、ものの本などを讀んでゐるのでした。
「何を讀んでゐるんです、大層面白さうぢやありませんか。矢張り
「馬鹿だなア、そんなものを大の男が、ニヤニヤしながら讀んでゐられるものか」
「へエ、親分は學があるからたいしたものだ。――
「チエツ、
「すると、その面白さうな書物は、矢張り岡つ引の傳授書見てえなもので?」
「間拔けだなア、まだ岡つ引にこだはつてやがる――こいつはそんなイヤな本ぢやないよ。北村
「へエ、日本一の好い男ですかえ?」
「不足らしい顏をするなよ、お前と張合ふ氣遣けえはねえ。昔々の大昔の色男だ。光る源氏と言つてな、まるで八五郎に
「間拔けた話で、――
八五郎は
「ところで、お前の方の面白い話といふのは何んだえ」
平次は起き上がつて煙草盆を引寄せました。
「親分の
「まさか
「飛んでもねえ。あつしが勝負事の大嫌ひなことは、親分も知つて居なさるでせう。挾み
「そんな事が自慢になるものか。それぢや見世物かお茶屋か、それとも
平次は以ての外の機嫌です。
役得を稼ぐくらゐなら、女房に駄菓子でも賣らせて、十手一梃の清淨さを保たうと覺悟をきめて居る平次だつたのです。
「
「そんな變なのが江戸の眞ん中にあるのか」
「へツ、あるから不思議で。女ばかりの一と世帶――と言つたつて、
八五郎は大きく身振りをして、八つ手の葉つぱのやうな左の掌へ、右手の人差指を一本添へてニヤニヤするのです。
「何んだそれは? 市ヶ谷八幡樣の
「飛んでもねえ、
「誰が頼んで來たんだ」
「上總屋の
「男は一人も居ねえのか。主人はどうしたんだ」
「主人の總兵衞は去年の春死んで、伜の總太郎は死んだ父親が夢枕に立つたとやらで、町内の
「外に男は?」
「番頭の庄吉と、掛り人の市五郎、何方も若くて好い男だが、――若くて男が好いだけに、女世帶には危なくて置けねえと、當主の總太郎の叔母に當るお常さんが固い事を言つて、庄吉は隣り町の親の許から晝だけ通はせ、市五郎は裏の家を借りて、そこに住はせてをりますよ」
「そこで、お前ならたいした男つ振りでもなし、危なげがないから、安心して泊つて貰へるといふ寸法か」
「有難い仕合せで、女除けの
八五郎はニヤリニヤリと短かからぬ顎を撫で上げるのです。
「で、どう返事をしたんだ」
「それを相談に來たんですよ。ね親分、近頃あつしに汗を掻かせる程の仕事もないから、ちよいと
「宜い氣なものだ」
錢形平次もそれを強ひて留めませんでした。上總屋に立ちこめてゐる異樣な空氣を直感したといふよりは、ガラツ八の骨休めに、女世帶の中に一と週りも轉がして置くのも面白からうと言つた惡戯氣だつたかも知れません。
三日目、八五郎はフラリと明神下の錢形平次の家へ長んがい顎を持つて來ました。
「何うした八、大層寢起きの惡さうな顏ぢやないか。女護の島から追ひ出されたのか」
平次は相手欲しさうでした。御用が暇で、粉煙草がなくなつて、女房のお靜が何處かへ
「追ひ出されるどころか、持て過ぎて困りましたよ。これぢやとても身體が續かない」
「間拔けだなア」
「それに若主人の總太郎が、お供で行つた
「成程そいつは良い
「親が夢枕に立つた話だつて、本當か嘘かわかつたものぢやありません。――その證據には、あつしが斯んなに小遣ひで苦勞してゐるのに、死んだ親父もお袋も夢枕に立つて、貸してくれさうな口を教へてくれた
八五郎はそんな氣樂なことを言つて、大きい掌で、鼻から顎のあたりをブルンと掻き廻すのでした。
「成程、俺も思ひ當るよ、――ところで、どうしろといふのだ」
「若主人が歸つて來るまで、どう勘定しても、あと一と月はかゝるでせう。その間女世帶では心細いから、あつしに泊つてゐてくれと、斯ういふ話で」
「よく/\無事な野郎と思はれたんだね」
「有難い仕合せで」
「誰が一體お前を引留めるんだ」
「若いのだつて、あつしにゐて貰ひたいことは腹一杯だが、極りが惡いから口に出しちや言やしません。其處へ行くと叔母のお常さんといふのは年を喰つてゐるから、あつしの首つ玉に噛り付くやうにして――」
「嘘を突きやがれ」
「首つ玉は嘘だが、袖ぐらゐは引つ張りましたよ。――ほころびがきれちやゐないかな」
などと袖口を見たりする八五郎です。
「その叔母さんといふのは幾つだ」
「四十三、――男でいへば厄過ぎの分別盛りだ。若い時分はさぞ綺麗だつたことでせう。諸藝に達して、悧巧過ぎて、あれやこれやと迷つてゐるうちに、到頭
「女六人も居たら淋しいことはあるまいが、何んだつて用心棒が要るんだ」
「それが、その變なことばかりあるんで」
「たとへば、どんな事が?」
「たまらねえ話で、へツ」
「嫌な野郎だな、一人で嬉しがつて居たつて、俺には通用しねえ」
「姐さんはゐませんね」
八五郎は首を
「居ないよ、――水の手がきれて、明日の籠城も覺束なくなつたんだ。叔母さんのところへでも、工面に行つたんだらう」
「錢形の親分がね、へエ」
「人の貧乏を感心する奴もねえものだ。お前に
「
「俺の方が呆れるよ。ところで、俺の女房が居ちや話されないことと言ふのは何んだ」
「若い女の前ぢやちよいと話し
「又ニヤニヤしやがる」
「
「何んだつまらねえ、
「九月の十三夜ですよ。薄寒いと言つてもまだ秋になつたばかりだ」
「その十三夜に搗き立ての湯氣の立つ餅が井戸端に轉がつてゐた」
「交ぜつ返しちやいけません。――上總屋の若主人の叔母で、先代の總兵衞の妹お常さん――四十三と言つてもこれは一度も嫁に行つたことのない人だから、間違ひもなく娘だ。それが井戸端で搗き立ての餅だから驚くぢやありませんか」
「驚くよ、お前の望み通り驚いて見せるから、もう少し順序を立てて話して見な」
平次と八五郎の
上總屋の叔母のお常は、四十三の
その頃の江戸は、町家は言ふまでもなく、武家でも内風呂を持つてゐるのはたいした贅澤で、一般の人達は町風呂へ行くのが精一杯、暖かいうちは、行水で濟ますのが世間並だつたのです。
大谷某が鐵砲風呂を發明したのは、戰國の末期から徳川の初期で、町に
そんな時代のことですから、大地主の上總屋の女共が秋口に行水を使つたところで、何んの不思議もなく、その晩も大釜一ぱいに沸かした湯を、戸板で嚴重に
九月十三夜は、お月見のゴタゴタで叔母のお常がひどく遲れ、嫁のお香の後で使つたのは、やがて
「叔母さんはどうなすつたんでせう。ちつとも音がしませんが」
下女のお六が氣の付いたのは、
「見てお出でよ、居睡りして風邪でも引くといけないから」
姪のお紋は遠慮なく張り上げました。上總屋の家中で、叔母のお常に遠慮なく物の言へるのは、この氣性者のお紋一人だつたのです。
下女のお六――二十七八になる達者なのが、手燭を持つて、裏口から井戸端を覗いた樣でしたが、いきなり市ヶ谷中に響き渡るやうな、野放圖な聲で、
「た、大變ツ、叔母さんが」
と、わめき散らしたのです。
お勝手にゐた嫁のお香と、内儀のお角が驅け付けた樣子ですが、あまりのことに仰天したらしく、暫らくは言葉もありません。
丁度泊り合せた八五郎と、――若主人の總太郎は留守中ですが、片月見になるのを嫌つて、形ばかりの月見の宴に招ばれた、裏に住んでゐる浪人者
井戸端を圍つた戸板は滅茶々々に倒され、
その全裸體の半面はやゝ登つた十三夜の明月に、青々と照し出され、あとの半面には、六つ七つの灯りを明々と浴びて、それは實に
四十三の處女お常は、贅澤と我儘が嵩じて
その上、月の光に照らされた半面は、青白く淨化されて、この世のものとも覺えず、一パイに灯りを受けた反對面は、存分に妖艶で肉感的で、この上もない媚態とさへ見えたのです。八五郎の言ふ『井戸端の
「寄るな/\、灯りを皆んな消して、男共から先に家の中へ引つ込むのだ」
浪人庵崎數馬はまだ四十歳前後ですが、さすがに第一番の常識家でした。さう言はれて氣の付いた八五郎は、職業意識を働かせて、お常の身體を抱き起しましたが、まだ確實に息があると見ると、十手の手前とは言ひながら、さすがに
「寄るな/\、死んでゐるわけぢやない。世話はお内儀さんとお紋さんに委せて澤山だ」
などと大手を擴げるのです。
「何が始まつたんです」
いきなり裏木戸から飛び込んで來て、マジマジと眺めてゐるのは、二十七八のちよいと小意氣な男でした。
「何んでも宜い。そんなところから
八五郎は怒鳴ります。
「あつしは隣りの
「女の行水を覗く野郎は怪しいに極つてゐるぢやないか。さつさと消えてなくならねえと水をブツ掛けるぞ」
八五郎の手は口より早く動いて、
「何んでえ、何んてえことをしやがるんだ。犬がつるんでるわけぢやねえ、人に水なんかブツ掛けやがつて」
金次はいきり立ちましたが、市五郎に
その間に内儀のお角と
床の上に寢かして、氣付けを一服やると、お常は漸く本心を取り戻し、パツチリ夢見るやうな眼を開きましたが、床の上にキチンと寢かされて、たいして取り亂した樣子もないのを確かめると、暫らく不思議さうに
「小母さん、どう氣分は?」
默りこくつてゐる一座の中で、斯う最初に口をきつたのは、陽氣で明けつ放しで、一番美しい、
「あ、お紋さん、私はどうしたのか知ら」
お常は
「縛られてゐたのよ、井戸端へ裸――」
「シツ」
内儀のお角は、あわててその口を
「どうしたのだえ、お常さん。惡戯にしても
八五郎は柄にもなく分別臭い顏を出します。
「あ、八五郎親分、私はどうしたことでせう」
お常はさすがに消えも入りたい風情でした。
「それがわからないから、
「私は、いつものやうに行水を使つてゐると、後ろの方でコトリと音がしたやうな氣がしたんです。――御近所に惡い若い衆があつて、二階から
「どの邊だい」
「この邊だと思ひますが」
お常は自分の手で首筋に亂るゝ毛を掻き上げて見せました。心持その邊が赤くなつてゐるやうでもありますが、四十三の娘の首筋から喉へかけての美しい線は、まことに玉を伸べたやうで、八五郎の眼をクラクラさせます。
事件はこれからが本筋で、お常の災難は、さゝやかな發端に過ぎなかつたのです。
それから三日目の朝。
姪のお紋――あの陽氣で明けつ放しで、勝氣で滅法綺麗なのが、半裸體に剥がれたまゝ、場所もあらうに、上總屋の店先――下水の
早起きの往來の人が見付けて騷ぎ出し、黒山の人だかりになつた頃、家中の者が
「寄るな/\、何んといふ恥つ掻きな奴等だツ」
寢卷姿の八五郎が、彌次馬の眼の前へ立ち
「親分、其奴等へ水でもブツ掛けて下さい。あつし一人の力ぢやどうにもならない」
泣き出しさうにして、お紋の死體を
「兎も角、此處へ置くわけに行かねえ。手を貸しな」
八五郎が頭の方を抱き上げると、『あつしが』『いや俺が』と二三人の若い男が、お紋の死體の腰から足に飛び付きます。
「野郎、――お前なんざ引つ込んでゐろ、誰が殺したか解らないんだぞ」
この時驅け付けた掛り人の市五郎は、建具屋の金次を死體からもぎ離して、後生大事にお紋の足を持ち上げるのです。
「何をツ、野郎ツ」
金次はその胸倉にかぶり付きました。
「止しなよ、何んといふことだ――この山犬共に任せると、どんなことをやり出すかわかつたものぢやねえ。お六どん手を貸しなよ」
「へエ」
下女のお六は恐る/\手を貸して、どうにかお紋の死體を家の中に運び込みました。内儀のお角も、娘のお雪も、嫁のお香も、全く轉倒してしまつて、家の中の混亂は加はるばかり。僅かに昨夜までは床から離れなかつた叔母のお常が、蒼い顏をしながらも、彼れこれ指圖をしてをります。
お紋の部屋はたいして取亂した樣子もありませんが、床は敷きつ放したまゝで、
その床の上へそつとおろして、さて役目柄の八五郎が改めて見ると、寢卷は
打ち見たところ、傷は何處にもありません。肌は上半身だけであるにしても
頓死といふことも、一應は考へられないではありませんが、若く美しく、この上もなく幸福感に浸つてゐる女が、寢卷の双肌を押し脱いで、店先のドブ板の上へ、大の字になつて死んで居るといふことは、想像も許さぬことでした。
フト思ひ付いて、死體の
「あ、これだ」
思はず大きい聲を出してしまひました。二、三日前叔母のお常がやられたといふ首筋の上部、
八五郎はすつかり張りきつてをりました。此處で取つて置きの智慧を働かせて、晝前にも下手人を擧げたら、親分の錢形平次が、さぞ褒めてくれるだらうと言つた、日頃にもない
が、その結果はたいした新しい手掛りが見付かつたわけではありません。叔母のお常は四十を越してからはすつかり諦めた樣子で、有髮の尼のやうに行ひすましてをり、現に浪人庵崎數馬が、たつてと後添ひに望んだときの如きも再應辭退して、振り向かうともしなかつたと言はれてをります。
その上近頃は
それと反對にお紋は、陽氣で色つぽくて、兎角町内の噂が絶えませんでしたが、性根に何處か賢こいところがあり、容易に人に許さなかつたので、死んでからまでも建具屋の金次と、掛り人の市五郎が、鞘當てをするやうな妙なことが起るのでした。
戸締りも念入りに調べましたが、騷ぎのすぐ後で、お紋の部屋の外の雨戸が一枚、外から無理に外されたらしく、敷居の外に落ちてゐることに氣がつきました。よく見ると敷居には
外から雨戸をこじ開けて入つた曲者が、お紋を殺してあんな死に恥まで
頭の動きの遲い八五郎が、此處まで
「八五郎親分、御苦勞だな」
子分の二人まで連れて、上總屋へ乘込んで來たのは、市ヶ谷の喜三郎といふ、中年者の良い御用聞でした。
「おや、市ヶ谷の親分」
八五郎は妙に
「八五郎親分は、この間から上總屋に泊り込んでゐるさうぢやないか。鼻の先で殺しがあつたのを、まさか知らずにゐる筈もねえが――」
市ヶ谷の喜三郎はニヤリニヤリとしてゐるのです。
「面目ねえが、油斷だつたよ」
「一本立ちの御用聞は、巾着切りに煙草入を拔かれても、その儘では世間に顏向けが出來ないとされたものだ。泊つてゐる家で殺しがあつちや、十手捕繩を返上しても追つ付くめえよ」
「――」
「それとも八五郎親分のことだ、早くも下手人を擧げてすましてゐるといふ寸法かな」
「飛んでもねえ、まだその見當も付かねえのさ」
八五郎の正直さ。
「そいつは氣の毒だ、錢形の親分がさぞ氣が揉めることだらう。――俺の方は此處へ來る前から下手人の當りをつけて、一と足先に擧げてしまつたが――」
「――」
「十手の
市ヶ谷の喜三郎は、眞つ四角な顏を、
「その下手人といふのは誰だえ、市ヶ谷の親分」
八五郎はそれを彈ね返すほどの氣力も失つてをりました。
「知れたこと、敷居には雨戸を外した
「矢つ張り、あの」
八五郎は眼を白黒にさせる外はなかつたのです。
喜三郎が散々嫌がらせを言つて引揚げた後、八五郎は念のために、もう一人のお紋を怨んでゐる男――掛り人の市五郎を調べて見る氣になりました。鑿一丁の
が、それは無駄骨でした。當夜市五郎は早歸りをして日頃の遊び好きで、自分の家にぢつとしてはゐられず、新宿あたりまで伸し歩いて、
「家を出たのは?」
「
こんな事をヌケヌケと言ふのは、自分の遊びつ振りを
それに對して、建具屋の金次は、同じ獨り者ながら、
斯うして八五郎はスゴスゴと神田へ歸る外はなかつたのです。
女護の島と言はれた市ヶ谷の
四十三歳の處女、美しさが
下手人は一向わからず、八五郎がモヤモヤしてゐるうちに、土地の御用聞市ヶ谷の喜三郎が乘込んで來て、建具屋の金次を擧げて行つてしまひました。
斯うまで鼻を明かされると、八五郎たるもの、いぢめられつ兒が泣きながら母親の許へ歸るやうに、神田明神下の親分、錢形平次のところへ歸つて、結構な智慧を授けられる外はありません。
「れこは?」
お勝手からそつと覗いて、晩の支度に忙しさうな、平次の女房のお靜に、でつかい親指を見せるのも、精一杯の勇氣が必要です。
「居るわ」
「御機嫌はどうです」
「とても惡いのよ。――朝つから
お靜はさう言ひながらも面白さうでした。夫の機嫌の惡いのは、何にか仕事に夢中になつて居る時と知つて居るからで。
「弱つたなア、明日の朝でも出直さうか知ら」
八五郎は宙を見詰めて立ち盡くしました。
「駄目よ、近頃はそりや寢起きが惡いんだから。思ひきつて表の格子ぐらゐ蹴飛ばして『大變』とか何んとか、いつもの調子でやつて御覽なさいよ。八さんの顏を見たら、存外機嫌が良くなるかも知れない――その間に私は、角の酒屋から一升取つて來ますから」
お靜は
「誰だえ、お勝手へ來て居るのは。又うるさい物貰ひなら去年の暮以來御難だとでも言つて歸せ」
平次は讀み耽けつてゐる『源氏物語
「八さんですよ。表からは入り
「何? 八が來たのか、表から入り難かつたら、床下からでも引窓からでも入つて來るが宜からう、――俺は少し訊きたいことがあるんだ」
「へエ、相濟みません親分」
八五郎はお勝手から上がると、膝で這つて平次の居間の唐紙を開けました。
「大層改まるぢやないか。
「そんな呑氣な話ぢやありません。私はもう今日と言ふ今日は」
「ひどく思ひ詰めた樣子ぢやないか。親の敵にでも巡り逢つたといふのか」
「あつしの親の敵なら
「よし/\冗談が言へるやうなら、まだ脈がありさうだ。まさか首を
「あつしはもう今日限り、十手捕繩を返上しようと思ひますが」
八五郎はよく/\打
「十手捕繩を返上する?――宜からう、お寺へでも養子に入るか」
「飛んでもない、あつしは大變な
「待ちなよ、俺の顏は晝寢の後で洗つたばかりだ。泥などは附いちや居ないぜ」
平次は何處までこの話を茶にする氣でせう。
「――こんなわけで、あつしが泊つてゐる家で殺しがあつた上、眼の前で下手人を擧げられちや、
八五郎の
「宜からう。十手捕繩なんか、
「?」
「その市ヶ谷の喜三郎親分が擧げた、建具屋の金次とやらが本當の下手人でなくて、お前の手で正眞正銘紛れもない眞物の下手人が擧げられたらどうするつもりだ」
「そんな具合になれば、あつしの顏も立ち、八所借りをして、番太の株を買はずに濟むんですが――駄目でせうな」
「何が?」
「
「それは誰が言ふのだ」
「本人も言ひましたが、下女のお六が金ちやんとお紋さんは相惚れだから、近いうちに仲人が立つだらう――などと言つて居ましたよ。尤も金次がちよいと好い男で、獨り者の癖に小金も持つて居るし、お紋のやうな
八五郎も必死の努力で、こんな微妙なところまで嗅ぎ出して來たのです。
「お紋を殺したのが――
平次はさすがに妙なところに氣が付くのでした。
「あつしもそれを言つて見ましたよ。すると喜三郎親分は、お常を半殺しにして縛つたのも、金次の仕業に違ひあるまい。お常は金次がお紋と親しくなるのを嫌つて、意見をしたり邪魔をしたりしたから、犬に喰はれてしまへと言ふ
「お常の時は裸のまゝ縛つて置いて、お紋は肌だけ脱がせて、縛らなかつたのはどういふわけだ」
「そいつはあつしにもわかりません」
「お常を後ろ手に縛つたのは何んだ」
「お常の
「足を縛つたのは手拭だと言つたな」
「へエ」
「結び目に氣が付かなかつたか」
「足の方はあつしが解きましたが、唯の男結びで。手の方は後ろへ廻して、
「抱き上げた時は、どんな具合だつた」
「
「呆れた野郎だ。鼻なんか鳴らしやがつて」
「ちよいと思ひ出しただけで。四十三になつても、娘は矢張り娘ですね。あのまゝ死んぢや行くところへも行けまいと、妙にホロリとしましたが」
「馬鹿だなア、四十三ぢやお前より年が十三も上だ」
「ところが、お紋の方は、同じ娘は娘でも、抱き上げてシヤキツとしましたよ。冷たくて堅くて、コチコチして、恐ろしく重くて」
「そりや息の通つてゐる者と、死んで時の經つた者との違ひだ」
「あの家は全く不思議ですよ。イキの良い女が六人もゐる癖に、妙に不氣味なところがあつて、大の男のあつしでさへ、落着いた氣持になれないんです。現に叔母のお常があつしに泊つてくれとせがんだ前に、夜中に井戸へ大石を投げ込まれたり、
「その味噌汁の石見銀山を誰が見付けたんだ」
「叔母のお常ですよ。あの女は家中で一番落着いて居るから、朝の味噌汁を一と口呑んで、おやと思つて、内儀の手から味噌汁の椀を引つたくるやうにして取上げたさうです。呑んだのはたつた一と口で、少し胸が惡いだけで濟んださうですが、味噌汁を町内の本道に持ち込んで見て貰ふと、石見銀山鼠捕りが、馬の二三匹も殺せるほど入つてゐたといふこと」
「それは何時のことだ」
「あつしが行く二三日前で」
「井戸へ石を投つたのは」
「
「それでお前に泊りに來てくれと言つたわけだな」
「使ひに來たのはお紋でした。可哀想にあの娘も殺されてしまひましたが、お
八五郎の萎れ返るのも無理もないことでした。金次とどんな關係があつたにしても、四五日一緒に暮しただけで八五郎はこのお紋といふ娘が、心から好きになつて居たのでした。
「話は混がらかつて居さうだが、下手人が金次でないことだけは確かなやうだ。俺が行つて見よう」
「本當ですか親分」
八五郎の有頂天さ。
「お前に後家附の番太の株を搜してやるより、そのお紋とか言つた、可愛らしい娘を殺した下手人を擧げる方が俺には仕事が樂らしいよ」
錢形平次は斯うしてこの事件の渦中に飛び込む氣になつたのです。
平次と八五郎は、日の暮れさうなのも構はず、市ヶ谷田町の上總屋に向ひました。
「おや、錢形の親分、わざ/\神田からやつて來てくれたのかえ。八五郎の兄哥は飛んだ仕合者だね」
市ヶ谷の喜三郎は、まだ其處に
「八の野郎が飛んだ
平次は
「なアに、それにも及ぶものか。八五郎兄哥の手落ちは、あつしの手柄でうめ合せて、旦那方の方は何んとでも言つて置くのに」
喜三郎はすつかり良い心持になつて居る樣子です。
「ところで、それから變つたことがなかつたのかな」
「あつたよ。上總屋のお隣りに住んでゐる御浪人の
「フーム、そいつは大きな證據ぢやないか」
「ところが、一と晩とろとろもしなかつたと言ふ人が、はたで聽くとよく大
喜三郎の自信の強さ、壁隣りの庵崎數馬の證言などはケシ飛んでしまひさうです。
「尤も、年寄りと若い者との違ひといふこともあるだらう。庵崎といふ御浪人はまだ四十臺のやうに聽いたが」
「若いだけに、壁隣りの建具屋の金次とは、
あゝ言へば斯うで、手の付けやうはありません。
「それつきりか」
「いや、まだあるよ。後から後からと、動かぬ證據が出て來るんだ」
「――」
「金次の家を家搜しすると、道具箱の中から、雨戸をコジあける時使つたらしい大
「――」
「下女のお六に見せると、半襟も簪も殺されたお紋のものに間違ひはない」
「そんなものがたいした證據になるまいが」
「いや、金次がどんなにお紋に夢中になつて居たか、それだけでもわかるぢやないか。――兎も角八五郎兄哥のことは俺が引受けて、ひどく顏を潰さないやうにするから、安心するが宜い」
喜三郎の勝利感は天井知らずに
「有難う、十手の誼みで、さうでもして貰はうか。ところで、その
「これか、――八分鑿の頑丈な道具だ。これならどんな雨戸でもこじ開けられるぜ」
さう言ふ喜三郎の手から、
もう陽は暮れかけて、四方は薄暗くなりましたが、それでも殘る夕映えがどうやら手許を明るくしてくれます。
「おや、これは違つて居るぜ、市ヶ谷の親分」
金次の道具箱にあつたといふ鑿を、敷居の傷跡に當てて見て平次は言ひました。
「何?」
「鑿が違つてゐるよ。曲者の使つたのは、一寸以上もある肉の厚い
丁寧ではあるが、平次の聲には勝ち誇つた響が匂ひます。
「そんな馬鹿なことがあるものか」
喜三郎は粉々たる怒氣を
「八、中へ入つて、よく戸締りをして見てくれ。戸締りのない雨戸を鑿でコジ開ける馬鹿もないだらうから、
「へエ」
八五郎は椽側の中へ入ると、雨戸を念入りに締めた上、上下の
「宜いか、そら開けるぞ」
平次は八分鑿を敷居の間に入れて、
「市ヶ谷の親分、ちよいとやつて見てくれ。あいつは俺の力ぢや
「何んのそんな事ぐらゐ」
喜三郎は平次に代つて鑿を取りましたが、腕自慢らしい大男の精一杯の力でも、この雨戸はとても外れず、四枚一連の戸は、市ヶ谷中響き渡るやうな音を立てて、ガタピシするだけのことです。
「こんな馬鹿なことがあるわけはねえ。中の戸締りを忘れてゐたんぢやないか」
喜三郎は斯んな事を言ひます。
「そんな筈はない、戸締りを忘れたのなら、鑿にも及ばず戸は開いた筈だ。――念のためお六に訊いて見るが宜い」
下女のお六は八五郎に連れて來られましたが、このよく肥つた二十七八の女は、
「戸締りを忘れるなんて、そんな馬鹿なことがあるもんですか。女世帶だからつて念には念を入れるんですもの、夕方私が締めた上、寢る前にお内儀さんかお常さんが一々見て廻りますよ。尤も昨夜はお常さんがまだ加減が惡かつたから、お内儀さんが見廻つた筈ですが」
と、
「だが、錢形の親分。お紋が金次に
喜三郎は最後の自説に
「嫌ひ拔いた男に、寢卷のまゝで呼び出される娘があるだらうか、――尤もあつしの聽いたところでは、お紋と金次は、人の眼に立つほどの相惚れで、近いうちに一緒になる筈だつたといふから、殺す筈はないと思ふが――」
八五郎が獨り言のやうに言ふのです。
「お前は默つて居ろ。金次が下手人でなかつたところでお前の
「――」
「金次がお紋を呼び出して殺したものなら、椽側の雨戸をコジ開ける筈はないと思ふが、どうだらう」
「――」
それは物柔かではあるが、嚴重な抗議でした。
「雨戸は今朝、間違ひもなく一枚だけコジ開けられてゐた――と言つたやうだ。それは兎も角、八」
「へエ」
平次は續けました。
「穴掘り大工の使ふ肉の厚い大
平次は改めて店から入つて行きました。
最初に迎へてくれたのは、掛り人の市五郎。それは我の強さうな野性的な男で、年の頃は三十前後、十手捕繩も物の數とは思はぬ態度が、市ヶ谷の喜三郎は言ふまでもなく、八五郎にまでも焦躁を感じさせます。
「昨夜は樂しみだつたさうだね」
平次はツイ、輕い氣持でそんな事を言ふと、
「へエ、女世帶に構はれるやうぢや、
斯うはね返す市五郎です。
「殺されたお紋とは、大層親しかつたさうぢやないか」
「飛んでもない、あのピンシヤンした女が、私のやうな者を相手にする氣遣ひはありません。――尤も、一度は味な氣になつたこともありますが、若い女は矢張り小意氣で如才なくて、男つ振りの好いあの建具屋の野郎見たいなのが好きになるんですね」
市五郎は明かにお紋と金次の仲を
帳場に
平次の問ひに對しても、一向はか/″\しい返事がなく、この家に十何年とか奉公してゐること、金の出し入れは庄吉自身が一人で引受けて居ること、――と言つた自己宣傳見たいにも聞えることを問はるゝまゝにポツポツと話して行くのです。
こんなひねこびた男を、一人娘の婿にして上總屋の身上を分けてやらうとした先代の心持が、平次にはどうしても呑込めません。
「
「
「大層遲かつたぢやないか」
「お常さんに頼まれて、手紙を書いたり、勘定をしてやつたり、飛んだ手間を取りました。――お常さんは久し振りで氣分が良いとやらで――」
「手紙といふと?」
「なあに、牛込の
「お紋はその時分何處に居た」
「自分の部屋へ引取つて居たでせう。夕方から風邪氣味だと言つてゐましたから」
「お紋が自分の部屋へ引取つたのは?」
「宵のうちでした」
斯う言つた庄吉の言葉からは、錢形平次もたいしたものは
内儀のお角は奧の方で、お紋のために通夜の世話をしてをりました。恰幅の良い四十前後の典型的な町人の内儀で、眉の跡の青さは薄れましたが、
「可哀想なことをしました。少しお轉婆でしたけれども、何時でも機嫌の良い娘で、誰にでも好かれた人が、どうしてまたあんなことに――」
さう言つて涙を呑みます。お角とは血の
「縁談は?」
と訊くと、
「あのきりやうですもの隨分諸方からお話がありましたが、本人は贅澤を言つて、なか/\うんと言ひませんでした。でも叔母のお常さんに
と、内儀は腹の底からお紋を惜しんでゐる樣子です。
叔母のお常は、八五郎が幾度も言つたやうに、四十三の老孃で上總屋の店中でも確りものでした。背のすらりとした。青白い引締つた顏をしてをりますが、素顏に心持口紅を含んで、良人も子供も持つたことがないせゐか何處かに若さの匂ふ、不思議な魅力の持主でした。
「飛んだことをしてしまひました。早く身を堅めたら、あんな
さう言ふ言葉にも、涙と眞情が龍つて、お角とは又別に、お紋を惜しむ心持が溢れます。
「お紋を怨む者の心當りはないのかな」
平次の問ひは平凡で無技巧でさへありました。
「飛んでもない、あの娘を怨むなんて、――尤も男の心持は私にわかりませんから、あの娘に言ひ寄つてポンポン彈ね飛ばされ、
歎きの中にも、お常は老孃らしく、男の無定見さを非難するのです。
「お紋の隣りに休んでゐるのは誰だえ」
「私ですよ、――お紋の部屋を挾んで奧は嫁のお香さんと姪のお雪。若主人の總太郎が上方へ行つて留守なので、その間總太郎の妹のお雪が嫁のお香さんと同じ部屋に休んで居ます」
「夜中に何にか物音が聽えなかつたのか」
「何んにも存じません。私は
「寢た時刻は」
「お紋さんは風邪の氣味で一番早く、
お常の説明は、ハキハキしないやうでも、年の功で
嫁のお香は十九になつたばかり、まだ初々しい感じですが、顏の表情の子供らしさに似ず、身體の方はよく發達して、上背も肉付も申し分なく、色白でポチヤポチヤして健康さうで肉感的でさへありました。
お紋のハキハキしたのに比べて、喰ひ足らなさはあるでせうが、この
お紋のことに就いては、何を聽いても唯おろ/\するだけ、一向に要領を得ませんが、
「市五郎はどんな男だ」
と訊くと、遠慮しながらも、
「あの人は氣が荒くて何をするかわかりません。お紋さんも
と、含みのあることを言ひます。お常に對しては、
「そりや親切にして下さいます。でもあんなに良く出來た人から見ると、私は足りないところばかりですから」
と、遠慮が先に立ちます。庄吉に對しては全く無關心で、何を訊いても積極的な考へがなく、
「お雪さんが氣の進まないのも無理ありません。
と、言ふのが精一杯です。
娘のお雪は十八、我儘一パイに育つた金持の娘といふ外にはたいした特色もありません。痩立ちですが、きりやうは良い方、叔母のお常に似て、年を取つたら案外の氣性者になるかもわかりません。
お紋に對しては、その綺麗さと、魅力とに少しばりの嫉妬を感じて居たらしく、
「あんなに派手で、男を何んとも思はないんですもの、多勢からヤイヤイ言はれるのが嬉しくてたまらない樣子でした。――お紋さんと一番仲の好いのは叔母さんのお常さんで、一番仲の惡かつたのは、お香さんか知ら――」
そんなことをツケツケ言ひます。男達に對しては、
「市五郎さんは、ありや少し馬鹿よ、威張つてばかりゐるんですもの。庄吉どんは氣が知れないから、私は大嫌ひ、怖いんですもの」
と、娘の神經を
「お紋は本當に隣りの金次のところへ嫁に行く氣だつたのか」
こんな微妙な問題に對しては、年頃の小娘が一番よく知つてゐることを平次は氣が付いたのです。
「散々男の方に騷がれると、お仕舞にあんな取柄のない男がよくなるのね。そりや金次さんは小意氣でちよいと好い男には違ひないけれど――」
さう言つた皮肉な觀察です。
「もう一つ訊くが、叔母のお常さんを怨んでゐる者はないのかな」
「叔母さんを怨んでゐる人――といふと、
「誰だえ、それは?」
平次は乘出しました。
「一年前に
「?」
「若い時分に、無理にでも嫁にやつてくれたら、四十島田で世間から變な眼で見られることもなかつたのに――ですつて、隨分勝手でせう。あんなに取りすましてやかましい事を言つてる癖に、叔母さんは心の中では、嫁に行きたかつたんですね、女つて變な意地を張つちやいけないのね」
ひとかどの事を言つて、分別臭い顏をするのです。
下女のお六は、もつと猛烈で不遠慮でした。二十七八の達者で口まめで、働きもするが
「お紋さんは騷がれることが好きで/\たまらなかつたのです。毎晩店の前を往つたり來たりする若い男だけでも、二三人はあつたでせう。中には手拭なんか冠つて、ちよいと乙な喉で唄なんか聽かせてね」
それは丁髷を結つた騎士達の、優にやさしきセレナーデだつたのです。
「叔母のお常さんはどうだい」
「あんなに利口な人ですが、時々氣むづかしくなつたり、泣いたり、笑つたり、人に突つ掛つたりすることがあります。不斷は申し分なく良い人で、物のわかつた方ですが」
それは
「――女は矢張り嫁に行くことですね。私なんかこれでも一度亭主を持ちましたが、呑む打つ買ふの三道樂に愛想を盡かして三年前に別れてしまひました――そんな亭主でも、可愛がつてくれさへすれば、辛抱が出來るぢやないか、獨りで淋しく暮すより、
お六は遠慮のない――存分に封建的な――ことを言ひます。が、お紋を怨む者の心當りはなく、腹の底では市五郎を疑つてゐる樣子ですが、證據のないことは、さすがに明ら樣にも言ひきれません。
これで平次は家中の者全部に當つて見たわけですが、困つたことに何んの手掛りも掴めなかつたのです。
家の中はもう灯りが入つて、悲歎と恐怖のうちにも、何んとなくザワザワしてをりました。
若主人の留守中に起つた異變で、采配をとるのは氣性者の叔母のお常。あとは掛り人の市五郎がよく働くだけで庄吉やお香はたいした役にも立ちません。
お紋の死體は檢屍が濟んだばかりで、まだ
死顏は思ひの外穩かで、佛作つて見えるのさへ哀れですが、すぐれた美しさは死もまた奪ふ由なく、豐かな肉付きや、整つた眼鼻立ち、叔母のお角の手で薄化粧をほどこしたのも、清らかさを添へて不思議な魅力です。
「斯んな綺麗な死顏を、私は見たこともありませんよ」
八五郎が感歎するのも無理はありません。
「それが頓死の證據だよ。急所を打たれて聲も立てずに死んだことだらう」
その急所といふのは、ぼんのくぼにたつた一箇所、學問的に言へば一と思ひに
「そんな恐ろしい急所を、誰が一體知つてゐたんでせう?」
「さア」
さう訊かれると、平次にも返答は出來ません。この事件が容易ならぬ深さを持つてゐることだけが、
もう
井戸とお勝手の流しとの間には、紙を貼つた荒い格子があり、その紙が一二ヶ所荒々しく破れてゐるのも、大家らしくない
「この井戸の底に何にかあるだらうと思ふが、斯う暗くなつちや手の付けやうもない。明日にも、井戸替へをして見てくれ。尤も井戸屋を連れて來る迄は、誰にも言ふんぢやないぞ」
平次はそつと八五郎に囁やきました。
井戸から十五六歩で二軒長屋があり、一軒は建具屋の金次が住んでをり、一軒は浪人の庵崎數馬が住んでをります。何方も一人者ですが、表通りに面した建具屋の方は、何んとなく裕福さうで、裏側の浪宅は、ひどく貧乏臭いのは妙な對照でした。
「何處へ行くんです? 親分」
「御浪人の家を覗いて見るよ」
「うるさい二本差ですよ」
「うるさいくらゐの方が宜いよ、よく物を言ふから」
平次はそんな事を言ひながら、二軒長屋の一方、浪人庵崎數馬の家のお勝手口に立つてをりました。
「御免下さい」
「誰だ、今頃」
「神田から參りましたが、平次と申すもので――」
「何んだ、錢形の親分か、――改めて名乘るにも及ぶまい。待て/\晩飯の支度中で
氣樂さうな
「いえ、此處で結構で」
平次は相手の氣輕な調子に乘るでもなく、モヂモヂしてをります。調子は少々亂暴でも、この庵崎數馬といふのは、なか/\立派な男でした。
恐ろしい皮肉屋らしく、言葉に毒を含んでゐるので、氣むづかしい男とも見られますが、本人は案外
「錢形の親分の前だが、隣りの金次親方を縛つて行つたのはありや大變な見當違ひだよ。あの男は、チヨイと色男がつて、氣障ではあるが飛んだ氣の小さい男さ」
「へエ、さうですか」
「それにお紋と戀仲で、近いうちに祝言することになつてゐたんだ。この俺が兩方から仲人を頼まれたんだから嘘ぢやない。――上總屋の若主人が歸つて來れば、祝言する筈になつてゐた女を、何が不足で殺すものか」
「――」
これは平次も一言もありません。金次とお紋が庵崎數馬に仲人を頼んでゐたといふのは初耳です。
「
「へエ、金次の外にお紋を怨んでゐる者は?」
「どう考へてもないから不思議だよ。そりやお紋に氣のあつた若い男は、町内だけでも三人や五人はあるだらうが、お紋といふ娘は、陽氣で明けつ放しで、どんな事をしても人に怨まれるやうな人間ではなかつたよ」
「――」
「あれは徳な性分さ」
庵崎數馬ほどの人間も、ひどくお紋には好感を持つて居た樣子です。
「これは話が別になりますが、お常さんを裸體にしたのは誰でせう。井戸端へ縛つて
平次の問ひは飛躍しました。
「あの女なら俺でもちよいと惡戯がして見たくなるよ」
「へエ?」
「あんまり取りすましてゐるからさ。男といふ奴は、飛んだ物好きなところがあるものだよ。この上もなく身仕舞がよくて、誰にも物を言はせない程賢こくて、四十三になるまで男に
庵崎數馬、尤らしい顏をして、飛んでもない事を言ふのです。
「旦那がそのお常さんを後添ひにと望んだこともあるさうぢやございませんか」
「そんな氣になつたこともあるよ。俺より二つ三つ歳上だが、あの通り若々しくて綺麗だから」
「それをどうして破談になすつたんで?」
「あの女は如才なくて賢こいが、ちよいと氣むづかしいところがあると聽いて氣がさしたのだよ。時々蟲のせゐで、何んでもないことに泣いたり笑つたり、新しい着物をビリビリ破つたりするさうだ。浪人者の貧乏な
「それは誰が言つたんです」
「まア、言はないことにしよう。上總屋の家の者がそれと教へてくれたに違ひないが――お紋ぢやないよ」
「ところで、旦那、――武藝の方は御自慢でせうな」
「そんな藝當があれば、浪人はしてゐないよ」
「でも、首筋――あのぼんのくぼが急所だといふことは武藝の方ではわかつてゐることでせう」
「それくらゐのことは誰でも知つてゐる――あれくらゐのことなら、
「有難う御座いました」
「いやお禮には及ばない。その代り、お紋殺しの下手人などにはして貰ひたくないな。――お常の方なら隨分裸に剥いて井戸端に
「では、御免下さい」
平次は庵崎數馬の長廣舌を逃れて、兎も角もきり上げる外はなかつたのです。
「親分、天眼通だね」
「何が?」
八五郎が明神下の平次の家へ飛び込んで來たのは、その翌る日の夕方でした。
「上總屋の井戸の中から、大きな
「その鑿はどうした」
「町役人に預けて來ましたがね」
「矢つ張りさうか。上總屋の雨戸をコジ開けてお紋の背筋を毆つたのは、大鑿に違ひないと思つて居たよ――ところでその鑿は誰のだ」
平次は訊ねました。
「その
「あつたやうだな」
「其處へ入つてゐる大工が、一々重い道具を持つて歩くのが面倒臭いと言つて、道具箱を浪人者と建具屋がもあひで使つてゐる、物置の中へ預けて行くんださうですよ。物置の戸は上總屋の庭の方に向いてゐるし、鍵も
「大鑿のなくなつたことを、持主の大工も氣が付かなかつたのか」
「建前が濟んで穴掘りの大鑿は要らなくなつたから、二三日氣が付かずにゐたんでせう」
「變つたことはそれつきりか」
「まだありますよ――建具屋の金次は歸されましたぜ」
「そんな事だらう」
「それからもう一つ、こいつは大事のことだが、殺されたお紋は、叔母のお常を裸にして、井戸端に縛つた相手を知つてゐたらしいと言ふんです」
「そいつは初耳だ。誰だえそれは?」
「お紋もこればかりは言はなかつたさうです。あの明けつ放しで遠慮を知らないお紋も、――これを打ち明けると叔母さんへ氣の毒だから――と仲の好い女同士にも、戀仲の金次にも打ちあけなかつたさうで」
「惜しい事だな、それさへ打ち明けてくれたら――」
平次は口惜しがります。
「もう一つ」
「何んだえ、早くブチまけてしまひな。あんまり出し惜しみするとネタが下積になるよ」
「つまらねえことだから、忘れてゐたんですよ。――金次の野郎が、近頃チヨクチヨクお紋を呼び出して、逢引をしてゐたんださうですよ」
「祝言前の二人がね?」
「祝言前の
「その逢引は、金次が合圖をするんださうです。庭へ入ると嫁や内儀の耳に入るから、わざ/\表へ廻つて、手頃の小石を拾つて、店の戸を二つづつ三つ、二つづつ三つ叩くんださうです。本人達は内證のつもりでも、家中で知らない者はありやしません」
「お前はそれを誰に聽いた」
「あのお轉婆娘のお雪が教へましたよ」
「お紋が殺された晩、それを聽かなかつたのかな」
「ぐつすり寢込んで何んにも知らないさうです。内儀とお六の部屋は店から遠いから、その合圖を聽けば、叔母さんのお常さんくらゐのものださうで――」
「お常に訊いて見たか」
「
「金次は確かにあの晩お紋を誘ひ出さなかつたのか」
「それは大丈夫です。金次が一と晩外へ出なかつたことは、親分も聽いた通り壁隣りの
ガラツ八の報告はそれで終りました。平次はいろ/\の材料を手に入れた樣子ですが、さて容易に御輿を上げようともしません。
それから又幾日か經ちました。上總屋のお紋殺しは容易に擧がらず、市ヶ谷の喜三郎は
八日目、お紋の初七日の法事が濟んだ翌る日の晝頃、八五郎は明神下の平次の家へ飛び込んで來ました。
「親分、上總屋は三人目だ。大急ぎで行つて見て下さい」
息せき切つて、まさに果し眼です。
「どうしたんだ、八」
「どうも
「怪我は?」
「叔母のお常は離れてゐたので、
「ひどい事をするな、放つて置けない奴だ。行かう八」
錢形平次がこんなに腹を立てるのは滅多にないことでした。この平次の憤怒の前には、鬼神と
「今度は是非
八五郎は江戸の娘が根絶やしになりさうなことを言ふのでした。
「どうせ同じ野郎の仕業だらう」
「何んの意趣で、綺麗な娘にばかり
「さう言へば娘ばかり狙つてゐるやうだな。四十三のお常も娘には違げえねえ。――ところで昨夜二人は曲者の姿を見なかつたのか」
「昨夜薄暗くなつてからですもの、何んにも見えなかつたさうですよ。怪我の輕い叔母のお常は、二軒長屋の方へ黒い者が逃げ込んだやうだとは言つてをりましたが」
そんな話を聽きながら平次と八五郎は市ヶ谷の上總屋へ飛んだのです。
上總屋の店中は重なる變事に
お雪は自分の部屋で、母親に看病されて
「あの通りです。顏が助かつたのは何よりですが、――何んだつてこんなに上總屋へ
母親のお角はツイ
昨夜の樣子を訊くと、
「叔母さんと二人、薄暗くなつてから井戸端で洗濯をしてをりました。お紋さんが死んでから、ゴタゴタして洗濯物を片付ける隙もなかつたんです」
「――」
平次は默つて先を
「私は流しの中で、叔母さんはその向う側にゐました。お六が煮え立つた二度目の湯を持つて來てくれたので、直ぐ使へるやうにいつもの通りその大釜を
お雪はその時の恐ろしさに顫へながらも、苦痛を忍んでかなり筋道を立てて話してくれました。
「人の姿は見なかつたのだな」
「私は何んにも見ませんが、――叔母さんは見たやうな氣がすると言つて居ました。横の方に後ろ向きになつて居たのでよくわからなかつたのでせう」
平次の訊くことはそれだけでした。
叔母のお常を呼んで貰ふと、これは昨夜からの心配に痛々しいほど打ちひしがれて、
「飛んだことをしまして。私が附いて居て、嫁入前の娘に怪我なんかさせて――そんな事があらうとは思ひませんから、私が
と、お常は兩手の繃帶などを見せるのでした。話をそれくらゐにして、平次は井戸端へ廻つて見ました。頑丈な栗材の井桁の上は、廣々として充分の安定感があり、釜一つ置いたところで、何んの危な氣もありません。
それからお勝手へ行つて、下女のお六にその大釜を借り、水を一杯張つて、井桁の上に置きましたが、突いても押しても、こいつは容易のことで引つくり返りさうもありません。
「八、お前は嫁のお香に逢つて、そつとこれだけの事を訊いてくれ。叔母のお常さんには、何んか妙な癖がないか、――それから、その叔母のお常さんが井戸端に裸で縛られてゐた時、
「親分は?」
「俺は上總屋に出入りしてゐる
「承知しました」
「それが濟んだら、薄暗くなる頃あの井戸端へ來てくれ。家中の者を集めて話したいことがある」
「親分にはもう、下手人がわかつたんでせう。皆んなを集めて話す氣になるやうぢや」
八五郎は先を潜りますが、平次は思ひの外落着いて、
「いや、まだわからない事が澤山あるが、さうでもしてこの上のワザをしないうちに、下手人と一騎討の勝負をしようといふのだよ。放つて置くと今度は、うけ合ひ嫁のお香がやられる」
「本當ですか、親分。さう聞いちや」
八五郎は
それから半日、薄暗くなつた上總屋の井戸端には、家中の者が全部揃つて、平次の話し出すのを待つてをりました。
その頃はもう月の出が遲く、誰が何處に居るやら、顏の見分けも覺束ないくらゐ、その中を平次の聲だけが、不氣味に
「八、お前は昨夜お雪さんが洗濯をしてゐた場所――その流しの中へ入つて、盥の前へ
「斯うでせう、親分」
「――」
誰も動いた者も、口をきいた者もありません。暗がりの中に、不氣味な沈默が暫らく續いたと思ふと、不意に――
それは全く不意でした。井桁の上に置いた大釜は、誰も傍へ寄つた者もないのに、獨りでに轉げ落ちて、その中に一パイに張つた水が、八五郎の頭の上から、ザブリと、――眞に思ひおくところなく浴びせたのです。
「ワツ熱! ――いや冷てえや、何んてことをしやがるんだ」
八五郎は突つ立ち上がりました。全く文字通りの濡れ鼠です。
「怒るな、八、ちよいと仕掛けを試しただけだ。お雪さんがお前ほど不用心だと、間違ひもなく頭から煮え湯を
「冗談ぢやありませんよ、親分。風邪を引くぢやありませんか」
「まア、勘辨してくれ。着物は俺のと換へてやつた上、歸りに一杯
平次の説明はあまりにも恐ろしいものでした。六七人の暗がりに立つた人數は、
「この井戸へ澤庵石を落したのも、同じ仕掛けだ。井桁の上に澤庵石を乘せて、その下の釜敷に縛つた綱の先をお勝手の格子から通し、流しのところで綱を引くと、井戸の中へ澤庵石が落ちる仕掛けだつたに違ひない。――流しの向うの新しい障子に、妙な穴があるとは思つたが、こんな仕掛けとは今日まで氣が付かなかつたよ――
「親分」
八五郎はもうウジウジしてをります。
「俺に訊きたいことがあつたら後にして、お前は
「叔母のお常さんを井戸端に縛つた
「それから?」
「そのお常さんは、不斷はあんなに確り者らしいが、妙に氣違ひ染みたところがあつて、氣が
八五郎の報告は、
「もう一つ?」
「その叔母のお常さんの癖を、うつかり庵崎さんに漏したのは――」
「よし、もう解つた。ところで叔母のお常さんは何處にゐるんだ」
平次の注意に驚いて、ハツとして人達は、薄暗がりの中で
「居ない」
「居ない」
「ツイ、今しがたまで此處にゐたのに」
内儀のお角はすつかり顫へてをります。
「誰も氣が付かなかつたのか。お常さんは八五郎親分が大釜の水を
何時の間に此處へ來たのか、隣りの浪人
「親分、すぐ追つ驅けませうか」
八五郎はいきり立ちます。
「あの上お
「歸らうか、八」
默りこくつて居る人達に目禮して、平次はそのまゝ引揚げるのでした。
まだ月は出ず、
翌る日叔母のお常の水死體は、お濠から上げられました。それがこの悲劇のあつけない結末だつたのです。
事件落着の後、八五郎は相變らず、この『女護の島異變』の繪解きを平次にせがみました。
「氣の毒なことに、お常は自分のせゐで
今の
「――人間が賢こくて、諸藝にも達し、人に物を言はせない女だけに、その淋しさ苦しさは骨身に
「へエ、不思議な人間ですね」
「それが
「?」
「あの行水の騷ぎも、――庵崎數馬が飛んで來るのを勘定に入れて、自分の手で自分を縛つて、裸體のまゝ氣を
「何んだつて、あつしなんかを泊める氣になつたんでせう」
「八五郎に氣があつたのさ」
「冗談でせう」
と。八五郎の顏は二十パーセントほど長くなります。
「それは嘘だが、いろ/\
「へエ、早く言へばあつしは甘く見られたわけで」
「遲く言つてもその通りだ」
「お紋を殺したのは?」
「お常は、お紋が憎かつたのだ。申し分なく綺麗で、若くて陽氣で、男に大騷ぎされるお紋が、心の底から憎かつたのだ。その上お紋は叔母のお常が井戸端に
「――」
「お紋を殺した晩は、夜中にそつと起き出して、金次のやる呼び出しの合圖で、お紋を店先におびき出し、暗がりから不意に飛び出して、隱してゐた
平次の推理は見て居たやうに正確に展開して行きます。
「ぼんのくぼを打つて殺したのは、恐ろしい智慧ぢやありませんか」
「俺は先刻
「成程ね」
「それだけで止せば、まだわからなかつたかも知れないが、お常は次第に増長して今度は内儀のお角に思ひ知らせようとした」
「お角に」
「お常に惡い癖のあることを、庵崎數馬に
「まるで鬼ですね」
「病氣のせゐだよ――ところで、澤庵石を井戸へ落した
「へエ、驚きましたね」
「俺はあんな氣違ひを縛るのは嫌だ。
平次は併し滿更それを豫期しないわけではなかつたのでせう。
「怖いことですね」
「だからお前も早く嫁を見付けることだよ。女だつて男だつて何時までも獨りでゐるのは良くねえ」
「道理であつしも時々裸になりたくなりますよ」
「裸になつて質屋に飛び込む口だらう。お前などは」
「違げえねえ」
二人は聲を合せて笑ひました。上總屋事件の陰慘さがこれで