錢形平次捕物控

女護の島異變

野村胡堂





「親分、面白い話がありますよ」
 お馴染のガラツ八こと八五郎、髷節まげつぷし赤蜻蛉あかとんぼを留めたまゝ、明神下の錢形平次の家へ、庭木戸を押しあけて、ノソリと入つて來ました。庭一パイの秋の陽に、長んがい影法師を泳がせて、この上もなく太平無事な姿です。
「髷節を赤蜻蛉あかとんぼの逢引場所にしてゐるやうな野郎だもの、この世の中が面白くてたまらねえことだらうよ」
 平次は腰から下だけ椽側に出して、秋の生温かい陽を享樂しながら、腹ん這ひになつたまゝ、ものの本などを讀んでゐるのでした。
「何を讀んでゐるんです、大層面白さうぢやありませんか。矢張り金平本きんぴらぼんと言つたやうな?――」
「馬鹿だなア、そんなものを大の男が、ニヤニヤしながら讀んでゐられるものか」
「へエ、親分は學があるからたいしたものだ。――笹野さゝのの旦那もさう言つて居ましたよ。平次は四角な字も讀めるから、唯の岡つ引には勿體ないつて」
「チエツ、古渡こわたりの岡つ引が聞いて呆れらア、俺は唯の岡つ引で澤山だよ」
「すると、その面白さうな書物は、矢張り岡つ引の傳授書見てえなもので?」
「間拔けだなア、まだ岡つ引にこだはつてやがる――こいつはそんなイヤな本ぢやないよ。北村湖春こしゆんといふ人が書いて、近頃評判になつてゐる『源氏物語忍草しのぶぐさ』といふ日本一の好い男のことを書いた本さ」
「へエ、日本一の好い男ですかえ?」
「不足らしい顏をするなよ、お前と張合ふ氣遣けえはねえ。昔々の大昔の色男だ。光る源氏と言つてな、まるで八五郎に垂直ひたゝれを着せたやうな男さ」
「間拔けた話で、――烏帽子ゑばうしを冠つて女の子を口説く圖なんざ、たまらねえ」
 八五郎は平掌ひらてひたひを叩くのです。
「ところで、お前の方の面白い話といふのは何んだえ」
 平次は起き上がつて煙草盆を引寄せました。
「親分のめえだが、あつしは妙なところから用心棒に頼まれたんですがね」
「まさか賭場とばぢやねえだらうな」
「飛んでもねえ。あつしが勝負事の大嫌ひなことは、親分も知つて居なさるでせう。挾み將棋しやうぎでも、ジヤン拳でも勝つたためしがねえ」
「そんな事が自慢になるものか。それぢや見世物かお茶屋か、それとも比丘尼びくに長屋か、いづれにしても十手をひねくり廻して、筋のよくねえ禮などを貰ふと承知しねえよ」
 平次は以ての外の機嫌です。
 役得を稼ぐくらゐなら、女房に駄菓子でも賣らせて、十手一梃の清淨さを保たうと覺悟をきめて居る平次だつたのです。
はゞかりながら、そんなさもしいんぢやありませんよ。あつしに來てくれといふのは、市ヶ谷で評判のたけえ女護の島」
「そんな變なのが江戸の眞ん中にあるのか」
「へツ、あるから不思議で。女ばかりの一と世帶――と言つたつて、羅生門河岸らしやうもんがしの青大將臭せえのとは違つて、大年増から中年増、新造から小娘まで揃ひも揃つたり、箱から出し立ての、雁皮がんぴを脱がせたばかりと言つた、樟腦臭しやうなうくさい綺麗首が六人」
 八五郎は大きく身振りをして、八つ手の葉つぱのやうな左の掌へ、右手の人差指を一本添へてニヤニヤするのです。
「何んだそれは? 市ヶ谷八幡樣の巫女みこの宿でもあるのか」
「飛んでもねえ、へつゝひ横町の上總屋かずさやですよ。あの邊きつての大地主で、女六人の世帶だが、近頃不氣味なことがあつて、おち/\夜も休まれないが、氣心の知れない者に泊つて貰ふのも嫌だし、年寄りや子供ぢや、いざといふ時に役に立たねえから、迷惑でもあらうが、八五郎親分に來て泊つてくれと、たつての頼みで――」
「誰が頼んで來たんだ」
「上總屋のめひで、掛りうどになつてゐるお紋といふ、少し鐵火てつくわだが、滅法綺麗なのが、向柳原の叔母の知合ひで」
「男は一人も居ねえのか。主人はどうしたんだ」
「主人の總兵衞は去年の春死んで、伜の總太郎は死んだ父親が夢枕に立つたとやらで、町内の鳶頭かしらを供に、親の骨を背負つて遙々紀州は高野山へ行きましたよ。不氣味なことはその留守に起つたんで」
「外に男は?」
「番頭の庄吉と、掛り人の市五郎、何方も若くて好い男だが、――若くて男が好いだけに、女世帶には危なくて置けねえと、當主の總太郎の叔母に當るお常さんが固い事を言つて、庄吉は隣り町の親の許から晝だけ通はせ、市五郎は裏の家を借りて、そこに住はせてをりますよ」
「そこで、お前ならたいした男つ振りでもなし、危なげがないから、安心して泊つて貰へるといふ寸法か」
「有難い仕合せで、女除けの護符おまもりは手前共から出したいくらゐのもので、へツ」
 八五郎はニヤリニヤリと短かからぬ顎を撫で上げるのです。
「で、どう返事をしたんだ」
「それを相談に來たんですよ。ね親分、近頃あつしに汗を掻かせる程の仕事もないから、ちよいと洒落しやれに、女護の島の用心棒に行つて六人の女の子にチヤホヤされながら一とまはりも保養して見ようかと思ふんですが」
「宜い氣なものだ」
 錢形平次もそれを強ひて留めませんでした。上總屋に立ちこめてゐる異樣な空氣を直感したといふよりは、ガラツ八の骨休めに、女世帶の中に一と週りも轉がして置くのも面白からうと言つた惡戯氣だつたかも知れません。


 三日目、八五郎はフラリと明神下の錢形平次の家へ長んがい顎を持つて來ました。
「何うした八、大層寢起きの惡さうな顏ぢやないか。女護の島から追ひ出されたのか」
 平次は相手欲しさうでした。御用が暇で、粉煙草がなくなつて、女房のお靜が何處かへ小遣こづかひの工面に行つた留守などといふものは、錢形平次といへどもスポイルされずにはゐられません。
「追ひ出されるどころか、持て過ぎて困りましたよ。これぢやとても身體が續かない」
「間拔けだなア」
「それに若主人の總太郎が、お供で行つた鳶頭かしらおだてられて、草鞋わらぢをはいたついでに、路用もふんだんにあることだし、親の骨を高野山に納めたら、讃岐さぬき金毘羅こんぴら樣に廻つて、嚴島いつくしまにお詣りして、京、大阪を見物して、善光寺樣へ廻つて歸ることにしたと、――斯う言ふ手紙が、駿府から飛脚便ひきやくびんで着きましたよ。家を出るとき、そんな長旅の目論見もくろみを漏しでもしやうものなら、女共が留めるにきまつてゐますからね」
「成程そいつは良いだ」
「親が夢枕に立つた話だつて、本當か嘘かわかつたものぢやありません。――その證據には、あつしが斯んなに小遣ひで苦勞してゐるのに、死んだ親父もお袋も夢枕に立つて、貸してくれさうな口を教へてくれたためしがねえ」
 八五郎はそんな氣樂なことを言つて、大きい掌で、鼻から顎のあたりをブルンと掻き廻すのでした。
「成程、俺も思ひ當るよ、――ところで、どうしろといふのだ」
「若主人が歸つて來るまで、どう勘定しても、あと一と月はかゝるでせう。その間女世帶では心細いから、あつしに泊つてゐてくれと、斯ういふ話で」
「よく/\無事な野郎と思はれたんだね」
「有難い仕合せで」
「誰が一體お前を引留めるんだ」
「若いのだつて、あつしにゐて貰ひたいことは腹一杯だが、極りが惡いから口に出しちや言やしません。其處へ行くと叔母のお常さんといふのは年を喰つてゐるから、あつしの首つ玉に噛り付くやうにして――」
「嘘を突きやがれ」
「首つ玉は嘘だが、袖ぐらゐは引つ張りましたよ。――ほころびがきれちやゐないかな」
 などと袖口を見たりする八五郎です。
「その叔母さんといふのは幾つだ」
「四十三、――男でいへば厄過ぎの分別盛りだ。若い時分はさぞ綺麗だつたことでせう。諸藝に達して、悧巧過ぎて、あれやこれやと迷つてゐるうちに、到頭き遲れになつたといふ、大變な大年増ですよ」
「女六人も居たら淋しいことはあるまいが、何んだつて用心棒が要るんだ」
「それが、その變なことばかりあるんで」
「たとへば、どんな事が?」
「たまらねえ話で、へツ」
「嫌な野郎だな、一人で嬉しがつて居たつて、俺には通用しねえ」
「姐さんはゐませんね」
 八五郎は首をちゞめて、お勝手などを覗くのです。
「居ないよ、――水の手がきれて、明日の籠城も覺束なくなつたんだ。叔母さんのところへでも、工面に行つたんだらう」
「錢形の親分がね、へエ」
「人の貧乏を感心する奴もねえものだ。お前に達引たてひいてくれとは言はねえ」
あきれたものだ」
「俺の方が呆れるよ。ところで、俺の女房が居ちや話されないことと言ふのは何んだ」
「若い女の前ぢやちよいと話しにくいことで、へツ」
「又ニヤニヤしやがる」
餅肌もちはだの大年増、搗き立てのやうに湯氣の立つのが、素つ裸で井戸端へ縛られてゐたとしたら、どんなもんです親分」
「何んだつまらねえ、寒垢離かんごりが追ひ剥ぎに逢つたてな――おちだらう」
「九月の十三夜ですよ。薄寒いと言つてもまだ秋になつたばかりだ」
「その十三夜に搗き立ての湯氣の立つ餅が井戸端に轉がつてゐた」
「交ぜつ返しちやいけません。――上總屋の若主人の叔母で、先代の總兵衞の妹お常さん――四十三と言つてもこれは一度も嫁に行つたことのない人だから、間違ひもなく娘だ。それが井戸端で搗き立ての餅だから驚くぢやありませんか」
「驚くよ、お前の望み通り驚いて見せるから、もう少し順序を立てて話して見な」
 平次と八五郎の掛合噺かけあひばなしは際限もなく發展します。


 上總屋の叔母のお常は、四十三の老孃オールドミスでしたが、身だしなみが良くて綺麗好きで、三十二三にしか見られないと言はれるのが、この上もないほこりだつたのです。
 その頃の江戸は、町家は言ふまでもなく、武家でも内風呂を持つてゐるのはたいした贅澤で、一般の人達は町風呂へ行くのが精一杯、暖かいうちは、行水で濟ますのが世間並だつたのです。
 大谷某が鐵砲風呂を發明したのは、戰國の末期から徳川の初期で、町に丹前風呂たんぜんぶろの出來たのは、それから又少し後になります。幡隨院ばんずゐゐん長兵衞の時代には、風呂は全く御馳走の一つに相違なく、浮世風呂が江戸名物の一つになつたのは、三馬、一九時代、すなはち化政度から天保へかけての幕末風景と見るべきであります。
 そんな時代のことですから、大地主の上總屋の女共が秋口に行水を使つたところで、何んの不思議もなく、その晩も大釜一ぱいに沸かした湯を、戸板で嚴重にかこつた井戸端に持つて行つて、内儀のお角が第一番に、續いて叔母のお常だつたり、娘のお雪だつたり、めひのお紋、嫁のお香がそれに續き、下女のお六で終るのが、大抵亥刻よつ(十時)近くなるのが例でした。
 九月十三夜は、お月見のゴタゴタで叔母のお常がひどく遲れ、嫁のお香の後で使つたのは、やがて戌刻半いつゝはん(九時)といふ頃。
「叔母さんはどうなすつたんでせう。ちつとも音がしませんが」
 下女のお六が氣の付いたのは、亥刻よつ(十時)近くなつてからでした。
「見てお出でよ、居睡りして風邪でも引くといけないから」
 姪のお紋は遠慮なく張り上げました。上總屋の家中で、叔母のお常に遠慮なく物の言へるのは、この氣性者のお紋一人だつたのです。
 下女のお六――二十七八になる達者なのが、手燭を持つて、裏口から井戸端を覗いた樣でしたが、いきなり市ヶ谷中に響き渡るやうな、野放圖な聲で、
「た、大變ツ、叔母さんが」
 と、わめき散らしたのです。
 お勝手にゐた嫁のお香と、内儀のお角が驅け付けた樣子ですが、あまりのことに仰天したらしく、暫らくは言葉もありません。
 丁度泊り合せた八五郎と、――若主人の總太郎は留守中ですが、片月見になるのを嫌つて、形ばかりの月見の宴に招ばれた、裏に住んでゐる浪人者庵崎いほざき數馬と、その相手をしてゐた、掛り人の市五郎は、行燈と燭臺と、手當り次第に灯りを持つて、氣の毒なことに、四十三になる處女をとめお常の一世一代の恥を見盡すことになつたのでした。
 井戸端を圍つた戸板は滅茶々々に倒され、大盥おほだらひは湯を張つたまゝですが、肝腎のお常は一糸もまとはぬ湯上がりの裸體はだかで、井戸端の柱に自分の扱帶しごきで縛り付けられ、死んだか目を廻したか、流しの上に投り出されたやうに倒れてゐるのです。
 その全裸體の半面はやゝ登つた十三夜の明月に、青々と照し出され、あとの半面には、六つ七つの灯りを明々と浴びて、それは實にたとへやうもなく凄まじい媚態びたいです。
 四十三の處女お常は、贅澤と我儘が嵩じてきそびれたので、決して醜い女ではなかつたのです。それどころか、骨細でよく脂ののつた肢體は、白く柔かくて、血の通つてゐる眞珠を見るやうな美しさでした。その足首のあたりは手拭で縛られ双手を後ろに廻したまゝ、わなへ入れた恰好に締め上げられて、車井戸の柱に縛られた樣子は、まさに『責めの姿態ポーズ』の典型的なもので、非凡の美しさと見る人もあるでせう。
 その上、月の光に照らされた半面は、青白く淨化されて、この世のものとも覺えず、一パイに灯りを受けた反對面は、存分に妖艶で肉感的で、この上もない媚態とさへ見えたのです。八五郎の言ふ『井戸端のき立ての餅』は、本人が氣が付いたら、死んでしまひたくなるほどの恥かしさだつたでせう。
「寄るな/\、灯りを皆んな消して、男共から先に家の中へ引つ込むのだ」
 浪人庵崎數馬はまだ四十歳前後ですが、さすがに第一番の常識家でした。さう言はれて氣の付いた八五郎は、職業意識を働かせて、お常の身體を抱き起しましたが、まだ確實に息があると見ると、十手の手前とは言ひながら、さすがに冒涜的ばうとくてきな行爲にハツとした樣子で、飛び散つた戸板を取つて女の身體を隱しながら、
「寄るな/\、死んでゐるわけぢやない。世話はお内儀さんとお紋さんに委せて澤山だ」
 などと大手を擴げるのです。
「何が始まつたんです」
 いきなり裏木戸から飛び込んで來て、マジマジと眺めてゐるのは、二十七八のちよいと小意氣な男でした。
「何んでも宜い。そんなところからのぞく奴があるか、馬鹿ツ」
 八五郎は怒鳴ります。
あつしは隣りの建具たてぐ屋の金次ですよ。怪しい者ぢやありません」
「女の行水を覗く野郎は怪しいに極つてゐるぢやないか。さつさと消えてなくならねえと水をブツ掛けるぞ」
 八五郎の手は口より早く動いて、井架ゐげたの上に乘せてあつた一と釣瓶つるべの水は月光に瀧を懸けて、建具屋の頭から浴びせてしまひました。
「何んでえ、何んてえことをしやがるんだ。犬がつるんでるわけぢやねえ、人に水なんかブツ掛けやがつて」
 金次はいきり立ちましたが、市五郎になだめられて、澁々引取りました。相手が惡いとか何んとか注意されたのでせう。
 その間に内儀のお角とめひのお紋は、お常の手足を解いてざつと拭いてやり、手車で家の中へ運び入れようとしましたが、伸びきつた中年女の身體は、内儀とお紋の力では始末にいけず、十手の手前、八五郎が手を貸して、漸く椽側に移しました。四十三歳になる處女の肉體の感觸は、八五郎をフラフラにしたことは言ふまでもありません。
 床の上に寢かして、氣付けを一服やると、お常は漸く本心を取り戻し、パツチリ夢見るやうな眼を開きましたが、床の上にキチンと寢かされて、たいして取り亂した樣子もないのを確かめると、暫らく不思議さうに四方あたりを眺めてをります。
「小母さん、どう氣分は?」
 默りこくつてゐる一座の中で、斯う最初に口をきつたのは、陽氣で明けつ放しで、一番美しい、めひのお紋でした。これも少しき遲れの二十一、叔母のお常が自分の過去に鑑みて、あんまり贅澤を言はずに、早くとつぐやうにと勸めますが、勝氣で威勢がよくて、自分のきりやうに自信を持つてゐるだけに、選り好みを言つて、まだ白齒のまゝに年を腐らしてをります。
「あ、お紋さん、私はどうしたのか知ら」
 お常はようやく正氣に還つたらしく、改めて一座の顏を見廻しました。其處には兄嫁のお角と下女のお六と、姪のお紋と、そして御用聞の八五郎が固唾かたづを呑んで控へてゐるではありませんか。
「縛られてゐたのよ、井戸端へ裸――」
「シツ」
 内儀のお角は、あわててその口をふさぎました。四十三の處女が、裸で井戸端に縛られたのを、多勢の者に見られたと知つたら生きて居られない氣持になるかも知れないのです。
「どうしたのだえ、お常さん。惡戯にしてもたちが惡過ぎるぜ――くはしく話してくれないか」
 八五郎は柄にもなく分別臭い顏を出します。
「あ、八五郎親分、私はどうしたことでせう」
 お常はさすがに消えも入りたい風情でした。
「それがわからないから、前後あとさきのことを訊きたいのだよ」
「私は、いつものやうに行水を使つてゐると、後ろの方でコトリと音がしたやうな氣がしたんです。――御近所に惡い若い衆があつて、二階から遠眼鏡とほめがねで見て笑ひものにしたり、行水を覗いてからかつたりすると聞いてをりますから、ハツと思つて振り返るとたんに、恐ろしく重いもので、首筋を打たれ、そのまゝ氣が遠くなつてしまひました」
「どの邊だい」
「この邊だと思ひますが」
 お常は自分の手で首筋に亂るゝ毛を掻き上げて見せました。心持その邊が赤くなつてゐるやうでもありますが、四十三の娘の首筋から喉へかけての美しい線は、まことに玉を伸べたやうで、八五郎の眼をクラクラさせます。


 事件はこれからが本筋で、お常の災難は、さゝやかな發端に過ぎなかつたのです。
 それから三日目の朝。
 姪のお紋――あの陽氣で明けつ放しで、勝氣で滅法綺麗なのが、半裸體に剥がれたまゝ、場所もあらうに、上總屋の店先――下水の溝板どぶいたの上に、大の字なりに引つくり返つて死んでゐたのです。
 早起きの往來の人が見付けて騷ぎ出し、黒山の人だかりになつた頃、家中の者がようやく氣が付きました。
「寄るな/\、何んといふ恥つ掻きな奴等だツ」
 寢卷姿の八五郎が、彌次馬の眼の前へ立ちふさがつた時は、お紋の醜體は、氣の毒なことに、おほふところなく諸人に見盡されてしまつたのです。
「親分、其奴等へ水でもブツ掛けて下さい。あつし一人の力ぢやどうにもならない」
 泣き出しさうにして、お紋の死體をかばつてゐたのは、お紋に氣があるとか、お紋にはじかれたとか、かんばしからぬ噂を立てられてゐる、お隣りの建具屋の金次でした。
「兎も角、此處へ置くわけに行かねえ。手を貸しな」
 八五郎が頭の方を抱き上げると、『あつしが』『いや俺が』と二三人の若い男が、お紋の死體の腰から足に飛び付きます。
「野郎、――お前なんざ引つ込んでゐろ、誰が殺したか解らないんだぞ」
 この時驅け付けた掛り人の市五郎は、建具屋の金次を死體からもぎ離して、後生大事にお紋の足を持ち上げるのです。
「何をツ、野郎ツ」
 金次はその胸倉にかぶり付きました。
「止しなよ、何んといふことだ――この山犬共に任せると、どんなことをやり出すかわかつたものぢやねえ。お六どん手を貸しなよ」
「へエ」
 下女のお六は恐る/\手を貸して、どうにかお紋の死體を家の中に運び込みました。内儀のお角も、娘のお雪も、嫁のお香も、全く轉倒してしまつて、家の中の混亂は加はるばかり。僅かに昨夜までは床から離れなかつた叔母のお常が、蒼い顏をしながらも、彼れこれ指圖をしてをります。
 お紋の部屋はたいして取亂した樣子もありませんが、床は敷きつ放したまゝで、茜裏あかねうらの布團が不氣味にもなまめかしく口を開き、小用にでも起きて、そのまゝ歸らなかつたと言つた樣子です。
 その床の上へそつとおろして、さて役目柄の八五郎が改めて見ると、寢卷は双肌もろはだを押し脱いだまゝ、髮は少し亂れて、顏にはたいした苦惱の色もなく、生前の活々した美しさはないにしても、決してみにくい姿ではありません。それどころか、首筋から胸の丸味、その頃の娘にしては少し嫁き遲れではあつたにしても、二十一の成熟しきつた凝脂ぎようし、乳房のこんもりとした張り具合など、まことに死の淨化と言つた、言ふに言はれぬ美しさがあるのでした。
 打ち見たところ、傷は何處にもありません。肌は上半身だけであるにしてものみにさゝれた跡一つなく、首筋も玉を伸べたやうで、年盛りの女一人殺すほどの傷はないのですが、體温は冷えきつて最早呼び活ける見込みもなく、夜半前後に息を引き取つたことは疑ふべくもなかつたのです。
 頓死といふことも、一應は考へられないではありませんが、若く美しく、この上もなく幸福感に浸つてゐる女が、寢卷の双肌を押し脱いで、店先のドブ板の上へ、大の字になつて死んで居るといふことは、想像も許さぬことでした。
 フト思ひ付いて、死體の背後うしろを見た八五郎。
「あ、これだ」
 思はず大きい聲を出してしまひました。二、三日前叔母のお常がやられたといふ首筋の上部、所謂いはゆるぼんのくぼのあたり、重い鈍器で打たれて骨も碎けたらしく、ひどく脹れ上がつて、凄まじい黒血が溜つてゐるのです。
 八五郎はすつかり張りきつてをりました。此處で取つて置きの智慧を働かせて、晝前にも下手人を擧げたら、親分の錢形平次が、さぞ褒めてくれるだらうと言つた、日頃にもない巧名心こうみやうしんあふられて、誰彼れの差別なく捉まへては、お常とお紋をめぐる男の關係など、精一杯に聽き込んでゐたのです。
 が、その結果はたいした新しい手掛りが見付かつたわけではありません。叔母のお常は四十を越してからはすつかり諦めた樣子で、有髮の尼のやうに行ひすましてをり、現に浪人庵崎數馬が、たつてと後添ひに望んだときの如きも再應辭退して、振り向かうともしなかつたと言はれてをります。
 その上近頃はかんたかぶつて、眠られぬ夜が多くなり、身體に脂がのつて、益々健康がよくなると反比例はんぴれいに、氣持の上からは少しむづかしくなつて、男女關係のことに就ては、わけても潔癖けつぺきになり、自然家中の女の、見付役のやうな地位に押し上げられて居る有樣でした。
 それと反對にお紋は、陽氣で色つぽくて、兎角町内の噂が絶えませんでしたが、性根に何處か賢こいところがあり、容易に人に許さなかつたので、死んでからまでも建具屋の金次と、掛り人の市五郎が、鞘當てをするやうな妙なことが起るのでした。
 戸締りも念入りに調べましたが、騷ぎのすぐ後で、お紋の部屋の外の雨戸が一枚、外から無理に外されたらしく、敷居の外に落ちてゐることに氣がつきました。よく見ると敷居にはのみか何んか打ち込んだ跡があり、印籠抉いんろうじやくりになつてゐる雨戸が一枚、無理にこじ開けられたことは疑ふべくもありません。
 外から雨戸をこじ開けて入つた曲者が、お紋を殺してあんな死に恥までさらさせたとすれば、お紋をうんと怨んで居る男の仕業と見なければならず、お紋に心を寄せた男は、町内だけでも三人や五人でなく、中でも一番接近して居たのは、建具屋の金次と、上總屋の掛り人で、お紋に執拗しつこく附きまとつたために、店から遠ざけられ、裏の空店あきだなを借りて、夜だけ其處へ泊つてゐる市五郎でなければなりません。
 頭の動きの遲い八五郎が、此處まで辿たどりつくには、ざつと一刻近くもかゝりました。さていよいよ金次と市五郎の昨夜の動きを調べて見ようと言ふ矢先でした。思はぬ支障が、八五郎の出鼻をくじいてしまつたのです。


「八五郎親分、御苦勞だな」
 子分の二人まで連れて、上總屋へ乘込んで來たのは、市ヶ谷の喜三郎といふ、中年者の良い御用聞でした。
「おや、市ヶ谷の親分」
 八五郎は妙にくすぐつたい氣持になります。
「八五郎親分は、この間から上總屋に泊り込んでゐるさうぢやないか。鼻の先で殺しがあつたのを、まさか知らずにゐる筈もねえが――」
 市ヶ谷の喜三郎はニヤリニヤリとしてゐるのです。
「面目ねえが、油斷だつたよ」
「一本立ちの御用聞は、巾着切りに煙草入を拔かれても、その儘では世間に顏向けが出來ないとされたものだ。泊つてゐる家で殺しがあつちや、十手捕繩を返上しても追つ付くめえよ」
「――」
「それとも八五郎親分のことだ、早くも下手人を擧げてすましてゐるといふ寸法かな」
「飛んでもねえ、まだその見當も付かねえのさ」
 八五郎の正直さ。
「そいつは氣の毒だ、錢形の親分がさぞ氣が揉めることだらう。――俺の方は此處へ來る前から下手人の當りをつけて、一と足先に擧げてしまつたが――」
「――」
「十手のよしみだ、俺と八五郎親分と、二人で擧げたといふことにでもして置かうか」
 市ヶ谷の喜三郎は、眞つ四角な顏を、あぶらと得意さに上氣させて最上等の侮辱ぶじよくをヌケヌケと浴びせかけるのです。
「その下手人といふのは誰だえ、市ヶ谷の親分」
 八五郎はそれを彈ね返すほどの氣力も失つてをりました。
「知れたこと、敷居には雨戸を外したのみの跡があるぢやないか、印籠填いんろうばめの雨戸を、鑿一丁で易々と開けるのは、建具屋の外にはあるめえ。その建具屋の金次といふのが、お紋に肘鐵砲ひぢでつぱうを喰はされて、怨み拔いて隣りに住んでゐるんだぜ」
「矢つ張り、あの」
 八五郎は眼を白黒にさせる外はなかつたのです。
 喜三郎が散々嫌がらせを言つて引揚げた後、八五郎は念のために、もう一人のお紋を怨んでゐる男――掛り人の市五郎を調べて見る氣になりました。鑿一丁のわざおとつてゐたにしても、死體を運び入れる時の眼色から見て、お紋に熱中してゐたのに變りがなく、晝だけでも同じ屋根の下に住んで、家の中の案内を知つてゐるだけに、市五郎の方にこそ下手人の疑ひが濃厚のやうな氣がしたのです。
 が、それは無駄骨でした。當夜市五郎は早歸りをして日頃の遊び好きで、自分の家にぢつとしてはゐられず、新宿あたりまで伸し歩いて、馴染なじみの女の格子先を、二三軒ならず冷かして廻つたことは、市五郎の口から何んの隱すところなく、ブチまけられたのです。
「家を出たのは?」
亥刻よつ(十時)過ぎでしたよ。それから二三軒顏を見せて歩いて、落着いたのは花本の玉の井のところ、嘘だと思つたら、行つて訊いて見て下さい。大持てに持てて、一と晩まんじりともさせられないから、薄暗いうちに飛び出して、店の前まで來るとあの騷ぎだ。いや驚いたの何んの」
 こんな事をヌケヌケと言ふのは、自分の遊びつ振りを誇示こじするといふよりは、つまらない疑ひに卷き込まれる、恐怖のさせるわざでせう。
 それに對して、建具屋の金次は、同じ獨り者ながら、昨夜ゆうべの不在證明が甚だ怪しく、一杯飮んで寢てしまつたでは、市ヶ谷の喜三郎は言ふまでもなく、八五郎さへも納得させられません。
 斯うして八五郎はスゴスゴと神田へ歸る外はなかつたのです。


 女護の島と言はれた市ヶ谷の上總かずさ屋に、續け樣に起つた、二つの怪事件、――エロチツクで、殘酷で、無恥で横着な事件は用心棒になつて泊つてゐた八五郎を、すつかり間拔けの標準にしてしまひました。
 四十三歳の處女、美しさが馥郁ふくいくとして殘つてゐる叔母のお常は、行水姿ぎやうずゐすがたの眞つ裸を、井戸に縛られてさらし物にされ、續いて姪のお紋は、二十一の若い盛りを、これも半裸體に剥がれて、店先の溝板の上に、あられもない死に恥をさらしたのです。
 下手人は一向わからず、八五郎がモヤモヤしてゐるうちに、土地の御用聞市ヶ谷の喜三郎が乘込んで來て、建具屋の金次を擧げて行つてしまひました。
 斯うまで鼻を明かされると、八五郎たるもの、いぢめられつ兒が泣きながら母親の許へ歸るやうに、神田明神下の親分、錢形平次のところへ歸つて、結構な智慧を授けられる外はありません。
れこは?」
 お勝手からそつと覗いて、晩の支度に忙しさうな、平次の女房のお靜に、でつかい親指を見せるのも、精一杯の勇氣が必要です。
「居るわ」
「御機嫌はどうです」
「とても惡いのよ。――朝つから書物ほんに喰ひ付いて、ろくに口も利きやしません」
 お靜はさう言ひながらも面白さうでした。夫の機嫌の惡いのは、何にか仕事に夢中になつて居る時と知つて居るからで。
「弱つたなア、明日の朝でも出直さうか知ら」
 八五郎は宙を見詰めて立ち盡くしました。
「駄目よ、近頃はそりや寢起きが惡いんだから。思ひきつて表の格子ぐらゐ蹴飛ばして『大變』とか何んとか、いつもの調子でやつて御覽なさいよ。八さんの顏を見たら、存外機嫌が良くなるかも知れない――その間に私は、角の酒屋から一升取つて來ますから」
 お靜はんなコツまで心得てゐるのです。
「誰だえ、お勝手へ來て居るのは。又うるさい物貰ひなら去年の暮以來御難だとでも言つて歸せ」
 平次は讀み耽けつてゐる『源氏物語忍草しのぶぐさ』から顏をあげました。
「八さんですよ。表からは入りにくいことがあるんですつて」
「何? 八が來たのか、表から入り難かつたら、床下からでも引窓からでも入つて來るが宜からう、――俺は少し訊きたいことがあるんだ」
「へエ、相濟みません親分」
 八五郎はお勝手から上がると、膝で這つて平次の居間の唐紙を開けました。
「大層改まるぢやないか。小遣こづかひがなくなつたのか、それとも新色でも――」
「そんな呑氣な話ぢやありません。私はもう今日と言ふ今日は」
「ひどく思ひ詰めた樣子ぢやないか。親の敵にでも巡り逢つたといふのか」
あつしの親の敵なら疝氣せんきの蟲で、へツ、そんなものに驚きやしませんが」
「よし/\冗談が言へるやうなら、まだ脈がありさうだ。まさか首をくゝる相談ぢやあるめえ」
あつしはもう今日限り、十手捕繩を返上しようと思ひますが」
 八五郎はよく/\打しをれて居りました。が、平次は相變らずの調子で、それを眞に受ける樣子もありません。
「十手捕繩を返上する?――宜からう、お寺へでも養子に入るか」
「飛んでもない、あつしは大變な縮尻しくじりをやつてしまひました。親分の顏へ泥を塗つた上は、呑氣にしちやゐられません」
「待ちなよ、俺の顏は晝寢の後で洗つたばかりだ。泥などは附いちや居ないぜ」
 平次は何處までこの話を茶にする氣でせう。


「――こんなわけで、あつしが泊つてゐる家で殺しがあつた上、眼の前で下手人を擧げられちや、つらの皮が千枚張りでも、世間へ顏向けがなりません」
 八五郎のしをれやうといふものはありませんでした。日頃の強氣を何處かへかなぐり捨てて、大の男が涙ぐんでさへゐるのです。
「宜からう。十手捕繩なんか、いさぎよく返上して、後家附の番太のかぶでも搜すが宜い。決して留めはしないが――な八」
「?」
「その市ヶ谷の喜三郎親分が擧げた、建具屋の金次とやらが本當の下手人でなくて、お前の手で正眞正銘紛れもない眞物の下手人が擧げられたらどうするつもりだ」
「そんな具合になれば、あつしの顏も立ち、八所借りをして、番太の株を買はずに濟むんですが――駄目でせうな」
「何が?」
建具たてぐ屋の金次は間違ひもなく下手人ですよ。死ぬほどお紋に惚れてゐたといふから。――尤も本人は、お紋と當人同士は出來て居て、市五郎が邪魔さへしなきや、近いうちに仲人を立てて晴れて一緒になるんだと言つてゐたさうですが」
「それは誰が言ふのだ」
「本人も言ひましたが、下女のお六が金ちやんとお紋さんは相惚れだから、近いうちに仲人が立つだらう――などと言つて居ましたよ。尤も金次がちよいと好い男で、獨り者の癖に小金も持つて居るし、お紋のやうな姑勤しうとづとめを嫌ひな我儘者には、うつてつけの亭主かも知れない――とこれもお六の言ひ草ですがね」
 八五郎も必死の努力で、こんな微妙なところまで嗅ぎ出して來たのです。
「お紋を殺したのが――りにだよ――建具屋の金次だとしたら、叔母のお常とやらを打つて目を廻させた上、裸體で井戸端へ縛つたのは誰の仕業しわざだ――と市ヶ谷の喜三郎に言ふんだ」
 平次はさすがに妙なところに氣が付くのでした。
あつしもそれを言つて見ましたよ。すると喜三郎親分は、お常を半殺しにして縛つたのも、金次の仕業に違ひあるまい。お常は金次がお紋と親しくなるのを嫌つて、意見をしたり邪魔をしたりしたから、犬に喰はれてしまへと言ふたとへの通り、先づお常をちよいと半殺しにして、手本を見せた上、お紋を殺す氣になつたんだらう――と斯う言ひます。尤もお常に訊くと邪魔なんかした覺えはないと言ふんですが」
「お常の時は裸のまゝ縛つて置いて、お紋は肌だけ脱がせて、縛らなかつたのはどういふわけだ」
「そいつはあつしにもわかりません」
「お常を後ろ手に縛つたのは何んだ」
「お常の扱帶しごきですよ」
「足を縛つたのは手拭だと言つたな」
「へエ」
「結び目に氣が付かなかつたか」
「足の方はあつしが解きましたが、唯の男結びで。手の方は後ろへ廻して、わなになつた結び目が、恐ろしく堅くなつてゐたといふことですが、解いたのはお紋ですよ」
「抱き上げた時は、どんな具合だつた」
つきつ立ての餅でしたよ。やんはりして、良い匂ひがして」
「呆れた野郎だ。鼻なんか鳴らしやがつて」
「ちよいと思ひ出しただけで。四十三になつても、娘は矢張り娘ですね。あのまゝ死んぢや行くところへも行けまいと、妙にホロリとしましたが」
「馬鹿だなア、四十三ぢやお前より年が十三も上だ」
「ところが、お紋の方は、同じ娘は娘でも、抱き上げてシヤキツとしましたよ。冷たくて堅くて、コチコチして、恐ろしく重くて」
「そりや息の通つてゐる者と、死んで時の經つた者との違ひだ」
「あの家は全く不思議ですよ。イキの良い女が六人もゐる癖に、妙に不氣味なところがあつて、大の男のあつしでさへ、落着いた氣持になれないんです。現に叔母のお常があつしに泊つてくれとせがんだ前に、夜中に井戸へ大石を投げ込まれたり、石見いはみ銀山が味噌汁へ入つてゐたり、隨分氣味のよくねえことが續いたさうです」
「その味噌汁の石見銀山を誰が見付けたんだ」
「叔母のお常ですよ。あの女は家中で一番落着いて居るから、朝の味噌汁を一と口呑んで、おやと思つて、内儀の手から味噌汁の椀を引つたくるやうにして取上げたさうです。呑んだのはたつた一と口で、少し胸が惡いだけで濟んださうですが、味噌汁を町内の本道に持ち込んで見て貰ふと、石見銀山鼠捕りが、馬の二三匹も殺せるほど入つてゐたといふこと」
「それは何時のことだ」
あつしが行く二三日前で」
「井戸へ石を投つたのは」
澤庵たくあん石の五六貫もあるのを井桁ゐげたへ載せて、轉がし落したらしいといふことです。――それはもう十日も前のことですがね――お勝手にゐたお常さんがその物音にきもを潰して、下女のお六と二人、手燭を點けて外へ出て見ると、誰も居なかつたが、井桁ゐげたに泥が附いて、繩なんか落ちてゐたさうです。澤庵石を落したといふことは、翌る日井戸を覗いて見て、始めてわかつたことで」
「それでお前に泊りに來てくれと言つたわけだな」
「使ひに來たのはお紋でした。可哀想にあの娘も殺されてしまひましたが、おきやんで、明けつ放しで、滅法可愛らしくて、人に物を頼んで嫌と言はせない娘でしたよ」
 八五郎の萎れ返るのも無理もないことでした。金次とどんな關係があつたにしても、四五日一緒に暮しただけで八五郎はこのお紋といふ娘が、心から好きになつて居たのでした。
「話は混がらかつて居さうだが、下手人が金次でないことだけは確かなやうだ。俺が行つて見よう」
「本當ですか親分」
 八五郎の有頂天さ。
「お前に後家附の番太の株を搜してやるより、そのお紋とか言つた、可愛らしい娘を殺した下手人を擧げる方が俺には仕事が樂らしいよ」
 錢形平次は斯うしてこの事件の渦中に飛び込む氣になつたのです。


 平次と八五郎は、日の暮れさうなのも構はず、市ヶ谷田町の上總屋に向ひました。
「おや、錢形の親分、わざ/\神田からやつて來てくれたのかえ。八五郎の兄哥は飛んだ仕合者だね」
 市ヶ谷の喜三郎は、まだ其處にねばつて、證據堅めをしてゐるのでした。
「八の野郎が飛んだ縮尻しくじりをやつたさうで、面目次第もないが、八の尻拭ひのつもりでやつて來たよ」
 平次は卑下ひげしない態度に、その場を繕ろひます。
「なアに、それにも及ぶものか。八五郎兄哥の手落ちは、あつしの手柄でうめ合せて、旦那方の方は何んとでも言つて置くのに」
 喜三郎はすつかり良い心持になつて居る樣子です。
「ところで、それから變つたことがなかつたのかな」
「あつたよ。上總屋のお隣りに住んでゐる御浪人の庵崎いほざき數馬といふ方が、――一と晩寢付かれなくて弱つたが、壁隣りの金次は外へ出た樣子はなかつた――と言ふんだ」
「フーム、そいつは大きな證據ぢやないか」
「ところが、一と晩とろとろもしなかつたと言ふ人が、はたで聽くとよく大いびきを掻いて眠つてゐることがあるものだ。――俺のところの年寄りなどは、毎晩夜つぴて眼を覺してゐるやうな事を言つて居るが、その實半分は眠つてゐる樣子だよ」
 喜三郎の自信の強さ、壁隣りの庵崎數馬の證言などはケシ飛んでしまひさうです。
「尤も、年寄りと若い者との違ひといふこともあるだらう。庵崎といふ御浪人はまだ四十臺のやうに聽いたが」
「若いだけに、壁隣りの建具屋の金次とは、別懇べつこんの間柄なんだよ」
 あゝ言へば斯うで、手の付けやうはありません。
「それつきりか」
「いや、まだあるよ。後から後からと、動かぬ證據が出て來るんだ」
「――」
「金次の家を家搜しすると、道具箱の中から、雨戸をコジあける時使つたらしい大のみ、押入の中からは、有難さうに温めて置いた、古い半襟一と掛と、かんざしが一本出て來たとしたらどんなものだ」
「――」
「下女のお六に見せると、半襟も簪も殺されたお紋のものに間違ひはない」
「そんなものがたいした證據になるまいが」
「いや、金次がどんなにお紋に夢中になつて居たか、それだけでもわかるぢやないか。――兎も角八五郎兄哥のことは俺が引受けて、ひどく顏を潰さないやうにするから、安心するが宜い」
 喜三郎の勝利感は天井知らずに鼓舞こぶされます。
「有難う、十手の誼みで、さうでもして貰はうか。ところで、そののみを貸してくれ」
「これか、――八分鑿の頑丈な道具だ。これならどんな雨戸でもこじ開けられるぜ」
 さう言ふ喜三郎の手から、くだんの鑿を借りた平次は、上總屋の店から入らずに、いきなり庭へ廻つて、八五郎に案内させながら、お紋の部屋の外、問題の雨戸の前に立ちました。
 もう陽は暮れかけて、四方は薄暗くなりましたが、それでも殘る夕映えがどうやら手許を明るくしてくれます。
「おや、これは違つて居るぜ、市ヶ谷の親分」
 金次の道具箱にあつたといふ鑿を、敷居の傷跡に當てて見て平次は言ひました。
「何?」
「鑿が違つてゐるよ。曲者の使つたのは、一寸以上もある肉の厚い穴堀鑿あなぼりのみだ。建具屋は斯んな鑿を使やしまい――敷居に凹んだ跡があるから、よく鑿と合せて見るが宜い」
 丁寧ではあるが、平次の聲には勝ち誇つた響が匂ひます。
「そんな馬鹿なことがあるものか」
 喜三郎は粉々たる怒氣をまぎらせるやうに、そつぽを向いて敷居の方を見ようともしません。
「八、中へ入つて、よく戸締りをして見てくれ。戸締りのない雨戸を鑿でコジ開ける馬鹿もないだらうから、昨夜ゆうべの通りにして試して見たい」
「へエ」
 八五郎は椽側の中へ入ると、雨戸を念入りに締めた上、上下のさんをおろして、もう一つ側にあつた心張棒まで當ててしまひました。
「宜いか、そら開けるぞ」
 平次は八分鑿を敷居の間に入れて、渾身こんしんの力でコジ開けて見ましたが、雨戸の印籠抉いんろうじやくりがよく出來てゐる上、建物が新しいので、雨戸全體が大きい音を立ててミシミシ動くだけ、一枚の戸も外れさうもありません。
「市ヶ谷の親分、ちよいとやつて見てくれ。あいつは俺の力ぢやはづれさうもないが」
「何んのそんな事ぐらゐ」
 喜三郎は平次に代つて鑿を取りましたが、腕自慢らしい大男の精一杯の力でも、この雨戸はとても外れず、四枚一連の戸は、市ヶ谷中響き渡るやうな音を立てて、ガタピシするだけのことです。
「こんな馬鹿なことがあるわけはねえ。中の戸締りを忘れてゐたんぢやないか」
 喜三郎は斯んな事を言ひます。
「そんな筈はない、戸締りを忘れたのなら、鑿にも及ばず戸は開いた筈だ。――念のためお六に訊いて見るが宜い」
 下女のお六は八五郎に連れて來られましたが、このよく肥つた二十七八の女は、
「戸締りを忘れるなんて、そんな馬鹿なことがあるもんですか。女世帶だからつて念には念を入れるんですもの、夕方私が締めた上、寢る前にお内儀さんかお常さんが一々見て廻りますよ。尤も昨夜はお常さんがまだ加減が惡かつたから、お内儀さんが見廻つた筈ですが」
 と、頑固ぐわんこらしく首を振るのでした。自分のやることには、絶對に間違ひはないと信じきつて居る、一種の奉公人にある型です。
「だが、錢形の親分。お紋が金次にさそひ出されて、外で殺されたといふ見やうもあるわけだぜ」
 喜三郎は最後の自説にこもりました。
「嫌ひ拔いた男に、寢卷のまゝで呼び出される娘があるだらうか、――尤もあつしの聽いたところでは、お紋と金次は、人の眼に立つほどの相惚れで、近いうちに一緒になる筈だつたといふから、殺す筈はないと思ふが――」
 八五郎が獨り言のやうに言ふのです。
「お前は默つて居ろ。金次が下手人でなかつたところでお前の縮尻しくじりの申し譯にはならないぜ――ところで、喜三郎親分」
「――」
「金次がお紋を呼び出して殺したものなら、椽側の雨戸をコジ開ける筈はないと思ふが、どうだらう」
「――」
 それは物柔かではあるが、嚴重な抗議でした。
「雨戸は今朝、間違ひもなく一枚だけコジ開けられてゐた――と言つたやうだ。それは兎も角、八」
「へエ」
 平次は續けました。
「穴掘り大工の使ふ肉の厚い大のみが、何處かにあるに違げえねえ。それを搜すんだ。お紋の首筋を打つたのも、そんな道具だらう。手輕に扱へて、ドツシリ重くて」


 平次は改めて店から入つて行きました。
 最初に迎へてくれたのは、掛り人の市五郎。それは我の強さうな野性的な男で、年の頃は三十前後、十手捕繩も物の數とは思はぬ態度が、市ヶ谷の喜三郎は言ふまでもなく、八五郎にまでも焦躁を感じさせます。
「昨夜は樂しみだつたさうだね」
 平次はツイ、輕い氣持でそんな事を言ふと、
「へエ、女世帶に構はれるやうぢや、たまに遊びでもしなきや、やりきれませんよ」
 斯うはね返す市五郎です。
「殺されたお紋とは、大層親しかつたさうぢやないか」
「飛んでもない、あのピンシヤンした女が、私のやうな者を相手にする氣遣ひはありません。――尤も、一度は味な氣になつたこともありますが、若い女は矢張り小意氣で如才なくて、男つ振りの好いあの建具屋の野郎見たいなのが好きになるんですね」
 市五郎は明かにお紋と金次の仲をみとめてゐるのでした。
 帳場にかじり付いてゐる、物の影のやうな男は、手代の庄吉といふ三十二三の働き者でした。無口で氣の知れないところはありますが、その代り忠實で丁寧で、先代の總兵衞が一番頼りにした男――總兵衞が生きてゐたら、この男を娘のお雪に娶合はせて、上總屋の身上を三分一ぐらゐは分けてやる氣になつたことだらうと、近所の衆が言つてをります。
 平次の問ひに對しても、一向はか/″\しい返事がなく、この家に十何年とか奉公してゐること、金の出し入れは庄吉自身が一人で引受けて居ること、――と言つた自己宣傳見たいにも聞えることを問はるゝまゝにポツポツと話して行くのです。
 こんなひねこびた男を、一人娘の婿にして上總屋の身上を分けてやらうとした先代の心持が、平次にはどうしても呑込めません。
昨夜ゆうべお前の家へ歸つたのは何刻時分だ」
亥刻よつ(十時)過ぎだつたと思ひます」
「大層遲かつたぢやないか」
「お常さんに頼まれて、手紙を書いたり、勘定をしてやつたり、飛んだ手間を取りました。――お常さんは久し振りで氣分が良いとやらで――」
「手紙といふと?」
「なあに、牛込の從姉いとこへやるつまらない手紙で、――勘定の方はあの人がお勝手を預かつて居ますから、月に二度ぐらゐは算盤そろばんを置く手傳ひをさせられます」
「お紋はその時分何處に居た」
「自分の部屋へ引取つて居たでせう。夕方から風邪氣味だと言つてゐましたから」
「お紋が自分の部屋へ引取つたのは?」
「宵のうちでした」
 斯う言つた庄吉の言葉からは、錢形平次もたいしたものは手繰たぐれさうもありません。
 内儀のお角は奧の方で、お紋のために通夜の世話をしてをりました。恰幅の良い四十前後の典型的な町人の内儀で、眉の跡の青さは薄れましたが、鐵漿かねの黒々としたのが、色白の顏を引立てて、中々の好い年増振りです。
「可哀想なことをしました。少しお轉婆でしたけれども、何時でも機嫌の良い娘で、誰にでも好かれた人が、どうしてまたあんなことに――」
 さう言つて涙を呑みます。お角とは血のつながりはないが亡くなつた主人總兵衞の姉の娘で、八つになる時兩親に死に別れてこの家に引取られ、それから自分の娘のやうに育てた――と、お角は愚痴ぐちを言ふのです。
「縁談は?」
 と訊くと、
「あのきりやうですもの隨分諸方からお話がありましたが、本人は贅澤を言つて、なか/\うんと言ひませんでした。でも叔母のお常さんに沁々しみ/″\と意見されて、近頂[#「近頂」はママ]建具屋の金次さんと一緒になる氣になつてゐたやうで、本人に言はせると――金さんは男つ振りは好いけれど働きがないから、今更あの人と一緒になるのはいわしで精進落ちをするやうなものだ――などと高慢なことを言つてをりました。そんな口を利いても、憎氣のないところが、あの身上しんしやうで――」
 と、内儀は腹の底からお紋を惜しんでゐる樣子です。
 叔母のお常は、八五郎が幾度も言つたやうに、四十三の老孃で上總屋の店中でも確りものでした。背のすらりとした。青白い引締つた顏をしてをりますが、素顏に心持口紅を含んで、良人も子供も持つたことがないせゐか何處かに若さの匂ふ、不思議な魅力の持主でした。身扮みなりは腹の立つほど地味で、頭の良いにしては、物言ひはハキハキしない方、めひのお紋の陽性なのに比べて、これはいくらか陰性な感じのする女です。
「飛んだことをしてしまひました。早く身を堅めたら、あんなむごたらしい目に逢はずに濟んだかも知れないのに、自分で自分のきりやうの良いことを知つてゐただけに我儘が過ぎて、本當に不仕合せでした」
 さう言ふ言葉にも、涙と眞情が龍つて、お角とは又別に、お紋を惜しむ心持が溢れます。
「お紋を怨む者の心當りはないのかな」
 平次の問ひは平凡で無技巧でさへありました。
「飛んでもない、あの娘を怨むなんて、――尤も男の心持は私にわかりませんから、あの娘に言ひ寄つてポンポン彈ね飛ばされ、口惜くやしがつてゐる人がないとは申されません。あの娘とちよいと口でもきいたら、どんな男だつて好きにならずにはゐられなかつたさうです。男つて本當に不思議ですねエ」
 歎きの中にも、お常は老孃らしく、男の無定見さを非難するのです。
「お紋の隣りに休んでゐるのは誰だえ」
「私ですよ、――お紋の部屋を挾んで奧は嫁のお香さんと姪のお雪。若主人の總太郎が上方へ行つて留守なので、その間總太郎の妹のお雪が嫁のお香さんと同じ部屋に休んで居ます」
「夜中に何にか物音が聽えなかつたのか」
「何んにも存じません。私は眼聰めざとい方なんですが、口惜しいことに朝まで、若い人達と同じやうに、何んにも知らずにをりました」
「寢た時刻は」
「お紋さんは風邪の氣味で一番早く、戌刻半いつつはん(九時)頃だつたでせう。次はお香さんとお雪さん、それからお角さんと私が引取りました。その時分まで庄吉どんは店で仕事をしてをりましたが、間もなく歸つて行つて、後の戸締りはお六どんが見た筈です」
 お常の説明は、ハキハキしないやうでも、年の功でかゆいところへ手が屆きます。


 嫁のお香は十九になつたばかり、まだ初々しい感じですが、顏の表情の子供らしさに似ず、身體の方はよく發達して、上背も肉付も申し分なく、色白でポチヤポチヤして健康さうで肉感的でさへありました。
 お紋のハキハキしたのに比べて、喰ひ足らなさはあるでせうが、この含蓄がんちくの多い柔順さと、成熟しきつた肉體が案外夫の溺愛の的だつたかもわかりません。
 お紋のことに就いては、何を聽いても唯おろ/\するだけ、一向に要領を得ませんが、
「市五郎はどんな男だ」
 と訊くと、遠慮しながらも、
「あの人は氣が荒くて何をするかわかりません。お紋さんもけるようにしてゐました」
 と、含みのあることを言ひます。お常に對しては、しうとめのお角以上にはゞかる樣子で、
「そりや親切にして下さいます。でもあんなに良く出來た人から見ると、私は足りないところばかりですから」
 と、遠慮が先に立ちます。庄吉に對しては全く無關心で、何を訊いても積極的な考へがなく、
「お雪さんが氣の進まないのも無理ありません。算盤そろばんの方はよく出來ても、あんまり地味で――」
 と、言ふのが精一杯です。昨夜ゆうべお紋が殺されたことに就ては何んの考へもなく、夜中一度も眼も覺さなかつた若さを極り惡さうに白状してゐるだけのことです。
 娘のお雪は十八、我儘一パイに育つた金持の娘といふ外にはたいした特色もありません。痩立ちですが、きりやうは良い方、叔母のお常に似て、年を取つたら案外の氣性者になるかもわかりません。
 お紋に對しては、その綺麗さと、魅力とに少しばりの嫉妬を感じて居たらしく、
「あんなに派手で、男を何んとも思はないんですもの、多勢からヤイヤイ言はれるのが嬉しくてたまらない樣子でした。――お紋さんと一番仲の好いのは叔母さんのお常さんで、一番仲の惡かつたのは、お香さんか知ら――」
 そんなことをツケツケ言ひます。男達に對しては、
「市五郎さんは、ありや少し馬鹿よ、威張つてばかりゐるんですもの。庄吉どんは氣が知れないから、私は大嫌ひ、怖いんですもの」
 と、娘の神經をおびやかすものが、庄吉の性格に潜んでゐさうです。
「お紋は本當に隣りの金次のところへ嫁に行く氣だつたのか」
 こんな微妙な問題に對しては、年頃の小娘が一番よく知つてゐることを平次は氣が付いたのです。
「散々男の方に騷がれると、お仕舞にあんな取柄のない男がよくなるのね。そりや金次さんは小意氣でちよいと好い男には違ひないけれど――」
 さう言つた皮肉な觀察です。
「もう一つ訊くが、叔母のお常さんを怨んでゐる者はないのかな」
「叔母さんを怨んでゐる人――といふと、庵崎いほざきさんか知ら。でも庵崎さんは後添ひに叔母さんを欲しいと言ひ出した癖に、何んとかうまい事を言つて破談にしたんだから、叔母さんの方でこそ怨んで居るかも知れない。そう言へば叔母が怨んでゐるのは、もう一人ありましたよ」
「誰だえ、それは?」
 平次は乘出しました。
「一年前にくなつた私のお父さん」
「?」
「若い時分に、無理にでも嫁にやつてくれたら、四十島田で世間から變な眼で見られることもなかつたのに――ですつて、隨分勝手でせう。あんなに取りすましてやかましい事を言つてる癖に、叔母さんは心の中では、嫁に行きたかつたんですね、女つて變な意地を張つちやいけないのね」
 ひとかどの事を言つて、分別臭い顏をするのです。
 下女のお六は、もつと猛烈で不遠慮でした。二十七八の達者で口まめで、働きもするが鐵棒かなぼうも曳くと言つた――こればかりは六人の女のうちで、世間並のみにくい女です。
「お紋さんは騷がれることが好きで/\たまらなかつたのです。毎晩店の前を往つたり來たりする若い男だけでも、二三人はあつたでせう。中には手拭なんか冠つて、ちよいと乙な喉で唄なんか聽かせてね」
 それは丁髷を結つた騎士達の、優にやさしきセレナーデだつたのです。
「叔母のお常さんはどうだい」
「あんなに利口な人ですが、時々氣むづかしくなつたり、泣いたり、笑つたり、人に突つ掛つたりすることがあります。不斷は申し分なく良い人で、物のわかつた方ですが」
 それは老孃オールドミスによくある更年期のヒステリーでせう。平次はそんな理屈は知らなくても世間の例は澤山見てをります。
「――女は矢張り嫁に行くことですね。私なんかこれでも一度亭主を持ちましたが、呑む打つ買ふの三道樂に愛想を盡かして三年前に別れてしまひました――そんな亭主でも、可愛がつてくれさへすれば、辛抱が出來るぢやないか、獨りで淋しく暮すより、なぐつてくれる亭主でもあつたら、どんなに張り合ひがあるか知れやしない――なんて、叔母さんは言ふんです。お氣の毒なことに、あの人は何不自由ないにしても、決して幸せぢやありませんね」
 お六は遠慮のない――存分に封建的な――ことを言ひます。が、お紋を怨む者の心當りはなく、腹の底では市五郎を疑つてゐる樣子ですが、證據のないことは、さすがに明ら樣にも言ひきれません。
 これで平次は家中の者全部に當つて見たわけですが、困つたことに何んの手掛りも掴めなかつたのです。

十一


 家の中はもう灯りが入つて、悲歎と恐怖のうちにも、何んとなくザワザワしてをりました。
 若主人の留守中に起つた異變で、采配をとるのは氣性者の叔母のお常。あとは掛り人の市五郎がよく働くだけで庄吉やお香はたいした役にも立ちません。
 お紋の死體は檢屍が濟んだばかりで、まだ入棺にふくわんの運びにもならず、自分の部屋の自分の床、昨夜お紋自身の手で伸べられた床の上へ、痛々しくもそのまゝ横たへられてをります。
 死顏は思ひの外穩かで、佛作つて見えるのさへ哀れですが、すぐれた美しさは死もまた奪ふ由なく、豐かな肉付きや、整つた眼鼻立ち、叔母のお角の手で薄化粧をほどこしたのも、清らかさを添へて不思議な魅力です。
「斯んな綺麗な死顏を、私は見たこともありませんよ」
 八五郎が感歎するのも無理はありません。
「それが頓死の證據だよ。急所を打たれて聲も立てずに死んだことだらう」
 その急所といふのは、ぼんのくぼにたつた一箇所、學問的に言へば一と思ひに延髓えんずゐを碎かれたわけで、一瞬轉の間に死んだことでせう。此處には呼吸中樞や心臟鼓動中樞があり、はりや灸點の方でも、これを『生活點』と言つて、一針よく生命を斷つと言はれてゐるのです。
「そんな恐ろしい急所を、誰が一體知つてゐたんでせう?」
「さア」
 さう訊かれると、平次にも返答は出來ません。この事件が容易ならぬ深さを持つてゐることだけが、犇々ひし/\と平次に思ひ當らせます。
 もう四方あたりは暗くなつてしまひましたが、平次はもう一と押しと、八五郎に案内させて井戸端へ行きましたが、其處にはお常がひどい目に逢つた名殘りの行水たらひと、二三枚の戸板があるだけ、井桁ゐげた栗材くりざいの頑丈なもので、この邊の井戸は深いせゐか、車も釣瓶つるべも誤魔化しのない立派なものです。
 井戸とお勝手の流しとの間には、紙を貼つた荒い格子があり、その紙が一二ヶ所荒々しく破れてゐるのも、大家らしくない不嗜ふたしなみです。
「この井戸の底に何にかあるだらうと思ふが、斯う暗くなつちや手の付けやうもない。明日にも、井戸替へをして見てくれ。尤も井戸屋を連れて來る迄は、誰にも言ふんぢやないぞ」
 平次はそつと八五郎に囁やきました。
 井戸から十五六歩で二軒長屋があり、一軒は建具屋の金次が住んでをり、一軒は浪人の庵崎數馬が住んでをります。何方も一人者ですが、表通りに面した建具屋の方は、何んとなく裕福さうで、裏側の浪宅は、ひどく貧乏臭いのは妙な對照でした。
「何處へ行くんです? 親分」
「御浪人の家を覗いて見るよ」
「うるさい二本差ですよ」
「うるさいくらゐの方が宜いよ、よく物を言ふから」
 平次はそんな事を言ひながら、二軒長屋の一方、浪人庵崎數馬の家のお勝手口に立つてをりました。
「御免下さい」
「誰だ、今頃」
「神田から參りましたが、平次と申すもので――」
「何んだ、錢形の親分か、――改めて名乘るにも及ぶまい。待て/\晩飯の支度中で樂屋がくやは煙だらけだ、表へ廻つてくれないか」
 氣樂さうな片襷かただすき、中年者の浪人庵崎數馬は、馬鹿にしたやうな打ち解けたやうな、一種の態度で迎へます。
「いえ、此處で結構で」
 平次は相手の氣輕な調子に乘るでもなく、モヂモヂしてをります。調子は少々亂暴でも、この庵崎數馬といふのは、なか/\立派な男でした。月代さかやきは少し延びましたが、髯の跡が青々として、眼の切れの長い、鼻の高い、まことに堂々たる押し出しです。
 恐ろしい皮肉屋らしく、言葉に毒を含んでゐるので、氣むづかしい男とも見られますが、本人は案外磊落らいらくな好人物らしいと平次は睨みました。こんな人間の口の惡さは、頭の良さと、世にねた自棄やけの反響で、決して附き合ひにくい人間とは思はれません。
「錢形の親分の前だが、隣りの金次親方を縛つて行つたのはありや大變な見當違ひだよ。あの男は、チヨイと色男がつて、氣障ではあるが飛んだ氣の小さい男さ」
「へエ、さうですか」
「それにお紋と戀仲で、近いうちに祝言することになつてゐたんだ。この俺が兩方から仲人を頼まれたんだから嘘ぢやない。――上總屋の若主人が歸つて來れば、祝言する筈になつてゐた女を、何が不足で殺すものか」
「――」
 これは平次も一言もありません。金次とお紋が庵崎數馬に仲人を頼んでゐたといふのは初耳です。
昨夜ゆうべは持病のかんでね、一と晩寢付けなくてマジマジしてゐたんだ。まるでこの私が金次を見張つてゐたやうなものだ。幾度手水てうづに起きたかまで知つてゐる」
「へエ、金次の外にお紋を怨んでゐる者は?」
「どう考へてもないから不思議だよ。そりやお紋に氣のあつた若い男は、町内だけでも三人や五人はあるだらうが、お紋といふ娘は、陽氣で明けつ放しで、どんな事をしても人に怨まれるやうな人間ではなかつたよ」
「――」
「あれは徳な性分さ」
 庵崎數馬ほどの人間も、ひどくお紋には好感を持つて居た樣子です。
「これは話が別になりますが、お常さんを裸體にしたのは誰でせう。井戸端へ縛つて晒物さらしものにするなどは罪が深過ぎますが――」
 平次の問ひは飛躍しました。
「あの女なら俺でもちよいと惡戯がして見たくなるよ」
「へエ?」
「あんまり取りすましてゐるからさ。男といふ奴は、飛んだ物好きなところがあるものだよ。この上もなく身仕舞がよくて、誰にも物を言はせない程賢こくて、四十三になるまで男にはだを見せなくて、その上何處か色つぽくて、申し分のないきりやうだ。ちよいと惡戯をして見たくなる相手ぢやないか」
 庵崎數馬、尤らしい顏をして、飛んでもない事を言ふのです。
「旦那がそのお常さんを後添ひにと望んだこともあるさうぢやございませんか」
「そんな氣になつたこともあるよ。俺より二つ三つ歳上だが、あの通り若々しくて綺麗だから」
「それをどうして破談になすつたんで?」
「あの女は如才なくて賢こいが、ちよいと氣むづかしいところがあると聽いて氣がさしたのだよ。時々蟲のせゐで、何んでもないことに泣いたり笑つたり、新しい着物をビリビリ破つたりするさうだ。浪人者の貧乏な拙者せつしやには向きさうもないて」
「それは誰が言つたんです」
「まア、言はないことにしよう。上總屋の家の者がそれと教へてくれたに違ひないが――お紋ぢやないよ」
「ところで、旦那、――武藝の方は御自慢でせうな」
「そんな藝當があれば、浪人はしてゐないよ」
「でも、首筋――あのぼんのくぼが急所だといふことは武藝の方ではわかつてゐることでせう」
「それくらゐのことは誰でも知つてゐる――あれくらゐのことなら、はりきうの方でもわかつてゐる筈だよ」
「有難う御座いました」
「いやお禮には及ばない。その代り、お紋殺しの下手人などにはして貰ひたくないな。――お常の方なら隨分裸に剥いて井戸端にさらす氣になるかも知れないが、お紋を殺すのは可哀さうだよ。ありや飛んだ好い娘だつた――俺ももう少し若きや、隨分金次と張り合つて見る氣になつたかも知れない」
「では、御免下さい」
 平次は庵崎數馬の長廣舌を逃れて、兎も角もきり上げる外はなかつたのです。

十二


「親分、天眼通だね」
「何が?」
 八五郎が明神下の平次の家へ飛び込んで來たのは、その翌る日の夕方でした。
「上總屋の井戸の中から、大きな澤庵石たくあんいしが一つと、穴掘り大工の使ふ、一貫目もありさうな大鑿おほのみが、出て來ましたよ」
「その鑿はどうした」
「町役人に預けて來ましたがね」
「矢つ張りさうか。上總屋の雨戸をコジ開けてお紋の背筋を毆つたのは、大鑿に違ひないと思つて居たよ――ところでその鑿は誰のだ」
 平次は訊ねました。
「その上總かずさ屋の裏に建前があるでせう」
「あつたやうだな」
「其處へ入つてゐる大工が、一々重い道具を持つて歩くのが面倒臭いと言つて、道具箱を浪人者と建具屋がもあひで使つてゐる、物置の中へ預けて行くんださうですよ。物置の戸は上總屋の庭の方に向いてゐるし、鍵もぢやうもないから、知つて居る者なら誰でも取り出せまさア」
「大鑿のなくなつたことを、持主の大工も氣が付かなかつたのか」
「建前が濟んで穴掘りの大鑿は要らなくなつたから、二三日氣が付かずにゐたんでせう」
「變つたことはそれつきりか」
「まだありますよ――建具屋の金次は歸されましたぜ」
「そんな事だらう」
「それからもう一つ、こいつは大事のことだが、殺されたお紋は、叔母のお常を裸にして、井戸端に縛つた相手を知つてゐたらしいと言ふんです」
「そいつは初耳だ。誰だえそれは?」
「お紋もこればかりは言はなかつたさうです。あの明けつ放しで遠慮を知らないお紋も、――これを打ち明けると叔母さんへ氣の毒だから――と仲の好い女同士にも、戀仲の金次にも打ちあけなかつたさうで」
「惜しい事だな、それさへ打ち明けてくれたら――」
 平次は口惜しがります。可惜あたら二十一の花を散らした原因はこんなところにあつたのかも知れないのです。
「もう一つ」
「何んだえ、早くブチまけてしまひな。あんまり出し惜しみするとネタが下積になるよ」
「つまらねえことだから、忘れてゐたんですよ。――金次の野郎が、近頃チヨクチヨクお紋を呼び出して、逢引をしてゐたんださうですよ」
「祝言前の二人がね?」
「祝言前の逢引あひびきは、たまらねえ樂しみだつてね。あつしには覺えはねえが」
「その逢引は、金次が合圖をするんださうです。庭へ入ると嫁や内儀の耳に入るから、わざ/\表へ廻つて、手頃の小石を拾つて、店の戸を二つづつ三つ、二つづつ三つ叩くんださうです。本人達は内證のつもりでも、家中で知らない者はありやしません」
「お前はそれを誰に聽いた」
「あのお轉婆娘のお雪が教へましたよ」
「お紋が殺された晩、それを聽かなかつたのかな」
「ぐつすり寢込んで何んにも知らないさうです。内儀とお六の部屋は店から遠いから、その合圖を聽けば、叔母さんのお常さんくらゐのものださうで――」
「お常に訊いて見たか」
如才じよさいなく訊いて見ましたよ。――ところが何んにも知らないんださうです」
「金次は確かにあの晩お紋を誘ひ出さなかつたのか」
「それは大丈夫です。金次が一と晩外へ出なかつたことは、親分も聽いた通り壁隣りの庵崎いほざきといふ浪人者が知つてるますよ。二軒長屋と言つても同じ家見たいなもので、中仕切は薄い杉板だ」
 ガラツ八の報告はそれで終りました。平次はいろ/\の材料を手に入れた樣子ですが、さて容易に御輿を上げようともしません。

十三


 それから又幾日か經ちました。上總屋のお紋殺しは容易に擧がらず、市ヶ谷の喜三郎はれ込んで、市五郎を縛つたり、庄吉を縛つたり、手當り次第に暴權をふるひましたが、結局は上等過ぎる反證や不在證明アリバイがわかつて、おめ/\と繩を解く外はなかつたのです。
 八日目、お紋の初七日の法事が濟んだ翌る日の晝頃、八五郎は明神下の平次の家へ飛び込んで來ました。
「親分、上總屋は三人目だ。大急ぎで行つて見て下さい」
 息せき切つて、まさに果し眼です。
「どうしたんだ、八」
「どうもうもありません。娘のお雪と叔母のお常が井戸端で洗濯をしてゐると、その頭の上へ、煮え湯の一パイ入つてゐる、大がまをブチまけた奴があるんです」
「怪我は?」
「叔母のお常は離れてゐたので、飛沫しぶきかぶつて、手足に少し火ぶくれを拵へただけですが、娘のお雪は可哀さうに、首から肩へかけてひどい火傷やけどですよ。尤も命には別條がなく、頭も多分無事だらうといふことですが――」
「ひどい事をするな、放つて置けない奴だ。行かう八」
 錢形平次がこんなに腹を立てるのは滅多にないことでした。この平次の憤怒の前には、鬼神といへどおもてを避けることでせう。
「今度は是非つかまへて下さいよ。若くて綺麗なのを總仕舞ひにされちや、こちとらが叶ひませんよ」
 八五郎は江戸の娘が根絶やしになりさうなことを言ふのでした。
「どうせ同じ野郎の仕業だらう」
「何んの意趣で、綺麗な娘にばかりたゝるんでせう。どうせ持てない奴の腹癒せでせうが」
「さう言へば娘ばかり狙つてゐるやうだな。四十三のお常も娘には違げえねえ。――ところで昨夜二人は曲者の姿を見なかつたのか」
「昨夜薄暗くなつてからですもの、何んにも見えなかつたさうですよ。怪我の輕い叔母のお常は、二軒長屋の方へ黒い者が逃げ込んだやうだとは言つてをりましたが」
 そんな話を聽きながら平次と八五郎は市ヶ谷の上總屋へ飛んだのです。
 上總屋の店中は重なる變事におびえて、大きな聲で物を言ふ者もない有樣で、平次と八五郎を迎へた、市五郎や庄吉さへも顫へ上がつてをります。
 お雪は自分の部屋で、母親に看病されてうなつてをりました。小鬢こびんから首へ、そして肩へかけての大火傷おほやけどで、晒木綿さらしもめんに包まれてをりますが、素より生命には別條なく、唸つて居る割には元氣もありさうです。
「あの通りです。顏が助かつたのは何よりですが、――何んだつてこんなに上總屋へたゝるんでせう」
 母親のお角はツイ愚痴ぐちになります。
 昨夜の樣子を訊くと、
「叔母さんと二人、薄暗くなつてから井戸端で洗濯をしてをりました。お紋さんが死んでから、ゴタゴタして洗濯物を片付ける隙もなかつたんです」
「――」
 平次は默つて先をうながします。
「私は流しの中で、叔母さんはその向う側にゐました。お六が煮え立つた二度目の湯を持つて來てくれたので、直ぐ使へるやうにいつもの通りその大釜を井桁ゐげたの上へ置いたのが惡かつたんです。でも、私のところからは三尺も離れて居たんですが、井戸の向う側から――叔母さんのゐる方ではなく、窓寄りの方から井桁越しに突き落したやうに、釜は私の頭の上へ落ちて來たんです。ハツと思つて身體を引くはずみに、滑つて轉げたので反つて助かつたくらゐです。ぢつとしてゐたら間違ひもなく頭から煮え湯を被つたことでせう」
 お雪はその時の恐ろしさに顫へながらも、苦痛を忍んでかなり筋道を立てて話してくれました。
「人の姿は見なかつたのだな」
「私は何んにも見ませんが、――叔母さんは見たやうな氣がすると言つて居ました。横の方に後ろ向きになつて居たのでよくわからなかつたのでせう」
 平次の訊くことはそれだけでした。
 叔母のお常を呼んで貰ふと、これは昨夜からの心配に痛々しいほど打ちひしがれて、
「飛んだことをしまして。私が附いて居て、嫁入前の娘に怪我なんかさせて――そんな事があらうとは思ひませんから、私がすゝめて洗濯せんたくを始め、日が暮れてから二度目の大釜の湯を、お六に井桁ゐげたへ置かせたのが惡かつたんです。落ちる筈のない釜が落ちて、私もこの通り怪我をしましたが――」
 と、お常は兩手の繃帶などを見せるのでした。話をそれくらゐにして、平次は井戸端へ廻つて見ました。頑丈な栗材の井桁の上は、廣々として充分の安定感があり、釜一つ置いたところで、何んの危な氣もありません。
 それからお勝手へ行つて、下女のお六にその大釜を借り、水を一杯張つて、井桁の上に置きましたが、突いても押しても、こいつは容易のことで引つくり返りさうもありません。
「八、お前は嫁のお香に逢つて、そつとこれだけの事を訊いてくれ。叔母のお常さんには、何んか妙な癖がないか、――それから、その叔母のお常さんが井戸端に裸で縛られてゐた時、扱帶しごきを解いてやつたのは、殺されたお紋だと聽いたが、結び目がどうなつて居たか、仲の良い嫁と小姑こじうとだからそつとお香に話してゐるかも知れない――それからもう一つ、庵崎いほざき數馬といふ浪人者にお常に惡い癖のあることを話したのは誰だつたか、それを聽き出してくれないか。あの浪人者も、お前がとぼけた調子で水を向けたら話す氣になるかも知れない」
「親分は?」
「俺は上總屋に出入りしてゐる按摩あんまを搜し出してはりのことを聞いて來るよ」
「承知しました」
「それが濟んだら、薄暗くなる頃あの井戸端へ來てくれ。家中の者を集めて話したいことがある」
「親分にはもう、下手人がわかつたんでせう。皆んなを集めて話す氣になるやうぢや」
 八五郎は先を潜りますが、平次は思ひの外落着いて、
「いや、まだわからない事が澤山あるが、さうでもしてこの上のワザをしないうちに、下手人と一騎討の勝負をしようといふのだよ。放つて置くと今度は、うけ合ひ嫁のお香がやられる」
「本當ですか、親分。さう聞いちや」
 八五郎ははずみきつた馬のやうに飛び出します。

十四


 それから半日、薄暗くなつた上總屋の井戸端には、家中の者が全部揃つて、平次の話し出すのを待つてをりました。
 その頃はもう月の出が遲く、誰が何處に居るやら、顏の見分けも覺束ないくらゐ、その中を平次の聲だけが、不氣味に明瞭めいれうに、さながら冥府めいふの判官のやうに響き渡るのです。
「八、お前は昨夜お雪さんが洗濯をしてゐた場所――その流しの中へ入つて、盥の前へしやがんでくれ、皆んな井戸端から離れるのだ。――俺は叔母さんがゐたあたり、窓とはあべこべの方に斯うたらひの中に手を突つ込んでゐる。宜いか、八」
「斯うでせう、親分」
「――」
 誰も動いた者も、口をきいた者もありません。暗がりの中に、不氣味な沈默が暫らく續いたと思ふと、不意に――
 それは全く不意でした。井桁の上に置いた大釜は、誰も傍へ寄つた者もないのに、獨りでに轉げ落ちて、その中に一パイに張つた水が、八五郎の頭の上から、ザブリと、――眞に思ひおくところなく浴びせたのです。
「ワツ熱! ――いや冷てえや、何んてことをしやがるんだ」
 八五郎は突つ立ち上がりました。全く文字通りの濡れ鼠です。
「怒るな、八、ちよいと仕掛けを試しただけだ。お雪さんがお前ほど不用心だと、間違ひもなく頭から煮え湯をかぶるところよ」
「冗談ぢやありませんよ、親分。風邪を引くぢやありませんか」
「まア、勘辨してくれ。着物は俺のと換へてやつた上、歸りに一杯おごるよ。――見るが宜い、俺は大釜を押しも突きもしたわけぢやない。たゞちよいとう足でつなを踏んだだけだ。綱の先は井戸の車をくゞつて向う側の井桁の上に乘せた大釜の下に入つてゐるのだ、――いや大釜の下に敷いた釜敷かましきの端に縛つてあるのさ。綱を踏めば井戸の向う側で大釜が引つくり返る――うまい仕掛けぢやないか」
 平次の説明はあまりにも恐ろしいものでした。六七人の暗がりに立つた人數は、しはぶき一つする者もなく、息を殺して聽き入ります。
「この井戸へ澤庵石を落したのも、同じ仕掛けだ。井桁の上に澤庵石を乘せて、その下の釜敷に縛つた綱の先をお勝手の格子から通し、流しのところで綱を引くと、井戸の中へ澤庵石が落ちる仕掛けだつたに違ひない。――流しの向うの新しい障子に、妙な穴があるとは思つたが、こんな仕掛けとは今日まで氣が付かなかつたよ――味噌汁みそしる石見いはみ銀山を入れたのも同じ人間の細工だ」
「親分」
 八五郎はもうウジウジしてをります。
「俺に訊きたいことがあつたら後にして、お前は先刻さつき頼まれて調べた事だけ話しや宜いんだ――先づ第一に」
「叔母のお常さんを井戸端に縛つた扱帶しごきの結び目のことでせう――あれは殺されたお紋が解いてやつて、ひどく不思議がつてゐたといふことですよ。――何んでもわなを拵へて、自分の手を後ろに廻し、その罠の中に突つ込んでぎゆうと引くと、丁度あんな具合にひどく縛られたやうになるに違ひないつて言つたさうですよ」
「それから?」
「そのお常さんは、不斷はあんなに確り者らしいが、妙に氣違ひ染みたところがあつて、氣がたかぶると、時々人前で裸になりたがる癖があつて、家中の者は困つてゐたさうです」
 八五郎の報告は、上總かずさ屋の家の者には珍らしくなかつたらしく、平次もまた豫期してゐた樣子ですが、兎も角も奇怪至極で、話す八五郎が一番興奮してをります。
「もう一つ?」
「その叔母のお常さんの癖を、うつかり庵崎さんに漏したのは――」
「よし、もう解つた。ところで叔母のお常さんは何處にゐるんだ」
 平次の注意に驚いて、ハツとして人達は、薄暗がりの中で四邊あたりを見廻しました。
「居ない」
「居ない」
「ツイ、今しがたまで此處にゐたのに」
 内儀のお角はすつかり顫へてをります。
「誰も氣が付かなかつたのか。お常さんは八五郎親分が大釜の水をかぶつた時、此處から脱け出して外へ行つたよ」
 何時の間に此處へ來たのか、隣りの浪人庵崎いほざき數馬は口を出しました。
「親分、すぐ追つ驅けませうか」
 八五郎はいきり立ちます。
「あの上お白洲しらすへ引つ張り出して、恥を掻かせるでもあるまい。放つて置け」
「歸らうか、八」
 默りこくつて居る人達に目禮して、平次はそのまゝ引揚げるのでした。
 まだ月は出ず、土竈坂へつゝひざかを降りると、お濠の水は、墨のやうに眞つ黒です。

十五


 翌る日叔母のお常の水死體は、お濠から上げられました。それがこの悲劇のあつけない結末だつたのです。
 事件落着の後、八五郎は相變らず、この『女護の島異變』の繪解きを平次にせがみました。
「氣の毒なことに、お常は自分のせゐき遲れ、四十島田の恥をさらすのを、最初は兄のせゐにし、兄が死ぬと兄嫁のお角のせゐにし、四十を越してからは、少し氣が變になつて、時々泣いたり笑つたりするやうになつたのだよ」
 今の所謂いはゆるヒステリー、病的な老孃の更年期に、それは屡々起る現象でした。
「――人間が賢こくて、諸藝にも達し、人に物を言はせない女だけに、その淋しさ苦しさは骨身にとほつたことだらう。時々人前で裸體にならうとしたのも、その病氣の一つだ。俺はさういふ話を幾つか聽いてゐる。家の者はそれをヒタ隱しに隱してゐたことだらう。が、ひがみ拔いたお常は、若くて美しくて幸せな女を見ると、それが憎くてたまらなかつた」
「へエ、不思議な人間ですね」
「それがかうじて、誰も留め手のないところで、自分の美しい裸體を、存分に見てもらひたかつたのだらう。――わけても庵崎數馬に見せたかつた」
「?」
「あの行水の騷ぎも、――庵崎數馬が飛んで來るのを勘定に入れて、自分の手で自分を縛つて、裸體のまゝ氣をうしなつた眞似をしてゐたのだ。下女のお六が、あつらへ向きにワメき立てて、庵崎もお前も飛んで行つた」
「何んだつて、あつしなんかを泊める氣になつたんでせう」
「八五郎に氣があつたのさ」
「冗談でせう」
 と。八五郎の顏は二十パーセントほど長くなります。
「それは嘘だが、いろ/\細工さいくをするのに、岡つ引に見張つて貰ひたかつたのだよ。自分の利口さを信じきつてゐるお常は、岡つ引の前で、人をめきつた仕掛けをやつて見たかつたに違ひない」
「へエ、早く言へばあつしは甘く見られたわけで」
「遲く言つてもその通りだ」
「お紋を殺したのは?」
「お常は、お紋が憎かつたのだ。申し分なく綺麗で、若くて陽氣で、男に大騷ぎされるお紋が、心の底から憎かつたのだ。その上お紋は叔母のお常が井戸端に裸體はだかで縛られたのは、自分でやつた芝居と見破つたことを、お常は薄々氣付いたのだ」
「――」
「お紋を殺した晩は、夜中にそつと起き出して、金次のやる呼び出しの合圖で、お紋を店先におびき出し、暗がりから不意に飛び出して、隱してゐた大鑿おほのみでお紋のぼんのくぼを打つて殺し、それから庭先に廻つて大鑿で雨戸を一枚コジあけた――締りのない雨戸だから、こいつは女の力でも外せる――鑿はすぐ物置の道具箱へ返さうと思つたが、その隙のないうちに、俺が大鑿のせんさくをして居るのを聽いてあわてて井戸の中へ投り込んだんだらう」
 平次の推理は見て居たやうに正確に展開して行きます。
ぼんのくぼを打つて殺したのは、恐ろしい智慧ぢやありませんか」
「俺は先刻はりきうことを訊きに行くと言つたらう。近所の鍼の名人で、巳之市みのいちといふのが居るんだ。行つて訊いて見ると、上總屋では内儀のお角と叔母のお常がよく療治に行くさうで、いろいろ話してゐるうちに、巳之市が自慢らしく禁斷きんだんの灸穴や、生活點のことなどお常に話してやつたと言ふぢやないか」
「成程ね」
「それだけで止せば、まだわからなかつたかも知れないが、お常は次第に増長して今度は内儀のお角に思ひ知らせようとした」
「お角に」
「お常に惡い癖のあることを、庵崎數馬にもらしたのはあの内儀のお角だ。お常にして見れば、お角は憎いには憎いが、四十女を殺したところで張り合がないと思つたことだらう。そこで一番若くて可愛らしいお雪を殺すか、あの顏を滅茶々々にして、母親のお角を死ぬほど悲しがらせようと思ひ立つた」
「まるで鬼ですね」
「病氣のせゐだよ――ところで、澤庵石を井戸へ落したをもう一度くり返して、今度は井戸車を使つて井桁ゐげたの大釜を引つくり返した。仕掛けの綱は、物置の中に投り込んであつたよ。利口のやうでも手落ちがある、綱の先に釜敷が縛つてあるんだから、誰が見たつて唯事ぢやない」
「へエ、驚きましたね」
「俺はあんな氣違ひを縛るのは嫌だ。ほかへ行つて惡いことをする氣遣ひはないから、逃げ出すのを知りながら默つてゐたが、お濠へ飛び込むとは――」
 平次は併し滿更それを豫期しないわけではなかつたのでせう。
「怖いことですね」
「だからお前も早く嫁を見付けることだよ。女だつて男だつて何時までも獨りでゐるのは良くねえ」
「道理であつしも時々裸になりたくなりますよ」
「裸になつて質屋に飛び込む口だらう。お前などは」
「違げえねえ」
 二人は聲を合せて笑ひました。上總屋事件の陰慘さがこれでようやく吹き飛ばされた樣子です。





底本:「錢形平次捕物全集第三十九卷 女護の島異變」同光社
   1955(昭和30)年1月15日発行
初出:「小説世界」
   1950(昭和25)年1〜5月
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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●図書カード