奇談クラブ〔戦後版〕

枕の妖異

野村胡堂




プロローグ


 それは四回目の奇談クラブの席上でした。
 その日の話し手桜井作楽さくらいさくらは、近頃では珍らしい和服姿――しかも十徳を着て頤※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)を生やした、異様な風体ふうていで、いとも悠揚ゆうようと演壇に起ったのです。
 真珠色の光の中に、二十四人の会員と、その半数ほどの臨時会員は、美しき会長吉井明子よしいあきこ夫人を中心に、期待に張り切って、この一風変った話し手を見詰めて居ります。
「さて皆様、私の話は、自由自在に歓楽の夢が見られるという、世にも不思議な枕の物語でございます」
 壇上の桜井作楽は山羊やぎ※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)をしごきながら、こう語り始めました。
「――う申し上げたら、何を馬鹿なと皆様ははなっから笑われるかも知れませんが、私は決して出鱈目でたらめを申すのではございません。皆様のうちでも御年配の方は、明治の中頃まで、日本橋の照降町てりふりちょうに、桜井屋という、枕を専門に商う不思議な店のあったことをご存じかと思います。――何を隠しましょう、私桜井作楽は、その桜井屋の血統の者で、枕を商う稼業は廃しましたが、家に伝わる旧記の中から、この奇怪至極な話を見付け出しましたので、幹事今八郎こんはちろうさんにお願いして、皆様に御披露する次第でございます」
 桜井作楽の枕の前説はまだ続きます。
ある種の枕をしたために、思いのままに歓楽の夢が見られるということは、単なる想像にしても、なにかう胸をおどらせる想像ではございませんか。この世智せち辛い世に生きて行くためには、それ位の馬鹿馬鹿しい想像の世界があった方がよろしい。そのために私共の生活は、どんなに楽しく、そして弾力的なものにをるかわからないのです。
 ――現に中華民国の伝説の中には、御存じの通り盧生ろせいの夢という話があります。盧生が邯鄲かんたんというところで仙翁から枕を借りて仮寝うたたねすると、黄梁こうりょうの飯の出来上るまでに五十年の栄華の夢を見たという話でございます。
 これは『枕中記』という唐代の小説にある物語ですが、仙翁は回教の暗示だと申すことで、この思想は儒教や仏教から来たものでなく、中央亜細亜アジアの荒漠たる風土の中に育ったものらしく思われるのであります。
 もう一つ、昔イラン国で麻薬を与えて旅人を眠らせ、極楽にれて行って一夜の歓楽を尽さしたという宗教があり、それを仏蘭西フランス語で Assassin(アッササン)と申して居ります。それは殺人とか暗殺という言葉にも通じ、語源は Hashish(ハシシ)と同じで、大麻から製した麻薬のことであります。
 この二つの話はんから一脈相通ずるものがあり、要するに人間は任意に歓楽の夢を見ることが可能で、それはハシシに属する麻薬の助けを借りるのではあるまいかと思われます。
 もう一つ、人は時々非常に長い夢を見ることがありますが、心理学者の実験の結果、あれは実際に短い時間に見るのだということが明らかにされて参りました。盧生が飯の炊き上るまでに五十年の夢を見たというのも、決して作り事とばかりは申されません。
 ――さて前説は非常に長くなりましたが、私のこれから申上もうしあげる、奇怪至極な話は、決して出鱈目な作り話でないという証拠を、あらかじめ呑み込んで頂くために、いささか床屋談義めくことを申上げた次第で御座います」
 桜井作楽の話は、これからいよいよ本題に入るのでした。


此処ここがよかろう」
「ウム、場所は何処どこでも構わぬ、貴公の命を申受けさえすればそれでいのだ」
「何んの」
 二人はパッと左右に別れました。どちらも若くて、どちらも元気そうな青年武士、浜町河岸がしおぼろの月下、二条の刃が春の夜風をって相正眼に構えたのです。
 時は天明元年三月十八日の夜、
「今からでも遅くはない、其方そのほうで引く気は無いか、今夜の始末は内密にしてやるぞ」
 と言ったのは、二十五六の逞しい方、秋月九十郎あきづきくじゅうろうと言って、わずか五十俵をむ安御家人でした。
「何んの其方如きに」
 我慢の歯を喰い縛って、それを迎えたのは、一つ二つ年嵩の、妻木右太之進つまきうたのしんという、これも五十俵そこそこの御家人ですが、此方こちらは内福らしくて身扮みなりもよく、身体からだも顔立も華奢で、美男といっても可笑おかしくない男振りです。
「よし、その気なら、容捨ようしゃはせぬぞ、来い」
おうッ」
 刃はわずかに合いました。切尖きっさきと切尖が、昆虫の触角のように触れて、ジーンと背筋を走るような電気が腕に伝わると、二人は思わず一歩ずつ飛退とびさがって、必死の構えを立て直します。
 何方どちらも大した腕ではなく、どちらも命が惜しくてならなかったのですが、妙な意地で両立し難い羽目に陥り、本所相生町あいおいちょうの友人の宅で落合おちあった帰り、何方どちらから誘うともなく、浜町河岸の淋しいところに来て、う抜き合せることになったのです。
 二人のあらそいの原因となったのは、組頭伊奈長次郎いなちょうじろうの娘おあやといって、十九の厄の素晴らしい美人でした。お綾の美しさは、人間離れのしたもので、近松門左衛門の「笹野権三ささのごんざは油壺から出たよな男」なら、お綾はさしあたり「蜜の瓶から出たよな娘」だったのです。
 お綾の皮膚の色は、羽二重はぶたえ紅珊瑚べにさんごを包んだようで、生々いきいきした血色と、真珠色の光沢の上に、銀色の白粉おしろいを叩いたかと思われました。そして、大きい眼、可愛らしい唇――いやいや、そんな目鼻立ちなどを、月並に褒め称えるような顔ではなく、見る者に眼も鼻も唇も意識させない、パッと咲いたような美しさであったと言った方が適切でしょう。
 お綾が動けば、四方あたり馥郁ふくいくとして匂いました。お綾が笑えば、彼女を包む空気は、桃色に輝きました。――すくなくとも若い男達の眼には、お綾の美しさは、んな具合に映ったのです。
 この美しい娘お綾をめぐって、幾多の渇仰者かつこうしゃ讃美者が渦を巻いたことは想像にかたくありませんが、その中でも、父親伊奈長次郎組下の若い男で、まだ独り者の秋月九十郎と妻木右太之進が、たがいしのぎを削ったのも止むを得ないことでした。
 二人は日文ひぶみを書き、人橋を架け、組頭の家の前まで、百夜ももよも通って、無言のセレナーデを献じました。それを掻き立てるように、時々のお綾の美しい顔が、何気なく窓を開いて、うっとり夕空を眺めたりするのです。
 或時はお綾は、秋月九十郎の、逞しくて智的な男振りに関心を持つように見え、或時はまた妻木右太之進の優にやさしき殿御振りに心かるると見えました。
 二人はあらゆる手を尽して、お綾の身に着いた品を手に入れて、お舎利しゃり様のように拝んだり、お綾の書いたものをあさって、涙を流して抱きしめたりしました。そして伊奈長次郎の屋敷の召仕めしつかえたちは、んだ心付けにありついて、ほくほくしていることも決して短い間ではありません。
 二人から申入れた正式の縁談に対しては、お綾の父親の伊奈長次郎は何んの返事も与えず、二人からそっと送った、燃えつくような恋文に対して、当のお綾は思わせ振りな返事を、十通に一通、五本に一本位はくれたりしたのです。
 秋月九十郎と妻木右太之進が、燃えに燃えたことは想像に難くありません。そして最後に、お綾の召仕って居る端女はしための口から、お綾が「お二人のうち、優れた方に――」と漏らしたことが伝わったのです。
 二十五歳の秋月九十郎と、二十七歳の妻木右太之進が、この二人のうちの一人を決定するために、本所の友人山ノ井金之助やまのいきんのすけの宅で落ち合った帰り、つまらぬ口争いがこうじた挙句、誘い誘われて、浜町河岸に来たのはまことに運命的な成行なりゆきと言うほかはありません。
「行くぞ」
「来いッ」
 必死の二人は、爪先さぐりにジリジリ近づきます。
 朧の月は黒雲の中に入って、サッと渡る夜風、何処どこから散ったか、桜の花片はなびらがハラハラと飛んで、二人の刃へ肩へびんへと降りかかるのでした。
「えッ」
おうッ」
 もう一度切っさきが触れると、二人は又サッと飛退とびのきました。


「待った、待った、しばらく待った」
 両国橋を一気に飛んで、二条の刃の中へ、パッと飛込んだのは、本所相生町の友人山ノ井金之助でした。これは女房持の三十男で、お綾の競争者ではありません。
「山ノ井、――退いてくれ、いずれはうなる二人だ」
 秋月九十郎は声を絞りました。
「馬鹿なことを申せ、――先刻から二人の様子は変だと思って、そっと若党にけさせると、これこれという知らせだ、――でも間に合ってよかった。怪我けがの無いうち、引けッ、えッ、引かぬかッ」
 山ノ井金之助は、刃と刃の間に大手をひろげます。
「いや引かぬ。二人のうち、一人は生き、一人は死ぬのだ」
 妻木右太之進は華奢立ちな身体からだにも似ず、一歩踏み込んで相手の隙を狙います。丁度ちょうど臆病な犬が主人の声を聴いて、急に強くなるように――、
「えッ、聴きわけの無い。貴公達が命を賭けての争いの種は、伊奈長次郎殿御息女、お綾殿のことでは無いか」
「――――」
し、それならば、これ程馬鹿馬鹿しいことは無いぞ、――切られた方は犬死で、斬った方も、いずれは切腹ものだろう」
「?」
 ひるむ二人を当分に見やり乍ら、山ノ井金之助は続けました。
「貴公達の争っている肝心のお綾殿はな、今日嫁入先がきまったぞ」
「えッ」
「玉の輿に乗ることになったぞ。それも相手は五十石や百石の痩御家人では無い」
 山ノ井金之助の言葉は、まことに、霹靂へきれきの如く二人の耳に響きました。構えた刃はダラリと垂れて、意気地が無くも、揃ってポカリと口さえ開いているのです。
「誰だ、相手は?」
 秋月九十郎は僅かに気を取直とりなおしました。次第によっては、此儘このまま切込きりこんで行く気になるかも知れません。
「驚くなよ、お綾殿の嫁入先というのは、駒込に小大名ほどのお屋敷を構えて居る、八千五百石の大身、大森摂津守おおもりせっつのかみ様だ」
「あッ」
 二人はまさに、開いた口もふさがらなかったのです。大森摂津守は名だたる大旗本で、幾度いくたびか幕府の大官重役に擬せられましたが、その代り今年取って六十二歳、伊奈長次郎の娘お綾とは四十三も年が違って居るはずです。
「その縁談は、この山ノ井金之助も相談を受けたが、あまりの年の違いで、一度は断った。しかし、貴公達も知っての通り、伊奈長次郎殿は役向の不首尾で、近くは罷免になるかも知れず、かてて加えての御勝手向不如意で、ことの外の難儀だ」
「お綾殿は? お綾殿はそれを承知か」
 妻木右太之進は、僅かに一脈の望みにすがりつきました。
ことごとく承知だ、進んで嫁入すると言うのだ。いや、喜び勇んで嫁入するのだな」
「――――」
「その事を一応貴公達の耳に入れたいと思ったが――二人の心持を考えて、ツイ言いそびれてしまったのだよ、――悪く思ってくれるな。サア、話が解ったら、刀をしまったり、人が見てはよろしくない」
 山ノ井金之助に注意されて、幸いに血を見なかった刀を納めると、急に張り詰めた気がゆるんだものか、二人は其まま、ヘタヘタと捨石の上に腰をおろしてしまったのです。
「それでよし、元々貴公達は、莫逆ばくぎゃくの仲ではないか、一婦人のために、刀まで抜き合うとは何んたることだ」
 山ノ井金之助の世間並な忠告を、二人は空耳に聴いて、勝手なことに考えふけって居たのです。


 秋月九十郎と妻木右太之進の、失恋の悩みは果てしもなく続きました。
 そのうちに、組頭伊奈長次郎の娘お綾は、駒込の大旗本、大森摂津守六十二歳の内室に納まり、この造化の大傑作とも言うべき名玉は、永久に魅惑的な姿を隠してしまったのです。
 弱気の妻木右太之進は、夜となく昼となく寝て居りました。庵室の清玄せいげんのように痩せ細って、腑甲斐ふがいなくもお綾のおもかげを追い続けましたが、困ったことに人間は自分の思うがままの夢ばかりは見られず、ただ身を焼く懊悩に委ね切って、半病人のような日を送っておりました。
 一方秋月九十郎は、一日一日と狂気になって、酒に親しむ日ばかり続きました。二人共勤めを怠り果てて、最早人がましい性格も失い尽くしたように見えるのです。
 と月あまり経ったある日、秋月九十郎はかつての恋敵妻木右太之進を、湯島金助町きんすけちょうの屋敷に訪ねたのは、何んという風の吹き廻しでしょう。
「これはこれは」
 妻木右太之進は、あわてて月代さかやきを剃り、衣服を改めて、秋月九十郎を待たせてある座敷に現われました。
「拙者が直々じきじきに参るのは、まことに異なものでござるが、今となっては最早もはうらみも憎しみも無いお互いでござる――」
「いかにも」
 秋月九十郎の言葉の異様さに、妻木右太之進は引摺られるように相槌を打ちました。
「ところで、これから先、どのようにして世を過ごしたものであろうか。武士は相互い、膝突き合せて御相談をいたそうかと、昔を忘れて参った次第でござるよ」
成程なるほど
「お互の悩みを知るものは、お互の外には無い。うっかり世上の人に漏らすと、武士ともあろうものが、何んという腑抜けの沙汰と嘲られるのが関の山で――」
「――――」
「これが世間並の者なら、吉原を始め四宿の遊びを買いあさり、悶々もんもんを慰めるというすべもあろうが、何んの因果か、拙者はその気になれない。遊女に戯れて安価な慰めなどを得る気の重いのは、恐らく御貴殿も御同様であろう」
御尤ごもっとも」
 それには妻木右太之進もすっかり共鳴しました。その頃の人の道徳に従って、遊女に戯れて憂さ晴しをやるような、そんな生優しい悩みでは無いと二人共信じ切って居たのです。
「ところで、御貴殿は、この先うなさる御積おつもりじゃ」
 秋月九十郎は少し開き直りました。
「一向拙者には思案も御座らぬが――打開うちあけて申すと、寝ては夢、さめてはうつつと申しいが、あの方を夢にさえ見られぬ苦しさを、唯悶々として過して居る有様で御座るよ」
「それはまた」
 秋月九十郎は相手の腑甲斐ふがいなさに呆れた様子です。
「で、貴殿は?」
「拙者は散々考え抜いた末、一念発起して、お綾殿を見返してやろうと思いさだめたが――」
「お綾殿を見返す?」
「拙者はまだ二十五歳、気力にも腕にも智慧にも、人に引けは取らぬ自惚うぬぼれが御座る。何とかいたして八千五百石の大森摂津守を見下すほどの出世をして、この鬱勃うつぼつを晴らしたい心で一パイで御座るよ」
 秋月九十郎は、その逞しい肩を張るのです。この男は、うと思い込んだら、その目的を果すためには、どんな事でもやり兼ねないたちの人間です。
「それは羨ましい、――拙者にはその気力は無い。せめて大森家の奥深く入った、お綾殿のおもかげを、夢にでも見る工夫はあるまいかと、そればかりが悩みの種で――」
「人それぞれ、志の違うのはいたし方もない。ところで妻木氏」
「――――」
「それほどの御熱心なら、思う存分の夢を見る手段が御座るが、伝授いたそうか」
「何んと言われる?」
 秋月九十郎は大変なことを言い出しました。
「それは此枕だ――」
 九十郎は持参の包みを解くと、中から古めかしい桐の箱が現われました。箱を開いて取出したのは、燃ゆるような金襴に、緑色の縁を取って、両端のグイと反った、支那風の四角な枕です。
「――この枕だ。これは拙者の先々代が、長崎奉行に従って彼地かのちにあった時、異人を助けてその謝礼に貰った物だというが、異妖の枕として、子孫の使用を禁じ、今日拙者の手にまで伝わったものだ」
「――――」
「これを試みる人は、枕の真ん中を横に貫く銀の棒を抜いて火に温め、人間の手で握れないほどの熱さにして元の通りに差し込み、そのままこれを枕にして眠ると、望むがままの夢――栄耀、歓楽、思う通りの夢が見られるということだ。拙者の父が一度試みたというが、あまりの甘美な夢に驚き怖れ、これは子孫を毒するものとして堅く戒めて置いたため、拙者は一度も試みる折は無かった」
「――――」
 秋月九十郎の話はあまりにも奇っ怪です。妻木右太之進、驚き呆れて九十郎の顔と美しい枕を見比べるばかりでした。
「この枕を貴公に進呈しようと思うがどうだ。受けて下さるか」
「えッ?」
 右太之進はツイ両手を出しました。
「その代り拙者の方にも望みがある」
「その枕の効能にいつわりが無かったら、何んなと望みに任せて進ぜよう。金でも、道具でも――」
「いや、そんな物ではない、拙者の望むのは、貴公御自慢の一と腰、妻木家の重代という、彦四郎貞宗ひこしろうさだむねの一刀だ」
 それは実に驚くべき望みでした。彦四郎貞宗は稀代の名刀で、妻木家の代々は、東照権現からの拝領品として、どんなに大切にして来たことか、妻木右太之進は知り過ぎる程よく知って居りました。
 だが、今の右太之進に取って、一と腰の彦四郎貞宗が何の足しになるものでしょう。それよりはむしろ、思うがままの歓楽の夢が見られるという枕――あるいは夜な夜な美しいお綾のおもかげが見られないものでもあるまいと思う、奇瑞の枕の方が、どんなに有難ありがたかったかわからないのです。
「宜しい、承知いたした」
 右太之進は大きくうなずいて、床の間の刀架かたなかけの一刀を取りおろしました。


 その夜、人の静まるのを待って、奥の一と間に籠った妻木右太之進は、新しく清らかな夜の物に替えて、静かに奇瑞の枕を取出しました。
 まだ半信半疑でしたが、何の奇瑞も起らなければ、翌日あくるひぐにも、元の彦四郎貞宗と替えるという約束で、かく、一夜だけは試みることになったのです。
 金襴の角枕の中央を横に貫く、火箸ほどの銀の棒を抜くと、心静かに枕元の大火鉢にかざしました。
 埋火うもれび乍ら、銀の棒は直ぐ温まって、手を触れられない程になります。頃合を見計みはからって、それを元の枕に差し込むと、ほのかな香気――幽雅で甘美な匂いがゆらゆらと立ち昇って、薄暗い部屋一パイは、夢の国のようになるのでした。
 それを枕にして、期待にふるえ乍らも妻木右太之進は、新しい夜の物を深々とかつぎました。
 身体からだの重量感がスーッと消えて、其ままゆらゆらと天上する心持ち、部屋の空気が薄紫に淀んだと思ったのも束の間で、やがて真珠色の翼の上に、妻木右太之進はふんわりと坐って居りました。
 大地を揺り上げるような――その癖得も言われぬ快適な音楽が、何処どこからともなく耳に入りました。今の言葉で言えば、それはスクリアビンの「法悦の詩」にも比ぶべきものだったでしょう。妻木右太之進は、全身の官能が動員されて、一種不安な――が快適な焦燥を感じ始めると、何処どこからともなく現われた一人の女性が、右太之進の右手に、ほのかな裾風を起してふわりと坐ったのです。
「あ、お綾どの」
 それは、何年来こがれ抜いた、お綾でなくて誰であるものでしょう。
「右太之進様」
 右太之進の聞いた声は、想像を絶した魅惑の音色でした。
 四方あたりの空気がほんのりと桃色になると、お綾の頬が右太之進の頬に近づき、お綾の体重が、右太之進の膝の上に、羽のように軽かったのです。
 なまめかしくも清らかな恋の遊戯は、際限もなく続きました。
 そして右太之進がフト眼を覚ました時は、窓からは暁の色が忍び入って、枕の中の銀の棒は、もうすっかり冷たくなって居りました。


 一方、妻木右太之進から、彦四郎貞宗の一腰を申受けた秋月九十郎は、時を移さず、あらゆる家財を売って金に代え、それに貯えの金を加えて、辛くも三百両の大金をまとめました。
 その三百両と彦四郎貞宗の一刀を手づるを求めて贈った先は、何んと時の老中田沼主殿頭意次たぬまとのものかみおきつぐもとだったのです。
 田沼父子が、将軍家治いえはるを挟んで、どんなに権力をふるったか、そして、どんなに賄賂をむさぼったかは歴史上の問題で、此処ここに詳説するまでもありません。
 三百両の金は、もとより老中田沼意次の眼にとまる筈は無く、それは取次の用人共の懐を肥やしたに過ぎないのですが、彦四郎貞宗の名刀だけは、無事に貪婪どんらんな関所を通って田沼主殿頭の目に留まりました。
 早速秋月九十郎の引見となり、そしてせがれ山城守意知やましろのかみおきともを通じて、若年寄の耳に吹込ふきこまれ、翌月は早くも、秋月九十郎二百石に加増、御腰物方に登用され、その翌年の暮にはもう御使番衆、布衣ほい千石高と出世しておりました。
 たった一と腰の彦四郎貞宗が、此飛躍的な出世を保証したわけではありません。秋月九十郎の優れた才智と、逞しくはあるが人好きのする風貌と、そして田沼意次が稀代の得意であったと言われる、決して人と争わぬ、柔和な態度を模倣したことが、秋月九十郎の出世の階段を駈け足で昇らせた原因だったのでしょう。
 秋月九十郎は全く命がけで勤めました。一代に八千五百石の大森摂津守を見下すために、あらゆる屈辱を忍び、あらゆる艱苦かんくに堪え、そしてあらゆる犠牲を甘んじて受けたのです。
 九十郎は額で田沼邸門前の塵を掃く――と言われました。大公儀の仕事よりは、田沼邸の御用に力瘤を入れ、その利益のためには、どんなことでもやり遂げたのです。
 かくて秋月九十郎は、三年目には早くも新居番頭二千石と出世して居りました。それは実に、田沼主殿頭の若かりし日にも劣らぬ出世のマラソンです。
 九十郎の辯佞利巧べんねいりこうは次第に脂が乗って、その頃はもう田沼主殿頭の莫大な賄賂の取次は、何んと――公儀御役人の、しかも新居番頭の顯職けんしょくに居る――秋月九十郎がやって居る有様でした。
 四年目の春には、いよいよ三奉行が御小姓組御番頭かという噂が立って、三十に充たぬ秋月九十郎は、最早や無役の老旗本摂津守の上席に坐るのも遠くはあるまいと思われましたが――その年三月、老中田沼主殿頭意次の倅若年寄山城守意知は、殿中で佐野善左衛門さのぜんざえもんに斬られ、さしもの栄華と権勢を誇った田沼一家にも、一脈の陰翳が差し初めました。
 続いて天明六年に将軍家治こうじ、異薬を勧めたという名で田沼主殿頭は退けられ、翌七年には遠州相良さがら五万七千石の所領を召上めしあげられて閉居、八年には田沼の頽勢も一瞬にして壊滅、主殿頭は幽閉中に死んでしまったのです。


 妻木右太之進の場合は、夢から夢への、果てしも無い情痴の生活でした。
 昼も夜も無い暮し――いや、夜を昼にした暮しと言った方が宜いでしょう。うつらうつらと夢見るように昼が過ぎると、妻木右太之進の身の情火をかき立てる、夜の夢の世界が開けるのです。
 清らかな夜の物、快適な食事、ほろ酔い、そして奇瑞の枕の、銀の棒が温められました。
 それに頭を載せて眼をつぶると、幽雅ゆうがな香気が部屋一パイにこめて、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」の、七つのヴェールにも似た、大地の底からゆり動かすような音楽が、何処どこからともなく響いて来るのです。
 妻木右太之進の情熱は、うして毎晩かき立てられました。夢に現われるお綾の姿は、時には武家風の娘になり、奥方になり、御守殿風の椎茸髱しいたけたぼになり、或は入山形いりやまがたに二つ星の花魁おいらんになり、町家の娘になり――妻木右太之進のその時その時の好みによって、あらゆる姿に変化して出現するのでした。
 歓楽の夢は、夜毎よごとに変りました。が現実の世界は、妻木右太之進を、恐ろしい没落へと引摺って行ったのもまたむを得ないことだったのです。
 勤め向の不首尾により、妻木右太之進三月目には御役御免になり、三年目にはもう扶禄ふろくを召し放されて、一介の浪人になって居りました。
 僅か五十俵の痩御家人が、禄に離れ屋敷を追われると、あとはもう眼も当てられません。あらゆる持ち物を売り尽して、一年一年と没落の途を辿り、六年目には、奇瑞の枕たった一つを抱いて、明神下の棟割長屋に、見る影もない姿を横える有様でした。
 妻木右太之進は、それでもまだ眼が覚めなかったのです。残る一枚のあわせと、一口ひとふりの刀を売って、最後の糧を手に入れると、相も変らず奇瑞の枕を抱いて、歓楽の夢を追う愚劣無残の彼の姿だったのです。
 一方田沼父子の失脚と共に、秋月九十郎にも恐ろしい運命が訪れました。
 田沼父子の手先となって、その権勢利慾を募らせ、賄賂を納めて田沼父子の懐を肥し乍ら、死物狂いに自分の栄達を図った秋月九十郎も、田沼主殿頭の没落と共に、怨嗟と攻撃の矢を八方から受けて、三月経たぬうちにその役を追われ、主殿頭の死んだ頃は、その高禄も屋敷も、あらゆる権勢も剥ぎられ、野良犬のように江戸の町に投げ出されて居りました。
 秋月九十郎が切腹にも遠島にもならず、命目出度めでたく浪人になったのを、時の世間が不思議に思った程です。だが、あらゆる人々は後ろ指を差し、その影に唾し、巷の悪童は遠方からつぶてを飛ばしました。賄賂を出した者も出さない者も、田沼に引立てられた者も退けられた者も、田沼の悪の代弁者と思われた秋月九十郎に対しては、まなじりを決し、拳を握り、その肉をさえくらわんとひしめき合ったのです。
 秋月九十郎は命辛々からがら逃げ廻りました。そして、一つ一つ物を失い、一枚一枚身の皮を剥ぎました。
 今は早や乞食も同様でした。それでも未練らしく錆刀を一本抱いて、ついには野垂死のたれじぬ外はない運命を、小意地悪いほど明瞭に意識し乍ら、秋月九十郎は、その夜の宿を両国橋の下に求める外はありませんでした。
 九年前、妻木右太之進と、お綾を争って、ツイ鼻の先の浜町河岸に切結んだ時と同じように、それは桜の花片はなびらのハラハラと散る朧夜でした。


「誰だ」
 橋の下には、自分より先にもぐり込んで、むしろを着て丸くなって居る者が一人あります。
「――――」
 筵をハネ除けて起上おきあがったのは、まだ若い乞食でした。朧の月が橋の下の浅ましい世界を夢の国のように照し出しました。
「おッ、貴公は若しや?」
「秋月氏では無いか」
「妻木氏か」
 曾ての恋敵、秋月九十郎と妻木右太之進は、思わぬところで、十年目の顔を合せたのです。
「これはうした事だ」
「貴公こそ」
「いや、田沼殿のひきで日の出のいきおいと聴いた秋月九十郎殿が、そのなりは何んとした事だ」
「面目ないが、今となっては権勢も栄華も夢だ、――私は力と才智を頼り過ぎたのだよ」
 秋月九十郎はボロボロの袷の襟をかき合せて、素直に顔を伏せるのです。
「この妻木右太之進は、枕の奇瑞に溺れて、夢から夢の十年を過してしまったが――」
「で、この先をどうする積りだ」
「何んにも考えは無い、――が一つだけ貴公に教え度いことがある」
「?」
「貴公はその後のお綾殿の消息を知らぬか」
「いや権勢に溺れて、お綾殿を思い出すいとまも無かったよ」
「それは羨ましい――この俺は、お綾殿の美しさの崩れて行くのを十年間此眼で見て来たのだ」
「――――」
「お綾殿の実家の伊奈家も没落して、最早帰る家もなく、お綾殿はツイ其処そこ――柳橋の裏店で、細々と煎餅を焼いて売って居るのだよ」
「それは本当か」
「何んで嘘を言おう――行って見るが宜い、貧苦と邪悪な心にやつれ果てたお綾殿は、最早昔の輝くお綾殿では無い。トゲトゲしい顔、ガサガサの声、ひがんだ眼――人間はあんなにも変るものか――それに比べると、落ぶれ果てても貴公や俺はまだ人間らしい」
「八千五百石六十二歳の大身に、進んで嫁入ったお綾殿だ、それが当然の成行かも知れぬ」
 秋月九十郎は憮然としました。
「そこでもう一度言うが、此先貴公はうするのだ」
「百姓になろうと思うがうだ」
「それは良い覚悟だ――俺も実は内々そんな事を考えて居たよ」
 二人は顔を見合せて、初めて隔てなく笑いを交しました。油然ゆうぜんとして胸に湧き上るのは、思いもよらぬ親しみの感情です。
「お綾殿――お綾殿のそれが最後の姿であったのか」
 秋月九十郎は、自分のセンチメンタルな気持を反省して居ります。
「一と走り、柳橋へ行って、お綾殿の姿を見て来てはうだ、――あの煎餅屋はまだ店を閉めては居まい」
「いや、無用だ、――俺の心の中に残る、昔のお綾殿のおもかげでたくさんだ」
「――――」
「ところで一つ頼みがあるが、聴いてくれるか」
 秋月九十郎は切出しにくそうに言いました。
「何んだ」
「一と晩だけ、たった一と晩だけ、その枕を貸してくれぬか、――祖先の禁を破るようだが、せめて、一と晩だけ俺もその歓楽の夢が見度い」
「よかろう」
 妻木右太之進は素直に応じました。そしてう続けるのです。
「実は今晩限りで大川に投げ棄てる積りであったが、最後の晩を貴公に貸すのも面白かろう、精一杯楽しい夢を見るが宜い」
 右太之進はそう言って、汚い風呂敷の中から、今は箱も壊れてしまったらしい、金襴の枕を取出すのです。
 橋の上は人の足音も絶えました。何処どこからともなく、風の無いのに桜の花片はなびらが飛んで来て、この敗残の二人男の上に降りそそぎました。

フィナーレ


「私の枕の物語はこれでお仕舞いです。此奇瑞の枕が今に伝わって居ると、いろいろな話題と研究材料を提供したことでしょうが、残念ながら此時限り行方不明になりました。多分秋月九十郎が最後の夢を楽しんで、翌日は大川の水に投げ込まれたことでしょう。秋月九十郎と妻木右太之進が、それからうなったのか、二百年前のことで、今では知るよしもありません。なお念のために申して置きますが、此物語は奇談としての興味のために申上げたので、何んの教訓も偶意ぐういも――そんな安価なものは持って居りません」
 話し手の桜井作楽は、丁寧に一礼すると、静かに壇を下りました。





底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社
   2009(平成21)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「代作恋文」アポロ出版社
   1948(昭和23)年10月
初出:「月刊読売」
   1947(昭和22)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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