幻術天魔太郎

野村胡堂




家光を狙う曲者


 駿河太郎するがたろうは、首尾よく千代田城ちよだじょう本丸の石垣のかげに身をひそめました。時は寛永十六年(西暦一六三九年)三月、いまから三百十二年まえの、夢みるようにかすんだうつくしい春のま夜中です。
 西丸のうしろから、紅葉山もみじやまの一角をめぐって、ここまでつづいた長い道灌堀どうかんぼり、その水草のなかを半分はもぐって、本丸にたどりついた駿河太郎は、当代の将軍、徳川家光とくがわいえみつを討って取ろうという、おそろしい大望にもえて、半夜にわたって春寒の水につかったのも、もののかずとも思わないほどの、元気いっぱいの勇ましい少年でした。
 背中にしょった一刀、それを左腰にまわして、全身のしずくをきると、かねて、お城大工の棟梁、泉田筑後いずみだちくごから手にいれた絵図面をたよりに、将軍家光の寝所の外までしのびより、かねて約束の、三枚めの雨戸をそっと押すと、雨戸は音もなくひらいて、まっ黒なうるしの闇が、魚のようにぬれた駿河太郎のからだを、音もなくのんでしまいました。
 そこから、広い廊下をいくまがり、五十三の部屋部屋、綾手の長局ながつぼね、それをぶじに通りぬけると、中庭にめんして、将軍家光の寝所があるのです。
 さいわい、宿直とのいの者にも見とがめられず、一刀をぬきはなって、一気にさかいのふすまをあけた駿河太郎は、おもわず「あッ」と立ちすくみました。
 青畳をぼかして、真珠色の絹あんどん、白りんずの吊夜具、将軍家の寝所にはちがいないのですが、ふとんの中はもぬけのからで、めざす相手の家光は影も形もなかったのです。
 駿河太郎は調べにしらべて、ここまでは忍びこんだのですが、たった一つ、将軍家光の寝所はおなじ屋根の下ながら東西南北に四ツあり、日により時によってそれをグルグルかえるのだということまでは知らなかったのです。
 どこでどうからだがさわったものか、長局いっぱいにはりわたした警備の鈴が、さえきった音をたてて、近くから遠くへ、遠くから近くへ、カラカラカラカラとなりました。
「それッ、曲者くせものでござるぞ、方々おであい召され」
 御殿の中は、いっぺんに光の洪水になりました。老女、中臈ちゅうろう、腰元、端女はしためまで、おびただしい数の女、女、女。老いたるも若きも、用意の長刀なぎなた、脇差をひらめかして、駿河太郎たったひとりを目あてに、八方からドッとおしよせ、おっとりかこみ、人垣をつくって手捕りにしようと意気まくのです。
 この時、駿河太郎は、とってようやく十六歳、花のような美少年でした。水をくぐったからだは八方の灯をうけてアユのように光りますが、顔色はやや青ずんで、一刀をふりかぶったまま、花ふぶきのようにおしよせる女の大軍をきっとにらみます。
 いっぽうに血路をひらいて、外へとびだすのは、駿河太郎の神来剣をもってすれば、さしてむずかしいことではありませんが、それをやりとげるためには、むらがる女軍の中にとびこんで、五人や十人は斬らなければなりません。
 駿河太郎は、それがいやだったのです。めざすは、将軍家光たったひとり、罪もとがもない女たちを、刀にまかせてきりまくるのは、自分の命がおしさのひきょうなふるまいです。
「よーし、こいッ」
 駿河太郎は大剣をまわして、女軍の一方にきりこみました。どこに、どうした技があったものか、長刀と脇差が、五、六本宙にとぶと、女軍の先頭が二、三人おりかさなって廊下にたおれ、その上をツバメのごとくとんで、駿河太郎のからだは廊下を幾曲り、さっきの雨戸のすきまから、おぼろ月の春の庭へ、ポンととびおりました。
「おのれ、曲者」
 ハッと気がつくと、前には宿直とのいの武士が二、三十人、円陣をつくって、駿河太郎をまっていたのです。
 大奥にどんなさわぎがあっても、表の武士たちは裏の長局へは入ることがならず、気をもみながらまっているところへ、えものは自分のほうから、網の中へ飛びこんだようなものでした。
 ひともみ、ふたもみするうちに、駿河太郎はなんとかしてここをぬけだし、おもむろに再挙をはかろうとしましたが、刻一刻相手の人数はくわわるばかり。
「えッ、もうがまんがならぬ」
 三人でも五人でも切ってすてようと思いましたが、腕はできても、血を流すことのきらいな駿河太郎、最後のこころみとしてのこる手段はたった一つ、絵図面にあった本丸の空井戸をさがしだし、それにとびこんで、城外の人しれぬ場所にぬけだそうとしたのです。
 でも、そのころの本丸には七つの井戸があり、いずれもおそろしく深いのですが、そのうちのどれが空井戸で、城外へのぬけ道になっているか、よういのことではわかりません。
 駿河太郎あせりにあせりましたが、前々からの熱心な研究がものをいって、大奥の泉水のほとり、風情をつくした石どうろうのかげに、それらしい井ゲタを見つけると、片手に一刀をふりかぶって、むらがる宿直とのいの衆をきりはらいながら、思いきって井ゲタの中へ、ポンととびこんでしまったのです。
 が、その中に、ふだんは網がはられてあるということは、駿河太郎の智恵でも、夢にも思いおよびません。
「それッ、手捕りにせい」
 空井戸の六尺下にはった網に手足をとられて、クモの巣にかかった虫のような、むだなあがきをつづけている駿河太郎は、ハシゴと槍とさし又におさえられて、苦もなく縛りあげられ、
「無念無念」
 と月下の庭に引きだされたことはいうまでもありません。

怪人心外道人


大森の山の下、ぶきみな穴の中に、ひとりの隠者が住んでおりました。心外道人しんがいどうじんと人はよんでおりましたが、だれもほんとうの名を知ったものはなく、白髪童顔、ツルのごとくやせて、道衣だけが、いつでもまっ白なので穴居の人らしくない、すがすがしさと不気味さをかんじさせます。
「おねがいです。道人さま」
 その穴の前、まっくろな土の上に両手をついて、ひとりの少女が、さっきからたんがんしておりました。年のころ十四、五、モモの花のつぼみのようなうつくしく、きよらかな少女ですが、道人は経机のまえに端座し、なにやら印をむすんで、一ことも口をきこうとしません。
「おねがいでございます、道人さま。兄がきょうの昼ごろには、この先のすずもりはりつけにされることになっております。……
 どんなことをしても、それを助けなければなりません。――法力宏大で、この世にできないことのない道人さまときいて、わざわざたずねてまいりました。おねがいでございます。道人さま、兄の命をお助けくださいまし」
 少女はさっきから、泣いてはうったえ、うったえては泣き、涙もかるるばかりになげくのです。
「おまえはだれだ、兄はなんという?」
 道人ははじめてふりかえりました。
「兄は駿河太郎ともうします――私はその妹の月子つきこ
「なに? 駿河太郎というのか? 父親はだれだ――名はなんといった」
「父親は――」
 少女はソッとあたりを見まわしましたが、だれもいないと見さだめたか、
「父親は――駿河大納言」
「なに? なに?」
甲駿こうすん二国の領主徳川忠長ただなが卿。申すまでもなく当上さま(家光)の血をわけた兄弟、将軍のあとつぎをあらそったと思われ、乱行の悪名をおわされて六年まえの寛永十年、高崎城に幽閉されて、肉親の兄家光将軍から、むざんの死をたまわりました」
「それが、それが、お前たちの父上か」
「兄駿河太郎は、千代田城に忍びこみ、当代の将軍家光公を親のかたきとねらっていけどられ、きょうのま昼をきして稀代の兇賊という悪名のもとにさび槍につらぬかれて、殺されることになっております。おねがいでございます、道人さま」
 月子は、またも泣きいるのでした。
「よし、よし、すくってやるぞ。心外道人、たしかにおまえの兄の駿河太郎のいのちをひきうけた。私はもはや浮世を絶った物外心外の世すて人だが、駿河大納言のわすれがたみときいては捨ておきがたい。私もむかしは、すこしばかりゆかりがある」
「道人さま、それは本当でしょうか? ありがとうございます、道人さま」
 心外道人は白衣びゃくえのまま、ひざのチリをはらって立あがると、月子はもう、飛びあがってそのせんとうに立ったのです。
 穴の外へでて日ざしをみるともう昼ちかいようす、駿河太郎のいのちは風前のともしびです。
「さあ、いそぐのだ」
 白衣の道人と花のような乙女おとめは、鈴ガ森までとぶのでした。

仕置場あらし


 駿河太郎はこのとき十六歳で将軍家光のいのちをねらう、世にもたくましい心の持主に似ず、見たところは、まことに花のような美少年でした。
 それがはだか馬にのせられ、鈴ガ森の仕置場にひきだされて、きょうま昼を合図に、はりつけ柱のうえにおしあげられ、さび槍に命をおとさなければならないのです。
 はだか馬にのせられた駿河太郎は、伝馬町の牢屋から、鈴ガ森まで引かれました。
 いつもならば、くわしく罪状をかいた高札をおったてて、諸人への見せしめに、江戸の町まちをひきまわすのですが、将軍の命をねらった曲者とは、さすがにかけなかったので、その高札も省略しましたが、もしや仲間のものがあって、囚人めしうどをさらわないともかぎらないと思ったか、はだか馬をとりかこんだ警戒はおそろしく厳重で、町まちの野次馬も、うっかりそばへはよりつけそうもありません。
 でも、将軍家光のいのちをねらった曲者のしおきといううわさは、早くも江戸じゅうにつたわったので、見物の群衆は、道の両がわをうずめましたが、馬上、高手小手にいましめられた、前髪だちの美少年の顔をみると、人びとはおもわずどよみをうって、涙にぬれた人の顔が、波のようにゆれたのもむりのないことでした。
 駿河太郎は見識のある少年でした。将軍のいのちをねらうのに、けっして小どろぼうのようなふうはせず、曙染あけぼのぞめのりっぱな小袖、精好せいごうはかま、青じろい顔をキッとおこして、天地に恥じぬつらだましいは、まことに、美玉のようにきよらかで、後光がさしそうな威厳があったのです。
 鈴ガ森の仕置場には、十三間四方の竹矢来をむすび、そのまん中におっ立てたはりつけ柱には、息をつぐ間もなく、駿河太郎をしばりあげました。竹矢来のそとは十重二十重とえはたえに、数千数百の群衆が、おもわずワーッと悲嘆の声をあげましたが、つづいて警固の役人のどなる声と、頭上にひらめく槍と刀のおどかしにキモをつぶして、水をうったようにしずまりかえります。
「それ、さまたげがあってはならぬ。この間にはやく」
 と上役人のひとりが声をかけると、さび槍をもった不浄役人がふたり、ズカズカと進みでて、はりつけ柱の左右から、アリャ、リャとかけ声もろとも、駿河太郎の胸さきに、二ほんの槍を十文字にチャリンとあわせるのです。
 この二ほんの槍を引いて、こんどは駿河太郎の両わきから、ブスリとさすと、槍のほさきはブッちがいに左右の肩さきにぬけて、駿河太郎の命は一しゅんにしてたたれるのですが、
「待った、――その槍まった」
 声をかけたのは、東の方の矢来のそとに、ひときわめだっていた総髪白衣の道者です。
「あッ、心外道人だッ……」
 矢来のそとの群衆は、もう一度どよみをうちました。
「それ、早く、はやく」
 さまたげがあると見て、役人はもいちど声をかけました。槍持の槍はサッと引かれて、ねらいさだめた駿河太郎のわきの下へ――と思ったしゅんかん、
「待てというに」
 二つのつぶてがどこからともなくとんで、ふたりの槍持の顔をうつと、白衣の心外道人は、竹矢来をメリメリとやぶって、仕置場の中へおどりこんだのです。
「おのれ、狼藉者ろうぜきものッ――取っておさえろッ」
 役人が立ちあがって声をふりしぼると、数十人の下役人、不浄人足、一度にどっと、白衣の心外道人をとりかこみましたが、
「や、や、や、あれはなんだ」
 その時、まわりの竹矢来がいちどにメリメリとやぶられて、心外道人そっくりの白衣の道者が七人、禅杖をふりかざして、仕置場のまんなかに飛びこんでくるのです。
「それッ、ひとりもにがすな」
 白衣の道者七人の出現は、一応役人どもをおどろかせましたが、役人どもは、それに三倍も五倍もの人数で、さらに万一にそなえた人足をかぞえると、たいへんな数になります。
 八人の白衣の道者をとりかこんで、あらそいは八カ所に展開し、しばらくははりつけ柱の上の駿河太郎のことをも忘れたころ、
「あ、火、火」
 仕置場のまわりから、メラメラメラメラと燃えたったほのお、それといっしょにわきあがった煙がまたたくうちに、仕置場一面に――白衣の道人も、役人ども、そしてはりつけ柱の上の駿河太郎のからだまでもおしつつんでしまったのです。
 ――竹矢来の外に、このありさまを見ていた数百千の群衆の中には、徳川幕府に好意をもつものばかりでなく、なかには今はほろびてしまった豊臣家の恩をうけたものもいて、紅顔の美少年駿河太郎が、世にもむざんなはりつけに処せられるのを見かねたものもあって、だれがほうりはじめたともなく、おびただしい礫の雨が、八方からバラバラバラと、あわてふためく役人どもの頭の上にふりそそぐのでした。

舟の中の幻術


 その夜、品川沖にうかんだ釣船の一つに、白衣の心外道人と、駿河太郎と、その妹の月子が乗って、釣糸をたれるでも、網をうつでもなく、汐にまかせて、沖へおきへと流しておりました。
 もっとも、船頭はひとり、ともにいるにはおりますが、頬かぶりのむこうむきで、闇の精のようにだまりこくっております。
「道人さま、――危いいのちをお助けくださって、お礼の申しあげようもありませんが、このうえの願いは、ご本名をうち明けてはくださいませんか」
 駿河太郎は、船底に手をついて、白衣の道人をあおぐのです。心ぼそい灯が船一パイの物と人をまっ黒な夜の波の上にえがきだして、遠くから見たら、これがただの釣とも見えるでしょう。
「いや、いや、私は、なすべきことをしただけのことじゃ、本名などと、とんでもない。苗字も名も、人にしられるほどの私ではない」
 心外道人はもってのほかと手をふりますが、駿河大納言のわすれ形見――将軍家光の甥にたいして、こう口をきけるのは、ただの人間でないことは、あまりにもあきらかです。
「では、せめて、鈴ガ森の仕置場で、私をすくってくださった、あのふしぎな術はなんと申すものでしょう。できれば、あの術を私ども兄妹きょうだいにお教えくださって、この大望をとげさせてくださいませ。おねがいでございます」
 兄の駿河太郎と、妹の月子は声をそろえて、道人の膝にすがるのでした。それほど、船はせまく、そして、海には五ツすぎ(八時すぎ)の風がたってきました。
「それは教えもしよう、が、修業はなかなかむずかしい。私の体得した術というのは、そのむかし、果心居士かしんこじという道人が、大明国だいみんこくにわたって、神仙から習得したといわれている、幻術の一種じゃ。私はそれから三代め」
「幻術?」
「これは忍術じゃ、魔術とちがって、いたって理づめのものだが、凡智凡俗では、習いおぼえることは、はなはだむつかしい」
 忍術は武術の一種で、修練一つであるところまでは達するが、幻術はひとの心の秘密にわけいって、おこなう術で、今のことばでいえば衆団しゅうだん催眠術。それにそのころはまだ秘術として、一部の学者につたえられていた原始化学をおうようしたもの。魔術は手品の一種で、これは詐術といっていいもの――と心外道人は説明してくれるのです。
「すると、やはりキリシタンのようなものでしょうか」
 駿河太郎はたずねました。
「いや、いや、キリシタンは異国の教えだが、まぎれもない正法で、なんのふしぎもない教えだ。――私の幻術は究理学(物理学)とは因縁をもっているが、お宗旨とは少しのかかわりもない」
「そううけたまわっては、よけいに修業したくなりました。どうぞ道人さま」
「よしよし、じゅうぶん教えもしようが、その前に、一つ二つ、気をつけておきたいことがある」
「どんなことでしょう。道人さま」
「まず、駿河太郎という名まえをあらためることだ。その名はお父上駿河大納言を思いださせて、なにかと不便だろう」
「なんと申したらよいでしょう、道人さま」
天魔てんま太郎はどうだ。将軍家光に天誅をくわえるのだ」
「ありがとうございます。道人さま」
「それから、幻術は天地の理法に則したもので、人に危害をくわえるのを目的とした術ではない。これを習得して、父の仇、将軍家光をとっておさえるためには、そのつぐないとしてまず百人の人を助けなければならぬ」
「百人の人?」
 駿河太郎もおどろきました。
 ひと口に百人といいますが人ひとりをすくうのさえ、この世の中ではよういなことではありません。
「ひとりのいのちを助けても、九族をすくうことがある。百人のいのちをすくうのも、けっしてむずかしいことではない」
「――――」
「修業はこんや、思いたった時から、すぐはじめるがよい。妹の月子は女ながら天分がある。兄にまけてはならぬぞ」
「ハイ、道人さま」
 月子はかわいらしい顔をあげました。
「兄太郎もまた、妹にまけてはならぬ」
「ハイ」
「よいか、――あれを見るがよい」
 心外道人はまっ黒な夜空にむかって、杖をあげてなにか文字をかきました。それから船ばたに胸をはって、フ――と息をふきかけると、
「あ、あれは?」
 みるみる海上のやみ、うるしのごとき夜空に、五色の雲がムクムクとわきおこって、それをふんで身のたけ数百丈の怪天魔が、蛍光につつまれた袖をはらい、双刃もろはの剣を大上段に、かがみのごとき目をみはって、カッと牡丹ぼたんの口をひらき、すさまじい火焔をはくのです。

丹沢の隠れ家


 ウルシのごとき闇の海上に、中天たかくそそり立つ怪天魔の像は、目をいからし、キバをならし、ボタン花の口をひらいて、船もろとも、四人の人をひとのみとちかづきました。
 これは心外道人の幻術としりながら、駿河太郎の天魔太郎も、その妹の月子も、生きた心地もありませんでした。船べりちかく立った心外道人は、手をあげてサッとはらうと、怪天魔の像はかき消すごとくうせて、あとはまっくろな荒れもようの夜の海だけ。
「どうだ、太郎、月子、少しはおどろいたようだな」
 ふりかえった心外道人は、おもしろそうにわらうのです。
「道人さま、これはどうしたことでしょう。それが幻術とやらなら、どうぞ私ども兄妹に教えてください」
 天魔太郎は舟ぞこに手をついて、熱心におねがいするのでした。
「教えるとも、おしえるとも。だが、修業はなかなかむずかしい。まず一年ぐらいは山にこもって、死んだ気になって修業しなければなるまい。それからひととおりの幻術修業はできても、将軍家光を討ってとるのはむずかしい仕事だ」
 心外道人は舟をこがせて海岸ぞいに南へ南へと落ちのび、ほどよいところに上陸して、丹沢山たんざわやまの奥ふかく、とある洞窟どうくつに太郎月子の兄妹をみちびいたのは、それからじつに五日めの昼すぎでした。
「修業ちゅうは、しばらくここで暮すのだ。少しの不自由はあるだろうが、そのかわり、四季おりおりのながめは、関東第一といってもよい」
 洞窟のまえの台地に立つと、ちょうど今をさかりの山ざくらの花がすみが、源氏雲のようにたなびいて、その間から菜の花の黄毛氈もうせんをしいた里の風物。とおくには玉川の銀の帯のかなたに江戸の町まちまでが、ほのかに見えているのです。
「さて、おまえたちの住家を見せてやろうか」
 心外道人は先に立って、うす暗い洞窟のなかへ入ってゆきました。左右も天井も、岩はエメラルド色に苔むしておりますが、暗くて陰気で、ここに人間が住めそうもありません。
「だいぶおどろいたようだな、が、安心するがよい。ほんとうの住居すまいはこっちだ」
 道人は、何やらブツブツと呪文のようなものをとなえながら、右手の岸壁を二つ三つたたくと、大きな岩と見せた――じつはみどり色にぬった木のクサビがポコリと落ちて、心外道人の大地をふむ足にしたがって、たたみ一枚ほどの、これも偽装の岩の扉が、音もなくギーッとひらくのでした。
「アッ」
 太郎も月子も、おどろいて声をあげました。扉のなかは、どこからあかりがはいるか、思いのほかきれいなトンネルふうの道がつづいて、トンネルがつきたところに、もう一つの扉があり、それをさっきとおなじ手順で開けると、なかはま昼の世界です。
 花も咲き、鳥もうたう数万坪のみどりの盆地になって花のしたの小路をゆけば、三間四方ばかりの、思いもよらぬ小ぎれいないおりがたっているではありませんか。
「さあ、中へ入って休むがよい。とうぶんはここがおまえたちの住家だ。丹沢山の奥の奥の、けずり立った岩にかこまれた盆地で、飛ぶ鳥か猿やウサギのほかにはくるものもないところだ」
 ふたりの兄妹は、心外道人にみちびかれて、奥のひと間にすわりました。戸棚をあけると、寝具も座布団もあり、かけいの水は庭におちて、水晶のごとく冷たくきよく、それをくんできさえすれば、すぐお茶もわかせ、ご飯もたけるのです。
「道人さま、こんなところに住んでいては、なにかとご不自由じゃありませんか」
 太郎がふしぎがると、
「いやいや、私にはとてもよい友だちがあるのだよ、引合ひきあわせてやろう」
 道人はそういいながら、ある調子で四ツ五ツ手をたたくと、キ、キ、キといような鳴声がして、どこからあらわれたか二匹の大猿、もんどりうつように縁がわに降りて、きちんと膝をならべて、道人におじぎをするのです。
次郎坊じろうぼうにおてくか、ここにいるのは天魔太郎に月子という兄妹だ。これからいっしょに住むことになったから、よくいうことをきいて、大事にしてあげるのだよ」
「キ、キ、キ、キ」二匹の夫婦めおとざるは、奇声をはっしながら、人間のようにおじぎするのでした。
「この猿は、私が七年もかかってしこんだものだ。人間のことばは使えないが、人間のいうことはよくわかる、なんなりと用事をいいつけるがよい」
 心外道人はこういって、お猿を相手に、なにかと仕事をいいつけるのです。

幻術修業


 幻術修業が、どんなにほねのおれるものであったか、それはいちいち書ききれませんが、これは中世紀のヨーロッパの魔法や、インドで発達した妖術が、明時代の支那にはいってきて道教などの影響をうけて発達したもので、幻妖ふかしぎな術であったことは、いろいろの物語や本にあきらかにされております。
 丹沢山中のかくれ家。庭にある自然石の大卓の上に、太郎と月子は、まいにちすわって精神の統一をさせられ、やさしいことからむずかしいことへ、変身、隠身、風に乗ったり、雲をよぶ術までも、ひととおりはおさめたのです。
 春がゆき、夏がすぎ、秋もおわると、丹沢の山やまは雪にとざされますが、ふたりの兄妹と心外道人は、庵のなかにこもって、夫婦猿に用事をたさせ、たいした不自由もなく、あくる年の春をむかえました。
「もうよい。これ以上はふたりの心がけ一つで、上達するものは上達し、忘れるものは忘れてゆくだろう。私にはもう教えることは一つもない」
 ある日、心外道人は、ふたりを前にならべてこういうのです。
「ありがとうございますお師匠さま。このうえは、親の敵、三代将軍家光を、どうして討ちとったものか、それを教えてください」
 太郎はキッと顔をあげて、たくましい望みをのべました。
「もっともしごくな望みだがな、太郎。将軍家光はたいした人でなくとも、将軍職という位はよういでない。その証拠は、おまえがいつか、十重のしまりを破って千代田城に忍び込んでも、将軍家光を討つことができなかったではないか」
「では?」
「おまえが腕といっしょに徳をみがいて、将軍家光以上の人間になり、将軍職よりもとうとい人間の位をそなえさえすれば、家光は苦もなくおまえの手で討ちとられるだろう」
「そのためには、どんな苦しい修業でもいたします」
 太郎は心外道人のひざにとりすがらぬばかりに一生けん命おねがいするのです。
「それはたいそうむつかしいことだが、人は徳をつむよりほかに、位に勝つ工夫はない。たとえばおまえが、千代田城へ大手をふってのりこみ、家光の首をとってくるためには、魔法も幻術もたいした役にはたたないが、おまえが百人の生命を助けたとしたら、しぜんに神のめぐみをうけ刃物がなくとも、家光を討ってとることができるだろう」
「お話は、私にわかりかねますが、どうしたら私は、百人のいのちを助けることができるでしょう」
 天魔太郎には、心外道人のいうことが、はっきりのみこめないようすです。
「それは、私がいちいち教えるまでもない。おまえの心にきいて、その場その場できめてゆくのだ。――たとえば、あれだ」
 心外道人の指さすほうを見ると、この山の広場につうずる、石の洞窟の戸をあけて、ひとりの少女が、旅すがたもかいがいしく、あたりのようすを見まわし見まわし、こちらのほうにちかづいてくるのです。
「あれは、お師匠さま」
「おまえたちも知っているはずだ。お城大工の棟梁、泉田筑後のむすめお千代ちよだ」
「あ、お千代さんよ、おにいさま」
 月子はもう、旅の少女の顔を見ると、心外道人の思惑もかわまず、ぞうりをつっかけて、山の草ばなの咲きほこるなかを、洞窟の入口のほうにかけてゆくのです。
「どうしてお千代さんがこんな山の中へきたんでしょう」
「私が呼んだのだよ。お千代の父うえ、お城大工の棟梁泉田筑後は、おまえに千代田城大奥の絵図面をかしたことが知れ、内儀(妻)のみさおといっしょにしばられて、伝馬町の牢にいれられ、日夜の責め問いに、いのちも危くなっているのだよ。あのままほっておけば、死罪になるか牢死するか、いずれは助からぬいのちだろう」
「それを、どうしてお師匠さまが?」
「山をくだると、たいへんな評判だよ。泉田筑後はこのふもとの生れだ。私はともかくも、おまえたち兄妹に引合せるために、ひとり思いなやんでいる娘のお千代を、ここまで呼びよせたのだ。お千代は蝶にさそわれたり、野良犬に追われたり、江戸から丹沢山まで、なんにもしらずにやってきたのだ」
 そういううちに、お千代は、月子にむかえられて、夢のなかをたどるように、フラフラとこっちへちかづいてくるのです。
「お千代さん」
 天魔太郎は、おもわず縁がわをとびおりて、妹の月子と、泉田筑後のむすめお千代をむかえました。
 スミレも、タンポポ、ヒナギクも、広場いっぱいに咲きほこるなかに、ふたりの少女とひとりの少年が、おもわず手をとり合って、ふしぎなめぐり合いに、しばらくは泣きぬれております。
「よし、あれでよし、あとは太郎と月子がぞんぶんにやってゆくだろう」
 これをながめた心外道人は、このうつくしい情景をあとに、旅仕度もせずに、ひょうぜんとして山の庵を立ちさるのでした。

泉田一家の災難


 丹沢の山奥から江戸へ、天魔太郎とふたりの少女は、菜の花ばたけのチョウのように、心のどかな春の旅をつづけました。
 いやいや、心のどかとみたのは、勇ましくもやさしい少年少女の旅すがたのうわべだけで、心のなかは、お千代の両親、お城大工の棟梁泉田筑後とその妻の操の身の上をあんじて、ついお千代のおそい足がもどかしくなります。
 江戸へはいると、まず築地小田原町の、お千代の家にはいるつもりでしたが、
「待って、あれはなんでしょう」
 はるかに見えるわが家をさして、お千代は天魔太郎の袖をおさえるのです。
 大工棟梁泉田筑後の家は、町人風の住居ではありますが、小田原町の一角を占領した、みがきぬいた格子づくりで、子分衆から職人たち、下女下男数十人をやしなって、この世の繁昌をあつめたくらしむきですが、それがなんとなくものものしく、すさまじい妖気をたてこめて、ちかづき難いものをはなっていたのです。
「どうしたのお千代さん」
 天魔太郎は立ちどまりました。
「あれ、家中のものが、みんなしばられて」
 お千代がさした泉田筑後の家からは、番頭も小僧も、下女も下男も、子分も居候までもみんなげんじゅうにしばられて目あかし岡ッ引においたてられ、ま昼の往来へゾロゾロと引だされているではありませんか。
「これは大へん、だれかにようすをききたいが、――あ、お千代さんはいけない、顔を見られるとまずい」
 天魔太郎はかけだそうとするお千代をひきとめて、あたりのようすを見ているうちに、反対の路地の奥に小さくなってのぞいている十二、三の小僧のすがたを見つけ、そっと手まねきすると、小僧は三人のところへマリがころげるようにとんできました。泉田筑後の家に使われている、ことし十三の虎吉とらきちという無類のいたずらっ子です。
「お嬢さん、たいへんなことになったよ。旦那さまとおかみさんは、むほんのうたがいでしばられて、あしたは首を切られることになったんだ」
「えッ、それはほんとうかえ、虎吉?」
「だれがウソをいうものか。将軍さまのお城へ忍びこんだ、なんとかいう大悪党にお城の絵図面をやったんだってね。おかげで家中の者は、むほん人の一味にされて、みんなしばられていったぜ。うまく逃げたのは、おいらと猫のミイ公だけじゃないか。早くその大悪党のむほん人野郎の、なんとか太郎の首でもとってこなきゃ、旦那さまとおかみさんを助ける見こみはないぜ。どうしたものだろうお嬢さん」
 小僧の虎吉は、その将軍の首をねらった、天魔太郎をまえにおいて、こんなえんりょのないことをいうのです。
「それはお気の毒。私が名のって出るほかはあるまいな」
「あれ、お兄さま」
 月子はおどろいてとりすがりました。純情少年の兄天魔太郎は、自分のためにめいわくしている多勢おおぜいのひとを見るといのちを投げだして名のってでる気になるのでしょう。
「太郎さん、そんなことでは、多勢のひとを助けられそうもありません。ほかによい工夫はないでしょうか」
 お千代も月子と力をあわせて、天魔太郎のはりきった袖をおさえるのでした。
「なんだ、この野郎が将軍さまの首をねらった大悪党か。きやがれ、おまえのために旦那さまは殺されかけているんだぞ」
 小僧の虎吉はまたたいへんなことをいいはじめます。
「おまえの知ったことではない、だまっておいで。それより人にすがたを見られないうちに、おばさんのところへでも――」
 お千代は虎吉をなだめて、天魔太郎、月子と四人づれ、神田鍛冶町かんだかじちょうのおばさんの家に人目をしのんでたどりつきました。
 そこから伝馬町の大牢までは、そんなに遠いところではなく、天魔太郎は、いちど落ちついて、妹やお千代のことをたのむと、日ぐれも待たずに出動して、何やかやとさぐりはじめました。
 さいわい、ならいおぼえた幻術で、めったなことで人にすがたを見られるようなことはありません。夕方から宵の六ツ半(七時)ごろまで、大牢の内外、のこるくまなくさぐってきましたが、月子やお千代の顔を見ると、
「こまったことに、伝馬町の大牢の守りはおそろしく厳重だ。いかな幻術の力でも、あれをやぶる工夫はなく、うっかり水火の術をもちいると、多くの人にけがをさせなければならない。牢番頭の同心、太田原伝三郎おおたわらでんざぶろうは、牢のカギをあずかっているのだが、あれさえ手にはいれば」
 と、思案もつきて嘆息するのです。天魔太郎は、あすにせまるこの大難局をどうやりとげるでしょう。

大猿の出現


「お、なにやらもの音が――」
 天魔太郎がおっとり刀で縁がわへ出たのは、その夜の四つすぎ(十時)でした。雨もようの春の夜はウルシのようにまっくらで、どこからか花のにおいがただよってくるのが、みょうにこの闇を怪しいものにしております。
「お兄さま、猿が」
 うしろからのぞいたのは月子でした。
「お、次郎坊ではないか」
 縁がわにしゃがんているのは、あの丹沢の山奥に住んでいた夫婦猿のうちの雄、次郎坊の人なつっこそうな顔だったのです。
「どうしておまえは、ここへきたのだえ?」
 月子はなつかしそうに、大猿の次郎坊の首のあたりをなでましたが、ふと気がついたのは、次郎坊の首に見たこともないうつくしい首環くびわがはめてあることでした。
「おや、それは手紙ではないか」
 首環からはずした小さな包み、その中に手紙が入っているのを見つけると、天魔太郎は月子の手からうけとって、あんどんのそばにもってゆきました。
「先生のお手紙じゃありませんか、お兄さま」
 それはまぎれもない心外道人の筆跡で、

――猿の次郎坊を助太刀にやる。おまえたちの幻術はまだ未熟だから、力およばないことがあったら、次郎坊に相談するがよい、次郎坊はなんでも心得ている――

とこうかいてあるのです。
 猿と相談するというのは、ずいぶんおかしなはなしですが、この次郎坊というのは、畜生ながらひじょうにかしこく、人のことばもおおかたはわかり、「西遊記」の孫悟空ほどではなくとも、ともかく、たいした働きのできることは、天魔太郎も月子もよく知っております。
「次郎坊。よくきてくれたね、ありがとうよ。私たちは今、この方――お千代さんのお父さまとお母様を伝馬町の牢からお助けしなければならない。でなければ、おふたりはあすは小塚こづかはらで首をきられるのだよ――わかったかえ」
 天魔太郎が話してきかせると、お猿の次郎坊は、コックリ、コックリと利口そうに首をふるのです。
「いいかえ、牢のカギは同心太田原伝三郎が、夜も昼も腰にぶらさげ、三人の腕の強い武士が、それを守護しているのだ。私の幻術を助けて、おまえはそのカギをとりあげてくれ」
 天魔太郎はお猿にいいきかせると、昼から夕方へかけてさぐっておいた牢屋敷へ、妹の月子と、猿の次郎坊をつれて出かけました。
 春の夜は四つ半(十一時)すぎ、なまぬるい風は雨をさそって、いつの間にやら、ドシャ降りになってしまいました。
 いっぽう牢番頭の同心太田原伝三郎は雨戸を厳重にしめきって、八じょうの奥の間に、進藤しんどう今井いまい久保田くぼたという三人の剣士とともに、お酒をのんでとうの詩などを吟じておりました。
「どうだ進藤、あすはいよいよ、泉田筑後夫婦を小塚ガ原にひきだして首を切るのだ。そのけいきづけに、しっかりのめ」
 などと、豪傑で腕がつよく人をひととも思わぬ太田原伝三郎は、三人の武士と、両刀をそばにひきつけたまま、さかんにのんでおります。
「どうも少しへんだぞ、さっきからねむけがさしてかなわないのだが――」
 そういうのは三剣士のひとり久保田でした。
「そういえば、部屋のなかに煙がたなびいて、ものがボーッと見えるようだ」
 答えたのは今井某でした。雨戸のそとでは天魔太郎と月子が、心外道人直伝の幻術をつかって、四人の武士をねむらせようとしていたことは、もとよりわかるはずもありません。
「なんの、酒のせいだよ、こんなぐあいにフラフラするのは」
 太田原伝三郎は肩ひじをはって強がりますが、ともすれば、コクリコクリといねむりの出るのをふせぎようもありません。
 その時でした、らん間になにやら物の影がさしたと思うと、一塊の怪物、四人が車座になって酒をのんでいる頭の上へ、サッと飛びおりざま、たったひとつのあんどんを、パッとたたき消しました。
「や、おのれ、怪物」
「おのおの、用心ッ」
 と叱咤しましたが、まっくらやみに四人の武士がもつれては、うっかり刀をぬくこともなりません。
 その間にりこうな大猿の次郎坊は、山野にそだって、夜でも目のみえるのをさいわい、太田原伝三郎はじめ、四人の武士をめちゃめちゃにひっかいたうえ、まげ節に縄をとおして柱に縛り、さらに太田原伝三郎の腰から、大牢のカギをうばいとって、もとのなげしに飛びつくと、縁がわへらん間をくぐって大雨の庭へと、物のみごとに跳躍します。
「や、おのれ、けしからぬ髪をはなせ」
「曲者ッ、待て?」
 といったところで、まげ節を縛られた四人は、からみ合い、ころがりあうだけで、下男がお勝手から灯をもってくるまでは、どうすることもできなかったのです。

あらしの中の脱獄


 風と雨と、いりみだれた大嵐は、春の夜の江戸のまちを、地獄の底へたたきこむかと思うばかりでした。
 人びとは、恐れおののいて、深くふかく戸をとざし、虫のようにちぢこまり、灯ひとつない八百八町の家の棟をつんざいて、ときどきむらさき色のいなずまがはしるのです。
 そのまっただ中を、「それゆけ」「今のうちだ」と、天魔太郎てんまたろう、妹月子つきこ、それにお千代ちよ虎吉とらきちをくわえた少年少女四人に、大猿の次郎坊じろうぼう一匹、伝馬町の大牢へと、嵐のなかをおよぐようにたどりつきました。
「お千代さんのご両親のいらっしゃるのはどこだろう?」
 牢は大きく、囚人めしうど多勢おおぜいでした。むやみに牢をひらいて、兇悪な曲者くせものを町にはなっては、世の人のめいわくが思いやられます。
 ハタと当惑して立ちすくむ天魔太郎のうしろから、
「良いことがある。ふだんは店中のめいわくにされていたが、こんなときは、なんかの合図になるかもしれない。これを吹いてみよう」
 小僧の虎吉が腰からぬいたのは、一管のシノ笛でした。葛飾かつしかにそだって、父親はゆうめいなお神楽師かぐらし、虎吉は小さいときから神楽笛を吹きなれて、それがまた、非凡の腕まえだったのです。父親はこの子の才気をおしんで、泉田筑後いずみだちくごに弟子いりさせ、ゆくゆくは、りっぱな棟梁にする気でしたが、好きな笛は肌身をはなさず、この嵐のなかの大活動にも、こしに一管の笛だけは忘れなかったのです。
「それはおもしろかろう、やって見るがいい」
 天魔太郎はさんせいすると、雨にぬれた歌口をそのまま、節おもしろく神楽笛を吹きならすのでした。
 うるしの闇、それを従横に断ちわるいなずま。雨と風がいっしょになって、降り、吹き、すさぶなかを、道化た神楽歌の笛の旋律が、ピーヒョロ、ピーヒョロ、いとものどかにひびきわたります。
 牢番どもは、それをしらないではありませんが、あまりにもうれつな嵐におそれて外へは顔をださず、それに風雨にちぎれる笛の音を、遠くから聞えてくるものと思いこんで、さいわいひとりのとがめる者もありません。
「ここ、ここよ、虎吉ではないか」
 とある牢格子の中から、人のよぶ声が聞えます。
「あ、奥さま」
 虎吉は笛をやめて、牢格子にとびつきました。
 はためくいなずまの光をまつまでもなく、やさしい声はまぎれもなく泉田筑後の妻――お千代の母親のみさおです。
「やはり虎吉、どうしてここへ?」
「まってください、すぐお助けしますから。ところで旦那さまはじめ店の人たちは?」
「ここは私だけ、番頭さんたちは、となりの牢にいるはずです」
「旦那さまは?」
「こまったことに、それがわかりません――たぶん、侍牢かと思いますが」
「ともかく牢をあけましょう――私は駿河するが太郎、今は天魔太郎と申します」
 天魔太郎はそばへよると、とってきたカギで、思いのほかかんたんに格子をひらき、操を雨風のなかにつれだしました。
「お、お母さま」
「お千代か、おまえまで、こんなところに」
 手をとり合ってよろこぶ母娘おやこを、月子に見張らせたまま、天魔太郎と虎吉は、つぎの牢格子を開いて、番頭以下、手代、子分衆まで、泉田筑後の屋敷の者を、ぜんぶすくいだしました。
「これだけの人数では、人目にたってどこへもゆけません。嵐がやんだら、すぐつかまってしまいましょう」
 番頭は助けられながら二の足をふむのを、
「多勢ではいけない、一人、二人ずつべつべつに江戸橋へ行くのだ。橋の下に船頭の権六ごんろくが舟を用意してまっている。舟には赤い風呂敷で鉢巻をさせたちょうちんがついているはず、あとはみんなぶじに顔をそろえてから……」
 天魔太郎はことばせわしく説明して、八方に奉公人たちを散らし、最後に、お千代とともに、母の操もまた、ちがった道から江戸橋へ逃してやりました。
「サア、こんどは侍牢だ」
 天魔太郎と月子と虎吉の三人、大猿の次郎坊をしたがえて、神楽笛の小さな旋律を、風雨にまぎれて吹きつづけながら大牢から女牢へ、侍牢へとさがしましたが、どこにもその笛のさえ記憶している者はなく、むなしく夜はふけて、気ばかりあせってくるのです。
 とある牢格子の前までくると、
「おい、坊ちゃんたち、さっきからここを三度もまわっているようだが、コソコソ話のようすじゃ、泉田筑後をさがすんじゃないか」
 こうよびかけたものがあります。
「誰だ、おまえは?」
 牢格子の内と外、天魔太郎は声をはげましました。相手の調子が、ひどくいやしくて、ごろつき風なのが、格子をへだてていても、天魔太郎を警戒させたのです。
「つまらねえ野郎ですよ。腹をたてて、悪い役人の横ビンタをなぐって、こんなところにほうりこまれたんだが、酔ってさえいなきゃ、虫一匹殺すものですか」
「それがどうした?」
「泉田筑後さんのいるところをしりたきゃ、教えてあげようかと思ってね――なアに、ただもうそれだけのことですよ」
「泉田筑後氏は、どこにいるのだ。サア、教えてくれ、たのむから」
 天魔太郎と虎吉はおもわず牢格子にしがみつきました。
「ひと口にはいえませんよ――さっき、となりの牢でやったように、ちょいとこの格子をあけてもらいましょうか。心配することはありません。あっしは野州の熊五郎くまごろうというケチな野郎で、ヘッ、ヘッ」
「だが――」
 天魔太郎はちゅうちょしました。これがもし極悪な兇賊だったりすると、外へにがした罪は容易ではありません。
「あッ、しまった牢やぶりがわかった」
 そのとき風雨をついて、あわただしく板木はんぎがなるとつづいておこるホラ貝のひびき、半鐘の乱打、わめきたてる人ごえ、まさに牢番同心の連中は縄をといて、きゅうを囚獄与力石出帯刀いしでたてわきにつげ、たちまち役人組子をくりだして、嵐の夜中ながら、伝馬町じゅうの大そうどうになったのです。
 みるみる八方から乱れおそう人の足音、
「牢やぶりだ」
「曲者をめし捕れッ」
 どっときそい立つ人の洪水、
「早く、早く、カギを」
 今はこれまでと覚悟した天魔太郎、野州の熊五郎のはいっている独房のカギをあけて、嵐の中へひきだすと、早くもとびつく二人三人の組子を投げとばし、
「次郎坊、後をたのむぞ」
 大猿に追手をくいとめさせ、印を結んで、ムラムラと湧きたつカスミの中へ、虎吉と熊五郎をさそってすがたをかくしてしまいました。
 追いすがる二手、三手の組子はおもわぬ大猿に道をふさがれ、たじろぐ眼の前へ夜霧の煙幕、あれよあれよとじだんだふむばかりです。
 あくる日、ゆうべの嵐をわすれたような晴天、江戸の町なみにかげろうがもえて、嵐に散りのこるなごりの花が、チラリホラリとあさぎ色の空にまいます。
 お城大工棟梁泉田筑後は、千住せんじゅ小塚こづかはらのたまりから引きだされて、正五ツ(八時)のしおき場にひきすえられました。
 しおきは五ツ半(九時)、それまで囚人を小役人小者が中にとりかこみ、検死の役人阿曾倉監物あそくらけんもつ二、三人の下役と、しばらく話をしながら、時をまっております。
「ゆうべ嵐の中を、伝馬町の牢破りがあったそうだな」
「大猿をつれた子供だったと申します。錠前をあけて、泉田筑後の女房と、召使の者十三人、ひとりのこらず逃げだしてしまいました」
「いや、大まぬけな話だ。なんのために役人がいるのだ」
 阿曾倉監物は、まことによい心持そうです。自分のあずかった囚人泉田筑後は、あくる日のしおきのため、小塚ガ原のたまりにおいたため、無事だったとは気がつきません。
 その時、
 はれわたった朝空の一角に一点くろい雲がみえたとおもう間もなく、しだいに空半面にひろがって、一陣の強風、天の一角からサッと吹きおろしました。
 落花と土砂と、うずをまいておそいかかると見るや、役人も小者も、囚人の泉田筑後までも一しゅんかきけすように見えなくなったのです。
「それ、魔がさしてはならぬ、時刻は少し早いが、すぐさましおきの用意ッ」
 土砂がすぎると、阿曾倉監物立ちあがってわめきたてました。
「おッ、かしこまってござる」
 係り役人総だちになって、小塚ガ原しおき場の竹矢来の中へ囚人泉田筑後をまん中に、ドッと入ったのです。
「早く、少しも早く」
 泉田筑後は荒ムシロをしいた土壇場にひきすえられました。棟梁といっても、これは百石取の見識で、作事奉行のつぎに監督権をもったお城大工、人品骨柄もまことにりっぱです。泉田筑後は観念の目をとじて、最後の座になおりました。
 よみきかせる罪状もそこそこ、阿曾倉監物手をあげてさしずすると、たすき十字の首切役人が大刀を横がまえに、そのうしろにたちます。
「それッ」
 いまぞ最後とふりかぶった一刀、またもまきおこる砂塵、しばらくそのしずまるのをまって、見なおすと、
「や、や、猿!」
 土壇場にすえられた泉田筑後が、いつのまにやら、一匹の大猿とかわっているではありませんか。

犬、猿、雉子


 伝馬町の大牢から、小塚ガ原の刑場から、しゅびよく救いだされたお城大工棟梁泉田筑後と、その内儀(妻)の操は、おおぜいの番頭、小僧、職人たちをくわえて総勢十五人、船頭権六の船で神奈川におくられ、そこでめいめいのしたくをととのえ、丹沢山たんざわやまのかくれ家へと、二人三人ずつ、人めにたたぬ旅をつづけることになりました。
 その中で、駿河太郎の天魔太郎と、その妹の月子は、大願成就のために、百人のいのちをすくう望みにもえて、江戸にふみとどまることになり、泉田筑後の娘お千代までが、
「私も江戸にのこっていいでしょうね、お母さま。駿河太郎さまへのご恩がえしに、月子さんといっしょに、なんかのおてつだいをいたします」
 と、勇ましくもいうのです。母の操は一応それをとめましたが、お千代の決心がかたいので、しばらく思うままにさせることにし、大山詣りに変装した一行は、しばしのわかれをおしみながら、菜の花の咲きにおう厚木街道を丹沢山へとむかったのです。
 江戸へ引かえすことになった天魔太郎と月子とお千代、六郷ろくごうの渡しをこえて、やがて品川へちかづいたのはもう夕ぐれでした。
「オーイ、オーイ」
 うしろからとんできたのは、神奈川でわかれたはずの小僧の虎吉。三度笠を宙にふりながら追いすがるのです。
「虎吉か、どうした、わすれものか」
 天魔太郎は、足をよどませました。
でっかいわすれものだよ、ぼっちゃんたちは、この虎吉てえ人間をわすれたんだ。おれがいないと、江戸へいって不自由するぜ」
「なにをいうの虎吉、おまえはみんなといっしょに丹沢山へ行くはずだったじゃないの」
 お千代は一応たしなめました。
「丹沢の奥へはいって、ワラビやゼンマイをとって、ひなたぼっこをしてながい一日が暮らせますか――てんだ。おれがついていさえすれば、みなさんに不自由はさせませんよ」
「マア、しようのない虎吉ねえ」
 そうはいったものの、お千代も月子も天魔太郎も、虎吉の心意気がうれしくないことはありません。
 一行四人になって、高輪たかなわの大木戸をはいったのはもう夜です。
「お待ちもうしておりましたよ、お首領かしら
 町のくらがりの中から、ヌッとでたのは、天魔太郎に助けてもらった野州の熊五郎です。どこで工面したか、ヨレヨレの素あわせに、ほおかむり、クマのようなヒゲだけはそり落して柄に似気にげなく人なつっこい声です。
「おまえは熊五郎、もう用事はないはずだが――」
 天魔太郎はいちおう警戒しました。この男の口をひらかせるため、大牢から出してやりましたが、泉田筑後をすくってしまえば、もう用のない男です。
「用事はないとはなさけないじゃありませんか、お首領かしら
「そのお首領かしらが気にいらないよ。おれはまるで泥棒仲間のようじゃないか、ほかに呼びようもあるだろう」
「あいすみません、あっしはこんなガサツな人間でなんと申しあげていいか見当もつきませんが、お首領かしらでいけなければ、大将、先生、旦那、小頭、親分……」
「みんないけないよ」
「ともかく、たいへんなことをきいてきました。それをみやげに、あっしも子分のひとりにしてください。お願いでございます。第一あっしは、けんか兇状で大牢へぶちこまれておりましたが、生まれてこのかた、人さまのものをチリ一つとったおぼえはございません」
 野州の熊五郎は、まごころこめてこういうのです。
「あんなにいうんだから、仲間にしてやってくださいよ。桃太郎だって犬、猿、雉子さじの家来が三人、辻講釈できくと、西遊記の三蔵法師にもけらいは三人、孫悟空そんごくう猪八戒ちょはっかい沙悟浄さごじょう
 虎吉は一生けんめいとりなしてやるのです。
「よしよし、虎吉といっしょに手つだってもらってもいいが、そのおみやげの話というのはなんだ」
 天魔太郎もようやくその気になったようです。
「お首領かしらは大奥の中老、出雲いずもさまのことを心配していたでしょう。あっしは、出雲さまの実家は仲通りの呉服屋増田屋ますだやとききだし、それとはなしに見張っていると――」
「出雲どのがどうした? あれはなき母上の縁故のもので、千代田の大奥のことを、なにかとこの駿河太郎に教えてくれた恩人だが」
 天魔太郎もおもわずのりだした。
「そのことがわかって、宿もとの増田屋にさげられ、お上のご沙汰をまっております。かるくて追放、重ければ死罪、お上のおはらだちは容易ではないから、まず命はあるまいということです」
「――――」
「増田屋は店をしめたまま、八方から見張られて、火の消えたありさまです。なんとかするならいまのうちで……」
 野州の熊五郎は、あたりの闇をはばかりながら、ささやくのでした。

 増田屋の奥座敷、中老出雲を中心に、主人庄兵衛しょうべえはじめ、おもだった親類の男女七人、半円をえがいてつめよりました。
 出雲というのは、ごてんでよばれたなまえで、本名はおふで、三十前後のそれはりっぱな女でした。増田屋の主人庄兵衛の先妻の妹で、母はわかいころ駿河大納言の奥方につかえたことがあり、その縁故で天魔太郎のおいたちも知っており、宿さがりのときには天魔太郎と月子にもあって、問わるるままに、千代田の大奥のことも、なんの気もなくもらしていたのです。
「どうだお筆さん、――駿河大納言さまのわすれ形見の太郎とやらが、お城に忍びこんで、おそれ多くも上様の首をねらったとやら、その手引はおまえさんだといううたがいで宿へさげられたが、こう多勢の役人にみはられていては、増田屋も商売はできず、そのうえ、あすにもご沙汰があると、おまえは首を切られたうえ、つながるえにしで、増田屋もとりつぶしか所ばらい、長くつづいたこの店もおまえの不心得でそれっきりだ」
 主人の庄兵衛にまくしたてられて、
「あいすみません、私はそんなことになろうとは、少しも気がつかなかったのです」
 中老出雲のお筆は、首うなだれて、そっと涙をふきました。
「しらなかったじゃすまないぜ、お筆さん。少しぐらいの手おちやそそうじゃない、おまえさんはむほん人の片棒をかついだんだぜ。どうせないいのちなら、ここでいさぎよく自害でもしてくれたら、お上にも手加減があって、せめて増田屋の店だけでもたってゆくだろう――」
「――――」
「わるく思ってくれるなよ、お筆さん、……親類会議をひらいておまえさんに死んでもらうことにとりきめたんだ――なアみなの衆」
 庄兵衛は冷たい顔をねじむけて、親類たちの顔をみわたしました。
「――――」
 が相手の親類たちは、答えるものもなく、顔を見合せてだまっております。
「このとおり、ひとりも異はないようだ。あすという日は、お上からどんなお達しがあるかわからない、善はいそげだ。このとおり用意までしてあるが――」
 庄兵衛はそういいながら用意の三宝のうえの白い布をとりはらいました。その下からあらわれたのは、細身の女持短刀がひとふり、なみいる親類方も、さすがにかたずをのみますが、店の外にあかあかと燃えるカガリ火や、役人小者のザワめく声をきくと、すすんでお筆の自害をとめる勇気もくじけます。
「では、みなさま、私は、母上、姉上のおそばにまいります。ごめんくださいまし」
 この期にのぞんでも、中老出雲のお筆は、わるびれたいろもありません。しずかに手をさしのべて短刀をとると、右の肩からあわせの袖をぬいで、純白の下着のたもとに、キリキリと抜身の短刀の柄のあたりを巻き、肌おしぬいだ覚悟の胸もとへ、
「あッ、待った」
 雨戸が一枚、外からの体当りでパッとひらくと、つづいてつぶてが一つ、闇をきって、出雲のこぶしをハタとうちます。
「アッ」
 短刀はポロリと落ちました。
「なんだ、なんだ」
 たちさわぐ主人庄兵衛と七人の親類たち。そのまえへカッと紅蓮ぐれんのほのおが渦をまくのです。
「アッ、火事」
 おどろきあわてたのもむりはありません。どこから入ってきたか、地獄変相図にあるような大火焔かえん車が一台、縁がわから座敷へはいるとみるや、六尺あまりの赤鬼、青鬼、鉄棒をつきならして飛びこみ、やおら主人庄兵衛のえりがみとってその火焔車にほうりあげ、座敷から座敷へ、縁がわから縁がわへと、ほのおをあげて走りまわるのです。
「ア、あッ、助けてくれッ」
 主人庄兵衛は、ともえになってもえさかるほのおの中に、必死に悲鳴をあげますが、七人の親類たちはじめ、店じゅうの番頭小僧、あまりのおそろしさにちかづく者もなく、ただ、あれよあれよとたちさわぐばかりです。
「どうした、さわがしいぞッ」
 警備の役人小者、あまりのさわがしさに、庭からドッと飛びこんできましたが、その時はもう、火焔車のほのおもおさまり、どこへ失せたか、赤鬼青鬼のすがたも見えません。
「火の車が、火の車が」
 とゆびさす人びと、その指の先をみると、縁がわの上になんのへんてつもないただの大八車を引きあげその車のうえに大の字に縛りつけられた主人庄兵衛、気をうしなって泡をふいているではありませんか。
「出雲どのは――見えないではないか」
 役人のかしらははじめて気がつきました。増田屋の奥の八畳――この部屋におしこめられていたはずの中老出雲ことお筆は、どこへどうして消えてしまったか、そこには影も形もなく、ただ抜身の短刀だけ、ざぶとんの上に冷たく光っているのでした。

怨は彦左ヱ門


 天魔太郎と小僧の虎吉と、野州の熊五郎の三人は、増田屋から中老出雲のお筆をすくいだして、仮の足場の鎌倉河岸がしのかくれ家にかえると、そこに待っていた月子とお千代にむかえられました。
「熊五郎、おまえの赤鬼はうまかったぞ」
 天魔太郎はめいめいの仮装をとかせながら、野州の熊五郎の活躍ぶりをほめております。
「おれはどうでした、ずいぶんうまくやったつもりだが――」
 虎吉は、ほめられないのが不足のようです。
「うまかったよ。でも、少しからだが小さくて、青鬼の赤ん坊のようだったよ。おや、まだ額の角なんかつけているのか」
「ヘッ、熊五郎ぐらいの年になりゃ、おれだってノッポになりますよ」
 虎吉は負けおしみをいって、みんなに笑われております。
「ところで、お筆をいつまでも江戸へおくわけにはゆくまい。虎吉は丹沢山のみんなのいるところまで、送ってやってくれないか」
「お安いご用だが、もう少し江戸であばれさせてくださいよ。精いっぱい働きますよ」
 増田屋の火の車さわぎがおもしろかったので、こればかりは天魔太郎のいうことをきこうともしません。
「いえ、いいのよ。私には相州厚木生れのしんせつな腰元がありますから、道さえ教えていただけば、それに送ってもらいますから」
 出雲のお筆は虎吉の気のすすまないようすを見ると、こういいだすのでした。お筆の腰元というのは、大奥からさがって、このきんじょの叔父さんのところにいる、おかねという十八の娘、その晩のうちに呼んでくると、もとの主人出雲のお筆にあって、手をとりあって泣いてよろこびました。
 それから二、三日たつと、お筆とお兼を丹沢山の山塞さんさいにおくってやり、天魔太郎はあらためて妹の月子、泉田筑後の娘お千代、小僧の虎吉、野州の熊五郎をあつめて、これからさきの活動のことを相談しました。
「父上、駿河大納言忠長ただなが卿のこころざしをついで、将軍家光いえみつに思いしらせるためには、八重やえの守りをうちやぶり、千代田の奥に忍びこんで、本懐をとげるまでに、心外道人しんがいどうじんの教えにしたがって、百人のひとを助けて徳をつまなければならぬ」
「――――」
 それはしずかな夏の夜でした。八畳敷をピタリとしめきって、天魔太郎は声をひそめます。
「百人のひとを助けるといっても、はじを知らない非道の悪人を助けてはなんにもならない。さいわい父うえ駿河大納言のけらいで、将軍家光ににくまれはばかられ、伝馬町で永牢をおおせつけられたとらわれの者や、徳川に弓ひいて、ひとしれず土の牢屋にいれられている者の数もすくなくはなく、そのうえ、大阪おおさか城の残党や、天草あまくさのキリシタン宗徒で、いのちのつづくかぎり、逃げまわっている者もずいぶんあることだろう」
「――――」
「その徳川とくがわにそむいた人々をかたっぱしからすくいだせば、百人にも二百人にものぼることだろうが、おれはその仕事をはじめる前に、もっと痛快で、もっともっと胸のすく仕事を考えているのだよ」
「なんですそれは、教えてくださいよ」
 ものずきでは人におくれをとらぬ虎吉が、一番さきに膝をのりだしました。
「将軍家光をたすけて、父上駿河大納言につめ腹をきらせた将軍家のゴマすり老中や、お茶坊主のような家来に、一人ひとりつらい目を見せてやりたいのだ」
「たとえば?」
松平伊豆守まつだいらいずのかみ酒井左ヱ門尉さかいさえもんのじょう、ならべると数かぎりもないが、第一番にシャクにさわるのは、国松くにまつ君といわれた幼少のころから、父上を目の敵にして、とうとう死地においこんだ大久保彦左ヱ門おおくぼひこざえもん
「えッ」
 きくものはみんなキモをつぶしました。
 大久保彦左ヱ門忠教ただたかといえば、徳川家康いえやす以来の名臣で、十六歳のときから戦場の功名数しれず、大名にも取りたてられるはずのところを、みずから八千石の旗本にあまんじ着坐席ご免の将軍ご意見番として、江戸じゅうにも人気ある老武士です。
 その人気者の老人を、親の敵とねらう天魔太郎にも、またそれだけの理由がありました。家光を将軍のあととりにおしたてて、駿河大納言忠長をしりぞけたのは、私心はなかったにしても、大久保彦左ヱ門と春日局かすがのつぼねのたくらみで、忠長の子の天魔太郎からいえば、まさにこれはふぐたいてんの親の敵です。
 このいきさつを、こまごまと天魔太郎に説明されて、月子もお千代も、虎吉も熊五郎もようやくなっとくしました。
「なるほど、そうきけばもっともしごくだ。また火焔車でもけしかけましょうか」
 虎吉も、もう太くもない腕などをさすっております。
「いや、こんどは別の術だ。おもしろいぞ、虎吉」
 天魔太郎は胸中なにを秘めたか、まんまんたる自信です。

 大久保彦左ヱ門は、その夜机にむかって、思いでの戦記を書いておりました。白髪の小さいマゲ、大きいベッコウの老眼鏡をかけて、五十年もの昔のことを思いだし思いだし、自分のことはともかく、徳川家のこと、いまはなき戦友たちのことを、せっせとつづっているのでした。
 彦左ヱ門は、がんこ一徹な武人でしたが、思いのほかに文筆にすぐれ、「三河物語」という本は、彦左ヱ門が書いたのだという説もあります。
 彦左ヱ門は筆をやすめて、ポンポンと手をたたきました。
 この屋敷には、腰元も女もいるはずはなく、おなじ老用人の笹屋喜内ささやきないをよんで、熱い茶を一ぱいもらおうと思ったのです。
 まもなくうしろの唐紙がスーッと開いて、まだ注文しないお茶をもってきて、
「召しあがりませ」
 そっと膝のそばへ茶わんをすべらせたのは、かわいらしい女の子のこえです。
 ハッとおどろいてふりむくと、なんとそれは、髪を切りさげて、むらさき色の単衣ひとえ、赤い帯はしめておりますが、顔をみると、目も鼻も口もなく、お白粉しろいをぬったしゃもじに、着物をきせたようなノッペラ坊です。
「な、何者だ、おまえは」
 大久保彦左ヱ門、さすがにおどろきはしませんが、膝をたてなおしてどなりつけました。天下三大音とうたわれた大きな声、たいがいの者ならたったそれだけで目をまわすのですが、ノッペラ坊の少女は、
「お化けよ」
 と、どこから声がでるのか、口も目も鼻もない少女が、かわいらしい声で答えるのです。
「おのれ、妖怪。大久保彦左ヱ門をみそこなったかッ」
 手をのばすとノッペラ坊のむなぐらをつかみ、引きよせざま、パッとほうりました。年はとってもさすがに非凡の腕まえ、まともにゆくと、唐紙をつきやぶって、縁がわに叩きつけられたことでしょう。
 が、ノッペラ坊は投げられながら二つばかり宙がえりして、たたみの上にヒョイと立ちます。よく見ると、それはちがい棚においてあった、銀の香炉ではありませんか。
「おじいさん、勇ましいぜ」
 見ると反対がわから、ケシ坊主の三ツ目小僧がひとり、彦左ヱ門のまえへ来て、ペロリと赤い舌をはくのです。
「おのれッ」
 と、いうしたから、
「肩でももんでやろうか。じまん話をかいていると、つかれるぜ」
 ふりかえると、カッパ小僧、大天狗、小天狗、官女、ロクロッ首、見越の入道、さながら相馬そうまの古御所の妖怪変化が、うしろから、横から、もりあがるように重なりあって、八畳の部屋いっぱいに、ひしめくのです。
「や、でたな、化物ども。大久保彦左ヱ門の手なみを見ろ」
 彦左ヱ門は、もはやこれまでと思って、左がわにおいた、寸のびの一刀を引きぬきざま、左から右へ、サッとひとなぎ、必殺の太刀をふるのです。
「ハッハッハッハ、ハッハッハッ」
 と部屋じゅうにとどろく笑いの大合唱、彦左ヱ門の一刀は手ごたえもなく右にながれて、部屋のなかはパッと明るくなり、妖怪変化はおろか、気のきいた猫の子もおりません。
「ハッ、ハッ、ハッ、彦左ヱ門おこったか」
 笑いの合唱はあきらかに縁がわから庭にうつりました。
 一刀をうしろに引いて、障子をサッと開くと、どこからさすのか、明るい光のなかに、藤色のふりそでに精好せいごうはかま、気品すぐれた少年がひとり、灯籠とうろうの上につったって、何やら印をむすんでいるのです。
「や、おのれか。曲者ッ」
 彦左ヱ門はとびだして一刀に切ってすてようと思いましたが、なんとしたこと、部屋一ぱいに氷かビードロをはりつめたようで手を動かすことも、足をはこぶこともできません。
「ぶれいだぞ、彦左」
 灯籠のうえの少年はいうまでもなく天魔太郎、ここで大久保彦左ヱ門にうらみを果たしにきたのですが、このがんこ一徹の老武士を見ると、心のそこからしたしみがわいてきて、死期のちかいものを殺す気にもなりません。
「おまえはなんだ」
「そのほうには主人すじ、駿河大納言の一子、天魔太郎だ」
「な、なんと……」
 彦左ヱ門もさすがにキモをつぶしたようです。
「あのじじいをやっつけましょうか」
 石灯籠の下から、天魔太郎のすそを引いたのは、小僧の虎吉でした。
「いや、ほっておけ。にくいおやじだが、徳川家のためには無二の忠臣だ」
 天魔太郎はすそをかえして、サッととびおりました。
「まて、まて」
「彦左、しばらくその白髪首しらがくびをあずけたぞ」
 天魔太郎は、目ばかりパチパチやっている彦左ヱ門をうしろにのこして、夏の夜の闇のなかにすがたをかくしてしまいました。

智恵伊豆と人魚


 大久保彦左ヱ門は、徳川家のためには無類の忠臣でしたが、徳川の家を思うあまり、国松君の駿河大納言をしりぞけ、その兄弟の家光を守りたてて三代将軍を継がせたので、もとよりなんの私心もあったわけでもありません。
 でも、人間はまことにがんこで強情で、負けずぎらいをねりかためたようなおやじでした。あんまりしゃくにさわるから、天魔太郎の幻術でキリキリまいをさせられたことなどは、もとよりおくびにも出しません。
 世間がなんにも知らずにいると、つぎのおはちはとうじ老中第一の利口もの、さくねん島原の乱を平定して武勇のほまれ日本じゅうになりひびいたばかりでなく、後年こうねん由井正雪ゆいしょうせつ一味のむほんのくわだてまで見やぶって、智恵伊豆という異名をとった――参州吉田の城主七万石、松平伊豆守信綱のぶつなの方へとまわっていったのです。
 それは五月になったばかりのある夜、伊豆守信綱は、寝所のなかで、天下の政治のことなどを、あれや、これやと考えておりました。青だたみが目にしみるようで、絹の吊夜具がフンワリとからだをつつむ中に、伊豆守は目をつぶって、しずかに思いをこらしております。
「お、おや?」
 にわかに雨が降ってきたようすです。さっきまで星の降るような、うつくしい夜だったが、と、思いながら目をひらくと、有明の絹あんどんがスーツと暗くなって、ひさしをたたく雨の音がますますはげしく、それがやがて、数千万挺の鉄砲をうちこむような、おそろしい音になります。
「これはたまらぬ」
 と思って、宿直とのいの家来をよぼうとしましたが、どうしたことか、少しも声がでません。そのうちに、寝所の屋根がポカリと開いて、月がなかったはずの夜の空が、銀ネズミ色に見えたとおもうと、シノをつくような大雨が、伊豆守の頭のうえから、えんりょえしゃくもなくたたきつけるのでした。
「あッ」
 と思う間に、寝所のたたみの上いっぱいに水はたまって、伊豆守をのせた床も、枕もとのあんどんも、刀かけの刀までが、フワフワと浮くのです。
 起きあがろうとしましたが、どうしたことか、からだが自由になりません。そのうちに、どしゃ降りの雨はますますひどくなって、たたみの上の水は、三尺から五尺になり、ついには一丈にもなります。
 気がついて見ると、床をめぐって左右前後に、コイやらフナやらナマズやら、おびただしい魚が、銀鱗をひらめかし、ゆうゆうと泳いでおります。
「殿さま、お召しでござりますか」
 銀のスズをならすようなかわいらしい声、ふりかえると右手の方、枕にちかく、魚群をかきわけて、一匹の人魚が、桃色しんじゅの肩を水のうえにだして、みごとな黒髪をサッと水の上にただよわせるのでした。
「なにものッ?」
 伊豆守は、五臓六腑をふりしぼるような心持で、ようやく口をききました。
「ごらんのとおり、この世のものではございません。殿さまの宿業のおそろしさにご殿もご家来も、一しゅんにして水のそこに沈んでしまいました。が、松平伊豆守さまおひとりは、つぐないのこした罪のざんげのため、しばらく水の上に浮んでいるのでございます」
「なんと申す。予になんの罪があるというのだ」
 伊豆守はぼう然と、床の上におきなおりました。ふしぎに床は、いかだのごとく水に浮いて夜の水はヒタヒタと伊豆守の白ムクの寝巻の膝をひたします。
「いうな、島原で十万のキリシタン宗徒を殺し、駿河大納言忠長さまを、上州高崎に窮死せしめたは、ことごとくその方――伊豆守信綱のさしがねではないか」
 もう一匹の人魚が、黒髪をさっと水になびかせて、反対がわの左から肩をだします。
「ぶれいッ」
 智恵伊豆も、さすがに腹をすえかねました。プカプカと水に浮いている刀かけに手をのばして、それを引きよせざま引きぬこうとすると、
「まア、殿さま、おはらだち」
 明るい嘲笑をあびせて、二匹の人魚は、水のうえにとびあがりざま、伊豆守の左右の腕をピタリとおさえたのです。腹から下は、銀色のうつくしい魚体、それが、月子とお千代の仮装したかわいらしい人魚すがたとは知るよしもありません。伊豆守信綱は、ただ、人魚の体温が、あたたかいのにキモをつぶしただけです。
「頭が高いぞ、信綱ッ」
 その伊豆守の頭のうえから叱咤の声、ハッとふりあおぐと、二匹の怪魚をともなった白衣金冠びゃくえきんかんの荒々しい海神が伊豆守を見おろしてサッとほこをふるのです。
「なにもの?」
「名のってやろう、大納言忠長の一子駿河太郎ならびにその妹の月子、なんじをひっ捕えて、龍宮城の白州に頭をうずめさせるはたやすいことながら、しばらくは命を助けてつかわす。
 将軍家光をいさめて、謝罪の誠をつくさばよし、さもなくば、家光ならびにその家来を、生きながら八寒地獄に追いおとして、いつの世までも苦しみをなめさせようぞ」
 駿河太郎は鉾をのばして伊豆守の頭をコツンとたたくのです。左右の魚はさながらぢごくにいる鬼のすがた、それが野州の熊五郎と、小僧の虎吉とは、もとより知るよしもありません。
 だが、この天下の老中に対するあるまじき侮辱は、いつまでもつづくはずもなく、やがて宿直とのいのけらいが気がつき、殿中の大さわぎになりましたが、伊豆守の寝所に叱吃の声がつっぱしり、ゴウゴウと波の音がするくせに、四尺の大唐紙は鉄の扉のごとく厳重で、おせども引けども、ビクともすることではありません。
「このうえはッ」
 五、六人の若ざむらいは、力をあわせて唐紙をおしたおすと、なかは床で上にすわったままの伊豆守たったひとり、有明のあんどんが明滅するだけいままでの水や人魚、そのほか怪しいものの影も形もありません。
 幻術と称する衆団しゅうだん催眠術はこうして悪夢のごとくさめてしまったのです。
 あくる晩は、おなじ老中、阿部豊後守忠秋あべぶんごのかみただあきの番でした。若いころは、将軍家光の頭をポカンとなぐって、高慢のはなをくじいたり、大洪水の隅田川を、馬上にのりきって家光の御感ぎょかんにあずかったり、正直一途ではあるが、武勇のうわさ高いとのさまです。
 豊後守忠秋は、そのとき朝の膳についておりました。高蒔絵の足高の膳のまえ、諸事かんそな豊後守ですが、武州おしの城主で十万石、増上寺切通しの上屋敷は、みどり深い林のなか。まことに風致ゆたかなたたずまいで、朝の小鳥が、初夏のうつくしい陽ざしをよろこんで、チ、チ、チと庭の木だちに鳴いております。
 給仕女はふたり、左右にかしこまっておかわりをまっていると、
「あッ」
 飯の椀が豊後守の手をはなれて、フワフワと宙にまいあがるではありませんか。
 部屋のなかにいるのは、豊後守のほかには、若い召使がふたりだけ、ただもう、あれよあれよと、キモをつぶしてさわぐだけです。
「なにものッ」
 豊後守が一刀をひきよせた時は、つづいて汁椀も、香のものも一汁三菜のしっそな膳までが、あやつり人形芝居の糸にあやつられたように、フワフワと宙につりあげられて、そのまま大きい部屋を、右から左へ上から下へと、おどりくるうのです。
「あれ――ッ」
 ふたりの若い召使は、武家の娘ではあり、ご殿づとめで武術の心得もあり、キモもすわっておりましたが、とつぜんのできごとに仰天してわかい娘のおくびょうさにかえり、ただもうあわてふためくばかり。
 その間に部屋じゅうのあらゆる物が、つぎからつぎへと宙にまいあがり煙草たばこ盆も、座布団も、床の置ものも、香炉も、花瓶も、ある種の調子をもって宙にういたまま、部屋のなかを縦横におどりくるうのでした。
「おのれ、妖怪ッ」
 豊後守は刀をぬいて、八方に切りはらいましたが、さながら煙をきるようで、なんの手ごたえもなく、部屋じゅうの一さいのものは宙にとびあがって、この奇怪な空中舞踊は、ますます急速度になるだけです。
 ふたりの召使女は、部屋のすみにだき合ったまま、ひとかたまりになって、もはや口もきけません。
「さわぐな、これは通り魔のたぐいであろう」
 豊後守はさすがに勇猛な武人でした。心をしずかにおちつけて、坐禅をくむ心持で、ジッとその怪異を見つめております。
 と、これだけのおどかしでは、ききめがないと思ったか、幻術はさらにいたずらをくわえて、豊後守の端坐している朝の食事のへや、およそ十五畳もあるのが、そのまままえのめりに、グイグイと傾斜をはじめ、三十度から四十度、六十度ちかい勾配こうばいにまでかたむき、やがてまたもとの平面にかえって、こんどは後の方へ、グイグイとそりかえって行くのです。
 傾斜はいたって緩慢で、地震でもなんでもないことは明らかであり、目をはなって庭前を見ると、木立や空をみる角度になんのかわりもないのですから、これは幻覚にすぎないことはたしかで、さすがの豊後守忠秋は、端然とすわったまま膝もくずしませんが、ふたりの若い娘は、大嵐をくった船の客のように、部屋の隅から隅まで、かさなりあい、もつれ合いころがりあって、二つのうつくしい手マリのように、コロコロところげまわるのです。
「バカめッ」
 豊後守はおもわず宙を望んで叱咤しました。と、頭の上から声があって、
「おどろいたか豊後守、しばらくはまいにち遊んでやるぞ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッハ、ハハハ」
 と女と男とまぜた大笑いの大合唱が、どこからともなく、波うつようにひびいてくるのでした。

決闘のたて札


 幕府の老中方や若年寄が、天魔太郎てんまたろうにからかわれて、外面はともかく、心のなかでは、まったくへいこうしてしまいました。
 わけても、徳川家康とくがわいえやす公以来の名臣、大老土井利勝どいとしかつや、酒井忠勝さかいただかつなどという人たちは、天魔太郎のにくしみも一倍で人さまにはいえないほどのひどい目にあわされ、若年寄りの一部には、チョンまげを切られたのがあり、命にさしつかいはないものの、とうぶん世間に顔むけできない目にあったのも、一人や二人ではありません。
 そこで、たつくち評定所に、対策の大評定がひらかれました。列席したのは、老中松平伊豆守まつだいらいずのかみ阿部豊後守あべぶんごのかみをはじめ若年寄りから町奉行神尾備前守かみおびぜんのかみにいたる面々。
「ちかごろご府内をさわがす天魔太郎という曲者くせもの、まことに人もなげなるふるまい、そのままにさしおいては、お上ご威勢にもかかわる仕儀、さっそくとりおさえて、極刑にもしょすべきでござるが、おのおのそれについての工夫はござらぬかな」
 智恵伊豆といわれた、松平伊豆守も、キリキリまいをさせられて、さすがに天魔太郎をもてあましたようです。
「ご老中のおことばでござるが、その天魔太郎なるもの、真偽のほどはともかく駿河するが大納言さま忘れ形見と名のり、ふかしぎ千万の術をおこなって、なかなかもって手におえません」
 神尾備前守は、末座からこたえました。江戸の町奉行がこんなことでは、天魔太郎退治もはなはだ心ぼそいことです。
「上さま(家光いえみつ)日光ご社参の日どりもせまっていることであり、一日もはやく天魔太郎をとっておさえるためには、広く天下に勇士をつのるほかはござるまい」
 阿部豊後守は人柄にもなく、とっぴなことをいいだしました。
「いや、それでは、町方にもお膝もとにも人なきようで、天下のもの笑いに相なろう。まずことは内々にはこんで、旗下はたもとの大身やご親藩に、ごく内密の回状をさしだし、じまんの勇士術者をおくりだして、天魔太郎と技をきそわせ、その場にとっておさえるが上策ではござるまいか」
 松平伊豆守はさすがにものをふかく考えます。
「天魔太郎をおびきだす工夫は?」
 と、阿部豊後守がきくと、
「かれ天魔太郎、年少気鋭で、自分の腕と技とに慢じきっているようす。日本橋高札場に公開状をかかげ、時と場所をさだめて決闘をいどまば、かならずおびき出されるにちがいござるまい」
「なるほど、それは妙案」
 はなしはこれで一ぺんにきまってしまいました。
 すぐさま老中の内意が、譜代親藩の旗本大名に通達され、天下の勇士術者がぞくぞくとして江戸にあつまったことはいうまでもありません。
 そしてあくる月、日本橋の高札場に、たかだかと大一番のたて札がかかり、その文句がかかげられました。というのは、

天魔太郎にもの申す。その方高貴の落いんといつわり、妖術をもってご府内をさわがし、庶民をまどわすは天人ともに許さざる大悪業なり。
よってわれら三人、なんじと武技法術をあらそい、すみやかに天下のため小患をのぞかんとす。
 きたる七日正午、首を洗って道灌山どうかんやまにきたりわれらのちゅうりくをまつべし。もしおくれてきたらざるにおいては、大腰ぬけのウジ虫太郎と改名、江戸三千里の外に退散すべきものなり。
青柳又八郎あおやぎまたはちろう覚心坊かくしんぼう猫間犬丸ねこまいぬまる

 このたて札が、江戸じゅうのうわさになったことはいうまでもありません。
「天魔太郎というのはだれだ?」
「青柳又八郎はゆうめいな剣術つかいだが、覚心坊や猫間犬丸というのは一体なにものだえ?」
 といったところで、あまり知っている人もありません。
 いよいよ四月七日、この果しあいの当日になると、定めの場所の道灌山は、まえの晩からつめかけた見物人で、山いっぱいにまっ黒になるほどの人出でした。ちょうどあつらえゆきのよい天気、葉ざくらの下の茶店には松平伊豆守の智恵で、諸藩からよりだされた勇士術者が三人、まん幕を張らせ、戦わぬ先から勝ち祝いのさかずきをあげて、天魔太郎をまっております。
 茶店のまえの広場には八間四方の竹矢来をくんで決闘場にあて、その南北には、おのおの高さ六間(十二メートル)のやぐらをくんで相対させます。これは修験者覚心坊の注文で、天魔太郎を相手に、幻術と法術をくらべるための仕度したくです。
「さて、おそいな。天魔太郎、いよいよおくれたと見える」
 青柳又八郎は二十七、八の武士で、青ヒゲをなでて舌うちなどをしております。
「これだけそろえば、天魔太郎おくれもするだろう。いよいよもってウジ虫太郎と改名か」
 これは四十ちかい大入道、山伏すがたでトラヒゲのすさまじいのを見ただけでも、気のよわいものは目をまわしそうです。
「おふたりはヤワヤワともんで、最後の私に引きわたしてもらいたいな。さいしょから片づけられては、おれは仕事がなくなる」
 そういうのは、三人のうちでは一ばん若い猫間犬丸、名まえのふしぎなのに似ず、十八、九歳の美少年で、まだ前髪立、両刀をおびているところを見ると、さむらいの子にちがいないでしょうが、木綿もめんの黒紋付、白小倉のはかま、いたってむぞうさな、いでたちです。
 そんな話をしているところへ、幕をかかげてヌッと入ってきた、目のさめるような少年、のし目の紋付、精好せいごうの袴に長刀を左にたずさえて、
「さいしょの負け手は誰じゃ」
 不敵な大言をはいて、ニッコリ、ゆたかなほおをほころばせるのです。
「や、おのれは天魔太郎」
 三人いっしょに、床木しょうぎをけって立ちあがりました。
「いっしょにくるか、手数がかからなくて、それはありがたい」
 天魔太郎は、おどろく色もありません。
「いや、クジの一番はおれじゃ、どんとくるか小冠者」
 そのなかから覚心坊がおどり出します。
「なんで行こう」
「術くらべじゃ、あのやぐらに乗って、祈って、いのって、相手をいのり負かすのじゃ」
「ホウ、おもしろいな」
「なにを、今にホエ面をかこうぞ」
 覚心坊は天魔太郎をさしまねくと、人をみをわけて矢来の中に入り、北のやぐらにかけたはしごをふんで、六間上の頂上、約一坪ほどの祭壇にたちます。
「さて、めんどうなことじゃな」
 天魔太郎は天上をあおいで、やぐらの高さを見さだめると、気合もかけずに、大地をたたいて、ポンポンポンと、三度の飛躍で、もうやぐらの頂上にのぼっております。
 足場を手がかりに、牛若丸のような早わざです。
「おのれ、こしゃくなッ」
 覚心坊は壇の上の香炉に、三つかみほどの香を打ちこみ、モウモウと立ちのぼる煙のなかに、ジュズをおしもんで祈りはじめました。
 が、相手の天魔太郎は、南のやぐらの上に、印もむすばず、呪文もとなえず、小唄でもうたいだしそうなすずしい顔をして立っていましたが、やがて時分をはかって
「ゆくぞ、ご坊」
 刀の下緒さげおをといて、北のやぐらめがけてサッとほうりました。
 矢来の外の群衆が、ドッとどよみをうったのもむりはありません。天魔太郎が空中にほうったモエギ色の下緒は、二ツ三ツもんどり打つとみるや、一転ごとに大きくなって、最後には三間(六メートル)あまり、青色の大蛇となり、覚心坊のやぐらにからみつき、鏡のごとき二つの目をみひらき、紅蓮ぐれんのほのおをはいて、ユラユラとやぐらの頂上にはいあがるのです。
「や、おのれ、ぶれい千万」
 覚心坊はジュズをあげて、大蛇の頭をハタとたたきましたが、大蛇はからだを一ひねり、壇上にはいあがると、覚心坊のからだを、下から上へキリキリと巻きあげ、坊主頭の上に、臼のごときかま首をのせて、カッと火焔をはきかけるのでした。
「ワーッ」
 それを見ると、覚心坊は一ぺんに目をまわしてしまいました。
 大蛇は覚心坊のからだをまきこんだまま、壇の上からドッと落ちましたが、見ると、大地の上に落ちたのは気をうしなった覚心坊だけ。しかもその首には、細いモエギの下緒が、人をバカにしたようにふた巻ばかりまいているにすぎなかったのです。
 山をうずめる見物人は、しばらくは感にたえて声をたてるものもありません。大蛇がモエギ色の紐にかわると見るや、いちどホッとタメ息ついてにわかに山もゆらぐばかりの歓声となります。
 つづいて、壮士青柳又八郎大刀をひっさげて竹矢来のうちにとびこみました。
「サア、こんどは拙者だ、覚心坊のようにはまいらんぞッ」
 袴のもも立ちをとって早だすき、一刀を引きぬいて、ほどよきところに立ちあがります。
「さて、その方も恥をかきたいのか」
 やぐらからおりた天魔太郎、鉢巻もせずたすきもあやとらず一刀をさげたまま青柳又八郎の面前九尺(三メートル)ほどのところに立ちました。
「正当な技でこい、ひきょうな邪法はゆるさんぞ」
 青柳又八郎はさけびました。
「おのぞみどおりだ。蛇がこわいというなら、素手で相手をしてやろう」
 天魔太郎は、おちつきはらって刀もぬきません。

両雄相争う


 青柳又八郎は、一刀をふりかぶって、竹矢来のまん中、ジリジリとせまるのです。二十七、八歳、背のたかい青ヒゲの武士、両の目はメラメラと毒蛇のようにもえて、なみなみならぬ相手です。それもそのはず、青柳又八郎というのは、尾州(愛知県)名古屋の家来ですが、ふしぎな刀法と人にすぐれた気力で、藩中にも敵がないといわれた邪剣の使い手、天魔太郎はじつに大へんなものを敵にまわしてしまったわけです。
「えーッ」
 キヌをさくようなはげしい気合とともに、又八郎の長剣は、風をきってまっこうから天魔太郎の頭上にくだりました。走るいなずまにたとえられる、必殺の一撃、
「おッ」
 それをサッとかわして、とびのいた天魔太郎は、まさにうつくしいアゲハのチョウの身がるさです。
「え、にげるか、ひきょうッ」
 おいうつ青柳又八郎の剣は、よこからたてから、突きに、斬りに、まことに目にもとまらぬ変化の早わざです。
 天魔太郎は、じつによくそれをかわしました。あいかわらず刀もぬかず、術もつかわず、しのつく大夕立の中を、ヒラリヒラリととびかうツバメのように、打ちたて、突きたてながら、又八郎の邪剣をにげておりましたが、なにぶん素手ではあつかいかねたものか、しだいしだいに追いたてられて、竹矢来のすみへすみへとにげこんでしまったのです。
「それッ、天魔太郎、後がないぞ」
「又八郎をキリキリまいさしてやれ」
 矢来のそとの数万の群衆は、いつともなく、天魔太郎のひいきになっておりました。大きいアゲハチョウを見るような、天魔太郎のうつくしいすがたと、牛若丸のような身がるさによわされて、なにがなんでもこれを負けさしたくないような心持になっていたのです。
 が、天魔太郎は、竹矢来のすみに、ギュウギュウ追いつめられてしまいました。青柳又八郎の長剣が頭上高々とひらめくと、数万の群衆は、声をそろえて、ワーッとぜったいぜつめいの声をあげます。
 天魔太郎は、なにを考えたか、まだ刀をぬきませんでした。初夏の太陽は、頭の上にギラギラてりつけて、又八郎の大刀は、えものをねらう毒蛇のように、空中に弧をえがいて、キラリキラリとかがやきます。
「それゆくぞ」
 ついにさいごの時がきました。又八郎の一刀が、風をきってサッとくだると、天魔太郎ののしめの袖が横っとびにとびちったとおもうせつな、だれやら、大地の上にドウとたおれました。
 よくみるとそれは、マゲぶしを小刀にぬわれた青柳又八郎、針でさされたこん虫のように、頭を青草の上にとめられて、あさましくも手足をバタバタさしているそばに、天魔太郎あいもかわらず空手のまま、ニコニコしながら立っているではありませんか。
「青柳又八郎、もう一度こぬか」
 天魔太郎はしずかにいいました。足もとにたおれている青柳又八郎、斬ればかんたんに斬られるのを、すすんで斬る気もないらしく、又八郎のかみを大地にぬいつけた小刀をぬいてやって、こううながすのです。
 青柳又八郎はようやく身をおこしましたが、もはやふたたび立ちむかう気もなくなったものか、草の上になげだされた自分の大刀をひろってサヤにおさめ、さすがにわるびれたようすもなく、目礼をしたまま、ゆうゆうと引きさがるのです。
 尾州の名剣士青柳又八郎、腕はあきらかに天魔太郎を圧していましたが、天魔太郎に「飛龍剣」という投げ太刀の妙技のあることに気のつかなかったのは、まことに重大な手落ちで、さいごまで刀をぬかずに、その術をかくしおわせた天魔太郎に、みごとなかちをしめられてしまいました。
 第三番目の相手は、猫間犬丸というふしぎな名をもった天魔太郎より、わずかに二ツ三ツ年上の、おなじ前髪だちの美少年でした。黒紋付白小倉のはかま、キリッとしたようすで、竹矢来のなかにすすむと、たもとのなかから一条のひもをとりだし、空中たかく、それをほうりあげると、ひもは北のやぐらのてっぺんにかかって、そのままクモの糸にもにた銀色の、ほそいほそいハシゴになるのです。
「こいッ、天魔太郎」
 犬丸は軽わざの名人のように、らくらくとそのハシゴをのぼって、やぐらの頂上にたち、さて、扇をひらいて天魔太郎をさしまねくのです。
「その儀ならば……」
 天魔太郎は南のやぐらの下に立って、しばらく空中をあおいでおりましたが、やがて、ふところから扇をとりだし、いっぱいにひらいてサッとほうりました。
「あッ、あれは?」
 空にまいあがった扇は、クリルとひるがえるとまっしろな雲になり、しずしずと天魔太郎の足もとにまいおりました。と、天魔太郎それをふむと、雲はフワフワと浮んでやぐらの頂上に天魔太郎をはこびそのままもとの扇にかわって、ヒラヒラと空にまうのを、太郎は手にとってもとのふところにかえします。
「ワーッ」
 というかん声がおこりました。もとより天魔太郎の幻術は手ほどきで、なんでもない群衆催眠術の一手なのですが、あまりのあざやかな手ぎわに、竹矢来のそとの大群衆、しばらくはだいかっさいだいかんこは鳴りもやみません。
「お、やるな、太郎、しからば」
 北のやぐらの上の猫間犬丸は、懐紙をとって、やぐらの下にポンとほうると、
「ああ、――」
 みるみるそれは、小ウシほどある金毛の大トラとなって、目をいからし、キバをならし、ひと声たかだかとほえて、南のやぐらにせまるのです。

龍虎・水火


 猫間犬丸のはなったトラは、大地をけたてて小石をとばし、さながら一団のほのおとなって、南のやぐらにちかづき、足場をふんで、いっきに頂上へとびつこうとします。
 百錬の鏡をならべたような二つの目、ほのおをはくかとおもわれる口。それは身の毛もよだつおそろしさですが、天魔太郎それを見ると、ニッコと笑って、もういちどモエギの刀の下緒をとり、やぐらの下にかみつく大トラめがけてサッとほうりました。
「ワッ、こわいッ」
 矢来のそとの女子供は、おもわず悲鳴をあげたのもむりはありません。
 太郎の投げたモエギのひもは、二つ三つ宙におどると、たちまち十数メートルのリュウとなり、やぐらに半身をからませて、猛虎の上にカッとタライのような口をひらいたのです。
 古木のようなリュウのからだは、半分ほどは雲にかくれて、ところどころにメラメラともえるほのお、トラはそれをむかえて、天地もくずれるばかりにほえたてますが、リュウの威力におじけづいたか、まもなくシッポをまいて、北のやぐら、猫間犬丸の足もとににげかえるのです。
 それを追いすがると見せたリュウのからだは、いつのまにやらもとのモエギのひもになってスルスルスルと、天魔太郎の手にもどったのは見事でした。
「うん、しからば、太郎!」
 猫間犬丸はくやしそうでした。が、おもいなおして腰の扇をとり、やぐらの下にポンとほうると扇は二つ三つ宙がえりして、大地へおちたときには一団の火焔車となり、うなりをしょうじて南のやぐらにせまるのです。
 方二メートルの大火焔車、しば草もやぶも立木もやいて、一気にやぐらをやきたてようとするのでしょう。が、天魔太郎もだまって見てはいません。
「なんのこれしき」
 やぐらの下をのぞんで空中に二つ三つ文字をかくと、みるみるやぐらの四方に噴泉がわいて、たちまち数条の大滝ができ、うなりをしょうじてころげくる火焔車を水晶のスダレのようにおっとりつつむのです。水と火とのはげしい争いはしばらくつづきました。ふきあがる水蒸気は道灌山をいっぱいにつつんでしばらくは夜のようにくらくなりましたが、やがてその蒸気が一陣の風にとびちると、のこるのはもとの草とやぶばかり、道灌山の広場には、水一滴こぼれたあともありません。
 竹矢来のそとからは、ドッとかん声があがりました。こんなすばらしい術くらべは、どこへいっても見られたものではありません。
 と、竹矢来のそとから北のやぐらの猫間犬丸めがけて、バラバラとつぶての雨がふってきました。見物の衆にまじっていた虎吉とらきち少年や野州の熊五郎くまごろうが、あいての猫間犬丸のしぶとさに、ひどく腹をたてたのです。
「コラ、手出しはならぬぞ。立ち合いのじゃまをすると、ゆるさんぞッ」
 やぐらの上から天魔太郎にどなられて、礫はハタとやみました。
「よし、このうえは腕ずくでまいるか」
 猫間犬丸は、あいてに助太刀があると見て、やぐらの上からヒラリととびおりました。さすがに非凡の体術です。
「それもよかろう」
 つづいてとびおりた天魔太郎、ふたりは矢来の中ほどまで左右からちかよると、ほどよいところにふみとどまってキッとあいてを見やるのです。
 色じろで、端正で高貴の相さえある天魔太郎と、色があさ黒くて、するどくはげしい猫間犬丸。年は二つ三つちがっても、まことに申しぶんのないあいてです。
 ひとりは心外道人しんがいどうじんゆずり、果心居士かしんこじの流れをくむ幻術、それに対して犬丸のほうは、悪鬼ラセツがつかうという天竺てんじく(今のインド)流の妖術。いずれも群衆催眠術の二つの型にすぎませんが、流派がちがうと、そのあらそいもまた、一だんとはげしくなります。
 術と術とのあらそいは、天魔太郎のほうに一だんの強味があり、猫間犬丸あきらかに負けでしたが、こんどは年と体力にものをいわせ腕くらべしていっき打ちの勝負をしようとするのでしょう。
「さア、こい。こんどは投げ太刀ではいかぬぞ」
 猫間犬丸は、はやくも天魔太郎の飛龍剣を警戒して、一刀をわきがまえに、平身になってヒタヒタとつめよるのです。
「おうッ」
 天魔太郎、こんどは飛龍剣ではいかぬと見たか、すなおに一刀を引きぬき、青眼にかまえてそれをむかえます。
「ゆくぞ、それッ」
 猫間犬丸は、大地をけって、ほんとうにネコのようにとびあがりました。天魔太郎のまっこうへ、よけもかわしもならぬひと太刀。
「おうッ」
 と見ると、太郎は一刀を頭上たかくかざして、このふしぎな襲撃にそなえます。
 二合、三合、五合とはてしもなく、はげしいあらそいがつづきました。さいごには二条の太刀がヘビのようにからみ合ったまま、火のでるようなはげしいツバぜりあい、太郎はおされて五、六歩、ジリジリとさがったとみるや、
「あ、あッ」
 にわかにふたりのふんでいる大地が陥没して、太郎と犬丸、いのちをかけて切りむすんだまま、底もしれぬまっくらな穴の中へ、またたく間におちこんでしまったのです。
「どうした、どうした」
 検視の役人、竹矢来のそとの大群衆、いちどにドッと矢来の中にさっとうしましたが、のこるのは芝生のまんなかにひらいたおおきな穴だけ。天魔太郎のすがたも猫間犬丸のすがたも、どこへいったかかげも見せず、役人も群衆も、ただぼうぜんとして、キツネにつままれた心もちです。

侍大将の孫


 どんな天眼通にも目のとどかないところがあり、いかなる幻術妖術も、術のおよばないところがあります。
 道灌山の上に、こんなおとし穴があろうとは、天魔太郎も、猫間犬丸も気がつかなかったのでしょうか。いや術も腕も一だんとすぐれていた天魔太郎は、むかしむかしの山師坊主がここに壇をきずき、ぬけ穴をこさえて人をだましたことを知っており、それを利用しておたがいにきずつかぬうちに、猫間犬丸をさそいこんで、姿をかくしてしまったのです。
 そんなこととはしらぬ猫間犬丸は、穴の底からたちあがると、どこともなく、まっくらなところをあるいておりました。術くらべでは、あきらかに天魔太郎に負けたのですから、穴からはいでて、もとの竹矢来の中へもどるわけにもゆかず、ともかくゆけるところまでいって、ようすを見ようと決心したのです。
 道は大地の下をどこまでもつづきました。しめっぼくカビくさくこのうえもなく不愉快ですが、しばらくゆくとむこうの方に、すこしばかりあかりがさします。それをめあてにゆくと、なんと目のまえにポカリと穴があいて、猫間犬丸は道灌山の崖したの、あるりっぱな家の庭に立っておりました。
 それは小大名の下屋敷とも見え、大きい料理屋とも見えるふしぎな家でした。
 しばらくグズグズしていると、
「猫間さま、おまち申しておりました。どうぞこちらへ」
 うつくしい腰元ふうの少女が、縁がわにかしこまるのでした。猫間犬丸はギョッとしましたが、よわみを見せては、かえってわるかろうと、威儀をただして、縁がわにのぼると、お腰元のあんないするまま、二階にのぼってゆきました。
「や、おのれは、天魔太郎ッ」
 二階の広間、床の間を背にして、しずかにまっているのは、なんと、天魔太郎の落つきはらった顔ではありませんか。
「猫間氏、ここにはもう、敵も味方もない。私は駿河大納言の一子。将軍家光や、その家来どもにはうらみもあるが、大阪城の侍大将塙団右ヱ門ばんだんえもんの孫には、恩もうらみもない」
「な、なんと申す」
 猫間犬丸は、たちはだかったまま、目をむきました。
「かくされるな猫間氏。貴公は長崎おもてにおいて、異人に妖術をまなび祖父のうらみをはらさんため、将軍家光にちかづこうとし、そのつてをもとめて、ちかごろ江戸へ出られたではないか」
「――――」
「幕府のふれに応じ私とたたかう役目をかって出たのは、それをてがらに、旗本にとりたてられ、将軍家光にちかづいて、うらみをはらさんため……」
「――――」
「心外道人は、はやくもそれを見やぶり猫間氏にまちがいあってはならぬと、くれぐれものご注意だ。貴公をおとし穴にさそい、ここへあんないしたのはそのため、おなじ家光将軍をうらむ貴公と私が、命をかけて争うのはいわれのないこと。このうえはおたがいに意地をすてて、いっしょに行こうではないか、猫間氏」
 天魔太郎は美玉のおもてをあげて、こう説きすすむのでした。
「おそれ入りました。いかにも拙者は、塙団右ヱ門の孫の塙三郎丸さぶろうまる。猫間犬丸と名をいつわり、どんなてがらでもたてて将軍家光にちかづき、ほろびうせた豊臣とよとみ家のため、また祖父団右ヱ門のため、ひと太刀うらもうとしたにそういござらぬ。が拙者の術がつたなく貴殿に負けたうえは、家来のはしにでもくわわって……」
「まった、家来などとはとんでもない、勝負は時の運だ。めあてさえおなじなら、ここで兄弟の約束をむすび、将軍家光と、それにつきまとう家来どもに、ひと泡ふかせようではないか」
 縁がわにとびすさって、板敷のうえに平伏する猫間犬丸の塙三郎丸の手をとって、天魔太郎は自分のそばにつれてくるのでした。
「ありがたい、天魔太郎どの」
「いや、天魔太郎とよびすてにしてもらおうか。貴公は、私よりも年上のことだし」
「年と腕とはちがいましょう」
「そんなことをあらそってもはじまらぬ。それではかりに、私は年下ながら兄になろう」
「ともかくも、一月後の五月七日には、将軍家光日光参拝にでかけるはず、その道すじこそは」
「いかにも」
 ふたりはいわず語らずのうちに、家光を討ちとる計画をのみこむのでした。
「ところで、ここに一つの相談がある」
「とおっしゃるのは?」
「道灌山で、私を相手にたたかった三人のうち、覚心坊はとるにもたらぬ山師坊主だが、尾張藩の青柳又八郎はなかなかの人物、私に負けたうえは、――塙氏、ちょっと耳を」
 天魔太郎は、塙三郎丸の耳に、なにやらささやくのです。
 青柳又八郎はその晩、市ガ谷尾張屋敷の、自分の長屋にたちかえりました。
 天魔太郎とのたたかいにさんざんの不首尾で藩主(殿さま)の大納言さまが、将軍家光にさんざんイヤ味をいわれて、プンプンとしてもどってまいりましたが、いずれあしたは、青柳又八郎を長のおいとまにするか、それとも閉門にするか、おだやかならぬ空気が、きんじょの人々のうわさとなって、屋敷じゅうにとんでおります。
 そのうわさの中に、青柳又八郎、しずかに長屋へこもっておりました。ひとりぐらしの気らくさや、やとい人を遠ざけさえすれば、奥のひと間にいるのは、自分とあんどんだけ。そのあんどんの灯の下に、ピタリとすわって、又八郎は脇差を引きぬきました。
 この恥をそそぐために、腹かき切って、もうしわけをする気でしょう。
 あしたはあほう払いときまった尾張大納言の家来、青柳又八郎、その不面目をまぬがれるためには、腹を切るほかはないと思いさだめました。胸をくつろげ脇差をもちかえると、
「まったッ」
 どこからともなく、低いながらも、力のこもった声がかかります。おもわず刀をひざのうえにおいて、声のしたほうをふりかえると、唐紙をあけたようすもないのに、きょうの果しあいで、おなじく天魔太郎に負かされた妖術使いの猫間犬丸が、又八郎のうしろに立って、しずかに見おろしているのでした。
「貴殿は?」
 青柳又八郎はそれをとがめました。
「猫間犬丸、道灌山の果し合いに、貴殿どうよう、はじをかいたせっしゃでござるよ」
「それが、何用あってこられた?」
「せっしゃには、主君もなく、朋輩もなくノリ米ほどの禄もないから、技で負けたところで、腹を切るほどの義理もない」
「?」
「どうだ、青柳又八郎どの。そんなことであたら命をすてるより、生きながらえて腕をみがき、きょうのはじをそそぐ気はないか」
 猫間犬丸は、熱心な調子でこういいきるのです。
 まったく、武げいや幻術に負けて、いちいち腹を切るのはばかげた考えで、体面にこだわらずに、家と禄をすてて、技をみがくほうが、どんなに男らしいかわかりません。
「では、どうすればよいのだ」
 青柳又八郎は、脇差をサヤにおさめて、むきなおりました。
「天魔太郎どのにあって見るがいい。あれは非常な人物だ」

 五月七日は、三代将軍家光の日光ご社参、これはまた大へんな行事でした。家光の行列のとおる道々は、まえの日からの煙どめで、ごはんをたくことはもちろん、病人があっても、くすりをせんじることもできなかったというげんじゅうさです。
 そのうえ、往来はぜんぶとめられ道すじの家々は戸をしめさせて、すき間やフシ穴からのぞかないように、目ばりをしたというさわぎ、まことにいまの人には考えられないほどの暴君ぶりです。
 その行列は、ツユ払い(先頭)からさいごのひとりまで、二里三里にもおよぶ長さ、美々しくいかめしく、ものものしいなかに、将軍家光、金銀をちりばめたお召かごに乗って、千住の大橋にかかりました。この橋をわたれば江戸のそとで、お代官領になります。
 家光の乗物がちょうど大橋のなかほどにすすんだ時、
「や、や、あれはなんだ」
 かごわきの武士、旗本八万騎の中からよりだした勇士が、おもわず声をあげたのもむりはありません。わたりかけた大橋のむこうがわ、北千住きたせんじゅよりの橋の上に一団の火焔がもえあがるとみるや、たちまち大輪の火の車となっておともの人々を川に追いおとし、うなりを生じて家光のかごのほうにちかづくのです。
「ひっかえせッ」
 供わきの老臣が声をかけると、家光を乗せたかごは、その場からうしろをむいて、一気にかけもどろうとしましたがいけません。江戸よりのほうからも、おなじく一団のほのおが橋の上いっぱいにもえて、家光のかごを前うしろからはさみうつのでした。
「もどってはならぬまっすぐに行けッ、えッ、行かぬかッ」
 家光はさすがにはじをしる人間でした。怪火に橋の前後からやきたてられると、すすむもひくもほのお。このうえは猛火をくぐってすすむほかはないと思ったか、乗物の扉をたたいて、声をはげまします。
「おそれながら、かるはずみはなりません。この場はじじいにおまかせくだされ」
 かごの前につっ立って片アブミをはずしてあいさつしたのは、老臣大久保彦左ヱ門忠教おおくぼひこざえもんただたかでした。このとき、彦左ヱ門七十九歳、白髪頭にトンボほどの小さいマゲ、麻裃あさかみしも、一丈二尺朱ぬりの槍をついて、シワだらけのくせに、気力だけは若い武士にも負けぬいきおいがあります。
「お、彦左か、これはなんとしたことじゃ」
 家光はかごの中からこたえました。
「火のないところに火のあるのは、魔術か妖術か、こどもだましの手品でござります。はばかりながら、かく申す彦左ヱ門みんごとふみ消してごらんにいれます」
「では、たのむぞ、彦左」
「わが君には、しずかにそれにてごらんくだされ。――やあやあ怪しき術をおこなう虫ケラども、耳をかっぽじって、よっくきけよ。かく申すそれがしは、トビの文字山もじやま初陣ういじんより、かっておくれをとらぬ、大久保彦左ヱ門忠教――」
 天下の三大音といわれた彦左ヱ門、馬上槍をしごいて、名のりをあげると、ゆくての火焔めがけて、ま一文字にのりいれたのです。
 火焔と見せたのは、もとより天魔太郎の幻術で、人間の目はだませても、馬の目をだますわけにはゆきません。彦左ヱ門朱ぬりの槍をめちゃめちゃにふりまわしながら、ほのおのまっただ中をつっきると、ほのおはパッと消えうせて、のこるはなにごともなかった橋とらんかんだけ。そのあとにつづいて家光のかごはくずれた供ぞろいをととのえながら、しずしずと橋をわたりきってしまいました。
 七十九歳の老武士、大久保彦左ヱ門の勇気と機知で、その場はぶじにすみましたが、このさき、またどんなことがあるかもしれず、大事をとって、陽のたかいうちに、粕壁かすかべの本陣、見川安右ヱ門みかわやすえもんに、家光の乗物をつけさせました。
 いっぽう、天魔太郎、千住の大橋では家光をのがしましたが、もとより、これっきりであきらめるはずもなく、あらたに仲間にくわわった猫間犬丸の塙三郎丸や、妹の月子つきこと智恵をしぼって相談をしております。

家光が三人


 粕壁の本陣見川安右ヱ門は、将軍家光がきゅうにきたので、しばらくは大へんな混雑でしたが、それでもなれたことでほかの客をぜんぶ立ちのかせ、大急ぎのしたくをととのえて、どうやらこのご社参の大行列、何百人をうけいれました。
 それで一応はホッとしましたが、その晩家光に夕食の膳をすすめたお食事がかりのお小姓がふたり、老中松平伊豆守のところへ、顔色をかえてとんできました。
「大へんッ、大へんでございますッ」
「なにごとじゃ、あわただしい」
 伊豆守はおちつきはらってふりかえりましたが、さて、わけをきくと伊豆守もおどろかないわけにまいりません。
「上さまのおすがたがいくつにも見えております」
「なんともうす。そんなバカなことがあろうか」
 松平伊豆守は口小言をいいながら、お小姓についてゆくと、上段の間にげんぜんとかまえた将軍家光のすがたが、右にも左にも、三人まで、おなじ顔、おなじ態度おなじ服装で、すわっているではありませんか。
 お膳部がかりのお小姓たちがキモをつぶしたのもむりはありません。かぞえてみると、そこにいばっている家光は三人、どの家光のまえへお膳をすえていいか、見当もつかなかったのです。
「おそれながらもうしあげます。いずれが上さまでいらっしゃいましょうか」
 松平伊豆守はおそるおそるご前に平伏しました。
「なにをもうすのじゃ。余が家光じゃ」
 右のはしの家光が、何がなにやら、わけのわからぬようすでこたえると、
「なにをもうすのじゃ。余が家光じゃ」
 まん中の家光も、おなじ調子、おなじ声でくりかえすのです。
「お三人、いずれがいずれとも、お見分けいたしかねますが、さいしょにものをおっしゃったのを、まことの上さまとぞんじます。なにとぞこちらへ、御座をうつされますように」
 松平伊豆守は、すすみいでて右がわの家光をうながし、お手をとらぬばかりにして、別室に案内しました。
 それから宿直とのいのさむらいたちをはじめ、お供のなかから、腕ききをよりだして三十人ばかり、上段の間を二重ふたえ三重みえにおっとりかこんで阿部豊後守忠秋ただあきが大将になり、
「ヤアヤア、上さまのおすがたをおかしたてまつるふとどきしごくの曲者、からめとって目にもの見せてくれよう。狐狸こりか変化か、魔法か妖怪か、キリキリ正体あらわしおれッ」
 おそばの猛者もさたち、タスキ十字のおっとり刀。縁がわをふみならして、あたりの障子唐紙を、バタバタとたおし八方からふたりのニセ家光のいる、上段の間になだれこみました。
 と見ると左がわの家光は、はやくも段をおりて、胸のあたりに印をむすぶと、みるまに猫間犬丸のすがたとなって、モウモウと立ちのぼる煙のなかにすがたをかくしましたが、のこるひとり、まん中にすわっている家光は、印もむすばず人相もかわらず、
「無礼ものッ、なんということをいたすのだ。近藤こんどう水野みずの加賀爪かがづめ、ひかえおらぬかッ」
 いちいち名ざしでよびあげ、あたまごなしにしかりとばすのです。
「どうもへんだぞ」
「ほんものの上さまではないか?」
 みだれ入った近臣たちも、不体裁なじぶんたちのようすと、家光のおちつきはらったようすを見くらべて、ただもうウロウロするばかりです。
 そのとき、
「上さまにご無礼があってはならぬ、拙者がご案内もうしあげたは、天魔太郎のニセ上さまで、上段の間にのこっておられる上さまこそ、まことの上さまに相違ない」
 廊下をかけてくる松平伊豆守、さすがにあわてておりました。伊豆守ほどの智恵者も、あやうくほんものの将軍家光をしばらせるところだったのです。
 ニセ家光のさわぎはどうやらぶじにすみました。天魔太郎の幻術でも、これだけおおぜいでかためられると、よういには手がだせません。
 あくる日は利根川のわたしをこして、古河こがまで八里の道を、人間の堤をこさえて家光を守護し、夕方までに本多大内記ほんだだいないき五万石の城に入りました。
 ここに入れば、将軍家光のからだは、まことに安心、どんな幻術も、ここまで手がとどくまいと思いこみました。が、天魔太郎にはそれの上を越す、ふしぎな術がたくさんあったのです。
 さいしょは、城のやぐらを守る、見はりのものがさわぎはじめました。
「た、大へん、大蛇だッ」
 夕明りにすかしてみると、何十メートルともしれぬ、こがね色の龍が一頭、城の天守をグルグルとふた巻半まいたうえ、古木のような首を将軍家光のご座所をもうけた天守閣の下の大広間のまどへ、ヌッとつっこんで、カッとひらいた口から、火焔のような舌をペロリペロリと吐くのです。
「おのれ妖怪ッ」
 近侍の武士が五人七人いさましくも八方のまどからとびだし、城のはざまによじのぼって、大蛇のからだをめちゃくちゃに斬りました。
 さしもの黄金色こがねいろのウワバミも、勇士どもの攻撃にズタズタに切られ天守閣の上から石垣へ、武者がこいへ、バラバラバラと散りおちましたが、大地におちたところを見ると、不気味な大蛇と思ったのは、なんのかわりもない麻ナワのきれはしで、それを見きわめると、天守閣の上から五、六人の人の声で、
「ワ、ハッハッハッハッハッハッ……」
 と、わらいの大合唱をあびせかけるではありませんか。
 それにはじまって、いろいろの怪異が、古河城の奥ふかくに休んでいる家光を、どんな術でひと晩じゅう、なやませつづけたことでしょう。

名僧天海の教え


 日光ご社参のさいごの宿は、下野しもつけ国(今の栃木県)宇都宮で七万八千石、戸田山城守とだやましろのかみのお城でした。あすはいよいよ日光廟ご参拝というまえの晩、将軍家光のゆうべの膳部は、ここでもぶじにはおさまらず、ハシをつけようとするとお椀の中から、いきなり火焔がもえだしたり給仕の小姓が顔をあげると、たちまち三ツ目小僧になったりするので、さすがの家光もたまりかねて、奥のひと間に姿をかくしてしまいました。
「おのおの、ご用心召され、今夜はことのほかぶっそうでござるぞッ」
 松平伊豆守が、おともの諸士にげんじゅうに注意をしてあるくと、そのあとから、ポッポと全身一団の火焔となってもえ立つ小ネコほどの火ネズミが、廊下をはしり、長押なげしをわたり、幕のすそをぬってゆくと、城中はたちまち火の海となって、おっとり刀の近侍の武士たち、その火ネズミに追われて、右往左往ににげまどいますが、ふしぎなことに、そのほのおは、近よってもあつからず、さわってもやけず、さながらうつし絵としょうする幻灯で、部屋いっぱいにほのおの映像をはしらせているようなぐあいです。
 そのさわぎの中を、こんらんする人波をわけて、天魔太郎と猫間犬丸のふたり、もはやすがたも顔もむきだしのまま家光を追って奥の奥、城中にとくに用意された秘密の部屋にとびこみました。
 唐紙をあけてきっと見ると、一本灯心のほのぐらい燭台の下に、しずかに黙祷する人かげ、部屋のなかは、プーンと沈香をたきこめて、大そうどうの城中によどんだような一角のふしぎなしずけさです。
「おのれ、家光、おぼえたか! かくもうすは駿河大納言忠長の一子、駿河太郎」
「つづくは大阪城の侍大将、塙団右ヱ門の孫、三郎丸、祖父三代のうらみ、おぼえたか!」
 天魔太郎と塙三郎丸の二少年、めいめいの得物をふりかざして、左右両方から、家光めがけてサッとふりおろしました。
「まて、まて、またぬか」
 家光とおもわれた人物パッとかつぎをぬぐと、それは麻のころもをまとった枯木こぼくのような老僧でした。
「なにを」
「えッ、ききわけのない」
 むきなおった老僧、水晶のじゅずを空中にパッとふると、ふしぎや二少年の刀は宙にくぎづけされて、ひきも、かわしも、打ちこみもなりません。
「このうえはッ」
 二少年は刀をなげすて二、三歩しりぞいて、幻妖の印をむすび、ありったけの呪文をとなえましたが、老僧はそれをうけて、ニッコリとわらって念仏をとなえると、幻術も妖術もなんのききめもなく、まるで石っころにむかって術をかけているようです。
「や、おのれは、どこの坊主だ」
 天魔太郎は歯ぎしりしました。心外道人直伝の幻術を、まっこうからうけて打ちやぶれるものは、広い日本にいく人もいるはずはありません。
「駿河大納言さまのご嫡子ときけばなつかしいが、お気の毒なことに、邪法を修されて、天魔鬼神の同類となられ、この日本のしずけさをかきみだし、ふたたびむごたらしい戦国にひきもどそうとあそばすにおいては、天下万民のため、まことにゆるしがたい。私の愛着をすてて調伏のほかはござるまい」
「そういうおまえは、いやご僧は?」
「太郎どの、わすれたか、おん身は拙僧のひざの上であそんだこともあるはず。――喜多院きたいん天海てんかいじゃよ」
「アッ、天海大僧正、どうしてここへ」
 それはじつに天下の名僧、川越の喜多院を修し、日光山を経営し、上野の寛永寺かんえいじを建立し徳川家康の軍師とも師父ともなって、三百年太平のもといをきずいた天海僧正だったのです。
 そのとき天海は百六歳、からだはまことに枯木のごとくでしたが、学徳一世を圧して、精神力は火のごとく、いかなる魔法も幻術も、この大人物のまえには、指をさすこともできなかったのです。
「太郎どのが一味と語らい、将軍家光公に仇をするときき、松平伊豆どのの急使をうけて、たったいま江戸からかけつけてまいったのじゃ」
「では、私の一念もごぞんじのはず。父大納言のかたき、家光に一太刀うらむのをさまたげられるのか」
「いや、それはならぬ。上さまもあやまちはあったが、駿河大納言さまのあやまちは、さらに大きい。配所に窮死されたのはいたましいが、自業自得ともうされぬことはない」
「でも」
「さて、ききわけのない。ひとりのうらみをはらすために、天下をふたたび百年の禍乱におとしいれ、万民をくるしめてはならぬ。それに、太郎どのは『百人の人をたすけてからでなければ、将軍家光公を討つ気をおこしてはならぬ』と心外道人にいましめられたはず。――拙僧はなにもかも知っている。この心外道人のいましめには、深い意味があるのじゃ。百人の人のいのちをすくうという大望をはたせば、しぜんに心もやわらぎ人をころすの、敵をうつのといった殺伐な気はなくなるだろうという、言外の意味もあるのじゃ」
「――――」
「塙三郎丸もおなじこと。サアサア、さようなのぞみは、今この場ですてて、丹沢の山奥にかえり、あの台地に村をひらいて一味一党の楽園にするがよい。拙僧は上さまはじめ、松平伊豆守どのに説いて、けっしてその後を追わせるようなことはしないつもりだ。安心してまっすぐに、丹沢へ引きあげるのだ」
 天海僧正は枯木のような指をあげて、はるか丹沢の方をまっすぐにゆびさすのでした。
「では僧正、お教えは身にしみてかたじけない。一応丹沢の山奥に引きあげ、千百万人をすくう道を考えて、また出直すとしましょうか。家光公はじめ、伊豆守、豊後守によろしく伝えくだされ」
「さらば」
「さらば」
 天魔太郎と塙三郎丸は天海僧正にわかれをつげ、城中いっぱいに肩ひじはる武士の中を、雑草のなかをわけるようなだいたんさで城の外へでると、そこで妹の月子らとおち合い、たがいのぶじをよろこんで、初夏の丹沢山へと更生の道をいさましくかえって行くのでした。





底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社
   2009(平成21)年6月30日 第1刷発行
底本の親本:「怪盗黒頭巾」偕成社
   1955(昭和30)年11月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード